コラム(1)




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サシスセソの大昔
大江季雄選手と友情のメタル
松沢初穂選手


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サシスセソの大昔

日本語のサシスセソは、大昔から今のように発音したのか。こんな事が私には気になっていた。
ローマ字(ヘボン式)で綴ると、sa-shi-su-se-so となる。siではなくshiである。小学校の一・二年生でも、これがわかる子がいるそうで、サシスセソと教えていくと、妻の話によれば、「先生、シがヘンや」と言うそうである。
 私はシがヘンなのではなくて、シはまあ正しくて、シ以外がみんなヘンなのではないかと考えている。
 左官をサカンとかシャカンという。鮭はサケとかシャケという。
与謝郡は現在もこう書くが、雄略紀などには余社郡(丹波国余社郡管川人水江浦嶋子)と書かれる。ヨサではなく、ヨシャではないか。
加佐郡はこんな例はないが、亀岡市の南に加舎という地名がある、康治二年(1143)の文書に賀舎とある。今はカサと呼んでいるが、カシャではないか。
熊野郡久美浜町の須田、式内社の衆良神社がある。シュウラ→スダだろう。
中郡大宮町周枳(主基)は漢字はシュキ、シュウキだが、スキと呼んでいる。
国道9号線と27号線の出会う京都府船井郡丹波町須知、スチではなくシュウチと呼んでいる。(和名抄の船井郡須知郷。式内社の酒治志神社は京都府船井郡瑞穂町三ノ宮に鎮座している)
こんな例は、古い地名など取り上げていると、よく出会うのである。
 大野晋氏が、確か、サシスセソは元はシャシィシュシェショでなかったかと、書いておられたのを記憶はしているのだが、今ちょっとその文献が見あたらない。最近の書であった。大野氏ほどの大学者をもってしても、まだ「か」なのかと、感想をもったのを覚えている。日本語というのは、現代人が単純に信じているほどには、まだわかってはいない、意外と知られない過去を持つ言語のようである。亀岡市本梅町西加舎の加舎神社
 たぶんサシスセソの大昔は、shya-shyi-shyu-shye-shyoではなかったか。
シはshiではなく、本当はshyiで、現在はすでにy(子音のイ・私のロシア語の大先生は短いイと呼ばれた)が脱落している、あと何百年かすれば、hも落ちてsiとなるであろう。その頃の小学生はもう先生を困らせないだろう。

亀岡市の加舎であるが、どこかでカサとルビがふってある書を見たのだが、改めて調べてみるとこれはカヤと書いてある書ばかりである。どうもおかしいと思って現地で聞いてきたのだが、カヤと読むという。舎という漢字はヤとは読めないが、屋と同じ意味で使われてヤと読まれるのだろうか。コラムの先頭へ古くは賀舎荘と書かれる。



 大江季雄選手と友情のメタル

大江季雄選手銅像(西舞鶴高校)「前畑がんばれ、前畑がんばれ、前畑がんばれ、前畑がんばれ、前畑がんばれ、前畑がんばれ、前畑がんばれ」。
「前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った、前畑勝った」
と何度書いたらいいのかわからないが、その叫びのラジオ放送でよく知られている、1936年(昭和11)の第11回ベルリン・オリンピック。

 棒高跳びの大江季雄すえおすえおすえお選手(1914−1941)は舞鶴白糸浜の出身である。七条大門の開業医の次男として生まれている。(左画像。彼の母校である西舞鶴高校、昔の舞鶴中学校、彼はここの六期生)。
白糸浜神社の氏子であり、小学校はすぐ近くの新舞鶴小学校であった。オリンピック後故郷へ凱旋し、母校で後輩達に実技をして見せ、オリンピックで使った棒(ポールと呼ぶのだそうだが)は神社へ奉納したそうである。(現在はこの神社にはなく、市政記念館の一画に展示されている)。
 愚妻はこの高校の出で、しかも陸上部にいたそうであるが、大先輩の彼の事を問うても「ぜんぜん知らんデ。聴いたこともないデ」とのことであった。なんとデキの悪い不勉強な後輩であろうか。オリンピック表彰式

 実際に彼は長らく故郷舞鶴のその母校においてすら忘れられていたのである。ちなみに私は小学校の先生に教えてもらった記憶がある。福知山の人であったが、「友情のメダル」の話を聞いた覚えがある。それくらいで他に話題になっているのを聴いたことはない。
戦没スポーツ人として、各地の戦争展などでよく彼が取り上げられ、よそで話題になるようになった後に、ようやくこんな銅像なども造られるようになった。友情のメダル(複製)こんなところが舞鶴である。いかにも田舎である。


 オリンピックは延々と5時間にもわたった試合であった、公式記録では彼は三位であったが、二位の西田修平選手と同記録であり、審判ミスのようであり、正式にはどちらも二位が正しかったようである。表彰式では西田は大江を二位の台にそっと押しやったという。
そんなことで帰国後、各々がもらったメダルを各々二分し片方づつを繋ぎ合わせた「友情のメダル」をつくったのである。左画像は市政記念館に展示されているもの、本物よりもかなり大きい複製であるが、それを写したものである。銀と銅を繋ぎ合わせている。
その後彼の樹立した4m35という日本記録は21年間破られることがなかったそうである。

昭和14年福知山20聯隊に入隊し、昭和16年にルソン島の敵前上陸作戦中に戦死している。以下は『福知山聯隊史』(昭和50)の記述による(写真も)、

…突如として出動命令が降り、夏服が、寒さに向かう直前に支給されるや「サァ南方だ」と一様に緊張しつつ態勢を整えた。
 十一月二十三日の未明、朝霧深き丹波路をあとに、列車は窓を悉く天幕で覆い、秘かに福知山駅をあとに一路大阪駅に向かい、翌二十四日、全く企図を秘匿した三隻の輸送船が大阪港を出汎、四国の郡中沖にて、上陸作戦の訓練をしつつ、南に向かった。…
 船が着いた所は、九洲の南端奄美大島であった。第十六師団の全部が到着するまで、朝早くから夜半まで繰り返し上陸訓練を反復するうちに、安易な守備隊説から緊迫した大激戦を想起し、一種異様な空気に包まれた。
 十二月七日未明、師団は堂々二十四隻からの大船団で奄美大島をあとに、南を指して太平洋の真ん中を時速十二ノットで波をけった。十二月八日、遂に大東亜戦争に突入したのだ。 中部ルソン島ラモン湾に敵前上陸予定の師団輸送船団は、途中米軍の妨害を受けることなく、十二月二十四日の深夜一時三〇分、視界不良のため計画より、約一粁近い陸岸に上陸を開始した。
 フィリピンのマニラの真東にラモン湾という大きな入江がある。ここへ16師団は敵前上陸する。敵というのはここを植民地支配していた米軍である。16師団は主に京都の部隊である(師団司令部は京都市伏見区深草・現在の聖母学院本館。師団街道と呼ばれる道路が今も残る) 。16師団はここにあった伏見9聯隊と福知山20聯隊、それに津の33聯隊から成っていた。 
 大江のいた福知山20聯隊第2大隊は、「廣」部隊と呼ばれて、主力の右翼から上陸しようとしていた。兵団主力は比島アチモナンに上陸を敢行す、とある
(一)廣部隊
 恒廣成良中佐の指揮する歩兵第二十聯隊第二大隊、野砲第二十二聯隊の一コ中隊を配属

 廣部隊は午前一時三〇分、マウンバン附近、…廣部隊は上陸後まもなく熾烈な火力による、米比軍の抵抗をうけた。
 大江少尉(舞鶴出身)はこの時無念の銃弾を胸に受けた。曾ってのベルリンオリンピック棒高跳で、西田修平選手と二、三位を分け合い、マニラ、一番乗りを果したら、このスパイクでもう一度跳ぶのだと語ったこともはかなく、たまたま、手当にかけつけた、第四野戦病院付軍医が実兄であったのが、せめての幸せと笑を洩らして鮮血に来れ、数名の戦死者と共に、公報第一号の犠牲者となる。
 少尉だったのなら、小隊長だっただろうか。胸と書かれているが、胸だけなら助かる可能性が高い、本当は腹部を銃弾が貫通した、これが致命傷であった、これはいかに名医とて助けようもない、大変に苦しいそうである。
軍医をしておられた実兄が沖に待機した病院船におられて、彼はそこへ運ばれたそうであるが、もう打つ手はなかった。
誰に教えてもらったのか忘れてしまったが、東史郎氏だったかも知れない。胸は東條なんかも自殺とか装って自分で撃ってます、胸は大丈夫です、彼はそんな事くらいはよく知ってます、助かるんです。偽装の自殺ですよ、あれは、卑怯な男です。しかし、腹はあきまへんな。苦しんで苦しんで何時間ほどでしょうかな、死にます。ということであった。

大江季雄選手彼の母校である新舞鶴小学校(舞鶴市浜)は平成14年に、創立百周年を迎えて記念誌を発行した、その中にいくらか触れられた箇所がある、引用してみよう(写真も)。

    本校出身のオリンピック選手

…昭和十一年八月一日、ベルリンで開催された 第十一回ベルリンオリンピックは、世紀の祭典と言われ、ヒトラーの開会宣言で幕を開けた。ナチズムの宣伝色濃厚な大会と評されたが、演出は抜群で聖火リレーもこの大会から始まった。
 このベルリン大会には、本校を昭和二年に卒業された大江季雄氏が棒高跳びに出場された。
 また、この大会は日本選手の活躍がめざましく話題の多い大会となった。

     中島褐己さんのお話

 私の出身地京都府舞鶴市は、有名人の少ない土地ですが、ベルリンオリンピックの棒高跳びで、西田選手と二位三位をわけあって「友情のメダル」として世間の評判になった大江選手などは、自慢の一人です。当時の新聞は、銀と銅の半分ずつつながれたメダルの写真と敢えて、二位三位の決着をつけず、銀・銅のメダルをわけあったことを佳話として報道しています。

 大江選手は、その後比島ラモン湾で上陸作戦中、戦死されましたが、オリンピック直後母校の運動会に招かれて、鮮やかな妙技を披露されたのを記憶しています。
 さて、私の母親が、母校新舞鶴小学校の教師をしていたとき、大江選手の五、六年の時の担任でした。母親は大変肥っておりましたから、体育(当時は体操)の授業が大変苦手でした。自ら語るところによれば、「大江君が、私の代わりに皆の先頭になって体操をやってくれた。皆も大江君の言うことを聞いてよくやった。おかげで隣の組と競争しても、いつもこっちの勝ちだった。」と言うことでした。また、陸上競技の大好きだった大江君が、たった一人で夕方暗くなるまで練習に励んでいる時、いつもその傍らで私の母親が応援したそうです。
大江選手の模範演技

      由井浜重雄さんのお話

 大江選手の生まれは七条通り大門北、父上は医師であったと聞いています。
 大江選手は、ベルリンオリンピックから帰国後、浮島グランド(現市民病院)において、超満員の町民の視線を一身に集めて、竹のボールをややしならせて、四メートル二十センチを二回試技されたのを記憶しています。
 その後、当時使用したボールは、白糸浜神社に奉納されていましたが、現在は、市政記念館に保存されています。


 戦前グループの座談会

……
荻野
 大江選手が浮島の公園で棒高跳びを披露された話が出ましたが、大江選手は新舞鶴校出身のスポーツ選手として、この学校の誇りとも言うべき人だった。
あの方は戦死されたんですが、お父さんは校医で私達は大江選手のお父さんにいつも診てもらった。ところが東京の方に移られることになりまして、新舞鶴校に大江選手の写真、それから中国へ遠征されたときに中国の方からもらわれた何ていうのか、立体的に彫ってある中国の美しい風景額を寄贈されました。
 大江選手の最後の息を引き取る前の様子は、あまり一般に知られていないので、私のうろ覚えの中で申し上げたいと思います。
 大江選手はあの時、中尉だったでしょうか、フィリピンのどこの島ですか上陸作戦で一小隊を率いて船に乗っていかれましたが、集中攻撃を受け大江選手が船の中から敵の様子を見ようと上体をおこされた時、弾が飛んできて負傷なさいました。
 この戦いで同じ船に乗っている部下も相当数やられたために、本艦へ引き返し、本艦に声が届く範囲まで帰ってきた時に、大江選手は、「おおい、重傷で至急手当てをしなければならない者がおるから、用意をしてくれ。」と大きな声で怒鳴るわけです。そして、その重傷の兵士を上げまして、すぐ手当てをしてもらうように手配をしたわけです。ただ、大江選手自身も重傷でした。自分のことは何も言わずに部下のことを案じて手配したのです。
 偶然ですが、その船には兄さんが軍医として乗っておられ、最後に大江選手は、兄さんに看取られて息をひきとられました。このように最後まで人に対して優しい人でした。棒高跳びで友情のメダルの話が残され、そのことも立派なことですが、最後も一番立派であったと思います。
 私ども近所だったんですよ。今、卑弥呼がある所です。私が舞中に入った時、大江選手が「お前走るのが速いから」言うて、陸上競技に入れと言ってくださって、陸上競技に入れてもらったのです。夏休み中の練習の後、田舎饅頭をポケットから出して、食べさせていただいたことがありました。中学校の定期試験が終わるとすぐ校庭に出て、練習してから帰る人でした。
 それから、七条の家から新舞鶴駅までの間も、足の訓練やといって、かかとをつけずに歩かれたり、貨物列車に乗ったときは、懸垂をしたりして本当にスポーツ好きで打ち込んでおられました。……

大門七条を少し北へ入った「卑弥呼」のあたり

大江には姉さんもあったそうで、美人で皆のあこがれの的であったという。文中の「卑弥呼」というのは、現在は七条大門をすこし北へ入った所にある魚料理店の名であるが、かつてはここに大江病院があった(写真)。
『リンデンの梢ゆれて』(平3・結踏一朗)は次のように大江季雄の最後を記している。
 輸送船団は途中、敵機や潜水艦に発見されることもなく、十二月二十四日未明、予定通りルソン島ラモン湾口に近付いて行った。
 敵はいるのか、いないのか。海面も、海岸線の椰子の樹林も静まり返っている。精鋭の誉れ高い歩兵第二十連隊は第一大隊が湾南部のシャインに、第二大隊が北部のマウバンに、師団主力に先んじて上陸を敢行する。第二大隊の先鋒となる大江小隊は先兵中の先兵群だ。
 将兵はすでに輸送船から上陸用舟艇に移乗を終えた。午前二時、舟艇群は一斉に上陸地点目指して行動を起こした。船首に波が砕ける時、無数の夜光虫が明滅するのが、あたりの静寂とともに不気味であった。小隊長の大江は抜刀し、真っ暗な椰子林を凝視しながら舳先に仁王立ちになっていた。
 突然、重機関銃の響きが暗闇をつんざいた。大江の目の前を黄燈色の帯が走った。やはり敵は潜んでいた。目指す上陸地点には強力なディフェンスが敷かれているようだ。事実、海岸線には二重、三重に鉄条網が張りめぐらされ、米比軍は強固な陣地を構築していた。
 大江小隊の精兵たちは弾雨をものともせず、波打ち際に向かった。舟艇は海岸線まであと二百メートルに迫った。と、「ガサッ」にぶい音、突き上げるような衝撃とともに舟艇は浅瀬に乗り上げた。敵は狙い撃ちをかけてくる。銃弾は容赦なく降り注いだ。大江は舟艇を飛び降り,軍刀をかざして浅瀬を進んだ。
 五、六歩進んだ時、大江は右脇腹に激痛を覚えた。一弾が自分の肉体を貫いたことがわかった。それでも大江は漆黒の海に鮮血を流しながら前進した。勇敢な小隊長の突撃は部下の士気を奮い立たせ、彼らも遅れじ、と続いた。銃弾は雨、あられ。大江は首にも、胸にも、もう一つ腹部にも被弾し、部下の多くもバタバタと浅瀬に倒れた。
 輸送船に引き上げられた大江の顔はすでに土色であった。船内の仮治療室に横たえられると、すぐ兄の大江泰臣軍医中尉が呼ばれた。上官の軍医に「開腹手術をしてはどうか」と勧められたが、もはや手術が何の意味も持たないことははっきりしていた。黙ったまま、かぶりを振った兄は弟をしっかりと膝に抱えた。「エボタン」の愛称のよってきたるところの特徴のあるエクボが、意識がなくなっても右の頬にくっきり浮き出ていた。止め金のはずれた背嚢から血染めのスパイクシューズがのぞいていた。
 二十七年間をのびやかに生きた一代のボウルター・大江季雄は南海の朝まだき、兄の腕から静かに親友・鈴木聞多のいる国へ旅立っていった。時に「昭和十六年十二月二十四日午前三時」と京都府竹野郡弥栄町の等楽寺にある大江の墓碑に刻まれている。.
等楽寺(弥栄町)
何かの縁でもあるのかと不思議に思うほどに、私は不思議なところで、かれの記録によく出会う。さきの「卑弥呼」にしてもかつて誰かに教えられた記憶がある。別に何も縁などはないのだが、何か関係があるのではと考えてみると、彼は私の父と同年配くらいになる、厳密に言えば彼は一つ年下である。彼はこのように悲劇のエリートであるが、私の父はただのプアマンであった。
与保呂川の川上に私の父が、与保呂は極東オリンピック円盤投げ銀メダルの久内武という選手がいた村であった、彼は舞鶴に帰省するたびに大江の上半身を鍛えたといわれる、そうした村であるが、そこに私の父もいた。久内氏は常のニ谷氏の次男だそうだが、私の父もニ谷である、俳優のニ谷英明氏も同じ一族である。当地にもニ谷はあまりない姓である、あるいは遠い親戚になるのかも知れない。そして川下には大江がいた。
彼がベルリンにいた時には、父は丹波の肉屋でデッチ奉公をしていた。おかげて16師団に採られずに、彼のように死なずにはすんだ。もし舞鶴にいたなら命がいくつあっても無事ではなかっただろう。
父は大江がアメリカのアジア支配の拠点・フィリピンのラモン湾に上陸する前、12月8日の早朝、ものすごい季節風が吹き荒れる直前に広島師団とクラ地峡に上陸していた、真珠湾と同じ朝であった。ここへは西田修平工兵軍曹も上陸したそうである。彼はジョホール水道を渡る歩兵隊の橋梁を支える人柱となって二昼夜を過ごした後にコレヒドールへ転戦した。父たちは一気にマレー半島を南下して、イギリスのアジア支配の拠点・シンガポールを落とすべくばく進していた。
この戦さのあと父の部隊はガダルカナルへ送られた。私の父はガダルカナル途中の船内でマナリアに罹り、幸いにもフィリピンに降ろされた。そこはミンダナオ島ダバオとよく話していた。野戦病院とは名だけで実は何もなかった、死を待つだけの場所であった。食い物すらなかったそうであるが何故かタバコだけはあったそうで、父は夜な夜な「病院」を抜け出して付近のフィリピン人部落へ行き、食物とタバコを交換した、タバコとフィリピン人が命の恩人であった。その後フィリピンが自然災害などで義援金などを募集するたびにいくらかを持って父は郵便局へ足を運んでいた。命の恩人やでな、と。久内武氏の寄贈品(与保呂小学校藏)
 赤紙が来ること、戦争とは、かくのごとくに死を意味した、戦場に赴けば生きて帰れる可能性はない。死ぬまでこき使われて終わり。どちらを向いても死、どう運がよくても死が待っていた。しかも誠に無駄な何のためにも、誰のためにもならない不理屈不条理なアホくさ過ぎる惨めすぎる死であった。60年もしないうちに母国、母校に於いてすら完全に忘れ去られるだけのまったくの無駄な死。彼などは超有名人だからまだ銅像など遅ればせながら作ってもらえたが、卒業生に戦死者のいない学校などは一つもないと思われるが、かれらはその後輩にも完全に忘れ去られている。誰も彼らの死を後世に語り伝える者がない。校史も語らない。ただただ忘れられるためだけに死んでいった。
そんな彼らがどんな死に方をしたか、どんなに悲惨な無意味なものであったか、それは遺族の方々の気持ちを思えば語ることができませんよ。−と体験者はよく言った。

 こんな死が好きな者どもだけで戦争を勝手にすればよろしかろうが、彼らは決して戦争には行かない、行っても絶対に安全な所だけで、しかもすぐ帰ってくる。ブさんやコさんやイラク派兵に大賛成した政治屋どもがイラクへ行って弾よけにでもなったかどうかを見ればわかろう。ド汚い奴らである。偉そうに強そうにいってはいるが、口だけで実際は本当はどうしょもないド臆病者どもである。そろそろ逃げたほうがいいのでないのか。イスラム兵士に首を取られんうちにな。
大江の死はそうした2000万分の1であるが、若者達が絶対に忘れてはならない教訓である。これらはもうとうの過去の出来事なにかではなく、まさに近未来に、ここ数年の先に若者達を襲う出来事になるかも知れない。しっかりと過去の歴史に学ばなければ、将来に繰り返されうる、未来にはあり得る歴史である。戦争は人間が起こすものであり、その人間が頼りなければ引き起こされうるものである。
彼らの死に意味が付けられるとするならば、無意味な死に終わらせないとするならば、それは後世に生きる我々しかないわけで、そうした死に方をしなくて済むように、彼らの死から学び二度と繰り返さぬことしかない。
彼らは特には何も残さずに無意味な無念の死を死んでいった。しかしこの男達が何も後世に残さなかったかと問えば、そんなことはない。実は彼らは大事な大事なものを死に当たって残していた。何であろうか。そんな大事な何を残して死んでいったのであろうか。
それはたぶん私を残したのであるし、たぶんあなたを残したのである。そして多くの多くの人々を残したのである。みんなをみんなを残したのである。
私たちはそうして残された大事な大事な命である。彼らの命と引き替えに残された命である。
私たちがどう生きるべきかは、私が答えるものでもないと思われる、時には彼らに聞いてみようではないか…


 フィリピンの主のようになっていく京都16師団であったが、この地は大激戦続きであった。彼のいた福知山20聯隊第2大隊は、引き続くバターン半島攻略の激戦の中で翌年2月7日に全滅した。この大戦は各地で玉砕や全滅が引き続いたのであったが、大江の部隊が大隊が全滅するといった、ただならぬ事態の最初であったと思われる。
大和魂に敵はない、アメリカは弱い、三発撃ったら腰を抜かして泣いて逃げると、根拠もなく自らを過信し、敵を甘く見た秀才揃いと謳われた軍上層部の判断ミスであった。信じられないような超初歩的な失敗であった。強い強いと定評の巨大組織、天下の秀才揃いの組織というものは案外にこんなとんでもない虚構の上に成り立っているもののようである。

 そしてさらにレイテ島である。昭和19年12月5日、16師団はカンギポット山で全滅した。皆が死んでしまったために誰一人として20聯隊の最期を知るものはないという。

 大江には助かる道はなかった、たとえ彼の命が5個あったとしても比島からは生還できなかったであろう。私たちの郷土出身の兵士がここでたくさん死んだ。生きていれば郷土のために役立ったと思われる多数の人材であった。『聯隊史』にはその英霊名簿がついているが、厚い『聯隊史』の半分以上を占めている、聯隊は2〜3000人と思われるが、死者の数は1万は超えているだろう。後世に生きる者としては彼らの無念の死を無駄死に終わらせてはなるまい。福知山20聯隊史は次の言葉で終わる。
日清、日露の両戦役ならびに支那事変では南京攻略に於ける中山門、大東亜戦のマニラ攻撃等々武勲赫々たる由緒ある聯隊である。
その聯隊の最後はあまりにもみじめで、あまりにもはかなく軍旗と共に南溟のレイテ島に散った。今もドラグの海辺に、ダガミの山岳地帯に無数の遺骨が野ざらしになっておる。
南十字星だけが何事かを語る如くキラキラと輝いておることだろう。
 東氏が証言するように、南京大虐殺の部隊でもあったわけであるし、フィリピンにしても50万の兵士が死んだそうであるが、フィリピン人はもっともっと殺されている。
 しかし、彼らはいまだに骨も拾ってもらえない。骨箱には石ころが入っていたという。自国の死んだ兵士の骨すら拾わぬ国。これがはたして近代先進国なのであろうか、誠に信じられないような情けない話である。下のHPなどによれば、いまだ100万もの兵士が未帰還だそうで、彼らは今もって異国の地に骨をさらしている。このままでは100万年待っても拾ってはもらえまい。悲しすぎる。空しすぎる。みじめすぎる。まるで安価な使い捨ての消耗品であるかの如くである。何よりも大切なはずの人命がかくも軽く扱われていいものであろうか。何というべきか言葉も出ないが、己たちの引き起こした戦争に対する信じられないばかりの無責任の極地をいく態度、無反省、怠慢、怯懦、不誠実、…こんな連中を信じて、こんな者どもに引きずられて一億国民が火の玉になって戦争していたのかと今更ながら驚く。
 遺骨も拾わぬというのに、もう憲法改正論議がふって涌いたようにかまびすしい、郷土から涌いたわけでもなく、どうせ遺骨も拾わぬつまらぬ政治屋どもか、アメリカだろうか、大資本か、そうした連中のゼニ儲けのためであろう、しかしこの道は間違っても二度と歩んではなるまい。
「阿部知子写真集」 「太平洋戦史館」

大江季雄のそして20聯隊の後輩は陸上自衛隊福知山駐屯地の7連隊である。第3師団(伊丹)隷下の部隊で、平成17年5月、ブッシュ支援のためだと何かと批判の多いイラクへ、こんな過去も憲法も何もかもわすれてしまったようにして派遣された。コラムの先頭へ




 松澤初穂選手 (菅谷初穂選手)

 誠にうかつながら、田主誠氏に教わるまで、私も忘れていた。『新舞鶴校百年誌』に、何かそんなような写真があったなとは覚えていたが、大江選手の陰になったのか、名も経歴なども頭になかった。もう一度『百年誌』を引っ張り出してきて、読み返してみた。
松澤初穂選手
←やはりあった。(『新舞鶴校百年誌』平成14年発行。「本校出身のオリンピック選手」として、大江選手とともに載せられている。胸の国旗を見れば、ロス・オリンピックの日本選手団の制服だろうか。)

新舞鶴校の校長室に掲げられているそうで、
「もったいない、なんであんな所においておくんですかね、何で児童に見せないんですか、子供にはきっと大きな誇り、励みになると思うんです。もっと市民にも見てもらうべきでしょう」、
せっかくの人材があったのにこれでは、と母校と郷土を愛してやまない氏はぼやくのであった。
まぁ舞鶴は自分が世界で一番エライと思い込んだ人ばかりで、他人の立派な写真を見せたりはしないのかもうぅ…、自分だけを表に出したいようなことですぅ…

子弟の教育は周囲の大人の皆で担うべきもので、教育委員会だけでできたりはしない、こうした大先輩も子供たちをそれとなく教育してくくれるものですけどぉ、複製でいいから、大江選手と並べて体育館にでも掲げておくのがよいかもぅ、市政記念館ならなおいいでしょうねぇ…、ゴニョゴニョ。同胞を悪く言いたくないが、実際の所つらい、ほめようがない…
母校ですらそうしたことのようだから、「郷土史家」のつもりの私をはじめ、舞鶴の一般市民もまるっきり知らないのでは、と思われる。
当面ゴニョゴニョしかないようで、私も半分以上は初耳、これまでは何も聞いたことがなく、手元にあるわずかな資料だけを紹介しておこうかと思う。

彼女はベルリン・オリンピックの一つ前のロサンゼルス・オリンピック(1932)の水泳100メートル自由形選手、女子チーム主将。新舞鶴校の出身。同書には、
本校出身のオリンピック選手
 本校出身の初めてのオリンピック選手は、昭和七年に行なわれた第十回ロサンゼルス大会で水泳女子百メートル自由形に出場された、菅谷初穂さん(旧姓松沢)である。このロサンゼルス大会で日本は、金メダル七個を獲得し、跳躍と水泳がお家芸となった。
 また、昭和十一年八月一日、ベルリンで開催された第十一回ベルリンオリンピックは、世紀の祭典と言われ、ヒトラーの開会宣言で幕を開けた。ナチズムの宣伝色濃厚な大会と評されたが、演出は抜群で聖火リレーもこの大会から始まった。
 このベルリン大会には、本校を昭和二年に卒業された大江季雄氏が棒高跳びに出場された。
 また、この大会は日本選手の活躍がめざましく話題の多い大会となった。

『広報紙』(平20.6016)
 城南中出身の齋藤里香さん(金沢学院東高教諭、25歳)が、8月に中国で開催される北京五輪のウエイトリフティング(女子69`級)に出場することが決まりました。
 舞鶴からの五輪出場は、ロサンゼルス五輪(昭和7年、米国) 水泳女子100b自由形の松澤初穂選手、ベルリン五輪(同11年、ドイツ)棒高跳びの大江季雄選手、アテネ五輪(平成16年、ギリシャ)陸上男子400b・1,600bリレーの山口有希選手に続き4人目。

ベルリン・オリンピックでは前畑選手のコーチ役であり、それ以後も日本女子水泳界のパイオニアであり続けたという。
くわしくは、松澤初穂」など参照

海軍将校の娘さんで、大正3年の舞鶴生まれ。大江選手とは同年、マンモス校だから同じクラスで机を並べて学んだ仲なのかはわからない。前畑選手は1歳年下になる。
この小学校に待望のプールができたのは昭和40年、校区からの多くの寄付でできた立派なものという、彼女は子供の頃は小学校の前を流れる与保呂川で泳いだり、少し大きくなると月ヶ浦あたりまで泳いで、オリンピック選手となられたのかも。海軍さんの娘さんなら、防諜きびしいなかスパイと疑われることなく、海でも泳げたかも−
2004年には、「オリンピック・オーク」(ドイツ柏)の高さ1.5メートルのオーク1本を植樹した、また「夢と継続」と書かれた銘板を除幕したという。新舞鶴校は大江選手と松澤選手と思われるが市内のオリンピック出場選手の母校に寄贈されたものだったという。
彼女が少女時代を住んでいた所は不明で、誰にも聞いたこともないが、海軍将校なら北吸官舎の地ではなかったろうかと推測する、もしそうなら三笠小学校の校区である。私は三笠小学校が母校だが、三笠校は昭和15年に当時の超マンモス校・新舞鶴校(およそ児童数3000人、50クラスもあった)から分離したものであり、彼女は三笠校の先輩にもなるのかも知れない、しかしオークはもらえなかったよう。
その後もふるさと舞鶴へも足を運ばれているようだが、市などはたいした対応をしていなかったようで、彼女の来鶴はわれら後輩はじめ一般市民は知らないでいる。氏がおっしゃる通りで、せめて今からでもぜひ市政記念館の一角にコーナーを設けられることがよいと思う。市政とは関係のないものが多く展示されているようにも見受けられる現状である。赤煉瓦倉庫は40数億円とかかかったそうである、無用なハコにバカほども高い高いゼニはたいている市民から見れば、何か勘違いしてないか、市政記念館はおまえらの私物ではないぞ、と言いたくなることである、赤れんが赤れんがといってきたクソ連中のそのチョウ低いココロザシまる出し。しっかり中身を作ってみせろ!

市政記念館内
現在は市政記念館の大江選手の隣に資料が展示されている。
関係ない「私物」も整理されたようである。バカほども税金を使っているのだしっかりやれ!
初穂さんには5名のお子様がおられた。今度足跡をまとめられた書を出版されたという。(『舞鶴市民新聞』14.4.15より)
どこへ行けば入手できるのかわからないが、そのうちに読ませてもらい、もう少しここに記事を追加したいと思います。



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