丹後の地名

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真名井神社
(まないじんじゃ)
吉佐宮・与謝宮・匏宮
久志浜宮
元伊勢大元宮
(宮津市大垣)

波せき地蔵:若狭湾の超巨大津波を伝える波せき地蔵

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京都府宮津市大垣

京都府与謝郡府中村大垣

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真名井神社(このページ)

傘松公園

西国28番札所:成相寺


郷土資料館
国分寺址
阿蘇海と与謝海

真名井神社の概要




 真名井神社(籠神社の境外摂社・奥宮)は伊勢外宮の故地とされる超古社である。
真名井川
府中一宮の船着場のすぐ脇に真名井川が流れ込んでいるが、この川、小さな川だが、これを遡った所である。真名井川はまた、()川、()川、()川とも呼ばれた。神体山・天香語山の南麓であり、『与謝郡誌』のいう川であろう。天のカゴ川のことと思われる。天香語山(真名井神社の裏山)

真名井神社は丹後一宮・籠神社の後にあり、神社の北側や東側の小路からすぐ行けるし、天橋立ユースホステルへの小路を行って行ける。


 鎮座地のあたりを現在は諸岡(もろおか)というが、村岡ともいい神籬(ひもろぎ)山のことだろうか。()山と呼ぶのは御山のことか、その山は傘松公園のある山の北隣に連なる山で、傘松の名とも一体のものと思われるが天香語山とも、藤岡とも呼ばれる神体山。境内の禁足地などが広がる所は比沼(ひぬ)の真名井原、あるいは真名井ヶ原とも、古杜(こもり)とも呼ばれるという。

↓難波野あたりから見る、二つ峰が見える。真名井神社は右の山の麓にある。左の山は傘松山(天橋立展望ハウスの建物が見えるかなー)。
傘松山(左)と天香語山(右)

↑右の山が天香語山、独立した山ではなくて鼓が岳(成相山)の支脈の一高まりであるが、左手は傘松山公園のある傘松山である。この天香語山を神体山にしているのは麓神社(難波野)もそうでなかろうかと思われる。麓神社の祭神は億計・弘計である。

↓真名井神社参道。真名井川は左手の山裾を流れる
真名井神社参道

 真名井神社には、古来多くの別称が伝わる。別称なのか本名なのかはわからないのだが、たぶん本名的な名ではなかろうかと私には思われる。しっかりした本名がなかったというのか、いろいろの要素が重なっていたのだろうか。

案内←左の境内の案内石には、
真名井神社
豊受大神元津宮ナリ
古名 匏宮 吉佐宮 与謝宮
一云 天吉葛宮
一云 比沼真名井
一云 久志浜宮
一云 元伊勢大元宮

とある。(以前は確かにあったが話題の「ダビデの星」が変えられている)
(☆印を一筆書にしたしるしを、必ず元へ戻るという意味の魔除けのしるしにする海人たちの風習から出たものではなかろうか、しかし軍国主義のしるしに似ているために、ダビデの星になってしまったのかも知れない)

天の真名井の水(境内)

丹後でもあちこちで聞かれる地名だが、「マナイ」とは何のことであろうか。イは井だろうが、マナがわからない。
『古事記への旅』(萩原浅男・NHKブックス)は、
聖泉を意味する「天の真名井」は、この神話の場合には高天原にあるものとされているが、同名の井泉は地上にもある。『出雲国風土記』意宇郡の条に真名井神社(松江市山代町)がある。また天孫降臨神話の聖地と伝えられる日向(宮崎県)の高千穂峡にも忍穂井・真名井と称する井泉がある。この真名井は天叢雲命が天上から水種を移した井泉といわれる。これに類した井泉は古社などに多いが、神事に用いられる地上の聖泉の天上に投影されたのが「天の真名井」であろう。因みに真名井のマナには、常人の触れるのを禁ずる意味があるという説がある。
私でも知ってはいるような話だが、これくらいの理解しかまだないようである。ずいぶんと古い言葉で今では誰もまったく意味がわからない。文献歴史以前の、考古学時代の言葉かと思われる。
仮に日本語ならマナコ(眼)や(マナムスメ)愛娘などと使われるマナではなかろうか。
目の威力というのか、目に具現されている霊力というのか、邪視というのがあってこれを恐れたそうだが、そんな力があったかも知れない。ゴルゴンに見られると石になってしまう、と命にかかわるほどの力があると信じられていたのかも知れない。真名井川の中流あたり。天橋立も見える。
今境内に作られているのが、その真名井かはわからないが、真名井川の源流にあったかも、あるいは扇状地なのでどこかに泉があったかも。
今の真名井川は水がほとんど流れていない、聖なる川というよりも下流では邪魔なミゾという感じになっている。水は地下に潜っているのではなかろうか。

 比沼の真名井の「ヒヌ」とは何のことであろうか、「比治」の書き誤りかも知れないが、しかしヒヌとも呼ばれている。ヒヌはヒジのことで、クシフルのことと思われる。「神代以来之霊地 丹波国吉佐之比沼之真名井原」とある勘注系図の天香語山命の注文に、
久志備之真名井(今世謂比沼之真名井)
とある。

紀の本文では、皇孫が天降ったのは、
日向の高千穂野木+患触峰(くしふるのたけ)
別の一書では、
日向の木+患日(くしひ)の高千穂峰
また別の一書では、
日向の()の高千穂の木+患日(くしひ)の二上峰の天浮橋
また別の一書では、
日向の襲の高千穂の添山峰(そほりのやまのみね)
と紀が伝える。
クシヒとはクシフルであり、ソフルだろうと、だいたい見当がつかれよう。
そうすると傘松山のカサがクシフルのクシではなかろうか。本来はカサ山だったのが、何時の頃からかカサマツ山と呼ばれるようになったのかも知れない。赤松がたくさん生えている。調べてみると傘松公園が整備される以前は「笠山」となっている。

この真名井原のあたりこそは、日に向かい、二つの峰があり、天浮橋が眼前に横たわる。神が降臨するには最高の聖地ではなかろうか。降臨神話は天皇さんが独り占めしているが、本来は天皇さんのご先祖ばかりでなく、あちこちの古代豪族達も多くは天皇さん同様の自らの先祖神の降臨神話を持っていたと思われるのである。元々が同じ所からやってきた同じ民であったから、同じような神話を持っていた、どちらかが真似をしたのではない。その中で一番運良く現在まで生き延びて神話も独り占めしているのが天皇さんの一族ということであろう。(あま)から降ってきたのではなく(あま)からやってきた、それを神話的に天降(あまふ)る、海降(あまふ)ると呼んだのではなかろうか。
ソは地名で、ソフルのソ、高千穂は高は美称で、チホはシホすなわちソフのことだと金沢庄三郎はいう。

クシフル山・クシヒ山はここ真名井原の神体山では久志備山と呼ばれていたと推測できる、浜は久志備浜と呼んだわけであろう。比治山(伊去奈子嶽)も同様にクシフル山と考えられし、勘注系図など読めば笶原・矢原・ヤブも同様にクシフルの転訛とも考えられそうなことになる。タクリ(田造)、由良、カサ、ヨサもそうであろうかと思われるのである。

『元初の最高神と大和朝廷の元初』は、
与佐郡真名井原の真名井の場合も、比沼を久志備之としていることは、社伝に、
 此泉云久志備之真名井也今謂比沼之真名井者訛矣
といっていることで知られ、久志と久次とで用字には相違があるが、比沼を、くしひねの約とすることは共通している。
与佐郡の比沼が、又、真名井が、久志備の浜に存在することは逸文風土記によって確かめられ、又与佐郡真名井神社の東方に小川があって、その流域を、現在、「けしがは」と云っているのは、「くしがは」の転であって、久志と真名井とのつながりは明確である。(高千穂のクシフル獄のクシとも、その音が通じている)
久志備(くしび)は金沢庄三郎がいうように()は美称で、要するにソフルのことである。天孫が降りてきたといわれる久士布流多気(くしふるたけ)のクシフルである。皇国史観では気付かないかも知れない、気が付かないフリをしているのかも知れないが、ソフルという故国の名を残していると思われる。だからマナイもそうした古い彼らの(というのか我らの)遠い故郷の言葉ではなかろうかと思われる。
↓真名井神社の本殿。
真名井神社本殿


 与謝宮・吉佐宮・(よさ)宮。匏宮太神宮と書かれている
大変重要な社名で、吉佐宮の故地と伝える神社は丹後にはあちこちにあるのだが、ここもその一つで、伝承地はすぐ近くでは橋立明神や文珠堂の地にもある。
ヨサは地名と思うが、この辺りには遺称はないようである、ここから見える外海(宮津湾)を与謝の海と呼ぶが気が付くのはそれくらいだろうか。与謝郡というような行政地名などがない古い時代の事なのでヨサといってもその範囲がわからない、与謝郡の範囲外でも広くヨサであったかもしれないが、ヨサと呼ばれた広い地域の中心的な場所でなかったかと思われる。
天香語山(真名井神社の神体山)
↑真名井神社参道から見る天香語山。
ヨサは匏、ヒョウタンとする説などもあるが、それでは表記に使われた漢字の意味をいっただけで、比沼真名井や久志備宮と意味的な歴史的な関係が切れてしまう。多くの異称はバラバラで何も繋がりがないように見えるが、しかし相互に何か意味的に繋がらねば、どんなチンプンカンな名付けでもできてしまうおかしな話になってしまう。先人は好き放題な名を付けて、そのチンプンカンが千年以上も伝わったとは考えられないのである。
やはりヨサはクシフル系のクシの転訛ではないのかと思われる、カサ(加佐郡)もアソ(阿蘇の海)もイソ(磯清水)もそうした転訛かも知れない。

今の天香語山、その隣の傘松山、このあたりが久士布流多気でなかろうか。こうした神体山がないと、吉佐宮の故地説は苦しいと私は思うのである。現在とこの時代の間には大きな断層が何重にも走っていて簡単には現在人的常識からは見通すことが難しい。さて賢者の皆様はどう見通されることでしょう。
『丹後与謝海名勝略記』は、
【真井ケ原】一宮の北松の茂りたる所実に比治の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。是謂ゆる與佐の社也。

傘松山展望台より
傘松山の展望台より天香語山を見る。売店の右手の赤松が「かさまつ」(三代目とか)だそうで、その奥に見える円い山頂が天香語山。ここはまだ山の中間点でさらに高い一番左手の山頂が傘松山、本当は笠山なのではなかろうか。少しきつい石段を登らねばならないのであまり人影がないが、展望は良好、最高です。天橋立は天橋立と成相寺と籠神社だけがすべてなのではなく、もっと広く、空間的にも時間的にも、広がりをもっている。この展望台からでもそのすべてを見ることができない。



元伊勢大元宮・豊受大神元津宮。
ここが吉佐宮なら、そういうことになる。ここがもしも吉佐宮でなければ、丹後一宮・籠神社は元伊勢とは名乗れなくなる。籠神社の真後ろの山は傘松山ではなく、天香語山のように思われる。籠神社の神体山も天香語山と思われる、直接には見えない。

勘注系図の天香語山命の注文に、
天香語山。亦名は手栗彦(たくりひこ)命。亦名は高志(こしの)神彦火明命。天上に於いて生ます神也。母は天道姫命亦名屋乎止女(やおとめ)命、亦名高光(たこう)日女命、亦名祖母(そぼ)命也。
(ここ)に天香語山命と天村雲命は父火明命に従い、丹波国凡海嶋(おおしあまのしま)へ天降座す。
而して神議を以て国土を造り修んと欲し、百八十軍神を率い、当国之伊去奈子(いさなこ)嶽に到る時、母道日女命と逢い、(よっ)て此地へ天降る其(よし)を問う。母は答えて曰く、此の国土を造り堅めんと欲す、然と雖も、此の国は豊受大神の所在(まします)国也。故に大神を斎奉しなければ、則ち国は成り難也。故に神議を以て斎清地を定る。此大神を奉斎れば、則ち国成。故に(おやの)命乃其弓矢を香語山命に授け曰く。此則ち是大神之意者。汝宜しく之を発ち。而其落に随い清地に行くべし。故に香語山命は其弓矢を取り、之を発つ。則ち其矢は当国加佐郡矢原山に到りて留まる。即時根生て枝葉は青々、故に其地を名づけて矢原と云う。(矢原訓屋布)。爾に香語山命が南東に到れば則ち荒水が有。故に其地神籬を建て、以て大神を遷し祭る。而して始めて墾田を定む。是に於て春秋に田を耕し、稲種を施し、恩頼は四方に遍く。即ち人民は豊なり。故に其地を名つけて田造と云う。
爾に香語山命は然る后に、百八十軍神を率い退いて由良之水門に到る時に、父火明命に逢う。詔が有る。命は其神宝を奉斎し、以て国土造りを速修せんと欲す。
其地を覓めて行き而て遂到当国余社郡久志備之浜に遂到る之時。御祖多岐津姫命とに逢う。因て此地に居ます其由を問う祖命は答えて曰く。斯地は国生の大神伊射奈岐命が天より天降り坐す地也。甚清地也。故に参降りて而して汝の来るを待てり。是に於いて、香語山命は地が速かに天に連き、天真名井之水に通うを知る。すなわち天津磐境に起て始て其神宝を其地に奉斎し、豊受大神を遷し祭る(分霊を矢原山に斎奉る)。是に於て則ち国成る。其時此地に霊泉出る。
爾に天村雲命は天真名井之水を汲み、此泉に濯ぐ。其水は和らぎ以て御饌之料と為す。故に此泉を名づけて久志備之真名井と云也。今世に謂う比沼之真名井は訛也(真名井は亦宇介井と云う)。此時、磐境の傍に於て天吉葛が生る。天香語山命は其匏を採り、真名井之清泉を汲み、神饌を調度し、厳かに祭りを奠る。故に匏宮と曰く(匏の訓は与佐)。亦久志浜宮也(此郡を匏を号くる所以は風土記に在り)。爾に香語山命は然る后に木国熊野に遷坐す。而て大屋津比売命を娶り高倉下を生む。道日女命は多岐津姫命と此地に留り、豊受大神に斎仕。
(原文は漢文。ルビは勝手につけました)

海部氏(本宗家)が加佐郡笶原山(天香山・藤岡)の麓から由良を経てここへ移ってきて、印鑰社・飯役社(吹飯社で、これも真名井の意味)のあたりを拠点にしていたのだが、やがてそれ以前からの真名井神社の際祀権をも掌握するようになった。それ以後に天香語山とも呼ばれるようになったのかと思われる。
しかしここはそれ以前からの霊地でクシビとかヨサとか呼ばれていた豊受大神を祀る地ではなかったかと想像する。
豊受大神は海部氏(本宗家的な海部氏だが)の祀る神というよりも、それ以前のこの地の人々が祀っていた神かと思われる(傍系の古い信仰をもつ海部氏もいたかも知れない)。

現在の籠神社の本殿はその背後に天香語山が見えない。傘松山の方向も向いていない。何か中途半端な建て方のように思える。後世に位置が移動したかも知れない。元々は今の真名井川のまだ東側にあったかも知れない。現在地より100メートルか200メートル東の位置だと天香語山が見える。
雪舟の「橋立図」では、今の位置に見える、だいたい1500年の頃である。
本殿の左脇に「恵美須神社」が祀られているが、元々はこの神社の境内地であった所へ、籠神社が移ってきたか、新たに建てられたのではなかろうか。
境内の案内板には、それは養老三年(719)のことと書かれている。
丹波国を割いて丹後国が出来たのは和銅六年(713)で、その初代丹後国造・国司は籠神社祝でもあった丹波国造の海部氏が勤めた。しかし初めて祝の文字も明記される。
丹波郡は隣にあり、丹後こそが丹波なのに、丹後というのはおかしい。さらに養老三年からは代が変わり、二年の空白ののち丹波国造の肩書きは消えて、単に祝となっている。
丹後国と籠神社と海部氏にはこの時期に激震があるのだが、詳しくは別の機会にしたい。


 鶺鴒(せきれい)石。
本殿のすぐ裏側に鶺鴒石と呼ばれる磐座がある。
右側が本殿で、左の古木が生えた岩が鶺鴒石。
鶺鴒石(真名井神社)

鶺鴒石(真名井神社)

鶺鴒石(真名井神社)

鶺鴒石(真名井神社)
社殿などない時代の悠久の昔の「神社」である。
吉佐宮などと言えば、立派な神殿があったかのように錯覚するが、そんな当時なら立派な建物はない。仏教が渡来して、その伽藍を目の当たりにして真似をするまではこうした磐座や高い樹の下で、人々はお祀りをした。祭神などはのちの神学が発達した段階での概念であって、この当時は単に神様ではなかったかと思う。ありがたくまたおそろしく、何となく人間的な神様同士の秘蹟の磐座であっただろう。

イザナギが降りてきた橋が天橋立と伝わるが、そうかも知れない。それは北方系の人々がここにあらわれるまではそのような呼ばれていたかも知れないと思われる。そうすれば、イザナミ大地母神がこの池のほとりにいたことになろうか。海辺で、常世の島(冠島)が見える場所、浦島太郎が伝わるかなり海洋的南方的な性格をもった初期の人々の信仰地跡がこの鶺鴒石ではなかろうか。アマテラスもここの浜辺で生まれたかも知れない。難波野とか成相寺とか日置とか何かそんな事を連想させられる名が残る。マナイやウケイというのもそうした時代の名かとも思われる。

その後に北方系がやってくる。天香語山に降りてこられる「天帝」と「真名井の女神」の交合の場がここであったことになるのだろうか。天香語山や笠山とか吉佐宮、久志備浜というのはその時代の名と思われる。
そうして誕生したその子孫が氏子の人々であったのだろうが、やがては村の大将家に占有されただろう。
「天帝の子で、母は河の神の娘」という高句麗王の出自と同じであり、遠くユーラシアの北方遊牧民族と繋がる王は天の血を引くという信仰である。天香語山のカゴは銅のことのようで、ここへ降りてきたのであろう、海部氏の祖の天香語山命はだから鍛冶屋ということになるが、これも北方系の話で、突厥の王の先祖は鍛冶屋だったと伝わる。

海があって、すぐ山の地で、時代的には二つの要素が重なっている、南方もいるし北方もいるように思われる。それらが融合して、北方系が社会上部を占めていき、そのまま海部氏であろうし、我ら丹後人であろうし、多くの日本人であろうかと思われる。そうした我らの原点が見えるような気もする所になる。

『京都考古学散歩』は、
籠神社境内には経塚があり、文治4年(一一八八)銘の銅製経筒二口と鏡二面が出土して国の重要文化財に指定されている。また籠神社の背後には摂社の真名井神社がある。この神社には自然の巨岩からなる磐座があり、付近から、弥生時代の石斧と古墳時代の土師器、滑石製品などの祭祀遺物が出土している。ここに天照大神が天降ったという言い伝えもあり、天橋立の伝説ともからみ古代人の自然にたいする祭祀を垣間みるようで興味深い。

貼石墓が出土した難波野遺跡もあり、遅くとも弥生後期にはすでに真名井神社は祭祀されていたと思われる。






波せき地蔵
若狭湾にも40メートル超の巨大津波があった!?

真名井神社本殿
 ↑真名井神社本殿、お参りが絶えない。いろいろと興味ひかれるものの多い超古社で、歴史のいまだ開かれない貯蔵庫、上に書かれていないものも多かろう、鎮守の杜の秘める情報はたいへんなもので、現代人がいまだ気づかず、読み解けないものも多く残されたまま、今後の幅広い研究がまたれるが、もう一つ、この社は実は人間の想像を絶する、というのか、想定を絶する超巨大津波が過去にあったことも伝えている。
自然現象はいつ何時、またそんな規模で襲いかかってくるかはわからないもの、人間の想定を超えているが、気をつけろと、過去を忘れる者は未来も忘れるものだぞ、地球を失うまえにどうか気付いてくれよ、とゼニもうけにほうける不注意な後世人に警告もしている神社でもある。

 日本三景・天橋立の北側の山中である、真名井神社の参道傍ら、「真名井神社」と書かれた石柱の後に見えるホコラが「波せき地蔵堂」である。
↓この位置のカメラのGPSは63メートル。
波せき地蔵
↓GPSは64メートル。
波せき地蔵

波せき地蔵
 ↑波せき地蔵は、花崗岩ではなく、凝灰岩のように見える。まだ新しいように見える、地蔵様やホコラは何代か代替わりしているのではなかろうか、地蔵信仰は平安以降といわれ、大宝の頃にあったとは思えないが、地蔵様でない何かほかのものがあったのかも知れない。ホコラは最近のもののように見えるが、両側の木は古く、この地蔵様のために植えられたようにも見える、地蔵様を疑ったりすればバチがあたるか、ご先祖様か泣くか。
問題は位置が変わってないかという点だが、肝心なその点はわからないが、不信心な現代人なら知らず、こんなものはそう勝手に動かしたりはしないのではなかろうか、誠に古く尊崇を集める神社、吉佐宮とも伝わり伊勢外宮の故地かも知れない社の参道に地蔵様として祀られるいうのは、そうしたユメ疑うではない、のことであったかも−




 この地蔵様については「丹後の伝説10」で超簡単に触れているが、レベル7原発史上最悪の超重大事故で大注目の地蔵様となられたようで、ここでもう一度とりあげておこう。かの地でも「そうした大地震や大津波はありえない」と言われていたという、しかし実際には想定以上が発生したのである。

 若狭湾で過去に高さどれくらいの津波があったのかを記録していたかも知れない地蔵様である。
かたわらにだいぶに古びた案内板があって次のように書かれている。案内板
真名井原 波せき地蔵堂

昔大宝年間(約一三〇〇年程以前)大地震の大津波が押し寄せたのをここで切り返したと伝えられ以後天災地変から守る霊験と子育て病気よけの妙徳も聞こえる。又、日本の原点・真名井の神へのお取次もされると云う、あらたかなお地蔵さんである。
二千五百(ふたちいほ)鎮まる神の神はかり
百(もも)の御生(みあ)れの時ぞ近づく
平成八年八月八日

大津波をこの地蔵様が「ここで切り返した」ということは何のことなのかわからない、こうした碑なり記念物なりは津波が到達した最高点に作られる場合が多いという、ここまで駆け上ってきた津波をそれ以上に登らないよう「ここで切り返した」の意味か。

 大宝年間(701〜04)の大地震大津波は『丹後風土記』残欠、凡海郷条にも記録があり、
ときに大宝元年(701)三月己亥、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。亦俗に男嶋女嶋と称す。
『続日本紀』の大宝元年3月26日条には「丹波国で三日間地震が続いた」の記録がある、丹後国はこれから10数年後に分国されるので、このころはまだ丹波国であるが、この記事と関係があるのか、若狭湾の断層は内陸地震と連動するのかも…

 この前の奥丹後地震では沖積層のあちこちで液状化現象がみられたというが、『地震の日本史』(寒川旭・中公新書)は、
大宝律令が成立して「日本」という名称が確定した七〇一(大宝元)年。この年の五月一二日(旧暦三月二六日) には、『続日本紀』に「丹波国地震三日」と書かれている。「丹後国地震三月」とする写本もある。
京都府舞鶴市の志高遺跡では、京都府埋蔵文化財調査研究センターの調査で約五千数百年前の砂脈が見つかった (第一章参照)。さらに、最大幅二〇センチでさまざまな方向に延びる新しい年代の砂脈も検出され、弥生時代から奈良時代はじめにかけての地層をすべて引き裂き、奈良時代後半の地層に覆われていた。
綾部市の市街地の北にある青野西遺跡でも同センターが調査を行ない、最大幅五〇センチで南北方向に延びる砂脈が見つかった。砂脈は古墳時代前期頃の竪穴式住居とその埋土を引き裂き、平安時代の住居の柱穴は砂脈を貫いていた。この遺跡の別の調査区では綾部市教育委員会が調査を行ない、同じ年代の幅一・三メートルの砂脈が見つかった。
 これらの痕跡は奈良時代で八世紀の年代となり、『続日本紀』に書かれた七〇一年の地震の頃に、京都府北部が激しく揺れたことがわかる。
ついでだからもう一箇所つ引かせていただくと、
縄文時代の遺跡が少ない近畿地域だが、若狭湾に注ぐ由良川北岸の舞鶴市志高遺跡では、縄文時代早期の住居跡(約七〇〇〇年前)が検出されている。そして、京都府埋蔵文化財調査研究センターの調査では、縄文時代前期前葉の地層を引き裂く幅数センチの砂脈が数多く発見された。前期中葉の地層に覆われており、京都府北部が五千数百年前頃に激しく揺れたことを示している。
 この湾の北東には福井平野があり、この東部の坂井市上兵庫遺跡群X地区では、福井県教育庁埋蔵文化財調査センターの調査で、一九四八年の福井地震で生じた最大幅二〇センチの砂脈が多く見つかった(第七章参照)。さらに、縄文時代中期前半の深鉢・浅鉢を含む地層に覆われ、それより古い地層を引き裂く幅約一〇センチの砂脈も見つかり、福井平野が縄文時代中期初頭(約四〇〇〇年前頃)にも地震に見舞われたことがわかった。

 こうした古記録は、現代人の死に至る病気で、信じない人の方がはるかに多い、ウソだ、デッチアゲだ、誰かのイタズラでは、見てきたわけでも、古い地層を調査したわけでもなかろうに、何を根拠に言うのかわからないが、しかしどこのバカがまるっきりのウソを子孫に書き残したり地蔵様を祀ったりするだろうか、権力側の記録ならそれを真剣に疑うべきと考えるが、そんなことは一切しない、マルマル信じるのだが、これらそうではないものは疑うようである、誠に情けない権威主義者であり、しかも古い記録よりも自分のわずかばかりの「科学的」知識の方が正しいと勝手な根拠をもって硬く硬く信じる近代人・現代人である。昔の人よりもワシは賢いの世の中をなめた楽天的狂信信仰心深い、思い上がり悲しき現代人の理性の深刻な限界、そうした者のみがグルでリードする現代社会の危険な落とし穴の一つかも知れない、権力側の「原発はどんなことがあっても安全、事故なんか起こすわけない」の宣伝文句をマルマル信じ込んだことこそがレベル7大事故の最大の原因であったといえようか、自然でも完全というものがないとか、ましてや人間の作った物にゼッタイなんかあるはずがなかろう、こんな複雑な巨大エネルギーシステムには万全の安全などは人の知性では原理的には無理な話、何がどこに発生するかをすべて予知することは不可能で未知であり、それに完全に予め対応することは不可能、できるというなら全国の交通事故もゼロにできることだろう、神様でもできそうにもない話である、大地震大津波国でたまたまの偶然の幸運まかせに動かし続けて本当に大丈夫かと正当に常識的に疑いもしなかった。「原発よいシステム・強いシステム・ニッポンは神国」をマルマル子供のように信じていた。今も素朴にそう信じている人も多い、何十年か昔の日本人と同じ亡国DNAが生きている。
日本をこれ以上に亡ぼしたくなければ、「バカ」や「アホ」よ、声をあげようではないか、さもなければクソどもがますますのさばる、オマエら何やってるんだ、と。

 さてもう一つ『岩滝町誌』(昭45。P.232)は、
上山寺の永代記録その他に残っている大宝元年(七〇一)大地震は、加佐郡の大半が陥没し、嘉永三年(一八五〇)の大洪水は加悦谷を泥海に化したと伝えられる。
又、府中真名井神社前に残っている波せき地蔵尊は十丈の大津波をここでせき止めたと言い伝えられている。
岩滝町は西隣の町だが広く周辺には知られた地蔵様の有名な伝えのようである、東隣の舞鶴ではこの話は聞かないが、場所を間違えて話す人はいた、舞鶴はこうした過去の話も驚くほどに間違いだらけで、驚くには当たらず、知っているだけでもカシコ〜イかも、それに風土記残欠は偽書だウソだというのが舞鶴郷土史界では主流的であったし、丹後津波についてはしっかりした文献は残されてはいない、オイオイ何を根拠にウソ呼ばわりさらすのかと、市民とすれば真っ青の話だが、関電さんや政府通産省さんなどは大喜びされるかも。(兆単位のゼニを自由にできる推進派である、郷土史家までがまさか安いゼニで買収されているのでもなかろうが、何かの尻馬に乗っているのか、多くの市民にとってその生死にかかわる重要な歴史については、もっともっと慎重に取り扱ってもらいたい)
『丹哥府志』は大垣村真名井神社の項に【波よげ地蔵】があるが、それ以外には何も書いていない。

 こうした現代人てしては信じがたいような話が1300年間も途絶えずに伝わっているということはやはりただごとだとは思えないわけで、しかしさすがに丹後史界の超重鎮・永浜宇平氏は書いている、(『丹後史料叢書2』)
…大宝元年の大地震といふのは地変が今度の地震より大かつた所から察すれば実に戦慄すべき大地震であったらうと思はるゝが前記の通り丹後唯一の最古代史なる丹後風土記加佐郡凡海郷の條に
 「凡海郷者往昔去田造郷萬代浜四十三里、去○○三十五里二歩四面皆属海(中略)爾去大宝元年三月己亥地震三日不已、此郷一夜爲滄海纔郷中之高山二峯興立神岩出海上、今号云常世島亦俗称男島女島云々」
とみへてをり又橋木縁城寺年代記にも
 「辛丑 大宝元年、三月二十一日紀年、此月大地震三日不熄加佐郡大半滄海となる」
とある。爾来符節を合した程一致した記事であり丹後国の地震史として見のがしにならぬ大事件で桑田変じて滄海となるとは決して唐人の寝言では無く、奈良朗白鳳十二年に土佐国に突発し十九年後の大宝元年には我丹後国にお鉢が廻って加佐郡の一部に桑海の変を繰返して居る。惟へば恐らしい震災国である。…

上山寺と縁城寺の記録は同じもので、『丹後資料叢書』所載本は↑の永浜氏引用とほぼ同じ「三月廿一日紀年、三月大地震三日歇マズ。加佐郡大半滄海トナル。」だが、最近の『京丹後市の伝承・方言』所載本には、「辛丑 大宝元 三月二十一日紀年 三月地震三日止マズ」とあるだけで加佐郡の記載はない、これは叢書本と違っていて、丹後大震災で原本は失われたといわれており、『…伝承・方言』所載の現存本が原本かどうかは不明。残缺と同じでこの書も写本がかなりあるのではなかろうか、ひょっとすると与謝郡に関する記載のあるものもあるのかも、もしお持ちなら調べていただきたい。
土佐国の沈下は同国の康和2年(1100)の記録にも「康和二年正月□四日地震之刻、国内作田千余町、皆以成海底畢」あり、南海地震があれば、ここは沈下をするといわれる。
『岩滝町誌』の「十丈の大津波」の「丈」は、逸文風土記天橋立の「長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり」の丈、方丈記の丈で、十尺、約3メートルであり、十丈なら30メートルの大津波となるが、地蔵様の標高は新聞などによれば、「40メートルくらい」「約40メートル」とある。
それならば、実際に計ってみようではないか…

 GPSの標高数値ではあまりアテにはならないがこれしか私には方法がない。地球が真球ではなく、どうしても誤差が出るうえに、もともと米国の軍事衛星システムで、4つの衛星の電波を受けれられば、高度が割り出せるが、民生用には精度のよいものは提供されず、故意に誤差がでて、10メートル程度の誤差はさけられないようである。それでは困るというので日本などもこれに代わる別の独自のシステムを構築しようとしているわけである。それが完成した暁にはセンチ単位で計測できる、その時がくれば、どなたかやって下さい。
(理論上では3基あれば位置が決定できるが、受信機側の時計の精度が十分でないため、4基目の衛星の情報が必要になる。できるだけ多い方がよいそうである。日本の「みちびき」は準天頂型GPS衛星で、今は1基だけ試験的に運用されている。1基だけだと一日に8時間しか日本の上空に来ないが、2013年までには7基が打ち上げられる予定となっている。このシステムだとセンチ単位で計測が可能で、2車線のどちらのレーンを走っているかは勿論として、わずか10センチ幅の道路でもその真ん中を走ることができる。高度についても今よりは格段によくなるようである)

 近くの海面3メートルくらいの場所では高度14〜20メートルを示していて、高度誤差として11〜17メートルくらいあるようである。
計測値を使って計算してみれば、地蔵様の地面の高さは、もし最も低ければ、37.5メートル、もしもっとも高ければ51.5メートルとなる。それもあまりアテにはならないが、約40〜50メートルくらいとするのより仕方がない。

波せき地蔵の周辺地図
 ↑国土地理院の電子地図データも40〜50メートルである。「40メートル超」の表現でよいと思われる。地図中央上の鳥居は真名井神社本殿で、ここは少し高い、その下の実線の標高線は50メートル線、そこより一段低い位置の緑の丸が「波せき地蔵」の位置。右下に薄く建物があるが、ユースホステルであり、そこと同じくらいか、やや高いくらい標高である。その下の破線の標高線は40メートル。

 これはたいへんな数字である。ウッソーといいたい高さである。ニュースなどによれば、
東日本大震災で岩手県宮古市田老地区では、10メートルの「万里の長城」を越え陸地の斜面をさかのぼって到達した津波の高さが37・9メートル。姉吉の津波碑
同市重茂姉吉地区、海抜60メートルのところに「…想え惨禍の大津浪、此処より下に家を建てるな。明治29年にも、昭和8年にも津浪は此処まで来て、部落は全滅し、生存者は僅かに前に二人後に四人のみ、幾歳経るとも要心あれ」の碑がある。←『巨大地震巨大津波』(朝倉書店)より。
同書によれば碑の高さは1メートルくらいか、標高は約50メートル、右に行けば海で海岸には水産施設などあったそうだがすべて流された、左に100メートルばかりで10軒ばかりの姉吉集落があるという。津波といえば姉吉とこのあたりでは有名とか、先祖の教えに従い今回の津波には無事だったそうだが、そこでは40.5メートル。津波の遡上高のこれまでの国内観測史上最大は、1896年の明治三陸地震で同県大船渡市で確認された38・2メートルとされる。

この地蔵様は、あの時の大津波以上の超大津波が与謝の海でもあったと告げている。ご先祖様ありがとういいものを残して下さった。子孫としてはぜひ世界遺産に推薦したい、全世界の現代文明に大警告を発した福島原発はそうした負の遺産の値打ちがありすぎるし、若狭原発や原子力村、電力会社やその株主(従来派の)、危険承知で再稼働させた政府などもそうした候補になりえるかも知れないが、この地蔵様はプラス側で天橋立とともにそうなればいいかも…
幾歳経るとも要心あれ。福島はひとごとではないかも知れない。丹後のわれらはある日、宮古市プラス双葉町や大熊町ということになるのかも。

 ここに最も近く30キロしか離れていない高浜原発の想定津波高さは全国最低といわれ、74センチ、マジかと笑えるというか泣けるというか、あきれはてた絶対に安全で〜す、事故なんか起こすわけないでしょ、ものだが、レベル7の日本の大クソどもが言う「安全」とはこうしたことだという見本のような話であるが、地蔵様は40メートル超、原発は74センチ。何を事前調査して安全といっているのだろうか、すべてがこんな調子なのだろうか。自然に対する認識がケタはずれに現実とは思えないほどに甘い、というかだますにしても立地住民はじめ全世界の目をあまりになめ過ぎていないか、逆に全世界に大恥さらし、その大アホウぶりを大笑いされ、超危険なものを稼働させる資格や能力が日本にはあるのか、バカのほら吹きしかいないのではないかと根本から疑われることになろう。昔の余部鉄橋
アメリカ巨大農業資本VS日本零細農業の差かも、B29VS竹ヤリか、都合の悪いことはすべて想定外、大和魂があれば放射能くらいは屁でもない、突撃で撃退できる、これがクソ流の「考え」だが、三つの子供でも地獄が見えよう。

 40メートルは10階建てのビルくらい、ウルトラマンの背丈、余部鉄橋の高さ、舞鶴市役所の東側の山、官舎山とか夕潮台公園とか呼ばれているが、あの山が45.5メートル、地蔵様はあれくらいの津波だったという。舞鶴市役所横の官舎山
↑ 舞鶴市役所横(東側)の官舎山。ピークは奥側になり写っていない。写真に写っている所は41.7メートル(海抜)である。

 原子炉建屋の高さがわからないのだが、事故の福島原発一号機を覆う建屋は高さ54メートル予定だそうである、そうだとすれば若狭の原子炉建屋は頭まで海水が押し寄せるだろう。
津波が直接にぶち当たるものは「もんじゅ」だけか、しかし引き波をすごいそうで、ガレキや船舶など巻き込んだそうした超巨大津波の破壊力に耐えられる建屋なのだろうか、水素爆発で吹き飛ぶほどのものなら耐えられまい、もしそうなっても原子炉を冷却できるのかも大問題だが、使用済核燃料プールが丸裸状態になり、押し寄せた海水で満タン状態のプールから一万余体本の核燃料が流出しないだろうか(六カ所へ2000本弱が運び出されているが、これらが返還されたり、原発を稼働すればさらに増える)。しかもプルトニウムがある。
使用済みが忘れられているが、これが超大変な悪魔的にやっかいなものである。「使用済み」と呼ばれるので燃えかすの灰ようなものでたいしたものではなかろう、と思われるかも知れないが、実はパンドラの箱を開くよりもヤバイ話になる、今原子炉に入っている燃料棒の何倍もの量で、使用済みであってもこれもそれ以上の莫大な放射能を出している、本当は使用前よりも一億倍も多く、使用前のウランレベルになるのは10万年かかるという、原子炉よりもこちらがこわい扱いにくいものであるがこれから目がそらされている。

もし外へ出れば遮るものがなく、周辺の線量は完全に致死量。ウランやプルトニウムを分離して残ったものをガラス固化体にしたものでも近くにいたなら瞬時で致死量になる(固化体ができた直後は14.000シーベルトにもなるものだそうである、人は4シーベルト被爆で半数が死亡、8シーベルトで全員死亡という)。
1万体以上もあるので狭い敷地内の貯蔵タンクが一杯になる、ウランやプルトニウムは近くにたくさん置いておけば臨界を起す物質である、パシと音がして青白い光が出て、中性子が飛び出すかも知れない、原爆になりかねないもので、臨界量を超えては絶対に近くには置いておけないものである、こうした性格があり、もともと大量に処理したり蓄蔵したり放置したりすることができない。
ウランの臨界は中性子を遮断する、あるいは減速材の水がなくなれば止められるが、ウランが分裂してつくられた放射性物質の自然崩壊から出る熱は止めることができない、消すことができない火が燃え続ける、この熱は100万キロワット電気出力の原発なら連鎖反応停止直後は30万キロワット熱出力、1時間後で3万キロワットの発熱があり、冷やされず放置すれば2000度超にもなり、再臨界して原爆になる危険性もあるかも、そこまではいかなくとも水蒸気大爆発を起こして放射性物質は広範囲にまき散らされる、危険度は対岸の原爆開発のレベルどころではない話になる、陸上にあれば少なくとも近畿地方は全域がアウト、たぶん日本全土がアウト。海に出れば全地球が終わる、全人類ははたして生き残れるかのレベルになる。

電気を発電するくらいのことで、こんな危険なものを稼働させのは信じられないようなSF的なハナシだが、本当らしい。こうした本当の超ヤバイ情報が出てこない、日本という国は隠すのである。アメリカには言っていも国民には言わない、属国の好見本国で国民の安全にはまったく頼りになるものではなく、安いというだけでこうした原発稼働の不都合な負の遺産の危険性については何も語ろうとはしない。烏賊様師と呼ばれても文句も言えまい。
何でもかにでも規制緩和して、安けりゃいい式に安全無視人命軽視の目先のマネー利益しか見ないドクソどもが進めた、政治路線の原発版が必然に招いた事故であったと思われるが、福島で最も恐れられ、米軍ですら震える、米原子力規制委員会のヤッコ委員長が最大のリスクと指摘するのものが使用済燃料プールが次の地震や余震にも耐えられるかということらしい、(4号機が特に問題、停止中のはずなのに、なぜ爆発したのか、しかも最も大きな爆発で、外からプールが見える、何か目的外使用を隠していると疑われている。建屋が傾いているともいわれ、4号機のプールには1500本の使用済燃料があり、これがもし崩れたら250q圏がヤバイ。東電や国が何と言おうとも東京の人も飛行機にとび乗って逃げろといわれている)、テロ攻撃はないように祈るしかないが、プールから取り出すには事前の大工事が大変で未踏の技術が必要となりそれまでにまだ2年もかかるという、なにしろ建屋の中に入ることすらできないのだから本当に2年かは不明で、それまでにもしプールが壊れれば東京もアウトになるということらしい(4号機プール崩壊ならチェルノブィリの10倍量という)。
事故は終わったなどと寝言を政府は言っているが何も本当は収束してはいない。水をかけ続けて地震も停電もなければ、治療法はそれまでに研究開発していくとして、もし神様のお恵みあれば、もし好都合に恵まれ続ければ40年後にはすべて撤去できるかも知れないということであって、24時間点滴を続けなければ命がないような患者を病気が治ったなどといわないように、新たに放射性物質が外へでないようには取り敢えずなりました、ということであって、事故はいぜんとして危機状況のままである。

舞鶴の造船所は少し以前までは「日立造船」であった。その同じグループが福島4号機の圧力容器を呉で製造した。「高い技術力」のはずがどうしたことかその炉は歪みが発生した、それを隠れて手直しして納めたが、のちに技術者によって暴露された、この話は岩波新書にもなっている、設計はどこがしたのかが書かれていないようだが、言うまでもなくGEであろう、沸騰水型はGEの形式である、その製造メーカーとして日立と東芝があった。福島事故に際しては日立も東芝も呼ばれることがなかったという、下請けメーカーを呼ばずに私だって設計者を呼ぶだろう。かように日本の原子力技術は大事な核心部分は外国に頼っている、イギリス、アメリカ、フランスで、日本が独自に設計したものは「もんじゅ」くらいしかないのではなかろうか、まだ1ワットも発電したことがないまま廃炉の運命になりそうなレベルである。宣伝だけはご立派でそれを国民も、開発者も国も固く信じているが実際は自力の技術力だけでは原発は作れないし、重大事故にも、古い炉が本当に安全かと言った点検すら対処できないレベルのものである。しかももし設計ミスがあって事故になっても法的な責任は負わないそうである。自動車が設計ミスで事故になってもメーカーは責任なしというのと同じ、そんな自動車は普通は輸入しないだろう、しかし原発はなぜか輸入される。原発は差別社会の象徴とか、国レベルになればこうした差別がある。この差別と不利益は下へさらに下へ弱い者へさらに弱い者へとしわ寄せされる、安全だといわれ続けて実際は放射能まみれで生きていけということになるが、そうした層を守ろうとする者は口先は別として実際にはまずない、彼ら自身以外には…

 地蔵様の伝えが正しければ超大事故は避けられまい。福島などは誠にかわいらしい事故だったなということになろうか。
もし若狭湾で40メートル超の巨大津波があれば、世界一の「京」を使ってシミレーションしてみては。そんなことはするまでもないが、まともな学者を集めてシミレーションしそれを公表して皆で共有しておこうではないか、最悪の場合はこうですと、これは周辺住民皆の頭の中に入れておくべきと思う。都合の良いデータだけを入力して具合の悪いデータは入力しない、それでもコンピューターは動き、プログラムに従って計算する、そうしてシミレーションでは安全です、とは言うが、不都合な結果の出るシミレーションはゼッタイにしない、データはいくらでもあるので、適当な所だけをとりだせば、どんな結論でもコンピュータははじき出すものだが、不都合と思えば「不安を与える」とかの勝手な理由をこじつけて公表しないからムリか。
そもそも1基だけでも危険な原子炉を近くに4基、若狭湾だと13基も並べて作るのは危険である、もし1基が大事故を起こせばほか12基へも近づけなくなるのであるが、こうする方が安つくの経済理論だろう、安全よりも経済を優先して建設している、こうした手で「原発は安い」と宣伝している、また使用済み燃料をそのまま原子炉の近くに置いておくのは、危険に危険を掛けるようなもの危険を二乗、三乗とするような話でどこかほかの場所で保管し、危険の分散をはかるのかよいと思うが、こんなものを引き受けてくれるところはない。:すでに国内には広島原爆の百万発分以上の使用済み燃料がある、減衰するので今は80万発分と言われる、だから若狭には超単純計算で約20万発分がある。福島で出たのは80発分であったというから、あの2500倍量であるが、原発が停止していてもこの危険はなくならない、脱原発してもこの危険はなくならない、アンゼンで〜す連中も引き受けようとはしない。

使用済み燃料の放射能が無視できる線量にまで減衰するまで10万年かかるといわれる、その間はきちんと保管・管理が必要とされる。今の人類が誕生してからでもそれくらいしかたってはいない、死の灰を作った犯人ども、10万年後には関電はないし日本国政府もないだろうし、人類が生存しているかどうかも誰にもわからないはるかな未来である。たかが今必要な電気を起こすくらいの話で、必要もない電気のバカ使いをするために、今後10万年の高リスクを背負わねばならないだろうか。超アホげた超愚かな選択ではなかろうか。われらはいつまでも生きているのではない、少しの間だけ地球環境を借りているだけの旅人である、ナニも地球のヌシではない、未来の旅人にもこの環境を残すべき義務を負っているものである。思い上がってはなるまい。安いとかご宣伝の電力の負の遺産、原発を大都市に、せめて使用済み燃料プールは大消費原発推進大勢力下の地大都市につくり、若狭からすべて移そうではないか。関電や政府のの敷地に当たり前で大プールをつくれ、関電の地元にどれだけの自治体があるのか知らないが各自治体あたり10本以上にはなるだろうか、それくらいずつ引き受けてもらおう、安いで〜す、安全で〜すの再稼働の話はそれからということにしようではないか。

20万発分もの放射能がすべて放出されるといった事故がない、とは言い切れないのである、確率的にはゼロではない、大地震大津波などて発生しうる、そんなものはないとは言い切れない、ゼロでない以上は発生する危険性はある、もしそうした規模の事故が発生すればどうなるか、そうした最悪の想定は初めから想定はされていない、推進側は想定するわけかないのである、たとちどころに原発などは止めねばならなくなるからである、推進に大きな支障がでない範囲での想定しか決してしない、そうした彼らに都合の良い楽観的主観的な被害想定にとどまるのである。だから推進側でない立場の人は一応はどうなるかを科学的に想定しておくべきであろう。

こうした大事故に対しては何も考えられていないのが、原発の泣き所である。支配者ども、官僚や財閥、現在の貴族階級であるが、彼らは明らかにしないが、原発は大きな泣き所というのか地獄が3つもあって、仮に安全で安価であったとして原発稼働から生み出される放射性廃棄物の最終処理法がない、古くなったり事故を起こしたり安全性が怪しい炉の廃炉法もない、万一天変地異や人為的ミスで大事故になればその対処法はない。さらに「平和利用」と軍事利用の区別ができない、発電もできるが原爆にもなる、というより元々は原爆製造器で、その開発精神がDNAとして今も引き継がれている、最終処理法がないのに稼働させる、爆発させるために作るのであって、爆発したらどうなるかの想定などはないなどはその典型で、普通の物の製造ならそうしたことでは初めから成り立たない。国保有超軍事大国が進めた「平和利用」などは絵に描いた餅であった。
これら大問題を隠しながら、そんなことはアリマヘンと言うだけで推進してきてのであった。アリマヘンというが実際にあるのだからもうどうにもならないのである
これは難しいと思っていた物事が意外とすべてトントンとうまく進むこともある、またこれは絶対に楽勝と思っていた物事がまったくどうにもならなくなる場合もある。人の将来想定などは所詮はその程度のものでしかない、きっちり正しく将来が読めれば株や競馬で大もうけできて貧乏暮らしと縁を切れることだろう、あなたにできますか、そんな人はまずいないのである。チェルノブイリも福島も想定できなかった、その程度の将来想定しかできない頼りない者であった、強欲でけの頭の薄い連中の想定の言うがままに信じて、まかせ扱うにしては原発はやばすぎる相手ではなかろうか。

 地蔵様はこれほどの大津波があったと子孫に警告する。三陸は巨大なのが1000年に一度、ここは1300年に一度かも知れない、あるいは8〜900年に一度かも。遠くで発生した伝播の小さいものなら200年に一度くらいのようだから、もうそろそろ来くるかも…、それがわからない。
 小さな地震でも局所的に30メートルの津波が来ることもあるという。沖縄の石垣島、明和大津波(1771)では30メートル(古文書では85.4メートル)の津波が押し寄せて8つの村が全滅、一人も残さず村が消えたところもあった、ところが周辺の島々にはそんな大津波の記録も痕跡もない、プレテク理論の海溝型ではそんなことはあり得ない話である、周辺にも10メートルくらいは来なければおかしい。では石垣島の歴史はウソなのか、いやいやウソではなく本当である。これはこの津波はどう発生したのか。今では海底地滑りによると考えられている(テレビ番組による)。そうしたことで局所的に大津波が起こることがあるという。小さな地震で発生した海底の地滑りによっては地蔵様と凡海郷だけに30メートルということもあり得るのである。若狭湾の周辺のほかの地域にはそんな記録がないから地蔵様はウソとは言えないのである。そう単純に考えてきたのはもう昔の話。三方五湖を何カ所がボーリングしただけで安全で〜すは成り立たない。周辺百キロばかりはボーリングしろ、それでも安全とは言えないが…。海底地滑りしそうな箇所はあまりに多く、次はどこが滑るかを予測することは不可能という。小さな地震でも原発のある浜だけを30メートルの大津波が襲うということもあり得る話であるが、それは予測不能である、それは明日かも知れない。
 また狭い湾内で周囲の陸上の山が崩れて海に大量に落ちれば大津波が起きる、そうした津波でアラスカでは500メートルの高さにも津波が駆け上がったという。寛政4年の島原雲仙の噴火では地震で山が崩壊し有明海に突入した。島原城下は3度も津波に襲われ高さは10メートル、しかも津波は天草諸島を襲い、さらに対岸の肥後も襲った、それはすさまじいもので寺の庫裡のニ階に避難していた人々も押し流した、この時の津波による死者は15000人にもなったという。
北海道駒ヶ岳寛永17年(1640)年の噴火では南と東が相ついで山体崩壊、南山麓では 低い土地をうめ、東に崩れた山の一部は 内浦湾(噴火湾)に達し、大津波を起こし、死者700人という。
北海道渡島大島寛保元年(1741)の噴火では2.4km3の山体崩壊、岩屑なだれの発生により大津波を生じて、対岸の北海道をはじめ日本海側の各地に大被害を与えた、死者1467人。下に述べるように舞鶴へもこのときの津波が来た。

 津波といっても千差万別、ワンパターンのみに限定した変な思い込みや経験主義はないほうがよい、人間には想定外のそうした何が起きても不思議ではなく、若狭湾の原発には少なくとも40メートルの防潮堤が必要なようである。それとても過信してはならないが…、
 地蔵様と凡海郷に津波があったのなら、その中間の栗田のあたりにも大津波があっただろうと、フツーは考えられるが、どうだろう。
『角川地名辞典』によれば、板戸峠(栗田の南になる舞鶴市・宮津市間の峠)。標高180mもあるが、その板戸の地名の由来は、昔、栗田湾より襲来した津波をこの峠で板戸を囲って防いだという民間伝承による。という。
『ふるさと岡田中』は、
板戸峠 長之室から栗田へ所用のため、出掛けた男が運悪く大きな地震と津波におそわれ、命からがら逃げ帰った。恐怖さめやらぬ男は「若しも峠をこして海の水がきたらどうしようか。」と、すっかりノイローゼになって夜も日も心配で眠れなかった。そこで隣のお爺さん「村中から板戸を借り集め、峠に並べて堰止めてやから大丈夫だ。」と、言ったので、男はその夜から眠られるようになった。この話を聞いた村人はこの峠を板戸峠といった。

板戸峠
↑坂根正喜氏の航空写真。栗田湾より板戸峠を見る。右が宮津方面、左が凡海郷となる。左に山を越えていく道が板戸峠。
奈具海岸の七曲り八峠のあたりにも津波伝承あったと記憶する。やはり津波はあったのかも、それも超大津波だったのではあるまいか。


地震伝承
↑舞鶴市郷土資料館、平成10年発行の「海といのり」の中にある写真(P10)。地震伝承なのか津波伝承なのか、何が書かれているのか読めないが、この案内板は今はないようで、確認できない。(その後確認。しかし津波のことなど書かれてはいない、あるいはとは思ってはいたが、残念にも「舞鶴史料」はこうしたところが多いよう)

『峰山郷土志』は、
白鳳十二年の大地震に、四国の土佐の一部が太平洋の海底に没してから十七年目、文武天皇の大宝元年(七〇一)、丹後では三日間激震がつづいて、加佐郡の大半が海中に消えているし…

 しかし一方では、そんな頼りない話を信じて対策をする、そこまでしていたらキリがない、の声も聞かれる。フツーのエネルギーなら適当でよかろう、しかし原発はキリがあろうが、なかろうが、電力が足りようが、足りなかろうが、そんなこととは関係なく危険と気づけば、キリなく考えられる限りを対策しなければなるまい、それが地球上で原発稼働させる最低限のルールであろう。原発の泣き所か、経済的には原発の一番の欠陥だろう、際限なく安全対策を続けなければならない運命を背負った発電設備である、おそらく万年という単位で続けなければならない、原発が安いというのは、適当に手を抜いて安くなるようにやっているから安いだけの話である、実は不安全と遠い先は見ていないの無責任姿勢を逆に言っている言葉であろう。

10万年先まで放射能の安全に責任を持つことなどは誰にもできることではない、よほどに広大な地殻の安定した国土を持つ国ならしらず、日本のような地震国津波国で、まともな安全管理力にも欠けるものどもでは原発の絶対安全はあり得ず、これからかかるであろう安全対策費、それでももしもの時に発生するであろう莫大な被害の額を考えれば、コストがこれほど無限に高くつく発電方法はなく、経済的にも廃炉の運命は避けられまい。安価というのはあくまでも安全神話にもとずいた目先の超短期だけの都合の良いコスト計算であろう。また仮に安価であったとしても倫理面の検討を欠いたゼニのためなら極悪事も許される式の幼児にも劣る考えであろう。

 日本語の津波は世界語tsunamiにもなっている、日本は地球上それくらい津波の本場、元祖のような地なのだが、津波の津は宮津の津で港のことである。沖では波長が何10qとあり、たいした波高でなくても、津、すなわち陸地に近づいて圧縮され重なり合い反射しあって、考えられないほどにも大きく高くなる波である。若狭湾のように複雑な海岸線だと反射波も複雑でどこで高くなるのかいろいろなケースが発生しうる。沖で漁をしていた漁師が何かちょっとした波があったとな胸騒ぎに不安になり、急ぎ帰ってみれば大津波のあとで、村はすべて流されて、もといた村はなく、人もなく、ただ茫然と佇んだという話は実際にある。沖で漁をしていた者と山へ芝刈りに言っていた者と所用で村を不在にしていた者だけがたまたま生き残った。地蔵様の北15qばかりが浦島太郎さんの伝説の地、日置の里・筒川だが、浦島伝説とは津波伝説でないかと考える学者もあるとか、もっともここは古く雄略22年紀に見えるから大宝津波よりもさらに古い時代の津波記録かも知れないが…。

 驚かすわけではありません。何十万もの市民の命にかかわるかも知れない記録情報なので、そのまま取り上げているだけです、不確かかも知れませんが、誰も見た者はありませんから仕方ありません。津波想定高さが1メートル違えば、それが生死を分けるかも知れません、もしかすれば、皆さんとご家族の命にかかわること、こうした記録が信頼できるものか、信頼できないものかはご自身で判断願いますが、命がいくらでもあれば別として、一つだけしか持ち合わせないなら、こんな記録もあったと頭の端には置いておかれる方がいいかも…。
 全部がもしウソならいいかも知れないが、もし本当だったら…この世の終わりをわれらは目の当たりにすることになろう。
すべての記録がウソならばいいが、そういうことはなかろう。2メートルの津波を40メートルと書くことも、そうありそうにもない。
若狭湾は14基の老朽原発を並べた原発銀座である、3〜40年、それくらいの寿命のものとしてしかもともと設計されていないが、その年限に達している、斜陽化した日本経済界や官僚界などのレベル7どもが安い安全と頼りにするだけあって、斜陽化しもうどうしようもなく行き詰まっていて、真っ暗な先しか見えないままに、あんな大事故が大警告を発しても方向転換もしない、危険極まりの日本を滅亡させる時限爆弾原発基地である。ここも何とかウソにウソを重ねてエーかげんエーかげんでもしのぎたいと、危機に学ぶことのない斜陽大クソどもは願っているようだが、放射能をどうするかははわれらの世代だけの問題ではない、プルトニウムだとほぼ無害になるまで10万年もかかる、われらの先祖がアフリカを出てからまだ6万年である、セシウムで300年で1000分の1になる、時間の次元が桁違いのやっかい過ぎる危険物である、自分だけの原発は安いとかいった判断では決められるようなものでは決してない、被災地が気の毒だだけではこれだけは引き受けることはできないものである、東電なり政府なり大学なり報道機関なり政治屋なり、そうした安全で安価と無責任を言ってきたクソ連中に「安全な物を送ります」と書いて送りつけてくれ、たくさんいるからそのどこかへ引き受けさせてくれ、ずいぶんと重すぎる薄情な心を鬼にして判断をしなければならないものである、麻薬とも比べものにならないほど危険な人類絶滅の毒物である。タバコの煙すら閉め出される社会で、放射能の受け入れなどはありえない話である、大借金は次の世代へ、さらにもう一つ先の世代へまわせばいい、放射能もどこかの地へ次の世代にまわせばいいと倫理観も責任感もなくした、はじめからモラルのモもありもしない斜陽クソどもと同類であってはなるまい、われらはしっかりと先の世代にも、どの地へも責任を負わねばなるまい。人としての倫理というものを日本の商売屋や政治屋などは持つべきではなかろうか、クソにそんなことを説教してもまぁムリか。

 核兵器システムの補完に生まれた核兵器の双生児、「平和利用」版核兵器の原発はかつては超一流の最新産業であり、核兵器はないが、いつでも作れるぞ、と脅しのカードにもなってきたのであるが(本当です、核開発の対岸の国とさしてはかわらないのである、安全でも安価でもないのにそんなことのための再稼働であろう)(『京都新聞』(2012.6.25)に、
*原子力利用「安全保障に資する」 基本法追記 内外に反発 *核武装布石を懸念* 20日の原子力規制委員会設置法成立に伴う原子力基本法の一部改正で「わが国の安全保障に資する」との文言が追記された。日本の核武装に道を開くとの懸念が生じ、国内外で反発が広がっている。1956年施行の原子力基本法は、原子力利用を「平和目的」に限定した「原子力の憲法」。それが国民的な議論もないまま、わずか4日間の国会審議であっさり書き換えられた。…
とある。民自公が消費増税どさくさ紛れにやったそうで、「国民のために」悪の陰で悪を働くというどうしょもないクソどもだが、再稼働のホントの狙いが、ホントの日本の暗部がしっかり見えてしまったわけで、日本には信じられないような権力の暗部がけっこう残っていて、原発もそうしたどす黒い闇の世界への穴の入口にもなっている、民にはそれを改善する期待が高かったが呑み込まれてしまったのか)、今は後進国などが欲しがる、たいしたこともないローテクの未完の技術である、将来の子孫が解決してくれるに違いないとの期待が土台という、まともな技術ともよべない程度の技術といわれるが、もう過去のものであり、災害に弱く不安定で制御できなくなるかも知れない超危険システム、自称一等一流国が頼る将来性のある安全なものではない。どんなものも長くは続かない、去るべき時がいよいよやってきた。原発なき日本を。原発が必要ならばクソどもがすくう東京に大都市につくれ。

 ここはしっかり何度も何度も念には念を入れてボーリング調査など願いたい。宮津市や加悦町はボーリング調査はやっていたが、過去の津波解明のための調査はやっていなかったと思う。
3.11津波被災地の住宅街の様子などをテレビで見ている限りでは何も砂などが上に堆積しているようには見えない。家などはすべて流されてただコンクリートの土台だけが残っている住宅街だが、砂までかき集めてガレキ処理したとも思えないのである、1メートルの津波で1センチの海砂が堆積するなどとも言われるが、あのあたりなら10メートルくらいはあっただろうから、10センチばかりの砂がありそうなものだが、テレビではまったくゼロで、写っていない。だから、津波による砂の堆積というのも怪しい話になる。千年後にあのあたりの住宅街をボーリングする学者は3.11の津波はなかった、あったとしてもたいしたものではない、古い文献はオーバーなことを言っているのでしょう、場所を間違えているのかも知れません、昔の人の言うことですからアテにはなりません、今の原発はゼッタイに安全ですというかも知れない。どうやらボーリングだけでもアテにはならないようではあるが…

↑この写真は砂を捕らえている、 撮影地などは不明。

国に調査を依頼したなどといった話が首長などから出るが、おかしいのではないか、神経を疑う、国とは政府のことをいっているのなら、やめた方がよかろう、政府は今回の大事故の真犯人である、そんなものの調査などは世界の誰も絶対に信用しない、日本国民ですら信用しない、当然にも 信頼度ゼロである、自分ですら信じてはいないのだろう、まったく自信がないから都合の悪い事実や反対論は無視し排除するのであろう、結論は最初からわかっているようなものだから意味がない。あんなモンを信用したがゆえの死者1万数千人、さらにレベル7、どこかの国々の大気圏内核実験どころでない放射能を全世界にばらまいたのではなかったか。こんな万死に値するクソの「調査」で、250万市民の安全を担えるのか。クソどもに限って国の安全を守るなどと、できもしないクセに立派なことを言うが、それは国民の安全の話ではない、ごく狭い自分たちだけのポケットの安全保障の話であろう、それを「国の安全」といっているので、国民の安全は顧みられない。IAEAのことをいっているのだろうが、くそマスコミに乗せられて誤解しているようだが、その国際原子力機関は「平和利用」推進のためのまやかしの機関であって、原発をどんどん稼働させましょうの組織で、脱原発などはハナから考えてはいない組織である。そうした者の安全の話などは何も信用できるようなものではない。
やらせメールのどこかの県知事のような話ではないのか、やらせ調査ではなく、調査は自前でやってくれ。

 自分には未来が正しく想定できるとでも思っている、のぼせほうけアンゼンで〜すを信じた現代人に、地蔵様が語り伝える近未来のある日のできごとはこうだ。
三日間も巨大地震が続く、本震のあとの大中小の余震で揺れ続け危険で家に居ることができず、三日間は野外の仮暮らし、多くの建物や建造物は倒れ、ライフラインも道路もズタズタ状態、停電で情報は伝わらない、テレビラジオなどでは自分に必要な情報はまずない、そこへ所によっては、何波めかは40メートルを超える巨大津波となって襲いかかるだろう、1波は数分後にやってくる、立っている地面より50センチ高い津波でも人は立っておられず流される。流れる水の威力をなめてはならない。揺れが治まれば即近くの高台へ避難して下さい、普段から逃げる所を見つけておいて下さい。そして14基の原発はその大地震と大津波に耐えられず、そのすべてがレベル7以上の大事故を起こす、その放射能は見えず、さらに肝心な重要情報は隠されて安全ですとウソを言うことだろう、国や電力会社の情報は間違いだらけで、遅く信用できないことだろう、これが想定しておくべき地獄の未来図だ。
わずか30センチ雪がふっただけでも国道ですら20qにわたり9時間も動かなかった町である、1メートルいや50センチの津波でも国道27号・175号は冠水して車両の通行できない箇所がでる。木材やコンテナなど管理の悪い港湾の荷物が流れてきて道を防ぐ、わずかな津波があっても宮津方面へは避難できない。残る道は綾部方面だが、黒谷の狭い谷間を通るので崖崩れや橋やトンネル(高速)の倒壊が心配である。東西間の交通すらどんな時でも大丈夫というものがないと昔から市民は言っているが、いざの時には舞鶴市民は逃げ道がすべて塞がれる危険性が高い。避難に高速が使えれば一番いいし実はそれしか避難路はないが、原発事故支援車両専用となって一般市民には閉鎖されるかも知れない、もしトンネル崩壊などで高速が通行できない状態なら27号線がこうなるかも。大事故なら日本の半分以上が何千年とアウトになる原発である以上は何かあれば舞鶴市民の避難などは後回しあるいは無視にされるかも知れない危険な隣りの位置に住んでいる、事故の規模次第では見殺しにされる危険性がある。逃げる市民を踏みつぶしてでも原子戦用重戦車先頭に事故処理車両がやってくるかも。SFのような話だが、隣り合わせに暮らしていればそのあたりまでの覚悟がいるのかも…
関係諸機関がてんで現場を見ていない、見ようともしていない、後手後手になってどうにもならなくなるようだが、自治体などが立案した、頼りないどころではない超怠慢そのもののどこかの市のように立案すらしていない絶望的な所もあるが、「住民避難計画」はそうした最悪の天災+人災の複合ケースを想定していない。ある天地晴朗な日に原発が単独に小事故を起こすという想定ならいいが、福島を見ればわかる通りに大事故はそうした場合ではなかろう。若狭湾巨大津波の実像がいまだに解明されてないので仕方がないのかも知れないが、そんな都合の良い甘い事態ではなかろう。作れと言うから作るだけのはなし、そんな大災害があるもんか、ばからしいと、安易でどうでもええわ、数だけ合わせておけ式の場当たり式避難計画でさてさて実際には市民の何割が逃げられるものだろう。避難路や避難先などハード面と情報システムとその操作ができる市民を何百とつくるなどソフト面でも大整備が求められる。いまのままで市民の全員が安全に避難できるなどと考える者が一人でもあるだろうか。実際には自治体程度の力で対応できるレベルをはるから越えていて、どうがんばってもらったとしてもとても命を託せるようなものではない、そのときは自分で逃げるしかない、と思われることであろう。しかしとても逃げられそうにもないとなれば、全市民の協力を得ながら、特に若い層に力と知恵を出してもらえよ、年寄りばかり集めてみても、ワタシもそうだが、イザの時には役にはたつまい、今から準備ととのえていこうではないか、そのうちに必ずやってくるものだから。

カシミールで作成した東舞鶴市街地↓
東舞鶴市街地
もしも40メートルの津波が来れば、かく「大半滄海となる」 ↓
東舞鶴市街地
自然の力は人間ではどうにもならない。これが現実にならねばいいが。

 地蔵様の場所は天橋立ユースホステルの少し上である。ユースホステルまでは車で行ける。
車で思い出したが、飲酒運転で捕まりン十万の罰金と3年間の取り消し処分を受けたオッさんがいるのだそう、常習犯であるらしい、しかしまったく気にする様子はなく、ちょっとくらい安全です、安心です、ほんのちょっとウンが悪かっただけです、と言っている。そこの奥さんは安全よ安心よとヘーキで飲酒運転して帰りよるで、とご近所のウワサである。
信じられない実際の本当の安全無視な話であるが、どこかのファミリーと比べればまだましかも、これだけの人類史的大事故を引き起こしていながら、民事上の責任だけで、それも国家の手厚い保護の元、不十分にではあるが、社長の首が飛ぶくらいで、刑事上も行政上もいまだ本格的な責任を問われていない、超無責任大ファミリーはさらにさらにさらに質が悪いよう、原発である以上は甘い安全管理が許されるわけがない、とぼける・隠す・逃げる、責任を取ろうとは決してしない、安全軽視の姿勢に禁固刑、飲酒運転で無害でも百万円、同乗していただけでも罰金、世の中は公平にいこうではないか、それらを大幅に上まわるの罰金刑を全関係者に、 さらに即時運転免許永久取り消しだろう、こんな信じられないようなクソどもをやり放題に翼をつけて野に放ったままでは文明は根底から成り立つまい。
サリンどころでない猛毒を地球上にばらまいたこうしたクソどもの好き放題を許した側にも責任はあることも深く自覚しないとなるまい、すでにカネを受け取っているではないか、直接ゼニでは具合わるいので、下請け仕事の雇用、そうしたカネはこの日のためのバラマキだろう、いやなら初からことわればよかろう、カネはほしい事故はいや、原発交付金に頼らない、原発下請け雇用に頼らない地域経済づくりに真摯に努力しない、そうした曖昧で勝手な虫の良い態度が事故を招いた、原発被災地ばかりでなく、全国民に問われる大問題である。
病気にも良質なものと悪質なものがある、良質な病気というのもおかしいが、少々ほっておいても大丈夫というもので、命にはかかわりのない病気である。ガンなどは悪質で発見次第にすぐ取り除かないと命にかかわる。取り除きに失敗すれば死があるのみである。「一日総理や三日天下政治屋、すぐ終わる内閣」まかせにしてはならない、原発は超悪質である、われらも10万年に比べれば線香花火であるが、取り除ける機会に生きているすぐに取り除かないと地球の命がない。

もし事故があれば、どれくらいの被爆になり、どんなことが体に起こるのか、そうしたことは行政も政府も関電は何も教えてはくれまい。芯からのクソだから死ぬことがあっても改まることはあるまい。まもなく崩壊するなうわさの権力どもすらが再起動です、と言い続けることであろうと思われる。
広島原爆に、舞鶴で被爆したのではなかろうか、とそう思える人の話を聞いたことがある。同時彼は10歳であった。
雨が降ってそれに濡れた。その時の放射能でないかと彼も考えているそうだが、体を指で押すとへこむ、へこんで元にもどらない、顔なども凹み、骨まで柔らかくなっていてへこんだという。しんどくて何日かを寝ていたが、これでボクは死ぬんや、と思ったという。
死ななくて今もピンピンだが、舞鶴まで放射能が来たという話は聞いたこともないが、あるいは軽度な被爆であったのかも知れない。雨に当たった全員がそうなったのかどうかはわからない。



 −以上のほかに、知っておくべき若狭湾津波の情報−

 江戸期の文献に残る記録
『舞鶴市史』
津波
地震によると思われる津波の記録が一件ある。

 寛保元年(一七四一) 酉ノ七月十九日小橋村 野原村高浪痛家八拾軒内弐拾八軒ハ潰家依之ニ小屋かけ材木相願御公儀より願之通ニ被遣候縄四百二十束藁五千六百束ハ大庄や八組割ニ被仰付候 世間ニたとへ申様ニハ津浪と申候俄ニ出来申し狼差而大風も吹不申ニ出来申波ニ而候                (「金村家文書」)
 七月十九日大入(大丹生)村近所四五ケ村津波打(「田村家文書」)
 同日、蝦夷松前領に大津波、死者一、四六七人、流失家屋七二九戸に及んだ(「年表日本歴史」筑摩書房)とあり、日本海沿岸地方に大きな被害があったものと思われる。当時、このことを記録した人は、津波の起因を大風も吹かないのに、にわかにできる波としている。

上に述べているように、これは北海道渡島大島の噴火による山体崩壊で、海に多量の土砂が流れ込んだための大津波であった。


『舞鶴市史』
地震
 近世における地震で、丹後田辺の領民たちが感じ取って記録したとおもわれる古文書は、数点あるが、家屋の倒壊や人命にかかわるような地震は、起きていないようである。一応これらの記録を拾ってみることにする。
寛永 四年(一六二七)正月二十一日 大地震起こる
慶安 四年(一六五一)六月二十日  大地震起こる
寛文 二年(一六六二)五月     大地震、七月晦日まで続いたという
延宝 七年(一六七九)七月十四日  大地震起こる
元禄十六年(一七○三)十二月二十二日 夜子の刻地震、その時江戸大地震あり
宝永 四年(一七○七)十月四日   大々地震起こる。しばらくして五百日鉄砲天を打つ如く二十ばかり鳴る、大坂では津波で数万人死ぬ、五十日余昼夜とも小地震絶えず
享保 五年(一七二○)正月二十四日  大地震起こる夜大雷電あり
              (「縁城寺年代記」「田村家・百田家文書」)
 なお、安政二年(一八五五)十月二日の江戸大地震には、「江戸表大地震ニ付町々御祈祷献上いたし候」(「瀬尾家文書」)とあるように将軍家の膝元である江戸は、一・五キロメートル四方に及ぶ地域から壊れた家一万四、三四六戸、死者七、○○○人から一万人を出したと言われる大被害に対して、田辺藩城下の町々は、心からの祈祷を捧げたのであろう。

寛文二年五月一日の大地震M7.5は「寛文近江・若狭地震」と呼ばれている。若狭の日向断層から花折断層が動いたといわれる。三方五湖は東側が3メートル以上も持ち上がり、菅湖から久々子湖へ流れていた水路が今の宇波西神社の前にあったのだが、それが隆起で閉ざされ、海への出口を失って湖の水位が上昇し湖岸集落は水没し始めた、そこで切り開かれたのが浦見川であった。琵琶湖西岸も壊滅的被害を受けたという。浦見川、久々子湖側より↓年縞で有名な水月湖につながる。
浦見川
縄文博物館藏の地図↓
この地震では全体的には津波よりも、地面が隆起したようである。このあたりから美浜原発のある丹生あたりまで、美浜湾は20キロ以上にわたって、150〜250メートルばかり汀線が沖へ引いて、浜は干上がったと伝わる。
浦見川を開いた行方久兵衛の縁者家であろうか、そこの文書に、
「三方郡の内、丹生浦より早瀬まで五〜六里ばかりの間、大海の磯辺が八十間、早瀬浦は沖へ百三十間干上がり、」。こうした数字はまず正確と見ていいのではなかろうか。
寛文地震での隆起
三方五湖の隆起についての調査はよく見られるが、美浜原発あたりの調査が見られない。白木−丹生断層ばかりのようだが、隆起の問題を見落としていないか。
美浜原発↓
丹生浦の海岸線
道路や集落のある面と砂浜の面に背丈以上の段差がある。このあたりの海岸はずっとこうした様子である。水晶浜と呼ばれる花崗岩砂の超美観、日本の白浜青松100選とかの海水浴場である。アレ〜これは護岸工事で上げたのか、さすがにすごいカネがあるなぁなどと見ていたが、この分が寛文地震で隆起したもののよう。原発のあたりも衛星写真を見ると隆起したように見えるが、シロートでは詳しくはわからない。若狭湾は沈降もあれば隆起もある。次の地震で3メートルも隆起すれば冷却海水が引き込めず3基ともにメルトダウン(高浜は2メートル水位が下がれば取水できないという)そうならないうちに取水路を10メートルは掘り下げろ、上がるか下がるか何が起こるかわからない若狭湾、それよりも全炉廃炉がよろしい。
舞鶴から三方町に来てみれば、南部に聳える三十三間山(842m)などの山脈がものすごく高く見え異様の感にとらわれる、この高さが、この地殻エネルギーが町のすぐ近くにそそり立っている、ここは何かあれば、舞鶴などとは比較にならないものすごいものだろう、と感じた。この山脈は北へ立石(敦賀)半島、そして海を渡って丹生山脈へ続く、ここの越前海岸が隆起海岸であることはく知られている、南へは比良山地、ここも隆起山地であるがここへ続いた大きな山脈である。この大きな山塊が3メートル以上も隆起したのが寛文地震ではなかろうか。原発の集中する敦賀半島は、活断層かの研究もいいが、それだけでなく、次の大地震で3メートル以上も隆起するかも知れない、すなわち海水面がそれだけ下がる、緊急停止できたとしても原子炉が冷やせなくなる、メルトダウン、大爆発、欲ぼけアホどものためにとうとう日本終了、全世界、全生命が危機にさらされる、敦賀半島で原発を今後も稼働させるというならば、予め「浦見川」を掘っておく対策も考え.るべきであろう。

元禄十六年十一月二三日の大地震。頃は元禄中の頃の事件の翌年に発生した「元禄関東大震災」M8.2、相模トラフの引き起こしたものだが大正関東大震災よりも規模が一回り大きく、10mを越す大津波も発生した。九十九里浜や南房総の各所に当時の津波供養塔などが残されているという。津波だけでも死者6500人という。
江戸の頂点と歌われた元禄は翌年に宝永と改元されるが、それがまたそれ以上にすごい時代となった。宝永四年一〇月四日は宝永地震M8.4と呼ばれ、歴史時代に経験した最大規模の巨大地震とされる。南海と東海トラフの同時破壊で、大阪も巨大津波に襲われた。それから四十九日後富士山が噴火した。山麓の50もの集落が灰に埋まり、幕府は各藩に義援金を強制的に課した、こうして集まった40万両のうち実際に被災地救済に当てられたのは16万両、残りは江戸城修理などに流用したという、国民不信のつのる平成政府がマネせねばエエがのぉ。これ以来富士山は噴火しておらず、いずれ「近いうちに」やりまっせということになっている、偏西風の吹く西側に巨大都市があるので次は大変なことになろう。
安政二年の江戸地震はM7程度といわれ、死者1万、遊郭のあった新吉原では1000人が犠牲となった、遊女が逃げ出さないようにぐるっと掘りに囲まれていて逃げる橋が1箇所のみであったからといわれる、イザの場合に逃げ道もないどこかのいれた町を思い浮かべ背筋が寒くなるのは私だけか。前兆現象が知られていて、それによれば鯰が騒いだとか、雀がいなくなったとか、鶏が梁の上に上がったとか、冬眠中の蛇がゾロゾロ出てきたとか、地下水が異常とか、地磁気に異常があったのか磁石が磁力を失ったとか、いかれた町をアテにせずそんなものでも気をつけようかのぉ、いかれ町よりも小さな動物の方がはるかに地球異常には敏感のようだから、情けないのぉ。
その前年の安政東海地震M8.4では東海トラフが動き大津波が発生しプチャーチンらを乗せた船も遭難した。その翌日は南海トラフが動いた、安政南海地震M8.4で、大阪も大津波が襲っている、串本では15メートル、「ススメススメヘイタイススメ」の軍国狂育の中でこの教材だけは使われた、いまだに当時の人々の記憶に鮮明な「稲むらの火」の物語はこの時の話で、防災教育の不朽の名作といわれる。
この両トラフはだいたい90〜150年間隔くらいで動くといい、次がいつ何時起こってもおかしくない時期になっているし、この前が東部分が動かずエネルギーが蓄えられたままなので、次は巨大になると予測されている。またこのトラフの地震に先だって内陸活断層の地震が多発し、阪神淡路もそれだろうという。日本の地下はどこもかしこもたいへんにヤバイ状態の時代となったようである。


もう少しふるいもの、天正津波は、
『兼見卿記』天正13(1585)年11月29日
廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事不知数云々、江州・勢州以外人死云々…
よく新聞などに取り上げられている話題のところ(東大のデータベースより)。関白秀吉も急ぎ上洛してきたそうで、内陸型の大地震だった。云々として伝聞として書いているのだが、幽斎の時代で、幽斎の娘が吉田兼見の倅の嫁、彼の身内はあちこちにあって、その伝聞はかなり信頼性が高いのではと推測されている。
天正地震は養老山地から庄川にかけての断層帯が同時に動きM8クラスの大地震であったといわれる。山内一豊の娘も長浜城で圧死し、奥飛騨白川の帰雲城とその300余戸の城下は山崩れに一瞬にして埋められ一人残らず死に絶えた。このあたりの断層帯が同時に動くとM8クラスで内陸型としては最大級になる。後の明治二三年の濃尾地震もそうであったが、断層は場所によっては8メートル近くも横ずれをしている。このあたり近畿の中北部から長野県あたりまでの山岳地は活断層の巣で、地震の巣である日本の中でも特に巣の集中する超危険地帯である。東西方向からの強い圧力を受けて活断層だらけ、その活断層の度重なる活動によって今の山また山の地なのであるが、内陸直下型でM8というのだから被害は局所的だが、その地は信じられないほどの甚大被害となる、こんな場所へ原発をつくるなどは気違いのみがなせるワザで、ましてや安全で〜すとのたまうにいたっては脳みそがあるのかと疑われて仕方がない、そうでなければデマ犯罪行為になる。自然の力の前には人間の力などはあっけないものでほぼ無である。予想外の力が突然襲ってくる、当時のアバウトなずさんきわまりない開発最優先思想と原発安全神話が生み出した若狭と志賀は、冷静に検討してみれば、そのよって立つ地盤すらまともには調査検討していない、地震のが多い地に大寺院を築く場合、昔のすぐれた建築家たちはその地に穴を掘り20年30年とかけて調査してOKとなってはじめてゴーサインをだしたという、日本では聞いたこともない慎重さだが、日本は伝統的に耐震地盤調査についてはよいかげんで、はっきりいえばないと同じようなことである、そうした連中のいう口先だけの「世界一の耐震設計」などはまったくアテにはならない、 廃炉しかない。それとも大地震や大津波が起きれば近くの「絶対に安全」の原発へ逃げこみますか。
今後もし原発をつくるなら、もう二度と日本の建設会社には発注するな、地盤調査に最も伝統と経験ある外国の会社に依頼するしかない。


『舞鶴市史』の年表にはこの地震津波の記載はない。『宮津市史』は「兼見卿記」を引いている箇所もあるのだが、この地震津波などは何も記載していない。オイオイ誰のために誰の税金を使って仕事をしているのだ、ユーサイ、ユーサイとそればかり、自分の興味本位の仕事ではないか、納税者市民の安全などどうでもいいクソ同類なのか、自称郷土史家の個人的趣味のために高い税金を納めさせているのか。こんなことだから病院もつぶれるのだろう。このままではさらに納税者市民の安全安心は失われよう。何のための誰のための学問か、を真摯に問い続けて進めていかなければ、同じ事を一度も問うことがなかった原発推進クソどもと同じクソレベルであり、行き着く先は納税者を巻き込んでの破滅である。クソによるクソのためのクソの原発、クソによるクソのクソのための市史、われらが今後乗り越えていかなければならない。
いや自分は市史や政府専門家を信じていて「丹後の地名」の寝言などは信じないという人でも子供たちには伝えておいてもらいたい、言い伝えではこれくらいの津波がいつかくるという、その時は、あの山のあそこ以上へ逃げろ。すぐに放射能が来る、もし大きな津波だと致死量を超える線量かもしれないぞ、それにはこうしろと。(どうしたらいいかワタシにはわからないが、風上に向かって逃げられる限りを少しでも遠くまで逃げ続けろくらいか…)

同じ津波について、フロイス日本史にある若狭の津波記事」 によれば、さらにおそろしい。
「若狭の国には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、(盛んに)商売が行なわれていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。(高)潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」
とあるそうである。長浜とあるのは隣町の高浜かという。大きな町というのなら小浜か、しかし何とリアルな話ではないだろうか、われらはテレビで見たあの三陸の光景を思い浮かべるが、実際に巨大津波を目の当たりにした人でも書けないほどの迫力である。こんな話がありもしないのに誰かの頭の中だけででっち上げれらるものだろうか、人間わざではないと思えるが…

 正確な時期は不明ながら、『西田村誌』(昭30)に、次の津波記録がある。
クルビ村 小川の裏の山を越した日本海岸を血の浦といひ、そこには以前クルビといふ村があつたが、或晩村人が出漁中に大津波がおしよせて神社と寺と民家一軒だけを残して全滅したが、その一軒家は後に早瀬へ移住し、今は再転して大阪にゐるといふ。クルビ村がなくなつた時、日向は海をもらひ、早瀬は山をもらひ、小川は御本尊の延命地藏菩薩をもらつて海藏院へ祀つたといはれてゐる。現在血の浦には早瀬から開拓團が入植して十戸余りになり、目下小川から電氣をひく計画をしてゐる。
西田村は常神半島西部の浦々と三方湖畔の田井が合併して成立した明治40年の村。常神半島の東側、ここでは「血の浦」と呼んでいるが、渟田の門とか、丹生浦、あるいは美浜湾とか呼ばれる入り海側にもクルビ(クルミ)という村があったことは別の古文書からも確認されている。事件は天正年間の出来事と現在は見られている。
クルビ村のあったという「血の浦」側
レインボーラインより、切り立つ崖の遙か下に三つばかり小石浜がある↑が、そのどれかであろうか。しかしいずれの地も「久留見千軒」の伝承もあり、神社や寺をかまえられるほどの広さはないように見える。
(血の浦)「大津波の惨事は、戦国期から江戸後期の間の出来事とみられます」という、この大津波については関西電力さんや福井新聞さんのHPにもある。
昔、大津波で滅んだ村−美浜町くるみ浦
美浜の村誌「大津波で村全滅」 原発立地の若狭湾内

関西電力さんは何ヵ所かボーリング調査などされて、この時の津波はなかったなどと、このごろは言っておられるが、それとは正反対のこうした記録も早くから紹介されている、HPや広報誌を通じてであるが、オイオイどっちじゃいや、さあどう折り合いをつけられるのであろうか。関電さんがこれやこれ以外も津波伝承が若狭にあることはよく承知されていることであろう、ない、などと言っておられるが、持っている情報はすべて出さないと信用を失うだけと思う、全世界が己が安全にかかわる重大事として注視していることを忘れないように。
また津波は必ずしも砂を持ってこないようなことは、3.11被災地のテレビ画面からでもうかがえそうで、砂がないから津波はなかったとは断言はできそうにはない。砂はありませんでした、しかし津波があったかどうかについては、この調査では不明です、としか言えないのではないのか。それ以上を言えば、都合の良いデータと都合の良い勝手な解釈ばかりしくさる、さすがに独占体は強いわい、思い出したが、玄関先の電柱が邪魔なためにどっちかへちょっと移動させてもらえんだろうか、と関電さんへ頼みにいったというあるちょっ名の売れた事業所所長さんに、あんたとこの玄関を移動させたらいいでしょう、と答えたとか、危険だし避難路すらないから原発やめてくれんだろうか、などと頼んでもそれなら停電させますよ、それでもよろしいかくらいの答えしかもどってはくることはあるまい、これが国の体質でもあるわけだが、滅びるまで変わることはあるまい、こうしたものにエネルギーを長年独り占めさせておくほど危険はない。原発以上に危険である。
福島原発でも貞観津波堆積物のボーリング調査を行い、堆積物が認められず、福島では貞観津波はなく、あっても現在想定の5.3メートルを超えるものではなかっただろうとして、判断を誤り、対策をとらなかった。堆積物がない、ということは津波がなかったことにはならない、たまたまボーリング地点には堆積物がなかっただけなのかも知れない、数メートル離れればそこには堆積物があるかも知れない、そうしたことはよくあるのだそうである。ボーリング調査結果は津波はなかったの証明にはならない、わずかな地点の簡単な調査だけでそう結論づけることはとても危険な判断といわれている。また別の試算から津波は想定を超える、実際にやってきた津波高と同じくらいになるの計算が出ていた、今回の津波は想定外ではなかったのであるが、それを打ち消すためのニゲの堆積物調査であったようで、堆積物のなさそうな地点を選んだかも知れないのである、その精神ではある物すら見つかるまい。よい先例が教える通りである、関電さんはニゲのために東電さんや保安院さんの愚を繰り返してはなるまい、堆積物が見つかりそうな地点でしつこく調査願いたい。

そもそもの話をすれば、地震もあるだろうし津波も当然にあるだろう、その他のもろもろの危険もあるだろう、なくすことはできない、まれには途方もなくデカイものもあることだろう、それは明日かも知れない、日本の国土はそうした所であり、あくまでもそうした科学的な大前提下に、苛酷事故は起こるの前提のもとに、原発のような超危険なものは、日本では作らなければなるまいし稼働させなければなるまい、地震津波はありませんでした将来もないに決まっているでは、都合悪いことはすべて想定外として考えに入れずレベル7大事故を招いた3・11を経験する以前のナイーブな幼稚な時代に戻ることである。ボーリング調査や断層調査も大事だがそれで将来発生するであろうすべてが予想できたりは決してしない。3.11もわからなかったし、差し迫っているといわれる東海南海沖地震がボーリングや断層だけでわかるだろうか。やる気もない者がボーリングしても初めから結論ありき、誰もこの連中すら本当は信じず、無駄ゼニに終わるし、関電さんだからと、そんなものでも信じたりするものもあるいは出るかも知れず本当の危険が隠されることになるかも知れない。
人間は失敗もするが、失敗から学ぶというところがあって進化してきたのであるが、独占体の殿様どもやその追従者どもでは全世界が人間社会以下のものに退化してしまうことになる。仮に原子力を人間社会に役立てていくにしても、こうした連中ではそんなユメは決して実現はできない。もういらない,、いよいよ人の世から退場願いたいものである。

世界史は知っていても自分の住む郷土史は知らない、明日のことはまったく知らないし、昨日のことも知らない、過去のこうした記録が残されることはまれであり、それが尊重されることはさらにまれである。
災害を防ぐには、として寺田寅彦「津波と人間」は、「残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するこの外はないであろう」としているという。
そうした努力もしようともせずに、それどころか、まともに検証もせずウソだエエカゲンだ、信用できないといい、そしてワシほどエライモンはおらんといった顔をしてござる、それが愚かな小猿とさして変わらぬわれわれでの哀れな姿で、そんなものの「科学的想定」がもしや正しければ今回の事故は発生しなかった。
三陸や太平洋側などの巨大津波が周期的に襲っていた人口も記録も多い所ですら、そうした過去を忘れてしまい、今回のレベル7であった。巨大津波国に暮らし、何度もその被害に遭遇しながらも民族のDNAになっていない、われらは津波のないよその地から来た新参者かも知れないし、原発文化の発祥地が津波も地震もない地のかも知れないが、そうした所の、どちらにせよ原発推進側に傾いた機関の「安全」基準では日本原発の安全が確保されるとは限らない。日本に原発が急速に建設されていった時代はたまたま幸運にも巨大地震も津波のなかった時代であった。しかしいつまでもそう幸運は続かぬもののではなかろうか。市民はどうか神の恵みあらんことを!と祈るか、反対に立ち上がるか、…
すべての過去出来事が記録として残されているとは限らない、せめて残されたものだけでも尊重しようではないか。勝手なこれまでの思い込みや想定をここで一度リセットして、最初から見直してみようではないか。

参考に地震の記録をもう少し付け加えておけば、(『丹後史料叢書2』)
惨禍に直面して
永浜宇平
…さて今度の地震は丹後史料叢書の中に大江山鬼退治の岩屋寺本を収めるここについて同寺を訪づれ宅に帰ったばかりの庭で二尺以上もある雪中に飛び出したまゝである。昨十五日のお昼ごろ仙台の東北帝大田中館先生が震災地規察の途次偶然私のあばら小屋へ這入って来られて、話題がこの地方にをける地震の歴史のことに及んで急遽調べてみる気持になって、まづ橋木縁城寺年代記を始めその他手当り次第に録収して次の結果を得た。

○白鳳四年乙亥 十一月丹波国大地震
 この当時には未だ丹後といふ国はない丹後の出来たのは和銅六年でめるから丹後分国卅九年以前のでき事で丹波国大地震とあるは丹波のどの辺か或は今の丹後の地が震源であったかもしれぬ、それから
○白鳳十二年癸未 十月十四日大地震あり土佐国田圃五十萬頃陥没海となり伊豆海中三百除丈の一島生ず。
 土佐の国は地図に蝙蝠の翼の様に見えてゐるが固さは牡丹餅のやうな国であったのがこの地震で半分をちてあんな形もになったのだといふ。
○大宝元年辛丑 三月二十一日紀年、此月大地震三日不熄加佐郡大半蒼海と為る
 白鳳四年の丹波地震より二十七年目に亦た丹波に大地震があった。それは今の丹後の国で落ち込んで蒼海に変じたといふのは加佐郡大浦村の沖の方である。此の凶変は丹後唯一の最古代史なら丹後風土記にも載ってゐるが丹後の出来た和銅六年より十三年前のことである。
○慶雲四年丁未 六月廿二日大地震
○天平六年甲戌 四月大地震人死多し
○同 十四年壬午 四月大地震三日不止七月又地震あり月を踰て不熄
○斉衡三年丙子 三月大地震あり
○貞観六年甲申 七月十七日富士山噴火す
○仁和三年丁未 七月晦日大地震あり
○承平四年甲午 五月廿四日大地震あり
○同 七年丁酉 四月十五日丹後大地震十一月富士山噴火
○同 八年戊戊 四月大地震五日不熄八月廿五日改元天慶元年
○天禄三年壬申 十月大地震
○天延四年丙子 六月十八日大地震七月十三日改元貞元元年
○治安二年壬戊 三月大地震、藤原保昌丹後守任国
○長久三年辛巳 正月大地震
○建暦三年癸酉 正月大地震十二月六日改元建保元年
○康元二年丁巳 二月廿三日大地震三月十四日改元正嘉元年
○正応五年壬辰 十一月大地震人死多し
○同 六年癸巳 四月大地震あり八月五日改元永仁元年
○元亭四年甲子 六月大洪水十一月廿一日大地震十二月九日改元正中元年
○元徳三年辛未 七月二日大地震数日不熄七日富士山崩潰数十丈八月十日改元元弘元年
○延文五年庚子 五月大地震
○応永九年壬午 十二月大地震
○同 十四年丁亥 正月五日大地震
○永亨四年壬子 九月廿四日大地震
○文安五年戊辰 十月大地震
○康正元年乙亥 享徳四年七月廿五日改元十二月晦日大地震
○文正元年丙戌 寛正七年二月廿八日改元十一月廿九日大地震
○文明七年乙未 六月十一日丹後大地震
○明応三年辛甲寅 六月十日地震遠州浜名陥没して海となる
○同 五年丙辰 五月十一日丹後太地震八月廿五日大地震
○永正七年庚午 八月七日大地震四天王寺石鳥居崩裂
○天正十二年甲申 十一月九日大地震
○同 十三年乙酉 十月廿九日大地震
○文禄五年丙申 閏七月大地震愛宕山ゆりくづす坊中皆立かはる也、大阪ふしみの館つぶれ死人多し、十一月廿七日改元慶長元年
○慶長十九年甲寅 十一月廿五日地震此の地震越後高田大海嘯あり
○寛永四年丁卯 正月廿一日大地震四月二日より七月十二日まで旱魃
○同 十六年己卯 十一月五日地震越前福井烈し
○慶安四年辛卯 六月二十日大地震八月十日夜大風雨
○萬治三年庚子 正月四日丹後但馬大地震六月十八日大阪エンシャウ蔵へ雷落火
○寛文二年壬寅 五月朔日丹後大地震天下人死多し洛中二篠城破損す
○同 六年丙午 五月朔日宮津城内外隍へ?(魚へんに奈)多く浮上り斃死す八月朔日但馬国蛇山鳴動し地震地割あり人死多し
○廷宝四年丙辰 六月二日地震雲州石州最も烈し
○元禄七年甲戊 五月二十七日地震奥羽死者四百餘十月廿六日昼八ツ時より七ツ頃まで大地震ゆり通し丹後損害多し
○宝永四年丁亥 十月四日大地震遠江国荒井関海に没し十一月廿三日富士山噴火し宝永山生ず
○同 八年辛卯 二月朔地震因伯但作最も烈し四月二十五日改元正徳元年
○享保十四年己酉 七月七日地震北陸死者多し八月十九日大風雨文殊境内松三十四本折
○寛延四年辛未 四月二十六日大地震三越最も烈し七月八日大地震十月二十八日改元宝暦元年
○安永三年甲午 十二月十一日夜大地震あり
○天明三年癸卯 天変地妖多く信州浅間山鳴動丹後に響く
○同 六年丙午 七月大地震八月廿九日宮津如願寺谷大崩洪水此年餓震五穀稔らず人死多し
○寛政十一年己未 五月二十六日地震加賀金沢家つぶれ死人多し
○文政二年己卯 五月大地震あり
○同 十三年庚寅 四月地震縁城考古塔倒潰十二月二十四日改元天保元年
○弘化四年丁未 正月十三日木津村中館上野和田二丈餘地落地昇
○安政元年甲寅 嘉永七年二月廿八日改元六月十三日朝六ツ時昼八ツ半時四ツ時大地震
○同 五年戊午 二月廿六日八ツ時古今稀なる大地震
○明治五年壬申 二月六日小地震石州浜田殊に烈し八月九日大洪水
○同 十四年辛巳 三月十七日小地震此地震東北地方激し
○同 十七年甲申 三月十五日肥後阿蘇山噴火し灰雨降る
○同 二十年丁亥 三月地鳴但馬和田山落ちて川底一丈五尺隆起、六月九州肥前神六岳劈裂地変、八月同
○同 廿一年戊子 一月七日灰塵降る但し大隅霧島山噴火の爲めなりと。此年七月十五日岩代国磐梯山爆発す
○同 廿四年辛卯 九月廿六日朝大地震別して美濃尾張烈し
○同 卅二年己亥 三月七日昼前小地震八月二十八日夜いせち大風所々被害多し
○同 四十二年己酉 八月十四日地震江州姉川辺激しき由
○大正三年癸丑 一月十二日薩摩櫻鳥爆発して丹後地方まで灰塵ふる
○同 十二年癸亥 九月一日関東大地震
○同 十四年乙丑 五月廿三日但馬丹後大地震豊岡、城崎其他附近全焼久美浜全潰
と、このくらひある。勿論上記の地震が丹後を震源とした地震のみではなくて他国を震源とした地震も可なりあるだらう。けれども弘化四年正月十三日木津村中館上野和田二丈餘焔没昇昂とある如きは、左まで大地震では無かったかもしれぬけれども兎も角竹野郡木津村温泉湧出地一帯を震源とした地震であったに相違ないと想像せらるゝ、それから元禄七年十月の地震もどこが震源か解らぬけれども宮津町では家々の間隔一尺以上もすいて向ふがみえ白柏本町辺では道路に亀裂ができて泥土を多く噴出し倒潰家屋も可なり多く殊に土蔵は損害が甚大であったと宮津事蹟記にある。建物中に土蔵に損害の多かったことは今回の地震でも同様で斯は耐震力に封する建築術の研究上たしかに或る教訓を齎してゐる。…

牡丹餅の土佐国が蝙蝠になったという「白鳳大地震」、南海トラフの巨大地震であった。海となったという五十万頃は12平方キロくらいだそうである。天武13年紀に見える日本最初の巨大地震の記録である、以後だいたい100年間隔くらいで繰り返されてきた。白鳳大地震では伊豆大島も噴火したようである。
「慶長十九年甲寅 十一月廿五日地震此の地震越後高田大海嘯あり」 とあるが、その三年前に三陸では慶長の大津波があった。三陸大津波の三年後は日本海側も要注意である、それだけでなく日本全国が要注意、人間が予想する通りになるとは自然は限らない、思いがけないという事もよくあるので歴史の不完全なこうした記録のみで判断することなくヤバイとみて、地震や津波はまだまだまだまだ謎である。日本全国はどこも大地震大津波の予約済みで、いつでも神が今日と決めれば即刻に執行される、刑はすでに定っていてあとはその執行を待つ囚人とたいしては変わらない境遇にわれらはある、その日はオレは死刑ではなかろう、オレは何も悪い事はしてないぞ、とか、それは不明な事柄でそう祈りますが十分にご注意ご覚悟を!。
慶長三陸津波の記憶としては、仙台市内鎮座の「浪切不動」や「浪分神社」はよく知られている、当「波せき地蔵」と名付け方もよく似ている。
百人一首の「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)の「末の松山」は、その北の多賀城市、末の松山を決して決して津波が越すことがないように、心変わりはしない契をした、という意味で、これはそれよりも古い貞観津波を記憶したものと言われる。

地球的な感覚でいうなら、こうしたことは朝起きて顔を洗うような日常茶飯事のごく当たり前の地球の通常の活動にすぎない、海溝や活断層なら動いて当たり前、活火山なら噴火して当たり前、それにともなう「活津波」ならあって当たり前、なければその方がおかしい、どこか病気かも知れない、そのエネルギーは巨大で、マントルの動きを止めるなど人間の力でできるものではない、ましてや日本のような国土の成り立ちの国で、想定外と驚いたり対策も立ててない人間の方がだいぶにおかしいといった話でしかない、アンサンらそれでも日本人なんでっか、祖先を失ったどっかのまともとは言えない属国人なんでっか、しっかりしなはれ、ということになったのである。


『奥丹後震災誌』(昭3・京都府)
丹後地方の大地震
丹後地方における大地震の記録を辿ると、有史以前のことは素より知る由もないが、有史以後における最古の記録は「丹後風土記」に記されてゐる凡海郷陥没の大地震である。この凡海地震の二十七年前にも白鳳四年乙亥(西暦六七五年)十一月丹波國大地震といふのが「橋木縁城寺年代記」に挙げられてゐるが、何分にも丹後分國三十九年前のことで、震央地が果して今の丹後か或は丹波か不詳であるばかりでなく被害の程度なども全く不明である。これと異つて大宝元年辛丑(西暦七〇一年)三月二十一日の凡海郷地震は、「丹後の國大地震三日不熄加佐郡大半蒼海となる」……と同年代記にも記されてゐるから、風土記の記事とも照合して、震央地が東部丹後、今の加佐郡東・西大浦村の沖合であつたことは殆んど疑ふの余地がない。被害も相當に激甚であつたらしく、凡海郷全部陥没して高山の頂上のみ海上に出たのが、今の沓島・冠島であるといはれてゐる。まさに丹後大地震として最古のレコードと思はれるのであるが、惜しいことにはこれ以上に記録が詳でなく、今一つ数字上で被害程度を挙げることはできない。
その後此地方の大地震といふのを文献上で散見する所によると
一、文明七年乙未(西暦一四六九年)六月十一日丹後大地震。
一、明応五年丙辰(同一四九六年)五月十一日・八月二十五日丹後大地震。
一、萬治三年庚子(同一六六〇年)正月四日丹後但馬大地震。
一、寛文こ年壬寅(同一六六二年)五月朔日宮津城内外隍へコノシロ多く浮上り斃死す、八月朔日但馬岡蛇山鳴動し、地震地割あり死人多し。
一、天明六年丙午(同一七八六年)七月大地震・八月二十九日宮津如願寺谷大崩洪水、此年餓震五穀稔らず死人多し。
一、弘化四年丁未(同一八四七年)正月十三日木津村(竹野郡)中館・上野・和田二丈余地落地昇、三月二十四日夜四ツ時大地震。
などがあるが、何れも震央地がどの邊で、どの程度の被害があつたか明らかでない。明治以後において強震程度と見られるのは、明治二十一年四月十喝日午後三時の宮津地震、同三十七年十一月十一日午後零時九分の丹後西部の地震がある丈けであるが、これとて素より実際上には別段の被害はなかつた。

 陸地が一夜にして滄海となるなんて、ホンマやろか、と疑う皆様へ
境内の巨石

石垣の石
 この前の「丹後大震災」でもわずかだが、隆起したり沈降した地が見られたが、もっともっと広い地域が大陥没を起こした過去が地層に残されている。この神社あたりが南辺になる東西南北10q四方くらいの「巨礫層の地域」は、かつて500メートル以上も陥没したという。それは2000万年も昔のことであったという。
境内近くにも巨石がゴロゴロ見られるが、よそから持ってきた岩かわからないが、もともとここにあったのなら、それがその大陥没の証拠になるかも。このあたりも何百メートルも陥没し、これらの岩はかどがとがっていて川や海からからのものでなく、その断層崖上から落ちてきたものであろうか。その高い断崖はもう見ることはできないが、ここは高さ五百メートルもこうした巨礫層という。鼓が岳頂上から波見崎の海面に見える巨石までを言っているのか、太平洋側のプレテク理論だけでは説明がつきそうにもない仕掛けが日本海海底には眠っているのかも知れない。
巨礫を含む岩層の分布『京都五億年の旅』太平洋側で巨大地震が発生した直後が怖いかも、このあたりは引っ張り力が発生してゴボンと落ち込む場所があるかも、若狭湾−琵琶湖−伊勢湾の帯、若狭湾−琵琶湖−大阪湾の帯は低くて何か落ち込みそう?(私は素人です信用できない説です、そんなことは万が一にもないよう祈ります)

『京都地学ガイド』
崖には大小さまざまなれきがみられ、大きいものになると三、四メートルもあります。れきは角ばったものが多いことに気づきます。れきの中で、一番多いのは花こう岩です。この岩石は成相寺の南から岩滝や宮津にかけて広くみられます。赤色や暗灰色をしたれきは安山岩で、丹後半島の火山岩の中ではもっとも多い岩石です。れきとしてはほかに変成岩もあります。
 この崖をつくっているれき岩の特徴は、角ばっていることと、大きさがまちまちであることです。河原や海辺のれきが一般に円いのに対し、このようなれき岩はどのようにしてできたのでしょうか。れき岩の様子をみると採石場の高い崖の下などでみかけるものとよく似ています。このことから、このようなれき岩をつくったれきは、今から約二千万年ほど前に激しい断層運動によってできた高い崖から、ガラガラとくずれおちてたまったものだと考えられていますこの崖はれきで完全にうめたてられ、今はただれき岩のみが当時の断層運動を現在に伝えているのです。このれき岩は、厚さが五百メートル近くもあることから、当時の断層運動がいかに激しいものであったかがうかがえます。

三陸海岸がことに有名だが、若狭湾もリアス式海岸である、これは海面が上昇したか、あるいは陸地が沈降したかである。
このあたりは陸地側が沈降したのであろうか。
三陸海岸は巨大津波の常襲地域、われらの目の前にそれに似た地形が広がる、もしかすると海底や津波の様子も似てはいないのだろうか。
信じられないような話だが、地学上本当の話であって、すぐ近くにあった凡海郷が最近になって陥没したという話も、何年も生きてもいない人間には信じられないからといって、あながち全否定もできないのである。

丹後大震災の山田断層
「地が裂けた伝説のある高浜原発
高浜プルトニウム原発
大飯原発
美浜原発


 このほか私のデータベースにある、信じがたいような津波伝説


秋葉神社(舞鶴市和田)
『舞鶴市内神社資料集』に、
秋葉さん
和田の北側の山に城山がある。馬駆け場だったといわれる所、殿様墓があったといわれる所もある。
 昔、この村はよく津浪に襲われて困った。古老が波の色、風の様子で津浪を予感し、宅は高い所にあるので村人が避難する。おさまると村は流されている。村人が困り抜いて城山に秋葉様を祭って一心にお祈りしたら、津浪は無くなったというのである。現在、その祠は屋根瓦はずり、少し雨もりもするらしいが、年一回六月三十日には村人総出で草を刈ったり、木の枝を払ったり掃除することになっている。これはいまも続いている。(嵯峨根藤枝さん)

京丹後市周枳の荒塩神社
『おおみやの民話』に、
荒塩さんの話  周枳 吉岡せい
荒塩さんの昔話ですけど、
むかし、むかしに、間人の海で津波がありまして、海の水が、この荒塩神社のあたりまで津波がきたですって、そのときの水で木の鳥居が、あそこの山で止まりまして、その鳥居が止ったところに、その鳥居を立てて、お祭りするようになった。と、おじいさんに聞いた。

京丹後市三坂の干塩稲荷神社
境内案内板に、
干塩稲荷神社 
祭神 倉稲魂命
例祭 七月二十日
 古くからこの丘に鎮座する神社である。
創立は、文明年間(一四六九〜一四八六年)ともいわれているが、定かではない。
 「文明六年(一七八六年)に再建された」と記録されている。
 本町内はもちろん、この地方では最も古い歴史を持つ稲荷神社である。
 この神社の呼称の起源については、「大昔、大津波が押し寄せて来たが、この神社の手前でぴたりと止まった。この後この神社の神威をたたえて、干塩億稲荷神社と呼ぶようになった。」と伝えられている。
 古くからこの地方一帯の崇敬を集め、例祭には参拝の人波で参道は埋め尽くされるのが常であった。
 今も、「五穀豊饒」「商売繁盛」「家内安全」「心願成就」を祈る多くの人々の信仰を集めている。
 平成六年(一九九四年)丹後マスターズヴィレッジの建設に伴い、上屋を現地に移転改築した。

丹後二宮・大宮売神社
『中郡誌槁』に、
(実地調査)周枳村の鳥居は海瀟のために流れて竹野郡に止りしといふ蓋し竹野郡黒部村に同じ神を祀る大宇賀神社あるより起りたる俚伝か然れども海瀟洪水などの伝説は郡内所々に伝り字ノ森又口大野丹波の字鯨等に付会す
海嘯と、以前はこう書いたのだが、今の津波のことである。知ったかぶりで、たわいもない話と言い切れるのであろうか、本当にそうならいいが、現代のガクシャセンセの想定外が自然には実際にあるものだとワレラは学んだばかりである。郡内所々のに伝わるという話をもっと知りたいものである。

小脇の子安地蔵
丹後半島宇川の中流に「小脇」という集落があったが、ここの子安地蔵様にまつわる伝承に、この地方の嘉吉年間(1441〜44)の大津波がある。縁城寺年代記には、この前後に「大地震」が何回も記録されている。そのどれかに大津波もあり、それを避けるため竹野神社より山中に移されたように思われる。
『京丹後市の災害』
後世の伝承であるため信憑性に疑問はあるが、「瑞巌山地蔵尊縁起」(常徳寺所蔵、江戸時代)に次のような伝承を記す。すなわち、現在は廃寺となった高禅寺(京丹後市丹後町小脇)の地蔵菩薩は、もと竹野神社(京丹後市丹後町宮)に位置していたが、「嘉吉年中(1441〜1444)に大津波ありと浮説之節」に移転したという(京丹後市2012)。
小脇乃里由来碑・全文

下宇川に伝わる北丹大津波伝説
『丹後国竹野郡誌』が引く、「伝説下宇川村誌稿」に、
中古以来何れの御代にて在りしか、北丹の海岸未曾有の地妖にて地裂け潮溢れて浦村数里一時に潰壊して波底に入ると今尚神社を南に去る大約五町にして池田の名のみ存せりと伝へいふ、池田村の民屋千餘戸ありしが可憐此地全村廃絶して空しく蒼田と変じ今更に其形跡得て考ふべからず、

津波ではないが、陸上の土地が突然15メートルも隆起した。
網野町木津上野の今の橘小学校や橘中学校、老人ホーム丹後園のある少し小高くなった丘を「上がり山」と呼ぶ。これは弘化4年(1847)の地変によって突然にできた山だと伝えるている。同年の瓦版(網野町郷土資料館蔵)に、
此地に今年弘化四末の正月十一日の夜半の頃、震動 雷電して大雨車軸を流す。村民胆を冷し驚き怖く事限りなし、程なく夜も明け四方静まり、雨止み、空晴わたるに心安堵して漸やく外面に出るに豈料らんや、高さ五、六丈ばかりの山忽然とあらはれたり。衆人又もや打驚き前代未聞の事なり等と、其噂さ遠近に高く聞ゆ、
(1丈=3メートル)
とあって、一夜のうちにできたという山の絵も載るそう。この上り山が、昭和2年(1929)の北丹後大地震によって、10メートルほど陥没し、その余波で東南側一帯の水田が隆起したという。地震がなくても18メートルばかり突然隆起することがあるようである。そして地震で10メートルはがり沈下した。こうした地名がある以上は本当のことである。もし海底で起きれば津波になる。
これが日本という国土である、ワレラが住む国である。原発などはこうした地変が突然に起こる事も当然にも想定しておかねばならない、センモンカ有識者学者センセでもこれはお手上げであろう、サルとさしては変わるまい。しかし超超危険な物を超超超大量に扱い蓄蔵しているいじょうは「想定外でした」では決して済むものではない。人類を越える知能がないと原発はムリだということになる。
これは断層活動ではないよう、温泉が隠れていそうなところはこうしたことが起こりうると見ておかねばならない。突然18メートル隆起した場合、あるいは逆に突然10メートル沈下した場合、炉と燃料プールの安全が保てるか、冷却できるかと。そうした対策は何もしないまま、安全です、だけでは、国民はムラのオマエらほどにはアホではないのだ。
『丹後国竹野郡誌』
上り山 字木津にあり
(木津温泉誌)温泉場の西面なる一帯の砂山にして松林密茂し頂上は二十尺に達せず彼方は一面澎湃たる日本海にして右手に経ヶ岬、夕日港、左手に朝日港、久美浜湾を指呼し風帆の波を蹴って山涯に行くを数ふべく眺望濶如たり、口碑に元此地海中なりしも安政年間地変あり一夜に此丘を現出せりと云ふ松林には松露を多く産せり、

『奥丹後大震災誌』
小字上野民家の眞向ふにある桃園は日本海に面する一大砂丘に接続せる部分で、往古天変地異の爲め一夜の中に隆起したものとの伝説がある。谷口村長の所有地で、砂質土の小丘上には、一面に桃の栽培をなし、立派な果樹園となつてゐたが、地震と共にその中央部が深さ平均五米、面積凡そ一町二反歩の大陷沒を來し、到底原形には復旧の見込なきに至つた。その周囲下にある水田や畑地も当時の震動のため一帶に波状形のうねりを生じたほどであつた。

『ふるさとのむかしむかし』
上(あが)り山地変
 上り山とは、国鉄丹後木津駅に立って西方を眺めると海手に見える砂丘であります。現在はそのあたりの砂を取り除いて地形を低くし、老人ホーム丹後園や、それにつづいて橘小学校や、橘中学校が置かれて、まったく昔の面影はなくなりました。
 しかしこの地は一夜で隆起しててきた山なので誰言う享なく上り山と称しています。
 事件のあったのは弘化四年正月十二日夜と言いますから、今より約百三十年前のことであります。
 当時としては前代未聞の事変だとして関係庄屋はただちに飛脚をたてて藩の役所へ通報した。宮津藩ではその原因を追及したがわからず、「木津には温泉が出るのだから、硫黄の気が一時にふき出し土地を持ち上げたであろう」との評決であった。
 一方この事件が、京の都へも伝わり、さっそく瓦版の記事になってばらまかれ、京すずめたちの話題となりました。その瓦版の一枚が今木津連合区に保管されて居るが、それによると、
 「丹後の国に於て一夜の内に山湧出る次第(中略)ここに丹後国竹野郡木津の上の村といへる在郷あり、すなわち組(久美)より網野へ至る往還なり
 此地に今年弘化四未の正月十一日の夜半の頃、震動蓄電して大雨車軸を流す。村民胆を冷して驚き怖くこと限りなし。ほどなく夜も明け四方静り、雨止み、空晴れわたるに心安堵でようやく外面に出るに、あにはからんや、高き丘、六丈ばかりの山忽然とあらはれたり。衆人又もや前代未聞の事なりなどと、 その噂遠近に高く聞ゆ、村老の曰く実にや宝永のむかしもかかる例ありて御代豊かに栄えしと聞く、正しく弘化の時にあたりて、世界全く弘く化す豊けき御代のしるしぞと悦び祝うと伝へ開て、そのままここにうつし侍ることになん」
と記され、おまけに紙面の大半を割いた挿絵入りであります。
 この上り山が、昭和二年の丹後震災で一丈余も陥落し、さらにその頂上が削られて小学校や中学校つづいて老人ホーム丹後園もできて、おまけに附近を掘ったら温泉がこんこんと湧き出、これを丹後園はじめ附近の民家に配湯して文字通り温泉郷が実現します。これは瓦版でなく、新聞に詳しく報道されることと思います。
何でも丹後大地震によって温泉が新たに何ヵ所も湧出し、今までの温泉も湯量が増え、湯温もあがったそうで、今日の温泉街の元が作られたという。しかし喜んでばかりはいられない、地下のマグマが上昇してきたのかも知れない、そのうちに噴火口ができてドカンかも、調査してもらっておく方がいいかも…


塩津峠(福知山市岩間)
『角川地名辞書』に、
福知山市と兵庫県氷上郡市島町の境にある峠。国道175号が通る。標高95.3m。地名は、太古、津波がこの地点まで押し寄せたことに由来するという伝説がある。




↑『丹後文化圏』丹後半島の海岸段丘と活断層(植村善博)より

沈降する若狭湾
 福井県の越前岬と京都府の経ヶ岬にはさまれた若狭湾は、延長約lOOqほどの円弧状の湾入をなし、半島や内湾の複雑な出入に富む。単調な海岸線がつづく日本海沿岸のなかで、このリアス式海岸はきわだって異質である(図2)。海へ鋭く突き出した立石岬、常神岬、成生岬などの半島はそれぞれ個性的な形態をみせる。
 このような若狭湾の地形はどのようにしてできたのだろう。半島部は、断層運動によって隆起した地塊山地にあたると考えられている。その山地が100万年前ごろに曲降運動をうけて沈水したのが今日の地形の原形で、その後の海の浸食によりいちじるしく変形したものである。また、最後の氷期が終わった後の急速な海面上昇により、谷であった部分に海水が進入して屈曲の多い現在のリアス式地形が完成されたといえよう。芸術的ともいえる三方五湖の複雑な湖岸地形も同じ歴史をたどったものである。しかし、北西季節風の影響をまともに受ける北向きの海岸では強烈な海食作用を受け、荒々しい断崖や岩礁が連続する。
 若狭湾の東縁には柳ヶ瀬断層とその延長にあたる甲楽城(かぶらぎ)断層が、西端には山田断層があり(図2)、リアス式海岸はこの間に分布する。このことは、両断層によって限られた若狭湾域が沈降運動を継続していることを示している。しかし、美浜や小浜付近には、最終間氷期(約12万年前頃で海水準は現在と同程度)につくられた海成段丘が、0〜20mの高度に分布しており、そこでは地塊の隆起を示す。1662(寛文2)年の地震では、三方断層の活動により、三方湖の排水路である気山川が4mも隆起して干上がった。このため、三方湖などの水位が上昇して多くの集落が水没して大被害を出している。
 ともかく、入り組んだ山塊は交通の障害物となり、半島部を地理的に孤立させる。また急斜面が海岸まで直接せまっているため平野の発達は乏しく、農業や漁業に依存する零細な経営世帯が多い。このため若年労働力を中心とした人口流出が深刻な問題となっている。


座標変化グラフ(『福知山の自然遺産』より )
日新中学校(福知山市前田)のGPS観測による大地の動きを記録したもの。同書によれば、ここに設置された1995(平成7)年より東方向へ約40センチ、北方向へ約15センチ動いているという。グラフの右側、動きが断ち切られて大きく動いた所は3・11である。
全国1240箇所ににこの基準点は置かれているので丹後にもあろうかと思われる、データーのダウンロードも可能という。興味ある方は国土地理院へアクセスして下さい。こうしたことなので、地震や津波の発生は避けられないことになる。







真名井神社の主な歴史記録


『丹哥府志』
【真名井神社】(一宮の西北、祭九月十五日)
倭姫世記云。豊受皇降臨之地與佐比沼真井原云。蓋豊受皇者開闢元始之神国常立尊是也。仝書云。崇神天皇十年谿羽道主之子八乎止女斎奉御饌都神止由居大神。又曰。泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇(大泊瀬稚武天皇諡雄略天皇)即位二十二年丁己冬十月倭姫命夢教覚給久皇大神各一所(耳)坐(波)御饌(毛)安不聞食丹波国與佐之小見比沼之魚井原坐道主子八乎止女(乃)斎奉御饌都神止由居大神(乎)我坐国欲(止)教覚給(支)爾時大若子命(乎)差使朝廷令参上(天)御夢状令申給(支)即天皇勅汝大若子使罷往(天)布理奉宜(支)故牽手置帆責彦挟知二神之裔以冨斧冨・等始採山材構立宝殿而明年戊午秋七月七日以大佐々命(天)従丹後国與佐郡真井原(志天)奉迎止由居皇太神度会山田原(乃)下都磐根(爾)大宮柱広敷立(・)高天原(仁)千木高知(・)鎮定坐(止)称辞定奉(利)奉饗(利)神賀告詞白賜(倍利)云々下略。
日本開闢元始之大神国常立降誕于與佐郡真井原以至諾冊二尊凡七世此為天皇諾冊之長女曰大日・貴諡天照大神天照大神以至・・草葺不合尊凡五世此為地皇・・草葺不合尊第四子曰火火出見天皇諡神武天皇此為人皇祖天地二皇之世時方…略…

『宮津府志』
真名井社   在一宮東北五町許
 祭神 豊受皇太神
  中古以来一ノ宮祭ル二豊受皇太神ヲ一故ニ当社亦今属ス二一ノ宮之隷ニ一。

倭姫世紀ニ曰泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇即位二十一年丁巳冬十月倭姫ノ命ノ夢ニ教へ覚トシ給タマハ久皇太神各一所耳座波御饌毛安不ズ二聞シ食サ一丹波ノ国與佐之小見比沼之魚井原ニ坐ス道主ノ子八乎止女乃齋奉御饌都神止由居太神乎我座国欲止誨へ覚シ給支爾時大若子ノ命乎差シテレ使二朝廷仁令メ二参リヲ一天御夢ノ状ヲ令メレ申サ給ヒ支即チ天皇勅シテ汝シ大若子使トシテ罷リ往イ天布理奉レト宣ヒ支云々。明年戊午ノ秋七月七日以二大佐佐ノ命ヲ一天従リ二丹波国餘佐郡眞名井原一シテ奉リレ迎ヘ二止由気皇太神ヲ一度曾山田原乃下盤根爾大宮柱広敷立K高天原仁千本高知K鎮リ定マリ座セ止称辞定奉利奉レ饗利神賀告詞白賜倍利下略。
天橋記曰、一宮の小松の茂りたる所実に比沼の真名井の原の藤岡の神社也、今に崩れ損したる宮柱あり其傍に鶺鴒石あり神秘なり是所謂與佐宮也、然るを諸社一覧に與佐の宮は與佐郡川森にありと書て川森に今内宮を祠るは近代の俗なりと載たり、甚誤也、蓋し今の内宮は昔天照太神四年鎮座の跡なる可し、河森の外宮は山も浅く内宮に比するに祭以後の勧請と見へたり、然るに與佐の宮とさして與佐の海の古歌どもを引けり、河森は海辺より四里餘大山を隔て山中なり是誤の證拠なりと云々。一説に豊鋤入娘命天照皇太神を戴て丹波與佐の宮に至りて四年を経と云神跡は今の文殊堂なり、俗傳て堂内の四柱を天照太神の建立と云ひ、又真名井原と文殊の地と纔に三十町を隔て一所なり、是豊受太神自二天降一同座一所と云ものなりと云々。
 謹按ニ世紀所レ載スル豊受太神降臨之地、與佐ノ比沼ノ真名井之神跡者即チ今ノ真名井ノ社是也。神社啓蒙諸社一覧等之説似タリレ誤レルニ。

『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒)
【真井ケ原】一宮の北松の茂りたる所実に比治の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。是謂ゆる與佐の社也。しかるを諸社一覧に與佐の社は与謝郡川森に有とて書て河守今内宮を祝は近代の俗なりと云けり。甚誤なり。蓋今の内宮は昔天照太神四年鎮座の跡なるへし。河守の外宮は山も浅く、内宮に比するに遥以後の勧請と見へたり。しかるをよさの社と指てよさの海の古歌ともひけり。河守は海浜より四里余大山を隔て山中なり、是あやまりの証據なり。
或曰今の内宮外宮は往古金丸親王(按帝王系図用明天皇第六の皇子常麻君の祖也)当国凶賊征伐の時勧請し給ふ所なり。内宮外宮の間に公庄金谷といふ在所あり。是すなはち親王の家臣也。親王当国を領しなふゆへ家臣の姓残りて在名となれり。親王の勧請故あるに似たる乎、豊鋤入姫天照太神を戴て、丹後與佐の宮に到りて四年を経といふ。神跡は今の文珠堂也。俗伝へて堂内の四柱を天照太神の建立なりと云、是其証據なり。况真井原と文珠堂と纔三十町を隔て一所なり。是豊受太神自天降同座一所といふものなり。是又一説なり。

『与謝郡誌』
境外摂社に真名井神社あり小字諸岡鎮座無格社、祭神豊受大神、伝へ云ふ崇神の朝皇太神四年の間吉佐宮に御駐斎ありしとき豊受大神の御饌を献供せる霊跡にて養老三年社殿を籠川の浜に遷して籠神社と云ひ跡地を奥宮と云ひ小祠を構へて真名井明神とも崇む天保三年社殿再建明治十年三月二十一日籠神社摂社に列せらる尚境外末社に飯役神社あり皇太神御行在の際に酒饌を献供せられし豊受大神なれば之れを飯役社といふと皇大神四年鎮座考にあれど国司所在地に祭る印鎰社なるべし

『丹後の宮津』
真名井神社 一の宮の裏の道を難波野の方へ行くと古い木の鳥居があり、そこから登るとしぜん真名井神社の境内にたっする。ここには保食神を祀り、伊勢の外宮に祀る豊受大神と同体である。いわゆる「ヨサノマナイ」の故地ともいわれ、「吉佐宮址」の問題と混同されて、誰も解決の鍵はもっていない。けれども、保食神が大陸渡来の産業神であり、海部の勢力がつよまるとともに、ときにはその勢力とむすばれたでもあろう。いずれにしても、ここ難波野の「真名井神社」は、四囲の感じからして、いかにも古社の神域であることいなみがたく、その境域に立つものに何かすがすがしさを思わせる山である。

『元初の最高神と大和朝廷の元始』
真名井神社は、後に述べるように、古代の磐座を以て神座とし、その神座と、本殿内との両所に御神霊をお祭りされて来ているから、豊受大神伊勢国奉遷後も、祭祀は、それ以前と変りは無かったようである。一伝によると、伊勢御遷幸の豊受大神の御分霊を、此処に留められた由であるから、すると、奥宮真名井神社の御本殿内には、御分霊もお鎮まりになっていると窺われる。
同神社の奥宮真名井神社の所在地は、低い山岳であって、真名井、もろおか、村岡山、比沼の真名井、藤岡山、天香語山、古社(コモリ)等の称があり、これら数種の名称が重なっていて、見(み)山という称号は、現在見えぬが、東側の谷を見谷(みだに)といい、西側の谷に流れる清流を、真名井川、又、()川、()川、()川)といっている。
 慶長七年壬八月十日の御検地帳に、「真名井地六拾間四方、右ハ御除地也」と見える。
 伊勢の御鎮座本紀(記)に、
  丹波国与佐之小見比沼之魚井之原坐道主子八乎止女乃奉斎御饌都神
と見える真名井原の一部であって、その所在地が与佐郡であることは明らかであるが、小見及び比沼、特に小見に就ては、それが、雄略天皇の御代の御神勅に見える字句であって、古事記が撰進せられた和銅五年を遡ること二百三十余年にも及ぶ遠い上古のことであるので、その意が、相当難解となっているのである。小見も、比沼も、恐らくは、地名を意味すると考えられるのであるが、いずれも、その後、地名が沿革していて、公式の呼称としては、存続せられてはいない。与佐郡真名井原を、比沼ということは、後項に述べるように、室町以前の記文に、日沼野と見えて、その名残を留めているが、小見に至っては、相当その意がむずかしい。「ヲミ」は、元、里名の類であって、「ヲミノサト」と云われたものと見られるのが最も妥当のようであるが、与佐郡は勿論、丹後国のどの郡にも、この郷名が遺存していないのである。しかし、伊勢国には、この郷名があることが、古記に見え、「従二高宮一而入ニ坐 磯宮一因立二社於其地一曰名二服織社一号ニ麻績郷一者郡北在レ神此奉二大宮神荒衣々一神麻績氏人等別二居此村一因以為レ名也」とあるように、神麻績氏人等の居住していたところを、「ヲミノサト」といっているが、又、この服織社は、神服織社とも、神服社とも云っていて、神服連に関係があるので、天孫本紀伝系の六世孫建田背命、即ち、丹波国造氏人の祖と、その祖を等しくしている氏の祭る社であるから、「ヲミノサト」の里名が、奈良朝以後には消えて行ってはいても、この与佐郡真名井原の上古にあったと云うのは、当然のことと考えられねばならぬのである。それは、後に述べるように、建田背命の子孫である国造氏人が、この真名井ヶ原で、豊受大神をお祭りして来ていたからである。小見が麻績(ヲミ)を意味するかどうか、確実には、わからないが、真名井の山の東側の谷を見谷(みだに)と云っていて、小見谷の意味であるかも知れない。しかし、又、一つには、小見は小+山見の意、山+見は山の名称で、小さい山+見山という意味であるかも知れない。
 後に述べるように、延喜年中には、その意味に考えられていた時代があったであろうことが考えられる。若し、そうであったとすると、前記の「見谷」は山+見谷の意味で、真名井の山は、小さい山+見山と見られていたのであるかも知れないのである。山+見山は、嶺上が平らかで、低い山といわれているが、見方によると、それに似た山と見えるかも知れない低い山である。
 南方に海を臨む小丘であって、後方(北方)は高く、前方は低くなっていて、磐座の所在地から、御社殿の所在地を含む神域は、前方へ長く大体に平坦である。小見が、麻績であるか、小山+見であるかは尚、今後の研究に俟たねばならいであろう。神域のうち、大体平坦になっている部分(段々に前方へ低くなってはいるが、)御本殿の裏の正中にあたって、磐座があり、又、御本殿の裏側正面にも御扉があって、神座は、磐座と御本殿の御内陣と両所になっている。御本殿は神明造ではあるが、普通の神明造とは稍々相違するところがあって、御社殿の大きさに比して、相当高く造られている。磐座の周辺からは、上代の土器(祭器)、石器(石斧、砥石、石鉾、石刀等)、古銭等が出土しており、又、銅鏃等も一個ではあるが発見されている。磐座は、一座ではなく、二座になっていて、御本殿の正中にある磐座の西隣にある磐座は伊奘諾伊奘冊二神を祭り、この東西両磐座を中心とする古代祭祀の霊場である真名井神社は、その山の形状が、大和国の一宮三輪明神の御山と似通うところがあり、東西に谷を控え、山をめぐらし、極めて遠い上代祭場の面影が窺われる。
 昔の神域は、この霊山を北にして、南方は、日本三景の一、天橋立、それから、東南、西南へ跨がる地域、概算、合せて、十数万坪に及ぶと考えられるところであり、皇大神四年御鎮座の大宮処は、その地域の内であり、西南方、今の御本宮の所在地であったと云われる(皇大神四年鎮座考一名与佐宮考参照)。一説には、奥宮真名井神社の宮処であったとも、或は、天橋立の松林の内にあったとも云われているが、いずれにしても、同神社往古の神域内であったことに変りはない。天橋立は往古の同神社の神域であり、その中に、所管社橋立神社があったのである。橋立神社は、丹後与佐海図誌に、「橋立大明神、本社豊受大神を祭る。左は大河大明神、右は八大龍王を祭る」とあって、与佐宮(籠神社の別称)の所管社の一であったが、今はその関係は無い。

藤岡社
 丹後与佐海図誌に、
  真井ヶ原、一宮の北松の茂りたる所実に比沼の真井原藤岡の神社也。今に崩損したる宮柱あり。その傍に鶺鴒石あり、神秘なり。是謂ゆる与佐の社也。
といって、籠神社奥宮真名井神社の所在地を、比沼の真井原と云い、又、橘三喜の一宮巡詣記に、
 古老云伝へたるは、豊受大神宮、もとは籠の神社の後の山上に真名井原有、此所に小社有、鶺鴒石とて二ツ有、一段下の片原也、今は松生繁り森と成れり、一宮の立給ふ所迄も真名井が原と云伝ふ、一宮の右方粉川と云流有、是日本酒を作る始に用たる水也、と土俗にいふ、此川上を満井(マイ)と云、此を村岡山とも、藤岡とも云、(以下略)と云って、籠神社の奥宮真名井の社を藤岡の社と云い、又、その山を藤岡といっているのは、前述のような、豊宇賀能売神飯盛りの古伝承地でもあるからである。
 与佐宮は、天照大神四年御鎮座の与佐宮と、崇神天皇の御代から雄略天皇の御代まで、豊受大神が鎮まりました与佐宮と、二つの与佐宮に分けて考えられねばならぬが、この二つの与佐宮は同一の宮域内に鎮まられていたものであり、飯盛りの神即ち豊宇賀能売神の御在所も、亦、その宮域内に存在していたのである。


奥宮真名井神社御本殿裏正中の磐境が「ケ」ノ大神(豊受大神)、向って左側(西)の磐境が、「コ」ノ大神(伊奘諾大神配祀伊奘冊大神)であり、「キ」の大神(天御中主神)は、即ち「ケ」の大神(豊受大神)であらせられ、又、「コ」の大神(伊奘諾大神)は、一面、「キ」の大神(天御中主神)でもあらせられるとされていたようである。
 この祭祀は、この通りの古い文献は存してはいないが、諸伝を意訳して秘伝とされていたものと考えられる。
 その全面的の是非については暫く措き、「コ」ノ大神を伊奘諾大神と申してお祭りしていたことは動かぬところである。西の磐境の祭祀がそれであって、その磐座を、子種石といい、鶺鴒石といい、伊奘諾大神といい、古社(コモリ)と伝えられる。「コモリ」は、 「コノヤシロ」「コノ杜(森)」の意味で、「コ」は御祭神の神名であるからである。
 即ち、悠遠の上古、神代と云われる昔に、コノ大神をお祭りした祭場であって、 「コノミヤ」の原始に於ける祭祀を偲び得る霊場なのである。逸文風土記に見える天梯立の条文に、伊奘諾大神が天降られて、寝ていられたところと伝えられるところであり、磐座の形状は伝えられる如く正しく寝ていられる形を現わしているかに見受けられる。
 豊受大神奉斎、或は降臨と伝えられる磐座は、これに隣接して東側に続き、真名井神社御本殿裏の正中に位して存在しているのである。丹後国内神名帳抄本に、「従二位古社(コモリ)明神」と見えている。同神名帳は与佐郡の部は、その巻頭数社を挙げるに過ぎないので、この霊場の全容について、当時の状況を知り難いのは惜しまれるが、御本宮と奥宮との関係を考える上の貴重な史料たるを失わない。




 伊勢の御鎮座本紀(記)に、「丹波国与佐之小見比沼之魚井之原坐道主子八乎止女乃奉斎御饌都神」
の小見はオミと読むのではなかろうか、たぶん麻績のことである。荒妙と呼ばれる麻製の神御衣を織る建屋あるいは人のことと思う。和妙でもよいが、神社に付属する重要施設であると思われる。どこかで買ってくればいいというわけにはいかず、自足で神様の調度を製作していたものと思う。しかし早く廃れたものかそうした地名は残っていない。「オミヨ屋敷」という小字が加悦奥にあるが、これくらいしかない。コミもない、田口神社(舞鶴市朝来)にコミ郷の伝承がある、今の杉山あたりがそうらしいが、これもあるいは麻績ではなかろうか。



『丹後路の史跡めぐり』
速石の里真名井原
 籠神社のあたりを真名井原とよぶが、中郡の五箇にも比治真名井原があり、舞鶴、河守にもその名がある。真名井原の名のあるところ必ず豊受大神の伝説があり五穀をひろめた話が伝わっている。
 速石の里は拝師ともいい、和銅六年(七一三)丹後が丹波より分立してから中郡丹波の里から国府が移されたもので、初代の国司小野馬養(おののうまかい)は養老三年(七一九)七月よりの両丹の国司を兼ねていたが、三年後の養老六年(七一三)八月、はじめて奈良の都からはるばると着任している。
 国府は当初加佐の真名井原におかれていたというが真偽の程はわからない。
 府中におかれた国府は小松であったがその位置はどうもはっきりしない。田数帳の中にある印鑑社というのは国司の正印を納めた倉の守護神で、これは中野にある飯役明神と思われるのでそのあたりか、妙立寺の鬼子母神の附近ではないかといわれている。
 国府は寛喜元年(一二二九)正月に国司藤原公基によって大垣にうつされているが、真名井神社か籠神社の附近がそれではないかと推定される。国分尼寺についてはあったのかどうかもはっきりしていない。
 風土記逸文に「郡家東北偶有速石里」とあるので、郡家(ぐうけ)もこの附近にあったと思われる。
 丹後の国府の健児(兵士)は三十人ときめられており、印鑑宮(国司の印鑑を納める所)、国府八幡、法華道場跡が残っている。
 籠神社の北に真名井神社があるが、これか吉佐宮の跡ではないかといわれている。伝説によれば豊受大神は天照大神が吉佐宮へうつった年に小見比沼真名井原に降ったといい、また阿蘇海を渡って吉佐宮へ通ったという。真名井なる名は中郡よりうつしたものであろう。
 吉佐宮については多くの説があり、このほか舞鶴市の紺屋町の神明山であるども、府中難波野の藤岡山であるとももいわれている。とにかく吉佐宮と真名井原と豊受大神と海部の名はどの場所であろうと切り離すことができないようである。
 奈良時代に丹後の国府に通じるには、大江山の双峰の鞍部を越え、駅について休憩をして服装をあらため、新しい馬に乗りかえて各辻堂を通過して国府へ到着したもので、そのコースは次のようである。
 天田花(前)浪里(駅)−−大江山麓の山郷(さんご・駅)−−加悦町与謝の宇豆責(うすぎ)−−平林−−小倉山−−今江−−土山−−桑飼の槍谷−−堂の岡−−入谷−−石川の谷田−−平田−−表地−−由里−−堂谷−−石田の堂ヶ瀬−−板列−−国分寺−−国府このあたりから岩滝へかけては板列の里(いたなみ)とよばれた。


現地の案内案内板
真名井縁起
上古ノ世丹後国未ダ分レズ丹波ト称ス 造化ノ霊勝天梯立眼下ニ連ナリ内ハ阿蘇海ヲ抱キ外ハ与謝海蒼々トシテ日本海ニ開ク 東ノ海中ニ冠島沓島神容ヲ現シ天神ノ示現日子日女ヲ祀リテ常世嶋トモ称ス 此処東北ニ神体山ヲ背負ヘル奇シキ一割アリ即チ元初ノ天神降リ来マセル処真井原ニシテ今太古ノ磐座存ス 東座ハ地上僅ニ現ハルト雖モ生命根源ノ神又御饌ノ神トモ申ス豊受大神鎮マリ給フ 大神ハ宇宙ノ一気発スル大元ノケノ神ニシテ時ニ月神ニ化シ或ハ海神トモ現ジソノ働キ変幻ス 之ノ神ハ籠宮祝部海部直ノ祖丹波道主王ノ娘八乙女ガ斎キ祭リシトゾ伝フ 瑞兆機ニ応ジテ表ハレ背後ノ山峡ニ狭霧立タバ水気根源ノ玄妙ヲ思フベク真名井ノ水ヲ手ニ結ビ又之ノ山ニ藤ノ花咲カバ神霊ノ気?醸化現シテ芳秀現世ニ寄サシ給フヲ知ル 真井原ニ神気発スル時風東ヨリ西ニ吹クト去ヘリ ゲニ大神ヲ祭ル神事懿徳天皇四年甲午ニ始マリテ古へ藤祭ト称シ欽明朝以後ノ葵祭ノ濫觴タリ 之ノ山ヲ天香語山又藤岡山或ハ比沼ノ真井トモ云フハ命名ノ深秘アリテ其ノ心ハ御生レノ神事ナリ 豊受大神東正中ニ鎮マルニ対シ西座ニ鎮マル雄大ナ磐座ハ大八洲国生ミノ元神伊射奈伎伊射奈美二神ノ体ニシテ日神此ノ処ニ所生スト伝へテ日之小宮ト云フ 伊射奈岐ノ神ハ天浮橋ヲ樹テテ磐座ノ女神ニ通ヒ以来之ノ磐座ヲ鶺鴒石トモ申シ岐美二神和シテ生ス 即チ天橋立ハ神人通行ノ梯ニシテ古ヘハ籠宮ノ境内参道ト為ス 神代ニ天上ナル天真名井ヲ挟ミテ日神素尊誓約シテ三女神五男神ヲ生メリ 其ヲ地上ニ求ムレバ之ノ真名井原ナラムト伝フ実ニ此ノ処両個ノ磐座ハ天地日月水火陰陽併祭ノ源基ニシテ民族ノ霊覚ノ象徴大和心ノ発祥ナリ 崇神帝ノ御宇天照大神倭ノ笠縫邑ヨリ真井原ニ遷移シ豊受大神ト同殿ニ鎮マリ吉佐宮ト申ス 二神ハ高天原ノ霊契ニ依リテ離ル可カラザル事一神ニシテ二座二神ニシテ一座ノ秘伝厳トシテ籠宮ニ存ス 是籠宮わ元伊勢ト申ス事ノ元ナリ 中書ニ曰ク天子ノ大社ハ必ズ霧露風雨ヲ受ク以テ天地ノ精気ニ達センガ爲ナリト 真名井社今ニ神代ノ風儀ヲ遺ス 天下萬民心アラバ来リ詣デテ世界平和ヲ祈リ灼然ノ霊気ニ浴サレン事ヲ平成二年庚午旧五月五日
丹波国造八十二代
元伊勢籠神社宮司
海部光彦  敬白

『古代海部氏の系図』
元伊勢といわれる丹後の一宮「籠神社ご由緒略記」によれば、次のように記してある。
籠神社の元宮である真名井神社にトヨウケを祭っていた。ところが、崇神天皇の時にアマテラスが、大和国よりこの地に遷り、四年間鎮座して、のちに垂仁天皇の時に伊勢へ遷られた。他方トヨウケは雄略天皇の時まで此地に鎮座し、この天皇の二十二年になって伊勢に遷られた。
 大化改新となって、やがて籠神社にはホホデミノミコトを祭っていた。それが元正天皇の養老三年にホホデミノミコトの親神ホアカリノミコトを主神として本殿に祭り、さきのアマテラスと卜ヨウケを相殿に祭っている。
 この経過をみると大化改新以前にはアマテラスとトヨウケを真名井神社に祭っていたことがわかる。


京都府与謝郡の成相寺(真言宗)の麓に真名井ヶ原があり、ここが海部氏の霊地とされている。すなわち神々が降臨した場所で、現在はこの地に大きな岩石が二箇所に存在している。その一つは、磐座本宮と称され、他の一つは磐座西座と称されている。特にこの西座をせきれい石ともよび天照大神の出生の地と伝えている。海部氏の伝えには次のように記されている。
イザナギノ大神が真名井原に天降ったと伝えるもの。また本宮にはトヨウケが久志備の真名井原に天降ったという。現在これらの岩石は真名井神社の裏側にあり海部氏が奉祀している。この付近は考古学でいう散布地で一の宮遺跡といって弥生時代の石斧や、古墳時代の滑石製品などが発見されている(籠神社蔵)。
 かかる海部氏の先祖は神を尊敬した家系であった。『海部氏本記』の丹波国造海部直勲尼の子海部直伍佰道が初めてこの二座(イザナギ大神とトヨウケノ大神)を真名井神社に奉祀した。やがて真名井神社を籠宮と改めて、与謝郡を代表する宮とした。すなわち与佐宮と称した。この伍佰道が神職(六四五年〜六八○年奉仕)としては初めで、「祝部氏系図」に代々の氏の名の下に与謝宮のいるしの印がおされている。ところで真名井神社の祭神が、大和大王の要請で五世紀末伊勢へ遷宮されたので、ここが元伊勢となった。かかることから現在伊勢神宮の根本の宮ということで、海部氏が重要な家系となっているのである。


当時丹波国造で海部直は伍佰道の子愛志であった。愛志は六八一年から七一七年まで籠宮の祝部職であった。文武天皇の七○六年の秋七月に丹波、但馬の二国に山火事があり(これは山火事ではなく火山の噴火のこと)、数日間続いた。そこで、文武天皇から愛志に勅旨が下り、国中の神社に奉幣をすることで災害を除去させるということであった。乙丑丹波但馬二国に山火事あり、使を遣わして幣帛を神祇に遣わしむ。すなわち雷声忽ち応じて、撲ずして自から滅ゆと記されている。
 この事実から但馬丹波国では、愛志の奉仕する真名井神社が格式のある社であることを朝廷は認めていたことがわかる。

『古代海部氏の系図〈新版〉』
籠神社の祭神
 さて、日本三景の一つとして有名な「天ノ橋立」のすぐ北側に、歴史の古い神社として代表的な籠神社が鎮座している。もちろん延喜式の式内社(名神大)である。
 この場所は最近、青龍三年鏡などが出土し、「丹後王国論」も唱えられ、急速に注目されだした丹後半島の東の付け根にある。
 籠神社は現在「奥宮」と「本宮」(下宮)に分かれている。
「奥宮」は、いままでは「真名井神社」とよんでいるが、古代には匏宮・吉佐宮・与謝宮・久志浜宮などとよばれていた。後世になると、別称として、豊受大神宮・比沼真名井・外宮元宮・元伊勢大元宮などともよんでいた。
 奥宮がさらに磐座主座(上宮)と磐座西座の二つに分かれる。磐座主座(上宮)のご祭神は豊受大神であり、神社ではまたの名を天御中主神あるいは 国常立尊とよぶ。磐座西座は日之小宮ともいう。主神は天照大神であり、別に伊射奈岐大神と伊射奈美大神をまつっている。
 一方、本宮(下宮)を「籠神社」とよび、別称として籠宮大社、元伊勢大神宮、丹後一宮、内宮元宮などともよんでいる。ご祭神は主神が彦火明命であり、丹波国造の祖神である。そして一緒に豊受大神、天照大神、海神、 天水分神をまつっている。
 本宮の社殿は伊勢神宮と同じ神明造りで、堅魚木の数も伊勢と同じ十本で他の神社に例をみない。さらにこれも他の神社には見られない、高欄の上の五色の座玉と妻飾りの鏡形木があり、伊勢神宮と同じ社格を表している。
 もともと籠神社の参道であった「天ノ橋立」の東には、かつて大いに栄えた「宮津」の町があり、籠宮の津(港)としての深い関係を思わせる。
 有名な雪舟の「天の橋立図」(国宝)の中にも正一位籠大明神として大鳥居から白く描かれた参道のつき当りの社殿まで描かれている。
 こうした社殿、参道をもつ籠神社のご祭神には、たいへん大きな問題をかかえている。それを解く鍵が系図にひそんでいる。本書では一つ一つ解いていこうと思う。




関連項目









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資料編の索引


50音順



市町村別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
『津波てんでんこ』(山下文男2008)
その他たくさん




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