文献資料の紹介
本文には載せられなかった丹後の伝説・昔話・神話・民話、その他を若干撰んでここに載せておきます。丹後周辺も含みます。
 資料は一応は公開されているものですが、すべて無断で引いております。もしご都合悪ければ、連絡下さい、即削除します。
 k_saito_site@ybb.ne.jpまで。

     このページの索引
伊勢湾台風被害
桑飼下・原の水害
13号台風被害
23号台風被害の状況(04.10)
明治40年の洪水

丹後の伝説:16集:




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台風23号被害(04.10.26)
大雲橋周辺の洪水
桑飼下・原の水害
明治40年の洪水
台風13号被害
伊勢湾台風被害


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由良川の水害史


台風23号の被害状況(両丹日々新聞04.10.26)

「両丹日々新聞」



(台風23号被害)

災害 その時大江町は これまでの動きを振り返る

 大江町は台風23号により”28水”以来の大惨事に見舞われた。災害発生から1週間近くになり、当時の様子が少しずつ明らかになってきた。町災害対策本部や被災住民の証言をもとに、災害発生時の様子を振り返った。電気、電話が不通の暗闇のなか、災害対策本部や被災家庭は緊迫した事態に陥っていた。

 台風23号は、20日午後に四国南部を横切って午後6時前に大阪府泉佐野市付近に再上陸。近畿地方から長野県方面に進んだ。同日午前11時30分現在、中心気圧は950ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は40m。中心から280km以内では風速25m以上の暴風が吹く大型で強い台風だった。

 風雨が次第に強まるなか、職員全員と全消防団員を招集する3号動員が発令されたのは午後4時。警戒本部は災害対策本部に切り替わった。そのころから庁内は断続的に停電するようになったという。
 すでに由良川の水位が上がり、危険なため町内に架かる5つの橋のうち、大雲橋を除く在田橋と有路下橋、波美橋、尾藤橋の4橋が通行止めになっていた。町民には危険を生じた場合の自主避難を、この日4回目の町内一斉放送で呼びかけていた。

町内全域に避難指示
 断続的な停電のなか午後7時15分、6回目の町内一斉放送で由良川の水位と町内低地の住民に避難を呼びかけた。そのころ大雲橋の水位は7〜8mと予想された。28水の大雲橋の最高水位13・5mには余裕があった。

一面海のように しかし、その20分後の午後7時35分には河守堤防を水が超える危険性が高まり、特に今回被害のひどかった河守新町、蓼原、関に危険が高まったことを放送で改めて周知した。台風が最も接近していたころだ。

 事態は一層深刻化する。午後9時15分には7回目の一斉放送で町内全域に避難を指示した。情報では、福知山市の水位が引き続き上昇中で、大雲橋の水位はこのころ9〜10mと予想された。

途絶えた町内放送 役場は機能失う
 30分後の午後9時45分。7回目の町内一斉放送と同じ内容で再度町民に避難を求めた。役場1階はすでに水が入り、放送施設のある防災室にも浸水。機能を失った。結局、8回目の放送が最後になった。すでに固定電話は使用不能。携帯電話も4、5回に1回程度しかつながらない状況に至っていた。

 町民から救助要請があったが、災害対策本部は動きが取れず、午後10時15分、自衛隊に河守や蓼原、関、公庄、天田内など50戸の救助を要請した。しかし、由良川のはんらんで主要道路は寸断され、自衛隊でさえ現場に入る手段がなかった。

 そのころ役場には職員ら約50人がいた。ろうそくや懐中電灯の明かりを頼りに、思うようにつながらない携帯電話で懸命に台風情報や被災情報を収集する一方、水位が増す1階フロアから2階へパソコンや重要書類などを運び上げた。

 しかし、あまりにも急激に水位が増し、1階にいた職員の腰まで達したことからこれ以上は危険と判断し、午後11時15分に全員が2階へ避難した。

 電気、通信が断たれ、災害本部の機能はすでにマヒ。その後も水位は上昇を続けた。庁内の壁にくっきりと残る濁った水跡は、1階フロアの高さ1・05mに達していたことを示す。ピークは、日付が変わる21日午前0時ごろから午前2時ごろにかけてという。

 河守地区と隣接の蓼原地区は、国道175号と北近畿タンゴ鉄道の線路を挟んで由良川が流れている。ここでも想像を超える速さで水位の上昇が続いた。床上浸水が相次ぎ、2階まで水につかった家もあった。21日朝、お年寄り2人が浸水した自宅から遺体で発見された。

経験したことのない速さで浸水
 両地区は、大谷川と蓼原川の2つの細い川が流れている。この日は台風が接近する前から雨が降り続き、由良川本流の水かさが徐々に上昇。逆流を防ぐため午後5時30分には大谷川と蓼原川双方の樋門を閉めた。

 その結果、両地区の山手に降った雨がはけ口を失い、内水としてたまる一方、本流や関、河守地区を流れる宮川堤防から大量の水があふれ、一気に河守、蓼原両地区に流れ込んだらしい。過去に何度も水害に見舞われている両地区だが、これまでに経験したこのないスピードで一気に水が押し寄せ、人々の逃げ道を奪った。多くの人が自宅2階に避難。「あんなに早く水がつくなんて。2階へ逃げるのがやっとだった」と口をそろえるほどだ。

 その河守地区では、国道175号を走っていた車が水没し、運転手3人が道路わきの民家に助けを求め命拾いした。助けた家の人は、はっきりした時間帯は分からないとした上で当時の状況をこう話した。

【被災者の証言】
 台風が最も接近していた午後7時過ぎだったと思う。暗闇の玄関のチャイムが鳴った。玄関の戸を開けると「車が水に浸かり動けない。避難するところもない」と助けを求めてきた。

 その時、幾分高いところにあるこの家でさえも、すでに縁側あたりまで水が来ていた。すぐさま3人を自宅に上げ2階に避難させた。

 水位は上昇し、1階は家人の首のあたりに達した。まさにあっという間だった。自宅前に止まった車両8台が水没し、部屋のピアノがプカプカ浮かんだ。周囲は暗闇。停電でテレビやラジオなどからも台風情報は得られない。懐中電灯の明かりを頼りに、これ以上水位が上がらないことを願った。

 3人は、岡山県のトラック運転手と京丹後市峰山町の会社員、舞鶴市の大学生。家人は「あなたたちはこの家と心中する必要はない。もし、泳いで逃げられるものなら鉄道の線路まで行けば助かるかもしれないと言った」と、当時の緊迫した状況を振り返った。

 そして「近くの一人暮らしのお年寄りが亡くなった。よく知る人だったが、水位が上がり、真っ暗の中ではどうすることも出来なかった」と顔を曇らせた。何とか台風情報を得ようと、通信が不安定な携帯電話で知人に電話し、やっとつながり、その時初めて台風が岐阜県にいることを知った。午前0時前後だったと思われる。

 自宅1階部分は、よその被災家屋と同様に泥水が入り込み、使えるものは何一つない。落胆と疲れの色は隠せないが「命があっただけでもありがたいと思わないと」と話した。
 きょうも被災地では雨の中、復旧作業が続いている。

写真:水位が下がった翌朝でさえも町内の由良川流域は一面海のような有様だった(21日午前9時45分、蓼原から写す)
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台風23号の大雲橋周辺の洪水

大雲橋周辺の被害

「航空写真」より(041021の朝9時より10時まで)。氾濫する川の中に唯一まっすぐに架かっているのが大雲橋。
大雲橋付近大雲橋付近



桑飼下・原周辺の宿場(舞鶴市桑飼下)

『まいづる田辺 道しるべ』(安田重晴著・平成10)に、(地図も)

(原)


 この桑飼下村の旧道沿いには、明治四十年の大洪水による被害を受けるまでは、町屋を形成した宿場町があった。滝ケ洞記によると、

  享保六年 (一七二一) 三月一日下桑垣村火事
   家数二十一軒
    「山手」は三右衛門より上
    「川手」は九郎左衛門より上

とあり、「川手(由良川沿い)」に町屋があったことが知れる。

 川沿いにあった宿場町の家々は、明治四十年の大洪水後、すべて山麓の高台に移転され、当時の宿場町の様子を知ることはできないが、今も屋敷跡の石垣や井戸などが残っており、当時の宿場町の一端を偲ぶことができる。

 この明治四十年の大洪水前後の宿場町の状況について、地元の竹原和市郎氏と杉本嘉美氏の両氏が詳しく調査された記録があるので、道に関連する事項だけ引用させていただく。
原付近図

 明治四十年の由良川大洪水が起こるまでは、桑飼下村の旧道沿いには六十七軒の商店や民家が軒を並べて道の両側に建っていた。

 町の長さは約四百メートル、道巾は一間半(二・七メートル)。
 この街道は大阪への順路に当たり、藩政時代には参勤交代の道であったとも伝えられ、又、村人や旅人の「上」「下」往還の幹線道路でもあった。

 この宿場町の約半数二十七軒が、何等かの商売を営んでおり、典型的な宿場町を形成していた。
 その主な商売を見ると、

 宿屋    一軒    高瀬舟運搬業  二軒
 牛馬商   二軒    桶屋      一軒
 豆腐屋   二軒    傘提灯製造修理 二軒
 酒屋    一軒    下駄屋     一軒
 鍛冶屋   二軒    屋根葺屋    二軒
 按摩    一軒    髪結      一軒
 木挽    一軒    漁師      一軒
   外に  七軒

これを見ると、江戸時代から明治に至る間の宿場町の様
子が分かる様な気がする。

            *
 桑飼下村の宿場街について地元の古老がこんな話をしてくれた。
 「昔、この宿場街は各家の便所が道路に面して建っていたことから、人々はこの町を雪隠街(せつちんまち)と呼んでいた」と伝えられている。
 又、ここでは古くより牛市が開かれ、遠くより沢山の牛商人が集まり、大変賑わった所とも聞く。

 この宿場街には、対岸との間に二ケ所の渡し場が設けられていた。
 下流にあったのが「三本松渡し場」といい、志高、大川方面へ行く人が利用し、上流の「由里渡し場」は岡田由里方面へ行く人々が利用していたといわれている。当時この渡し場には、渡し小屋が一軒建っていて、常時船頭さんが一人居られたという。

 この渡し場附近は、由良川の河川改修される迄は川巾が狭く、改修後の川巾の約半分程しか無く、往昔の渡し場としては大変良い場所であった様である。

 かつての宿場街跡もこの河川改修により、屋敷跡、旧道、桑畑等ほとんどが由良川に水没してしまったが、辛うじて水没からまぬがれた小字家路辺りに、当時の屋敷跡の石垣や井戸跡を見ることができる。

 さて、桑飼下村の原谷より小原、市原谷(大江町内)へ通じる旧道があった。かつては市原谷、丹波へ通じる重要な街道であり、地元では「田辺道」と呼んでいた。
 牧野藩時代、殿様が市原谷、阿良須(大江町内)方面へ狩りに行かれる時にはこの道を通られ、途中市原谷の芦田与右衛門(京極家より国印を受ける、当家三代目与右衛門為直は、大石内蔵助の妻リクの実弟である)宅に立ち寄られ宿泊されたと大江町史に記されており、又、当家の子孫になる芦田正氏家にもこのことが今に伝えられていることを聞く。

 この「田辺道」は、桑飼下村原谷より原峠を越え、桑飼上村の小原に入る。ここで道は追分となり、「右」の道は宇谷に出る。

「左」の道は大路に通じ、大路より大路峠を越えれば丹波の金河内に至る。この大路峠登口に今も古い道標が残っており、
  右 たんば道
と自然石に書かれている。往時の峠道を偲ばせてくれる。

 さて、「田辺道」は小原の岐路より真っすぐの道を行く。途中市原峠を越えると市原谷の村に入る。

 この小原の岐路に設立年代は不詳であるが、古い地蔵さんが立っていた。この地蔵さんは道しるべにもなっている。
 地蔵さんには、
  仏 右 はら
    左 う谷
と書かれており、市原谷方面より来られた旅人の道案内の道標になっている。

 今一つある地蔵さんには、
  仏 右 市原
    左 たんば
とあり、原、宇谷方面より来た旅人への道標になっている。「右 市原」は市原谷のことであり、「左 たんば」は大路より金河内に至る道を指している。

 これ等の地蔵さんの道標は、現在岐路には無く、他の場所へ移されている。
 この「田辺道」は、かつて元禄十五年義士討ち入り本懐後、寺坂吉右衛門がいち早く豊岡に居られた大石内蔵助の妻リクの元へ注進すべく急ぎ、この田辺道を通って行ったといわれる由緒ある道である。
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かつての原宿のあたり(桑飼下の原から西をのぞむ)
この洪水の研究は『舞鶴地方史研究15』に発表されており、『舞鶴市史(中)』もそれを引いている。先の13号台風に匹敵する洪水であったようである。明治40年8月24日、水位は11メートル52センチに及んだという。この原宿場街では「家屋の被害状況は、集落六十七戸の内三分の一が流失、三分の一が減水と共に倒壊、残り三分の一が辛うじて免れた状態で、その惨状は言語に絶するひどいものであった。先に避難した老人、子供や女子等の家族も、その一夜だけは他家で明かしたが、これが最後に住むに家無く野宿同然の生活が始まったのである。」としている。下図は『…15』に掲載の復元地図。さらにこの下に有名な桑飼下縄文遺跡が眠っていたのである。こんな川のすぐそばに縄文遺跡があろうとは誰も予測していなかったという。
明治40年以前の桑飼下

明治29年の大洪水は「正に歴史的」と書いているが、明治40年も「これもまた記録的」であったという。

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『丹波の話』(礒貝勇・昭和31)に、

四十年の大水


 明治治三十二年(一八九九)にも相当出水があったが、明治四十年(一九○七)の大洪水はこれまた記録的なものであった。この年八月二十三日以来、台風の襲来によって日本各地に水害をもたらしていたが、中央気象台は低気圧はすでに去るだろうとの予報を発表し、二十六日頃には低気圧は東北樺太方面に去ると報じたらしい。由良川水位も綾部標識で八尺七寸を示していたものが、二十五日の朝には五尺に減水し、警戒も解かれていた。ところが午後三時頃から、にわかに篠つく大雨が降り出し、午後九時には水標は九尺を示した。郡役所、警察署、町役場員総出で防水の準備をすすめたが、雨は全く車軸の如く絶え間もなく降りつづき、水嵩はいよいよ加わって全く危険状態になった。十二時には水位十三尺八寸に達し、青野の民家、郡是製糸株式会社は危険が伝えられる有様になった。かくて二十六日午前三時には水位十九尺五寸に達し、濁流は綾部橋の欄干を躍り越え、防水に努める人為の手にたく炬火の焔は水煙に乱れ、人々の叱吃する声、岸辺にくだける波浪の音は交錯して、身の毛もよだつ有様になったと、記録は当時の模様を物語っている。警備の人々の苦心も荒れくるう水勢を如何ともすることが出来ず、樋ノ口堤防百三十五間はみるみる中に押し流された。この樋ノ口堤防の決潰と同時に飛報があって、西福院前の溜池が決潰の恐れあるとのことで、この方面に防備に向うなどのことがあったが、これは事なきを得た。かくする中に午前五時三十分、綾部橋は轟然と押し流された。つづいて白瀬橋も墜落、以久田橋もまた流失したのであった。やがて夜が明けて見渡すと、並松川岸に積まれていた木材は一本もなく流れ、鉄橋は傾き、築堤線路は数十間流れ抜かれ、鉄条に枕木は肋骨のように付着してたれ下り、その下を濁流が滔々と流れていたと、当時の様子を記録しているが、今次の水害被害そのままであったらしい。綾部周辺の村今味方、中筋、以久田、佐賀の村落が一面渺茫とした濁水の大湖となり、昨日まで穣々として実っていた稲はその穂先を没し、肥え太った桑も梢を沈めている。民家の倒壊流失したものもあるだろう。雨はすでに晴れたが、西方遠く烏ケ岳一帯にはまだ濃い霧がたれこめて、秋涼の気が身にしみる思いであったようである。こうして綾部の人達が悲壮な物思いにふけっている夕、誰いうとなく福知山の悲惨な水害の報がつたわって来た。これより先、交通は橋梁の流失でたえ、二十五日夜十時には電信電話は途絶して通信交通の便は全くたえてしまった。

 被害状況生綾部町が、家屋損害は流失全潰一八、半遺一二、破損六、計三六。浸水は床上一○七、床下三七九。橋梁流失二三、被害三、堤防決潰四カ所一五八間、破損三カ所二○間。道路流失埋没三七ヵ所五六五間、破損五一ヵ所三三七間となっている。殊に須知山峠の被害がはなはだしかったらしい。味方は今回の水害と同様、舞鶴鉄道線の上下ほとんど全部浸水、床上四、五尺に達したものもあり、とくに同和地域の被害が多かったと伝えられている。中筋村では延、岡部落共に浸水し、高津は高津川の破堤で土砂の堆積に苦しめられている。安場では溜池の決潰があったようである。以久田村は上位田、下位田、槻瀬、栗、長砂いずれも浸水、床上五尺以上に達した家屋も多かった。この時も槻瀬集落は護岸の破堤のため今回同様いためつけられている。佐賀村では、小貝、上私市で各一ヵ所破堤しその被害ははなはだしかった。とくに印内、山の内では山崩れは実にひどかった。

 上林谷の被害もきわめて甚大で、十倉区の沿道の民家耕地はすべて浸水し、上林川の堤防の決潰と山崩れによる耕地の荒れ方は、佐賀村と共に郡内の最大なものといわれた。上林川との合流地点をはじめ、およそ川の屈曲部は全部決潰し耕地は全滅している。寺町付近の田圃の被害は壊滅的であったと記録している。川にそうた各部落の人家は何れも床上浸水して礫石が屋敷内に堆積した。長野は比較的被害僅少だったが、草壁橋、故屋岡橋は墜落し、この付近の被害は少なくなかった。二十九年水害に流路を変えたものが、又々その方向を転じている。古和木、老富辺は至る所に山崩れの被害がいちじるしい。

 何鹿郡全体の被害統計は、人畜においては、死亡は物部三、吉美五、西八田四。傷者は、吉美四、西八田二、奥上林一、馬負傷、物部一となっている。家屋損害は郡全体で、流失全潰七三、半漬五六、破損一○一四、床上浸水一五五二、床下浸水二二三五。橋梁堤防の被害は、橋梁流失四一四、堤防決潰四五一ヵ所。又、田圃荒廃二六九七反、畑荒廃七四九反、山崩二三四五ヵ所となっている。損害総額は約百十七万二千百十円に達している。
 罹災者に対する救援の状況は、八月二十六日から三日間、千三百三十二戸、廷人数二万千五百五十五人に対し七十五石四斗四升二合五勺の焚出しをしている。又、貧困者に対しては、バラック、食糧、農具等の給与を出願させるなどの手を打ったようである。

 なお、この四十年水害の降雨量は八月二十三日午後二時から同月二十六日今前五時三十分迄において雨量総計五百七十三ミリを記録している。由良川の最高水位は十九尺五寸と記録されているが、この時刻に樋ノ口の破堤があったのでその値はこれに上まわるものと思われる。雨量は二十九年水害時に比し三分の二を増していたと当時の記録にのせている。…

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台風13号の記録

『市史編纂だより』(昭61.9)に、

恐ろしかった台風13号

       舞鶴市宇大川  松本登志男

 25日から降りはじめた雨、風と雨の大あらし、もうすぐ道へ水が上がってきそうだ。家の片付けに一生懸命だ。そのうちに、お父さんが帰ってこられた。お父さんは、「もう町は足くびの辺まで来ている」といわれた。大切なものは、みんなきやの2階へあげた。そのうちに水はとうとう道へあがってきた。ぼくはこわくなってきた。もう庭へ入ってきそうだ。お母さんが、「あぶないから逃げな」と言われたので妹に合羽をきせて、ぼくはかさをさして逃げた。雨はぼくと妹の顔をたたいた。ようやく5年生のあつ子さんの家へ逃げさしてもらった。

 夕方になっても、お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも来られない。妹は、「お母ちゃんがきてない」といって泣くのを「もうすぐ来てや」とたらかした。外は暗くなって来た。としひこ君の家の人も来られない。上地の1年生のくうちゃんの家は水が入ってくるくらいなら、ぼくの家は2階まできているのに違いないと思った。としひこ君も姉さんのきみちゃんも泣きだした。でもぼくと妹は泣かないでこばっていた。でも妹はとうとう泣きだした。泣かないようにぼくは一生懸命にたらかしたが、妹はかど口へ行っては「お母ーちゃん、お母ーちゃん」と泣いた。外はまっ暗だ。何も見ることができないほどまっ暗だった。まだ家の人は来られない。ぼくは心配で心配でじっとしていられない。妹は泣きながらねてしまった。

 間もなく、としひこ君の家の人たちとお母さんが逃げて来られた。そして、お母さんは、声をふるわせて「お父さんとおばあちゃんは家と一しょに流された」といって泣かれた。ぼくも泣いた。お母さんの話を聞いてみると、4時ごろから「助けてくれー、助けてくれー」と呼んでいたけれど雨風がひどくて、舟が出なかった。そのうち外が暗くなってきた。もうすぐあかりをつけて迎いに来てくれるだろうと思って喜んでいた。すると家がメキメキといってたおれかけた。お母さんはすぐ、ぼくらのことがうかんで、心で死んではならないと、小さいまどから出て、かきの木にはい上り、でんちをはなさずもっていたので、それをふって「助けー、助けてー」と死にものぐるいでやめいた。そのうち舟が迎いにきて、助けていただいたと、話された。

 ぼくはそれを聞くと、かなしくてかなしくて、ねむれなかった。お母さんは涙をかくして泣いていられた。朝になった。ひのみや神社へあがって家をみると水はまだ一ぱいだ。お父さんとおばあちゃんは今ごろどこにいられるだろう早くさがしたい、どこかにつかまって生きていてくださるように神様へおまいりした。

 27日の朝「おばあちゃんがおられた」と聞いてとんで行ってみると、腰から下どろにうまって死んでいられた。お父さんはまだ見つからない。毎日しょうぼう団の方にさがしに遠い所へ行っていただいた。それから1週間ほどたってから、お父さんがおられたが、もう「登志男」とよんでくれないお父さんだった。

 ぼくはお父さんとおばあさんに1度に、わかれてさみしいけれど、ぼくにはまだお母さんがおってくださるんだもの、元気を出して一生懸命、べんきょうしてりっぱな人になってお母さんに安心していただき、またなくなったお父さんにも安心していただこうと思う。

 ぼくは今、大川神社の前に村からたててもらった家にお母さんと妹と3人元気でくらしている。

(注・この手記は松本さんが岡田下小学校4年生の時のもので、川筋教員組合発行の文集「ともだち」に掲載され、その後「郷土誌岡田下」に転載された)。
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伊勢湾台風の記録

『市史編纂だより』(昭61.9)に、

伊勢湾台風受難記

        舞鶴市字西方寺 霜尾 登

 昭和34年9月26日、早朝からの風雨は、午後になって益々激しく、岡田川(由良川の支流)の水かさは超満水で今にも堤防を越えそうな勢である。戸を激しく叩く土砂降りの風雨の音と、ゴウッーという岡田川の水音が混り、無気味な予感は募るばかりであった。3日前からラジオで予報されている台風の襲来である。
 早くも前の田圃は濁水でいっぱいになった。これはただごとではないと病床の母を背負って、水中を歩き高台の安全な家に預けた。5時半ごろには床下浸水、6時には床上浸水、電灯も消えた。懐中電灯を頼りに家具の整理に努めたが、突風の来る度にゆれる我が家、今度こそ家が倒れる!ー大事到来と貴重品だけを手首にしばり、地下足袋にはきかえ脱出準備をして待機した。
 6時半ごろ釘付けにしていた裏戸がへし折れ、50センチ高さの津波のような水が一気に浸入して来た。堤防が切れたと直感した私は、急いで外にに飛び出した。濁水は胸のあたりまであり、芥まじりの急流で、隣家にたどり着くのが精いっぱいだった。隣家は竹材加工をしていたので、2階に避難するまでに、多くの機械のために、隣りの主人も私も足にけがをした。2人は、おむつで足を縛って手当をした。その間にいま登った梯子は流されてどうする事も出来ない、観念した私たちは兄の敏之を父親の与四郎、二男の明を私が、数え年2歳の三男敬次を母親の八重が背負い、何時でも万一に備える準備を整えた。
 濁流は益々激しく、一抱えもある大きな橋桁がドーンと柱に当たる。その度に柱が折れ、家が揺れ、少しずつ傾いていく。全く命の縮む思いであった。柱時計は6時40分で止まっている。バリーンと音がして前庭の柿の巨木が倒れ、屋根を突き破って顔を出した。濁流に放り出されるのはいつか!「早く脱出したい」と思いながら、背中の失神したような幼児を見ると飛び出す勇気も出なかった。突然、家が開いたのか、私たちのいる2階の床がすべり台のように斜めに落ちた。家財道具はもちろん私たち6人もアッという間に濁流の中に投げ出された。
 「モウ駄目だ」無我夢中で倒れた家の柱にしがみ付いた。与四郎夫婦も前後して濁流の中から浮き上がってきたので一緒になり、もう1本の材を引き寄せ両腕に抱き、それぞれ幼児を背負ったまま、与四郎が先頭、八重、私と続いて流れに身を委せることになった。幸い懐中電灯のスイッチを入れると灯がついた。やれやれと赤ちゃんをのぞく、まだ生きているようだった。灯りを消し死んでも締めなよとひとりごと。言っても分からぬ幼子に言い聞かすだけの落ち着さができたのだと思った。
 暗黒の世界にも慣れ、かすかに見える我が家の残骸に流れは二分され、本流とは別の流れに乗っているようだ、勇気を出して足を櫂のように動かして淀みに入り、更に桑畑に向かった。桑畑もまだ相当の濁水だったので、命の恩人である柱を並べ、貴重品を包んだナイロン風呂敷を頭に、赤ちゃんを中心にして、大人が抱き合って減水を待つ事にした。すでに駄目になっていた懐中電灯を手に、3時間も4時間も、本当に長い減水待ちの時間を水中で過した。
 「アゝこれで助かった」といういちまつの安らぎはあったけれども、寒さと悪夢のような恐怖が重なって、ガタガタ震えだし、話しかけようとしても声は出ず、もちろん言葉にもならなかった。やっと減水した2時半、流れ寄ってきた尺杖を手に、手探り、足探りで泉兵右ヱ門さんの裏口にたどり着き、助けを乞うのが精いっぱいであった。
まだ腰上まである水の中を助け合って、大2階に登り衣類を借りて着替え、サツマ芋をもらって食べた時、「アア助かった」という実感に、止め度もなく涙が湧いてきてどうしようもなかった。
 午前3時を回って浸水も床下だけになったころ、上隣の1人暮しの山本マサばあさんが「私は西方寺から流れてきたものです。どうぞ助けて下さい」と、言っている。話を聞いてみると、私たちより30分程前に脱出し、浮きつ沈みつの状態の中で、相当長時間流され、由里辺りと思っている。それは唯1人暗闇の中を、長時間生きた心地もなく、心細さは気も狂わすほどであっただろう。気の動転と錯覚で話はチグハグだった。同家の木小屋に流れ着いて減水を待っていたようである。
 ちょっとウトウトとして、私たちを案じて探してくれる近所の人たちの声に目醒めた。白々と明け初めた附近を見渡して、家も道も田圃もない一面の広々とした河原に唯茫然自失、寝不足な目に明るい陽光がまぶしかった。近所の人の厚い情にまた泣けた。歩けない私たちは消防団やお巡りさんに背負われて、区長や役員の計いで、公民館に厄介になる事になった。

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