丹後の伝説
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その六

丹後の伝説:6集

鬼ケ城、大江山、大江山ニッケル、他

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若狭の師楽式製塩土器

『高浜町誌』に、

土器製塩

謎の土器  瀬戸内沿岸各地で、弥生時代から古墳時代に属する遺跡から、二次的に火を受けぼろぼろに破片となった粗製土器が集積して発見された。昭和の初めにはこれらの土器が多量に見つかった遺跡の地名をとって「師楽式土器」と命名されたが、ながくこの土器の用途は謎につつまれていた。
 このベールをはがしたのは、岡山大学の近藤義郎氏のグループで、昭和二四年(一九五四)に香川県直島町喜兵衛島という無人島における調査で、この師楽式土器は実は製塩土器であることが立証されるに至った。若狭地方では、同志社大学の石部正志氏により、昭和三○年代の初めに、大飯町あるいは高浜町内でこの師楽式類似の土器があることが明らかにされるに至った。現在では、青森県から熊本県まで各地で製塩土器の存在、土器製塩遺跡が明らかとなっている。
 四方を海にかこまれ、岩塩などは産しない我が国では、塩は海に頼らざるを得ない。通常海水には三パーセントの塩分があるといわれ、水分を蒸発させれば塩のできることは、海岸の岩場などで天日に干されて塩がわずかに残っていることなどから、誰でも気付く製塩法であったであろう。
 さて、実際の塩作りの手がかりを文献に求めていくと「万葉集」や「風土記」に藻塩焼く、藻塩垂るという表現があり、このことは、海水の塩分を濃縮する作業に藻が使用されたことをうたっているのではないかといわれている。この濃縮海水をつくる作業こそ塩作りが効率よく成功するかどうかのカギであり、塩汲みともども重労働であった。藻をどのような装置で使っていくのかは、考古学的発掘ではまず立証することは不可能である。今のところ想像されているのは、スノコの上に藻を並べ、幾段にも積んで、上から海水をそそぎ、下に落ちるまでに空気と熱により水分が蒸発して、濃い海水となり、この作業の繰り返しにより、海水濃度をあげる方法である。
 次に濃い海水をさらに濃くするには、強制的に水分をにがす法、つまり煮つめることとなる。この煮つめる時に土器が使われる。製塩土器の使用である。何度も何度も濃縮海水を注ぎ足して塩の結晶を得ていく作業、これ又大変な重労働で、ここで「山淑大夫」の話が思いおこされるのである。
 要するに塩作りには、塩汲み→藻で海水濃度をあげる(採鹹)→土器により塩炊き(煎熬)といった単純な作業のようであるが、重くそして苛酷な労働がなされていたのである。私達が高浜町内の海岸で散布しているのを観察できる製塩土器片はこの際に使用されたもので、土器は火からおろすとボロボロになり、一回限りの使用で捨てられ、大量の破片が堆積状態で発見されるわけである。さらに、製塩には大量の燃料が必要であり、古代において米以上に商品価値の高いものであったであろう。
  町内の製塩遺跡  高浜町内製塩遺跡については充分な分布調査がなされていないが、従来から知られている遺跡をあげれば一三個所の遺跡が分っている。海に面した砂浜の中に大量の土器が散布しているのが通常の製塩遺跡である。
 次に主な遺跡と製塩土器について、若干の説明を加えていくことにしたい。いずれも発掘調査によって得られたものではなく、散布していたものを採集したものである。

日引遺跡  県内では最も西に位置する製塩遺跡であり、その発見は昭和三○年代後半で、同志社大学による分布調査で明らかにされた。船岡式製塩土器(奈良時代)が知られる。
神野浦遺跡  現在の民家・駐車場などの海岸部に立地するもので、奈良時代から平安時代にかけての時期の製塩遺跡である。船岡式製塩土器と塩浜式製塩支脚が、故森下譲氏によって採集されている。遺跡は海岸の東部から船岡式土器、西部から塩浜式支脚と地点を異にして採集されており、町内でも有数の大規模な製塩遺跡であったようだ。現在は水田となっている製塩遺跡の背後の斜面からは、縄文土器が出土しており、本地区が海に根ざした生活を古くから行っていたことがわかる。
立石才ケ鼻遺跡  立石遺跡は縄文時代の集落跡として前述の如き多彩な内容を有する。その中で、才ケ鼻地籍からは、これまでにも多量の製塩土器の出土が知られている。採集されている土器は、浜禰UA。UB式土器と船岡式土器で、古墳時代中期から奈良時代にかけての遺跡があったことがわかる。
和田堂筋遺跡  採集されている土器は、浜禰UB式・船岡式土器で、砂浜の中に多量の土器が散布していた。

和田1区遺跡 浜禰UB式・船岡式士器が採集されている。中でも注目されるのは、胎土の良好な灰白色を呈する製塩土器が出ていることである。小浜市岡津遺跡で、岡津式と名付けた土器に極めて共通する内容を有している。船岡式に先行し、浜禰UB式の次に位置づけられているもので、これまで岡津遺跡以外では知られていなかったものである。

若狭地方の土器製塩  若狭地方における土器製塩遺跡の分布は、今日では五七個所を数えるに至った。しかも最近では、敦賀、三国、芦原などの越前海岸、舞鶴、丹後半島にも確認されるに至り、日本海沿岸一帯に遺跡が残されている可能性は強い。近年、本町に隣接する舞鶴市においても若狭と同一タイプの製塩土器が大浦半島一帯から発見されてきており、遺跡の数も六個所となっている。
 さて、若狭地方の遺跡は海岸線全域に土器の散布がみられるが、現在では民宿の改築、駐車場、護岸工事、開田工事などで消滅したものが多くなっており、遺跡の全容が存するものは極めて稀なものとなっている。そういう意味からも、製塩遺跡の保存は大切な課題であり、昭和五四年(一九七九)には、小浜市岡津製塩遺跡が国の史跡として指定され、小浜市では土地を公有化して史跡公園として日本海側唯一の土器製塩遺跡の史跡として公開する予定となっている。
 製塩遺跡は、その殆んどが海に面して点在する現在までの漁村集落と重複していることもひとつの特色であるが、中には、大飯町大島吉見浜遺跡、小浜市田烏傾・大浜遺跡のように、現在では集落の存在しない所にも遺跡が分布する例もある。しかしながら、これらの地には終末期の横穴式石室を有する古墳が築かれており、当時は集落を形成していたことは明白な事実である。恐らく土器製塩の衰退とともに、それらの集落も消滅したものであろう。
 若狭地方における土器製塩については、同志社大学により研究が開始され、その後若狭考古学研究会の精力的な研究によりその内容が明らかにされ、全国的にも若狭の土器製塩の研究成果が注目されている。その理由はいろいろあるが、後にとりあげる藤原宮・平城宮跡の木簡との関連が最も注目されることであろう。
 土器製塩の移り変わりを示すものとしてモノサシ(編年)を作り、その変遷を知る手だてとしている。モノサシは、その内容を良好に示す遺跡の名前から愛称をつけて呼んでいるもので、今では全国的に通用するまでになった。一連の研究に基づいて作成された編年表によって、次にその移り変わりを紹介していきたい。
(1)浜禰T式 古墳時代前期〜中期(四世紀末〜五世紀初頭)に属するもので、大飯町宮留浜禰遺跡において、同志社大学により発振調査がなされ、若狭最初の製塩土器として著名である。製塩土器は、瀬戸内海地方や紀州のものに類似した倒杯型の脚部を有するグラス状の器形をもち、その容量は一三○〜三○○tと格差はあるが、総じて小型のものである。炉は粘土敷炉と考えられ、浜禰遺跡では、四・六×三・四メートルの不整円型の平面形の凹レンズ状を呈する粘土敷炉が、砂浜の中に形成されていた。浜禰I式段階の遺跡は、あと小浜市阿納塩浜遺跡だけの二個所に限られている。
(2)浜禰UA式 古墳時代中期(五世紀末〜六世紀前半)に属するもので、前述の浜禰遺跡で明らかにされたものである。製塩土器は浜禰I式とは全く異なって、薄手でコップ型丸底を呈する器形のものが使用された。二ミリメートル内外で極めて薄く、ちょうど玉子のカラを連想させるような薄さで、その容量も三二○t程度で、この段階では土器も平均化された容量のものが製作されるようである。製塩炉については、いまひとつ明確にされていない。ただ、小浜市田烏傾遺跡の調査では、小円礫を幾重にも重ねた例が報告されているが、規模や平面形も明らかではない。高浜町においては、この浜禰UA式の段階で土器製塩が開始されるようで、若宮西若宮、若宮西須賀、中津海堀、立石才ケ鼻の四遺跡でこの土器の散布が確認されている。
(3)浜禰UB式 古墳時代後期(六世紀後半〜七世紀)に属するもので、どうやら二ないし三に細分化が可能で、その大きな特色は、須恵質の土器という極めて個性の強い土器が製作されている。UB式古は、UA式に似た丸底のコップ型で須恵式、やはり薄手の土器であることが特色である。UB式新は、やや厚手の土器で丸底ながら、大型化しており、その容量も二○○○tにも及んでいる。製塩炉は、UB式新の段階のものは、長方形の平面形を有する平べったい石を敷きつめた、いわば敷石炉のものが判明しており、この段階で、いよいよ若狭式ともいうべき土器製塩が本格化してくるものと想定している。高浜町内でも、前述のUA式の四遺跡などに土器の散布がみられる。
(4)船岡式 大飯町本郷の船岡遺跡を標式遺跡として名付けられた本土器は、若狭の製塩土器の中でも全国的に名高いもので、奈良時代(八世紀)を中心として、土器製塩が最も隆盛した時期のものである。土器は土師質で厚手となり、小型のたらいを思わせる器形を呈し、容量も一万tに及ぶもの、径二尺(六○センチメート)位なものもある。本土器も極めて個性的なもので、土器製作の際の輪積みの痕跡を土器の外面に残していることで、製塩土器に共通することでもあるが、内容は丁寧に整形されている。いわば消耗品としての、一回限りしか使用不可という製塩土器、それも大量生産が要求されたことからかもしれない。
 製塩炉は、海岸線に対して直角に長方形の平面形のもので、敷石炉が群をなして構成されるのがこれまで船岡遺跡で明らかにされている。若狭地方に共通することであり、八○パーセント以上の遺跡が船岡式に属するもので、高浜町においても例外ではなく、ほとんどがこの遺跡である。
(5)傾式 小浜市田烏傾遺跡の調査で明らかにされたもので、五徳のような役割りを果たしたとされる支脚とよばれる粘土の台が出現する時期でもあり、平安時代ころのものと想定しており、八世紀後半〜九世紀代にその年次を求めている。支脚は高さ一○センチメートル内外で、口径二○センチメートル内外の半円形を呈し、丸底の土器を乗せる機能を有している。炉は敷石炉であるが、敷石は支脚が間に入るべく、石が粗な並べ方になるのが特色で、小規模なものとなる。
(6)吉見浜式 大飯町大島吉見浜遺跡で明らかにされたもので、同じく支脚を伴うことが本土器の特色で、その高さも一五センチメートルと高くなっていく。土器も口縁部がやや外反する壷形を呈する丸底で、口径は一五センチメートル内外のものである。一○世紀前半にその年代を想定している。炉も吉見浜遺跡で発見されており、平面形は基本的には長方形である。石材は角礫で大小さまざまなもので、支脚を支えるためのものという感じで、敷石炉とはいえ粗な並べ方となっている。
(7)塩浜式 平安時代、 一一世紀まで年次の下る可能性のあることは、伴う土師器や須恵器により明らかで、若狭における土器製塩の終焉を示す土器でもある。遺跡も若狭地方で六個所となり、著しく数が減少する。本町では神野浦遺跡で土器と支脚が検出されている。塩炉式の支脚は二○センチメートルと細くなり、製塩土器もガラスコップ大の丸底で薄手のものである。炉は不整形のプランで、小さな角礫で粗な敷き石のもので、およそ実用的なものというより、塩作りの祭祀を想定させるようなものである。
(8)まとめ 若狭における土器製塩について述べてきたが、今日の段階では、若狭にとどまらず、舞鶴、敦賀を加えた若狭湾沿岸地方における古代土器製塩を考えざるを得ない所まできていることを感じる。それに加えて、製塩の独立支脚の技術波及を考えた場合、それが若狭から能登まで延長する可能性のあることから、日本海沿岸地方の土器製塩の展開も今後の課題となる。
 若狭の土器製塩の開始は、やはり古代史の流れの中でとらえられ、そのことについて石部正志氏は「若狭地方の首長が畿内もしくは吉備地方の首長と直接的な交渉(同盟・連合関係)をもった段階でおそらく若干の製塩技術保持者とともに製塩技術を若狭に導入」したと理解しているが、まさしくこの状況の中で開始されていくものと考えられよう。
 若狭式土器製塩の成立については、奈良時代の船岡式というまさしく釜風の土器ともいうべき大型土器の出現と整然と構築される敷石炉にあらわされており、平城宮跡出土の調塩の木簡に人々の苦しみがにじみでている。
 支脚の出現という、さらに若狭色の濃厚な土器の出現は、船岡式の土器の大型化、大量生産という方向からややはずれ、特に若狭の土器製塩の最終末の塩浜式に至ると、製塩土器の小型化という現象がみられ、この段階の主流は土器製塩以外の製塩法の導入をうかがわせる。いわば土器以外の釜の出現を考えざるを得ない。
 若狭考古学研究会による土器製塩実験の試みの中で、採鹹工程で藻を使用した場合、藻の色素がにじみでて、茶褐色の塩ができ、不純物の多いものとなることが判明してきた。一見、単純に考えてきた藻による採鹹についても今後考えていく必要を感じている。杉崎章氏による松崎貝塚のいわゆる鹹水溜遺構の発見も貴重な例として、土器製塩遺跡の調査で充分注意しなければならないものと考える。今後のこされている課題としては、前にも述べた日本海沿岸の土器製塩の展開における若狭の位置づけ、さらに製塩土器型式の細分化、生産量の問題等があると考えている。

師楽式土器と呼ばれるものは古墳時代のもので、若狭でいう浜禰T、浜禰UA、浜禰UBと呼ばれているものである。高浜町では中津海や立石、若宮の遺跡に出土する。丹後の伝説6へトップへ





弥彦神社
(越後一の宮。新潟県西蒲原郡弥彦村)

『青銅の神の足跡』は、

(弥彦神社)

越後の一の宮である弥彦神社の祭神が片目であるという伝承は越後一帯に分布している。これについては地元の藤田治雄氏が雑誌『高志路(こしじ)』に精力的に発表している。以下、藤田氏の報告によって、この伝承をみることにする。伝承の内容は各地とも大差ないが、その一、二例を左にかかげる。
「弥彦明神様は開村の神様である。神様が弥彦へ移られる時、鬼の道案内で山を登られたが、山中でウドで目を突かれたそうで、古来弥彦山にはウドが生えないといわれる」(西蒲原郡岩室村間瀬)
「弥彦の神様が妻のおヨネと十二人の子を野積(のづみ)浜に置いて身を隠そうと弥彦山へ登る時、足をすべらしてウドで目をつついた。それで弥彦山にウドが生えず、弥彦の神様は片目である」(三島郡寺泊町野積字内川)
 この間瀬と野積とは弥彦山をはさんで弥彦神社の裏側にあたり、日本海に面している集落である。藤田氏は、この野積と間瀬の境界線を中心とした一帯は弥彦信仰における鍛冶神の痕跡がもっとも濃厚にあらわれている地帯であるというが、それは弥彦神がウドで目を突いて片目神であるという伝承と一致する。『地名辞書』はこの間瀬と野積には、元禄(げんろく)年間(一六八八〜一七〇四)に鋼のつる(鉱脈のこと)を見立てて掘ったが途中でやめたという記録のあることを紹介しているが、銅の採掘は戦後もおこなわれている。
 私は最近現地をおとずれて次のことを確認した。岩室村間瀬の海岸有料道路の料金所の近くから山手に入る沢は、かつて間瀬銅山があって労働者の住宅が集まったところといわれているが、その上方の弥彦山の有料登山道路のあたり、大沢とトチクボの間の道のわきのガードレールのところで、つい四、五年前に、地表に露出した銅鉱を拾ったという人に出会った。その人の話では銅鉱はピカピカ光っていたという。
 このように今日でも地表にむきだしになっている銅鉱脈は、古代においては発見することはきわめて容易であったにちがいない。


新潟県の弥彦神社の祭礼はかつては旧三月十八日(現在は四月十八日)におこなわれたという。『妻戸記』には、祭神は天香山命の妻となっている。天香山命を弥彦大神としたのは後世のことともいわれているが、天香山命が銅の精錬に縁由ある神なのでもってきたのであろう。
弥彦大神がウドやタラの芽で目をついて一眼の神であること、また妻戸(つまど)神社のあるこの野積(のづみ)の近くの間瀬銅山から自然銅が出ることは前に触れた。三月十八日に祭りをおこなうのが、片目の神を祀る神社であることはまぎれもない。

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はっきりと彦の名のある社の祭神が姫なのであろうか。3月18日は峰山町鱒留の藤社神社の祭日と同じである。
「弥彦神社」


鬼ケ城(加佐郡・天田郡境)

『福知山市誌』(第1巻・昭和51発行)は、

p.33〜

鬼ケ城

  福知山市の北東には、古来しばしば史上に浮かびかつ文学物などに取り扱われている名山「鬼ヶ城」と、その前にこれと高さを競うて美しい烏ヶ岳がそびえている。特に鬼ヶ城は一等抜きん出て、その山容は秀麗かつ泰然として、この地方の群山に君臨している。実際天田・何鹿・加佐の三郡にまたがり、そのいずれの地からも仰ぎ見られる。頂上にはかっての準平原面の残跡かと思われる平坦地があり、それが戦国時代赤井氏の城塞となり、伝説ではあるが茨木童子のすみかとして用いられたと、後人をして想像させるにふさわしい地貌(ぼう)を呈している。山上の眺望はすこぶる雄大で、丹波山地の山々が波のごとく重畳する景観を一望の下に収められる。
 鬼ケ城は吉田東伍博士の地名辞典、平凡社の大辞典や、地元の人故四方源太郎氏の庵我村誌にさえ、「鬼ヶ城山」と「山」をつけているが、城か山かを区別するためには必要であるが、この地方では山名として「鬼ヶ城」と称している。
その名称の起原については諸説があるが、まず四方氏の所説を要約して見よう。

  中世丹波に名族芦田氏があった。その始め、祖は源家光(赤井系図によれば、この人は信州に住みゆえあって丹波に配流せられたとある)であるが、この芦田氏の子孫に赤  井氏が出て、五代にわたり丹波半国の押領使となった。その中の赤井為家は氷上郡沼 貫荘新郷赤井野に本拠を構えていたが、その庶子重家は萩野姓を名乗り、その子重長は 丹波・若狭に一万三千余町歩を領し、今の福知山そのころの曽我井荘に住み、北方の高 山を本丸とした。ところがこの本丸が大江山と向き合っているので、鬼ヶ城山と命名したのである云々

と、この説は余り普遍的でにわかに取り難い。別に安間清教諭のように、鬼ヶ城が福知山の東北に位し、鬼門に当たるので鬼ヶ城と命名されたのではなかろうかという説もある。他の地方(紀伊・伊予・安芸等)にも同名の高山があり、上記の説をうなずかせるような位置にないことからこれも一説としかうけとれない。
 なお、郷土史上、この山が軍略的に利用されたことでは、天正年間に氷上郡黒井城主赤井悪右衛門直正が、その甥忠家を助けていた時、この山に要塞を設けて、北丹一帯に号令する一方、中国の毛利氏の家臣吉川元春と同盟し、この山に元春を迎え、山城の愛宕山とも連携を保って、京都の信長を攻めるべく、元春の出張を待っていたこと(陰徳太平記)、同七年七月十九日明智光秀が桑田郡宇津城を攻めた後で、赤井忠家の鬼ヶ城攻撃に向かい、近辺に火をつけるなどして、鬼ヶ城への付城を構え、部下の手兵を配置したこと(史料綱文、信長公記)などが着目される。
 古来、書物によっては源頼光鬼退治の伝説地をもってこの山のことと考えたと思われるものもある。丹波志には「鬼ヶ城はまた鬼洞ト云(岩洞ありて諺に鬼神の栖所と為す)」とある。また宮津府志に「大江山の鬼の洞というは福知山の領内なり、丹後与謝郡の千丈ヶ獄は、大江山の凶賊酒呑童子の出じろにて、一族茨木童子住めりといえり」とある。この書き方は福知山地方の伝承とは全く逆であって、当地方では丹後の大江山の手下茨木童子が鬼ヶ城に出張っていたように伝承している。(別に天津村由来記にはいばらき童子が渡辺綱に腕(かいな)をとられたことを述べ、童子がこの山に住んでいたようにかいている)吉田博士の地名辞書には「史学雑誌云、丹波丹後の境に又鬼城獄と云へる山ありて、一名大江山と称す。宮津街道の東方に当れり」としている。この場合の宮津街道は雲原越えの道を指していて、福知山の近くの鬼ヶ城ではない。
 また貝原益軒はその著西北紀行に

  鬼ヶ城は福知山の北にあり高山なり、福知山より鬼ヶ城の麓まで一里有、荒河村、是よ り西の方に但馬路、乾の方に丹後路の岐あり、うるしがはな、天つあり、天津より鬼ヶ城  の山上まで、半里ばかり、山上西北に岩窟有、其内暗し、十間余は人の出入容易し、それより奥は、上より土石落やすくくらし、故にくはしく見たる人なしといふ。

と書いている。あるいは地名の鬼と岩窟(がんくつ)とが、里人の伝説と何かの関連があるらしく感じたような書きぶりである。しかし益軒は右の文の少し前のところで、山城と丹波の境の老ノ坂について、「本名は大江山也、大江の坂を誤って、おいの坂と云成くし(中略)丹後にも大江山あり、昔酒顛童子が住たる所也と云」と述べて、大江山の伝説の本拠が、現在呼称する大江山のことであることを承知しているのであった。
 次に、鬼ヶ城の洞窟(どうくつ)に対する別の見方とか、鬼ヶ城には永禄年間に内藤・宇津・中村(助三郎)などの諸豪が立篭ったとか、天正年中に久下・中沢・並河・河田の諸氏が城を構えたという伝説、あるいは史実と関係をもっと思われる記事が山口?(加のしたに米)之助著の郷土資料に掲げられているから、次に紹介する。

  丹波考に曰く、鬼ヶ城山一にアカツチヤマといふ。こは後の世につけし名と見ゆ、この山猪崎村より登れば、麓より廿町許(はかり)もあらん、福知山よりは一里余あり、一の嶺を越えて、また登り山の七、八分の所より、師谷(モロダ・今室谷といふ)の方に出れば一の窟あり、この窟のこなたに、また一の大岩ありて深谷に臨めり、此所入口なり、谷の上岩の前の方、少し凹みたる所に足をふみしめ、身を横にして岩にそひて行けバ、窟前に至る、ここに平なる所あり、窟は東北の向にして、自然石四方にあり、入口は立ちながら歩ミ入るべし、さて奥ほど次第に低けれバ、背をかがめて尚二、三間ハ入るべし、それより下へほり込みたれバ、松明(たいまつ)などともして入るべし云々、 思ふに、こはいにしえの鉱坑なるべし、神護景雲年中、丹波国華浪山(此山の名なり)にて鈍隠を堀出しゝことあり、窟の下は師谷(モロタニ)といふ、人家ありて真言宗寺院七ヶ寺あり、丹後田辺などより登る口なり、又尾藤谷といふ所よりものぼる。安井・筈巻などいふ村々は、此山の西北の麓に在りて、天田郡なり云々
(郷土史料中巻)
 又曽我井伝記に曰く、此山の名は藤の花盛に花の浪たつ如く見ゆるより、華浪(はななみ)山と古書に見ゑたり、(藤浪山の名も或書にて見たりと覚ゆ)古、治承年間、石橋山の合戦に、俣野五郎と川津三郎と晴軍(はれいくさ)の勝負に、双方必死となりて戦へども、其勝負つかざりければ、今は詮なし、是より角力を取て雌雄を決すべしと、こゝに太刀投げ棄て、互にゑいゑいと声かけ合いて取組みしが、川津の力や強かりげん、俣野は川津にかけられて遂に打負けたり、さらに、其俣野の従者、釈迦牟尼(ニグルベ)仏太郎時盛、同次郎清時、茨木小太郎富長、同小次郎拾(ミツ)盛、中村助之進など敗北の余、諸国を経めぐり、終にこの丹波国へ落ちてけり、此時、此山に篭りて、近在を荒れ廻りて金穀を押へ取り、夜な夜な非道を働きたれバ、民百姓いづれも難渋に及ぶ、こゝに平家方の綾部なる領主に、その非道を訴へければ、よしもとはわが味方なりとも用捨なり難しとて、八方より火を放ち残らず討ち落されけり云々、(保元年中、平家全盛の頃、平ノ某丹波国を領し後、仁安三年何鹿郡綾部の里に治す、因て此所に紀州熊野を移し、那智、本宮、新宮の名、起れり、)。綾部の里に来りしは宗盛なりともいふ。
 さて、彼此を考合すれば、世に伝ふる茨木童子とて、かの酒顛童子が一類の住まひしといふは、その窟と茨木小太郎とを附会したるになん、(頼光の大江山へ登りしというは、一条院正暦年間にして治承四年までは、凡百七十余年なり)
  生、曽てこの山に登りしに、頂上に南北七八間、東西はこれより稍長からんと思はるゝ屋敷とも覚しきものありき。


 右の丹波考にいうごとく、鬼ケ城の洞窟をもっていにしえの鉱坑跡とするのは当を得ていると思われる。一体この山は後に述べるように、近世でもしばしば金属鉱物を掘り出し、大正年間にも室谷方面で大々的採掘を試みたが、その後鉱脈が続かず、間もなく廃坑となるのである。また以上あげたことによって、庵我村誌・陰徳太平記・桑船記・宮津府志・地名辞書、及び曽我井伝記の間に卍巴の相関々係が見られよう。別にまた曽我兄弟の父が河津耐泰で、彼が工藤祐経との角力に勝って帰る途中で、祐経の臣に射られ、その後十七年兄弟は父の仇を討ったという物語と、当地「曽我井庄」との名称を付会させたものと考えられる。所せん古来の伝承が長い間に変形、修飾、誤伝されて来たものである。
 鬼ヶ城は、福知山・綾部・大江という北丹の文化的中心地帯の真中にそびえ、その高度以上に人に親しまれている。かの幕末の名医であり文人でもあった新宮涼庭が鬼国山人と号したのも、彼が幼時福知山で育ち朝夕この山の巍然たる姿に感銘を覚えたためであろう。この山の南麓には醍醐寺、北麓には室生谷観音寺、西麓には式内庵我神社があって、いずれも由緒の深いところである。


p.538  ただここに華浪山を鬼ヶ城のこととなす説があることを紹介して、今後の研究の資料としたい。地名の考証などはそう簡単に断定出来ないもので、まだまだ討議が繰返されなければならない。
 まず「丹波考」に、鬼ヶ城の洞窟を説明した後に、「思ふに、こは古の鉱坑なるべし、神護景雲年中、丹波国華浪山 此山の名なり にて鈍隠を掘出しゝことあり」とある。又「曽我井伝記横山硯」には、(和名抄に華浪山とあり、この山の名は藤の花盛り、花の浪立つ風より起りし名なりと古事に見へたり。 藤浪山の名も或書にて見たりと覚ゆ 」(以上二書の文は山口加+米之助氏の郷土史料にも引用されている)「丹波考」の着眼は一応は考うべきも、「曽我井伝記」の説は採らない。山口氏が藤浪山と書いたものをある書で見たように思うというのは、かの久寿及び寿永の大嘗会の扉風歌に詠まれている藤浪社を見たのではなかろうか。しかしそれについては京都美術大学教授下店静市氏はこれを何鹿郡の地名としている。なお華浪山即鬼ヶ城説には、例の前浪駅(華浪の誤写説をとるとして)が丹後への別路であるというのを、由良川の向かい(東)側の道を考える一方、華浪を音訓混読して「かなみ」とし、その山麓安井に河波氏がいることと連関させるなど、多少無理な新説も生まれている。

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『何鹿郡誌』は、

鬼ケ城
…大江山脈一帯より派出せる閃緑岩帯ありて,丹波額田・佐治の間より福知山の北部・鬼ヶ城を経て二條に分れ遂に日本海に達す。本脈中に属する鬼ヶ城、烏ヶ獄一帯よりは大戦当時好況時代に於て金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄等を産出し、山上より石原駅に鉱物運搬用索道を附け等せしも、経済界の不況と共に昔の面影を存せず、山の口等は旧幕時代に銀を出せし事あり。此等の鉱産物は噴出岩中及其の接触部に接触変質行はれ鉱脈を生ぜらものなる可し。
 閃緑岩帯の良く表はるゝは吉美村、西八田、東八田一帯に亙れり、…。


○噴  出  岩
 鬼ヶ城附近、以久田の東部より吉美全村に亙り,西八田を経て東八田に至る一帯に閃緑岩の露出を認む。
 本脈は丹波額田。佐治の間より鬼ケ城を経て東々北走し、日本海に達するものにて、性質は部分に依り多少変化ありて。精確に之を云へば、其の内には正式の閃緑岩の外に、 石英閃緑岩、斑糲閃緑岩、輝閃緑岩、斑糲岩、橄欖斑糲岩.蛇紋岩等ありと雖も、是等は互に漸々徐々に相移動し、精密に其の境界を割する能はざるなり、而して斑糲岩の大部は変化して蛇紋岩類となる。
 此等の噴出岩は古生層、中生層を貫通せるものにて其の中には有用鉱物を含み採掘せるは鬼ヶ城を中心として四周、河東村の南山、佐賀村の山ノロ、庵我村猪崎の宮垣銅山等、金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄等を採掘せしことあれ共現今は経済界の不況と同一歩調を取り不況にて鉱石運搬用の索道も空しく手を拱いて存するのみ、山ノロの如きは旧幕時代に銀鉱を採掘せし事ありき…


佐賀村字山野口小字若松山、大切山、石山に於て鉄鉱を発見し、(発見時代不詳〉已に貞享、元禄の頃盛に採掘せしもの、如く又「鉱山奉行所あり.地頭の代官所あり、其他山師、金掘師、商業人等諸国より入込み居住せし者幾千人、家屋も従って増加し繁栄日に盛なりき」とは従来口碑に伝ふる所なるも、何等文献の徴すべきなし。今其の跡を探るに金屑と思しきもの積んで山をなし、坑門は到る所に崩壊し、古墳墓亦散乱して転た往古の盛時を偲ばしむるものあり。
其後一時衰退せしが、宝永年間に至りて再び探鉱を企てしも効なくして遂に明治に及べりと。
筆者は、之に関する古文書、佐賀村東田徳治氏方にありと聞き、就て借用を請ひ通覧せしに、天正十六年閏五月十一日本多中務少輔の手になれる金銀山定法式山例之事てふ鉱山法及び鉱山師の保護法の写にて、之に依て推測するに、恐らくは此鉱山にも該鉱山法と、鉱山師保護法の適用せられたらものなるべく、一時は相当殷盛を極めしもの、如し。 東田氏方古父書の写を左に録して参考に資せん…(略)


佐賀村の鉄鉱
  嘗て一時隆盛を極めし山野口鉱山は宝永以来一向振はざりしが明治九年に及び石川県士族山原冨久借区願済開坑に従事し、更に又兵庫県川辺郡肝川村西久保光藏及本郡中上林村川北勇等探鉱を企てたるもいづれも遂に其効を奏せずして終れり。然るに大正七年頃に至り日本鋼管株式会社なるもの諸谷鉱山採掘権を得て附近の田畠を高値に買収し,石原駅迄高架索道を架して極めて大規模なる経営振を見せたるも其の事業は期年ならずして中止し、高架索道のみ獨り空しく空に横はり居たりしが,今は之も取毀たれて複た手を出す者なき状態にあり。

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大江山(丹後・丹波境)

『前方後円墳とちりめん街道』に、

大江山の自然・地質

 山を構成する主な岩石は超苦鉄(ちょうくてつ)質(超塩基性)岩類です。これはダンかんらん岩を中心に、かんらん石斜方輝石岩、はんれい岩などからなる大江山岩体を形成し、東西約一一キロメートル、南北約四キロメートルの紡錘状をなして分布しています。暗灰色や黒褐色の緻密でずっしりと重い岩石でかんらん石・輝石・角閃石など鉄やマグネシウムに富む鉱物からなります。石英や長石の白っぽい鉱物からなる花崗岩とは対照的です。岩石の年代は約四・六億年前(古生代オルドビス紀)で、日本で最も古い時代のものです。また、同じ性質の岩石が兵庫県出石や関宮地方にもみられ、舞鶴帯北縁に沿って細長く分布しているのです。日本のような造山帯に帯状分布するものはオフィオライトとよばれ、海洋地殻の下部を構成する岩石だったのです。海洋プレートの移動によって海洋地殻が大陸にもぐりこむ際オフィオライトが断層によって岩石中にはさみこまれ固結した状態のまま押し上げられたものが地表に現れているといえます。約四・六億年前、パンゲア超大陸より一つ古いロドニア大陸が分裂をはじめた時、揚子地塊縁辺での沈み込みの事件が記録されているのです。その頃にはヒマラヤに匹敵する山脈がそびえていた可能性があります。大江山岩体の一部は蛇紋岩に変わっている部分がみられます。これは地下深くに押し込まれた際、水と圧力によってかんらん石が蛇紋石に変質したもので、樹脂状光沢をもつ暗緑色、暗灰色の岩石です。地表付近では風化して褐色粘土質の土壌になっています。この土にはリン、ニッケルなどが集積しやすく、大江山鉱山は風化層中のニッケルの濃集部を地表から露天掘していたのです。また、大江町の河守鉱山は銅や銀を含む石英鉱脈を大量に坑道掘していました。

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『西丹波秘境の旅』に、

大江山

ほとんど珪酸ニッケル鉱を出し、その埋蔵量の二五%は鉄分である
ニッケルや鉄などの鉱物資源に恵まれ、その周辺地、夜久野の宝山(タタラ山)、その東方大油子の製鉄、その北方の金谷や金尾や居母山(鋳母山)、その北辺のタタラ場など、鉄の産地や製鉄のあとが多いところである。鉄と鬼とは切り離して考えられないのである。

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『京都府の地名』に、

大江山

 丹後・丹波の境、加佐郡大江町、与謝郡加悦町と福知山市の境に位置し、地形上モナドノック(残丘)をなすといわれる。三角点は加悦町と大江町との境にある。丹後山地の中央を占め標高八三二・五メートル、千丈ケ嶽ともいう。山頂からの展望はよく、能登半島・伯耆大山まで見えることがある。加悦町・大江町から登山路がある。
 大江山一帯は古生代後期に形成されたと考えられる変質古生層地帯で、内宮から仏性寺にかけては塩基性の火山灰が固まった輝緑凝灰岩や角岩などが母岩であるが、はとんどが変成してきわめて固い頁岩状の岩になっている。しかし鬼ヶ茶屋以北は緑色がかった橄欖石がほとんどで、大部分が蛇紋岩に変質し、大江山蛇紋岩地帯といわれる。橄欖岩の隙間に板状に含銅硫化鉄鉱床(黄銅鉱・磁硫鉄鉱など)が存在する。昭和初期から採鉱が続けられたが、昭和四三年(一九六八)閉山した。また加悦谷側ではニッケル鉱を採掘していた。

 大江山には二つの鬼退治伝説がある。一つは用明天皇第三皇子麻呂子親王の鬼賊退治伝説で、近世の地誌「田辺府志」の「京極高知訓誨庶臣事」に
  それより丹後与謝郡河守庄鬼賊棲家尋いり給ひしに、彼鬼窟に英胡、軽足、土雲或説土車三鬼なにごゝろなく居ませしに、無二無三に切籠給ひ三鬼のうちたやすく二賊を討留られしに土熊一鬼討漏し給へば逃去て竹野郡にかくれいりしを四臣を先魁としてまた彼所にいたり見絵ふに岩音にふかく竄れて見えざりし程に、路にて白犬奉し宝鏡を松枝に懸給へば鬼形明らかに照し露せし程に力を労し給はず生捕らる、其時其松を鏡懸松となづけける、此時より国中安穏におさまりたり、
とあり、これはみな神仏の擁護によるとして、七仏薬師を本尊とする七寺、施薬寺(現与謝郡加悦町)・清園寺(現大江町)・元(願)興寺(跡地は現竹野郡丹後町)・神宮寺(現丹後町)・等楽寺(現竹野郡弥栄町)・成願寺(現丹後町に現存するほか、現宮津市にも同様の伝えをもつ寺があった)・多禰寺(現舞鶴市)を建立し、その後天照大神の宝殿を営建して勧請し、熊野郡の少女を斎女に奉ったと記す。このほか皇大神社(現大江町)をはじめとして丹波国天田郡から丹後国にかけて、麻呂子親王に関係する伝承をもつ社寺が多い。
 一つは中世のお伽草子「酒呑童子」、謡曲「羅生門」「大江山」などで知られる源頼光鬼退治伝説である。しかしこの伝説の舞台といわれる大江山はもう一ヵ所ある。山城と丹波の境、現京都市西京区大枝沓掛町と現亀岡市との間にある老ノ板付近の大技山がそれである。
 「羅生門」に「これは源頼光とは我が事なり、さても丹州大江山の鬼神を従へしより此方、貞光季武綱公時、此人々と朝暮参会仕り候」という。お伽草子「酒呑童子」には、
 丹波国大江山には鬼神のすみて日暮るれば、近国他国の者迄も、数をも知らずとりて行く。(中略)程もなく、丹波国に聞えたる、大江山にぞ著き給ふ。柴苅人に行逢て、頼光仰せけるやうは、いかに山人此国の千丈嶽はいづくぞや、鬼の岩屋を懇に教てたべとぞ仰せける。
とあり大江山を千丈ケ嶽とする。一方謡曲の「大江山」には「秋風の、音にたぐへて西川や、雲も行くなり、大江山」とあり、「西川」とは桂川をさすと考えられ、これは老ノ坂の大枝山をさすといわれる。
 近世に流布した鬼退治伝説は大江山を千丈ケ嶽とするものが多いが、大技山とするもの、また老ノ坂を千丈ケ嶽の鬼窟の支城とするものなど様々である。千丈ケ嶽をめぐつては、頼光主従が血染の衣を洗っている姫に会ったという二瀬川(宮川)付近の衣掛松・洗濯岩、一行が休息した鬼ケ茶屋、そのほか童子屋敷跡・頼光腰掛け岩・鬼の足跡などがある。
 また「中右記」永久二年(一一一四)九月三日条に「夜強盗同類一両人搦取候了、令問之処、丹波、但馬、因幡、美作等国人卅人許同意所為也、入大江山取分臓物、各帰本国了、件交名秦覧之、仰云、早可尋沙汰」とみえ、延応元年(一二三九)の関東御教書(新編追加)には
  鈴鹿山并大江山悪賊事、為近辺地頭之沙汰、可令相鎮也、若難停止者、改補其仁、可有静謐計也、以此趣、相触便宜地頭等、可被申散状者、依仰執達如件、
 延応元年七月廿六日    前武蔵守泰時判
              修理権大夫時房判
   相模守殿
   越後守断
と大江山がみえる。これらの大江山がいずれかは確定しがたいが、先述の鬼退治伝説を想起させて興味深い。
 大江山は修験道の霊山であったとの説もある。千丈ケ嶽の「せんじょう」は、行場であるような高山の頂上を意味する修験道関孫の「禅定」という言葉であり、「役行者本記」に役行者の踏破した山の一つとして丹波大江山があげられていること、鷺流狂言「蟹山伏」 の冒頭に「これは丹波の国大江山より出でたる駆け出の山伏です」とあること、あるいは同種の伊吹童子伝説で知られる伊吹山(現滋賀県坂田郡伊吹町)も修験霊場であったことなどからの説である。
 なお大江山は、古くは「万葉集」巻一二に
 丹波道の大江の山のさね葛絶えむの心我が思はなくに
と詠まれる。しかし「丹波道」は丹波の国に行く道という意味なので、この「大江の山」は山城から丹波に至る峠、老ノ坂すなわち大技山をさすとする説が有力である。また歌枕として、歌学書「五代集歌枕」「和歌初学抄」「和歌色葉」「八雲御抄」などにいずれも丹波として記されている。証歌は先引の「万葉集」であるが、ほかに次のような歌がある。
 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみずあまの橋立
            小式部内侍(金葉集)
 大江山こえていく野の末遠み道ある世にもあひにける哉
           刑部卿範兼(新古今集)
 草枕夜半のあはれはおほえ山いくのゝ月にさをしかの声
               (後鳥羽浣築)
 夕すゞみ大江の山の玉葛秋をかけたる露ぞこばるゝ
            藤原定家(拾遺愚草)
 大江山いく野の草のかれがれに嵐の末につもる初雪
                (順徳院集)
 これらの大江山が、千丈ケ嶽か大枝山か必ずしも明確でないが、生野(現福知山市)と詠み合わせているものは千丈ケ嶽であろう。

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『加佐郡誌』(大正14年)に、

大江山

酒顛童子と云ふ鬼が住んでいる源頼光の為に打滅ぼされたと云ふ童話に有名な大江山は、丹波丹後の国境に跨がり舞鶴を距ること五里許の河守上村字仏性寺は其麓にある。頼光鬼退治の物語は固より正史の徴すべきものなく漠然たるものであるけれども、旧くから童話に伝はり今も麓に頼光が休んだと云ふ鬼が茶屋といふ茶屋があって扁額から襖一面に鬼退治の絵が掲げてある。又官女が血染の衣を洗ったと云ふ二瀬川の流れもある。今左に之に関する事柄を参考の為古録の中から抜粋して記して置く。
○政事略−丹波国に強盗があった之は嶮を渉り谿を跨げ大江山中に登り此処に住っていた。その党は非常に多く常に赤毛を首に被り丹朱を顔に塗って鬼の形に偽ね事を妖術に借って却盗をした。人民は之が為に苦しむ事は多大であった。時の天子は之を聞し召されて頼光に勅して之を討たしめられた。頼光は四天王等と共に行者となり彼の栖洞を伺ひ遂に兇賊を誅した。
○田辺府志に源頼光に誅伐すべきよし勅命があって第六十六代一条天皇の御代正暦元年庚寅三月廿日に都を立つ云々とあるから大正十二年から九百三十三年前の事であらう。
○宮津府志−…
○丹州駅誌−大江山を土人は御嶽と云ふ無木高山である。二瀬川から麓まで八町程あると云ふ。麓に長さ四十間、横二十間許の池がある。又猿が馬場と云ふ古跡もある。其傍に礎石が残っている。之は酒呑童子の住んでいた所であると云ふ。山上には方四間許の窟があって荊刺が生茂っている。
○丹後旧史及丹後名奇−童子が誅戮に就いたのは八月十一日で窟の頽れたのは寛永四年丁亥十月四日の大地震である。
○丹後考−童子は越前国蒲原郡の生れである。
○お伽草紙−丹波の大江山に鬼が棲んでいて珠玉財宝を掠め時には京都に出入して美人を拉と去ることもあった。其の頃池田中納言国隆の只一人の姫君に当年取って僅かに十三歳桃花将に綻びんとして笑を含むの風情であったので老女を付けて大切に育てて居たものを失って中納言夫妻は悲歎の涙にくれていたが占によって大江山の鬼神の仕業であることを知って此は一大事と直ちに参内して其の由を天皇に奏上された。朝議は一決して源頼光に勅して大江山の鬼神討伐を命じられた。頼光は四天王渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光を集めて協議し、八幡、住吉、熊野の三神社に祈願を篭め藤原保昌の加勢を得て主従六人山伏姿に身をやつし嶮山幽谷を踏破して大江山に着き千丈嶽をたどって進む途中三人の翁に遇ふ。頼光はあやしみて誰何すると、吾等は一人は紀州の者、一人は摂津、一人は紀の国の者であると答へた。茲に於て頼光は此の三人の神翁から酒及鬼を討つべき方法を授かって進み二瀬川の辺に行き血染めの衣を洗っている美しき婦人に遇ひ此の婦人を案内として鬼の住家に達したのに厳重な鉄門を構へて二人の鬼が守っている。頼光は自分等は出羽国羽黒山の山伏で大峰山に参詣して都に上る途中迷ふて此処に来たのである。どうか一夜の宿をかしてくれよと乞ふに鬼共は酒顛童子に此の由を告げると、童子はそは珍しい呼入れよと、茲に於て頼光等は童子の前に行く。童子は我を害する敵とは知らず酒肴を出して饗応する頼光も彼の神仙から給った人が飲めば勇気百倍し鬼が飲めば五体の自由を失ふという神変不可思議な酒を笈の中から取出して己)も飲み鬼共にも勧めた。鬼共は善い酒である珍しい酒であると非常に喜び飲み遂に酔ひ倒れて寝た。頼光等主従は時分はよしと互に笈の内から甲冑を取出して身を堅め、童子の寝所たる鉄の座敷を窺ふに童子の姿は旧の程とは全く変って身の丈、二丈余もあらうかと思はれ首は熊の如く髪の間から三本の角生え其の恐ろしくすさまじい様はたとへるべきものもない。頼光は神々を伏し拝み刃を揮って先づ童子の首を斬る。胴を離れた首は雷の如き声を発して跳り上り頼光を噛もうとしたが星冑の威に恐れて萎縮した。この事を知った鬼共は上を下へと大騒動したが皆頼光等のために征伐せられた。此に於て頼光は囚はれていた姫君たちを夫々親達に返し悪鬼平定の旨を伏奏して世の称讃を一身に集めるやうになった。



『丹哥府志』に、

大江山】(一名千丈ケ嶽)。
羅山文集云昔叡山ニ一童アリ、僧徒其美ヲ愛ス、酒ヲ勧テ一歓ニ交ル。時々人…略…。
兵家茶話云。酒顛童子といふもの丹波の国大江山に住したると語り伝ふ。然共慥と記したるものなし、大江山今は丹後の国に属して宮津領となる。童子屋舗は大江山千丈ケ嶽に在りて七十間に40間の礎石残る。此屋舗跡より百十間斗隔て池あり、十三間にして深サ八尺余り、又屋跡より山道廿五町斗行て岩窟あり窟の深サ七間程もあるべし、其先はいか斗あるや知りがたし、広サ四間四方程あり、屋敷の左に三間に五十間の馬場あり、右の脇に深サ一丈斗の空堀あり、屋舗より十三町程て二瀬川あり、又左え一町程て不動の滝高サ二丈斗下に七間に十間斗の石あり、屋敷跡迄凡十七八町。
武家評林云。正暦元年三月源頼光丹後国千丈ケ嶽に於て夷賊を誅伐す、既にして渡辺綱を以其由ょ国司経教卿へ注進す、国司経教卿自から五百騎を率ひ岩窟を実検すといふ。
前太平記云。大江山の兇賊既に誅伐の後其賞として源頼光肥前守に任ぜらる、保昌は丹後守に補せらるゝといふ。
安永四年乙未六月近衛殿御虫干の日三井寺の院家?鷲院権僧正適ゝ参上して、御古記を拝覧する事を得たり。其中に源頼光の事ありよって私に抄録す、後に是を書写して其実兄豊泉源五右衛門え示す。源五右衛門より伝写して今に至る其文如左。
一、渡辺右舎人綱酒田主馬公時碓井靫屓掾貞光卜部勘解由判官季武藤原保昌源朝臣頼光蒙
勅命近日趣丹州大江山早討亡朝敵欲令帰路宜頂執達。(原書討亡の二字朝敵の下にあり路の字の下に条字あり達の字下に侯あり今侯条の二字を省き討亡の顛倒を正す)
一、源頼光平井保昌臣等願之通旅中山伏装束御免之御礼。
家翁延庵先生云。古より鬼と称するもの往々少からず、吾丹後に於る昔に在ては麿子皇子の誅する三上山の鬼中古に在ては源頼光の戮せらるゝ大江山の鬼是なり。他邦に在ては鈴鹿の鬼羅生門の鬼如斯の類挙て数ふべからず。永禄天正の頃鬼某鬼某といふは古の所謂鬼と異り保平の頃悪某悪某といふがごとし、蓋強勇の名なり。古の所謂鬼といふもの髭髪剃らず、言語通せず衣服人に異り、飲食を恣にして人を殺すを事とせず、好で人民を害す。いかなるものや詳ならず、或曰古の鬼と称するものは蓋日本の人にあらず、蛮夷の諸海浜より遂に陸に上り大に賊を行ふ所謂海賊なり、是以海国に最多しといふ。後に集古十種の載せたる大江山より獲たる所の刀剣の図を見るに蓋日本の刀にあらず、又成相寺に納まる頼光の書に夷賊追討とあり、竹野斎宮の緑記に麿子童子を北狄守護神と崇め奉るとあり、是等を以て参考にすれば二の説是に近しとす。源頼光大江山の夷賊を追討せしは皆世の知る所なり、されども正史に之を見ず、由是之を観れば史に泄たる事も多かるべし、中には惜しむべき事も定而あるべしとぞ覚ゆといふ。
百人一首  大江山幾野の道の遠ければ  まだふみも見ず天の橋立 (小式部内侍)
日本史云。小式部内侍即道貞之女也亦仕 上東門院(歌仙伝十訓抄)幼善和歌時人謂内侍佳句多是其母和泉式部之所潤色也、母式部従保昌丹後既而后会禁中歌会中納言藤原定頼卿曰丹後行季還来否願内侍労思耳於是小式部即起採定頼?和歌一首乃チ大江山之歌也、自此才名大著(著聞集)
愚按ずるに小式部のよめる大江山は丹波の大江山今老の阪といふ處なりと往々註者の説あり。実は左もあらんか知らねど丹後の大江山も名高き地所なれば天の橋立に対して穏なるに似たり。今大江山の麓に生野大明神あり、喜多村といふ處の氏神なり。喜多村の古名生野といふよし、是等も参考の一つにならんよって記す。

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『大江町誌』に、

大江山

大江山は、丹波丹後の国境にそびえる当地方切っての名山である。その姿は美しく雄大で、古くから伝説の山、信仰の山、交通の要路、レジャーの山として親しまれてきた山であると共に、動植物や地質の面でも極めて興味深く学術的にも貴重である。
 「大江山」は、大江山連峰の主峰千丈ヶ嶽・鳩ヶ峰・鍋塚・鬼穴と続く一群の山塊を総称する場合と、単に千丈ヶ獄を指している場合とがある。
「丹後風土記残缺」・「夫木集」・「丹州駅志」・「西北紀行」(貝原益軒)・「秋山の記」(上田秋成)・「太邇波記」(北村継元)など、大江山を記した古書は数多くある。これらには、「与謝ノ大山」「与謝大山」「大山」「大江山」「千丈嶽」「御獄」などと書かれているが、丹後風土記残缺の「与謝ノ大山」が最も古く、江戸時代の「西北紀行」や「秋山の記」では「大江山」である。
 この山には、二つの鬼退治伝説がある。その一つは、用明天皇の第三皇子麻呂子親王のそれであり、他の一つは、中世のお伽草子「酒呑童子」や、謡曲「大江山」などで知られる源頼光の鬼退治伝説である。これら伝説にまつわる伝承の地が数多く残されていて興味深い。
 寺屋敷には古刹普甲寺跡があり、千丈ヶ嶽の頂上に近い山腹には、鬼獄稲荷神社が祀られている。大江山はまた、山岳信仰修験道の山でもあったのである。
 古くからこの山の東には元普甲峠があり、西には与謝峠が開通していて、この地は、丹波・丹後を結んで都に至る陸上交通の要路でもあった。宮津市小田から辛皮に通じる元普甲峠は、遠く平安・中世を通じての公路であった。江戸時代の初期京極氏の支配時代に、岩戸(がんど)、中ノ茶屋、仏性寺を通る普甲峠が新しく開かれた。

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『角川日本地名大辞典』に、

おおえやま 大江山(大江町・加悦町)

 千丈ケ岳ともいう。加佐郡大江町と与謝郡加悦町との境にある山。丹後と丹波の境界に位置し,丹後山地の最高峰,標高832.5m。源頼光の酒呑童子退治の伝説の地として知られるが,老ノ坂峠付近に伝わる頼光の山賊退治が誤って伝わったものともいわれることから,伝説の大江山の所在には千丈ケ岳大江山説,老ノ坂大江山(大枝山)説がある。また,当山付近には鬼ケ茶屋・金時池(五入道の池)・千丈ケ滝・鬼の岩屋など,大江山伝説にちなむ呼称が多い。当山の地質は蛇紋岩・橄欖岩などからなる。東方の千丈ケ原にはニッケル鉱山があり、閉鉱跡に昭和44年府立大江山の家が建設され,登山・キャンプ客に開放している。積雪時にはスキー客でにぎわう。山頂付近には鬼獄稲荷神社があり、ドライブウエーが通じている。

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加悦鉄道と大江山ニッケル鉱業株式会社

『加悦町誌』に、

(大江山ニッケル鉱業)
鉱業としては、戦時中開発された大江山ニッケル鉱採掘と、それを精錬する事業がある。一九三九年(昭和十四年)昭和鉱業株式会社の手により鉱業所が設置され、戦時中は与謝から加悦駅まで専用線をつくり、さらに岩滝精錬所まで専用線が布設され運搬されていた。しかし戦後は含有量の多い鉱土が、南方ニューカレドニア方面から輸入されるようになって休鉱となった。観光産業の事業としては、大江山を開発し、天橋立と結んで公園化する運動などが起こり、将来健全な観光資源として、開発するよう協議会などができているが、遅々として進まない現状である。

日本冶金
 一九三四年(昭和九年)頃、昭和鉱業の社長森直昶は、ニッケル精錬に非常な熱意を持ち、大阪鉱山局技師をしていた小田豊作(のちの大江山鉱山長)を起用して、蛇紋岩地帯を歩き回った結果、大江山連峯全山がほとんど珪酸ニッケル鉱で、その埋蔵量は数十億トン、含有成分は鉄二○ないし二五%ニッケル○、六ないし○、七%ということで貧鉱ではあるが、選鉱その他、貧鉱処理法が研究されれば国内屈指の宝庫である事を発見した。
 そこで、一九三四年(昭和九年)九月、大江山ニッケル鉱業株式会社を創立し、一九三九年(昭和十四年)に大江山の鉱土を七尾セメントエ場に送り、試験的に精錬した結果、立派な含ニツケル粒鉄ができた。
 一九四○年(昭和十五年)には陸軍省の強い要請により、岩滝に精錬所を完成、操業を開始した。一九四三年(昭和十八年)には大江山鉱山に連合軍の捕虜や連行された中国人を多数入れ、また、従業員の住宅ができ、金屋一帯は時ならぬ、にぎわいを極めたが、終戦と共に操業が中止された。
 その後日本冶金は、ニューカレドニアから鉱土を運び、四本の煙突から絶えず白煙を上げ業績を挙げている。

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『前方後円墳とちりめん街道』に、

自治の顛末−第二次世界大戦
加悦鉄道

  しかし結果的には、あらゆる努力にもかかわらず自治解体の流れは、食い止めることができなかった。日本が破滅に向かってひた走りに走った一九三○年代から四○年代にかけて「加悦の自治も、国家の政治−総力戦遂行のための政治−の下請化させられてしまったのである。
 その象徴が、かつて住民自治の象徴であった加悦鉄道が、大江山で採れるニッケル鉱の運搬手段へと変貌を余儀なくさせられてしまったことであった。一九三九年七月、加悦鉄道は大江山ニッケル鉱業株式会社に経営権を譲渡し、縮緬と住民の足から、戦時経済をささえるニッケル鉱土運搬手段へと、その姿を変えたのである。
 ちなみに大江山ニッケル鉱業株式会社というのは、大江山連峰全山が珪酸ニッケル鉱を含有している山であることが発見されたのをきっかけに、一九三四年に創設された昭和鉱業系(森コンツェルン)の会社であり、戦時中は陸軍の強いバックアップをうけ、連合軍捕虜や多数の中国人なども使用して発展した。
….

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『京都新聞』(.050802)に、(写真も)

*戦後60年の府北部*
*「希望」つなぐ新たな交流*
大江山ニッケル鉱業


 「星が瞬いている時間に起こされ、再び夜空が星でいっぱいになるまで働かされた」。加悦町の大江山ニッケル鉱山の中国人元労働者劉宗根さん(七五)は一九九五年九月、町を訪れ、地元住民を前に自身が経験した労働の実態を語った。雨の日も風の日も、つるはしで岩盤を打ち続けた。仰ぎ見た露天掘りの空に星があった。話を聞いた杉本利一さん(八〇)=金屋=は「ショックを受けた」と昨日のことのように覚えている。大江山ニッケル鉱業跡
 「(脱走防止の)電流鉄線付きの板塀に囲まれた部屋で生活し、むき出しの床で寝た。仕事が遅いと監視員に棒で殴られた」。劉さんの証言は続いた−。
 加悦谷平野を見下ろす大江山連峰のふもとで、戦車や大砲製造など軍需を支えたニッケル鉱山。最大で約二千六百人に達した労働者の中には、約二百人の中国人強制労働者や約七百人の連合軍捕虜の姿があった。
 現在、鉱山跡地に面影はない。終戦と同時に、土運搬のトロッコやレール、労働者宿舎はすべて撤去。残されたのは、うっそうと茂る木々に囲まれ、頂上部分をわずかにのぞかせる三本のコンクリート製の煙突、そして「裁判」と「交流」だった。
 九八年八月、鉱山へ強制連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人元労働者らが国と使役企業を相手に謝罪と損害賠償をもとめて提訴。企業とは昨年九月に和解が成立したが、国は和解を拒否。今も解決の道は見えないままだ。
 多くの悲しいできごとがあった鉱山の採鉱。一方で、「希望」という言葉を支えに生き抜いた連合軍捕虜を通じ、新たな交流が生まれた。終戦後三十九年たった八四年十一月、一人の外国人男性が加悦町を訪れた。英国ウエールズ・アベリスツイス町のフランク・エバンスさん。過酷な労役で命を落とした同僚をしのぶ慰霊碑建立が目的だった。香港で捕虜になり、日本で強制労働させられた。栄養失調による病気や日本人の制裁など苦しい状況下、希望という言葉を胸に解放を願ったと自著につづり、九年前に亡くなった。
 訪問を機に同町とアベリスツイス町は、相互に高校生中心の訪問団やホームステイを受け入れ、鉱山の歴史と戦争を風化させないよう交流を続けている。
 「訪問団に参加して初めてニッケル鉱山の事実を知った」。九三年、訪問団に加わった加悦町出身の細井みどりさん(二八)=東京都目黒区=は振り返る。帰国後、「互いを知ることが平和につながる」と青年海外協力隊に入り、ルーマニアで現地の子どもたちに日本語を教えた。「世界にはさまざまな人種がいて、それぞれ違う考え方がある」と再認識した。今は協力隊をサポートする団体で世界の交流の橋渡しを手伝う。残されている3本の煙突(加悦町滝)
 今年もアベリスツイス町から次代を担う若者が加悦町を訪れる。「両町の交流はエバンスさんの贈り物」と細井さん。二つの町をつなぐ「希望」の交流が、輝き続けることを願っている。 (宮津支局 後藤創平)

【大江山ニッケル鉱山】
1934年、大江山の大部分が酸ニッケル鉱で埋蔵量数十億d、ニッケル含有成分が0.6−0.7%であることが分かった。40に岩滝町に精錬所が完成し採鉱が本格化。43年に軍需工場に指定され、終戦とともに鉱山は閉鎖された。


三本の煙突が残された、この広大な鉱山跡地は現在は観光拠点ともなっていて、一部はSL広場や道の駅ともなっている。これらの観光スポットからはすぐそこに煙突が見える。煙突の手前は当時の乾燥工場跡が広い空き地になっているがそこから写したものである。煙突の向側が鉱石を掘り出したというのか露天掘りした所である。貧鉱でとても採算のとれるものではなかったと言われるが、低国陸軍様の後ろ盾により稼働していたそうである。その敗北と同時にここも廃された。強制連行の中国人や連合軍捕虜なども働かされていた。
その地の案内板にはつぎのように書かれている。丹後の伝説6へトップへ


三本の煙突と日中友好の碑日中友好の碑(加悦町滝)

 ここは丹後地方の秀峰・大江山のふもとです。この地から一九三〇年代初頭に良質のニッケル鉱が発見され、民間企業による採掘が始まりました。そして、第二次世界大戦中の最盛期には国策として軍の指揮下でおよそ三、四〇〇人が働き、その中には一〇〇〇人を超す外国人の人たちが強制連行されて労働に従事していました。
 終戦後まもなくこの鉱山は閉鎖となり、広大な跡地や大規模な施設・設備は年次的に解体され、一九九三年の積み出し場を最後に取り壊しが修了。そして、山手に残る乾燥場であった三本の煙突だけは、鉱山跡の証とともに、戦争の傷跡として、ここを訪れる人たちに当時のことを風化させないようにと残されたのです。
 また、右手の石碑は、前期の強制労働に従事していた中国人およそ二〇〇人のうち、この地で不慮の死を遂げられた十二人の慰霊のために京都府日本中国友好協会が一九九四年に建立した「日本中国悠久友好平和之碑」で、世界平和と日中友好の願いが込められており、毎年碑前において平和祈願祭が行われています。   加悦町

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大枝山(老ノ坂)(山城と丹波の境)

『京都府の地名』に、

大枝山
 山城の沓掛村と丹波国桑田郡篠村(現亀岡市)との間の山塊。最高点は老ノ坂南方の標高四八〇メートル。「日本後紀」に大井山、「万葉集」ほかに大江山と記す。古歌や説話では老ノ坂そのものをさすことが多い。
 「日本後紀」大同元年(八〇六)三月二三日条に「大井・比叡・小野・栗栖野等山共焼、煙灰四満、京中昼昏」と出、「続日本後紀」承和九年(八四二)七月一七日条には「清原真人秋堆守大枝道」とみえる。酒呑童子説話の大江山ともいうが、これは丹波丹後の境(現京都府下の大江町と加悦町の境)の大江山とする説が有力である。
 大江山は歌枕でもある。「万葉集」巻一二に
 丹波道の大江の山のさね葛絶えむの心我が思はなくに
があり、勅撰集では「金葉集」に和泉式部の娘、小式部内侍の
 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみずあまの橋立
が、逸話とともに知られる。勅撰集以下数多く詠まれるが、歌学書「八雲御抄」は「たまかづら、丹波ちの」と注す。「大江山をこえる」とは山陰道の老ノ坂の峠を越えて山城から丹波に向かうことである。「今昔物語集」巻二九「妻ヲ具シテ丹波国ニ行キシ男、大江山ニ於テ縛ラレシ語」も、老ノ坂のことと考えられる。
 大江山かたぶく月の影さえて鳥羽田の面におつる雁がね   慈円(新古今集)
 大江山こえていく野の末遠み道ある世にもあひにける哉   刑部卿範兼(新古今集)

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神野神社(氷上郡式内社)
(氷上郡氷上町御油)

『氷上郡志』に、

神野神社

産土神、村社 神野神社(賀茂別雷命、嵯峨天皇) 例祭 十月七日
 寛平年中の創立なりといふ、丹波志に賀茂大明神とせるは真とすべし、当社を神野神社と称せしは、明治以後に属し、其誤の生ぜしは大日本史国郡志の記事に基くものなり、詳しくは式内神社の部に記せるを以て省略す、野卵撰の俳句額あり、南御油は古来風祭さ称し二百十日を以て祭を営む、境外末社に貴舟神社(高A神)あり、永徳二年の創立なり、明治四十四年四月、本社に合祀す。

神野神社 今幸世村北御油にあり、祭神別雷命、嵯峨天皇とあり。
神野神社(氷上町御油)
 要するに、此の神社は恐らく神野神社にあらざるべし、丹波國に於て神野神社二座あり、一は桑田郡にして、他は本郡なりとす、桑田郡神野神社は古來伊賀古夜比売を祀る、本郡神野神社も同じく伊賀古夜比売を祀れる者なり、神野神伊賀古夜比売は賀茂健津身命の夫人にして、健玉依比売命(現今山城賀茂御祖神社祭神)の生母となす、斯る理由の下に、丹波國神野は古來賀美乃御厨とて、賀茂御祖神社の荘園の一として、毎年御神服の調進を事とせり、されば神野神社は賀美乃御厨に存在せざるべからす、然るに現今の神野神社の所在地は、古來賀茂別雷神社の荘園の一なる丹波の新庄一名御油新庄の内にあり、斯くの如く某神社の荘園内に他の神社=而も同郡内に其の荘園を有しながら=に縁因ある神社の奉祀せらるゝことは殆ど稀なりと云はざるべからす。 然らば賀美乃御厨とは何地を指すやと云ふに山東部鴨庄ならざるべからす、即ち賀美乃御厨が賀茂の御厨となり、鴨庄と転化せる者ならざるべからざるなり、今鴨庄に於て此れに相當すべき神社、即ち賀茂御祖神に因縁ある神社を詮索するに、維新前迄鴨庄村に属し、今吉見村に属する梶原に鴨神社あり現今別雷神を祀る、然して此の神社を踏査するに森林鬱然として近世の者にあらざると同時に、地名に於ても首肯すべきものあり、即ち此の森の傍に古墳あり世俗イカゴ塚と称し來れり、而して此の境内古墳より土器其の他の副葬物を多く発掘したる事あり、斯かる事より考ふれば是れ即ち伊賀古夜比売の古墳の所在地にして後に其處に伊賀古夜比売の和魂を齋き祀りて神野神社と称せしにはあらざるかと思はるゝなり。 而して現今の神野神社は明かに別雷命の御分神にして、從前は現今の圓通寺の所在地にありしを圓通寺の創立に際し、賀茂社禰宜(賀茂別雷神社新宮禰宜)より此の地を寄進し、現今の場所即ち御油新庄に転せし者なり之は圓通寺所藏交書及び賀茂別雷神社所藏文書によりて明かなり。 されば現今神野神社と称するは、賀茂神社にして別雷命を主神とし、後に嵯餓天皇を合祀せし者にして、現今の梶原鴨神社が即ち神野神社にして伊賀古夜比売を祀りたりし者ならざるべからざるなり、然るに現今の梶原鴨神社は別雷命外三神を祀り、全く其の主神を誤り居れる者のごとし。


旧銅壙 霧山の西麓にあり、大同年間始めて発掘し、嘉永四年再掘し、両三年を経て廃壙となる


吉見村梶原かじわらかじわらかじわらは今は兵庫県氷上郡市島町。ここの鴨神社は、この地が下鴨社の荘園になってから勧請されたといわれる。

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『大日本地名辞書』は、

神野神社神野(カムノ)神社。
延喜式に列し、賀茂明神とも称す、今油良村大字御油に在り。丹波志云、御油庄の惣社賀茂明神は、往古円通山に在りしを、彼寺を開創の時、社人其山林を寄附して杜を御油に移す。神祇志料云、按に中右記、元永二年に鴨社の神服は丹波御厨より調進る例あるを、鴨禰宜惟子の時、加美の御厨を立てより、二季に奉る由見え、新抄格勅符に天平神護元年、鴨御祖神に丹波十戸を奉ることあり、鴨県主系図に惟季は嘉保中の人なる由あるを合せ考ふるに、賀茂御厨は古より本国にありけむ、其は賀茂神と神伊加古夜比売との御縁による事なるべく、其神服を奉るも此故なるを、堀河天皇の御世殊に神野の御厨を立らると見えたり、又国人伝云ふ、永徳二年神野山に一寺を建て、永谷山円通寺と云ふ、此寺に所蔵の応永三十一年寄進状に、加茂新宮禰宜能棟の名ある又当社に由あり、是に拠て推考するに、本社も桑田郡神野神社と同じく、伊加古夜比売を祭る也。

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白衣を着る風俗

『記紀萬葉の朝鮮語』(金思(火編に華)・ロッコウフ゛ックス)に、

(白衣の民俗)

 神を祀る人が身を潔める「みそぎ」の風習はきわめて古い。『三国遺事』の「駕洛国記」に、三月になると禊浴日といって沐浴してから会飲する一種の厄払いの風習があることを伝えているし、『高麗史』には六月十五日が禊浴日で、これを「流頭日(ユトウナル)」と呼んでいたことが記されている。
「六月の丙寅に侍御史(官職名)二人が宦官と広真寺に会して流頭飲をやった。国の風俗に、この月の十五日、東の川べりで沐浴してから髪を梳(くしけず)って汚れを祓い除け、それから会飲(寄り合って酒を飲む)をする。これを流頭飲という」(『高麗史』巻二十・明宗十五年)このように禊浴の風は古くからあったが、特に祭主(祭官)が祭をやる時は沐浴斎戒、清潔な白い着物を着て行うのであった。それで出産とか死亡など、汚れのある家のものが祭主になることはできなかった。朝鮮人が白衣をもっとも好んで着るのは古来からの風習で、中国の古文献にも「衣服潔清」といっている。次の記録にも、允恭天皇の薨去を弔う新羅からの使者らがみな「素服」を着ている。
 四十二年の春正月、天皇崩りましぬ。是に新羅の王、天皇すでに崩りましぬと聞きて、驚き愁へて、調の船八十艘及び種々の楽人八十を貢る。是、対馬に泊りて大きに哭く。筑紫(今の博多)に到りてまた大きに哭く。難波津(難波の港)に泊りてすなわち皆、素服きる。……(紀巻十三・允恭天皇四十二年) 一方、日本においても「みそぎ」の習いは古い。伊奘諾尊が黄泉国にいる妻の伊奘冉尊を訪ねてからもどり、死の穢を禊祓うために、筑紫の日向にある川の中に入って祓った話が伝えられている。
 伊奘諾尊、すでに還りて(黄泉国より)、すなはち退いて悔いて曰はく、「吾、前に汚穢き処に到る。故、吾が身の濁穢を滌ひて去てむ」とのたまひて、すなはち往きて筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至りまして、祓き除へたまふ」(神代紀上)
 また、「天皇、乃ち沐浴斎戒して殿の内を潔浄りて、祈む」(崇神帝紀・七年二月)とある風習は歴代変っていない。祭祀に白い着物を着るのも古い。
 「是に、大鷦鷯尊(仁徳天皇)、素服たてまつりて、発哀びたまひて、哭したまふことはなはだ慟ぎたり」(仁徳紀・巻十一)
 このように日本では祭りに白い斎服を着る由来は古い。その後、平安朝になると、産婦は白装束を着ることになっており、切腹の衣装、神社での神楽をする巫女の着物、婚礼の花嫁の衣装などもみな白であるが、すべて不浄に染まないためのものである。このように不浄を禁じ、祭祀の前に水で穢を洗い潔め、無垢の素服を着る風習は、両国が全く共通している。

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『騎馬民族国家』(江上波夫・中公新書)に、

古代の風俗から
(白衣民俗)

次に、日本古代の風俗で、大陸の騎馬民族のそれと関係のありそうなもの二、三についてのべたい。
第一は、白衣を着ることである。記紀や『万葉集』、また『隋書』の東夷伝倭国の条などをみると、古代の日本人が白衣をまとったこと、とくに喪葬にさいして素服を着用したことが伝えられている。そうして現在なお神官や修験者たちが白衣を着ることはだれでも知っているところで、これらもおそらく古代の日本人が白衣を着た伝統を伝えるものであろう。一方、『魏志』倭人伝によると、倭人は青色の衣服を着たようであるから、日本人が白衣を着用するようになったのは、三世紀以降のことと推測される。ところで白衣は、古くから東北アジアの騎馬民族の常服であり、とくに朝服として、祭服として好んで着用され、その服飾を特徴づけた。
 鳥山喜一氏は、『鮮民白衣考』のなかで、夫余・高句麗・新羅・女真・高麗朝および李朝の朝鮮について、「色は白を尚ぷ」「衣は白を尚ぶ」「基衣服は白を好む」「服色は素を尚ぶ」「朝服は白を尚ぶ」などとあるほか、夫余については、その衣裳が白布の、大袂の袍褌とあり、高句麗について、「衣裳及び飾は、唯王は五綵、白羅を以て冠となす。白皮の小帯、其の冠及び帯咸な金飾を以てす」とあり、高麗朝の朝鮮の風俗について「其服皆白紵を以て袍と為す」、あるいは「旧俗、女子之服は白紵の黄裳、上は公族・貴家より、下は民庶の妻妾に及ぶ、一概にして弁ずるなし」と記述されている。
 なおチンギス・ハーン蒙古について、元朝の大宴会には大ハーンはじめ千官みな一色の礼服、いわゆる只孫(ジスン・質孫)衣を着用した只孫宴なるものがあり、ことに新年宴会には、参列者一同ことごとく白衣を服したことが、マルコ・ポーロらによってくわしく伝えられており、白衣はまた首長の家柄の者が着る衣服と考えられていたようである。『元朝秘史』に見えるチンギス・ハーンの言葉に、「ウスンよ! お前はバアリンの長子の子孫であるから、お前はベキ(首長)となるべきである。ベキとなり、白い馬に乗り、白い衣をまとい、世のもっとも高い地位につけ」というのがある。
 ここに白馬・白衣が並べてあげてあるところをみると、白色が蒙古では高貴の色とされていたことが推測され、『金史』に「完顔(ワンヤン)部は色白を尚ぶ」とあるのも同様で、匈奴・契丹・蒙古の白馬を刑して天を祀る風もそのゆえんが理解される。おそらく現在でも、蒙古人が金属中においてとくに銀をもっとも愛好・尊重するのも、一つには、その色が純白に近いことにもとづくらしい。
 このようにみてくると、蒙古・満州・朝鮮では白色が尊ばれ、おのずから白衣が好まれて、とくに祭礼の服や朝服として重んぜられたものであることを、知るのである。そうだとすると、古代日本人の白衣着用、とくに祭服や喪服としての白衣着用は、朝鮮を通じて、東北アジアの騎馬民族の一つの特徴的な風俗に連なるものとみられよう。

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大風呂南墳墓群(岩滝町)

『府民だより』(京都府の広報紙)に、


大風呂南墳墓群
  鉄の文化*


京都大学名誉教授・財世界人権問題研究センター理事長 上田 正昭


 京都府与謝郡岩滝町の大字岩滝大風呂で、平成10年に注目すべき発掘成果がありました。丹後半島の南にある阿蘇海に臨み、南東方向に派生する丘陵上に築かれた大風呂南墳墓群の発掘調査は、平成10年7月から実施されました。5墓の埋葬墓のなかで、一号墓は弥生時代の後期後半、二号墓は弥生時代の後期末頃のものと考えられます。
 とりわけ重要なのは、一号墓の第一主体部から鉄剣11本、ヤス状鉄製品、見事なガラス製釧クシロ(腕輪)や銅製釧13個、ガラス製曲玉などが出土し、一号墓の第二主体部から鉄剣2本、鉄鏃2本、やりがんななどがみつかり、二号墓の第一主体部から鉄剣1本とやりがんななどが検出されたことです。
 ガラス製釧はコバルトブルーの深みをおびた外径9・7センチ、内径5・8センチ、厚さ1.8センチの完成品でした。成分分析の結果、カリウムの含有量が多いカリガラス製で、鉄によって着色されていたことが判明しました。中国製の可能性があるという説もありますが、この地域の首長クラスの権威を象徴する副葬品です。
 見逃すことのできないのは、鉄剣があわせて14本も出土し、鉄鏃ほかの鉄製品がみつかったことです。ついで峰山町の赤阪今井墳丘墓(弥生時代後期後半の最大級の方形墳丘墓)に鉄鏃・やりがんなほかの鉄製品が副葬されていたことがわかりました。従来の見解では、鉄の文化は北九州が中心とみなされてきました。ところが、最近では日本海沿岸地域での鉄器の導入と鉄製品が脚光を浴びています。
 島根県安来市の弥生時代後期の塩津山遺跡群で鉄の鍛冶炉と鉄製品、鳥取県青谷町の青谷上寺地道跡から多彩な鉄製品270点余、弥生時代中期後半から後期にかけての鳥取県の大山町から淀江町におよぶ妻木晩田遣跡から鉄器200点以上などが出土した例をみてもわかりますように、日本海側の鉄の文化のありようが改めて問題になっています。
 『三国志』魏志東夷伝の弁辰の条には「国、鉄を出式韓・カイ・倭皆従って之を取る。諸市買うに鉄を用う」と述べています。朝鮮半島南部では遅くとも紀元前二世紀から鉄生産が本格的に行われていたことが明らかになっていますが、金海の府院洞貝塚をはじめとする遺跡から、山陰系土器が数多くみつかっていることも注意をひきます。北シ海(日本海)ルートによる鉄文化の導入とその生産を考える際にも大風呂南墳墓群は重要です。日本海沿岸地域は渡来文化の表玄関の役割をはたしていました。

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河守廃寺(大江町河守)

『舞鶴市民新聞』(050422)に、(写真も)


*由良川 考古学散歩131*
河守廃寺は何処だ!

 平成十六年夏、加佐郡大江町字河守と字関に位置する河守北遺跡で大江町教育委員会が発掘調査を実施した。調査を始めた頃は、古墳時代後期の竪穴式住居跡などが見つかり、当時の一般的な集落遺跡なのかなと思わせるような内容であった。しかし、調査を進めていくにつれ、土器に混じって次第に瓦が出土し始めるようになったのである。出土した瓦の多くは凸面に縄目模様が刻み込まれ、凹面には布目模様が残るものであり、間違いなく古代の瓦である。古代の瓦が出土すること自体、京都府北部では大変珍しいことで、由良川流域では綾部市の綾中廃寺、福知山市の和久寺廃寺など限られた這跡でしか確認されていないものであり、特に綾中廃寺の場合は古代の郡役所である何鹿郡衙が隣接している。発掘現場では、瓦の出土量は日ごとに増えていくばかりである。調査担当者(筆者)も必死になって瓦を使った施設の痕跡を見つけようと、毎日、夏の日差しを受けながら目を凝らして土を見つめ探し続けたが、残念ながらとうとう見つけることは出来ず、調査は秋に終了したのである。河守北遺跡
 それでは、河守北遣跡から出土した瓦を使用した施設は一体何であって、どこにあったのだろうか。過去の発掘調査事例から推定してみると、当時、瓦は一般的には公的施設(古代の役所など)か、お寺に使用されることが多かったようで、先に述べた通り綾中廃寺や和久寺廃寺など、お寺に使用されている例が多く、今のところは河守北遺跡から出土した瓦は、お寺の屋根に葺かれていたものと考えた方が無難なようである。そして地名により、そのお寺は「河守廃寺」と呼ぶのがふさわしいように思える。
 次は、その河守廃寺の場所は何処かということだ。これまでにも河守地域では発掘調査を行うと、古代の瓦が出土することはあったが、いずれも少数、小破片であり、場所を絞り込むには難しい状況であった。このような状況の中で今回の発掘調査により、これほど多量の瓦が出土したということは調査地近辺をおいて他には考えられないことであり、地形的なことを考蘆すれば、調査地西側の微高地に広がる市街地の下に眠っているものと推定出来る。そして、より大きな夢を持てば、綾中廃寺と何鹿郡衙のように、加佐郡衙も一緒に眠っていることも考えられる。
 ともかく、文献にも現れることがなく、古代にお寺があったという言い伝えもない中で、多量の瓦の発見は幻の河守廃寺を彷彿させる大きな成果である。時は律令国家が成立し、中央集権的な国家体制が築き上げられていく時代である。河守も丹後国加佐郡川守郷として古代の行政区画の中に組み込まれ、律令国家体制の中の一地方として歩み始めたところである。そういった中、竪穴式住居しか見たことのない人々の目の前に忽然と瓦葺きの屋根を持つお寺が現れ、仏教の浸透を図るとともに律令国家体制の浸透を推し進めるのに大きな役割を果たしたのであろう。さて、その河守廃寺は今、何処に眠るのだろうか…。 (学)

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海軍第三火薬廠(舞鶴市朝来)

『京都新聞』(.050729)に、(写真も)

*戦後60年の府北部*
*廃墟群、記憶から記録へ*
旧海軍第三火薬廠

 山中へ放射状にまっすぐな道が伸びていた。その先に、生い茂る夏草に飲み込まれそうな廃虚群が姿を現した。舞鶴市東部の朝来地区。長さ三十b以上、壁の厚さ五十aほどの重厚な赤れんが造りの「爆薬乾燥置き場」。建物内は薄暗くひっそりとし、「あの時」から時間が止まったままだ。
 終戦までの五年間、同地区一帯には旧海軍の「第三火薬廠」があり、爆弾などの火薬が製造された。跡地の大部分には今、ガラスエ場や住宅が立ち並んでいる。
 二〇〇三年四月、退職を機に郷土の歴史を探り始めた関本長三郎さん(六一)=大波上=は舞鶴市史のページを繰り、火薬廠の説明を読んだ。「建設のため朝来地区の46%が買収された」「五千人が働いた」。心に響かなかった。「住民や工員は当時、何を思っていたのか。朝来に生まれ育った者として、私が調べよう」。資料も何もない中、調査を始めた。
 谷口篇稔さん(七八)=朝来中=を訪ねた。谷口さんは火薬廠で五年間働いた。作業は午前七時から午後四時。残業は当たり前だった。火薬を扱うと手が黄色くなり、十人中八人がかぶれた。浅尾正雄さん(八八)=吉野=は「必死だった。戦争に勝たないかんとの思いだった」と語る。第三火薬廠跡
 「調べているのなら、君が使いなさい」。谷口さんは関本さんに、厚紙で何重にも包まれた分厚い資料を手渡した。長年開かれなかったのか、湿っている。折り畳んで一緒にとじていた地図を広げた。「軍極秘」。火薬廠の一式の資料だった。
 資料は火薬廠の幹部だった三浦海洋さんが戦後保管していた。「私も年なので預かっておいて」と七、八年前に元部下の谷口さんに託していた。
 谷口さんは元勤務者の「爆友会」で思い出話に花を咲かせながら、「原爆のように多くの犠牲者がいない火薬廠は、語る者がおらんようになる」とあきらめが強かった。託された資料も「私が死ねば紙切れ同然」と。そこに関本さんが現れた。「ようやく日の目を見る」。希望がつながった。
 関本さんは資料を手に、元勤務者一人ひとりの自宅に足を運んだ。延べ百二十三人の話に耳を傾けた。二十九日、「住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠」が出版される。関本さんは「六十年間胸の内にあった元勤務者の思いと勾玉のような貴重な言葉。伝えられてよかった」。
 今年六月、本の完成を前に三浦さんが八十八歳で亡くなった。妻の浜江さん(七八)=北吸=は「生前は関本さんの調査を感心してたようです。『ようやったなあ』と喜んでくれると思います」。本は仏前に供えるという。
 火薬廠の資料を人々がリレーのようにつなぎ、関本さんが多くの元勤務者の思いをすくいあげた。六十年の時を超えて、火薬廠の「記憶」が「記録」という一つの形になる。
 (舞鶴支局 相見昌範)

 【旧海軍第三火薬廠】
全国で3カ所しかなかった旧海軍の火薬製造所。1941年に舞鶴市長浜の火薬廠爆薬部の大半が、同市朝来地区に移転された。約615f(甲子園球場155個分)の敷地に、徴用工や学徒動員の学生、地元住民らが勤務。年平均3000d以上を製造した。


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フル(村)地名(金沢庄三郎)

金沢庄三郎を読んでみよう。


フル(村)の地名
(「日鮮古代地名の研究」金沢庄三郎 『東アジアの古代文化』(1974創刊号)所収)
ローマ字で書かれた部分、oにアクセント記号がついたものがあるが、表記できないので、略した。

 プルと類似音の語尾を有するもの

 新羅は初めその国号を「徐耶伐」(syoya-por)といい、一に「徐那伐」に作り、また「徐羅伐」とす。わが国史に「新羅」をシラギと訓めるそのシラは、「徐羅」の音訳にして、キは「伐」(por)の義訳なり。すなわち「伐」(por)は国語「城」(ki)に該当する三韓の古語にして、地名の終りに加えて「城邑」の義を表わせるものと知らる。
しかしてこれらの地名を写すに用いられたる漢字は、あたかもわが万葉の仮名のごとくその音訓ともに使用せられたること、次に示すがごとし。

古莫夫里 ko-mak-pu-ri  「夫里」の音
卑  離  pi-r      「卑離」の音
不  離   pu-ri     「不離」の音
草  八  chho-phar   「八」の音
肖利巴利 syo-ri-pha-ri  「巴利」の音
頗  利  pha-ri    「頗利」の音
仇  火   ku-pur    「火」の訓
多   伐   ta-por    「伐」の音
戒  発  kyoi-par   「発」の音

 この他『日本紀』に「比利ピリピリピリ」.「阿夫羅アブラアブラアブラ」など見えたる韓地名はみなごの類なり。しかしてp音の転じてw音となり、ついに脱落することあるは、朝鮮語の音韻上しばしば見るところの現象にして、このporもまた『日本紀』に見えたる「草羅城サワラノサシサワラノサシサワラノサシ」の場合にはwaraと転訛せり。さればかの阿羅(a-ra)・徐羅(syo-ra)・駕洛(ka-ra)・駟盧(sa-ro)・楚離(chho-ri)等、三韓の古地名に普通なるラ・リの語尾は、このporの省略せられたるものと観察せらる。
 朝鮮語por(城邑)に対するわが国の古言はフレにして、大和の地名「石村イハレイハレイハレ」はすなわちその一例なり。
『万葉』三、角障経石村毛不過泊瀬山何時毛将超夜者深去通都、『日本紀』に「大軍集満 於其地、因改号為磐余」と見えたれども、これは地名に関する例の俗伝にして採るにたらず。「石村イハレイハレイハレ」はイハフレの約にして、神武天皇の御名を神日本磐余彦尊と申したてまつるもまたこの村の名にちなめるものなり。しかして国語ハ行の古音がP音なりとは、学界の定説なれば、「フレフレフレの古音はpureにして、朝鮮におけるとまったく相同じ。山城の地名「考羅カウラカウラカウラ」の起原を、『古事記』には、「以鈎探其沈処者、繋其衣中甲、而訶和羅鳴、故号其地一謂訶和羅前」と説きたるより推せば、もとカワラと呼びしものにして、この地のちに河原カハラカハラカハラと呼べば、kaura、kawara、ka-hara相通じたることを知るべし。かつ地名を写せる漢字の用法に音訓相交わりたることも朝鮮と同様にして、豊前の地名「河原」(ka-hara)を『万葉集』には革流カハルカハルカハル(kaha-ru)、『和名抄』には香春カハルカハルカハル(ka-haru)と書きたれば、地名の起原を論ずる場合にこれに当てたる文字の意義に拘泥すべからざることまた明らかなり。
このゆえにフルフルフル(大和)、比良ヒラヒラヒラ(近江)のごとき地名はもちろん、橿原カシハラカシハラカシハラ(大和)、名張ナバリナバリナバリ(伊賀)、直入ナホリナホリナホリ(豊前)などを始めとし、由良ユラユラユラ(紀伊)、奈良ナラナラナラ(大和)などもことごとく村の古言「フレ」より出でて朝鮮の古語por(村)と同語なるを知るべし。いまこの類に属する地名を『和名抄』中より抜き出せば、おおよそ下に挙ぐるところのごとくにしてその類けっして少なからず。
原  hara       波良 hara       幡羅 hara
布留 huru       庇羅 hira       大原 oho-hara
桑原 kuha-hara   高原 taka-hara   柏原 kasiha-hara
葛原 katsura-hara 節原 husi-hara   篠原 sino-hara
荏原 e-hara     姫原 hime-hara  吉原 yosi-hara
笑原 no-hara    井原 wi-no-hara  榛原 hai-hara
大原 oho-hara    麻原 wo-hara    栗原 kuri-hara
楢原 nara-hara   神原 kam-hara   草原 kusa-hara
田原 ta-hara    八原 ya-hara    御原 mi-hara
蒲原 kamu-hara  葦原 asi-hara    蓁原 hai-hara
石原 isi-hara    櫟原 ichi-hara   三原 mi-hara
市原 ichi-hara   盧原 iho-hara    茅原 chi-hara
尾張 wo-hari    名張 na-hari    鹿蒜 ka-hiru
畔蒜 a-hira     畔冶 a-haru     新治 nihi-hari
直入 na-hori    合良 ka-hara    甲良 ka-hara
氷蛭 hi-hiru    揖理 i-huri      香春 ka-hara
姶羅 a-hira    知夫利 chi-huri   給黎 ki-hire
早良 sa-wara   姶臈  a-hira    和良 wara
多良 ta-ra     安良 a-ra      那羅 na-ra
守良 u-ra     由良 yu-ra      讃良 sara-ra
 このうち直入ナホリナホリナホリを「昔者郡東、垂水村、有桑生之、其高極陵、枝幹直美、俗曰直生村、為人改日直入郡、是也」(『豊後風土記』)、甲良カハラカハラカハラを「厩戸皇子造四天王寺始製瓦干神崎郡瓦屋寺村或瓦工所居邪」(『玉林抄』)、名張ナハリナハリナハリを「古語隠を奈婆留という、山巒四匝、郡其中に在り、故にこれを名つく」(『古事記伝』)と説けり。古の地名起原説おおむね、この類なり、採るにたらず。安良アラアラアラは阿羅人、讃良サラサラサラ沙羅羅サララサララサララ人の帰化・移殖せし地なり、よりて名つく。

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