1〜20総目次 21〜40 題名索引あ行〜さ行 題名索引た行〜 丹後の伝説1 丹後の伝説2 丹後の伝説3 丹後の伝説4 丹後の伝説5 丹後の伝説6 丹後の伝説7 丹後の伝説8 丹後の伝説9 丹後の伝説10 丹後の伝説11 丹後の伝説12 丹後の伝説13 丹後の伝説14 丹後の伝説15 丹後の伝説16 丹後の伝説17 丹後の伝説18 丹後の伝説19 丹後の伝説20  丹後の伝説21 丹後の伝説22 丹後の伝説23 丹後の伝説24 丹後の伝説25 丹後の伝説26 丹後の伝説27 丹後の伝説28  丹後の伝説29 丹後の伝説30 丹後の伝説31 丹後の伝説32 丹後の伝説33 丹後の伝説34 丹後の伝説35 丹後の伝説36 丹後の伝説37 丹後の伝説38 丹後の伝説40 丹後の伝説41  丹後の伝説42 丹後の伝説43 丹後の伝説44 丹後の伝説45 丹後の伝説46 丹後の伝説47 丹後の伝説48 丹後の伝説49 丹後の伝説50 丹後の伝説51 丹後の伝説52 丹後の伝説53 丹後の伝説54 丹後の伝説55 丹後の伝説56 丹後の伝説57 丹後の伝説58 丹後の伝説59 丹後の伝説60 丹後の伝説61 丹後の伝説62 丹後の伝説63

 文献資料の紹介
本文には載せられなかった丹後の伝説・昔話・神話・民話、その他を若干撰んでここに載せておきます。丹後周辺も含みます。
 資料は一応は公開されているものですが、すべて無断で引いております。もしご都合悪ければ、連絡下さい、即削除します。
 k_saito_site@ybb.ne.jpまで。

丹後の伝説:51集
−橋立周辺の伝説−


 『岩滝町誌』より


 曹根好忠居館跡
曹根好忠居館跡
  「風土記」逸文に「与謝郡家東北隅方有速石里」とあり、速石里の西南に郡家の存在することを知るべし、即ち男山辺なり。
又、「丹後旧事記」に孝徳天皇の朝、蘇我倉山田石川麻呂が与謝郡板列に館を構えたなどの記事がある。
なお、花山天皇寛和年間(九八五〜九八六)に曹根好忠が丹後椽とし来任し板列の館に入り、郡司として諸般の役職を勤めた事が伝えられている。俗に城山と称する丘が居館で標高五〇メートル、約五百坪の台地内に手植の松と称せられた周囲四メートル余りの大松があったが、大正の末期落雷の為め枯死状態になり伐採された。
なお、明治四十年、高禅寺が竹野郡から移転され、居館跡は一転瑞宝山高禅寺の新たな地と化したが、昭和二年の丹後大震災に全壊し、遂に再興を見ず、其の後丘地は採土されて現在は殆んど平地となっている。
曹根好忠百人一首の和歌
由良の戸を渡る舟人かじをたえ行衛も知れぬ恋のみちかな

 六部橋
所在地与謝郡岩滝町字男山下谷口
六部橋
与謝郡岩滝町字男山谷川すもも谷口文化四年三月吉日(石碑〉
為廻国供養橋建立  願主  男山村行者清右衛門
交通のまだ開けていない時は谷川に沿って人の歩ける程度の細道であったことであろう。
川巾があるので飛んで渡るのも苦難の処、通り合せた六部が私費を投じて木橋を架けた。それで六部橋と名付けられた。与謝郡と中郡を結ぶ要路である。その後水害に又老朽に度々架け直されたが、昭和十年八月コンクリート橋が架設され現在に及んでいる。
長さ五間(約九メートル)巾三間(約五メートル四五センチ)橋の袂には現在稗が建てられ、石地蔵等が多数あり、昔を物詔っている。

 さる御前
さる御前
  一色義清夫人さる御前は、弓木城落城間際に家岩格の安藤帯刀に援けられ、幼児を抱いて夜陰にま
ぎれ、山越え、谷越え千辛万苦を重ね、蛇谷の滝の前に来た時は疲労困憊の極に達し、もう一歩も歩くことができなくなった。
この上は敵に捕えられようが、殺されようが意に介せぬと、半ば自暴自棄になり、半ば諦らめたらしく、安藤も持て余していると、偶然滝へ杓子が流れ落ちて来た。これを見た安藤は雷に撃たれた様に感じた。察するところ此の奥に、山から山を渡って歩く天下無住の木地椀師の住居があるにちがいない。予想通り木地椀師が住んでいたので、事情をうち明けて懇ろに援助を求めた。幸に細川勢にも見出されず、徳川三百年を無事に明治の御代に及んだときは、戸数十二戸、人口五十余人に及んでいた。
義清の子は隼人と名のり、姓は四宮、安藤に分れたが、木地椀師も四宮を名のり、四宮、安藤、木地椀師の四宮と三つの流れとなっていた。
本家と伝えられた林蔵は代々林蔵を襲名し、槍、刀、陣笠等も持ち伝えていたが、不幸がつゞいて五度も売り物をして次第にこうした品々を無くしてしまい、書物は何代目かの者が持ち出して行方不明になったという。
今「さるごぜん」というのは谷の地名であるが、そこにさる御前の屋敷跡が残っている。

 塔ヶ崎
塔ケ崎
塔ケ崎は与謝の海病院の北側の岬であるが、嘉吉三年(一四四三)丹後未曽有の大洪水の際、国分寺の五重塔が流出し、こゝに横たわっていたというのである。
秋、冬、波無く、水澄める時、髣髴として塔形を認め得たといゝ、溝尻(宮津市、府中)の漁師はこゝへは決して網を下ろさぬということである。
この塔と同時に流出した梵鐘は橋立の明神沖に沈んでおり、こゝを鐘ケ渕といd、内海で最も深く、海底までは十二三ニメートルを越えるといわれている。

 金の茶釜
金の茶釜
  男山の城主、高岡出羽守は骨董好きで数々の品を愛蔵していたが、細川勢に攻められて落城の際、黄金の茶釜は八幡山に、黄金造りの鶏一双は北口の山中に埋め隠したまゝ掘り出す機会がなく、そのまゝ今日に及んでいるといわれている。一説には金の茶釜は後日ひそかさ取り出されたが、鶏一双は埋めに行った家来が戦歿して所在不明であるとも伝えられている。
府中小学校(宮津市)裏の畳一枚程の石橋裏には「朝日射し夕日射す、白玉椿その元に黄金千ばい、朱千ばい」と書いてあり、成相山中に黄金と朱の埋めてある道標であると伝えられている。宮津市旧城東村の八幡山にも黄金の埋めてある伝説があり、各地各国に残っている「黄金伝説」の一つであろうか。
明治の末年、岩屋(野田川町)では田の町直しに支那の古銭八貫匁を掘り出した例もある。

 杉の木
杉の木
  昔、男山の大杉というところに杉の大木があった。加悦谷、中郡地方はこの杉の木のために日光を遮られ、作物ができないので常に不平をもらしていた。遂に我慢ができなくなり、例の杉の大木を伐ってくれと要求してきた。男山の人々は神木として尊崇して来た霊樹を伐った後のたたりを恐れてすぐには返事ができなかった。
しかし、加悦谷、中郡方面の人々の抗議にも道理のあることで一概に拒絶することもできず村人達相談の結果これを伐り倒すことにした。
この杉の木、想像以上に大きく、その尖端は男山から海を越えて宮津町の西の端に達した。それからこゝに杉の末という町名がついた。また、元の方の枝が地中につきさゝって出来たのが今の阿蘇海であるといわれている。

 千賀新田・真名井新田
千賀新田
昔は、谷間を開墾して畑とすれば、開墾者の所有となり、海を埋め立てゝ新田を造成すれば自分のものになり、且つ無税であった。
岩滝の大千賀があり余る財力に物を言わせて府中境の阿蘇海の埋立をしたのは延享年間(一七四四…一七四七)のことであると伝えられている。
三田川を堰き匿めて迂回させ、大古法王寺のあったという法王寺山を崩しては海へ流した。
昔は藤森の前から小石を投げると海へ落ちたという程、海は山に近かったのである。
こうして千賀新田百俵成ができた。工事中、迂回の堤防が決潰した。峰山へ行って碁を打っている主人に相談すると、主人は対局のまゝ手も休めず、「堤が切れたら小判で防げ。」ヤツ、「堤が切れたら小判で防げ。」と、振り向いてもくれなかった。
又、工事人夫は、今日は千賀の振舞いで、飯に酢や魚を混ぜたすしという珍らしい物を食べてきた、といってよろこんだ。

真名井新田  真名井純一は終身京都府の技師であった。彼の考えを波多野鶴吉によって実行に移されたものが郡是製糸会社であるといわれる程、純一は拓殖興業に徹しでいたから二十三才の若さで、真名井新田を計画した。
千賀新田が下の三田川利用であったのに対し、真名井新田は上の高岡川を役立て、現在の世界長近くの「流し山」を崩しては流し、五年がゝりで九千坪埋め立てた。今の与謝海病院の南側がそれである。
山を崩し、土を・取った処を「流し山」といい伝えている。境界線に松が梢えられていたが、明治の末年に枯死してしまった。
真名井は宮津藩からその功労を認められ、用人格に取り立てられ帯刀を許された。

 『みやづの昔話』より(カットも)

 橋立小女郎
橋立小女郎(1)  江尻 猪隼素太郎
 橋立小女郎がなあ、あの、溝尻ゆうて、あの、今ありますわなあ、あそこにあの、船頭さんいうて、あの、こう船を漕いじゃお客乗せてする人あって、ほいでそこにさ、たえもんさんいう、あの、お爺さんがおったんだ。
そしたら磯から、
「おーい、たえもんさんなあ」言うて、
「文殊までやっとくれえなあ」言うて。
「そうか、そら乗せちゃろ。ようし、これは橋立小女郎だで、今日はもう、これで縛っちゃろ」思うて、そして乗せて、
「そんなら乗んなはれ」言うて、乗って。
「お前はなあ、あの、船に乗ったことがなあで、危ないで、あんばいようくくったげるわあ」、言うて、手から足からあんばいようくくってな、そして、沖へ連れて出てな、
「毎日毎日、人化かやあてなんださかい、今日はもう命取っちゃる」言うて、そしてあの、船をなんする楫がある、棒があった。それでこう殴りかけたら、
「ああ、もうこらえとくれ、こらえとくれ。もうそんなにあほうにしやせんし」いうて、あんまり頼むもんだで、ほいでこらえちゃったんだ、たえもんさんが。
そしたら、それから余計あほうにしだしてなあ、
「はあ、たえもんさんな、たえもんさんな」言うて、あほうにしたあいうて。
あん時、あんばいよう、もう、殺してやりゃよいんだけど、殺さなんだ。それからさあ、もう、たえもんさんだなしに、もう余計どもならんことしだした、橋立小女郎が。べっぴんさんに化けてなあ、そして、あの、それこそどこまでもついてきて、なにやかや取っちゃどもならん。助けちゃったら余計あほうにしられて、終いには石ぶっつけだやあた。

橋立小女郎(2) 江尻 斎藤守夫
 私の母親がね、文殊さんで、橋立へ朝早う、とにかくもう、市に持って行かんならん。ほんで、担いでずーっと行ったところが、ちょうど明神さんのあの辺まで行ったら、ごやごや、ごやごや、声がするんで、ひょつと見たら、真っ白な着物を着た行者はんみたいな姿して、大勢がとにかく、念仏か何か唱えながら、行ったり来たり、行ったり来たりしとる。
おかしいな、こんなところに何もないはずだがな思って、大分気になってしたんだけど、まっ、とにかく魚があるさかいに行かないかん思って、生懸命行ったけど、なんぼ行っても、とにかく橋立のいつものとこまでいけん。ぐるぐるまいしとった。もう終いにゃ恐なってきて、魚をちいと半分置いてきて帰って来たていう。そんなこと、母親が言うたことありましたがね。
「やっぱり、化かされたいうのんか、なんかあるじゃろう」て言うてね。

橋立小女郎(3) 江尻 櫻井鞠子
江尻の漁師のお婆さんが魚を売りに行かれて、はい、ほして、橋立の文殊の方に行かれて、ほして、お金をもらって。ほしたら、それが木の葉だった、ちゅうようなことは、あのう、聞いたように覚えております。
それが橋立小女郎だと、そういうことを、おばあさんが言われましたなあ。なんだ、狐だか、なんだか、いうようなことを。

橋立小女郎(4) 江尻 早石芳雄
それひとつ、ほんまの話だ。
その、向こうから物を持ってくる、橋立へ昔は担いでもどるよりてがない。あそこの桟橋、船で渡らせてもらって、ほいで橋立来ると、そうじゃな、何もうまいもん持っとらんと、つけて来うへんじゃけ。
途中までもどってくると、娘さんに化けてきたんや。娘になって出てきて、
「誰やさん、誰やさん」言うて。ほいて、もどってくると、昔の姉さんになって出てきたん。狐がおったんじゃないかと思って、ほいて油揚げ持っとると、出てきたん。東谷の下まで、そこまで行くと足にまきついて人をこかした。ほんで荷が砂まみれになっとって、そこで泊めてもらうだけど、その家に入れてくれ言うても、入れなんだちゅう。なんでかというと、大けな風呂桶が前にあって入れなんだ。それはその家の者もほんまだ言うとった。まあ、泊めたってもらって、朝ま見たら、砂まぶれになっとった。

橋立小女郎(5)  江尻 椋平正盛
ぼくが聞いたんは全く新しい話やけど。戦前ですね、ぼくより、二級上の男が、軍隊行ってね、宮津の親戚に御馳走になって。冬ですわ。だから、あまりよばれたし、歩いて帰った。橋立明神のところまで来たら、上から雪ぶっつけてきた。どこか風吹いて落ちるんかなと思った。そやけど、御馳走持ってる。
ああ、こりゃ、橋立小女郎が出たんかなと思った。思いながら歩いた。あまり投げるもんだからかなわんと思って、海岸に出たちゅ。海辺へ。海辺でもまだかける。こりゃもうかなわん。半分置いとけいうんでね、出して開けてみたら、もう、ないようになっとった。

橋立小女郎(6)  下世屋 梅本ちよ
宮津の橋立小女郎いうてなあ、あんた、橋立小女郎が。あのこってしょうが、あの、さえもさんちゅう人が船頭さんじゃったなあ、あの日置の船頭さんじゃったでしょうなあ、日置の浜の。ええ、さえもさんちゅう人じゃった。
さえもさんじゃあないかいな
まーた びんせん しょうかいな
言うて、狐が誘うんですて。そしてその、なんにゃけえを持って歩いとったら、知らんまに取ってしまわれて、何にも、もどったら、その食べものはみなのうなってしもうて、何にものうなるようなこともせえせえあったらしいですで。
まんだわしらがいとこ同士のおっさんでもなあ、あんた、あの祭に太鼓負うてな、あんた、ぶらさげてもどりましただって。そしたら、何にもありまへんだって。もう頭の縄けえとったとこだげが残って、何にも尻にありませんだって。まあ、そういうように、ようだまされて、今もって橋立小女郎いうものは、何千年昔の魂でも、あのこってすがな、化かすことができますだけなあ。今でもあるでしょう。そ
のさえもさんじゃ ないかいな
まーたびんせん しょうかいな
言うて、そのええもん積んどるで、どうかして、そのまあ取って食いてえ、いうようなこってしたやろなあ。

橋立小女郎(7)  中野 松井ぬい
橋立にべっぴんの狐がおったんですわ、昔なあ。それを橋立小女郎言うて、彼氏が向う側の文殊におって、そこへ逢引きにいったらしいわな。舟に乗って通ってな、あの、「おーい、おーい」言うて、舟にええ男が乗ったりしとるとな、べっぴんださかいでな、べっぴんに化けて、ほて、舟呼び寄せちゃ、あのうな、デートの真似したんかして、あのう、評判だったらしいわな。橋立小女郎言うて。
そんな悪いことはせなんだらしいで。そだけど、彼氏がな、あっちに、文殊におると、今は、ほれ、橋がかかってな、しとったけど、昔は切れとの文殊いうて、あそこが切れとったんですわな、橋がのうて。そこに、てんころ舟がな、渡し舟がおってたのんじゃ。渡いてもらわなんだら、自分が逢いたあかってもなあ、逢われへんでしょうがな、好きなときに。あの、海を渡っていくいうわけにいかんし。
そのな、相手の婿さんは、どう言うたんかしらんで。こっちからいくと、あそこ、どういうですかな、道の上側が家が切れて、たきゃあところに家がありまひょうがな。あそこのところにな、婿さん狐がおったらしいわ。そこにな、婿さん狐だってなあ、ええ男盛りでしょうがな。そな小女郎だけじゃのうて、むかし、ようけおったでしょうし、そこで会うちゃおって、それで、また、もどってこんなりまへんやろうな。そな、いつまでも会うとられんしな。橋立もどってきちゃ、沖を通る舟をな、呼び寄せながら、渡し舟がいつもあらへんさかい、沖を都合よう舟が通ったら、漁師の舟でも何でも呼び寄せちゃあ、乗せていってもろうてな。
さえもんさんいう船頭さんがな、親切な船頭さんが、あったらしいわ。ほんで小女郎が言うことは、はじめは知らんと、お客さんだ思うちゃ乗せていただけどなあ、だんだんな、さいさい乗せりゃわかるようになって、ほんで、
「ありゃなんだ。橋立小女郎にちがいないさかい、ひどい目に会わせたったる」言うてな、その船頭さんがな、あの、
「ねえさんな、今日は海が荒れるで、あの舟が揺れるで、くくっといたげるわ」言うて、舟わりに縄でくくって、ほて、連れていって、
「もう船頭さん、ここでいい」言うて、
「橋立が見えたで」言うたとき、こらしめたろ思っとるさかい、ゆるめたらなんだ。ほんで、溝尻の船頭さんでな、溝尻まで連れていんで、ほんで、
「いつも、だまやあて、だまやあてするさかい、今日はへっぽん返ししたる」言うて、ほんで、「お婆さん、縄ほどけ」言うて、あの、それからほどいて、連れていんで、自分のところへ。ほて、
「さあここだ」て言うたら、
「悪かったで、こらえてくれ」言うて、
「もはや、こんだからは、あの、人をだまやあても、おまえはだまさんで、こらえてくれ」言って、その、さえもんさんに。船頭さんが、その、さえもんさんが、
「そう言うんなら、今日だけこらえたる。今度からだまいたら、
ひどいめに会わせる」言うて、
「もはや、だませへん」護うて、約束したやて。そこで、あのな、往き来なんにも乗りもんあれへんし、てんころ舟だけが頼りだったけど、通るとな、例によって、さえもんさんいうお爺さんで、まだ若かったろうけど、通ったら、あの橋立の浜へ出とってな、
「おーい、おーい」言うてやめいて、
「おーい」言うて返事したると
「そこを通るのは、さえもんさんじゃないかいなあ」言うて、
「そうだでえー」言うと、
「そうか」言って、別れちゃ、その人が通るたんびに浜へ出て、その船頭さんをなあ、もう、だまさんと、おりにきて声かけちゃ、通ったいうて。
そいでな、あの、また溝尻は溝尻でちがうことになっとるか知りませんで、話が。ここらへんではそう言うて、橋立小女郎いうて、だまされてな、性のええ狐じゃ言うて、『橋立小女郎、橋立小女郎』言うて。『こじょろう』言えへんで、『こじょろ』言うて。そぎゃなこと聞かせてもろうて、たいへんええ話を聞かせてもろうたように思うて、喜んどったんだ。

橋立小女郎(8)  日置 今井大二郎
それから、橋立ですね、天の橋立ね、天の橋立に、真中にロータリー、ご存知ですか、あります。お手植えの松ていうのがありましてね、ええ、あすこの辺がいちばん、こう、うっとおしいとこなんですね、はあ、橋立では。
で、昔はそこに、こう、橋立小女郎という狐が出て、これは、まあ、現実に、あれだったんですが、ある寺の和尚さんが宮津で一杯おやりになって、お帰りの時に、まあ、昼日中だったそうですけど、何回もこう、同じところを行ったり来たり、行ったり来たりなさった。それをここの部落の人が通りまして、
「和尚、どこ行かれるんです」ったら、
「ああ、いい機嫌でな、これから、あの、帰るんだけど、なかなか家が遠くて行けんわい」と、こう、往復してられたと。まあ、ほんでそれは酒のせいだったんかなと思ってね、いろいろこう、私、分析しとって、狐や狸に化かされるって化かされる方がおかしいやと、こう思とって、実は私がやられました。

橋立小女郎(9)  日置 戸田ゆき子
よう、あの、橋立からは、橋立小女郎が出るいうて、そういう、まあ、話が昔はあったらしいんです。私らは、もうそんな小女郎が出ただか出んだかは知りませんですけんど、ほだけど、私のお祖母さんですで、二代前の人ですけ、その昔時分。さあ、化かすいうんか、化かされる、ですわな。
まあ、狐か何かが化けて出るんらしいんですけど。それを、その、まあ、昔でしたら、その、狐でしたら、油揚げやなんぞが好きなんでしょう。それで、そういうようなものをですな、宮津へ行って買って、そして持っとるんですわ。そうすると、その、油揚げが欲しさに、あの、だますというんか、だまされるんですな。その油揚げを取られて、そいてきれえなべっぴんさんに化けて、そして、その、出てくるんですわ。それで、あの、それで、まあ、橋立小女郎だなんて名つけたんでしょうな。きれいに、娘さんに化けて出てきて、そして、その、油揚げを取って。そして、そうすると化かされとる方が、もうわからんのですわ。ええ、ほで、とんでもないとこへ連れていかれたりしたらしいんです。

橋立小女郎(10)  松尾 水口茂子
昔に、世屋のお爺さんが宮津祭りに行ったんです。ほて、宮津祭りに行って、よおけ御馳走よばれて。
ほて帰りに、御馳走いっぱい背中にみやげにもらってって、橋立まで来たら、ほしたらまあ、日が暮れてしまって。家のかげにかくれとった、きれえーな、あの、嫁さんいうんかがいやって、ほして、土を丸めては、ほれ、団子作っていたんです。ようけ作って、ほれを、あのう、竹の皮に包んで、ほんでそれを、あの、ほれ、持っていきなって。持っていきなって、ほんで、これ食べてくれ」って。そのお爺さんは、
「だんごやでえ」言うて。作っとこ見とったんで、ほたとこ、もどってきたけど、家の人に、
「あれは、土団子やで、兄。食ったらあかんぞう、食ったらあかんぞう」言うて。
そうすると、だんだん明こうなってきて。ほいたら、明こうなったとき、その前を通る人が見たら、そのお爺さんが化かされとった。お爺さんが荷物を持っとるもんやでえ、御馳走を。それを狐がとるんですう。狐がうまいこと嫁さんに化けて、そして、なんや、かんや。それが、橋立小女郎いう、あれですけど。













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