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 文献資料の紹介
本文には載せられなかった丹後の伝説・昔話・神話・民話、その他を若干撰んでここに載せておきます。丹後周辺も含みます。
 資料は一応は公開されているものですが、すべて無断で引いております。もしご都合悪ければ、連絡下さい、即削除します。
 kiichisaitoh@hotmail.comまで。

丹後の伝説:60集
−丹後大震災記録(中郡) −


 伝説ではなく実話。過去の実話であるとともに確実な未来の話。


峰山市街(峰山町) 被災6日後の市街の風景。焼野原と化した被災地に雪が降る。
(『舞鶴・宮津・丹後の100年』より キャプションも)



『峰山郷土志』

 丹後と震災(『峰山町誌稿』、『郷土奥丹後』、『縁城寺年代記』その他から)
震災のこよみ
大宝 元年( 七〇一) 三月 大地震三日やまず、加佐郡大半滄海となる。加佐郡凡海郷全部海中に没し、高山の頂が海上に出て冠島、沓島となる。
文明 七年(一四六九) 六月十一日、丹後大地震
明応 五年(一四九八) 五月十一日、八月二十五日、同上
万治 三年(一六八〇) 正月四日、丹後、但馬大地震(卯の刻)
寛文 二年(一六六二) 五月一日、丹後大地震、天下の死人多し、二条城破損
同  六年(一六六六) 五月 宮津城内外隍へ?(魚偏に祭)多く海より上り死す。同、八月一日但馬国蛇山鳴動、地震地割れ死人多し(以上、寛文二年ともいう)。
天明 六年(一七八六) 七月、大地震、八月二十九日宮津如意寺谷大崩れ、洪水
弘化 四年(一八四七) 一月十三日、木津村中館、上野、和田、二丈余り地落、地昇、三月二十四日夜大地震
明治二十一年(一八八八) 四月十一日、宮津地震
同 二十四年(一八九一) 濃尾大地震(当地方も余震がはげしかった)
大正 十四年(一九二五) 五月二十三日、但馬地方大震災(同上)
昭和 二年(一九二七) 三月七日、奥丹後大震災(別記)


奥丹後大震災
【時刻】奥丹後大震災の時刻については、震央(震源地)を竹野郡網野町字郷とすると、二十四キロを隔てた豊岡の受震が、午後六時二十七分四十三秒八であり、二十キロの宮津は同二十七分四十三秒五であるから、まず震源地では同二十七分四十秒六から八の間、峰山地方では午後六時二十七分四十一秒一乃至二が大体正確に近いであろう。

【震源地】震源地は東経一三五度一強、北緯三五度三九付近というから、竹野郡郷村小字樋口(現在、網野町)に当たり、放射線状の亀裂があった。若狭湾の周囲には、ここを中心として放射線状に走る断層が目立って発達していて、ちょうど寄木細工のように、大小種々な地塊がよせあつめられている(『地震研究所彙報』)。これが、二年前の大正十四年五月二十三日、倶馬地方の地震でガタガタにされ、昭和二年三月七日にその跡始末を受け持ったのだから、目も当てられない。地震の強さについては比較のしようもないが、丹後半島の北西部四郡五十九ヵ町村の広範囲にわたって、十倍以上の損害を与えてしまった。死者二千九百九十二名、負傷者三千七百七十二名、全焼全潰戸数六千七百九十七戸、被害家屋三万七百八十戸、損害約二千余万円(府統計による)、現在に換算すると二百倍とみても四十億円となる。

【断層】断層(地割れ、地すべり)は、南と北の二ヵ所に現われ、北の方すなわち郷村断層は、網野町浅茂川小字十倉海岸から、中郡を越えて与謝郡境まで、十八キロ以上もつづき、南方に起こった与謝郡山田断層は、幾地から男山まで五キロも伸びている。
震央の郷村断層は、天然記念物として保存されているし、この割れ目から取り出した自然石が、峰山小学校玄関南の殉難碑である。断層に近い小字高橋で、二間道路が南北にニメートル七も食い違っているのは、地震の最大加速度一万ミリ以上を示すもので(四辻で五千ミリ、磯で四千六百ミリ以上)、驚くべき強震である。また、食違いばかりではなく、断層の東側と西側では、七十五センチ以上も高低がついている。つまり、東側は低下して北方にすべり、西側は隆起して南方にすべったわけである。郷村断層は、生野内から吉原村安区の渓禅寺西方の耕地を横切り、山を割って新治に出ているものと、峰山高等学校付近から田地を南に走って、吉原小学校前の清正公社の境内を抜けて、新治に仲びた二線がある。峰山市街は、この二つの線からはずれていながら、被害の大きかった原因は、人家が密集していたうえ、四十一ヵ所の出火がわざわいしたものである。
生野内断層は、高低六十ニセンチ、食違い一メートル八五、ことに花崗岩の断層は珍しく、天然記念物に指定されているが、高低六、七十センチ、食違いニメートル、割れ目の幅一メートルニ、深さニメートル四である。
なお、峰山高校の下では、高低七十センチ、食違い五十センチ、新治では高低六、七十センチ、食違い一メートル余となっている。また、山林内の亀裂は、今も所々に跡をとどめているが、田畑では耕土を移して傾斜を直すとか、隆起した断層の線を畦にして、上下二つの田にしたてるなど、当時の痕はなく、道路の亀裂は、柴木などを投げ込んでその上を歩いていたが、割れ目はいつか狭くなって、別に土を運ぶまでもなく復元してしまった。
陸軍の陸地測量部では、震災前の測定を基準にして、両丹境の烏ヶ嶽と、丹但境の床尾山によって調査したところ「断層は東側一米三、西側一米滑動」と発表しているし、峰山市街では東部が三十センチ沈下し、反対に西部が四五センチ隆起しているとのことである。また、竹野郡吉沢字経塚(通称小原山)は、北に四十六度四十九分、西に一メートル九十六移動し、峰山市街を抜けて一直線に西方にあた女布谷の権現山(熊野郡女布)は南四度五十分、西へ○・八一メートル移動したともいう。
【峰山の惨状】震災の惨害は、被害地のどの町村でも起こっているが、その率と様相において最も激しかったのは峰山市街地であったろう。総戸数一千十一二戸の中、全焼八百四十九、全壊百五十七、半壌二十七、半焼二で、百%。人口四千五百八十五名中、死亡一千百三名(二十四%)、不具者十四、重傷二百二十三、軽傷二百九十三、合計一千六百三十三名で、約三十五・六一%が死傷したことになる。
ことに、当日午後六時二十七分四十一秒、激震わずか一、二秒の間に家は倒れ、十五分をまたずして市中四十一ヵ所から燃え上がった炎は、十八時間燃えつづけ、市街の九十七%一九を焼きつくしてしまった。昭和二年は、近年にまれな大雪で、早春三月七日というに、残雪はなお一メートルを超え、農家などの裏びさしはまだ雪に接していたが、この日は朝から珍しい快晴で、雪中でも上衣を取るほどの暖かさで、あるいは除雪に、またはスキーに楽しい一日であった。しかし、その夕焼空は平常見馴れないどす赤さで、不審の眉をひそめた者も多かったが、思いがけない災いゆうげは、こうした雪解けを待ちわびる楽しい夕餉の一瞬におそいかかったのである。

『峰山町役場日誌』(新治書記)
昭和二年三月七日 月曜日 晴。古川、中邑両書記午後賜暇。地震ノ為メ中邑書記圧死セラル。(外来者)新舞鶴分駐所働務陸軍憲兵伍長近藤国治郎氏来場。(会合)午前十時ヨリ公会堂ニ於テ町村長会開催。(記事)本日午後六時二十八分大地震アリ。全町殆ド倒壊。続イテ各所ニ火災起リ、杉谷、吉原ノ一部ヲ除キ全焼シ、死者千百数十人。重軽傷者亦数百人ニ達シ、其ノ惨状筆紙ニ尽シ難シ。地震ト同時ニ役場モ傾キ、公会堂ハ倒壊セリ。小使岡本源造ハ火気ノ注意ヲ為シ、爐ハ水ニテ消シ、其後徐ロニ退場避難セリ。
三月八日 火曜日 曇 太田助役、谷部、田中書記震災救助米、杉谷デ交渉。太田助役終夜動務セラル。
(注、第一回町議会は三月三十日で、道路計画、学校、公会堂建築の件が議題であった。)

また『峰山町大震災誌』から、震災の翌日三月八日の生々しい記録を抜書きしょう。

三月八日、天明に及んで全町の火災は稍終熄せんとするも、濛々たる黒煙は町内一歩も入るるに由なく、只、貌を膨らし右往左顧、密集に分け入りて避難者の点検に努むるも、哭泣の声各所に起り、且つ肌は顫ひ、食するに糧なく、午後四時頃には雨をも交へ、極度の疲労を感ずるに至りて、各所の森林中の集団は雪中に卒倒するもの多数を生ずるに至る。雨雪と闘ひ、妻子の白骨を前に一枚の莚もなし。郵便、電信、汽車、電灯、糧食、薪炭、塩、夜具を一時に断たれたる身は、一椀の白湯を需むるに由なく、近隣の村落皆倒潰又は全焼し、救助の人何れかより有るべき筈なく、衣食住を失ひたる罹災者は、恰も児を喪ひて狂える野生の動物と選ぶなく、雨雪を浴びて白骨の埋まる宅地を彷徨するのみなりき。……云々(田中信吉記)

雪の中を着のみ着のままで、森や広場に避難した家族を探してさまよい歩く空腹の人々の上に、無慈悲にも八日の午後四時頃から霙が降りそそいだ。この霙の味は、本当に忘れられない。峰山市街で一家全滅は四十一戸に達していた。その中の一人、宮田澄助(子行)は『峯山町誌』を脱稿し原稿を松川先生に托して、三月八日東京の出版所へ送るその前日に罹災し、一家はもとより松川先生、町誌原稿および収集した資料一切が殉難焼滅した。峰山小学校で罹災した峯山藩文書、町家で焼けた町年寄記録、その他手控、覚書など、郷土にとってこの上もない不幸であった。
この災害の翌日、生き残った町長以下十一名の吏員は、自家の不幸をよそに消防の協力を得て、まず新山村から米三十八俵、杉谷から二十俵を徴発して応急救助にあたった。こうした涙ぐましい活躍の記録は、各町村、各公衙、学校、職場、その他、町村内の各所において限りなくあった。しかしまた「……天田郡上川口村消防隊四十五名は、魁として到着…」と同誌に記されているとおり、罹災地外からの救援はことに目覚ましく、この感謝は、奥丹後のつづくかぎり語り伝えられるであろう。

『奥丹後大震災誌』

一 峰山町
今度の地震が峰山地震と命名されるほどあつて、峰山町は獨り激震の中心地であつたばかりでなく、大火で全町を燒尽し、その被害の甚大なる到底他町村と同日の比ではなく、實に罹災四十九ケ町村中の第一位を占めてゐるのである。古來丹後縮緬の集散取引地として有力な商賈軒を並べ、町から隣接村落にかけて、府立工業學校や、織物試驗場等の教育勸業機關を始め、知名の大機業工場も設けられ、これに件なふ金融機關その他商工業の諸施設は整頓し、京阪地方との交通瀕
繁で、輓近鐵道の開通後は一層の發展を來し、眞に奥丹後第一の大都邑としてその殷盛を誇りつ丶あつたのである。
はからざりき、未曾有の天災地殃の襲來によつて、全町の家屋・倉庫・納屋等その他の建物一瞬にして潰滅し、滿目ただこれ荒寥たる焦土と化し去らんとは!。當日町民は驚き慌てゝ戸外に避難せんとしたが時や既に遲く、多くの人々はその下敷となつて身の自由を奪はれ、苦悶と號泣の中にも、力の限りをつくして逃れ出でんと焦りもがく中、恰も各戸夕食仕度の炊事半ばであつた所から、竈、火鉢、炬燵等の火氣が因となつて、忽ち倒壊家屋に燃え移り、倒潰後僅か十五分間で十數箇所から物凄い火焔を噴き出し、三十分間後には六十四箇所に及び、見る見る中に全町は火の海と化してしまつた。木材や梁や壁に挾まれて一身の自由を失へる所へ、更に呪ひの火の手、逃れんとするも力及ばす、救ひを求むれども助ける者とてはない。かゝる中にも黒煙と猛焔の渦は容赦もなく迫り來つて、悶絶し燒死を遂ぐるに至つた者數を知らす、一夜燃え通して翌曉に至る頃には、あはれ千餘名といふ夥しい男女の生靈は、見るも無殘な白骨となつて、瓦礫と灰土の中に埋められてゐた。あ丶何たる悲慘事であらう!。
かくして峰山町は全滅した。生き殘つた人々も、極度の悲嘆と困憊のため、呆然自失殆んど爲す所を知らす、雨や雪に濡れそぽち、飢と寒さに打慄えつ丶、一夜の中に見る影もなく變り果てたわが家の燒跡に佇みて、肉親の死體を探し求めつゝ、力なくもさまよへるさま、哀れとも形容すべき言葉だにない。罹災民の多くは峰山驛前・字安・久美濱街道・金毘羅神社前字上紅葉ヶ丘等その他周圍の山手に避難して幾夜かを戸外に明した。
震災直前の總戸數千十二戸、人口四千五百四十七人、この中全燒せるもの住宅のみで八百二十一戸(千二百五十六棟)、死傷者千五百二名を出した。師ち家屋は僻在した字杉谷・光明寺・吉原・古殿の一部に百九十戸を殘したのみで、中心地は一戸一棟だに剰す所なく全部灰燼に歸し人口は三分の一強に當る驚くべき多數の死傷者を出したわけである。その被害の内容を字別に示すご左の如くである。


惨禍の記録

三 娘を燒く涙の記
……(救世軍特派員升崎氏報告)……
三月二十八日の夕刻であつた。妙齡の女子、倒壊せる常立寺の山門前に怪しき莚包みを置きサメザメと泣いてゐた。事の由を聞けば彼女は豐岡在の者、菰包みは其妹にて名をあや子(十六歳)といふ。先年城崎の震災の時不思議にも命を拾ひ後峰山に働きに來りて遭難し爾來行方不明なりき。
昨日焼跡整理を行ひつ丶ありしに、あや子は無慘にも頭部と足部とを壓されて二十日振りに發見されたるなり。
姉人は故郷よりその遺骸引取りに來りしも雇人の悲しさに、近隣の入々は多忙を口實に、焼いて呉る者もなく途方に暮れて泣き居たるなり。私は同情の念禁じ難く、彼女を慰めいたわりつ丶其火葬を引受けたのである、早速附近の焼跡よりトタン板や燃料を拾ひ集め、重油を掛けて燒く、眞紅な炎は天に昇る屍の上に積み重ねられた燃料は重油の力を得て黒煙を揚げ凄まじい音を立てゝ燃ゆ、漸く死人の手足は氣味悪く活動する、紅蓮の炎の中から見ゆるナマ白き肉體がシユウシユウ異樣の音をして燃ゆる。大きい骨がホノ白く露出す、時間は刻々と進めども何しろ死後二十日間を雨と雪の中に曝されて彼女の屍は下牛身は燒けたるも腰部以上は容易に焼けず、夜は次第に更けて行く、倒壊せる常立寺の本堂は宛がらローマの癈墟の如く横たわり、慘事を知らぬ顔の地藏奪の石像は冷たく默然として傍に立てり。
過ぎし日の思ひ出の糸を繰返してか、燒てゆく妹の屍を眺めながら、姉人はスゝり泣く,慰める言葉ももうつきた。私は只默々として大きな竹竿を握りしめまだ燒けぬ臓腑の間から燃ゑあがる青白い炎を凝視てゐる、ホノ白き煙は天の彼方へ彼方ヘと昇り、はては滔ゑて行く、星は無數に光つてゐる、夜の沈默は次第に深くなる、漸くにして十六歳乙女の遺骨は石油の空罐に拾ひ集められてなつかしき豐岡の地に歸つた。
水は洗れて  海に落ち
  炎に上に   立ち昇る。
神より出でし  此の靈の
  神に帰らぬ  ことやある
父の御國は  動き無く
  樂み滿ちて  たゆるなし
亡びゆく世に  心たぞ
  止めで進めや 天津國
そうだ、行け行け、昇れ昇れ天津御國、火にも焼けない水にも壌れない、父の御國、悲しみ、嘆き、苦しみなき不死の國、天の古里「我等の國」にてぞ永劫の慰めがある、其處にこそ永遠の喜悗と生命がある、盜人虫と錆の損のふはかなき世の迷夢より醒めて「魂の古里」に歸ることだ。
神より出でし此魂の、神に歸らぬことやある。(峰山救世軍子供の家にて、原文のまゝ)


一 神の御手に守護された
 中郡丹波村字橋木
大成教神正教會信徒 田中さち
想ひ出すもおそろしいあの三月七日!私等は一日の勞を慰むる夕食にと、多くの家々では皆其仕度に忙しい時突然西北に當つて何とも形容する事の出來ない物凄い音響を耳にしたかと思ふと、忽ち甚しい上下の震動が起つた。
其の時私は居間に裁縫をして居まして、家には私と母とニ人。母は夕飯の仕度をして居りました、家は靜かであつただけに私には早く解つたのです。
鳴呼地震だ!お母樣と呼んで立ち上つた時には、母はもう其處に卒倒して居りました、急いで私は母を扶け起し、その手を引張つて庭先へ出て行きました、其時一層激しい上下の大震動が起つて四方の家は一度にどツと破壊してしまひました。
やつと五六歩家より離れた處です、もう一二秒間私共の出やうが遲かつたら、今頃はとくに天國ヘニ人共行つて居るであらうに、あ丶何と云ふ幸せだつたらう。
母と共に兩手を合せて神佛を祈りました、そうしてやつと三四尺の雪中を素足で歩き、がたがた身ぶるひしながら田圃へ出ました。この時までも唯々兩手を合せて尚も神佛を祈つて居りました。
すると此處彼方より助けて助けてくれ助けてくれと悲鳴が聞へて來る、ハツと思ふと第一私の隣家より出火しました、「お丶お丶お父さんやお母さんが出て來ない、早く來て下さい來て下さい」……と女の子の細い聲、小さい赤ん坊のお母ちやんお母ちやんといふ聲などが次から次ヘと聞ゑて來て胸も張り裂ける樣である。
私は助けに行つてあげたいが、此弱き母を連れて尚も休みなく行かねばならぬ、雪道に殆んど正體のない程弱り切つて居るのが何より氣にか丶り、其避難所たる田圃の雪中を離る丶ことが出來ません。
「あ丶お氣の毒だなア」と言ひ合つて居る間に、雪雲の色は云ひ合せた樣に紅ひざなり、火柱が數へ切れぬ程昇つて空は一面焔に包まれ見渡す限り赤色を溶かした火の海に成つてしまいました。
「鳴呼此世がデングリ返るのだ、永く生きて居るからこう云ふことにあうのだ」と人々等は皆口々に泣き叫んで居りました。兄は隣家のもゆる中に飛び込み、しきりに材木を切つて其家の母と子二人の生命を救ひ出しましたが、主人だけは「殘念だ残念だ」と云ひながら、此處に大きな木があつて出られない、あ丶暑い苦しいと云ひ續けながら,とうとう無殘な狂ひ死にされました、其日は日がらが善かつたので、結婚式があつて親類の人々も大勢來て居られ、拾數人も家の下數に成つたとの事で、兄は二三の人と共に又行つて夜の明るくなる迄、材木を引いたり、雪をすかしたり、瓦をめくつたりして、救ひ出そうとミ焦つて居ましたが、遂に半數の人は死なれ、半數の人は重傷を負ひながらも、やつとのことで生命だけは取りとめました。
又一方の隣家は相當の地主であるから、家も大きく其家と他の家に火がつきかけました、私は母の心をなだめて、寒さもこわさも打忘れ。男子のみの中にまじつて消防の手傳ひを致ました、其時村人は皆自分さへ生命を拾へば、人どころではない「此寒さの上に此餘震が激しいのでは」と口々に云つてゐるばかり、ちつとも消防の手傳をするものは御座いませんでした。ほんとうに人々の利己主義なのには驚き入りました、私は誠にたまりかね「是れ心のある人は皆消防の手傳に來て下さい。自分の困るのも人の困るのもお互ですよ」……と大聲に叫びましたら、若い男子が少し來られました、火事はなかく消えさうにもなく、待つて居れば容易に夜も明けぬもの。村内の所々に白煙が立昇つてゐるばかりです、鳴呼又ニケ所から火が出たが、人々は大奮發致しましたので大火にならすにすみました。
その後三日三夜は絶えず煙が出て居りました、私等や村人が雪を澤山運んだ爲に焔は上らなかつたのです、それから他の家々も殘らず壊れて居るから、三日も四日も後に火事が起つた所さへあります。
又丹後の名物の雨雪が時々見舞に來る、それがまるで寒中の樣なみぞれや、風が吹き、人々は草叢の小さな小屋に幾數十人となく入つて居りますが、食事がなく、雨や雪は小屋の中へもり、寒さは一通りで御座いません、そして餘震の大きなのが時々來るのと,雨の爲の出水とで、山はくづれ,道路のわれ目は一層大きくなり、交通は出來なく、唯六十軒程の部落丈けで、小屋掛けをして漸やく雨のもらない樣にして居りました、丹後の教會に來て居る人々が、大きな荷物を持つて見舞に來るには、日夜道の無くなつた山や田圃を通ふて來られた、それから四五日すると峰山町や網野町の方々には、慰問品が來て居るとのことでしたが、當地は何しろ山奥で交通不便な所ですから、十日程後にやつと慰問品が參りました。
それから方々から救護團、青年團、在郷軍人の兵隊さんなど、續々來られて、復興に力を盡して下さつた事は、私等罹災民にとつては、どんなに嬉しかつたでしようか、この喜びは全く言葉にも筆にも盡せません、それから精神的方面の事柄では、私は三月七日の曉方大火事があつてよくく燃え、そして私共が是迄見た事のない、大火事だ大火事だとロ々に云ふて居た夢を見ました、それが此大震災の知らせであつたと後ほさ思ひ當りました。
それから人々の話に依りますと、隣村の或尼様は壞れた家に二昼夜お經を唱へたと云ひ、又其隣村には四日目に破壊した家から助かつて出た人もあるとの事、それから丹波村の僧にはころもが慰問品で當つたとのこと、佛教を信仰してゐる人には矢張り佛の御蔭、佛道を信仰して居る方は、神の御蔭を受けて居りますので、いつれもつくづくと信仰の有難いことを痛切に感じ、そして一層日常の修養が大切だと思つて居ります、私は此度の大震災に信仰の價値の偉大さを今更の樣に知ることが出來ました、如何なる變事があつても,自分の身體は祕に守護されて居ると思へば、少しも心配はなく安全地帶に居る樣な心地が致します。それから私は茶道が大攣效果が有つたと思ひます、茶道は平常落着きを専らとして居りますから、自然に大事に當つて慌てない沈着の修養ができて居るからでしやう。

山本文顕氏も入っている。『丹後資料叢書』「丹後震話集」の「奥丹後震災地所々を廻りて此の知見を呈す」より(中郡部分だけを
◇峯山町にいりました人類にわざはひした今回地震の最大災害地であります。たゞ たゞ一面の焦土焼野が原であります。惨また惨なんといふ天帝の魔手でありませう。この光景を眺めましていかに無思慮の人間といふも一種の人生観が生ぜずにはおきますまい、家は潰れる火の手は諸所に、親は子を呼び妻は夫を求む。阿鼻叫喚の焦熱地獄想ひますだに慄然といたします。友人薬剤師宮田澄助君は私と倶に郷土史研究の趣味深く地方における権威であったのですが惨死ごいたされました御家族店員八人惨死をされました蒐集の貴重なる郷土資料を副葬にしていまは幽明境を異にする宮田君、噫宮田君、私は君の焼跡に佇立して黙祷しばし天国の眠り安きを念じました合掌。
◇峯山町にて特に感じたことはあの大朝、大毎の二大新聞杜の活動であります。実に政府と肩を双ぶる體の救護振である。歎賞に堪へきせん。峯山のことは新聞に詳細でしたから記載を省きます。

同書の同氏の「北但後震災記(補遺)
さてわが丹後州は思ふに有史以前より大なる地震の国ではあるまいか。さあ読者諸君。膽をしづめてきゝたまはれ、按ずるに島根以東の東部山陰に属する国々の海岸線は総じてなだらかな地形である。その海辺は砂丘がおびたゞしうて陸地へいりこんだ湾が殆どない。然るに丹後の地先にはいるや海岸線が急に屈曲して久美浜湾をつくりついで経ヶ岬の断崖をきづくや廻って宮津の内海にいたり、更に珍奇な新旧両舞鶴湾を陸地深くもくひこませ丹後の海の特徴である、絶壁刀を以て削った如き大荒磯の大浦半島外海を経て青葉山北麓の内浦湾袋海につゞいてゐる。久美湾以西の山陰砂浜に対比してそれ以東なる丹後海岸のなんといふ荒々しさであらう。京都帝大が丹後は断層の国といまさらにとなへるも、かういふ差違を示しゐるからであらう。
 私は元より地質学や地震学の智識を片鱗だに所持しないが地図を展じての常識推考はかうなるのである。諸君、丹後の国の地理的構成はどうも地震に縁故の深い国であるやうである。

(途中落丁あり)

 
一昨年の末であったかと思ふ。加佐郡東大浦村の野原地域である成生岬の山頂の広大な場所が地迄りのした事があるそして想ひ起すその二三年前にこのところと直径二里程な青葉山西北麓の内浦村字下にこれまた地辷りがあった。之らの記憶もこの際の東部丹後人には喚起きるゝところの地震智識資料であらう。
 それから私は本月八日釈尊の降誕会花まつりに板碑立て名高い加佐郡の最古刹多禰寺に招かれて同寺の史蹟講演に出むいた。そして三時間余にわたって講演のあとその多禰山の手腹である同寺庫裡の書院で住職と晩餐四方山の話をまじへてゐだところ「ケンー」と雉子がなく、あゝ雉子雉子がなくと私は耳をすますとまた「ケンー」と夜の闇をついて多禰寺の下浄土寺趾あたりからなき音がひゞく山家である山里である。いながらにしてこのしたはしい雉子の音よさ私は障子をひらき、山寺の宿り気分を濃厚にすると相変ず間歇的に続々なく音が飛来する。もうよいいつまでも寒いとひらいた障子をしめきって座位をなをししばらくたっときしも四月八日夜ゆらゆらゆらゆらと除震にしては珍らしく長い地震がきた。私は例によって忽ち火鉢のそばにふせ勢をとつた。和尚は泰然さあって悟道の入たるを失はない。地震がすむとからからと和尚に笑はれたが私は私のあはてぶりが微塵はづかしい行為とは思はない。これが地震に處する正しい道であるなどと自問自答してゐるとき気附いたのは地震と雉子との関係、あの何物よりも最もはやく地震を予知しそしてなくと伝へらるゝ雉子の音をば私はいま親しく充分に体験したあゝ霊妙摩訶不思議なんといふ奇体な事象であらう。東京の或地震学者が恥子を自邸に飼ってこの伝説の研究をやってゐるといふ実話も全く以て尤もであると思った。

丹後・若狭が地震・津波の国であることは地図をみればわかる、日本海側では他には見られない複雑で険しい海岸線は断層の活動によるものである。それはその通りだと思われる、文献には何もなくとも地形が雄弁に語っている。

鳥のことわざ・雉」にも、↓のように書かれている。
「朝雉が鳴くは晴れ、夜鳴くは地震の兆(きざし)」
晴れていれば朝からキジは鳴く。キジが晴れを予想して鳴くわけではない。夜鳴かないのに、急に鳴きだすのは地震などの異変が起こる知らせとの言い伝えである。
「雉が鳴くと地震がある」
「雉がしきりに鳴くと地震あり」
「雉が三声つづけて三度叫ぶと地震あり」
「雉、鶏が不時に鳴けば地震あり」
「地震直後に雉が鳴かない時は、再び大地震が来る」
昔から地震の予兆とキジを結びつける俗信が各地に残り、江戸時代の「武江産物志」にも「雉 王子、駒場 地震の前に鳴く」の記載がある。
しかし、俗信だろうか、こんな話がある。
長野県軽井沢で10年以上も雉を飼っていた星野嘉助さんは、「浅間山が鳴動する時には、それがどんな小さな鳴動でも、その少し前に、キジが鳴き騒いだ。このことから、キジの足には地震の振動などを鋭く感じとる感覚細胞があって、人間にはわからないような振動をキャッチできるのではないか」というのである。




『大宮町誌』

丹後地方における地震は、昭和二年の丹後大地震以川についてはおよそ次のようになっている。
丹後地方地震の記録

発生年  「丹後地震誌」の記事 「縁城寺年代記」の記事
白鳳四年(六七五)一一月 丹波大地震  
大宝元年(七〇一)三月二六日 丹波大地震 三月大地震三日止まが加佐郡大半滄海となる。
承平七年(九三七)四月一五日 丹後大地震
十一月富士山噴火
同右
治安二年(一〇二二)三月四日 若州丹後地震 三月大地震
文明七年(一四七三)六月一一日 丹後大地震  
応仁七年(一四七三)六月一一日 丹後大地震  
明応五年(一四九六)五月一一日 丹後大地震 五月一一日大地震、八月廿五日大地震
万治三年(一六六〇)正月四日卯剋 丹後但馬大地震 正月四日丹後但馬大地震卯剋
寛文二年(一六六二)五月朔日 丹後大地震近畿中国に響き京都倒家一千、死者二百、大仏破壊、近江其他にて潰焼三千、死亡六百人 五日朔日丹後大地震、天下人死多し、洛中二条城破損
安永三年(一七七四)一二月一一日 丹後地震 一二月一一日夜子刻大地震あり。
文政一三年(一八三〇)   四月地震古塔潰る。
弘化四年(一八四七)一月一二日 丹後木津地震 木津村中舘上野和田二丈余地落地昇正月一三日
明治二四年(一八九一)一〇月二八日(旧九月二六日) 濃尾大地震、潰焼八万軒、死者七千二百七十三人 九月廿六日朝大地震別して美濃尾張烈し、人家数万軒潰れ死人数不知
大正一四年(一九二五)五月二三日 北但大地震、潰焼二千七百十四戸、死亡四百二十九人 五月廿三日但馬丹後大地震、豊岡城崎その他付近全滅、久美浜全潰
昭和二年(一九二九)三月七日 丹後大地震  

丹後大地震
 昭和二年三月七日午後六時二七分四二秒、丹後大地震が発生した。この年は近年来稀な大雪であり、春三月というのに一m近い残雪にとざされていた。その日は朝から晴天で日中は気温が高く春の陽気のようであったが、日暮れには平生見なれぬドス赤い夕焼空であった。一日の仕事を終え、一家が揃って夕餉の膳に着くか、または、その準備のとき、地の底から唸る無気味な轟音とともに、丹後五郡に起った大惨事が丹後大震災である。
 震源地は東経一三五度一分、北緯二一五度三九分、竹野郡郷村字樋口(現網野町)で、マグニチュード七・五の激震であった。被害範囲は丹後半島北西部四郡五九ヶ町村にわたった。 二・二戸に一人(関東大震災は四・四戸に一人)の死者を出したという恐るべき惨害を被り、地震に伴う津波・山津波・隆起・陥没等いろいろの現象がおきた。
 昭和三年の東京天文台理科年表特殊記事には丹後震災の状況を次のように記録している。
 「山陰道ノ沿岸ハ、最近二年ノ間ニ、二回ノ激震ニ見舞ワレタガ、一九二七年三月七日丹後ノ北部ニ起ツタモノハ、潰家或ハ焼失家屋ノ数並ニ人命ノ損失ノ大ナリシコトニ於テ、日本海沿岸ニ起ツタ震災ノ新記録デアッタ。是レハ震源が陸地ニアリ随ツテ接近セル町村ニ於テハ、地震ヲ感ジ始メテカラ家屋ノ倒潰スルマデニ僅カ二、三秒ノ余裕シカナカッタコトニ基因シテイルノデアル。此ノ地震ハ大地震ニ伴ツテ起ル各種ノ現象ヲ殆ンド遺漏ナク具備シテオツタ。例ヘバ断層、山津波、地盤ノ隆起、或ハ陥没、津浪ノ如キガソレデアル。特ニ地震前ノ著シキ徴候ハ決シテ見逃シテハナラヌモノデアッタ」
 丹後震災について京都府へ提出された被害状況と、救援、復興の状況を村別に見ると次のようになっている。(建物被害、死傷者の数字は調査の方法により誤差がある)
被害の惨状
死者 二、九九一人 建物全壊全焼 六、七九七戸
負傷者 三、一三六人 被害家屋 三〇、七八〇棟
行方不明 五人 被害総額 二、〇〇〇万円




口大野村
口大野村は縮緬取引市場、機業場等もあり、口大野駅が設けられて以来急速に発展し、震災直前には総戸数三七三戸、人口一、八三二人となっていた。この地域は激震地域で災害も大きく、火災も伴い被害は大きいものであった。

 死者は総人口の二・七%に当り、建物の倒壊と火災によるものであった。火災は午後六時三○分頃発生し、みるみるうちに火勢は猛烈を極め、消防活動も意の如くならぬ間に、早くも道路をはさんだ両側の民家はなめつくされ、延焼二時間、午後八時三○分鎮火した。
 公共建物は小学校がほとんど全壊したので、しばらく休校の後、四教習所に分れて授業し、四月よりバラックや修繕校舎で学習した。役場は全焼し戸籍書類のみ残り、土地台帳始め重要書類はほとんど焼失し、バラック建で被害後の事務処理をした。その他巡査駐在所は全焼し、郵便局・口大野駅は半壊したが修理の上使用することができた。
 八日午後、歩兵二○連隊の兵士一三○名の来援を始め、府下各郡から一九団体、兵庫県・滋賀県から二団体来援し、人員一、○○○名におよび、小学校、役場をはじめ倒壊家屋、焼け跡の取片付等の救援活動を行った。
 四月中旬を以て応急処理は一段落となった。

奥大野村
 奥大野村は郷村断層通過地点にあり、震動激しく全戸数一五八戸(人口一、○五○人)中一○四棟、住宅以外も八二棟全壊し、六ヶ所より発火して全村に延焼、上手からの烈風にあふられ、特に三方より火災をうけた小学校付近の民家の火勢が最も激しく、学校上手府道東側一帯火の海となり、住宅六戸(一九棟)その他の建物一○棟、あわせて二九棟を全焼する惨事となった。村民の多数は小学校々庭・道路・田畑の空地等へ避難し恐怖の幾日かを過した。

 村民のほとんどが罹災者となったにもかかわらず、青年団・在郷軍人会員は被災後数日間昼夜を徹して献身的に救護活動に当った。
 八日午後、府警察本部から警部補以下六名、福知山歩兵二○連隊第三中隊の一四名が来援、死体発掘、その他跡始末に従事した。九日滋賀県赤十字支社・同県衛生課等の救護班が到着し救護活動に当った。軍隊の手によって進められていたバラック六○戸が一九日に完成し、府管内よりの一五団体、および管外より六団体の来援があり被災後の整備も完了した。
 役場は全壊はまぬがれたものの使用することができず、小学校庭に移転し仮事務所とし執務にあたった。小学校は全体に傾斜したが倒壊は免がれ、大修理のため臨時休校し、三月一八日から若宮神社等にテントを張って授業を再開した。小学校の損害見積高一万二、○○○円、役場損害見積高一万円となった。
 村民の大部分は丹後商工銀行に預金していたが、支払を停止したため、一時は影響が大きく心配されたがその後再開し次第に金融も緩和された。

常吉村
 常吉村も郷村よりの断層線が、北方から南の四辻村へ抜ける通過地点に当り、震動も激しく被害もかなり大きかった。戸数一七八戸(人口八五一人)中住宅六五棟、その他の建物六五棟、計一三○棟の全壊家屋を出した。なお上常吉では火災が発生し住宅五棟が全焼した。
 被害世帯は一六六世帯となり、小学校は大破損したので一週間休業し、バラック建により三月一四日より授業を再開した。役場は半壊し使用不能となり大修理を加えることとなった。巡査駐在所は全壊したのでバラックにより勤務、村民の大部分は丹後商工銀行に預金し、村の信用組合も同銀行に預金していたので支払停止期間は不安に襲われたが開業により復興に精進した。

 三月一三日、救援隊京都有志団(代表、山口藤吉)二五名および与謝郡上宮津村から消防団三○名来援、倒壊家屋の後片付に従事、一五日には綴喜郡青年団四○名、一七日には若狭高浜同志会二五名、二九日には加佐郡与保呂・倉梯村連合青年団五一名がそれぞれ来村し救援活動にあたった。バラックも軍隊の手により三九戸建設され、家を失った罹災者を収容した。

三重村
 総戸数三三六戸(人口一、五五三人)で村内は四区にわかれ家屋も散在し、火災は三重および谷内両区のみで各一戸づつを失ったが消防団の強力な活動により消止め大事には至らなかった。家屋の倒壊もほとんどこれらの区で、森本・三坂は損害も少なかった。
 公共建物は、小学校がやや傾斜し危険であったので二週間休校し、三月二一日より授業を再開した。役場も少し傾斜したが修繕を加え執務に支障はなかった。駐在所は半壊したが大修繕を加え使用を続けた。
 被害後の後始末は被害の少かつた森本消防組一六名が出動し罹災地の青年団等と協力しこれに当った外、隣村五十河村消防組三一名も救援作業に協力した。


五十河村
 比較的激震地から遠ざかっていたためか、被害は極めて少なく、中郡各町村の中では唯一の無害地帯ともいえる村落である。総戸数三○一戸中、住宅その他を通じて全壊四棟・半壊四三棟となっているがこれらの建物、動産の損害も八千円余にすぎず死傷者は一人もでていない。
 公共建物も小学校が小破損で一日休校しただけで三月九日から授業を開始した。役場・郵便局・巡査駐在所等も被害はなく勤務に支障はなかった。そのため村や部内への救援活動を行った。

周枳村
 戸数二三九戸(人口一、三六七人)で激震地をややそれたものの死者七名も出し、家屋の損害もかなり発生した。

 小学校は傾斜したので臨時休業し、三月一九日大宮売神社境内のテントで授業を再開した。役場は半壊したが危険なため使用せず他の民家を借り臨時に事務をとった。
 村内にある府社大宮売神社は本殿・御輿庫が半壊し、玉垣・石灯籠・末社鳥居・反僑は何れも倒壊したが、宝物と社務所は無事であった。妙受・願成両寺院共に半壊し伝染病院は全壊した。
 救助には府の第三救護班および東京救護斑がいち早く来援し傷病者の治療に当った。バラックは最初府より三六戸建設配当を受けたが不足を告げさらに九戸を村で増設し、四五戸を四月三日までに建設した。
 一四日には久世郡青年団、一七日から五十河村青年団、加佐郡岡田下村・同上村の各青年団、軍人分会員等が来援し一四○名にも達した。
 金融対策としては丹後商工銀行の一時支払停止はあったものの別に信用組合から連合組合に交渉し、一万円の貸下げがあるなどして落付いて復旧に当った。

河辺村
 戸数二六六戸(人口一、二二三人)で周枳と同じく川東の地帯で激震地よりややそれたものの、死者九名を出すなど被害は相当にのぼった。
 出火は炬燵の原因により三ヶ所から発生したが、消防組の活躍により幸いに大火には至らなかった。

 小学校は破損の箇所ができたので修理の上三月一○日から授業を開始した。役場は傾斜したが小破損に過ぎなかったので事務に支障はなかった。巡査駐在所は傾斜したが使用でき郵便局は被害がなかった。
 救護班は峰山および隣村に来た赤十字社で治療に当り、一名発生した伝染病患者および重傷者は峰山の仮病院に送られた。三月一六日には天田郡金谷・中夜久野両村の消防組、一八日には歩兵二○連隊の兵士一五名、二一日および二二日には隣村五十河村消防組一七名と一三名が二班に別れて救援に当った。二八日には兵庫県城崎郡日高町の救援隊五○名が到着し復旧に協力し、バラック四○戸も四月三日に完成した。

長善村(善王寺区だけの記録はないので長岡も含め掲載)
 長善村は断層の通過地点であっただけに、被害も甚大で戸数三二九戸(人口一、六七九人)中全壊四二七棟、死傷者一二五人と最も多くの損害を被ったところである。

 発生後間もなく出火し、火元は一二ヶ所におよび、各方面に類焼し、八時間余り燃えつづけ午前三時にようやく鎮火したが、全村全滅に近い惨状となった。
 小学校(当時誠和校という)は全壊し、塩尻正夫、星島訓導は圧死をとげ、児童も死者五名、負傷者二四名を出した。三月中は休校し、授業は四月一日より再開した。役場も全壊したので付近の民家を借りて、事務を処理した。
 村長伊佐種治郎・村議会議員岩城広右衛門・奥田善輔の圧死により、村の復興計画に支障を来ずおそれがあったが、その後新村長の就任となり、復興も推進された。
 加佐郡東雲村消防組二三名の救援隊をはじめ二六団体七七五名が来援し、救護活動に従事した。また、バラックは軍隊の手で七五戸が完成し罹災者を収容した。
 以上のように各地に多くの被害がありこの復興には相当な努力が必要で、各地からの救援に感謝しながら、村民が一致協力難局打開に当った。

 三月八日、大阪朝日新聞の特派員からの第一報は次のようになっている。
 『(前略)与謝郡山田村に至れば道は谷の如くに破れ、火災の焔が雪の上を流れ、男女の恨みの泣声が錐でもむように胸を刺す。道端の家は大抵押潰されている。「孫めが焼鳥のようになって死んでいる。神も仏も何してくさるんじや。」漸く朝の光に火の中から孫を掘り出して泣き狂う老人もあった。
 四辻村では焼野原の上に札を立てて「その下に五人死んでいます。」「この下に三人死んでいます。」などと書いてある。中部三野村(奥大野村か)では完全な家は一軒もなしまでに押潰されていた。口大野村では「重傷者がいます療治を乞う。」と立札がしてあった。新町部落では酒屋と醤油屋の倉が壊れて村中が酒と醤油の洪水であった。
 雪と亀裂で道路は一歩も前進ができぬ。私は自転車を捨て鉄道線路を伝って行った。鉄道線路は一帯に二尺乃至三尺も沈下してレールは枕木をつけた侭宙に浮き、鉄橋はことごとく橋桁を崩されていた。綾部保線区の見廻員は、開通に二ヶ月は要すると観測した。(後略)』
 また、京都府知事の罹災者の救護、復興を呼びかけた演説の要旨は次のように記録されている。
 『(前文略)斯様に今や不幸にして親兄弟に別れ、子を失いたる老若男女は、住むに家なく、食うに種なく、積雪尺余の中に寒気と戦いつつあるような有様でありまして、これが被害の総額に至りましては、目下の処その額幾何に達するや明らかならざる実情であります。もしもこの侭放任せば罹災民は離散し、地方は荒廃に帰するものでありましょう。もとより私はこの空前の惨状を如何にして救済し、如何にして今後の復興を期せしむべぎやにつき、当夜以来日夕苦慮しているような次第でありますが何分にも政府当局はもとより、全国同胞諸氏の御同情と御後援を得るにあらずんば、到底この大事業は為し遂げ能はざる処で御座います。





 







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