丹後の伝説:50集
−小学校百年誌拾遺−




 『福井百年誌』(福井校創立百周年実行委)(昭48)より

喜多に残る奇怪な話  斉藤伸生

 福井小学校の裏にそびえ立っ建部山(昔の人は、その姿の秀麗なところから丹後の小富士とも呼んでいる)には色々と奇怪な話が伝わっているが、その主なものをひろって見た。
(1) 旧陸軍の砲台を頂上に構築する大工事の際の話です。時代は定かではないが、何んでも明治十九年生まれの喜多のオバアさんが娘ざかりの十五、六才の時、当工事の真最中で、その人も工事の人夫に出たと聞きますから、明治三十五、六年頃だと推測されます。
 当時近郷から大勢の人が作業にかり出されて働いていた。その内の一人の男衆が昼休に水を飲みに谷川へ下りたきり、天に昇ったか、地に吸われたか、ヨウーとして姿が見えなくなり全員で、くまなく探すも、まさに神かくしにあったような状況で、とうとう見つからずじまいであったとのこと。

(2) 建部山の七合目あたりには、下から見てもよりわかりますが、俗に〃屏風岩"と呼んでいる、屏風のように切り立った大きな岩があります。その岩には、直径二〇センチ程の穴があり、それが大蛇の住家になっていると云うものです。現に喜多の年寄りで昔、仏前にそなえるシキビ採りに建部山に登ったところ、突然ザアーザアーと雑木をへし折りながら近寄って来る物がいるので、びっくりして飛び下り、高鳴る心臓を押さえながらよく見ると、なんと四米ほどの大蛇で、目前を、ユウユウと通過するのを見たと語る人は一人ではない。なお、それを見た内の一人はその時のショックで以後寝込んでしまったとも聞く。この話、現代のまぼろしのヘビ、ッチの子と比べて、検証された真実性を持って、せまる寄怪な話ではあります。



妖怪篇 福井の伝説 柴田 武

1 科学の進んだ今日では、幽霊や火の玉の話をきけなくなった。昔といっても七十年程以前は娯楽といえぱ、築地の舞鶴座(今日の日劇)か、朝代の小屋(後の火災で焼失した)へ芝居見物に行くものが多かった。中年以上の惑夫の楽しみの一つであつたらしい。
 或る日、上福井の某が舞鶴座へ田舎まわりの芝居を見て、はねたのが十二時前、ちょうちんをつけて帰途についた。其の頃、無常院の下に三間足らずの国道があり、その国道の北側は海であった。何か淋しくささやくような波がヒタヒタと石崖を叩いていたという。(無常院は現在の通りの墓場であった。)
 午後十二時半にともなれば人の子一入も通らぬ淋しい田舎道きけるものは、自分の下駄の音だけがカラッコロ、カラッコロ……。やがて愛宕権現山のしずくが流れ来る現在もある下福井寄りの小川の所まできたら、道いっぱいに黒い太い(筋のものが落ちている。ちょうちんの灯で確めると若い婦人の頭のついた黒髪が、またがなければ通れないようになっている。某の人はいや、驚いたのなんのって、息の根が止まったという。後戻りするにも夜中で町でも、誰も今ごろ起きてはいない。立止って思案していたら、某の髪の毛が二、三間上福井寄りへ移転したので、それを見つめていたら又、二、三間先へ行く。剛胆の人であったので、それに連れられて歩いていった。
避病院の下にあった通路が急こうばいの頂点であり、其の辺りに二、三軒の農家があったので救いを求めようとしたら、その手前で黒髪が見えなくなり、其の人は無事家に帰れたという。今、そんな場面に当面したら多くの人は気絶するに違いな
い。

2 又、違う人が所用のため、上福井を午後八時頃、ちょうちんをつけて舞鶴へ行くのに下福井の旧国道口に鍛治屋さんがあったが、その辺りで暗くなったので、新しいろうそくで、提灯に火を入れて歩き出した。二、三十歩あるいたら提灯が消えてしまった。「風もないのに於かしいな」と、思いながら、マッチをすって火をつけようとしたら、ろうそくがない。「おかしいなあ。確かに今までついていたんだが、仕方がない」と、近所の知人に其の旨を言ってろうそくを借り火をつけて其の家を出て又、四、五十歩あるいたら、又、火が消えて、ろうそくがない。「狐狸のしわざだ」そうなると行く先が恐い。「エエイ、根比べだ」と、「ついてこい」と、度胸をきめて1の話の頂上附近で、又、ろうそくを借りて歩き出したら、今度のろうそくに手を出さなかったので目的地に行けたという。その時の提灯の主は亡くなったが、
うそくを借りたという家は二軒共、現存している。

3 五十年余り前の事、上福井に七十才近くで、山で柴を刈り、自家の燃料に持り帰るのを楽しみにしていた老婆があった。或る年の夏の暑い日、例にょり大船の山へ柴取りに行ったら隣の山の自分のいる所とは三十間程離れた所に、一人の少年が大木の切株に坐っていて、じっと向うを向いて動かない。老婆はてっきり近所の子供の○○さんと思い、「オーイ、○○さん、来とるんかあ。」と、大きな声で何度も何度も呼べど、呼べと返事はおろか、其の少年は振り向きもしなかった。そこで呼ぶのを断念した。
その日の夕刻、老婆は○○さんを見て「お前、今日、山へ行っとったなあ。私が何べん大きな声で呼んでも聞こえんようじゃった。」
「ヘエ、僕は今日、山へは行っておりませんでえ。」
「エッ!あんた、今日、山へ行っとらんてか。そんなら私は、何ぞにつままれておったかあ。」「昼狐だ。」
○○さんは、それから大船の山へ行くのは恐わがっていると言う。

4 山に近いある家のできごと
癖の悪い子供が夜、就寝前にむずかっていた。いつもの事なので手を焼いていた。母親は今後のこらしめにと、「お前はいつもいつも癖が悪い。よし、今夜は外へ放(ほ)かしたる。」と、言いながら、むずかる子を抱きかかえ、雨戸を開けて其の子を「何所へなっと行けっ。」と、くらやみの中へ突き離した。何所からきたのか、歯の抜けた三米もあるような大きな坊さんが現われ「こっちへ来い、こっちへ来い。」と、其の子に近づいた。「キャー。」母親の悲鳴に家内中其の場へ集まった。「そこの所に大きな人がっ。」途端に其の坊さんの姿は消えてしまった。これは年老いた狸のしわざらしい。
昔は百鬼夜行のお化けがたくさんいたそうな。
以上、四つの実話、知っている人も今は少なくなったじゃろう。


非国民事件

日支事変戦亡者の遺影、講堂へ
この頃から日支事変の戦亡者の写真が講堂正面右側に掲げられ始める。日増にその数が増えていく。
出席率競争始まる。
だんだん戦事体制強化となり、学級ごとに出席率の競争が始まる。月末にはその順位が朝礼で発表され、講堂に木札がかかり、みんな「休まれない」という気持を持ったものだ。
スカートからモンペへ。非国民第一号。
十二月の或る寒い朝だった。見なれぬ姿の女の子。それは赤色の地に黒の模様のモンペをはいていた。私はいきなり、校門のあたりで遊んでいた者を集め「大名のお通り。」とばかり土下座させたのだった。女の子は泣いて家へ帰ったらしい。差別意識のない私は何も知らず考えもせず朝礼へ出る。いつものように山下校長が指揮台へ。この瞬間、非国民第一号が誕生するのであった。
いきなり「田畑台上へ。」と天にとどろくばかりの声だ。何ごとかと走り出ると右手で頭をつかみ、前後左右へ大きく振り回わされながら、「ここにいるのは非国民である。」と……。非国民という言葉も理解しがたかったが、ただごとでないこ
とだけは確かだったと記憶している。それから日本の現状、戦斗の様子、銃後にいるものの心構え、スカートをはくことは許されないこと、最後に一億一心、国の難事に当らなければならないことを話された。「こんな時、モンペをはいている人を見て笑うことは言語道断、非国民である。」と。台上から職員室へ直通。きびしく強く、そして長く長く職員室に座す。この日を期していっきにモンペをはいている子が増えた。この非国民がおらなかったら、こんなにも急に増えなかったかも知れないと思えてならなかった。モンペ第一号は依田大尉の娘さんだった。
この事件後間もなく依田大尉戦死の報に接し、子供ながらも非国民事件を想起し、深く反省したものでした。


暴力主義の学校

天皇の写真が講堂に掲げてあり、この「御真影」の前で最敬礼をさせられたり、集まった時には、皇居の在る東の力に向って、最敬礼をしたりさせられた。
天皇崇拝を一つの柱とすれば、もう一つの柱は暴力主義教育であろうか。女の先生が担任であった一年、二年の間は別として、三年の時、代用教員で赴任した若い男の先生が担任になってからは、先生が子供を殴らない日はなかった。或る時、何か物が盗まれて、それを盗んだのが、朝鮮人の某(名は忘れた)だと告げ口した者が居た。先生はこの子に「白状しろ」といって、クラスのみんなが見ている前で、一時間なぐり続けた。子供は何度もひっくり返り、その度に「立ち上れ。」と命じられ、またしても殴られた。その時間が終る頃には顔が異様に腫れ上ってしまった。それでもその子は頑強に「白状」しなかったので、今度はクラスの子全員が廊下に一列に並ばせられ、一発づつビンタを喰わされた。
パン、パンと次第に音が近づき、思わず目をつぶる途端に自分の頬が鳴って、耳がキーンと鳴り、殴られた顔半面が熱くなった時の恐怖は今でも覚えている。
先生の生徒に対する暴力は日常茶飯事であり、「一寸来い」といわれれば殴られる覚悟が必要だった。教育とはなぐることであった。これに倣って上級生の下級生に対する暴力も極端なもので、上級生に口答えしようものなら、寄ってたかって殴られた。道理に合うことを言えぱ「生意気だ。」という訳の分らない理由で呼出され、殴られた。暴力と脅迫によって人権を圧殺する教育体制であり、差別が大手を振ってまかり通る教育であった。
幼い頃の偏食がたたって、痩せっぼちで、腕力もからっきし弱かった私などは、いつも差別され、隅っこでおびえていなければならなかった。戦争が進むにつれて、勉強が少なくなり、校庭をつぶして「サツマイモ」をつくり、田植えなどもした。大人は食糧不足や物資不足に苦しみながら、松の根堀りをした。防空頭布をかぶって登校し、空襲警報の度に、一目散に家まで走って帰った。
このような暗い時代に少年時代を過した私は、小学校時代の想い出は暗い不快なものが多い。このように無残な教育を強いた者、国民の圧倒的多数を塗炭の苦しみにひきつり込みながら、その犠牲の上に大儲けを企らんだ一握りの者達に私は腹の底から憤りを感じる。戦後二十八年、今また戦争によって利益を貧ぼろうとする勢力は、天皇崇拝の復活を企て、軍備増強を図り、教育内容や体制に軍国主義教育を復活しようと策動している。


『吉原百年誌』(吉原校百周年記念実行委)(昭50)

明治時代の子どもの目に映った町の暮し
正月  正月は、三日間ともおぞう煮は、ぜんざいでした。いわれはわかりません。羽根つき、かるた、百人一首などで遊びました。正月のおもちは、年末に一俵か二俵つきました。大人の人は元旦の朝、水無月さんや朝代さんへお参りし、二日の朝は舟ごとに、ふなだむさん(舟の神さん)にお参りしました。七日正月には七草がゆ、十五日にはあづきがゆ(正月おさめ)をいただいてお祝いをしました。

二月  せちぶさん(節分)には、みそ豆をいって、紙に年の数の豆と、一文銭を包んで体をさすりなべづかみと一緒に町の四ツ辻へほかしました。もちろん家では「鬼は外、福は内」といって豆をまきました。夜、大きな袋をかついだ男の人がやっこはらおう,やっこはらいましょといって、まわってきましたが大変恐ろしかったです。また夕方には七とこ地蔵さん(七カ所の地蔵さん)へ参りました。

三月  ひがんには、必ずおもちをつくり、お墓参りをしましたが、にってん(日天)さんのおともにつれていってもらいました。朝は上安の現在の榎トンネルの上の社に向って出発しておまいりをすまし、倉谷・西町・下福井を経て夕方に帰るのでした。お日さま(太陽)のおともで、昼食の大盛りうどん(新町)は大へんおいしかったです。

四月  四月は女の節句で、本当は三月なのですが、このあたりは一カ月おくれなのです。おひなさまは、母親のさと(実家)から、だい(親王と内裏)を祝ってもらい、それ以外の附属物は親類から祝ってもらいました。

五月  う月八日は、五月八日で新仏(しんぼとけ)があると、親類の人たちは松尾さん(松尾寺)へ歩いてお参りしましたが、亡くなった人が松尾さんの石段の下まで、お迎えに来ておられる……と聞きました。「こんぺいとう」を買ってもらって、大へんうれしかったです。

六月  節句には、おしま(老人島=冠島)まいりがあって、初めての男の子は赤いのぼりに、生れた子どもの名前を書いてお供えしました。漁師の人たちは五日に参って、その晩は島に泊り、六日の朝せり合い(競漕)をして帰りました。女や子どもは横波(白杉)まで迎えに行きました。

七月  水無月さんの夜祭りには、よいこらせ(吉原音頭)の踊りがありました。海水浴は白石(しろいし=匂崎)へ行きましたが、海水着はありませんでした。その頃はパソンツもなく、じゅばんと腰巻のまま泳ぎました。

八月 八月十五日の夜は、仏(ほとけ)さんを川に流しましたが、いまのような灯籠流しはありませんでした。仏さんを送ると漁(りょう)の出る前の日まで、毎晩おおこ路(学校前)と、加んし(西上)では、よいこらせよいこらせと夜あけまで踊られました。'
万灯籠(まんとうろう)は八月十六日の夜でした。

九月  お月見には、豆腐をきれいな皿にのせて窓のあたりにお供えしました。
ひがんには、春と同じように、日天さんのお供をしました。
十月  朝代さんのお祭りに、東吉原から太刀振りが出る年には西吉原から船屋台(ふなやたい)が出ました。

娘の尻たたき(六月)
節句には、少年たちが屋根にあげてあるしょうぶをあつめて、石を入れてみつねりにし、ほうこから帰ってきた娘や、道を通っている娘の尻をたたきまわるので、娘たちは、尻を手でかくして逃げまわる……といった風習がありました。


おたか(鷹)道
今は雑草と山イバラに覆われて通る人はなく、子どもが山イチゴを採るためにイバラにかきむしられて泣きつらをするのがおち。
その昔、明智光秀が全盛時代に、鷹狩りによく通った道である。あるとき、光秀が亡き母の供養のためとあって、お鷹道の沿道の民家に対して上納(税)の免除を布告した。その時代の人々にとって税を免じられることのよろこびといったら、たいへんなものであったにちがいない。税を免ぜられた人々は光秀を神のごとく崇め、朝夕燈明をあげて拝んだ。
僕が幼いころ、おばあさんがお光をともして明智様にさしあげますといっておがんでいたのをおぼえている。何代か前の感謝の祈りを六十一才で亡くなるまで朝夕欠かさなかった。



『野原校閉校誌』(平3)

昭和二十年頃の「開墾、疎開」の様子
戦火は日々に激しさを増し登校はかならず防空頭巾をかぶって登校。授業中も飛行機の音がするたびに危機感を感じ乍らの授業であり空襲警報が報じられると机の下にもぐったり防空壕に避難するなどで時間割通りの授業はしなかったように思います。グラウンドは余すことなく耕し、さつま芋畑でした。裏山から落葉を拾い集め堆肥を作ったり焼土を作って肥料にしたりしました。又、さつま芋の品種も味よりも量を重んじ護国いもという品種でした。そして耕地を無駄にするなということで遠く崎山(成生岬の近く)までさつま芋やカボチャを作りに行き、その時の弁当は麦ごはんに梅干し、漬物でした。先生の中には一升びんにお粥を入れてこられた時もありました。高学年の方々は冬に備えておおどう(田井と野原の中間点)へ薪作りに行き、私たち低学年もその薪を背負いに行きました。今のように履物も靴でなく藁草履でした。又、都会からは両親と別れて疎開してくる生徒も多く私達のクラスにも男女二人が親戚を頼って疎開して来ていました。当時は遊びも開戦ごっことか、陣取りといった遊びで玩具など殆どなく、身体を動かし身近にある物を利用し、工夫しての遊びでした。
昭和二十年の夏が近づくにつれ戦火は益々激しくなり当地にも空襲攻撃があるようになり、漁船(動力船)も機雷捜査にかり出されるようになり、奉安殿も艦船を建造するためだと銅鉄の供出のため取り壊されました。そして八月十五日まだ当地には数台しかなかったラジオで終戦を聞かされました。













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