丹後の地名

阿蘇海(あそのうみ)
与謝海(よさのうみ)
日本三景・天橋立の内海・外海

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京都府宮津市文珠天橋立

京都府与謝郡吉津村文珠


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阿蘇海と与謝海(このページ)

阿蘇海と与謝海


阿蘇海(石田上空より)
↑手前の阿蘇海と橋立の外側が与謝海(西側上空より)
阿蘇海(江尻上空より)
↑与謝海(左側)と阿蘇海(右側)(北側上空より)




天橋立に区切られた内の海を阿蘇海(あそのうみ)と呼ぶ。
与謝野町と宮津市にまたがる、天橋立の西面の内海で、天橋立の砂嘴によって宮津湾内に生じたラグーン(潟湖)のこと。
天橋立南端の切れ口(切戸・九世戸)によって東側の外の海(与謝海・宮津湾)と続いていて、阿蘇海西岸には野田川が流入している。

日本三景の天橋立とともに、古来詩歌に詠まれた景勝地で、

思ふことなくてや見ましよさの海の天の橋立都なりせば                      赤染衛門(千載集)
よさの海内外の浜はうらさびて浮世を渡る天の橋立
                 曾禰好忠(曾丹集)
与佐の海に浪の夜昼眺めつゝ思し事をいふ身ともがな
                 (和泉式部集)
与謝の海の沖つ潮風浦に吹けまつ也けりと人に聞せむ
                 藤原良経(秋篠月清集)

などとあるそうで、宮津節でも、
月が出ました橋立沖に 金波銀波の与謝の海
などと歌われる。

天橋立と阿蘇海・与謝海(文珠上空より)
↑天橋立を挟んで内海が阿蘇海、外海が与謝海(南側より)

 天橋立は現在はこのように長いが、こうなったのは幕末の頃からという。以前は橋立が広くなっている途中のあたりまでしかなく、南側は山ぎわまで海であったという。内海と外海は広い水道でつながっていて、ここを九世戸、切戸と呼んだ。

「丹後国風土記」逸文に、
天の椅立 久志浜
(丹後の国の風土記に曰ふ)
与謝の郡。
郡家の東北の隅の方に速石の里あり。この里の海に長大き前あり。長さ一千二百二十九丈、広さ或る所は九丈以下、或る所は十丈以上二十丈以下なり。先つ名をば天橋立といひ、後の名を久志浜といふ。然云ふは、国生みたまひし大神伊射奈藝の命、天に通行はむとして梯を作り立てたまふ。故、天の椅立と云ふ。神の御寝坐す間に仆れ伏しぬ。仍ちくしびますことを怪しみたまひき。故、久志備の浜と云ふ。此を中間に久志と云ひぬ。ここより東の海を与謝の海と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ。この二面つの海に雑の魚貝ども住めり。但し蛤の乏少なり。


昔はかくの如しであったのだが、現在はよいかげんである、与謝海病院があるが、あそこなら阿蘇海病院と昔なら名付けたであろう。阿蘇海は内海だけを呼んで、これは昔と変わりがないが、与謝海はかなり大きく変化している。与謝海はどこかと問うても正しく答える人は多くはあるまい、地図にも与謝海はない、だいたい宮津湾と書かれているのが、かつての与謝海である。
栗田半島先端の黒埼と対岸を結んだ線から内側、橋立から東側の内海が本来の与謝海だが、現在は与謝郡の海は全部が与謝海で、阿蘇海もその一部といったようにとらえているようである。


 風土記のアソ、ヨサ、クシ、クシビ、などはずいぶんと古く、たぶん弥生の渡来地名と思われ、たぶん天日槍族が残した、たぶん大風呂南墳丘墓や難波野墳丘墓などを残した人々の時代の地名か。
今に伝わる関連の地名をさらに拾えば、九世戸、傘松公園のある山は笠山、磯清水のイソ、須津や惣、獅子、矢原、吉原という地名。与謝の吉原はヨサのフルネームがヨサハラだと語っているように思われる。
現代人には何のまじないやら、さっぱり理解もできず、世界遺産で売り出すはずの地のせっかくの古代地名群だが、案内されることもない、失われた歴史の失われた地名群である。
これらは互いに深く関連があり、早く 金沢庄三郎『日鮮同祖論』がズバリ指摘している、
次に、丹後国加佐郡のことであるが、丹後国は和銅六年に丹波国の五郡を割いて始めて置かれた国であるから、天武天皇白鳳五年紀には丹波国訶紗郡と見え同国与謝郡も顕宗天皇紀に丹波国余社郡とある。この与謝の地は四年間天照大神の鎮座ましました処で(倭姫世紀)、天椅立は伊射奈芸大神が天に通ふため作り立てたまうものといふ古伝説(丹後国風土記)もあり、此辺は古代史上研究すべき値の多い地方である。天橋立は、嘉祥二年三月興福寺の大法師等の奉賀の長歌にも匏葛天能椅建践歩美、天降利坐志志大八洲と詠み、又釈日本紀にも兼方案之、天浮橋者天橋立是也といっているが、丹後国風土記には与謝郡郡家ノ東方ノ隅方ニ有速石里、此里之海ニ有長ク大ナル石前、長二千二百二十九丈、広サ或所ハ九丈以下、或所ハ十丈以上、二十丈以下、先ヲ名ケ天椅立、後ヲ名久志浜、然云者ハ、国生大神伊射奈芸命、天ニ為通ヒ行ント而椅ヲ作リ立タマウ、故云天椅立、神ノ御寝坐間ニ仆伏キ、仍怪久志備坐、故云久志備浜、此中間云久志、自v此東ノ海ヲ云与謝海、西海云阿蘇海と見えて、二神の故事を語り伝へている。この由緒ある土地に、加佐郡・久志浜・与謝海・阿蘇海など、天孫降臨の筑紫にあると同型の地名を発見することは、偶然の暗合とは考へられない。

簡単にいえば、これらの地名群はクシフルの転訛だといっているわけである。
クシヒという地名、天橋立の北側の付け根附近、そこにある真名井神社は久志浜宮とも呼ばれる、その意味を逸文風土記もほとんどの今までのガクシャセンセも誤解している、「霊異のはたらきをする意。クシ(霊妙)の動詞形。天に立てかけてあったハシ(梯)が海上の砂浜になったとして霊異のはたらきを認めたもの」などと和風の大学者くさい話をしているが、地名はもっと簡単な庶民の誰にもわかる意味を持つものである。

紀によれば、天孫降臨のクシフルのタケのことを「クシヒの高千穂の峰」「ソの高千穂のクシヒの二上の峰の天浮橋」「ソの高千穂のソホリ山の峰」とも呼んでいる。イコールで結んでみればわかるようにクシヒはクシフルのルが脱落したものであることがわかる、高千穂の高は美称、チホはシホでソホのことである。
ク(大の意味の美称)・ソ(金沢庄三郎は新羅の民族名ソという)・フル(村のこと)で、興味深い地名のソ、見逃してはならないサシスセソである。
今も誰にもよく理解できるように書けば、この周辺の一帯はソフルと呼ばれていたということである。ソの村ということである。ソは伽耶や新羅からの渡来人たちの自称名ととりあえず見ておいていいと思われる。それに発音上の接頭語アとかヨがついてアソとかヨサとかになったと思われる。
当サイトをお読みのかたは別に驚かれないかも知れないが、この地もまたソフルと呼ばれた古の聖なる地であった。


「あそびの浦」という浦がある、京丹後市網野町掛津の遊↑で、よくここの阿蘇海と混同されるようだが、アソビもアソも地名としては同じ意味だと私は考えている、最後のビが残っているか脱落したかの違いで、元々は両者はアソビであった、もっと古くは最後にルの発音があったのではなかろうか。最初のアは発音上付けられたもので、茶碗といったりオ茶碗といったりするが、意味上の違いはなく、あってもなくても意味上には変化はない、アソビはソフルのことだろう。
遊部だとか、すぐクソ難しいことを言い出してメシ喰っているのがガクシャセンセだから仕方ないが、地名は庶民の物であって意味はもっと簡単なダレでもすぐに理解できるものである。
日本の歴史でも間にはいくつもの断層があり、古代の実情は現在からは直接には誰にも見えなくなっている、机上の空論を有り難がったり、極右のマネしたりしているから、ワレラがルーツに関わる大事の地名がすなおに理解できなくなっていると思われる。こうしたことは歴史教科書には書いてなく、図書館で調べてもない、はっきり言えば「歴史とはウソ」である。その前提に立って真実を自分の頭で解明していくのが未来を開かんとする者の努めである。過去を抹殺する者は未来もまた抹殺する。戦争中のことなんか今さら蒸し返して、などと考えてはならない、過去は未来のことでもあり、過去は忘れて未来指向でつきあうなどは大ウソのヘリクツでしかない。未来指向で行こうとすればするほど過去が大事になってくる。

依羅(よさみ)という古代語がある。依羅郷とか式内社の大依羅神社、依羅氏という氏族もあるが、河内摂津国や参河国に見られる。BとMはよく入れ替わるので、ヨサビルというのが本来ではなかろうか、それがヨサミとなり、ヨサとなったのかも…


 以上阿蘇海とか与謝海はだいたいエライ人たちの「行政地名」的な「よい子ちゃん」たちの呼び方であるが、ワタシ的にはたいして興味もない呼び方である。
しかしフツーの人達(当地の海人・倭人)がそうとばかりに意識して呼んでいたのかはよくわからない、というのか違うのでないのかと思っている。世の中のもうひとつのウソも書いておこう。
歴史はウソだらけ、古代史などは特にウソだらけ、しかしちょっとお下品かも、だいぶエロい話になるかも、しかしその評価もエエかっこしたい愚かなオモテヅラだけのちょっと文明進化したとかの権力よりなことかも…

これは北岸の傘松公園から見た天橋立である↑。
右が阿蘇海、左が与謝海であるが、どちらも含めて全体に円い、こういう場所は古くはマと呼んでいる、伊根湾も間内と言うし、間人にも大間港・小間港がある。大地のマである。マというのは今でも卑猥語でそう呼ぶのでないかと思うが、舞鶴あたりでは「○マン○」などと呼び女性の円い穴のことである。
これは大地のマである。そしてそのマの真ん中に突き刺すように天橋立と呼ばれる棒が入っている。これは! (*^_^*)え゛゜っそういうことなの?、と思われるだろうが、そういうことなのである。まさにモザイクなしのポルノ写真を見るようなことである。バカみたいことを根掘り葉掘り書かなくとも現代人でもわかる人にはわかるハナシであろうが、現代人は実質無関心・無気力・無責任な主体性なき風次第のノー天気人間で、スコーンと肝心が抜けるアホなワンパターン思考的な所があって、アホの一つ覚えのように、昔は今と同じだったと考えて、わからないのが結構いる、そう言われてみればとはじめて気が付くのがほとんどでないかとも思われる。知性薄いヤバイ国である。
テレビ番組や観光案内やセンモンカガクシャセンセ、エエカゲンものばかり見たり聞いたりして知ったような気になって我が身知らず思い上がって歴史や民俗を見ていく時の謙虚さを失うと大事なことがサッパリわからなくなってしまう、それはいかれ思い上がった支配者どもの歴史に向き合う知的姿勢であるが、ワレラがバカどもを真似てはなるまい。一般には、情けない日本国ではそういわれているが、現地をよく見てみれば、この説明は何かおかしいぞと気付くことが大事かと思われる。気付けば気付くのであり、そのギモンを持ち続けることである。しかしエライ人達はそうしとは考えていないようだしな、などと自分がいだいたせっかくの疑問をそうしたことで打ち消すと、間違ってしまう。カゼが正しいとき何も限らない。

天橋立は一方の大方にはそのように理解された場所でもあったと思われる。「天地和合」などとよい言葉で呼ばれる、お坊さんだって知っている。天橋立にはこんな碑→が建っている。
皆が知っていることなのだ、大地同士・男女神が和合して一体になっている、和合と歓びの地の光景と見ている。和合とかだけではなく、大切な意味は、クニ生みクニ作りをされているのである。
人を生む、クニを生む、これ以上に大事なことが人間社会に存在するであろうか。
日本国中探し回ってもめったに見られまい大変な場所である。だからこそ当地だけに股のぞきの慣習が伝わる。
天と地、海と陸、自国と他国、男と女、この世とあの世、そうした異質なもの同士の接点であることを地形自体が表している。
丹後にはこうした地形が過去にはたくさんあった、今は当地だけ、若干久美浜湾、だけになってしまったが、この性格を意識的に役立ててはじめて丹後の栄光があった。
その大事なミソが隠されるだけでなく、忘れられてしまっているのでハラが立つのである。バカどものクソ案内のせいかも知れないが、気が付きもしないのがほとんどだろうが、仮に知ってはいても誰もこんなことは書いてはくれない、書けないのである、社会的な地位やメンツがあり、自分の名で公表することなどできるワケない、むつかしい世の中である。小さく言えば「案内」だが、そのバックには日本社会全体がある、明治以降の国家神道・皇国史観が100年以上も日本社会を支配していることにある、これで全日本人は脳死状態にあることにある。ワレラの脳味噌は何世代にもわたり国家神道に支配されたまま、そして今はさらにアメ帝に支配されている、きわめてアホな危険な脳味噌にされているのだが、その典型的なもっともイカレた例がどこかの学園理事長氏にみられるが、あそこまではいかなくとも大抵の日本人氏はだいたいはあの程度の頭でしかない、あるいは氏以下である、何とか学園は全額税金ではない、どこかの町の赤れんがとかの建設費などは学園の2倍である、中身はまったくのカラッポ、全額税金、イカレかたはさらにひどく深刻である、こうしたことに早く気付かないとまたまたま同じ過去を繰り返すことになってしまう。オレオレ詐欺に引っかかっていないか、その手先になっていないか、よく検討すべきかも知れない。ワタシが仕方ないので書いておくのでしっかり読んでくだされ。
これがわからないと「股のぞき」などの本当の意味も理解できたりはしない。さかさまに見たら風景が美しく見えるから、などは子供むけの説明なら致し方ないが、大人同士がまじめ顔でかわすとすればかなりのうすらボケのアホクサのアサハカ理解、というか間違った理解であるのがわかろう。それなら富士山を股のぞきするか、しない、そのほかの風景明媚に場所でも股のぞきするか、しない、ウソくさい説だとすぐ気付かれよう。だいたい「美しい」などは主観的なものだから、人によって美しく見えるかもしれないし、逆かも知れない話である。
天橋立でだけ股のぞきするのは、ここがその「ポルノ」の現場だからであろう。神々がこうしているのに、人であるものも真似ないわけにはいかない。真似る、というか本当はモテナス、オ・モ・テ・ナ・シするという性的な慣習の遺風であろうか。「股のぞき」は養老以前にまでさかのぼることまちがいなしの古来からの当地の神事であったと推定される。
ニホンザルのメスが赤い尻を向ければ、向けている対象のオスザルへのセックス・アピール、求愛行為である、しかしサルは足が短いので「股のぞき」のカッコウにはならない。人間の女なら、服を着たままでは「股のぞき」かも知れないが、服を着けていなければ強烈なセックス・アピールである。だから正式には「股のぞき」は服を脱いで、対象から少し離れた位置から行う女性のセックス・アピール行為であったと推定される。
イザナギが降りて来た梯子が倒れて天橋立になったと逸文風土記は語る、天皇への復命文章だからそれはそういう説明で仕方もなかろうが、それは天橋立がイザナギのマラだということを語っていることになる。イザナギというのか、このあたりは国生み・国作りの神は大国主命とされることが多いので、本当は大国主命のマラということであろう。黄泉国へ行った始祖神というなら山幸彦(彦火火出見)でもいいので、実際に同神は籠神社の養老以前の同社の主神と言われる。彦火火出見≒浦島太郎、大和政権への表向きには瓊々杵尊の子の彦火火出見となっているが、本当は地元の浦島太郎さんを祀る社であったと思われる。彦火火出見は日向国の神様で、この辺りでは合いそうにもない。若狭一宮の若狭彦神社も彦火火出見を祀り、若狭姫神社は豊玉姫だという。これも似たような事情か、丹後の浦島太郎と乙姫である。
籠神社の伝えでは、末社の蛭子神社に後には旧主祭神・彦火火出見を祀り、彦火火出見は別名を浦嶋太郎といい、蛭子社を元浦嶋大神宮とも云うのだそうである。
そうしたことで、だいたいは推定の通りだが、大国主命というか、与謝国主、あるいは丹後は単に国主と呼ぶようで、丹波国主彦と丹波国主姫の夫婦神。あるいはよく知られる名で言うなら、丹波道主命、あるいは浦島太郎さん。天橋立は丹後では一番エライ男神のマラなのである。彼は国作り国生みのマッ最中の様子で、ガンバッテはげんでおられる。この神を祀っているのが本来の籠神社と思われる。海部氏はこの神を祀る神官職であったのであろうが、祀る側がいつの間にか養老以後になれば祀られる側に移動したということであろう。
そんなものがマルミエ、この光景を目の当たりにしてすっかり興奮してしまった古代の女性が我が身わすれて思わず、あんなリッパな神様のあんなリッパなモノ、ワタシのマにも…とかの行為であった姿、あるいはもっと敬虔に巫女が神をモテナスという行為が誤解された、あるいは子供だましに言われたオハナシが「股のぞき」かと想像するのである。
今は社会モラルとかルールとか人間の男のあるいは権力の勝手なリクツでガンジガラメで、表面はで、裏は知らないが、そうした野生のような、本能のおもむくままの性的欲情、あるいは神に対してそうしてもてなすという風はもたれないだろうが、昔は性はもっと自由、ずっと神聖、何人も犯すことができないものてあり、今のように権力が取り締まって当然とかとする見方とはずいぶんと違っていて、そうしたことはあたりまえでなかったかもと思う。ナニを言われなければならないのか、アンタのものではないでしょ、ワタシの勝手でしょ。神に捧げるのは当たり前で、自分の娘や妻がそうしてもてなしていても、男は当然と心得ていてナニも文句はいわなかった。元々ワレラの祖先に「一夫一婦制」などはなく、母系社会の伝統強かったものかも知れない、男の力は弱い、今の社会のようなものか、特に私有財産というほどのものがなく、子が自分の実子でないと困るとかいって互いに拘束し合うということがなかったのかも知れない。
オ・モ・テ・ナ・シの深い所はこの太古の宗教観念に発していて、よそ者は神様で、お客様は神様は日本人的な考えだが、客人は神様の使いと見る民族は今も多いという。よそ者は見れば冷たい目で官憲以上に不審者注意と警戒していて、外国人排除、外国人(自国より程度が悪いと勝手に思い込んでいる外国だけだが)は出て行け、沖縄人は土人だ、壁を作るなどと叫んでいるアホ権力とそれにベタベタにへつらう現代人どもに限ってオモテナシなどと言うが、それはとってつけた口先だけの付け刃であろう。昔の狭い封鎖的な社会へ違う遺伝子を持ち込むという意味があったかも知れない、もし子が出来れば、それは「神の子」、娘なら処女受胎とされ、実子以上に大切に育てたといわれている。クソ権力側からみれば自分の指示なしに勝手なことをされるのは最も忌避されることであり、権力が強くなればそうしたことはできなくなってきて、今の世ように何かそれが当たり前みたいに思われるかも知れないが、それは後の世の権力側の「倫理感」を「行政指導」され続けてきたものであろう。近代の個の目覚めとともにこの、個の生き方と「権力社会」(権力・金力・武力社会だが)のズレ問題が意識されるようになる。
「股のぞきすると風景が逆さまにまって美しく見える」は子供だまし、あるいはあからさまに言うのがはばかられた、ということであり、見落としてはならない大事な真実は語られてはいない。
あれは今でははるか太古になってしまった共同体的人間社会のオ・モ・テ・ナ・シの性的遺風。ずいぶんと古い権力発生前の慣習が「股のぞき」であるのかも知れない。
昭和13年、府警の特高により、「股のぞき」をしている和服姿のみやげ用人形を禁止されたという、みだらだからという。こうしたみやげ人形はワタシは子供の頃に見たことはある、今もあるのだろうか。
おおかたの今のカシコイ人達より特高の方がだいぶにリコウだとわかる、さすが権力のハシクレだけあってチャント「股のぞき」の本質は見逃さない、カレラから見れば天橋立は畏くも天皇陛下様のマラであり、今でも皇国史観に立てばそうしたことになるが、それにむかってナニだあの「股のぞき」は、と考える。自由奔放で権力の意向などは意に介しないのが権力は一番困るのであるが、いかに現代人のおおかたが骨のズイまで脳死状態に陥っているかがわかる。特高より思考力が劣り、ひどい権力べたべたぶり、お上(権力や権威。別にそんなにリッパな者でなくとも上役とかその程度のものでもいい)が言うことは間違いないと信じ切っている、元々おおかたの日本人にはそうしたところがあるが、今はさらに有史以来の最低レベルのバカさであろう、こうしてすっかり忘れてしまった本当の歴史はまだまだ一杯あるのだろう、ワレこそは科学の子だ、智恵の固まりだなどと思い上がっていないで、このことに早く気が付かないと日本に未来はなかろう。
股のぞきなどは別にどうでもいいが、何事であれ、上が言うことに対する批判心を失うと大変なことになってしまう。それをカレラはジッとまっている。今のあわれな知的状況はカレラ権力には大きなチャンスである。
天橋立の付け根に鎮座する丹後一宮・籠神社は龍宮城(常世国・黄泉国)への通用門とされ、冠島・沓島はその奥宮とされる。ワタシが子供の頃は大鳥居(一の鳥居)の下は池になっていて、そこに一杯亀がいた。ナニであれだけもいるのか、不思議に思い尋ねたが誰も答える者はなかった、この年にもなってようやくあれは竜宮城の亀だと理解できるようになった、常世の国からの使いなのだ、この亀に乗れば竜宮城に行けるのだろう。
倭宿禰像←境内にはこんな像もある。亀に乗ってるので浦島太郎さんかと思えば、倭宿禰命だそう。海部氏の祖でもあるという。
塩土老や椎根津彦や珍彦とかも同じだろうが、倭宿禰と正体は大物主神ですと言っているようなことで、大国主命(素戔嗚神)の又の名だろうと思われる。
海人たちは亀に乗る神は国生・国作の始祖神で、常世と行き来できる神と見ていたと思わされる。名は各地の海人によっていろいろいろいろあって、その名やバリエーションにまどわされるとわからなくなるが、要するに丹後海人も己が始祖神をこのような姿と考えていたようで、名がはっきりしない、消されたのかも知れない、島子かも知れない、天橋立はこの神のマラであろう。というか天橋立をこのような神として祀っていた社であったと思われる。
ついでながら、倭宿禰は丹後降臨の神で、丹後から大和に入り、(記紀が記録する以前の、神武以前の)大和建国に当たったと丹後では、海部氏では、言われている。大和では大物主神と呼ばれ、三輪山の神になっている。もしかしたら三輪山は亀の甲羅の形なのかも知れない。
夫婦神でヨメさんは天照大神であるので、外宮ばかりでなく、伊勢内宮も元々は丹後だという主張は一理も二理もありそうだといったことになってくる。元々の阿蘇海与謝海のマの天照神は今は恵美須神社として本殿の東側に祀られているものだろうか、本殿に彦火火出見(山幸彦)、その東に恵美須とされるヒルコ・太陽神ということて、このセットで夫婦神、国生・国作された。
(奥宮の真名井神社とセットかも、あるいは境内末社として天照大神和魂社と猿田彦社もある、このセットも同じで当社の本来の祭神(マラとマの持主神として、自然そのものとしては阿蘇海、与謝海、天橋立が祀られているのだが、それらを擬人化して)を二重に、あるいは三重に丁重に祀っているものかと思われる。春日社は藤原系の神祇官の顔を立てたもので、ナニも当地には関係がなかろうが、逆に本来の祭神はおとしめられた名にされているように思われる)
綾部市の天一高倉神社も、一番奥にイザナギ・イザナミの大地主神社、そこへの参道に天照皇大神宮と八坂神社が祀られている。
天照と須佐之男は姉弟ともいうがここでは夫婦神のようである。大国主神社であろうが、そうすると出雲の神様と間違われるかもと、こうした名になっているものか。吉見の国を生まれた神様であろうか、本当の名がわからなくなって、記紀などからこうした神としたものか。

冠島は「常世嶋」と呼ぶし、天橋立は「常代の浜」と呼んだ、常世の浪の重浪帰するところ、いまふうに言えば、この界隈はあの世とこの世の境目に位置する、常世の波と風が吹いている、母なる常世に、今ふうに言えば天国に一番近い界隈である、亀に乗ればすぐに行ける、向こうへ行けば死、向こうから来れば生、であった。ワレラは向こうからやってきた、玉手箱を手に持って、いやいや玉手箱はすでに開いた状態であった、ともかくもこの世にやってきた。常世とは違いこの世の時の流れはムチャ速い、あっという間にシワクチャになって死を迎える、また向こうへ帰る者である。この世ではムシケラ同様のはかない一瞬のイノチしか保てない。
それがナニかワシほどエライ者はいないなどとパカ下駄思い込みを無制限に勝手に持つととんでもないことになる。どこかの市長さんから大統領親分さんまでその他この手の暴走迷走人は腐るほどもいて、世に害をなしている。
国作りをしようという政治家さんたちはぜひとも当社に詣でてよ〜くよ〜くご加護を願うとよろしいかも…
網野の浜も常世の浜と呼ぶし、、伊根の本庄浜には常世橋があり、橋立あたりは常代の浜、舞鶴では大浦半島の外海に面した三浜・小橋の浜を龍宮浜と呼んでいて、丹後は常世に近い所と見られていたのであろう。

阿蘇海・与謝海だけでなく、この海をマと呼んだのでないかと、そうであるはずと地名を探すのだが、あるとしたら小松。小マ津でなかろうか、阿蘇海は小マとも呼ばれていたかも知れない。
真名井のマも古くはこうした意味があったのかも知れない。真名井神社の磐座(子種石・鶺鴒石)の姿はマそのものである。真名井浦はまたフケイ浦と呼ばれるが、阿蘇海の重要な一部分が吹飯の浦と呼ばれていた。元々の真名井はここの円い湾内すべてを呼ぶ名であったのかも知れない。
こうしたマは単に「和合」するだけの、ああイヤラシー、ようそんなこと言うなぁの場所だけではなく、イノチやタカラをこの世に産み出す超大切な場所でもあり、農業生産や金属生産とも深い関係が生まれてくる。真名井はまたウケイとも呼ばれ、当地のマは豊受大神のマ、故地であるのかも知れない。豊受大神も国作りの神であり、国生みされているのだろう。





阿蘇海の主な歴史資料


『宮津市史』
天橋立と阿蘇海
地形的特徴
日本三景の一つ、若狭湾国定公園の中心として天橋立は本市を代表する地形景観である。天橋立は延長約三・六キロメートル、幅二○〜一五○メートルの細長い砂州で、クロマツにおおわれたグリーンベルトをなす。江尻から文珠へ延び、その内側には宮津湾から切り離された波静かな阿蘇海を擁する(写真3)。このような砂州と海跡湖の組み合わせは、久美浜湾をはじめ青森県の十三湖、秋田県の八郎潟(干拓により消滅)、鳥取県の湖山池、中海など日本海沿岸に多く分布する。これは水深が浅く比較的緩い傾斜の海底地形が広く分布すること、冬期の北西風がつよいため海岸の土砂が季節風により岸に打ち上げられ浜堤や砂州、砂丘を形成しやすいためである。約一○○年前(一八九三年)製作の図Bによると、北砂州は延長約二・四キロメートルと現在とほぼ同じであるが、南砂州は一・五キロメートルもあり、現在の○・八三キロメートルより約一・八倍も長く杉末付近まで延びていた。また、大天橋の水路も二倍程広く、現在のような海岸浸食は生じておらず、防潮堤も存在しない。構成物をみると、江尻付近では径五〜二○センチ、南砂州でも径五〜一○センチ程度の礫を主体としており、礫州とよぶべきであろう。礫は丹後半島を構成している砂岩、安山岩、花崗岩の円礫からなり、世屋川や畑川などの砂礫が強い沿岸流によって南へ運ばれ堆積したものである。
 砂州の幅が約一五○メートルに広がった部分に日本名水百選の一つ、磯清水が位置する。両側を海水にはさまれながら真水が湧き出しているのはまさに不思議である。ここでは地表下一メートル以下に塩分濃度が○・○三〜○・一二パーミルの淡水地下水層が存在し、クロマツも成育できる。これは海水と真水との比重差によって宙水帯が形成されているためで、水源は自然降水に依存している。砂州は宮津湾の水深約二○メートル付近、阿蘇海の水深約一二メートル付近から約六パーセントの急勾配をもって立ち上がっている。
 つぎに面積四・九キロメートルの阿蘇海の湖底音波調査をおこなった。その結果えられた音波探査記録は史料編第五巻に収録されている。これによると、本湖は水深八〜一二メートルの平坦な湖底面が広く分布し、西から東へ緩く傾いている。最深点は砂州の西側で水深一三・○メートルに達し、久美浜湾の最深点二○・六メートルとともに海跡湖としてはきわめて深度が大きい。また、磯清水の西側や国分沖には水深二〜四メートルにかっての砂州やデルタが水没したと思われる湖底段丘が分布している。

形成史と現状
天橋立は次のような過程をへて形成されたと考えられる。(1)約一・五万年前以後の気候温暖化により、海面は一○○年に一メートルという猛烈なスピードで上昇してきた。(2)約八千年前には現海面よりマイナス二○メートルで現在の天橋立と同じ位置に達した。このため、北から南へ水中の砂州が形成され始めた。(3B現在の砂州は約六千年前の最高水準後の低下期である約五千年前頃陸上にあらわれたであろう。当時の砂川は文珠との間に広い水路(古切戸)を隔ており、今より短かいものであった。(4)南砂州の形成は江戸後期以降である。これは砂の供給源である丹後半島部で森林伐採や火入れが活発になり、海へ流入する土砂量が増加したことが大きな要因と考えられる。また、この部分はしばしば浚渫され、阿蘇海とを結ぶ航路として利用されてきた。なお、昭和四十年頃から、砂川は海岸侵食が進んでやせ細るようになってきた。これは砂の供給源である世屋川や畑川などで砂防堰堤の建設が進み、砂礫の供給が減少したことが原因である。このため、宮津湾側に多数の防潮堤が建設され、空からの景観は一変した。それでも、侵食が止まらないため海底砂を浚渫し、それを日置沖に投下するサンドユーターン作業が実施されている。


『岩滝町誌』
若狭湾内の西部、栗田半島と丹後半島にはさまれた宮津湾を天の橋立の砂嘴が与謝の海と阿蘇海に分けている。
天の橋立の西にある内海、阿蘇の海の名は「遊びの海」から転化したものだと貝原益軒はいっている。
それはさておき、文珠の沿岸を夕日浦、府中の内海に画した海岸を吹井の浦というがその名が詩的であるばかりでなく、常に波穏で成相山(宮津)大内峠)から眺める天の橋立の景色は勿論、海上に船を浮べて見る近景遠景は絶佳。古来文人画家のこの地に来遊するもの多く、数え切れぬ作品を残している。「阿蘇の海」と「遊びの海」の結びつけは或は無理があるかも知れないが、阿蘇の海は春霞秋月、風光の清絶なること「遊びの海」とは言い得て妙。
 阿蘇の海は周囲一四キロメートル、水深最も深いところで約一三、七メートル。海底は大体泥土である。
南北僅かにあった砂地の部分も現在では、埋立てと護岸のため砂浜らしいところを見ることができない。岩滝町にかける沿岸線約三キロメートル。沿岸に男山区、岩滝区がある。
 数年前までは黒鯛、金太郎鰯、ボラ、サヨリ、鰺、キス、アサリが多く、漁業資源も豊富であった。尚、近年真珠貝の養殖が試みられたが最近沿岸に大工場が建ったこと、外海との水の交流状況の悪化等の事情により漁穫高は、年々減少の傾向ににある。
(中、竹野、熊野郡)の関門で、これらの地方から宮津、舞鶴、京阪地方に旅行する人は皆当町へ出てきた。そして、岩滝から船に乗り、宮津、舞鶴に渡り、そこから陸上の交通機関を利用したものだが、昭和七年八月十日に鉄道宮津線の全線開通、殊に最近自動車が発達して海上交通に頼った昔年の交通上の中心地としての王座を失った。
しかし、丹後海陸交通株式会社の定期客船も宮津、天の橋立、岩滝間を往復し、日本冶金工業株式会社の鉱石運搬も主としてこの海に頼っているので海上交通に貢献するところ大なるものがある。
文珠と府中の間を天の橋立に併行して、純白の遊覧船が往復する。エンジンの音高らかに、飛沫をあげ、物凄い快速で疾走するモーターボート。遊覧水上飛行機の発着等々。成相山を始め天の橋立附近の整備とともに阿蘇海の利用は急速に進んできた。しかし、天の橋立を中心とした一部分であって岩滝近海にまで及んでいない。観光資源としての阿蘇海の全面的開発は今後にまつものが多い。
岩滝町の西南端野田川河口から宮津市須津地区の海岸は近年埋立工事が進められている。
将来、宅地の造成、工場の建設が予想される。

阿蘇の海では、ここでとれた「金樽イワシ」が有名。

天橋立途中にこんな案内板がある↑
金樽いわしの話
この天橋立の内海でかつて大量に獲れた「金樽いわし」は、別名「金太郎いわし」とも呼ばれ、その歴史も非常に青く、一千年以上も昔から丹後の名産として名高いという。したがってこの鰯にちなお伝承も多く、古くは平安時代の中項、丹後の国司藤原保昌が金の樽に酒を入れ内海で酒盛をしていたところ樽が海に落ち、それを漁師が網ですくおうとしたが樽は見つからず、かわりに金色に輝く鰯が大量に獲れたという。同様の伝承で、酒盛りをしていたのは、時に源平会戦のころの平忠房であるとか、江戸時代後期の宮津藩主の本庄氏であるとも伝えられている。
とにかくこの金樽いわしは美味であったといい、評論家として名高い小林秀雄氏も宮津来遊の折り、宿の朝食た出された金樽いわしのオイルサーディンおいしさに、「ひょっとすると、これは世界一のサーディンではあるまいか」(『考えるヒント』)と、感動したというエピソードもある。
名月や 飛あがる魚も 金太郎  蝶夢
宮津市教育委員会


『岩滝町誌』は、
金太郎鰯
阿蘇の海でとれる鰯を「金太郎鰯」という。その由来についてはいろいろの説がある。
その一
藤原保昌が丹後の国司であった時、内海を渡った。その時黄金のはいった樽を海中に落した。保昌、府中溝尻の漁夫に命じて、網を作ってこれをさがさせたが樽は見つからず、そのかわりにたくさんの鰯がとれた。それからこの内海でとれる鰯を「金樽鰯」というようになった。
その二
平重盛の五男、侍従忠房が、或の日、黄金で造った樽に酒をつめて阿蘇の海に舟を浮べ、天の橋立の佳景を眺めながら酒宴を催した。ひよっとしたはずみで舟が揺れ、黄金の樽が海にころげおちた。府中・溝尻の漁師に命じて海中を探させたが、網には、樽のかわりにたくさんの鰯がはいっていた。それか
ら内海でとれる鰯を「金樽鰯」というようになった。
前記二つの「金樽鰯」が「金太郎鰯」に転化した。

今も多少は獲れることがあるよう、これだけの広さの海だから、漁獲が少ない上に、有名な超高級魚として超高価で取引され外の料亭などへ出てしまい、めったなことでは地元でも口には入らない、伝説の金のイワシである。






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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