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丹後の伝説55

 文献資料の紹介
本文には載せられなかった丹後の伝説・昔話・神話・民話、その他を若干撰んでここに載せておきます。丹後周辺も含みます。
 資料は一応は公開されているものですが、すべて無断で引いております。もしご都合悪ければ、連絡下さい、即削除します。
 kiichisaitoh@hotmail.comまで。

丹後の伝説:55集
−如意尼−


 与謝野町石川には浦島太郎の一族といわれる如意尼と呼ばれた女性がいたという。空海の時代というから平安初期の頃。このあたりの古寺院の創建縁起に伝わる。




 神宮寺(与謝野町石川)
『宮津府志』
石川山 神宮寺 在興謝郡石川村
 真言宗 成相寺未
 本尊  不動明王  開基如意尼
 按ニ如意尼傳載ス元亨釈書ニ曰。天長帝之次妃也舟州與謝郡人居無常處相−彳+羊ス山水之間ニ歳ニノ入ル帝都ニ常ニ詣ス如意輪観音霊場ニ。或ハ衆人聞其聲ル妃面。弘仁十三年帝在儲宮春初得テ霊夢ヲ遣メ華使ヲ於頂法寺ニ物色ノ而得タリ妃ヲ。妃入テ宮二儀雰端麗婦徳兼順云々。天長五年二月十八日夜妃以テ夢事宮女二人ト僣二出テ宮ヲ赴ク摂州摩耶山ニ云々。請テ室海山二修ス如意輪法ヲ。嘗テ蓄フ篋ヲ云々。妃之同閭二有水江浦島子ナル者テ妃ニ数百年久ク棲ム仙郷ニ天長二年還ル故里ニ。浦島子曰妃所持篋ハ曰フト紫雲篋ト云々。按天長帝ハ淳和天皇也。弘仁ニ嵯峨天皇年號弘仁十五年即位改天長也。如意尼没年承和二年仁明天皇即位二年也。至今茲安永十年凡八百七十年計也。
石川付山ノ内丈ケ獄卜云フアリ、其麓ニ比丘尼屋数卜云アリ、此如意尼庵室ノ跡也卜云フ。

『与謝郡誌』
石川山神宮寺
 石川村姫路にあり。本尊聖観音菩薩、前仏不動明王、如意尼の開基にてもと慈観寺と云ひ朱印地壹町三十六歩ありしも治承の兵乱に頽れ、延慶三年観賢僧正今の地に移転再建。元亭釈書に曰ふ、如意尼は淳和帝の次妃にて丹後與謝郡の人、年甫めて十歳皇都に入り弘仁十三年宮中に入る。時に帝未だ儲宮に在り、妃爲人柔順儀容端麗殊寵あり。天長五年二月潜かに宮を出でゝ摂州摩耶山に上り空海上人に就て祝髪修法如意尼と号す。尼常に一篋を携ふ固と浦島子の仙郷にて得たるものにて空海請雨のとき此篋を携へて密法を修し霊験ありしと伝ふ。延宝癸丑年秀意律師寺号を石川山神宮寺と改め普門院と号し爾来式内社物部神社の別当社僧たり。

 西禅寺(与謝野町石川)
『丹後旧事記』
石川郷香河村。
むかし京師の沙門倉橋川の辺を徘徊せるに川水えならず匂ひければ怪しみ流を伝ひ一村に至るに香気ますます盛んなれば里民に問さとの者曰く此村の貧家に子なきものあり天に祈りて一人の女子を得る此子生れ落ると此辺薫し渡る事三里四方なり誠に世にも類なき美小児なりことし七歳に及ぶといふ。沙門則其家に尋入り見るに小児のかんばせ白玉の如く香気は少女が身より出る事桜花の匂へるに異ならず父母に乞受けて都に誘ひて朝廷に奉りければ御寵愛浅からず終に天長のころ淳和天皇の皇妃に召上られ與佐の宇屋居子と申せしとかや元享釈書に如意尼は天長の帝の次妃丹後国與佐の郷の人なりとあり薙染の後旧里へ帰り一宇の精舎を建立して養法寺と名付られける。今其寺跡田地の字と成て世に伝ふ手づから彫刻の本尊観世音菩薩は養法寺破壊の後小萩の草堂に安置らしも今は名のみ残りて石川村西禅寺と云に有この尼は浦島の同じ血脈なり浦島が玉手箱を得て空海大士に奉り玉ひこの箱を以て空海雨をふらせ玉ふことは釈書に委し。

 『旧事記』に宇屋居子(うやいこ)とも呼んだらしいとあるが、「ウヤ」は超大変な名である。鳥取造の祖・天湯河桁(あまのゆかわたな)が出雲の宇夜江(うやえ)で白鳥をつかまえたの話も知られるが、そのウヤは6個の銅鐸・358本の銅剣・16本の銅矛が出土した神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡の斐川町神庭の正称というか、旧称は宇屋神庭(うやかんば)で、そのウヤである。39個もの銅鐸が出土した加茂岩倉もすぐ近くである。
島根県浜田市のあたりに敬川(うやがわ)が流れているが、あるいはウヤは出雲系の名のように思われる。ウヤウヤシイ、ウヤマウといった意味の地のことであろうか。もしかしてウヤ→クヤ・カヤというようなことはないであろうか。
天湯河桁が白鳥を捕まえたの伝承は石川にはない、ここでは沙門が神の子・如意尼を捕まえて天皇に奉ったのであるが、天湯河桁・白鳥のセットは丹後では網野にあり、彼を祀る社が4つある。その西隣には鳥取郷がある。磯砂山の羽衣伝説が金属と関係があるとワタシが言うのはそういうことなのだが、但馬にもあり、銅鐸も出土している。舞鶴からも銅鐸の出土があり、白鳥山もあるが、そうした伝承は伝わっていない。


『新撰姓氏録』
右京神別上。天神。(第十四巻)。
鳥取連。
   角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也。垂仁天皇皇子誉津別命。年向三十言語。于時見飛鵠。問曰。此何物。爰天皇悦之。遣天湯河桁尋求。詣出雲国宇夜江。捕貢之。天皇大嘉。即賜姓鳥取連

 青銅時代にまでさかのぼる金属文化の中心地ではなかっただろうか。香河(かご)川の最上流に香河という集落があり、慈雲寺がある。

『丹後の民話』(関西電力)
加悦町
慈雲寺のはなし
あれこれといい伝えがある。その中から…
 丹後の加悦町に香河という部落がある。昔、竜がこの地におりて、しばらく天に昇れなくなったことがある。ちょうどある時、竜巻が起こり、これに乗って昇ろうとしたが、運わるく月のもののある不浄の女にその姿を見られてしまって失敗した。この次昇ろうとするには、山に千年、海に千年の修行を積まねばならない。だが高僧の経を賜ることができれば昇天できるので、竜は女に化身し、供養を行うためと言って、この部落の慈雲寺に参詣してきた。
 当時この寺に名僧がいたが、「当寺は女人禁制であることを知らずに参ったのか……。また経を希望するならば、化身でなく、真の姿となって参られよ」と言われたので女はいったん寺を出たが、こんどは大竜となって姿をあらわし、ふたたび寺を訪れた。そして住僧からありがたい経をいただき、その功徳によって、いよいよ天に昇る際に、謝礼のしるしとして、わが前足の先をかみきって寺に置いていったという。これが寺宝竜の鱗″の由来である。
 この慈雲寺にまつわるもう一つの話がある。この寺の付近に 小萩の屋敷跡″ というのがあるが、むかしここに貧しい百姓家があった。夫婦の間に子供がないので天に祈って女子を授かった。
 そのころ都から来た旅の僧が、芳香を放っている河水にひかれて上流の里にいたり、山村には珍しい美少女に出あった。僧はこの少女の父母にあって、「この児を私にくださらぬか。都へつれ帰って必ず大切にお育ていたしますじゃ。どうか、ぜひに」と懇望され、父母も、「大切な神からの授かりものの児ですが、ごらんの通り毎年のように洪水で田んぼを荒され、その日の暮らしにも困っておりますだ。大切な児で手放したくはありませんが、いまはもう育ててゆく力も無うなりました。どうか、なにぶんよろしゅう願いますだ」と承諾した。娘の名は小萩といって、そのとき七歳であった。泣き泣き父母と別れ、僧につれられて西国霊場を巡拝して後に項法寺という寺へ預けられた。
 中萩が十九歳になった時、当時三十七歳の皇太子のお耳に入り、宮中へ召された。小萩は皇太子妃となり、やがて皇太子は即位されて淳和天皇となられたので、小萩は皇妃となって寵愛をうけ、宮中では与佐の宇屋居子または厳子と呼ばれていた。
 ところが、小萩は、宮中へ出入りする僧、空海の信仰にひかれ、深く仏道をきわめたく発心し、ついに待女二人を連れて宮中を抜け出し、空海に弟子入りし、剃髪して「如意」の法号をもらい、侍女二人も尼になって摩耶山に入った。
 如意尼三十三歳のとき、師の空海の死に接し、無常を感じて帰郷を決意し、西院に天皇を退位された淳和上皇を訪れて別離のことばを述べ摩郡山を去った。
 上皇から授かった書、御下賜金の一部をもって、故郷の香河に草堂をつくって、上皇のために仏の加護と師空海の冥福を祈願した。この草堂がのちに、竜の鱗″ の寺、慈雲寺となったのである。
 如意尼は他にも付近に善法寺や慈観寺も創建している。(俵野・井上正一様より)

『丹哥府志』
【奥山】(是より宮津の庄有田村へ道あり、以下三村石川村の支郷)
【亀山】
【香河村】
丹後名奇曰。古老の伝にむかし京師の沙門石川村の辺を徘徊せしに山川の水時ならず匂ひければ、怪しみて流をつたひ山の方へ入りぬれば、香気ますます盛んなり、時に十歳ばかりの女子をみる、其顔ばせ玉の如し、かの香気は此女子より出るなり。よって奇異の思をなしただちに其親に請ふて都に携へ帰る。後に此女子朝廷に聞て后とぞなりぬ。
元亨禅書云。如意尼は丹後与謝の人なり、天長帝の次妃となるといふは此人の事なるべし。薙染の後故郷に帰り一宇の精舎をたつ、是を善法寺といふ。今名み残りて田の字となり其手づから彫刻せし観世音菩薩は其隣村神宮寺といふ寺にありとかや。抑香河は和名抄にいふ神戸なりしが川の匂しより香河とぞなりぬ。

『丹後路の史跡めぐり』
香河の如意尼
 昔京都の沙門が倉橋川(野田川)のほとりを旅をしていると、之もいわれぬよい香りがただよってくるので、これを求めて川上をのぼると、すばらしく美しい少女に出会ったので名前を聞くと小荻と答えた。この村が石川の奥にある香河(かご)であったという。小荻を京へつれて帰って育てると、ますます美しく成長して淳和天皇の目にとまり、天長二年(八二五)天皇の後妃となった。これを与謝の内侍、与謝の宇屋居子という。
 しかしその後天皇の再度の願いを退けて天長五年(八二八)僧空海の門に入って如意尼と称し、郷里へ帰って手づから観世音菩薩を彫り、善法寺を建ててこれに納め、生涯を仏に仕えたという。(元享釈書の一文)一説に空海は如意尼の恋人であって、すベてを捨ててその許へ走ったものだともいう。この年は旱魃で守敏、真海の二僧が雨乞いの祈りをしてついに真海が勝ち、如意尼が京より持ち帰った一筺を得たといわれる。ちょうど浦島太郎が竜宮より紫雲筺を持ち帰った頃で、話が何か関係ありそうである。

 カゴは銅のことで、かぐや橋のカグ、カルも銅である。東の丹後一宮・籠神社もあるいは本当はカゴ神社で、銅神社なのかも知れない。西の幾地には香久山がある。
丹後は銅鐸は多くないが、この地の西側の須代神社境内と比丘尼城跡から銅鐸が出土している。
丹後・但馬・摂津などの日下部氏や海部氏や物部氏などと銅鐸や水銀、さらに仏教・真言宗の伝播との結節点にいる、金属系の大変なお姫様、何名かが重なっているかも知れない、そんな人、あるいは勢力ではなかろうか。龍や玉や観音信仰などとも習合し合理化され、何が何だかわからなくなっているが、金属の観点から見てみるのも意外な歴史が見えてくるかも…。

彼女などは丹後人すらすっかり忘れてしまっているが、女布とか売布とかいった地名や神社と関係があるのでは、と私は考えてはいるが、まだまだ書いていけるほどの材料はそろっていない。


『宮津市史』
如意尼伝承  俗姓は不明であるが、如意尼の伝承も興味深い。同尼は、与謝郡出身で、淳和天皇の妃となったが、出家して仏教修行に励み、さまざまな奇跡があらわれたという。この伝承には、神仙思想がみられ、のちに龍神社の伝承とも関連づけられている。 また、同尼はこの伝承や寺伝によると、兵庫県西宮市神呪寺(かんのうじ)を建立し、空海が同尼を模して作ったのが同寺の本尊木造如意輪観音坐像(重要文化財)であるとされている。しかしこれらの伝承・寺伝は疑問点も多く、淳和天皇の皇后の正子内親王の伝えを発展させたものではないかと推定されている(『西宮市史』第一巻)。

嵯峨天皇の後継者となった弟淳和天皇の妃に関する伝承を取り上げておくことにしたい。鎌倉末期に編纂された仏教書『元亨釈書』に紹介された如意尼の伝承によると、彼女は丹後の与謝郷出身で、淳和天皇がまだ東宮だった弘仁十三年、京の頂法寺で見初められて妃となったという。熱心に仏教を信仰した彼女は、のちに霊夢に導かれて摂津国に赴き、甲山神呪寺(現西宮市)を開いたとされる。伝説に彩られた逸話であるが、平安初期の丹後と京の人的交流が盛んであったこと、皇族と丹後のつながりの深さ、丹後における仏教信仰の広がりなどがうかがわれる内容といえよう。

『古代海部氏の系図(新版)』
如意尼
 鎌倉時代に作られた『元享釈書』(虎関師錬)によると、平安時代の延暦十一(七九二)年から弘仁十(八一九)年まで二十七年間、籠神社に奉仕した海部直雄豊祝(二十九世の孫)の娘に厳子(いつこ)姫がいた。姫は弘仁三(八一二)年、京都の真言宗頂法寺六角堂に入り、修行をし、弘仁十三(八二二)年、桓武天皇の第三皇子の大伴親王の妃となる。大伴親王は翌年四月、即位して淳和天皇となっている。
 厳子姫は妃となってから、故郷の名をとり「真名井御前」と称した。真名井とは籠神社の奥宮の名である。
 真名井御前は天長三(八二六)年、宮中より退出し、兵庫県西宮市甲山に―宇を建立し、空海を師として修行した。これが摩尼山神呪寺である。そして天長八(八三一)年、剃髪して「如意」と号した。承和二(八三五)年、如意尼は入定するが、その年に夫の淳和天皇(この時は仁明天皇の代になっていた)は神呪寺に行幸され、如意尼と対面し、田一百町歩を寄附している。
 このことは海部家と天皇家の近い関係を物語るものである。
 さらに「勘注系図」よりずっと後世になるが、江戸時代の寛政九(一七九七)年、海部直富香祝は霊元天皇の孫、有栖川宮織仁親王の息女、茂世姫を夫人に迎えた。現在も現宮司家には茂世姫の輿入の調度品などが残っている。なおこの茂世姫の妹は水戸藩主、徳川斉昭の夫人となった吉子姫である。









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