丹後の地名

日本三景・天橋立
傘松公園
(かさまつこうえん)
宮津市大垣



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京都府宮津市大垣

京都府与謝郡府中村大垣



天橋立観光
主なものだけ

文珠地区
智恩寺(智恵の文珠)
ビューランド展望台(飛龍観)
股のぞき
天橋立温泉(智恵の湯)
知恵の餅(橋立名物)
知恵の輪
廻旋橋
天橋立観光船

日本三景:天橋立
磯清水
橋立明神

(府中地区)
丹後一宮・元伊勢・籠神社

真名井神社
傘松公園(このページ)

西国28番札所:成相寺


郷土資料館
国分寺址
阿蘇海と与謝海








傘松公園の概要




傘松公園遠景(天橋立から)


傘松公園:天橋立 天橋立名所の傘松山公園は天橋立の北岸側の高台にある。カメラのGPSでは標高130メートルくらいである。
ケーブルとリフトで登れる、成相寺への参詣道でもあって、昔からの歩道(大谷道)もある。
上には展望レストランや土産物店、成相寺へのバスの発着場がある。
背後の円い山頂は天香語山といい、傘松山公園は、写真で言えば左手に山頂がある笠山という山の中腹にある。


 丹後国や天橋立に敬意を表して、一宮・元伊勢・籠神社にお詣りをして、土産物店街を抜けていくと、ケーブル乗り場がある。

ケーブル下の土産物店街

ケーブル乗り場

傘松公園:天橋立

リフト(大谷寺より)
大谷寺のすぐ脇をケーブルが登る。歩いて登ろうなどとは考えない方がよろしいかも。昔の人は皆、この道を歩いて登ったのであろうが、現代人のハシクレの私などはここまででゼイゼイであった。偉そうに言ってはいても情けない。
ケーブルやリフトがない時代には駕籠屋さんに頼んで登った人もあるそうである。(展望台の写真館より)
昔の傘松公園の駕籠屋さん:天橋立

 さっそくリフトに乗り、登ってみよう。







 天橋立を一望にする傘松公園。天下の絶景。
ここには展望台やレストランなどがある。
傘松公園:天橋立

徒歩でもう一段10メートルばかり登ると天橋立はさらによい。
傘松公園:天橋立

傘松公園:天橋立
ここは空中庭園、天空の城ですが、わたくし的には一番先側(東側)がおすすめ。
「天橋立」から「浦島子(浦島太郎)」が行ったという「常世の国」(冠島)まで一望できる。伊勢と同じように常世(とこよ)(なみ)重浪帰(しきなみよ)する国が目の当たり(そんなことはあまり意識されてはいない、宣伝する気もないようで、実は見えにくいが…)。

傘松公園:天橋立

傘松公園:天橋立


ぜひ時間の許される限りをごゆるりとお過ごしを−
傘松公園:天橋立

傘松公園:天橋立

↑風土記はこの方向(左の木の向側))に、浦島子が行ったという常世の国があると伝えるのだが、こんなことで超大事な観光スポットが見えにくい。
ここからも「日本三景・天橋立」は見えても、近頃いわれる「世界遺産・天橋立」が見えてこない。世界の天橋立をめざそう。もっともっと視野を広げるべきかと思われる。どこかの政府や政治屋どものように、都とアメリカしか見えてない、上ばかり見ていると世界遺産はない。
しかもこの輪は小さくて何度投げてもカワラケが入らない。「入らんネ、病気が治らんネ」と嘆き悲しむ方もおられた、作るのならば、もっともっと大きく大きく作るべきと思う。




傘松公園:天橋立

傘松公園:天橋立




ここは天橋立
股のぞき」の名所

股のぞき」は天橋立だけに見られるもので全国的によく知られている。丹後人の責務としてぜひとも解明したいと願わずにはおれない。

 「またのぞき」の民俗学。
−といっても先学の誰も書いてはいない様子であり、あるいは私めが本邦初めてかも。
またのぞき:天橋立

「ビビっとくる子ら」と若者たちがうわさしていたお姉さんたちグループも登ってきた。
その「綺麗なお姉さんも、スカートをまくりあげ、笑いながらみていた。」
天橋立の股のぞき

あれれ!?
ちょっと失礼して断りなく写させてもらいます。
天橋立の股のぞき(転載禁止)
ビビビっと来て、イザナギ神も天から転げて落ちてきそうな−。
ビビビビっと来て、真面目な、ウブな男の子が見たらひっくり返るかも知れないような−。

実はこんな写真が是非とも写したかったのだが、私はあくまでも学問的興味からなのであるが、しかしこれは無理だとあきらめていたのであった。この場所以外で写せば痴漢行為の犯罪になるかも知れない(この写真は転載禁です)

 この姿こそが本来の天橋立文化だと、私は思っている。都の「文化人」が勝手に夢想した天橋立でない、ここの現地の人の本物の天橋立文化とは、この姿にこそ見て取れるように私は思う。
誰も言う者がない、気が付かないのか、いっぱしの民俗学者でも都文化にシンまでイカレテいるのか、よくわからないが、こんなに有名な地方文化、地方史の解明に役立つかもしれない遺風を納得いくように話をする者はない。

↓どれくらい昔の写真なのか、展望台の写真館に展示されていた(絵はがきのよう。ケーブルのない時代のようだから、昭和2年以前になろう)。
写真技術はよくなったが、こんなによい絵葉書は今の土産物屋さんを探してもない。こうした夢のような絵葉書が欲しいが今はもう見つけることはできない。時代が進めば進化するとは限らぬ見本のようなものである。

↓「袖のぞき」
(これは妖怪発見術、こんなことでバケモノの正体が見破れるというが、天橋立には何も関係がないかと思う。都の「文化人」か、現地の観光業者か、持ち込んだものではなかろうか、今はこんなことはしない。)
傘松公園:天橋立

↓「股のぞき」
傘松公園:天橋立

「股のぞき」は天橋立に向って、向かってなのではない、背を向けて、いや正確に書けば、天橋立にケツを向けて、こうした姿勢で行われる行為で、ほかの場所ではこんなことは決してしない。
天下の名勝に対して極めて非礼な行為である。しかしそれがおおやけに許されるということは、天橋立のもつ性格が何か深く関係している行為と思われるのである。おそらくずっとずっと昔からこうしてきたから許されるのではなかろうか。時々の権力や「文化」などよりはずっとずっと古いから公然と許され続けていると思われる。

そしてどちらかと言えば行為者は女性なのである。女性が積極的で、男性もしないことはないが、何かお付き合いという感じがする。現代の話であるが、そんな様子に見える。
どう考えられてそんな姿をなさるのか、とも問えないし、別に何も考えてはおられぬ様子で、みんなしとってやもん、という感じにみえる。
みんなしとって、かも知れないが、女性がこんなはしたない、というのか、いくら自然相手とはいえ、礼儀も行儀も欠きすぎた、とにかくこんな姿をして「股のぞき」をされる、これは一体またどうしたことなのか−−。

誰も問わないが、私は問うてみないわけにはいかない。




 鶺鴒岩(真名井神社)悩んだあげくの、私の答(のようなもの)を書けば、たぶん、
天橋立を尽きることない豊饒の生命力を持つトコヨの巨大なマラに見立てて、常世(とこよ)(なみ)重浪帰(しきなみよ)する、その浪から生まれた天橋立、常世の国の超自然の神秘な大エネルギーそのものの塊であるが、それを体に取り込もうと、己がシリをめくりあげ、ケツを向けた若い巫女たちが古代社会にはあった。
−−「股のぞき」と呼ばれる奇習は、そんなことにあるいは起源を持つかも知れない。と思っているわけである。
身投石(泪ヶ磯)

猥らなモーソウをしているわけでもないと思うが、「股のぞき」とは、男女同権で別に男の方がなされるのもよろしいが、たぶん本来は若い美しい健康な子を生み育てられる年齢層の女性のみが行うものなのではなかったろうか。

「股のぞき」は2000年も以前からあったのではなかろうか。それくらいは遡れる呪術的、女性的、南方的、海洋的なもっとも古い時代のこの地の文化であったろう。北方系が入ってくる以前の縄文的というのか倭人的というのか、彼らが担った文化であったが、やがて北方系が優位になり、「股のぞき」などと誤解して呼ばれるようになるのは、過去の本来の意味がきれいさっぱりと忘れられたずっとずっと後世、少なくとも古墳時代に入ってからのことかと思われる。
橋立の付け根で

これは本来は景色をのぞくための行為ではなかった。橋立の周辺には「天地交合」の古い文化が残されている、「股のぞき」も本来は「天地和合」のためのずいぶんと古い呪術行為ではなかったか。

一番上の写真は、真名井神社の磐座「鶺鴒(せきれい)石」あるいは「子種(こだね)石」。そう呼ばれるが、天橋立と向かい合っていて、たぶんこれは、陰石と思われる。ズバリには書きにくいが、あるいはわからぬ御仁もおありかも知れないので親切に書くが、女性のあの部分であろう。そして天橋立が陽石になろう。
中の写真は泪ヶ磯の「身投石」。そう呼ばれるが、どう見ても陰陽石。
下の写真は日蓮宗の碑のようで新しいが「天地和合」と彫られている。天地は垂直世界の北方系文化と思われ、本来は水平世界の海の向こうの「常世の国」との「和合」ではなかったろうか。

恋みくじ(籠神社)
←これは籠神社の「恋みくじ」
どこのPR文書か、か次のような案内もある。
天橋立伝承
神代の昔、天にあった男神イザナギが地上に祭られていた女神イザナミのもとに通うために立てられた梯子が倒れてしまい、それが天橋立となったと伝えられています。また、人間の心が純朴で素直であった古代には、神と人、天と地上はは互いに往き来でき、天橋立は神と人、男と女とを結ぶ愛の懸け橋と信じられていたのです。
「天橋立は愛の懸け橋」と信じられたという。まさにその通りと思うわけであるが、人の心を失った、半分人ではなくなっている現代人には、この大切な信仰がピンとは受け止められないと思われる、21世紀はぜひとも復活をお願いしたいもの。
誰も気も付かず、クジをひいてみようともしてないが、この「恋みくじ」をひいてみることにした。本気でビクビク、この道は、というのか、この領域ばかりは神様がお決めになることで、男女関係はお互い人間同士が誠実に努力し合ったくらいのことではどうにもならぬこともまた多いもの、神様どうかお願いしますの世界。エエトシでもガクガク、ブルブル、アホかいなそんなトシでもなかろう、と半分は思いながら、かき回して恐る恐るひいてみれば「中吉」。やっとほっと安心して、オレはやっぱりアホや、と思ったりする。
このクジは「恋成就お守」でもあるようで、「このお守は大切に身に付けてお持ち下さい。意中の人と縁が結ばれますよう祈願してあります。元伊勢籠神社」とある。
今福の蛇綱(宮津市今福)
今福の蛇綱
有名な蛇綱の尾の部分。橋立の南方数キロばかりの集落の正月行事。
小さい方は子とも考えられているし、オスとも考えられているという。

ヘビのオスは小さいんです。オスメスのヘビがホラこうして尾っぽの所でしっかり繋がっとります。今福の蛇綱(宮津市今福)こうやってグイグイ引っ張っても決して離れない。
それって、うらやましいですね。



しかし民俗史料なので、文献的には確認が取れない。
参考
ホト神社


いかに「文化」なるものに惑わされているかにお気づきだろうか。天橋立のようになまじ「文化」が入ると、かえって地域の歴史は曲げられることもあるようである。

ローマに行けば、ローマ人のように、天橋立に来れば、天橋立人のように。天橋立の真価は「股のぞき」でしか見えない、とかいわれています。ぜひ「股のぞき」をやってみて下さい。しっかりと常世の国の豊饒なオーラを体内に取り込んでください。

世界遺産登録をめざす皆さんは、こんな「股のぞき」行為をする地は世界のどこにあるか、そこでは何のためにするのか、一度よく調査してみられてはいかがか。学問的に貢献できるかも…

 さて『丹後の宮津』は、
傘松公園と股のぞき
 一の宮社頭の案内所から一人の婦人がメガホンを口にあて、道とおる遊覧客にむかって「ケーブルはこちらから−」と、一人でも多く境内とおり抜けの道へ引っぱり込もうと一生懸命である。どうも少々いただきかねる有様であるが、境内とおり抜けはたしかに二三分間時間の節約にはなりそうだ。いずれにもせよ、傘松公園へのケーブル線一の宮駅へいそぎ、四○○メートル四分半のケーブルカーで傘松公園へ着く。ここは京都府営の公園地で、特色は「天橋立」眺望の名所として有名である。もっともケーブルの終点からさらに五○メートルの急坂をのぼった台地が、古来の傘松であり、ちょうど傘のように枝をはった老松が一本あって、府営の設備もここに設けられ、展望は一段とすばらしいが、徒歩で急坂五○メートルは誰もあまり好まないとみえる。
 さてこの傘松公園からの「天橋立」観は、平凡といえばもっとも平凡であり、美しいといえばもっとも美しい「はしだて」で、いわゆる箱庭的景観の典型といえよう。ところが、この公園に設けられた石の台に乗り、「はしだて」をうしろに、腰を曲げて自分の股間から向うをのぞくと,その箱庭的景観は一変し、天地は転倒、「はしだて」は空に、空は下に、まったく驚くべき奇観を呈し、「天橋立の股のぞき」という天下独特の眺望法となる。これは体位をかえて眺望するものゝ、その錯覚を活用したもので、まことに愉快な観賞法ではある。.…
またのぞき
かさ松から
天の橋立を
股のぞきしたら
松も舟も空から落ちそうだ
よその ねえさんが
スカートをまくりあげ
わらいながら 見ていた
またのぞきのかっこうは
おかしいけれど
まっすぐみているよりも
美しい橋立がある
何でも
見方をかえたらおもしろいな
 丹後野田川町市場小学校
   五年  山本微二君作
この少年のたくまない詩は、「天橋立股のぞき」の妙味をいかんなく歌っている。

猥らだ、猥ら過ぎると、特高が怒るという話がある。
『宮津市史』は、
戦時下の天橋立
昭和十二年(一九三七)九月の日中戦争の勃発とその拡大は天橋立観光に大きな影響を与えた。十三年人月、本来は稼ぎ時であるこの月の宿泊人員は前年八月に比較するならばほとんど半数程度の激減振りであった。具体的には、宮津では男二七八二人、女三九八人、合計三一八○人、文珠では男二○二五人、女一○三一人、合計三○五六人が八月の宿泊人員であった。各旅館では「今年のごとき閑散なことは全く未曾有です」と語っていた(『橋立新聞』昭和13.9.14)。海水浴客も、八月の土用期間が案外涼しかったことも影響して大きく減少した(同、昭和13.9.14)。また、新浜芸娼妓の稼高は、八月中に一万八○○○余円、昨年当月に比較して三、四割の減収であった。この後戦争が拡大していくにつれ、天橋立への観光客は減少していったと思われる。
 このような事態が進行するなかで、『橋立新聞』昭和十三年十一月六日付は、同月四日に京都府警察部の特高、保安両課の検閲係が天橋立の股のぞき土産品の一部を発売禁止にすると言明をした、と伝えている。これは、京都府警察部による銃後の風俗取締の一環で、おそらく成相山上での着物姿の芸妓の絵葉書などが観光土産品中のいかがわしいものとして取り締まりの対象になったものと思われる。
どちらが猥らでいかがわしいのか、己は天からでも降ってきたのか、何を呆けているのか。上の舞妓さんの絵はがきなどがいかがわしいというのだろうが、戦争とはカッコよいものでなく、なつかしいものでもなく、実際はこうした馬鹿げたもの、ホンマのアホ「文化」と覚悟をして下さい。人は平和に愛し合って生きていくように出来ている、そう造られている。そういた状態でこそ持てる可能性の総て以上が引き出せる、そうした仕組みに造られている。私は神々の手の内をそう見ているが、たぶんそうだと思う。
橋立の歴史の教えるところによれば、戦争と観光は逆比例の関係で、観光のために戦争をロマンあふれる郷土遺産などと宣伝するなど、どこぞの町のようなバカげた話は、よほどに利口すぎる者しか考えもつかない全くミゾーユーな話となる。



 別に何も都の文化がダメだぞというのではない。いいもダメもある、それを見抜ける力量が我らに求められる。
天橋立や傘松に縁深い女流歌人たちが命懸けて歌いあげている。彼女らが橋立に縁あるのもあるいは何か定められた宿命だったのかも知れない、などと思えてくる。


十二単
あらざらむ この世の外の 思ひ出に
  今ひとたびの 逢ふこともがな


 和泉式部
   『後拾遺集』



やわ肌の あつき血汐に ふれも見で
 さびしからずや 道を説く君


  与謝野晶子 『みだれ髪』


当時も今も賛否両論。
私など大感動ですが、さてあなたはどうでしょうか。

(どなたのイラストなのか、たいへん気に入りまして、勝手に使わせてもらいました。)




 「またのぞき」の科学

!どこかでも書きましたが、
「股のぞき」の風景は、実際にご自身が「股のぞき」をされないと見えません。カメラをひっくりかえしただけでは写りません。カッコ悪いなどと尻込みしていると大事な風景は見えません。

↓これが普通に写した写真。
またのぞきの風景

↓実際にカメラを180°ひっくり返して写した写真。
またのぞきの風景
↑しかし「股のぞき」してみると、このようには見えません。私のカメラはデシイチですが、これは「ウソの写真」、というか「股のぞき」している人間から見れば、こうは見えない写真です。同じ風景でもカメラの目と人間の目は違った様子に見えます。

↓「股のぞき」して見える風景(上の写真を左右反転処理)。人間が「股のぞき」で見れば、このように見えます。
またのぞきの風景

銀塩カメラを持っていないので確かめられませんが、たぶんそれでも写らないと思います。私は銀塩時代から股のぞきの世界を写した写真を見たことがありません。
左右が反転した、鏡に映った風景で、まさか全宇宙が突然に左右反転するはずがありませんから、この像は「股のぞき」している人間の脳内で合成されるのかも知れない。人間だけでなく猿も鳥も魚も逆立ちした状態だとこのように見えていると思われます。
逆立ちした時点で人間は上下・左右が入れ代わってしまいますから、あるいはこのように外界を錯覚して、あるいは修正して、意外にもウソを見ているのかも知れません。
不思議で、美しく入れ代わった、この世界には存在しないはずの風景は「股のぞき」でしか見ることはできません。どんなによい高価なカメラでもたぶん写すことはできません。
プロの報道機関のビデオなどもヘーキでウソを写している、真実を報道するとか言うのなら、「人間にはこうは見えない」とかのテロップを入れるべきであろう。
無重量状態の中で逆立ちで見た時に、反転するのか、人工衛星から逆さまで見た地球は、カメラで写した映像のように、宇宙飛行士には見えるているのか、正確に知りたいがナニもこれといったハナシも聞かない。航空機からダイビングしたときの映像とか、バンジージャンプの映像なども、実際に頭から落下している人間には、カメラで写した映像のように見えているのか。たぶんこれは見えていないのではと考えるが、股のぞき映像ですら気付かないレベルだから、報道機関が気付くわけもあるまい、実際に自分でやってみるより仕方ないのかも知れないが、これはゴメンしたい。
股のぞき:飛龍閣


人間はフツーはこうした姿勢では外界を見ないので、そうした場合でも外界が正確に認識できるようには脳神経、脳の画像ソフトが精密には作られていないかも知れない。距離認識が狂うとか、最近そうした研究で「イグ・ノーベル賞」を貰った日本人教授がいると報道されている(2016.9.23)。股のぞきの世界 大きさの恒常性の低減とみかけの距離の短縮
「狂う」のは何もそれだけではない、左右認識が狂う、その大事なことは触れていないようなことのよう。ナニはともあれ、ご同慶の至り、だが当ページは覗かなかったのか。「股のぞき」研究はまだまだ本物のノーベル賞が貰えそうなテーマである。




↓成相寺へはこのバスで行って下さい。約2キロ、7分です。
成相寺詣でのバス


 傘松公園から降りる。
最後まで天下一の景観美を見せてくれる。謎を残して降りよう。
ケーブルカー:傘松公園

傘松公園:天橋立










傘松公園の主な歴史記録

『宮津市史』
傘松の編入
大正期には、天橋立は傘松など周辺地域を編入して公園域を拡大するとともに、明治期にまして環境整備が進行した時代であった。また、史蹟名勝天然記念物保存法による名勝地指定により、より保存の動きが強まった時代でもあった。
 大正六年(一九一七)十月二日、宮津町の時務調査会(委員は内山唐三、佐久間丑雄、池川進一郎、木谷清七、宮城仁祐、三上勘兵衛、今林仲蔵)は山本浅太郎宮津町長にたいし「宮津町政に関する意見書」(四−九七)を提出している。この長文の意見書はこれからの宮津町政の課題を述べたものであるが、その一項目として「町是の確立」を挙げ、今後の宮津町の町是として、工業地や貿易港としては前途の光明を見出しがたいとして、「天橋遊覧地」として設備を完備していくべきだとしていた。このように、大正期、宮津町をはじめとした与謝郡の町村は、天橋立を中心にした観光開発に積極的に乗り出していく。八年一月十七日、小松九郎右衛門府中村長は、根本吉太郎与謝郡長にたいし、一定の条件を付して府中村のうち笠山の土地ならびに御休憩所を無償で寄付するという「寄附願」を提出している。
条件とは、@使用権は従前の通り府中村にて享有する、A使用権を許可する場合は分割しない、などであった(四−五三六)。
 このようにして、府中村および成相寺からも寄付を受けて、同年四月、傘松公園が設置され、この時この傘松地域は天の橋立公園に編入される。府中村はみずからの村の土地を寄付することによって、村の振興を図ろうとしたのである。 傘松には、すでに阪鶴鉄道が福知山まで開通した明治三十三年頃、吉田皆三によって民間の展望所が開かれていた。また、吉田は、宮津への鉄道の延長の運動や広く橋立を世に知らしめるために尽力し、大正元年十一月に逝去した。吉田の十三回忌の年にあたり、丹後鉄道宮津線が開通された大正十三年(一九二四)十月、三井長右衛門ほか五人を発起人として、吉田の碑を橋立の畔か傘松付近に建立する運動が起こり(4−五五七)、吉田の命日にあたる十一月八日大谷寺に建立された記念碑の除幕式がおこなわれた。

史蹟名勝の指定
大正八年四月十日、史蹟名勝天然記念物保存法が公布される。この法は、内務大臣が指定した史蹟・名勝を地方公共団体に費用も含めて管理の責任を負わせ(一部国庫負担)保存をはかっていくことなどが規定されていた(高木博志『近代天皇制の文化史的研究』)。十年六月十七日、内務省は堀切内務大臣官房地理課長の名で馬測京都府知事にたいし天の橋立公園を史蹟名勝天然記念物保存法第一条により名勝に指定する予定であることを伝え、そのことにたいする意見を京都府に照会するとともに、公園地・傘松展望地の地籍・面積評価・管理者・付属の建物その他の工作物・国有地以外の所有者の住所氏名・地籍図、智恩寺境内の地籍・面積・管理者・所有者・地籍図を知らせるよう通達した(四−五三八)。八月一日、与謝郡は「天橋立公園地二関スル調書」を京都府に提出し、十一月四日、京都府から内務大臣官房地理課へ回答された(「天橋立・宇治公園一件綴」京都府庁文書)。このような経過を経て、十一年三月八日、内務省告示第四九号により「天橋立」は三保の松原とともに名勝地に指定され、二十二日そのことが京都府から与謝郡役所に伝えられた。この時、磯清水神社、智恩寺境内、成相山上部の郡有山林が名勝地の範囲にされたのは、それらが天橋立と分かつべからざる風景とされたためである。そしてこの地域は、「公益上必要止むを得ざる場合の外風致を損傷すべき現状変更を許可せざるべし」、とされたのである(四−五四三)。
 保存法第五条は、史蹟名勝を管轄する公共団体の負担の一部を国が補助することができると規定していたが、名勝に指定されたからといって、ただちに名勝保存費が支給されるわけではなかった(丸川論文)。むしろ名勝指定により天橋立の名声を高め遊覧客の増人が期待されたのであった。

保存と設備の充実
このように、天橋立は保存を図りつつ、公園内設備の充実が図られていくことになる。保存の面では、松樹の保護が重要であった。天橋立の松は長大で樹齢の古いものが多く、風雪などによる傷みは激しかった。大正六年四月、与謝郡は天橋立内で保護すべき松一二○本一本づつ詳細な保護の仕方を記した「天橋立公園松調査書」を作成し、さらにこの年には京都市の要請をうけて松樹保護および松樹移植工事を実施している(「天橋立公園一件書類」与謝郡役所文書)。京都府も府内の貴重な文化財産として、天橋立の保存には積極的であった。同年六月二十三日、京都府は内務部長の名で与謝郡長にたいし、「松の稀疎なる箇所に補植の要ありや」など具体的に項目を挙げて「天橋保勝法」を質問し、与謝郡もこれにたいし「イ、補植の要あり、現在大天橋に於て間引き得る松苗数百七十七本(四尺以上十五尺以下)あるを以て之を全部大天橋に補植す、ロ、渡船場附近の補植」などと答えている(同)。京都府にたいする与謝郡の回答は、このような松の補植と植え込み、松以外の雑木の伐採、地面の整理(盛上、凹部の埋立)、護岸工事、傘松に達する道路の整備、智恩寺山門前および渡船場付近の民家の移転、智恩寺の多宝塔の整理、小天橋と文珠との架橋など詳細に回答が寄せられていた(同)。
 大正中期、天の橋立公園の設備も充実していった。大正十年九月二十七日、与謝郡長が京都府内務部長へ提出した天の橋立公園の調査書によれば、体育施設としては、小天橋には大運動場、濃松には運動器具として廻旋搭、誘導円木、ブランコ等を備え、夏季には海水浴場があった。また、娯楽休養施設としては、濃松および傘松に二個の喫茶店、休憩所三箇所、腰掛十数個。遊覧者招致施設としては、夏季に海水浴場の設置、傘松に展望所があり、保安通信施設として濃松に倉庫一棟、園丁一人を常置、自動電話一、便所三、飲用水井戸一、雑用水井戸二、渡船場一、があった(四−五三九)。
 大正八年傘松公園が天の橋立公園内に編入されたことは、傘松地域の設備の充実、傘松までの道路の整備が重要になった。大正十一年二月十日、与謝郡会は三上勘兵衛議長名で山本三省与謝郡長宛に傘松公園に自動電話設置を求める意見書を提出している(四−五四○)。しかし、この件はこの時点では認められなかった。三月二十七日付の大坂逓信局長から与謝郡長宛の回答では、文珠の切戸には毎年春秋に一般遊覧客用に臨時自動電話一個を設置しているが、利用客は少数で設置の効果は乏しいとして傘松への増設を認めなかったのである(「天橋立公園一作」与謝郡役所文書)。また、傘松に達する登山道路には点燈設備がなかったが、十二年五月十八日、府中村大垣の旅館菊亭斎藤弥助および一ノ家宮崎武照二人から旅館有志が傘松に達する登山道路の沿道電柱一○本に点燈したい旨与謝郡役所に申請があった。この申請は与謝郡役所から京都府に送られ、五月二十九日許可されている。この外灯はスリガラス製で横細字に楼名(旅館名)が記されたものであった(四−五五一)。

成相ケーブルと天橋立遊覧協会
大正末に、府中村大垣から成相山傘松までの電気鉄道計画か持ちあがる。この計画の実施主体は、成相電気鉄道株式会社(成相電鉄)てある。同社は、元丹後自動車会社役員を中心に、内山廣三(宮津町)、後藤龍太郎(京都市)、宮崎佐平治(府中村)等が重役となり、資本金二五万円で大正十四年(一九二五)十二月に組織された(四−五五九、五六○)。成相電鉄による成相ケーブル(天橋立鋼索鉄道)工事は、丹後震災によって若干遅れるが、昭和二年(一九三七)八月には営業を開始する(四−五六一)。
 成相ケーブルの営業開始は、さらに遊覧客を増大させた。このようななかで、昭和三年六月十一日、天橋立遊覧協会が文珠なかや旅館で発会式を挙げる。この会は、天橋立に関係する宮津・府中・吉津・岩滝四町村の旅館料理屋、飲食店、土産物屋、貸座席業、自動車、ケーブル、モーターボート各種組合団体が一丸になって組織されたもので、前府会議員兼前宮津町長内山廣三を会長に、元与謝郡長山本三省を副会長、理事三人、評議員二二人、福知山運輸事務所長、保線事務所長、宮津警察署長、宮津・岩滝・吉津・府中各町村長が顧問となった。そして、今後も積極的に天橋立を宣伝し、ゆくゆくは国立公園とすべく努力することになった(四−五六二)。またこの年の秋、宮津遊覧協会では、昭和大礼で京都に集まる全国の人々を宮津や橋立に吸引する目的で、京都で観光の大宣伝をおこなう計画があったことを『日出新聞』は伝えている(四−五六三)。さらに遊覧客の便宜を図るため、昭和五年十二月一日には、天橋立遊覧の鉄道・天橋立汽船・天橋立ケーブルの連絡切符が関係筋と交渉の結果実施されることになった。下車駅は天橋立駅、宮津駅のどちらでもよく、連絡切符所持者は、文珠・一ノ宮間も一ノ宮・宮津間も同一料金。発売駅は東海道線名古屋駅、山陽線岡山駅、北陸線富山駅、関西線和歌山駅、山陰線松江駅を最長距離とするその間の著名駅、宮津線の各駅であった(『三丹新日報』昭和5.11.28)。
 なお、天橋立遊覧協会は、昭和六年五月、天橋立に国際海水浴場設置の請願書を府社寺課に提出しているが、この結果がどうなったかは不明である(四−五六四)。




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資料編の索引

50音順

市町村別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市













【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん




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