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 文献資料の紹介
本文には載せられなかった丹後の伝説・昔話・神話・民話、その他を若干撰んでここに載せておきます。丹後周辺も含みます。
 資料は一応は公開されているものですが、すべて無断で引いております。もしご都合悪ければ、連絡下さい、即削除します。
 k_saito_site@ybb.ne.jpまで。

     このページの索引


丹後の伝説:48集
伊根浦のコンミューン


 伊根は丹後のパリ。スゴイとこ。
パリやフランスといっても、その本当のところは日本人に理解不能かも知れない、偉そうにいう私も知らないのだが−。

伊根浦の漁船

 いつのオリンピックだったか、フランス水泳シンクロチームのバックミュージックは「シンドラーのリスト」だった。
ウチのヨメさんはビックリして声も出なかった。しばらくして−、
「ナナナッ ナンデこう違うんやろね」
「シンドラーのリスト」というても誰も知らんような情けない国と、フランスと較べたら、そらぁ違うで。私はそうしか答えられなかった−
それくらいの落差があるから、簡単には理解できないかも知れない。政治の超先進国、マルクスだったか、階級戦が徹底的に戦われる国、その通りで、そうした歴史を背負う国の首都。それと少し似ている丹後のパリ、伊根浦。


 参考になるか、フランス国歌は「ラ・マルセイエーズ」。フランス革命のさなか、市民たちが歌ったという。その歌詞は−
「君が代」しか知らない者がら見れば、本物の市民とはどんなにスゴイものか、恥ずかしくて震えがくる。


HP「ラ・マルセイエーズ−フランス共和国国歌」より、
第1節
いざ祖国の子らよ、
栄光の日は来た!
我らに向かって、暴君の、
血塗られた軍旗は掲げられた!(2度繰り返し)
聞こえるか、戦場で、
あの獰猛な兵士どもが唸るのを?
奴らは我々の腕の中まで
我らの息子や仲間を殺しにやって来る!
[ ルフラン ]
武器を取れ、市民諸君!
隊伍を整えよ!
進もう!進もう!
不浄な血が我々の畝溝に吸われんことを!

古い人なら映画「カサブランカ」、今ならばワールドカップでおなじみかも、動画ならこれか「フランス国歌−日本語訳
」「Le Quatorze Juillet 2008 Vol.03−パリ祭 Bastille Day」  「Roberto Alagna - La Marseillaise
日本では、というよりそんな呼び方をするのは日本だけらしいが、「パリ祭」と呼んでいるが、本当は1789年7月14日のフランス革命記念日である、世界史の年表でも見てもらえればわかるように、この日から近代史が始まる、そんな近代史開始記念日でもある。もしや近代市民のつもりなら、もしや近代国家のつもりなら、自分の誕生日は忘れてもこれは忘れるなといわれた7月14日、近代市民のわれらにとっての誕生日であり、その時に歌われるフランス国歌はわれら世界の近代市民の国歌でもあるわけになる。
 クソどもが我らを殺しにやってくる、市民よ武器を取れ戦え!進め進め!クソどもを殺せ!
そんな調子で歌われる。クソとは旧封建勢力のことで、舞Iでいえば幽斎とか天皇とかいった者となろうか。
これが彼らが世界に誇る国歌で、かの国では小学校の入学式や卒業式でも、こう歌われるのだろう。幽斎を殺せ、天皇を殺せ。と。実際にそうした旧勢力をさっぱりとギロチンにかけて今のフランスがある。世界の近代がある、これが近代市民というもの、テレビや車を持っていることではない、こうした社会経験を持ち、それを誇りにし、今も大声で歌っているのが近代市民のあかし。君が代歌えというクソどもか聞いたら腰抜かすに決まっているこんな歌が本当の近代国家の本物の国歌である。幽斎まつりだったか田辺城まつりだったか、あまりにすばらし過ぎて哀れになるほどの申し分なしのド田舎者で超時代遅れ、フランス市民が見ればオマエらの頭は絶対にどうかしていぞいわれること間違いなかろうかと思われるような、世界遺産級舞I市民には絶対に信じられない国歌ではなかろうか。逆にフランスから見れば舞I市民などは絶対に信じられないエセ「市民」となるわけであろう。三発目の原爆はどこに落とされるでしょうか、と問うと、何を言ってるんですか、それはアンタの国でしょう、何を言ってるんですか、とフランス人はこともなげに答えたという。オマエのような腐った頭の上で炸裂するんジャイヤ、キマットルだろうがということか。子供は未来の市民である、子供の前ではアホはするな、アホはうつる。こんなものには決して動員をかけるな、未来の世界市民にアホがうつったらどうする。アマエらだけで全世界から笑われながら静かにやれよ。よもや税金などは使ってはおるまいな。
封建勢力を打ち倒して、市民が人類史に登場し国家権力を掌握する、これがフランス革命。別に革命家の養成をしているわけではありませんが、こんなことはブルジョア国家のガッコウその他もろもろでは教えてくれないかも知れないので、少し書いておきますが−。

 しかしこの市民には実はブルジョワとプロレタリアの2つの階層がある。資本家と労働者である、経営者と勤労者、持てる者と持たざる者である。近頃政治行政などでも「市民」という言葉がこれを区別せずによく使われるが、市民といっても二つの階層がある。この間には厳しい対立がある。一方には遊び呆けていても持てないほど持っているわずかな者と、他方には働けど働けど暮らし楽にならない者がたくさんいる。この両者のマンナカあたりが市政などには出て、ワシほど偉い者はおらんという顔してやるのだが、大失敗の連続しかできない。ワシは市民派だと言うだけでは何にもわからない、ワシは金持市民の味方の市民だとか、ワシは貧乏市民の味方の市民だとかを自己の立場を明確にすべきであろう。己が立場も自己認識できない程度であるから、ナンマカもダメである。
これは近代市民社会の仕組みが悪いからで、今の社会では一方に富が他方にはその反対物の貧困がつくられていく。経済の原則だから、これはマルクスなどが分析する通りに貫かれる。人間の善意や賛成するとか反対するとか人間の意図などとは関係なく今の社会制度のもとでは貫徹する法則である。きわめて単純で一方が豊かなのは他方が貧困だからであり、一方の貧困の原因は他方の豊かさにある。富が公平に分配されてないのが今の社会。従って何とか公平にと両者の間で戦われる、全世界で公平が実現されるまで戦い抜かれる性格のものであるが、両者が徹底的に戦われるのもフランス、今も戦われている、それが現代という時代であろう。武器は取らないが、ストを武器にする、大きなのが連発する。消防車も水道も止まる、という。ストで失われる日数は日本などでは信じられない数になる。オマエらクソが偉そうにぬかしくさって、そんなことなら社会の全部を止めるそ、というわけである。ここでのクソは大資本とその代弁者のクソ政治屋どものことになる。
口先だけの論議だけでは社会はよくなったりはしない。リクツの論議をしてもどちらにも一応はそれなりのリクツがあり、決着がつかない、これには実力がなければならない。持たざる者が社会の圧倒的多数派である。それならもちろん議員数も圧倒的多数派でなければならないのだが、実際はそうなっていない。逆に持てる者が圧倒的多数派である。ここに実はブルジョワ国家組織の超巧妙なカラクリがあるわけであり、ブルジョワ国家組織というものはどう転んでみても所詮はそうしたインチキヤシのマヤカシの仕組みのようである。「誰がやってもアキャーセン」といわれるのは、そうしたわけであろう。この仕組みのなかではどうもがいてもアキャーセンかも知れない。低い投票率、支持政党ナシの無党派層が最大会派、国家秘密がボロボロと漏れるとか、完全に国民の支持を国家が失っている、アホにしているのが、こうしたところにそれが見える、投票はしても政治がも良くなるとは有権者の誰一人期待していないのが現状で、もうあかへんという末期状態なのである。国民をアホにしてきたツケが跳ね返ってきたのである。今度は国家が国民からアホにされる。
ではどうすればようか−、そんなものに甘い幻想を抱くな、もともとが民意を粉飾している何百年の前のヤシ国家の仕組みではないか、それをコソコソ改良しても根が腐っている以上もうムリだ、これが回答だとコンミューンは示している。国や自治体などというものに、神話的迷信的期待幻想を抱くロマンティストはもうあまりいないと思われるが、それでもごくまれにはたまには見られる、右にも左にもいる。もうそうした時ではないのだがー

 腐敗不正義のうえ大ムダゼニばかりを喰い大アホばかりをいい何の役にもたたず、エエカッコ言ったさきの足元からドロ足人形のようにボロボロと哀れにも崩れ落ちていく、ポンコツ車のように、あっちが故障こっちが故障の連続、こんなブルジョワのクソのように腐敗した国家組織にとって代わったのが、パリ市民のコンミューンであった。今の国家制度とか、自治体制度の骨格はいつの時代のものか私は詳しくないが、軍隊はたぶんナポレオン時代、国家もそうかも知れないかと思われる。アキャーセンものを棄ててコンミューンに置き換えた、新型車に乗り換えた、蒸気から水素エンジンへのような大飛躍であったが、これが一時国家権力を掌握した。人類最初の労働者政府・社会主義革命ともいわれる。プロシャ軍に包囲されたパリで、予めの計画や準備あってのことでなく、指導部があってのことでなく、わずか72日間のものであったが、多くのすぐれた遺産を残している、現代日本の政治の中にもケッコウそれは多く取り入れられている。廉価のうえしっかり仕事をする政府や自治体はこう作るんですよの見本であろう、常備軍廃止、官僚制廃止、議会主義廃止、…、民意を反映しておらず、ただ大金だけは喰うだけの現代社会のガンからまず廃止していく。こんなガンが肥大した日には母体の人間社会そのものが死んでしまう。軍人や役人や議員などはいればいるだけ納税者はソンでしかない、納税者である民意を受けた仕事などまったくもってしない、己が属する組織体の上ばかりを見ているクソどもにわれらのカネでタダメシ喰わせている余裕はもうない。さすがにこのあたりの感覚はフランス人で、こうしたことはフランス人の経験と頭脳がトップではなかろうか、フツーのオッサンやオバチャンたちがこんな大政治家でもムリな大仕事をみごとにやっていく、日本の自称大革新派程度なら思いもつかない話でなかろうか、行革のベッピン大臣も革命党もマッサオであろう。意外とそんなもので、人類史の未来をみせてくれているのかも知れない。革命家を養成しようと企んでいるのではありませんよ、現在の政府や自治体のていたらくに悩む市民として参考にされたらどうですかというのであって、大変におもしろいので別途勉強してみて下さい。公共に関する仕事はその成員の皆で手弁当で無報酬でやるのがあたりまえ、それを嫌がって仕事もさらさん職員や議員どもを撰んで大金だしてやらせるような話ではないはず、そんなことではこの最悪のクソ連中だってやるわけはないのである。
官から民へ。これはよく言われるが、この民はブルジョワのことである。何でもない、大金持ちどもの腐った政府や自治体から、大金持ちども所有する民間企業へという話であって、ブからブへである。クソからクソへである。民間の大金持ちにさらに金儲け仕事を世話してやろうという話であって、一般市民には何もさほど有り難い話でもない大ごまかし。民間企業というけれど、いい仕事をするのはブどもではない、そこの労働者である。ブですらあれくらいできるなら、労働者ならその万倍はできる。大事なのは官から民への民は私的ゼニモウケを目的としていない普通の一般市民自治団体でなければならないことである。常備軍も、官僚も、議会も彼らにまかせるということである。そんなことが可能かと思われるかも知れないが、そうしか廉価でしっかり仕事をする政府も自治体をつくる道はないようである。
一般市民にとっての町作りの役割はまつりや観光ガイドをすることではない、そんなケチなアホくさいことではない、自治体や国政を自分たちが担う力量を培い、実際に担うことである。それ意外にはこの社会はよみがえる道がない。「ボランティアですから何でこんなことせんとアカンのやと思ってましたけど、やってよかったですよ、1年だけでしたけど、いろいろな面が見えるようになりました」と大抵の人はいう、1年間だけみんながやらねばならない話ではないか、公共生活している以上は当然だし、その体験がその人を公共人として成長させる。誰かが何かやってくれるなどとは期待しないのなら、自分たちでやるより手がない。社会の成員のだれでもが一般労働者のようなアホほど安い給与で1年か半年だけ公務員や首長や議員になるべきだと思う。これで大きく歳出が削られタダ同然になるし、仕事の能率は百倍にあがり市民の声は大きく反映され腐敗はゼロに借金もゼロとなるだろう。仕事もせんようなモンに限って給料あげてくれ、なとどいう、病院つぶしをしたりする、まじめに仕事をしている一般市民ならそんなアホは言わないし、しないと期待してよい。
 パリ・コンミューンはマルクスやレーニンも深く深く学んだ経験であった、レーニンはコンミューンの歴史をすべて暗記していたほどという、そうでなければウソの革命家だと思う。「フランスの内乱」「国家と革命」など彼らの名著中の名著が残されている、こうした大革命家ならずとも、というか彼ら大革命家の名のほうがはるかに高くて、肝腎のものがかすんでしまい正しくコンミューンそのものが理解されていないようにも見えるが、社会をよくしたいと願う市民としても大変に興味深いものを残している、というよりもこの経験は貧乏市民しか勉強しないのでないかとと思われる。教祖のようには実際の歴史に学ばない会派連中ばかり、これよりもパリ市民や伊根浦に学んだほうがはるかによいかも知れない、コミュニティなどと今でも呼ばれているものである。コミュニストは共産主義者と訳されるが、元々は中世自由都市の領主の支配に対する都市の自治主義者に発する言葉であろうか、共産党などと名乗らずに自治党とかコミュニティ党とかにした方が当人たちにとってよいのではなかろうかと思ったりしているのだが、どうだろうか。簡単にはムリだけれども、これくらいを予備知識として以下を読んでいただければよいかもと思う。
 コンミューンは地方自治体と訳されたりしているが、現在の××市のような自治体ではなく、自治組織とでも呼べばいいのか、ある程度の自治を許可されていた中世ヨーロッパの都市、自由都市のことで、その都市の今で言えば町内会や青年団や労組や協同組合その他もろもろの地方組織が都市を単位に一つにまとまったもの。皆がおのおの自分の仕事をしている労働者で、そこらにいるごく普通のオッチャンオバチャンたち、誰もセンモンの行政官や政治家ではない。こうした団体は普段はとぼけたような超無能組織のようにも見えるが、危機に臨んでもしまともに機能すれば信じられないような大感動の大変身をする。勝手な事しかしない役に立たない仕事しない給料だけは高い腐った代理人に任せるのでなく、働く人がジカに自治や国政を担当することである。何も革命とかそんな難しい話ではない、ブどもはそう宣伝して怖がるが、話は簡単でそうした直接民主主義こそが理想であるが、まさか10万人が一堂に会して議論し仕事することはできない、ということで、今は代理人たちが分業でこの役を代行しているという建前にはなっているのだが、こうした原理はクソどもの頭には何もなく特別の偉い者にでもなったかの如くに考え違いをして勝手なことばかりをしている。マルクスは労働者階級は単に出来合いの国家組織を掌握して、それを自分自身のために使うことができない、としている、ブさんなどの支配者のための国家組織であり、それは解放のためのものに使うことができないものである、コンミョーンこそが遂に発見された解放の組織だという、それがパリ・コンミョーンの何よりの教訓だと、しかし新しいことはとっくの昔に忘れられた古い物であるかも、コンミューンは人類の誕生とともにあったのではなかろうか、そこでそうした古代以来のやり方にもどそうという話になるわけである。人類の遠い長い過去がこうであったし、そして人類の未来もまたこうであることになる。
リンカーンも言ったとか、クソによるクソのためのクソの政治から人民による人民のための人民の直接の政治へ。と
 人間はそう創られたものなのだと思わざるを得ない。まともな組織や団体の中でこそその全実力を発揮する、まだまだ隠された未開発の人間能力を秘めた大物創造物だと考えざるをえなくなる。「昔は80%くらいの子が加入しましたが、今は10%を割ります、組織へ入ると縛られると思うのか嫌がります、別にスポーツがうまくなるとかそんなことでなく、入ることが大事なんですけどね」とスポ少の老幹部も言う。「ズボンのベルトが締められない、靴の紐が結べない、そんなことから教えます」「イヌやネコを育ててるんじゃないでしょ、人として育てなければならないんでしょ、人として間違った事をして先生にどつかれたら、喜べばいいでないですか、オヤはもっとどついて下さいと言うのが当たり前でないですか、それが文句いうというんですから世の中まちごうてますよ」とボヤキまくる。ブルジョア的超腐敗観念がいかに深くすべての市民に浸透して政治行政面だけでなく、社会のあらゆるところで問題を生じているかをかいま見ることがてきそう。そんなことでコンミューンを見てみようと考えるわけで、しかし手元にある資料は限られていて、とりあえず、あるものだけを出してみます−




  「伊根浦コンミューン」




 『舟屋むかしいま』
 
… 
「網元のいない村」「全員が資本家で労働者」「社会主義的な村」などと言われ、多くの識者の研究対象となりました。
 伊根浦には近世初期から「鰤株制」がはじまり、有株者は田畑をもち、鰤・鯨・江豚・鮪(まぐろ)などを獲る権利をもち、村の役につき、「百姓」「役儀者」と言われました。一方無株者は、田畑はなく、小魚をとることしか許されず村の役にも一切つけず、「水呑」といわれ差別され続けてきました。この社会的・身分的差別が解消されるには、長い苦悩にみちたたたかいがありました。


波静かな伊根浦でもパリと同じで、「水呑」たち、無産者たち、今では研究者たちによって海上コンミューンとか伊根共和国とか呼ばれているが、伊根人民共和国だろうか、なにも突然できたわけではなく、持たざる者たちの長い長い長い苦難の不屈の戦いがあった。彼らが勝利することによって、「伊根浦のコンミューン」が成立する。パリには第一インターがあり、マルクスなどがいて助言をうけることもできだが、ここには誰もいなかった。





『舟屋むかしいま』

「魚納屋」「せり屋」「追掛」の中間搾取にナカされる

 漁師たちは捕ってきた魚を自由にすることさえ許されませんでした。宮津藩主の京極高広は、寛永二年(一六二五)「肴運上」を命ずるとともに、城内家中や城下町民の食糧確保をするためにと、宮津の有力者に命じて魚納屋(魚問屋)を開業させました。
 当初は鯛、小鯛の他は自由販売が認められていましたが、後になって、一切「他所売り」厳禁となり、捕れた魚は全部この魚納屋に集められ、「せり」にかけられました。

 いねのおっかけは 日ぐれのからす
 金も持たずに かうかうと (伊根の投げ節)

 この魚納屋の下で魚の買い集めをしたのが「追掛」でした。おっかけは、漁師から直接魚を買い集め、「ともぶと」で魚納屋に持ちこみました。おっかけは宮津藩の許可制でした。
 魚が生物であるため、漁師はおっかけに買いたたかれ、問屋も又おっかけを買いたたきました。特に鯖などの豊漁の時は、いっそうひどかったのです。その上おっかけは現金買いでなく、あとから米で清算するのであり、それもだんだん悪い米にするなど漁師はひどい目にあわされました。又魚納屋との間でも、「仕切り」の不正や・支払いの滞りなど、魚納屋が浜手といわれる漁村を食いものにするのが当たりまえのように通用していました。
 宮津藩は、魚納屋からは「扱い歩」を、魚納屋役人やせり屋、おっかけからは「御冥加銀」をとりたてました。つまり宮津藩は、一方で城内家中・町民の食糧確保・流通の便をはかりつつ、一方で水揚を残らず掌握し、二重三重に年貢をしぼりとることをねらっていたのです。
 大きな不満を持ちながらも、漁師たちはみずから市場を支配することは出来ず、おっかけ・魚納屋の搾取に長い間泣かされてきました。しかし、ただ泣き寝入りであきらめていたのではありません。「他所売を自由にしてほしい」「おっかけの米による清算方法を銀買いにしてほしい」などと、宮津藩へ嘆願したり、魚納屋と漁師の手取り高についても争いをおこしたことが、記録に残っています。「他所売り厳禁」の布令が、何回も出されていることは、やむにやまれぬ漁師たちの、「他所売り」の実力行使による抵抗があったことを示しています。
 このような争いにより、おっかけが、魚を買うのでなく、問屋へ運んで運賃をうけとる「歩一」制度に改められるなど一定の前進をしています。特に大きな改草は明治以降になってからです。あまりにひどい仕切銭の不払いや不正に、伊根浦三ケ村の漁師は、役所へ訴願をしたり、魚納屋への「不売同盟」をつくって抵抗したりしています。そして、遂に明治一八年(一八八五)には「魚問屋改正契約書」により、浜手村(亀島・平田・日出・大島・新井・蒲入・小田宿野)二千円、東魚問屋二千円・西魚問屋二千円と三者が夫々出資をして合資会社をつくります。更に昭和九年(一九三四)には、京都府水産会が従来の組織の設備、営業権を買収して「販売斡旋所」を発足させ、ここにはじめて漁師は自分達の集荷と販売の機関を持つ事になります。この「販売斡旋所」は「水産物共同販売所」へ、そして現在の京都府漁業連合会へと継承発展させられました。
 おっかけも現在はなくなり、伊根漁業協同組合は、みずからの運搬船とトラック(保冷車)で出荷をしています。
 魚納屋、せり屋、おっかけなどの中間搾取からの解放は、このように長い間の苦労とたたかいによってはじめてかちとられたのでした。


「苛斂誅求」、されどしたたかな漁師の生きざま

 「百姓共は、死なぬ様に、生きぬ様にと合点致し、収納申し付く様」  (昇平夜話)
 「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」
             (西城物語)

というのが、江戸幕府の百姓にたいするあくなき収奪のありかたであり、この考えは、漁師にたいしても貫かれていました。
 宮津藩は、田畑の少ない伊根浦三ケ村にも、他村と同様の年貢を課した上に「肴運上」を課し、更に鰤については特別に「鰤運上」を、又鯨には、捕れる度毎に、「鯨運上」をかけました。このうえに、魚納屋制度で、全漁獲をつかみ、魚納屋・おっかけに年貢をかけるのですから、漁師は二重三重にしぼりあげられたのです。
 鯨が捕れると宮津藩の役人が出張して来ました。鯨の長さは、頭の先から尻尾の先まで縄を張り、亀島の長である総代(取締り、村長、里長、戸長など、その名はいろいろ変った)がその繩を、二尋・二尋と測ります。この時はかり手は、帳面などを入れてふところをふくらませ、縄をそれにかけてたるませ、手を持ちかえる時にひじを交叉して持ちかえるなどして、一〇尋の鯨を六尋か七尋にしてしまいます。たちあいの役人には酒をしこたま飲ませ、手みやげをつけて口を封じてしまったといいます。鯨のとれた事を報告せず、まるまる「鯨運上」をごまかすことも度たびでした。
これを「かくし鯨」といっていました。
 鰤運上は一、三〇〇本分銀で上納しましたが、ときには一二一本しかとれない不漁の年もありました。漁師達は、「乍恐」とすこしもおそれず藩へ減免を願い出、五ケ年間半分に減免させたこと(延享三年)や、証文を入れて借用の形で滞納を許されたりしました。
宝暦九年(一七五九)には、この不納分が四、〇六九本分にもなり、藩主青山氏国替えの折をねらって苦渋を訴え、遂に帳消しをかちとっています。
一方「かくし鰤」四四〇本が発覚し、その分を上納させられただけでなく、過料をとられ、役人への賄賂をふくめ、一、〇九一本分、米にして約一〇〇石分にも及ぶ大損害をこうむったこともありました。
 このようにきびしい宮津藩の年貢とりたてにひるむことなく、漁師たちは、正面からは年貢の減免を願い出、時には裏の手をつかい、更には「他所売り」「かくし鰤・鯨」など実力をつかいながらしたたかに生き、くらしと漁業を守り続けてきました。


過酷な鰤運上(鰤年貢)のこと

 鰤は「名魚」として珍重がられ、「伊根鰤」といえば、天下の札物とされ、宮津藩領内では、加悦谷の絹織物とともに、重要な産物でした。漁獲高も多く、伊根浦漁業にとっても大きな比重を占めていました。宮津藩はぬけ目なくこの鰤に重い年貢をかけてきました。
すなわち、肴運上の別に、「鰤運上」として、伊根浦三ケ村に年間一、〇五五本を課していたのです。

寛文一一年(一六七一)亀島村免定に
 銀三百拾匁四分     肴運上
 銀弐貫八百五拾六匁六分 鰤運上
  此鰤六百弐拾壱本  但壱本ニ付四匁六分ヅゝ、
 (貞享二年以後は、三貫五百弐拾三匁六分、七百六拾六本となる)
とあることから、鰤運上は他の肴運上の九倍から十一倍の額であり、鰤の比率が如何に高かったかを知ることができます。
 鰤はトモオケ(伴桶)と呼ばれる大きな桶(直径、深さとも約一b〜一・五b)に、丸ごとで一三日から二〇日間塩漬けにし、藩の命令ではじめて口あけし、御用鰤として宮津藩へ現物で上納しました。しかし後年寛文六年(一六六六)京極高国の代に、親子のいざこざから領地を没収され、幕府直轄領−いわゆる「御蔵入」−となった時から、銀運上に改められ、鰤一本銀四匁六分と定め、伊根浦三ケ村で一、〇五五本分、銀四貰八百三拾五匁をとりたてられるようになりました。当時の米価と比較すると、鰤一本が米一斗(明治初年では米二斗)にあたり、一、〇五五本は一〇〇石を上まわるものでした。


『伊根町誌』
鰤運上
 鰤刺網を中心として漁場はすべて株制の下にあり、株は特定のものがもつ権利であり、そのためには今日の営業税にあたり、領主に鰤運上を銀納して保護をうけた。鰤運上の額は水揚の一○分の一が税とされ、寛文十一年(一六七一)から貞享元年(一六八四)までの免定を見ると亀島村六二一本、平田四○四本、日出三○本の合計一○五五本であったが、鰤一本に付き銀四匁六分として上納された。

 その後享保二年(一七一七)に宮津九万石の領主奥平昌春が、一万石加増されて豊前中津へ転封し、同年六月信州飯山城主青山大膳亮幸秀(幸侶)が四万八○○○石の大名として宮津領主となると、前代との差四万二○○○石が幕府の直轄領となり、この時伊根町内二○か村のうち菅野・平田・亀島の三か村のみが宮津領として残り、一七か村は天領に組み入れられ、日出村は天領として久美浜代官所の支配下に入った。そのためこの年から宮津藩への鰤運上は三か村一三○○本のうち日出分六七本を差引いた一二三三本が亀島・平田分として上納された。
日出村はその後青山氏が美濃国郡山へ転封し、代わって遠州浜松の城主本庄資昌が七万石余で宮津領主となった宝暦九年(一七五九)に、泊・井室・六万部・本庄宇治・蒲入・長延と共に七か村が宮藩領に復し、幕末まで宮藩領として鰤運上は元の三か村で一三○○本が上納とされた。
 江戸時代に鯛の水揚げ高はどれほどであったか、「かくし鰤」もあり正確には明らかでないが、記録としては多い年で一万本から一万五○○○本であり、不漁の年は鰤運上を滞納している。宝暦九年(一七五九)四月の「乍恐奉願口上之覚」によると、延享三年(一七四六)から寛延三年(一七五○)まで、不漁のため五か年間平田村・亀島村二か村の鰤運上一二三三本を半分の六一六本とされたが、延享三年(一七四六)には九六本だけ上納し五二一本をとどこおり、証文を出して借用の形がとられ滞納している。その後更に不漁がつづき平田村・亀島村二か村の鰤水場が
  宝暦五年(一七五五) 七七二本
  宝暦六年(一七五六) 七七五本
  宝暦七年(一七五七) 二一六本
  宝暦八年(一七五八) 一二一本
と最低を記録し、宝暦九年(一七五九)にはついに不納分が累積して四○六九本となったが、丁度当時藩主青山幸道が美濃国郡上へ国替えになった機会に、これまで「拝借」の不納分を、不漁で困窮しているから「被下候様」と納めずに済まし、帳消しとなった。





紛争につぐ紛争、その上に築かれた現在の漁業秩序

漁師にとって海は、百姓の田・畑・山林と同様、みずからの死活にかかわる重要な生産手段です。土地の前面の海がそこの住民のみに利用権が与えられ、沖は入会というのが基本です。しかし沖と磯の境界はどこかということや、貝類・海藻・地付きの魚は別として、多くが回遊する魚であることから、海には陸上の田・畑・山林とちがう数々の複雑な問題があります。
このため、古くから漁場と漁法をめぐっての紛争がたえませんでした。特に伊根浦では鰤漁については最も神経をつかい、機敏な対応をして、鰤漁獲をおとさぬ真剣な努力がなされてきました。
古くは寛永一八年(一六四一)に、亀島村と平田村との間で、湾内の鰤刺網漁場をめぐる紛争が発生しています。
ついで貞享二年(一六八五)のこと、宮津藩が田井村と長江村に鰤刺網を許可するという問題がおこりました。鰤は若狭湾を時計まわりするから、前面でとられたら、田畑の少ない伊根浦は食っていけなくなると大さわざになりました。早速藩へ「田井村分三〇〇本、長江村分六〇本の鰤運上(鰤年貢)を伊根浦三ケ村が身代り上納するから、田井・長江二ケ村の鰤刺網を禁止してほしい」旨陳情し、その目的を達しました。このようにして伊根浦三ケ村は、与謝海における鰤網漁業を独占することをかちとっています。
 江尻村の「鰤なわ」や鰯刺網にも目を光らせ、明和八年(一七七一)、文化一一年(一八一四)に、「差し止め」の陳情を宮津藩に行っています。
 すぐ隣の大島村との間でも、陸の境界の問題や、鱈・柔魚・鰹などの小定置網をめぐり、何回となく紛争をくりかえし、明治末年以後は大型定置網の基点・押出し間数・方位・期間等をめぐり、伊根村対養老村ではげしい紛争がくり返されています。
 また後面の大原村・新井村からは、攻撃をうける立場にたたされています。明治四二年(一九〇九)には、京都府が認めた割粟二号の鰤大敷免許が、新井部落のおこした裁判で、京都府と伊根村側の敗訴となり、取り消されるという事態がおこっています。しかし伊根村はあきらめず直ちに、網の押出しを下げ、少し西によせて再度申請して免許を獲得しています。これら裁判は、鑑定人三名をたて、鰤の魚道をめぐってはげしい論争が行なわれています。
 このように海をめぐる争いはひんばんにおこり、きわめてはげしく真剣なものでした。現在の各漁場の均衡と、各種免許、許可漁業の制度は、先輩達のこうした紛争と、その解決への努力の上にきずかれたのでした。




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