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 文献資料の紹介
本文には載せられなかった丹後の伝説・昔話・神話・民話、その他を若干撰んでここに載せておきます。丹後周辺も含みます。
 資料は一応は公開されているものですが、すべて無断で引いております。もしご都合悪ければ、連絡下さい、即削除します。
 k_saito_site@ybb.ne.jpまで。

丹後の伝説:20集




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八溝山の鬼(茨城県)


「与保呂の里」



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蛇切岩伝説、毘沙門天伝説、金鶏伝説、他


蛇切岩伝説(舞鶴市与保呂)





『舞鶴市史』に、

蛇切岩  (与保呂)

 昔、多門院の黒部に、姉をおまつ、妹をおしもという美しい姉妹がいた。姉は十八、妹は十五でともに黒部小町とうたわれ、村の若い者はひそかに胸を焦がしていた。しかし、言い寄る者はすべてはねつけられ、嫁にといわれても断られるので、果てはおまつは片輪ではないかとさえ陰口をたたかれたが、それでもおまつは頑強に情なしで通していた。これには大きな理由があった。蛇切岩伝説(与保呂校藏)(同校昭15卒業の由里利信氏作)
 おまつ、おしもの二人は、いつも仲良く姉さんかぶりのかいがいしい出で立ちで、黒部から与保呂の奥山へ草刈りに出かけて行った。そこには美しく澄み切った池があった。ある日、いつものように二人出かけて、美しい池の面に姿を浮かべながら芝草を刈っているうち、おまつがホッと一息ついて腰を伸ばした目の向こうに、異様な姿を見出した。そしておまつの頬にはさっと薄紅の紅葉が散った。異様な姿、それはこの地方ではついぞ見かけぬ若衆姿だった。年のころは二十一、二か、くっきりと白い頬に明星のように輝く目、魅せられたように自分を凝視する若衆の姿はおまつの胸から永久に去らぬものとなった。
 それからおまつば、妹と一緒に出かけるのをいとうようになった。いつか一人で出かけては美しい若衆と相語らうようになり、末の契りまで結んでしまった。その時も時、おまつに縁談が持ち上がった。愛する若衆があることも知らず自分に結婚を強いる親がうらめしく、いつも言葉を濁していた。ある日、どうしても妹おしもとこの池へ出かけねばならないことになった。若衆は例の如く池の畔でおまつを待っていたが、おしもが一緒にいるのを見てさも驚いたように姿を消した。おまつはハッとしたが、もう遅い。かねていいつけられていたおしもは、この秘密の恋に酔いしれている二人の仲をはっきりと悟った。さてこそこのごろ自分と一緒に山に来ない姉の心が分かった。嫁に行くのを拒む姉の気持ちもうなづけた。
 おまつは「私は今日限り家に帰らぬから、あんた一人で帰っておくれ」と言い出した。おしもはびっくりして「そんなこといわないで一緒に帰ろう」とすがってみたが、姉はどうしても帰ろうとはいわなかった。姉妹が袖を引き合っているうち、おまつはさっと袖を引き離したかと思うと、あっという間もなく身を躍らせて、池の中へ飛び込んでしまった。おしもが驚いて、身を引くと同時に、空がにわかに曇って雨がざあっと降り出した。いままで静かだった池の水が波立って来たかと思うと、そこに池一ぱいになった大蛇の姿が忽然と現れ、おしもの方を見守ったあと、間もなく池底深く姿を消してしまった。蛇切岩伝説(与保呂校藏・1981卒業生製作)
 おしもは、ただごとならぬ二度までの出来事に卒倒せんばかりに驚いた。宙を飛んで馳せ帰り、一部始終を父親に告げた。父親は驚き「情けない。そのような姿になったか。因縁ならば詮ないが、やはりいままで育てた娘である。どうしても娘の姿を見ずにはおられない」と、取るものも取りあえず、与保呂奥の池畔まで駆けつけ「おまつ、おまつ」と娘の名を呼びながら泣いていると、またもや池の水が騒ぎ立って現れたのがおしもが見た通りの大蛇であった。父親をうらめしく見やりながら姿はそのまま池の底へ−
 それから池の主の大蛇がなんの恨みがあったか、付近に仇するとの噂が伝わってきた。事実、蛇に悩まされることが多かった。このまま放っておいては、どんなことが起こるかも知れぬ。与保呂村の人々はいろいろと相談の結果、大蛇は殺してしまうほかはない、ということになった。しかし、その手段がなくて困っていたところ、一人の村人が「自分が見事に退治してみせる」といい、モグサで大きな牛の形を造り、その中に火を点じておいて池の中へ投げ込んだ。大蛇は好餌とばかりこのモグサの大牛を一口に呑み下した。モグサの火は次第に牛の体一面に広がっていった。見る間に一天にわかにかき曇り、豪雨が沛然と降り出した。池の中の大蛇は、腹中の火に苦しんでかもがき回り、のたうち回り、それにつれて池の水は次第に水量を増して溢れ出し、洪水となって流れ出した。堂田神社(舞鶴市八反田南町)
 恐ろしい勢いで流れ出した大水の中に、ついに倒れた大蛇の死体が見つかった。それが下手の岩の所に突き当たると、水勢のためか大蛇の体は三つに切断されてしまった。村の人の驚きは一方ではない。おまつの化身だおまつのたたりだ。このまま放っておけないとあって、三つに切れた大蛇の頭部は奥の村の日尾神社に、胴のところは行永の橋付近の田んぼの中にあるどう田の宮に、尻尾は大森神社に祭った。そして大蛇の当たって切れた岩を蛇切岩といった。
 以来幾百星霜、いまなお不審なのは、与保呂村の神社の境内に限って松の木が一本もない。それから日尾神社向こう側の山(宮山)の一部だけには、松の木がどうしても生えない。それからいま一つは、蛇切岩の割れ目の所に絶えず白い姫蛇がいて、優しい姿を見せている。それがちょうど、天気予報のように、天候によって色を変える。晴れの日にはぎわだって色が白く、雨の日には茶褐色を帯びるというのである。

作品が芸術の力と香りを持てるかどうかは一つは信仰心だと思える。どちらも芸術の域に達するようなできばえ。村人の心の中にこの伝説が生きてるように思われる。生きている限りは村もまだ生きている。

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『市史編纂だより』(昭48.10)に、

日尾姫神社の由来
       (常新町)的場広 新谷忠次さん

 旧与保吊水源地(現存)に大昔、大虻が住んでいたが、村娘の松子に恋慕した。これを知った親は大いに恐り、父親は村人と一計を案じ、池の周囲に酒ダルを並べ大蛇に飲ませて酔わせ、これを焼打ちした。大蛇は苦しさの余り大暴れして、遂に放水ロにある岩にぶつかって頭、胴、尾と三つに分断した。
 村人は大蛇の霊をあわれみ、尾は地元の奥与保呂に祭った。これが現在の日尾姫神社である。頭は池内村の氏神に、胴は大森神社に併祀(ヘいし)されているといわれる。ちなみに与保呂村ではその後、村の名前に松の字をつけることはタブーとされていたと伝えられる。

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.『市史編纂だより』(昭和48.11)に、


蛇切岩の伝説
       (与保呂)  宮森光衛さん
 人皇七代孝霊天皇の御宇に手力雄尊、日ノ御神、天児屋根神を招き、震龍山に住む大龍を鎮められ、民は日々を豊に過していた。ところが雄略天皇の御字、この大龍が再びあらわれ万民を悩した。
 そこで尊は天神地祇に祈り、大龍退治のため長さ百町余、横五十町余の湖を切り開かせたので、いかなる大龍もこれには及ばず、たちまち身を姫と変じ「われは当山の四方、千余町を?いとする大龍であるが、広大な御慈悲をもって助け給うならば、遠近の隔てなく、火難、水難の難を除き、御身体の泰平を守ります」と誓いをたてて奏聞した。尊は「宣誓に相違なければ助命してつかわす」と仰せられると、震龍山の峰に黒雲が起こり、姫の姿は九頭の龍となって現れ、「われ末代まで天下の悪魔、怨敵(おんてき)退散のこと」と三度くりかえし唱えた。
 手力雄尊は、宝剣で大岩を横に切りはらい「この岩中をなんじに残す。この中に住むべし」と仰せられると、黒雲たちまち散じて元の如くに晴れ渡り、大龍は元の姫の姿となり、「今後、岩の入口に身を現わして民に晴雨を知らしめる」と誓って岩の中へ飛び入った。
 その後、岩の切口に赤龍の姿が現われたときは晴天、水白の龍は雨天、天下に乱の起こる時は岩の中から血が流れ出るという。この岩を龍岩または蛇切岩といい、山の名を奥山という。

コーレー天皇や手力雄神が登場する、やはり鉱山ではなかろうか。孝霊時代からの鉱山が雄略の頃に再開発されたと取るは穿ち過ぎか。

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『舞鶴の民話1』に、

蛇切岩(1)      (与保呂)

 こんもりと茂った大森神社を過ぎ、美しく舗装された道を南へとり、亀岩橋を渡ると与保呂となる。葦ノ町農業用溜池(水源池の隣にある)
昔は田園の続く与保呂だったが、今は住宅の立ちならぶところとなった。しかし、田んぼはまだ多く、ビニールハウスも並んでいる。そして季節によっては、いちご畑に赤らんだいちごの実が美しく見える。
 近代的な与保呂小学校を右にみなから、与保呂川沿いの道を上る。すると大きな木のある森に出る。その先には水源池があり、市街地にはここから水を送っている。
 ところで、この森には「蛇切岩神社」があり、この神社の縁起について古老に活を聞くことにする。
 昔むかし、倉梯村字多門院小字黒部に姉を〃おまつ〃妹を〃おしも〃という二人の美しい姉妹が住んでいた。
 姉は十八歳、妹は十五歳で、共に〃黒部小町〃といわれ、村の若者たちはひそかに胸をときめかせていた。
 しかし、姉妹に言い寄る者はすべてはねつけられ、嫁にといわれてもことわられた。その果に、姉妹はよからぬうわさが若者たちの口の端に上るようにもなったが、これには大きな理由があったのだった。
 姉妹はいつも〃あねさんかぶり〃のいでたちで、かいがいしく働き、黒部から与保呂の奥山へ草刈りに行くのだった。そこには美しく澄みきった池があり、姉妹はそのほとりで汗を冷し、一服するのが日課だった。
 ある日のこと、いつものように姉妹は奥山へでかけ、美しい池の面に姿を写しながら草刈りをしているうち、姉のおまつか〃ホッ〃と息をついて腰をのばしたときだった。蛇切岩伝説(演劇)
 おまつは、眼の向こうにある姿を見い出した。そして、おまつのほほにはさっと、うす紅がさしたのだった。おまつがみとめたその姿は、この地方では、ついぞ見かけない若者であった。
 その若者は、年のころ二十一か二で、くっきりと白い顔に明星のように輝く目。その目は魅せられたように、おまつを疑視していたのである。
 おまつは、かろうじてその若者の目をさけたのだが、その若者の姿は、おまつの胸から永久に去ることのないなつかしい姿となった。
 それからというもの、おまつは妹と一緒に出かけるのをきらうようになり、いつも一人で出かけては美しい若者と相語らうようになった。
 そして、二人はいつしか末のちぎりを結ぶまでになったのだった。そのときも、おまつには縁談が持ちあがっていた。いとしい若者がある身も知らず自分に結婚をせまる親がうらめしく、おまつはいつも言葉をにごしていた。
 ある日、どうしてもこの池に出かけなければならないことになった。若者は例のように池のほとりでおまつを侍っていたが、妹のおしもが−緒なのを見て驚いたように姿を消した。蛇切岩伝説
 おまつは、はっとしたかもう遅い。妹のおしもに、この秘密の恋をさとられてしまったのである。
 おしもも、このごろ自分を連れて池へ行かなくなった姉の心がわかった。嫁に行くのを拒む姉の気持も
 わかった。と、おまつは「今日限り家へは帰らないから、お前一人で帰っておくれ」といいだした。
 おしもは、何の意味かよく分らないが、姉を失うことはできない。
 「何をいうのです。びっくりするではないですか。そんなことをいわないで私と一緒に帰って下さいと姉にすがりついた。が、おまつはどうあっても帰えらないといいはった。
 姉妹が着物の袖を引き合っている内、おまつはさっと、袖をふりほどいたかと思うと、あっ、というまもなく身をおどらせて池にとび込んでしまった。
と、その途端、今まで美しく晴れわたっていた空はにわかに曇り、雷鳴とともに、すさまじい雨か降ってきた。
 そして、静かだった池の水面がにわかにむくれ上がるように波立ってきたかと思うと、こつ然と大蛇が姿をあらわしたのだった。
 しばらく大蛇は、おしもを見守ったが、間もなく姿を消してしまった。おしもは、この出来事に腰もぬけたかと思うほどびっくりし、急いで家に馳せ帰り、一部始終を父親に告げた。
 父親は驚き、とるものもとりあえず与保呂の奥の池へかけつけると、池に向って「おまつ!おまつ! 」と呼びかけた。
 すると、池の水面がさわぎ立ち、姿をあらわしたのは、おしもが告げた通りの大蛇であった。大蛇は、しばらくうらめしく父親を見ていたが、やがて池の底へ姿を消してしまった……。
 何日かたったころ、池の大蛇が何のうらみがあってか、付近に害を及ぼしているという話が村人の口に登り始めた。
 事実、与保呂の村は次々と大蛇の被害を受け、このままではどんなことになるか分らなくなった。村人たちは衆議の上で池の主を殺してしまうより外にないということになったが、どういう方法を使えばよいのか、はたと困ってしまった。
 すると、日頃はおとなしく親孝行で通っている一人の男が、「昔、母親から聞いた方法がある。見事退治してみせる」といいだした。

 村人たちは困っていた時でもあったので、この男に一任することになった。 その男はひそかに、もぐさで大きな牛の形を作り、その一部に火をつけて池の中へ投げ込んだのである。
 大蛇はそれを見て、珍しい獲物が来たと、その大牛を一口に飲み込んでしまった。もぐさの火は、大蛇の腹の中でしだいに燃えひろがっていった。
 すると一天にわかに曇り、豪雨が降りだした。池の中の大蛇は、腹の火に苦しみもがき、のたうちまわった。池の水は豪雨とあいまって、しだいに水かさを増し、ついには洪水となってあぶれだした。
 やがて大蛇も流出する水と共に急流に流され、息も絶え絶えとなった。そして、大蛇は下手にあった岩に激突すると、たちまち体は三つに切断されてしまった。
 村の人々は驚き、おまつの化身をこのままにしてはおけないと、三つに切断された大蛇の頭部は奥の日尾神社に、胴は行水の亀岩橋から少し下った〃どうたの宮〃に、そして尻尾の方は大森神社に祭ることにした。また大蛇を三つに切断した岩を〃蛇切岩〃と名付けた。
 それから後、今もなお不思議なことには、日尾神社の境内と、近くの宮山の一部には松の木が一本もない。
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蛇切岩(U)       (与保呂)

 人皇七代孝霊天皇の頃、手力御命、日ノ御神、天児屋根神を沼神されて震龍山の大龍を鎮められた。民は日々豊かに楽しく過していたが、雄略天皇の頃その昔三神を沼えられた雲龍山の大龍があらわれ万民を悩ますことしきりであった。民は天神地祇に厚く祈り、大龍退治のため、長さ百余丁、横五十丁余の潮水を切り開かせたまう。いかなる大龍も神祇の協力に及ばず、たちまち姫に身を変じ、にわかに表われ云う「我は当山の四方千町黍を住む天地開かれて以来の大龍であるが、御尊の広大なるお慈悲をもって賜うならば、天下を守護し、遠近のへだたりなく火難水難諸々の難を除き御神 の泰平を相守り申すべし、何卒御助命をたまわりたいと誓を立て奏聞したので、尊は宣誓に相違なければ助命し、末世に残すがどうかと仰せられると、震龍山の峯に黒雲おこり大龍姫は九頭の龍となってあらわれ、末世末代におよび我天下の悪魔怨敵退散のこと手のひらをかえすが如きことなく、神を守護すると二度かえし唱う、その音声妙にして、その響音は天地にとどろくこと雷のようである。
 手力雄神これを聞召して御手にたずさえていた宝剣にて大岩を横に切なき賜い、この岩中をおまえにつかわす、この岩中に住むべしと仰せられると、黒雲は去り、もとのように晴れわたる。大龍も元の姫となり、我末世末代小龍に身を化し、切りしたまう岩の切り口へ身をあらわし、民に日々の晴雨を知らしめると誓をたてて岩の中へ飛び入った。 現在に至るも、岩の切口へ小龍あらわれ日々の晴雨を知らしめる。赤龍は晴天、白龍は雨天、天下に乱がおこるときは、岩中より血流れ大乱がおこる。
手力堆神が切し賜う岩を俗に龍岩といい伝へ、亦蛇切岩ともつたえる。そこの名を廻りふちといい、山を奥山という。この川は改修されふたをされたが、岩のところはあけられている。
 古老は改修以来最近は小蛇はたまにしかみられないという。
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「与保呂の里」


『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも)

蛇切岩        舞鶴市与保呂

 昔、多門院の黒部におまつ、おしもという美しい姉妹がいた。姉は十八歳、妹は十五歳。ともに黒部小町といわれていたが若者のプロポーズはすべて拒否。ぜひ嫁にとの縁談も断り続けた。蛇切岩
 姉妹は黒部から与保呂の奥山に草刈りに出かけるのがいつもの仕事だった。そこには美しく澄んだ池があった。ある日、おまつが草を刈っていたところ、目の前に異様なほど美しい若者の姿を見た。年齢二十一、二。魅せられたようにおまつを見つめる若者の姿は乙女の胸に強く焼きついた。
 それ以来おまつは妹と一緒に草刈りに行くのをいやがるようになった。折も折、おまつに縁談が持ち上がった。結婚を強いる親がうらめしく、いつも言葉をにごしていた。ある日、どうしても妹と一緒に池へ行かねばならないことになった。若者はいつものように池の端でおまっを待っていたが、妹が一緒なのをみて、あわてて姿を消したが、一瞬遅く、妹は姉と若者の仲を知った。
 おまつは「きょう限り家に帰らないから一人で帰っておくれ」といい出した。妹は家に帰ろうと強くすすめ、もみ合っているうち、おまっはさっと身を躍らせて池の中へ飛び込んだ。同時に空がにわかにかきくもり、雨が降り出した。静かだった池面が急に波立ってきたかと思うと、池から大蛇が現れ、おしもの方に目を向けたあと、まもなく池底深く姿を消した。びっくりした妹は急いで家に帰り、一部始終を父に話した。驚いた父親は奥山の池畔にかけつけ、おまつの名を大声で呼びながら泣いていると、また大蛇があらわれ、父親をうらめしそうに見たあと池底へ沈んでいった。
 その後、池の主の大蛇が村人にあだ討ちするとのうわさが伝わった。与保呂村の人たちは相談の結果、大蛇を殺してしまうことにし、モグサを使って大きなウシの形を作り、火をつけて池の中へ投げた。大蛇はモグサのウシを一口にのみこんだ。
 大蛇は苦しみ、のたうち回り、池の水は洪水となってあふれ出した。大蛇の死体は流され、下流の岩に当たると、三つに切断された。「おまつの化身だ」とたたりを恐れた村人たちは、大蛇の頭を奥の村の日尾神社に、胴は行永の橋付近にあるどう田の宮に、尻尾は大森神社にまつった。そしてその岩を蛇切岩と呼ぶようになったという。
  (カット=小山和代さん=舞鶴市与保呂校)
〔しるべ〕舞鶴市街地から東南へ約五キロ。府道舞鶴・老富線ぞいの与保呂地区に伝わる伝説。与保呂の神社境内には松の木が一本もなく、日尾神社向かいの宮山の一部には松の木がどうしてもはえないところがあるなど、この伝説にまつわる不思議は多い。

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蛇切岩伝説の演劇化


06年に与保呂校体育館で行われた蛇切岩伝説の演劇についての記事。

『舞鶴市民新聞』(06.09.22)に、(写真も)

*24日、敬老会で「蛇切岩」上演*
*与保呂・木ノ下・常の三字女性会*
*地元伝説を合同で初の取り組み*
*与保呂小で30日にも再上演*


 与保呂、木ノ下、常の三字女性会(大浦さよ子会長)は、二十四日に与保呂の与保呂小学校で開かれる敬老会で、地元の伝説「蛇切岩」を題材にした演劇を上演する。初めての三字合同での取り組みで、出演者たちは上演に向けて舞台けいこに励んでいる。三字女性会の練習
 三字女性会では、敬老会の余興の出し物は、例年各字がそれぞれ踊りなどを発表してきた。今年初めて三字合同での出し物をと、「蛇切岩」の劇を演じることを決めたという。出演するのは、女性会の役員二十六人と太鼓や笛の囃子方の男性二人。
 「蛇切岩」の物語は、親の反対で青年と結ばれなかった娘が池に身を投じて大蛇に変身。この大蛇が暴れて川の氾濫を起こしたため、困り果てた柑人たちが、モグサで作った牛形に火をつけ、大蛇に食べさせ退治する。この時、大蛇は熱さにのたうちまわり、大岩(蛇切岩)に激突して三つに切断され、村人たちは頭を日尾池神社(与保呂)、胴体をどう田の宮(行永)、尻尾を大森神社(森)に祀ったという。
 劇は「蛇切岩縁起」として、木ノ下女性会の川勝由美さんの弟で、アマチュア劇団を主宰する加々里研一さん(京都市在住)が脚本を書いた。六月に配役を決め、七月の台詞けいこ、八月から週一回、合同で舞台けいこを続けている。演出を担当する川勝さんは「大蛇の暴れる場面が見どころで、大きな青い布を使って波しぶきを表現します」と話す。
 敬老会には、約八十人のお年寄りが観賞する。大浦会長は「お年寄りのなかにも、この伝説を忘れかけている人もいます。もう一度、ふるさとの伝説を思い出してもらうとともに、次の世代にも伝えていきたい」と話している。劇は三十日午前十時から与保呂小体育館で再上演することになっており、観賞を呼びかけている。


次はぜひ木ノ下の射矢の神事にまつわる伝説を演劇化してください。次のものでもいいと思います。
「おまつ」はやはり松の木なのだろうか。残欠の笠松山の笠松かも知れない。松の木は門松に見られるように神木である。降臨してくる神の依代と民俗学では言うが、本当は世界樹であろうと思う。世界樹の化身が「おまつ」であろう。彼女がまた蛇の姿をとることもある。なぜ「おまつ」が大蛇となるのかわかりにくいというか民俗学では説明不可能であるが、世界樹=蛇という太古の伝説の世界のセオリーが貫かれているのであろう。残欠の笠松山は三国岳であったかも知れない。
与保呂という地名からしても、ずいぶんと古く、大陸に起源をもつ地である。伝説の大蛇は水の神だ、くらいの理解で満足していては何もわかっていないのと同然だろう。もっともっと考えねばならない地の伝説である。この蛇はこの与保呂だけでなくさらに広範囲に活躍する。さて正体は何か。芸術を生んだだけあってかなりの大物伝説のようである。

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立腹の切腹伝説(舞鶴市与保呂)

『舞鶴の民話2』に、
与保呂校のすこし上手に架かる
立腹
  (与保呂)

 与保呂の水源池にいく前に、こんもりと繁った森があり、このあたり一体の山には松が一本もない。悲しいお松の霊がたちこめ、松の木はすぐかくれるという。そこへ行くまでに北へいく道がある、この道を登っていくと峠があり、これを越すと鹿原の金剛院へ出るのである。その途中に立腹という地名がある、まわりは田んぼだが、なぜこういうのだろう。
 この西側の字は日なたと云う、これは一日中日がよく当たるので日なたといったのである。このあたり昔から住んでいる人の姓は土本さんである。高校の社会科の先生でもある土本先生をたずねたが留守。自転車で帰りかけたら、八十ぐらいのおじいさんがお宮さんに行くのか杖をついてやって来るのに出会った。聞いてみようと「いい日よりです、お元気ですね。」「あゝ先生やな」たしか運動会のとき出あったことのある、日なたの人だ、立腹のことを聞いてみた。与保呂川の川辺に腰をかけて老人はしんみりした顔で話しだした。立原谷(報恩寺より。山の手前の小さな谷。赤い屋根の後にみえる)
 今から四百年より昔だったが、源平の合戦があったでしょう、平家が天下をとっていたが、おごるのはひさしからずというように、平氏も源氏の軍勢におされて、だんの浦の方へ追いやられた、うたがい深い源頼朝は、なおも攻め、弟の義経を大将として攻めさせた。那須与一の扇の的、ひよどり越えの戦、平家は天皇をほうじて、船を揃えて逃げようとしたが、源氏の勢に負け、ほとんどの武士が海にとび込み死んでしまった。しかし生きのびた武士もあった。丹後、若狭へとやって来た。山里にかくれて、木の実、畑の作物、川魚を食べて生きていた。
 その一隊が与保呂の里にもやってきた。村人はあまりにもかわいそうなので、お米を与えたりしていた。しかし村人の中にも落人がやってきた事をいいふらした人があったのか、白旗をなびかせた騎馬の武士が多数やってきた、落人といっても戦いぬいてきた武士たちだ、村の人に迷惑かけてはいけないと山里の方へいった。それを見つけた騎馬の武士は追いかけ、矢を雨のようにふらせた。
しかし平家の落人たちも応戦し、くる矢は馬の横腹にあたり、馬はたおれた。源氏の武士も少し恐れをなして、遠まきにして様子をみることにした。時がたつにつれて、落人からの矢は極端に少くなった。落人達は互いに相談したのか、傷のない者は一人もなく、もうこれ以上戦かう事はできない、源氏の兵士も早く京へ帰りたいと思ったのか、矢を雨のようにふらせた。
落人たちはこれ以上戦うと手傷をおうしかない、切りこんでこられたらひとたまりもない。これこそ武士のはじだと、源氏の軍勢の前に立ちはだかり、「源氏のさむらい達よ、平氏の武士の最後をみとどけよ」声高らかに云うと共に腰の刀で立ったまま腹を十文字に切ってたおれた。
なみいる源氏の武士も思わず、両手をあわせて目をつむった。そして村人にあのなきがらを丁寧にほおむってくれと、金すを置いて去っていった。
 村人は落人たちのなきがらを近くの山にほおむり、地蔵を建てた。それからは誰いうとなく、このあたりを立腹というようになった。

立腹は立原と今は書くようだが、やはり辰=蛇だと思う。福知山市にも立原(たつわら)という所があるが、あそこも辰でないかと考える。切腹伝説があるというのも注意してよいと思う。アル・フル系の地名で岸谷という地名もある。
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岩谷の地蔵(舞鶴市与保呂)

『舞鶴の民話1』に、

岩谷の地蔵    (与保呂)

 年代は不詳であるけれども、今からおよそ四百年前、江戸幕府の基礎がようやく出来上った頃、舞鶴は細川氏が殿様だった。
 その頃は、旅をするには庄屋や代官所の許可が必要で、各関所ではいちいち許可証が収り調べられた。そんなある日、お伊勢参りに行ってきたのか、どこかのお寺に参ってきたのか、二人の巡礼が与尿呂の村に迷い込んできた。
 その巡礼は体が弱りきって難渋しており、許可証もいつしか落して持ってはいなかった。
 与保呂・堀口の人々はこの年老いた巡礼を懸命に看護した結果、巡礼は元気になっていった。ところが巡礼は、口がきけるようになるやいなや、「ありがとう」といいつつ手でおなかを指しながら死んでしまった。
 巡礼の死後、巡礼が指さしたおなかのさらし木綿をほどいてみると、そこから黄金小判がたくさん出てきた。巡礼は、実は大金を所持していたのだった。
 村人たちは、そのお金で葬儀万端を営み、地蔵堂を建てたが、まだまだお金は余った。余ったお金でこの地蔵堂所有の田畑四畝をあてがい、後日の法要の費用にあてることを村人たちは皆んなで取り決め固く守った。
 そして、その後は村人たちによって毎年七月三日と十一月の二回、ささやかな地蔵祭りが行われ巡礼の供養が続けられた。
 明治年間、地蔵堂所有の田畑は法要の費用に換金された。
そして昭和初年、法要の費用のための貯金は、その後二百年余りをまかなう分ほどもあった。
巡礼が死んだという話である。与保呂はかつては西国三十三箇所巡礼のコース内にあったし、丹波丹後の峠の麓であるのだから、こうした事は実際にかなりの数あったのではなかろうかと思われる。堀口というのは今の日尾池姫神社の周辺である。
 巡礼者の装束はあれは死装束なのではなかろうか。私は子供の時に見た親族の納棺の時の装束と、巡礼者の装束が重なって見えて仕方がなかった。様子からは何か悲劇が隠されているような装束に見えたのである。そんなことで本当は巡礼とは死への旅人なのでなかろうかと考えていたのであるが、その後も勉強もせぬままほったらかしになっている。少し引用すれば、
「遍路の装束には手甲脚絆を着けて、菅笠を被り、白衣や笈摺を着て金剛杖をついて歩く姿である。しかし、手甲脚絆や菅笠、杖などは最初は旅の装束や道具であった。白衣は死の装束であり、笈摺は荷を負う時に摺り切れるのを防ぐ半袖であった。それがやがて宗教的意味づけがなされて行くことになる。しかし、既述のように歴史的にはいろいろな遍路が様々な目的で、しかも装束もない姿で山野の道を廻っていたことである。寺の通夜堂や野辺で一夜を明かし、道々では住民から金品の接待を受けながら遍路を続けた。」
「歴史的に遡ると、かつて不治の病とされたハンセン病患者や不倫した男女、多額な借財を抱えて身を崩した人などは国元を追われ、生き延びるため、はたまた死に場所をもとめて遍路に出た。彼らが生き延びられたのは接待の施しがあったからである。遍路道の端には道中で倒れて死亡した人の遍路墓が今も残っている。」
遍路と巡礼の民俗」より。
やはりそのような話である。過去にあったという姨捨山の別バージョンのようなことである。現在日本の無用になった庶民は早く死んでもらいましょうの使い捨て政治のようなものである。
 状況から自分の運命を悟り、自分の意志で始めた人もあろうし、周囲から強要された暗黙の死刑人も多くあろう。三十三箇所巡りの途中で行き倒れなければ、振り出しに戻りもう一巡、さらに二巡と、要は死ぬまで巡礼が続いたと思われる。
この伝説のように黄金小判を身につけた者なら歓迎だろうが、そんなことはまずあるはずはなく、何も持ってはいない。自分の村で死亡されたりすると事後処理に困るので、村人は接待し施しし、さあさあ元気を出して次へ行ってくださいと次の村へと送ったのであろう。一種の虫送りのようなものかも知れない。
 現在のようにご利益を求めて、お札だけがほしいために、そんな巡礼もあるいはあったかも知れないが、大抵はこうした途中でののたれ死にを期待され約束された、あるいは本人が「希望した」巡礼とあの装束からは思われる。

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尾長野の椿さん(丹波町下山)

『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも)


尾長野の椿さん
   船井郡丹波町下山

 「イワシの頭も信心から」とか。ロ丹波地方には霊験あらたかという伝説の樹が多い。丹波町下山尾長野の椿さんの伝説もその一つ。このツバキは、歯痛に霊験があると伝えられている。下山の椿さん
 戦国時代の終わり、いまから四百二、三十年も前のこと。都の近くで大きな戦があり、戦に敗れた武士たちが、続々と都を逃れて、各地へ落ちのびていった。山陰街道、舞鶴街道にも、幾組もの落人が、折れたヤリやツルの切れた弓をツエに、人目をさけて北へ北へと落ちのびていった。そんな一団が、都から十五里(約六十キロ)離れた丹波国の尾長野村(いまの丹波町下山小字尾長野)にたどりついた。
 その中の身分の高そうな一人の武将は深手を負い、尾長野村の舞鶴街道をそれて、ある谷間にはいり、手当てをしていたが「もうこれまで」と覚悟をきめた。そして村人を招き「それがしはこの度の戦いに敗れ、ようやくここまで逃げのびてきたがいかんせんこの深手。切腹して果てるのでここにほうむってほしい。私のなきがらの上にツバキの木を植えてくれい。何の礼もできないが、かわりに歯痛の治るおまじないを教えておこう」と頼み、家来たちを北の国に落としたあと、見事に切腹して果てた。村人たちは武将を手厚くほうむり、ほこらを立て、ツバキの苗木を植えてまつった。それ以来村人たちは椿さんの愛称で呼び、おまつりをしていた。
 ツバキの苗は年々大きく成長。そのほとりに美しい泉がコンコンとわき出るようになった。村人たちは泉のことをシュズと呼んだ。そのころ、だれいうとなく「歯が痛むときは、椿さんの葉でシュズの水をすくい、口にふくんで、その葉で歯の上をなでると痛みがとれる」とのうわさが広がった。いらい、村人たちは歯が痛むと椿さんにお参りをし、悲運の武将のめい福を祈り歯痛が治るよう祈願したという。
 ツバキの木は、いまも武将の霊魂を宿すかのように春には深紅の花を咲かせ続けている。泉は戦前に、ほこらも十年ほど前になくなってしまったが、いまでも尾長野の老人たちの信仰を集めているという。 
 (カット・木下里美さん=丹波町下山校)
〔しるべ〕国鉄山陰線下山駅下車、国道27号線をまたいで旧街道を北へ約三十分、尾長野地区の八坂神社裏山の通称天皇池の下にツバキの大木がある。このツバキと、いまも廃道に近い姿で残る舞鶴街道が、遠い昔の面影をとどめている。


ツバキ、天王、泉、切腹、舞鶴…私はもうお手上げの状態

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赤瀬の経塚(丹波町下山)

『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも)


赤瀬の経塚
      船井郡丹波町下山

 昔、北桑田郡のある村に、評判の、美しい娘さんが住んでいた。両親はチョウよ花よと大切に育て、いつしか娘さんにお嫁入りの話が持ち上がるようになった。しかし娘さんは何度お見合いしても「うん」といわない。赤瀬
 ところが、この娘さんにはおもしろいクセがあった。夜、家族の者がみんな寝静まるころになると、こっそり寝床を抜け出して、いずことなく姿を消し、朝になるとちゃんと寝床に戻っているのだった。初めのうちは両親も「便所にでも行っているのだろう」と、そのまま寝入ってしまったが、次の晩も、その次の晩も、夜中に目をさますと、娘さんの寝床はもぬけのから。いっこうに戻る気配もない。「どこに行っているのだろう」と不審に思った両親は、娘さんの後をつけてみることにした。父親はある夜、娘さんが寝るのを待って、娘さんの着物の端に長い長い糸を縫いつけておき、眠ったふりをして娘さんが寝床から出て行くのをじっと待つことにした。何も知らない娘さんは、みんなが眠ってしまうと、いつものようにこっそりと家を抜け出した。そこで父親は糸をたよりにつけて行った。山を越え、谷を越えて娘さんはどんどん歩いて行き、たどり着いたところが丹波町下山の赤瀬のくりやの淵だったのである。
 そこまでくると、急に娘さんの姿が消えてしまった。父親は不思議に思いながら、あたりの様子をうかがっていた。白くにぶい光を放つ三日月。虫の声一つしないしじまを破って、突然、水面をたたきつけるようなすごい音がくりやの淵で起こった。父親は、恐るおそる淵をのぞいて腰を抜かさんばかりに驚いた。大きな大蛇が身をくねらせて泳いでいるではないか。銀色のウロコが月光に映えて、ギラギラと光っている。
「娘が大蛇になってしまった」−−父親はあわてふためいて家に帰り、そのころ身分の高いお寺の和尚さんに相談した。そこで和尚さんは、魔物を封じるというありがたいお経をあげ、その経文を巻き紙にしたため、それをくりやの淵の真上にあたる丘に埋められた。すると不思議にそれっきり、大蛇はいずことなく姿を消したという。
 この経塚の上には、お地蔵さんがおまつりしてあり、毎年、八月の地蔵盆には、尾長野の人たちはお供え物を持ってお参りしているという。
 (カット・船越浩文君=丹波町下山校)
〔しるべ〕 丹波町三日市交差点から国道27号線を北へ約六キロ。下山校のそばに赤瀬の里があり国道27号線のわきの小高い丘が経塚。そのほとりを流れる赤瀬川と高尾川との合流点にくりやの淵がある。

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蛇ヶ池(和知町長瀬)

『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも)

蛇ケ池
      船井郡和知町長瀬

 農耕社会から発展したわが国では、雨ごい伝説が各地に伝わっているが、特に水の神・ヘビや竜神にまつわるものが多い。和知町にもヘビにまつわる雨ごい伝説が古老の間で語り伝えられている。
昔、船井郡上和知村(いまの和知町)長瀬の在の農家に評判の美しい娘がいた。ある夏の朝のこと。その家の主人が娘の寝間の沓脱(くつぬぎ)石に、ずぶぬれのゾウリをみつけた。その年は何十年ぶりかの日照りで、雨ごいのかいもなく一滴の雨も降らなかったのに−−と不審に思った主人は、その後も気をつけていると、毎朝のように、ぬれたゾウリがぬいであった。蛇ヶ池
 主人は娘に気づかれないように様子をうかがっていたが、ある夜、娘が出かけるので、そっと後をつけた。娘は由良川の支流・塩谷川沿いの小道を歩き続け、蛇ケ淵と呼ばれる淵のそばの岩の上で着物を脱ぎ捨て、髪を振り乱して水中に飛び込み、淵にある竜王滝にしばらくうたれていた。水からあがった娘は着物を着ると、またスタスタと歩きはじめ、尾根伝いに山道を登りはじめた。
 主人は夢中になって後を追った。六キロほど登ったところで娘は立ち止まった。そこには鏡岩という、鏡のように光った岩があった。そこで髪を整えた娘は、さらに上へと登り、次に立ち止まったところは上和知村と畑郷村(いまの日吉町)の境にある大池(またの名を蛇ヶ池という)のほとり。ここで娘は蛇身となり、池に飛び込もうとして、はじめて父親に見られていることに気づいた。
「今年は長瀬の村は水不足で困っている。私は竜王の滝に願をかけ、竜になって天に昇り、雨を降らそうと思っていた。きょうが満願の日。竜になり、昇天しようとしたが、お父さんに見られてしまい、それもダメになった」とさめざめと泣き、池の中に姿を消してしまった。いらい、娘は二度と家に帰らなかった。
 その後、何日かたったころ、胡麻郷村(いまの日吉町胡麻)木戸の猟師が鉄砲を肩に狩りに出かけた。その日にかぎって獲物はなく、くだんの大池のほとりでたばこを吸っていると静かな水面が大きくゆらぎ、大蛇が姿を現した。そして猟師に「雨を降らすため願をかけ、竜になって天に昇ろうとしたが父に姿をみられ、ヘビにはなれても竜になれないでいる。きょうもあなたに見られてしまった。このままでは村にも帰れない。いっそ撃ち殺してほしい」と頼んだ。猟師はかわいそうに思い、しかたなく鉄砲で撃ったが、タマははねかえるばかり。
「竜にまでなろうとしたヘビにはナマリのクマは通らないのだろう」とその場は家に帰り京の鍛冶屋に頼んで金のクマをつくってもらい再び大池にきて大蛇の頭を撃ちぬいた。とたんに大音響とともに空にイナズマが走り大雨が降りはじめた。大蛇は流れるように畑郷の方にずり落ちていった。そのとき、ウロコが何枚か飛び散ったが、そのウロコはいまも畑郷のお寺に残っているという。
                (カット=杉本智美さん=和知町和知第二校)

〔しるべ〕 和知町長瀬は国道27号線の升谷橋から府道綾部・宮島線を約四キロ、和知町と美山町の境にある在所。萱山を隔てて日吉町畑郷と接し、いまも萱山の頂上に水をたたえた蛇ヶ池があり、竜王滝では七月七日に雨ごいの行事が行われている。

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毘沙門天の伝説(舞鶴市多門院)

『舞鶴の民話4』は、毘沙門堂はこの奥に

帰ってきた毘沙門天
 
(多門院)

 祖母谷川を上へと川岸をのぼっていく。清流が流れる、時たま魚が銀光りに川を上っていく。アユだろうな、岸辺のヨモギも気持よさそうに風にふかれている。初夏のような日ざしだ。家がぽつんぽつん見える。川上が多門院で、荒倉、多門、材木、黒部と集落がある、北東へは細い山路で鹿原村、又若狭の六路谷、横田地へ通じる。
 慶長検地郷村帳に、高二九二・三七石(多門院)とみえ「多門院村之黒符、荒倉」との付記がある。土目録でも高は変っていない。延享三年(一七四六年)の郡中高究付覚に農家戸数六。
 江戸時代は大豆、小豆、桐実を、田辺城下へ出していた。又運上として奉書運上銀二六匁三分三厘、端折紙九束など土目録にかかれている。
 村内に臨済宗興禅寺という寺があり、天和一年(一六八二年)の丹後国寺社帳にその名が記されている。所蔵する昆沙門天立像(藤原時代、一木檀像、一部彩色、像高九七センチ、邪鬼一○センチ)あり、重要文化財に指定されている。この像は六和二年のことだ。どこで聞いてきたのか、いい仏像があると伊勢の慶竜という札売が、人のいないすきに、こっそり風呂敷に外の経文と共につつみ、伊勢へ持ちかえってしまった。昼はおすまして棚の上に仏像はおさまっているのだが、夜になり慶竜が仏像のあるのを確認して寝につくと、棚ががだがたとゆれる。風もないのにおかしいなと上をみると、仏様が、がだがたゆれている。耳をすませて聞いていると、かわいい声で、「たんごへかえりたい、たんごへかえりたい」と棚からおりてきて慶竜の枕もとに立たれる。こんなことが一週間もつづいた。慶竜もこれにはほとほと困って、体も何だか弱ってきたようだ。「仏様あすは丹後におもちしますから」とおがみ、明朝早く、風呂敷に仏様をかついで、一目散に丹後めざして旅立った。そして多門院のお寺にかえしたんだって。お寺の住職の話によると、この昆沙門天様は京都熊野、大和信貴山の仏像と共に日本三大毘沙門天の一つだということだ。
 私はもう一度仏様に手をあわせ、自転車に乗り、はればれした気持で祖母谷川の川岸を下っていった。魚までがぴんぴん川面をはね、「よかったね、よかったね」といっているようだ。

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『舞鶴の民話5』は、毘沙門天はこの中に


毘沙門天が帰ってきた (多門院)

 若狭道を高浜の方からはいり、荒倉の集落をすぎて、山すそをそって歩くと、小字多門の村になる。この地の北側の山かげに興祥寺という寺あり。この寺には国指定文化財毘沙門天立像がある。これは、平安後期の作といわれている。この毘沙門天について、八十五才になる古老が横に臥したまま、私に語ってくれたことを記す。
 祖母谷の多門院の興祥寺には国指定重要文化財の毘沙門天立像がある。これをはさんで釈迦如来像と薬師如来像がある。むかし、堂奥の喜恩庵に、どこから来たのか、ひとくせある顔をした男が寄留していた。よく伊勢の話をしていたので、そこから来たのだろう。慶龍という。毘沙門天をみによくいっていた。だが何時とはなしに彼の姿がなくなった。それと共に毘沙門天もなくなっていた。慶龍が盗んだにちがいない。村の人たちは困ってしまった。八方手をつくしたが、ようとして慶龍の姿はわからない。
 ある時古物を商う男がやってきて、伊勢の方ですばらしい仏像がある。丹波の方からきたというので、外にないかやってきたという。村の人は、この話を手がかりに伊勢まいりかたがたあちこちとさがした。七年の間、村人は立ちかわり探した。伊勢の国スチカイ橘因幡殿に渡されたことを京都で聞いた村人は、力をあわせて申し入れ、元和八年二月にその姿をみ、十七日に村へとりもどしむかえた。慶龍という男は死んだとの噂がつたわってきた。これを迎えるにあたっては、村人たちの願をきき、先駆に立ったのは代官の辻本与右衛門親子であったそうな。村人たちはよろこんで、盛大なおまつりをすると共に代官様に感謝の気持を表わした。その後村は栄え、平和な村となった。毘沙門天立像も、沙門堂ににこやかに村人を守っているということだ。

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鞍馬寺の毘沙門天の『今昔物語』巻17の記事は、


僧、依毘沙門助令産金得便語(ビシャモンテンノタスケニヨリテコガネヲサンセシメタリヲエタルコト)第四四  

 今ハ昔、比叡ノ山ノ、[ ]ニ僧有ケリ、止(ヤム)事无キ学生(ガクショウ)ニテハ有ケレドモ、身貧キ事无限(カギリナ)シ。墓々シキ檀越ナドモ不持ザリケレバ、山ニハ否无クテ、後ニハ京二下テ、雲林寺ト云フ所ニナム住ケル。父母ナンドモ无カリケレバ、物云懸ル人ナドモ无クテ、便ヨリ无カリケルマゝニ、其ノ事祈リ申ストテ、鞍馬ニゾ年来仕リケル。
 而ル間、九月ノ中ノ十日ノ程二、鞍馬ニ参ニケル。返ケルニ、出雲路ノ辺ニテ、日暮ニケリ。幽ナル小サキ法師一人ヲナム具シタリケル。月、糸、明ケレバ、僧、足早ニイソギテ返リケルニ、一条ノ北ナル小路ニ懸ル程ニ、年十六七歳許有ル童ノ、形チ美麗ナルガ、月々シ気ナルガ、白キ衣ヲ四度解无気(シドケナゲ)ニ中結タル、行キ具シタリ。僧、「道行ク童ニコソハ有ラメ、共ニ法師ドモ不具セネバ、恠シ」卜思フ程二、童近ク歩ビ寄テ、僧二云ク、「御房ハ何コヘ御スゾト。」僧、「雲林院ト申ス所へ罷ル也」卜云へバ、童、「我ヲ具シテ御セ」ト云ヘバ、「童、誰トモ知リ不奉デ、上ノ空ニハ何カニ。和君ハ亦何へ御マスゾ。師ノ許ヘ御マスカ、父母ノ許ヘ御マスカ。『具シテ行ケ』卜有ルハ、喜シキ事ニハ侍レドモ、後ノ聞エナド悪ク侍リム」ト云ヘバ、童ハ、「然思サムハ理ナレドモ、年未知テ侍ツル僧ト、中ヲ違テ、此ノ十日許浮レ行キ侍ルヲ,祖ニテ有シ人ニモ幼タテ送クレニシカバ、『糸借ク為ル人有ラバ、具シ奉テ、何チ也トモト』思フ也」ト云ヘバ、僧、「糸喜シキ事ニコソ侍ナレ。後ノ聞エ侍リトモ、法師ガ咎二ハ不有マジカナリ。然リドモ、法師ガ候フ房ニハ、賎ノ小法師一人ヨリ外二、人モ不候ズ。糸、徒然ニテ侘シクコソハ思サムズラメ」ト云ヒテ、語ヒ行クニ、童ノ極テ厳カリケレバ、僧、心ヲ移テ、「然ハレ、只、将行ナムト」思テ、具シテ、雲林院ノ房二行ヌ。火ナムド燃シテ見レバ、此ノ童、色白ク、顔福ラカニテ、愛敬付キ、気高カキ事无限シ。僧、此ヲ見ルニ、極ク喜シク思テ、「定テ、此レ、下臈ノ子ナドニテハ不有ジ」卜見ユレバ、僧、童ニ、「然テモ父ハ誰トカ聞エシド」ナ問ドモ、何カニモ不云ズ。寝所ナド常ヨリハ取[  ]テ臥セツ。
 僧ハ、傍ニ臥シテ物語ナドシテ寝タル程二、夜モ明ヌレバ、隣ノ房ノ僧共、此ノ童ヲ見テ[ ]テ讃メ合タリ。僧ハ、童ヲ人ニモ不見セズシテ思テ、延ニダニ不出サズシテ、糸珎ラシク心ノ暇モ无ク思フ程ニ、亦ノ日モ暮ヌレバ、僧近付テ、今ハ馴々シキ様ニ翔ケルニ、僧、恠シキ事ヤ思ケム、僧、童ニ云ケル様、「己ハ此ノ世二生レテ後、母ノ懐ヨリ外ニ女ノ秦觸ル事无ケレバ、委クハ不知ネドモ、恠ク、例ノ児共ノ辺ニ寄タルニモ不似ズ。 何ニゾヤ、心解クル様二思エ給フゾトヨ。若シ、女ナドニテ御スルカ。然ラバ、有ノマゝニ、宣ヘ。今ハ此ク見始メ奉テ後ハ、片時離レ可奉クモ不思エヌヲ、尚、恠ク不心得ズ思ユル事ノ侍ツル也」ト云ヘバ、童、打咲テ「女ニテ侍ラバ、得意ニモ不為ジトヤ」ト云ヘバ、僧、「女ニテ御セムヲ具シ奉テ有ラムハ、『人モ何ニカハ申スラム』ト思テ極メテ愼マシクコソハ。亦、三宝ノ思食サム所モ怖シクコソハ」ト云ヘバ、童「三宝ハ、其ニ心ヲオコンテ犯シ給フ事ニラバコソハ、有ラメ。亦、人ノ見ム所ハ童ヲ具シ給ヘルトコソハ知ラメ。若シ、女二侍リトモ、童ト語ヒ給フラム様ニ翔テ御カシ」ト云テ、糸、可咲気ニ思タリ。
 僧、此レヲ開テ、「女ナ也ケリ」ト思フニ、怖シク悔シギ事无限シ。然レドモ、此ガ身ニ染テ、思ハシク労タケレバ、出シ遣ル事ヲバ不為デ、此ク聞テ後ハ、僧外々ニテ衣ナドヲ隔テゝ寝ケレドモ、僧、凡夫也ケレバ、遂二打解テ馴レ陸タル有様二成ニケリ。其ノ後ハ、僧、「極キ童ト云ヘドモ、此ク思ハシク労タキモ无シ。此レハ可然キ事ナメリ」ト 思テ過ケル程二、隣ノ房ノ僧共ナドハ、「微妙キ若君ヲ然許貧シキ程二、何ニシテ儲タルニカ有ラム」卜ゾ云ケル。
 而ル程ニ、此ノ童ハ、心地不例ズ成テ、物ナンド不食ズ。僧、糸、恠シク思フ程二、童ノ云ク、「我レハ懐任シニタリ。然知リ給ヒタレ」ト。僧、此ヲ開テ、ウキ顔シテ、「人二ハ童卜云テゾ月来ロ有ツルヲ、極メテ侘シキ事カナ。然テ子産ム時ハ、何ガセムト為ル」卜云ヘバ、童、「只御セ。ヨモ其ニ知セ不奉ラジ。然ラム時二ハ、只音不為デ御セ」ト云へバ、僧、心苦ク糸惜ク思ヒ乍ラ過ル程二、既二月満ヌレバ、童、心細気二思テ、哀ナル事共ヲ云テ、泣ク事无限シ。僧モ哀レニ悲シク思フ程二、童、「腹痛ク成タリ。子産ベキ心地ス」卜云ヘバ、僧侘テ騒グ。
 童、「此ナ騒ギ不給ソ。只可然キ壷屋一壷ニ、畳ヲ散テ給へ」卜云へバ、僧、童ノ云フマゝニ、壷屋□畳ヲ敷タレバ、童、其ニ居テ暫許有ルニ、既二子ヲ産ツルナリ、衣ヲ脱ギ着テ、子ヲ含ミ臥セタル様ニシテ、母ハ何チ行トモ不見エデ失ニケリ。僧、糸、恠ク思テ、寄テ、和ラ、衣ヲ掻去テ見レバ、子ハ无クテ、大キナル枕許ナル石有リ。僧、怖シク気ウトク思ユレドモ、明リニ成シテ見レバ、其ノ石二黄ナル光有リ。吉々ク見レバ、金也ケリ。童ハ失ニケレバ、其ノ後僧面影二立テ、有ツル有様恋シク悲シク思エケレドモ、「偏二鞍馬ノ毘沙門ノ我レヲ助ケムトテ謀リ給タル也ケリ」ト思テ、其ノ後、其金ヲ破ツゝ、売テ仕ケルニ、実ニ万ヅ豊ニ成ニケリ。
 然レバ、本ハ黄金ト云ケルニ、其ヨリ後、子金トハ云ニヤ有ラム。
 此ノ事ハ、弟子ノ法師ノ語リ伝タル也ケリ。毘沙門天ノ霊験掲焉ナル事、此ナム有ケロトナム語リ伝ヘタルトヤ。

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三条橋(舞鶴市堂奥)

『倉梯村史』(昭8.坂本蜜之助)に、

三條橋

 堂奥に小字三條橋あり、徳川の初期基督教の信者三十八士此の地に潜みしが遂に露れて討首に遇ひたり此の三十八士を三條橋と訛伝せしなりと。
 此説は思ふに細川忠興の夫人は有名なる基督教の信者なれば其の従者當地方に残りて信仰のために相果てしか、先頃此事件を委しく記せし文書ありしも古本屋の手に渡り行方不明となりしは誠に惜しき極なり。

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『舞鶴の民話4』に、

三条橋 (堂奥)

 祖母谷のほぼ中央、祖母谷川右岸に位置し、この谷の南北にあたる。与保呂谷、志楽谷を結ぶ交通の要地でもある。
 祖母谷川扇状地に平安時代後期の遺物散布地として知られる堂奥遺跡がある。
 堂奥村より志楽谷の小倉に通ずる道の左の山頂に、一色氏の部将矢野備後守の居城のあった矢野城跡がある。当地方ではまれにみる堅固な城で、城郭の規模も大きく、大将口、射手殿、小谷口、一ヶ谷口などの地名が残る。天文二三年(一五五四年)に若狭の栗屋一族が祖母谷の人家を焼き払ったこともあった。
 慶長検地村帳には高四四八・三八堂奥村とみえ、主目録では総四四九石余とある。延享三年(一七四六年)の郡中高究付党(ママ)によれば農家戸数六七、大豆、小豆、薪を田辺城へ出していた。
 私は自転車で、初夏の強い日ざしをうけながら、堂奥の古老の稲本氏に出会った。彼は元新聞記者で、家に私のくるのを待っていてくれた。お礼をいって家にはいった。
 このあたりは旧字名を三条橋といった。三十八人の山武士たちが、戦にやぶれてこの地にやってきた。又の話では、細川忠興の家来だったとか、彼の妻のガラシャ夫人の家来であったとか、彼等はキリスト教の信者である。この堂奥に潜んでいたが、徳川勢にみつかり、多勢に小勢で遂に討首にあった。此の三十八士を三条橋となまる、この地の南西の小高い丘に、円い石が三十八あり、この石を常に信奉せんとあかんと祖先よりの言い伝えがある。古老はそこに案内してくれた。私は、両手を合わせ、「静かに眠ってくれ、あなたたちの願いの平和を、私は守る」と、祈った。
 古老にお礼をいい、私は再び自転車にのり祖母谷川岸の小道を下り、自宅へと帰った。
何だか短い時間だったと思ったが、出発してから三時間ほどたっていた。

三条の地名は古代の条里制の遺構ではないと思う。谷が狭いからである。祖母谷の谷筋と与保呂〜小倉へ越える街道の交差点である。『倉梯村史』によれば、永延年間に花山天皇が松尾寺詣でに通ったという重要な街道筋である。そうするとここはたぶん算所であろうか。鞍馬の毘沙門天には三条吉治という鍜冶が何代も居住したそうであるが、その三条とあるいは関係があるかも知れない。この吉治の三条は京都三条のことである。
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銭塚(舞鶴市堂奥青路)

『倉梯村史』(昭8.坂本蜜之助)に、

青路の銭塚

 堂奥字青路に銭塚あり、普軍用金を埋めし所なりと傳ふも 今膳塚と言へり。と



『市史編纂だより』(昭48.11)

金のニワトリが鳴く
     (堂奥)   谷脇義平さん
 堂奥小字青路(青寺)の与保呂へ通ずる道路西側の山あいの、耕地の一部丘陵(丸山)に古墳と思われる所がある。古老の言い伝えによると、この丸山こそは前塚または銭塚ともいい、正月元旦には金のツバサのニワトリが鳴くとか言い残されている。
 付近の地主奥村勘治さん(故人)は存命中、この前塚付近は一部クワを入れられない所があると古くからいわれ、付近には青寺という寺もあったという。
 一説には昔、軍用金を埋めた所ともいわれている。おそらく戦国時代、乱世の代になにか埋めたものなのであろう。ボーリングしたらしい跡もあり、研究の余地が残されている。

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『舞鶴の民話4』に、

青路の銭塚 (堂奥)

 祖母谷川の川岸を上る。溝尻あたりの川の水は清らかで日にあたりぴかぴか光る。立停って川面をみる。魚が泳いでいる。あゆではないだろうか。この川岸は今から五十年余前、夏休みで帰郷されていた棒高跳の大江選手と走った道だ。背の高い大江さんの大きなコンパスを私たち小学生は一生けん命おいかけたものだ。彼はそのころロスアンゼルスの大会で優勝し、世界的に棒高跳の大江として有名だったのだ。近所でもあり帰郷されたらいつも一緒に走っていたのだ。あまり口数もなく、笑顔の美しい人だった。祖母谷川のほぼ中央のあたりが堂奥である。左の山頂には一色氏の部将矢野備後守の居城であった矢野城跡がある。電話していた古老が待っていて家の応接室に通された。
 この辺りより少し下ったところが青路という字である。ここに銭塚(ぜんづかといっているが現在はぜにづかといっている)がある。小さい円い山で、軍用金をうずめたという。むかし豊臣秀吉が貨幣制度を確立し、金貨や銀貨を製造した。戦の報償として大判小判をふるまった。この舞鶴から若狭にかけても銀が産出していた。明智光秀も力をつくした徳川との戦に破れ、破れた武士が今後のことでかくしたのだろうか。どれだけあるのか、どこに埋れているのかわからない。
古老も友だちと掘りあてようと探したことがあるが、皆目わからなかった。土地の物ち主は、昔からあの山にはくわを入れてはいけないと先祖から伝えられていると言っておられる。町の方からもこの話を聞いてか、掘りにくる人もあった。しかし誰も掘り当てることがなかった。村の人の話では、正月に金の鶏がやってきて鳴いたのを聞いたという。どこかに埋蔵した地図があるに違いないが、どの家にも、家を改造したり、建て替えたりしたのでそのときに倉をつぶし、いらないものは燃やした。掘り当てるのはだれか、近くこのあたりに自動車道ができるそうだが、掘り返しているうちにみつかるかも知れない。

「大江季雄選手」
やはり銀が採れたのだ。こうした伝説のあるところは産鉄地である。青路は与保呂にもある。小学校の向かいの高速の通る谷がそれで、この峠を越えた堂奥でも青路と呼ぶ、インターのある周辺がそうである。私も黄金探しでもしてみようか。
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青海神社(高浜町)に伝わる伝説

『若狭高浜むかしばなし』(平4)に、

空を飛んだ蛇青海神社(高浜町青)

 昔むかしのことである。青葉山のふもとに大きな蛇が住んでいた。その蛇は、里人たちが山を越えようとすると、必ずといっていいほどその無気味な姿を現し、長い舌をチュルチュルと出して、行く道をさまたげるのだった。そんな時、里人たちは山を越えようにも越えられず、あきらめて引き帰すことがたびたびあった。
「あの蛇さえ出てこんかつたらなあ」
「もっと安心して山を越えられへんやろか」
里人たちが集まると、いつもその蛇の話で持ち切りだった。
 そんなある日のこと、いつものようにみんなが蛇の話をしている時、突然ひとりの男がいった。
「いっそのこと蛇退治をしようや」
それを聞いてびっくりした里人たちは、
「あんな大きな蛇をどうやって退治するんや」
とぶつぶつつぶやいた。
 しかしそのうちに別の男が、
「わしも蛇退治に手をかす」
といいだしたので、続いてみんなも賛成していった。そうしてそれからの数日間、里人たちは蛇退治の計画を着々と立てていった。
 さて、いよいよその日。里人たちは長い刀を携え、不安と緊張の入り交じった顔付きで出かけていった。計画通りに山を越えるふりをして、蛇のすみかをおそるおそる取り囲み、じっと蛇が出てくるのを待ち続けた。そして蛇がニョキッと姿を見せたと同時に、四方からみんなで寄ってたかって、えいっと刀で切りつけたのである。禊ぎの井戸(本殿の後にある)
 ばらばらになった蛇は、尾っぽの部分だけが行方不明になってしまった。しかし、その後二度と、蛇が里人たちを悩ますことはなくなったという。
 一方青海神社では、ある日突然空を飛んできた蛇の尾つぽをどうしたものかと考えていた。飛んできたのが青葉山の方角からだったので、
「もしかすると、山の神さまと何か関係があるのかもしれない」
と思って、その蛇の尾っぽをおまつりすることにした。その蛇を入れる場所としてつくった井戸は“みそぎの井戸“と呼ばれている。
 今でも毎年七月一日には、井戸さらえという神事が行われているという。



空を飛ぶ蛇。鳥のように翼ある蛇。こうした事例を研究されている方々には、興味引かれる伝説だと思われる。これは鉄霊伝説と思われるが、何かすごい秘密が隠されていそう。またいつか取り上げてみよう。
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『若狭高浜むかしばなし』(平4)に、

青のつくりぞめ

 一粒でもたくさんの米がとれるようにと、年の初めに田の神様に豊作を祈る行事が行われた。青海神社のつくりぞめも、その一つである。
 カシの枝を三十センチくらいの長さに切って、稲の穂といっしょに束ね、小指の先程の小石を半紙に包んで、枝にとりつける。これをシバという。シバを青海神社へ持っていって神主にお祈りしてもらうのである。それを一月十二日になると、田んぼや畑へ運ぶ。田んぼでは苗代にシバを立て、白米を盛った一升マスに餅を三つのせて供えて、その年の豊作を祈った。また、畑ではカブラを三本植えてから、その前にシバの束を立てて、祈ったという。
 一月十二日は、小和田では祈念祭が行われた。この日は小和田の村の入口と裏の入口に “平盛次(中山寺の総檀家)”の名とお経が書かれた旗が立てられた。そして、みんなが集まり、そこで悪病払いや厄払いが行われたそうである。

この風習はあちこちに残る。これも世界樹・生命樹でなかろうか。生命樹の力を借りて稲の成長力にしようとするのではなかろうか。

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地蔵まつりを盛大に(舞鶴市溝尻)

『舞鶴の民話2』に、

地蔵まつりを盛大に (溝尻)

 八月にはいると、各地のお地蔵さんのおまつりがある。
なかには子供たちが中心となって近所を歩き、お供えをもらいお祭りしていたが、最近ではこの風習もかげをひそめた。氏神様のおまつりは、食べ物やおもちゃ屋などで賑やかになった。
 ずっと昔の話だが、地蔵さんのおまつりがだんだんさびれて、氏神さんのまつりは客を呼んでごちそうしてにぎわっていた。ある年のこと、エキリが流行し村の子どもが沢山死んだ。又産婦の出産が困難で死産もふえた、村人はこれは地蔵さんのお祭りを粗末にしているせいではないかと話しあい、お地蔵さんをていねいに盛大におまつりしてお詫びした。
どうしたわけか、その翌年から子どもの死ぬのがすごくへった。だが氏神さまのまつりも盛大にすべきだという人がでてきて、盛大にやったところがその年も疫病がはやった。御一条天皇の寛仁元年に恵心僧都というえらい坊さんが木ずりの立像の地蔵菩薩をつくり子安西福院を開いた。
堂奥の今の清光寺のところだったらしい。この地蔵さんは婦人の安産、乳幼児の育成に加護があると近郷からおまいりに来る人があとをたたなかった。
 今でも八月二十四日のおまつりに沢山の人がおまいりに来るという。

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『舞鶴市史(各説編)』に、

地蔵盆を客祭りとする由来  (溝 尻)

 一般には氏神の例祭日に親類、知己を招くならわしになっているが、溝尻ではその日は氏子だけが内輪ですませ、その代わり毎年、地蔵盆に客を招いて子安地蔵尊にお参りし、家庭でごちそうを作って祝杯をあげることになっている。
 昔、村の創設のころは氏神の例祭日に客を招いていた。ある年疫病がはやり、村内の幼児が沢山死んだ。これはきっと、お地蔵さんを粗末にしたお怒りに違いなに ということになって、お地蔵さんを丁重かつ盛大にお祀りしておわびした。それ以後、地蔵祭に客を招いて供養するようになった。
 これが数十年も続いた。ところが村人の間にやはり氏神の例祭日を客祭とすべきだとの声が高まり、その明くる年実施したところ、またまた疫病がはやり、みんなは大変苦しんだ。そこで再び子安地蔵尊の祭の日に客を招くことになって、今日に至っているという。

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毘沙門の福授け

『ふるさとの民話』(丹後町教委・昭58)に、

毘沙門の福授け
     成願寺  宇野 廣吉

 どこともみんな心が一新するいうだか、正月には威厳ぱって、いろいろと蓬莱さんも祭り、二日の日は仕事の仕度部屋へ行って、朝早うから起きて、そいて立て臼の中ゃあへ米入れてつき初めしたり、そいつができんようになると、もう、わら打って、そして縄のうて、わしわらいうて、その、細い細い縄に、昔は一厘二厘いうて穴のあいた銭があったです、それをこう刺ゃあて、そして供えとったわけで。ほいで二日の朝まは、まあ、でゃあてゃあ、威厳ばって、ええ夢を見、ほいてそれを話しゃあたり守ったりしとったいう。ちょうど二日の日はそうして気張って仕事のし初めをする。ほいから、その晩は寝て、三日の朝まで。三日の朝まは毘沙門さんが福をくばるいう日ですわ、正月の三日は。
 ほで、常に気張って仕事したり、平均でいろいろ仕事にいそしんでおる人は、
「三日の朝まで、今日は、なんだ、毘沙門さんが福くばる日だけと、まあ、正月なるとゆーっくり寝よか」言うて 気張ってその仕事する人が寝とった。それから隣リの、まあ、昔でいうなら博打打ったり遊んだり酒飲んだりしてのらくらしている人があって、ほいて、
「明日は、三日の朝まで毘沙門さんが福くばる。ほで、早う起きて福をもらわんならん」言うて、ほいて、朝早うに起きて、雨戸をちょっと一尺くらい開けて そして神さんにお燈明あげて、毘沙門さんが福をくれるかなあと思って待っておったんや。
 そしたら、毘沙門さんがルウールルルいうて。毘沙門さん、天人のようなもんで、羽根のはえたもんでかや。その毘沙門さんがリュールルルいうて通ってきた。そしたら、そののらくらしたおっさんが、雨戸のところへ出て、
「ああ、 毘沙門さん、 毘沙門さん、早う起きて待っとりました。とうぞ福やっとおくれなはれ」言うたが、ほしたら、毘沙門さんが、
「ああ、今朝のこってねえ、常のこっちゃ」言うて ずーつと逃げちまった。そうして 今日は、三日の朝まで毘沙門さんが福くばるけども、まあ、ゆっくり寝さしてもらおうかいうて寝ておる人のところへ持っていって、
「おーリゃ、福をやる」って、ドサーッと福を落といちゃった。ほうしたち、その寝とる人は、
「ああ、これはありがたや。毘沙門さん、どうもありがとうつす」言うて、礼言うとった。
「まあ、今朝のこったにゃあ、常のこったてなあ」言うて、毘沙門さん逃げていったいう話や。


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毘沙門の福授け
   成願寺  芳賀 新太郎

むかし、毘沙門さんに早参ると福がもらえるいうことで、急いで参るのに、隣の人に、
「おうい、参ろうか」言うたら、
「すまんが参れんで、お賽銭をことづけてくれ」言うて ほんの三銭ばかしことづけて その人は参らずに仕事しとった。
 参った人はたくさん福がもらえるように祈って、一年を振り返ってみた。参った人の家には金はたまらずに、去年から参らずに仕事をしとった家にはどんどん、どんどん金がたまったもんだで、毘沙門さんに祈りもって、
「私にはどうして福をくれんです」言ったら、
「お前はここへは参るけど、常にはいっつも遊んどって、怠けてばかしおるで、今日だけ早う参ってもあかん。あの人は朝も早よから晩げ遅うまで一生懸命働いとる。それでかわいい思って福を授けてやったんだ。お前みたいに今日だけ参って福を授けてくれ言うのが間違っている」いうて言われたそうな。
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毘沙門さんの転居(網野町郷)

『ふるさとのむかしむかし』(網野・S60)に、


毘沙門さんの転居

 字公庄の寺谷に毘沙門を祀る古いお寺がありましたが、住む僧とて居ないし、村人の管理の手もとどかず、荒れるにまかされていました。
 ずっとおかしのことです。雪の夜、ご本尊の毘沙門さんが、ある村人の夢枕にたたれ
「わしは村の者に見離されたらしい。居ずらいので 今は郷の明光寺に来ておるのだ。たとえ村の者が迎えに来ても帰らんぞ」と申された。
 不思議な夢だなと思い、夜が明けてから雪道を寺谷の寺まで行って見たら、ご本尊様の姿はなく、外の雪の上には、てんてんとして、妙な形の跡がついている。人の足跡とはちがう。
 急いで帰って村役人に知らせ、村役人とともに、その妙な跡をたどって行くと、郷の明光寺まで続いておりました。
 そこで住持さんとともに、本堂へまわって見ると、毘沙門さんはたしかにござる。
 一同はこの不思議なできごとに、まったく驚いた。でも今さら背負って帰るわけにもゆかず、相談の上、このまま明光寺で祀ってもらうことにしたそうです。                       (原話 後藤宇右衛門)

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毘沙門のあるところ黄金あり、同じ所だが、次の伝説もある。


『ふるさとのむかしむかし』(網野・S60)に、

黄金埋蔵の伝承
 
 切畑区のうち、郷地区に近いあたりに、岩倉という小字があり、寺谷という谷があります。ここは今郷区にある岩倉山明光寺の元地だと言伝えています。
 何年か前、この附近で、田圃の整地を行った際、土器が出土し、中には黒色土の詰った土器を附近の川で洗ったところ、少し下流の川水が一面に朱色に染ったと言い伝えています。その後、この地区の基盤整理をした人の話によると、仏具と思われる陶器の破片が、数多く出土したとも聞いています。
 附近に白つつじの株と、石地蔵があるが、黄金の鳥の鳴いたという話も聞かず、附近を大がかりな整地されたこともないので、この地に何か宝物が埋められているかも知れないという老人もあるが、今の若い人たちは耳もかしません。
    (原話 切畑区 長寿会代表)
 

        ○
 
 故立野啓蔵氏談。字郷にはいつの頃からともしれず、こんな諺がロ伝えに伝えられています。
    いけば左 もどれば左 朝日夕日さす
     つはの木のもと 黄金千両 縄千束

 これだけでは、いっこうに意味がわからないのですが、実はこの地に戦いがあって 明光寺は亡ぼされてしまいました。その時に、財宝を土中に埋めこまれたのだといいます。この諺はその埋められた場所をこのような形で後世に残したものだといいますが、その場所を掘りあてた人は今に至るも無いとのことです。
 また切畑のある人の話では、諺はこれとすこしちがって
     岩倉地蔵から西へ一町 黄金千両
と伝えられているそうです。
 後藤宇右衛門談。私の聞いたのでは、右の諺の終りの方「縄千束」ではなく「わらび縄千束」と聞いています。
「往けば左、戻れば左」という土地はとこを差すのか、どうもよくわかりません。
「朝日 タ日さす」地とは、東西に開けた谷間か、あるいは高山でも指すのでしょうか、「つわの木」もようわかりませんが、榎だとも、柳の木だとも言われています。
 切畑ではこれを、「椿の木に黄金の鳥がひとつがい、金が七つぼ、七通り」と言う人もあって、この黄金の鳥が、幾人かの夢枕にあらわれて鳴いた夢を見たら掘り出してもよいと言い伝えています。
 その地はもと古いお寺のあった岩倉という土地だということですが、そのような夢を見た人もなく、掘ったこともありません。

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八溝山の鬼(茨城県久慈郡)

『鬼伝説の研究−金工史の視点から−』(若尾五雄・1981)に、

八溝山の鬼

 さらに北上して、茨城県には、次のような古来からの有名な黄金の産地、八溝山がある。
  茨城県久慈郡八溝山  北は陸奥国白川郡に属し、西は下野国那須郡に接し、東南は皆常陸の地にして久慈郡なり、山中洞穴多し、古へ黄金を掘りし処なり。仁明天皇承和三年春乙丑詔して陸奥国白河郡の国司は八溝山黄金 神を祈りて沙金を採り得て、遣唐使の資を助しと、山上又大悲閣あり、坂東順礼の一なり。日輪寺、月輪寺と云両院あり、修験住せり、いつの頃よりか光蔵院、勝蔵院と云て別当となりしと云、今山上に二院ありて、山下に一院あり、合せて三別当と云、(紀行)
  那須記 八溝山には竜蛇が住み人民を残害せり、須藤権守某、八溝山の奥笹ヶ岳にて平治せり、
とあるように、ここは三国にまたがる山だが、古来から黄金の沢山出たところで、『延喜式』によると、八溝嶺神の祀られているところである。つまり黄金神といわれる神が祀られていて、これも山そのものが黄金を胎蔵するからこそ、黄金神として神体山になっている。ところでここには、次のような伝説がある。
  大同二年(一説には弘仁一二年)弘法大師は、湯殿山から鹿島への途次、八溝山の麓にさしかかったところ、谷川に香気がただよっていた。大師は、この山上は仏陀の浄土ならんと感じた。しかし土人の言によれば高笹山の山腹に鬼神が住み、ときには鬼形、ときには蛇身、または婦人、童子と化して、ややもすれば人に害するとのことであった。この鬼神を鬼賊大猛丸という。大師は高笹山にのぼり、虚空に般若の魔字品をかくと、鬼神はたちまち退散した。大師は絶頂に立ち、その山容を見て八溝の嶺と名づけた。
  また池田城の城主藤原富得は、八溝山に悪鬼と大蛇がいて住民を害するのを怒り、これを退治に出かけた。途上、大風おこり、山は鳴動し、暗雲がたちこめ、雲中より眼が鏡のように光り、口から炎を吐く大蛇があらわれた。このとき空から不思議な一童子があらわれ大蛇を退治した。童子は風神の化身であり、そのとき大蛇を投げおろした土地を蛇穴という。
 さらに栃木県馬頭の大金童貞の「那須記」によると、八溝に鬼神がおり、近くの住民をさらってこれを食ったという。鬼神は岩佐九といって、八溝の笹岳の岩窟に住んでいた。宣旨により那須の地頭職須藤権守貞信が大将となり、郎党二百余騎、近村の勢子五百余人の大勢で退治に向った。勢子頭を蛇気地次郎といった。貞信は不思議な老翁に案内ざれ悪鬼の在所にいたり、首尾よくこれを退治した。悪鬼は数千年を経たカニの化身であった。その頭を斬り落すと光を放って飛行し、勢子頭蛇気地の家の庭木に止り大蛇と化した。貞信の建立した三王権現の神霊が大猿となり、毎夜、この大蛇と戦って、ついにこれを退治した。(茨城県大子町黒沢小学校報告)
これらの伝説のいずれにも鬼や鬼退治の話が出てくる点、そしてこれらの地が、鉱山地帯であり、黄金山という神体山であることは、今まで述べてきた鳥取、岡山、京都、岐阜、栃木の各府県にあった鬼退治の話と同様、鬼と鉱山との深い関連を示している。これは、かの有名な大和国の修験道の総本山である吉野の金峰山が、ただ仏教の比喩として金峰山の名が出たというようなものでなく、量の多寡はともかく、実際に金を生ずる山なるが故に金峰山といい、その山の神霊を金山彦命(金精神)というのも、そのためであることがわかる。
 なおこれらの伝説の中には、蛇の話が鬼と共に出ているが、蛇もまた鉱山と関係がある。八岐大蛇を筆頭に諸国に山と関連した竜蛇の退治される話があるが、やはり鬼と共に金工に関することであることは、はっきりしている。そのことは別の機会に述べることにする。


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