朝来と志楽 |
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朝来村。志楽郷朝来谷の地である。笹部、杉山、登尾、岡安、白屋、長内、吉野、朝来中、大波上、大波下の十ケ字から成っている。 |
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![]() 御田口祠。御田口祠ハ往昔、天照大神分霊子豊宇気大神猶此国ニマシマスガゴトシ。丹波国造日本得魂命等スナワチ地口ノ御田ヲ以テ奉ル。更ニ校倉ヲ建テ、其穀実ヲ蔵ム也。故名テ曰ク阿勢久良ト。且、其倉ヲ奠リ、以テ御田口祠ト称ス。(以下六行虫食)(原漢文) ![]() 一説には、天武天皇の皇弟金丸親王が勅に依り当国の鬼賊討伐のとき当地長内の乳岩へ御成りあり、その畔に日本武尊の神霊を勧請し次いで天照皇大神や八幡大神も招遷し三社合祀し、その神威により、凶賊委の平定という。この資料は手書きで、杉山の古?里は、私には何とも読めないのであるが多分古見里である。現在地よりもずっと奥(青葉山麓というか山腹)にあったようであり、そこは玖賀耳御笠や鬼賊の本拠地であったところである。『朝来村史』も引いておく、やはり青葉山の鬼や蛇と関わり深い社と思われる。 田口神社 字朝来中鎮座青葉山のアオバと、この谷の一番の下は ![]() |
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![]() ここでは日本得魂命、川守では日本得玉命である。何か元の資料に違いがあるのであろう。統一がとれていない。異なる元資料に基づくものなのではなかろうか。しかし同一であろう祭神が活躍する地であり、両地間には何ぞ関係があろうかとも思われる。 ![]() 川守では何か土蜘蛛退治の専門家のような人物である。日子坐王の一番隊長のように思われる。朝来の地は彼が侵略してくるまでは土蜘蛛の地であったろうと想像される。丹後に築いた最初の橋頭堡でなかろうか。 彼はまた勘注系図の八世孫で、次のような注文があるそうである。『古代海部氏の系図(新版)』によれば、 御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天神)の御代(壬戌年春三月)に、娘の豊鋤入姫合が天照大神を大和国笠縫里より丹波国余佐郡久志比の真名井原匏宮に移して、豊受大神と同殿に斎き奉った、と記されている。(そのあとにつづいて小さな字で二月に、その後丙寅年秋七月、天照大神は大和国伊豆加志本宮に遷座したと記されている。)残欠が述べるように本当に丹波国造であったかどうかはわからない。勘注系図にはその肩書きは書かれていない、ただ八世孫とあるだけである。十六世孫の大倉岐命ではじめて丹波国造の肩書きが現れるから、たぶん違うであろう。 ![]() もしそうなら日本得魂命は倭人伝の卑弥呼の父親であろうか、勘注系図では娘は九世孫になるが、そこに亦名を倭迹々日百襲姫命であり、卑弥呼だとされる日女命と乙彦命が、十世孫に小止与命が見える。卑弥呼と男弟、次の台与という倭人伝の記事と一致する。よく言われるように海部氏系図には卑弥呼がいる。「卑弥呼」がいるのは尾張氏系図もそうであって、九世孫に弟彦命と日女命、すこし飛ぶが十一世孫に乎止与命がいる。 日本得魂命が本当にこの田口社の祭神ならば、朝来は意外にも邪馬台国であったりするかも知れないことになる。いつの日にか、もしかすると此の地から邪馬台国が発掘されるかも知れない、楽しみに待つこととしようではないか。朝来は丹後海部氏にとっては邪馬台国なる地、何か大変に重要な地であったのであろうか。 さて『天孫本紀』尾張氏系図では、始祖の天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(=饒速日命・天火明命)の八世孫であり、次の記事がある。 八世孫 倭得玉彦命 亦名は市大稲日命 此命は淡海国谷上刀婢を妻と為し一男を生む。伊我臣祖大伊賀彦の女、大伊賀姫を妻と為し、四男を生む。大和と近江と伊賀に関係ありそうな人物である。 『角川日本地名大辞典』に、 高倉神社 〈上野市〉高倉下命という朝鮮語のオロチ族の七世孫というのなら、倭得玉命も金属と関係が深いと考えて間違いはない。 南山城の木津川の上流、金山媛を祀る伊賀国一宮の ![]() 先にも取り上げた京田辺市の棚倉孫神社の木津川を挟んでの向い側の城陽市の水主神社にも祀られている。『京都府の地名』に 水主神社 (現)城陽市大字水主 宮馬場 ![]() かつて 海部氏の祖・建振熊宿祢は神功皇后紀や仁徳紀の ![]() 近江国高島郡木津郷(高島郡新旭町木津)や丹後国竹野郡木津郷(竹野郡網野町木津)も、あるいはこの木津川の木津かも知れない。ずっと金属資源を求めて、先住の土蜘蛛を追っ払い殺戮しながら朝来にやってきたものと思われる。 南山城の大変な天井川で、道路のはるか上を木津川の支流が何本も流れている。 「道路面より下を川は流れるものだけど、このあたりは違うんだな」と、この地の知り合いに話したら、「そうかあ、こんな所がないかあ」と言っていた。古くはたぶんこの川の上流で大規模な鉱山開発があったのではなかろうか。 ![]() ![]() |
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![]() 枯木浦 本字彼来市の広報誌にもある、 ![]() 舞鶴湾の戸島から東側、東港の古名を"枯木浦"といいます。その名の由来については、「丹後風土記」の一説、枯木浦に興味深い話を残しています。 ![]() 上の写真は325メートルの五老スカイタワーより見た枯木浦である。ここからなら四島が一度に見渡せる。画角は90度以上、18ミリレンズで一杯一杯である。ガラス越しで、実はデジカメの画像を何枚か合成して作ったものである。近畿百景の第一位に選ばれた展望であるが、枯木浦を見るための施設ではなかろうかと思えるほどよく見える。 枯木浦は湾口から(冠島も含むのかもしれないが)、四島で終わる物語ではなく、本当は後で述べるが少なくとも枯木宮までは続くものである。そのだいたいの位置は下の写真の一番右側になるが、ここからは見えなかった。 古代には枯木浦と呼ばれていたのであるが、後に白糸浜と呼ばれ、現在は東舞鶴港と呼ばれている。将来は京都東舞鶴港とでも呼びたいようである。 何故「京都」などとウソの名を付けるのか私にはわからない、ここは丹後であって京都ではない、過去に京都であったことはない、ちかごろ流行の、何にでも京と冠称をつける恥ずかしい詐称地名だと思う、京都と大ウソでも付けたら、ひょっとして港の値打ちが上がるであろうか。どうか地名は遠い過去より伝わる大切な文化財だということをヨーク肝に銘じていただきたい。頼りないどころか大ウソの呼び名は地名破壊でしかなく、地域の社会も文化も破壊するものである。非常に罪深い。誰かが喜ぶとでも思っているのだろうか。いいかげんな呼び名はまっぴら御免である。 舞鶴が京かそうでないかは少し喋らせてみればすぐわかる。舞鶴人は京都弁を使わないというか使えない。その地の言葉が喋れない者はその地の者ではない。単に行政上の線引きだけで判断してはなるまい。 もうすでにそのように呼ばれているようである。府の広報紙などに書かれているところを見ると、どうやらこのつまらぬ名付け親はたぶん京都府であろう。つまらぬ役人が考えそうな話ではある。住民がそう呼ばないような地名を勝手につけるな。たまたま京都府にいるだけではないか、その京都府だって「平成の大合併」の次にくるであろう、道州制導入でどうなるかわかったものではない。 舞鶴市が福井県に入ったら、福井舞鶴港と呼ぶのか、滋賀県に入れば滋賀舞鶴港、鳥取県に入れば鳥取舞鶴港と呼ぶのか。もし北朝鮮に入ったら北朝鮮舞鶴港と呼ぶのであろうか。 ![]() 現在は海自の基地がある。この日は珍しく潜水艦が入港していた、拡大して見ると確かに写ってはいるが、上の小さな写真では見えないと思う。 ![]() アフガン・イラクへもここから出て行った。「憲法なぞはどうでもよい、とにかくすぐ戦争へ行こう」ではないか、ムチャクチャを始めたら国は亡ぶ。困るのは国民だ。無辜のアラブの人々をミサイル爆撃し子供も含めて大量殺戮する超大国による、正確にいえばブさんによる大義無きテロを支援するために…。 わが国の恥ずべき国家犯罪の歴史をずっと見続けている枯木浦である。このまま行くなら21世紀の遠くない時期にたぶん東アジアを睨む核戦略基地となるであろう枯木浦、どうかそんな事にはならないでもらいたいものである。舞鶴は東西世界の最前線なんですねえ、と、よそから来られた方はその異様さに気がつかれる、しかし舞鶴人はこうした光景に慣れてしまっていて、軍のラッパの音を聞いて舞鶴を実感している。何ラッパというのか勝手に市民は「整列ラッパ」とか「消灯ラッパ」とか呼んでいるが、少しばかりふるさとを離れて、帰ってきてこのラッパを聞くといると、ああこの音が舞鶴だ、なつかいしなと話す。「総員起し」が朝の6時とか6時30分だそうで、その音に早くから市民も起こされてしまうそうである。意外な基地公害であるが、舞鶴革新政党の大物ですら「そう言われると忘れとったな、そうやなあ、舞鶴には自衛隊基地があるんやなあ」、と言うのである。もはや空気のような存在となっている。今や南北世界の最前線基地の町でもあるのだが、市民の間にはそうした認識はない、と言えるだろう。右へ右へと梶を切りたい政府与党は誠にやりやすい。もう少しは感心を寄せることが明日の舞鶴をつくる本当の基礎となるのだろうが…。 上の写真は北側の大浦半島の引揚の平港から東舞鶴側を見ている。イージスシステム搭載のハイテク艦「妙高」(左側)と、新型補給艦「摩周」(右側)がこんな所に浮かんでいた。「妙高」の本来の目的は、ヨーロッパ戦線で戦端が開かれた場合に、極東に第二戦線を開きソ連の兵力を極東方面にも分散させるための米太平洋艦隊の補完用艦船であった、米海軍力だけでは心許ないために日本にもこんなハイテク艦を導入させたものである。大変に高価な買い物で「浮かぶ札束」と呼ばれる、一隻1200億円とかいう、しかも肝心の部分はブラックボックスである。ところがソ連の崩壊で無用の長物となっていたのであるが、近頃は弾道ミサイル「テポドン」や「ノドン」を撃ち落とせるよう改造する計画もあるという。 テポドンというのはノドンを二段重ねたようなようなミサイルという、漢字で書けば 日本の大浦から出撃して、北朝鮮の東海岸の咸鏡北道花台郡舞水端里の大浦村ミサイルを撃ち落とせるだろうか。無理と思う。宇宙を軍事基地とするようなそもそも違法の衛星監視システムが仮によほどよく出来ていても、そんなものは日本にはないし、米軍のものを借りたとしても、まず無理であろう。飛んでくる敵の鉄砲の弾丸をこちらの鉄砲の弾丸で撃ち落とせるだろうか、マンガの世界なら知らず、現実の世ではできるわけがない。イカヅチでイカヅチを撃ち落とせるだろうか。発射されたら一度宇宙空間へ飛び出て日本海を飛び越え、弾頭が再突入してくる、マッハ10のスピードに達するという、稲妻よりも、隕石の落下よりも速い。その間はわずか5分という(防衛庁の試算では発射から着弾まで11分)。弾道の計算をしなければならない、スーパーコンピューターでも何分かはかかる、持ち時間は11分はない。ほぼ正確な落下位置が計算できるのは、やはり5分前と思われる。その時間でどこへ逃げられるだろう。逃げようもない、逃げられるのは首相だけだともささやかれる、官邸には避難シェルターがあるからである。 しかしテポドン1号は、日本政府の言うようなミサイル実験ではなく、衛星の打上に失敗したものだったとアメリカなどの諸外国政府は表している。日本政府は経済制裁をしいたが、諸情報から考えると衛星が正解のようである。 発射される前に地上で叩くより手がない。ノドン(蘆洞)の方が怖いと思う、これは旧ソ連のスカッドミサイルの改造型で、敵の先制攻撃を避けて自走して常時移動しているから、どこにあるかもわからない、さっき確かにここにいたと思って攻撃してももうそこにはないのである。一晩に三度は寝場所を移動するというテロリストの親玉のようなものである。敵さんもマヌケにやられるほどヤワではない。命中精度が悪く、とうの昔の旧式なものであるが、イラクやイラン、パキスタンなどが持っているのは全部これと同じようなものである。 100基ばかり北はもっているのでないかといわれる(もっとあるとも言われるがどこまで本当なのかはわからない)。これに核が搭載されていれば誠に恐怖であるが、搭載できるほどの小型の核は現在のところは開発能力はないといわれている。発射されるかどうかもわからない敵ミサイルを米軍用語の「予防抑止」、先制核攻撃するより確実な手がない。ありそうなあたりを無茶苦茶に予防核爆撃するより方法がない、しかしそれでも本当に破壊できたかどうかはわからない、どこかに生きているミサイルが残っているかも知れない、一発でも生きていれば大変だ。さらに二次三次の予防核攻撃が必要になる。それでも確かではない四次五次がいる。これがイラクであるが、いよいよどちらがならず者国家かわからなくなってくる。核に頼る、軍事に頼るということはこうした誠にアホな事である。 そもそもこんなに恐ろしい正気の沙汰とも思えぬ悪魔とて身震いして羞じ面をふせそうな核ミサイルを先に武装をしてきたのは我々の方ではなかったか。核ミサイルでねらって来たのはどの国がどの国に対してであったか。日本には他国を攻撃できるような自前の核ミサイルはない、憲法が禁じているからである。しかし日本には米軍がいる。これが核ミサイルを持っている。国内にある以上は日本が持っているのと同じである、これは明らかに憲法の精神には反している。人様のことを言う前に我が身を振り返ってみようではないか、それを棚上げしたまま、不問にふしたままの、日本人は穢れなき天使様なのだのようなつもりでいたのでは問題の解決はないだろう。 さらに悪いことには、日本国内にある(かどうかもわからない)この核ミサイルは日本の主権は及ばない、日本が仮に撃つなといっても米軍は撃つかもしれない。更に始末の悪いことに国連の決議もなしに、たいした根拠もなく平気で他国を先制攻撃する国であり、軍事施設だけをピンポイント爆撃しますと言って、実は何人の子供を殺している、そして誤爆でした誤射でしたと言うくらいの国であり、実際に原爆を二度も投下した国てあり、米本土で北で使用することを想定した原爆模擬弾頭の投化訓練をしている国である。日本の言うことなど聞くわけはない。いつこちら側の核ミサイルが発射されるかわかったものではない。政府筋やマスコミのウソ宣伝に長年さらされてしまって、今ではまともな判断もできなくなっているが、実際は攻撃されるのを恐れるよりも攻撃しはしないかと恐れる方が実情に合っている。 北のミサイルは何とかならんものかいなと ![]() ![]() 実際に弾道ミサイルで攻撃してくることはないと言われる、本気で攻撃する気ならもっともっといい手がいくらにでもあるそうである。 アメリカも攻撃することはないであろう、こんな強い国には手は出さない、もっと丸腰の弱い弱い極貧の国を最新兵器で攻撃するのがアメリカである。彼らはビジネスマンである、「自由」などという大義のために本気で動いたりはしない。世界最強の軍隊を莫大な費用をかけて派遣してもベトナムでもアフガンでもイラクでも勝てない。日本人はアメリカは勝つと自らの体験からいまだ信じているが、時代は変わり自覚した国民の民族解放闘争には勝てないのである。アメリカが北朝鮮に勝てるなどともし考えているなら、まことに馬鹿馬鹿しい日本人の信仰上の話である。仮にもし本気でアメリカが攻めるならば、地上部隊は韓国や日本に行けと言うことであろう。それでも勝てるならまだいいが、まず勝目はなかろう。 それにしても1兆円もかけて成功する可能性の少ない迎撃システムをつくるのは愚の骨頂である。テクノロジー過信というよりテクノロジー無知と呼んだ方が正しいだろう。ミサイル防衛とはいっているが、はじめから本格的なICBMや多弾頭ミサイルも無理である、最新のものはすべて無理で、かなり時代物のヘナチョコミサイルならなんとかなるかも知れないといった代物である。そもそもどこぞの大国はそんなに科学的根拠に基づいたり、周到な調査研究や熟考に熟考を重ねよく周囲の議論を聞いて安全保障政策を立てるような立派な政権ではない、北朝鮮よりも危険だともいわれるくらいであるし、世界一の大悪者にも撰ばれる名誉あるオン大将でもある、その軽すぎる政権の尻馬に乗るのはよく考えたがよいだろう、弾道ミサイルを迎撃できる兵器はない、仮にノドンなら何とかなってもこれはイタチごっこで、相手がさらに進歩した兵器を採用すれば、もう役にはたたない、10年もせずに切り替わるだろう。SS21改が出てくるだろう。 もう少し説明すれば、弾道ミサイルはその呼び名のとおりに放物線を描いて飛ぶ、放物線の一番上ではミサイルのスピードはゼロになる。ミサイルは止まっているのだからここを撃ち落とそうというわけである。これがミサイル防衛のネライ目である。ところがその一番上の高度が問題である。500キロ以上も上空だと、防衛ミサイルが届かないのである。B29の高度一万メートルだと高射砲弾が届かなかった過去と同じ歴史を繰り返すことになる。300キロといわれるノドンならなんとかなるかも知れないがテポドンは無理である。撃ち落とせない。防衛できない。ミサイル防衛はありえないことをよく知っているから先制攻撃論がでるのである。しかし相手は移動するから先制攻撃も難しい。もっとも先制攻撃が許されるはずはない。自分に先制攻撃が許されるなら相手にも当然に許される。そんな気違論がまかり通れば世界がどうなるか考えてみればいいだろう。 税金だぞ、チト真面目に考えたらどうだ。こうした悪魔の兵器に頼らないで平和を築くのが政治家はもちろんのこと日本国民の使命であろう。「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」(憲法前文)と書いてあるのはもう死文なのだろうか。 ![]() ![]() この場所はいつもは「妙高」がいる場所である、その場所を空けてやって、「妙高」は沖でアンカーを打って停泊している、この場所を米艦に使わせている、何もそこまでしてやる必要はあるのかと疑問に思う。 「アメリカのイージス艦なんですか、ヘリは飛ぶは警察はウロウロしとるは、大変でしたよ」、ということであった。色は日本の船と同じ、というか日本の船が真似ているのか知らないが、何もそんなに似なくても…というほど似ていて、艦尾の掲げたアメリカ国旗でも確認しないと日本の船と区別できない。普通の人が見ると気味悪がる色になっている。 ![]() 反射率18パーセントの灰色なのだろう。周囲に溶け込んで見つけにくいという保護色であろう。米軍がこんな色を使うのはともかくとして、何も平和国家・日本の艦船がこんな色にすることはない。さらに見つけにくいの潜水艦だという、プロの船乗りでも発見がおくれ、目の前に来てから気が付き、びっくりして己が船の舵を切ってかわしたという話を聞く。日本の艦船は女性ばかりを乗せてピンク色に塗っておけばいい。名前も「平和」とか「友好」とか、「青年」とか「美女」とかつけたらいい。 この自衛隊艦船の色はおそらく100パーセントアメリカ海軍の色だと思う。私が子供の頃の話だが、ここを通りかかるとアメリカ海軍の小艦船の同型の物が幾隻も繋がれてこの桟橋に浮かんでいた。ブリキの船と呼んで当時の子供ですらバカにしたチャチな軍船であったが、これは当時の海自がアメリカが第2次大戦下に急造した安物の払い下げをもらったのではないかと思われるが、それがこの色であった。発足の事情のそのままが現在の海自に引き継がれているのだと思われる。海自の歴史の色ではあろうが、そろそろ見直せ。日本とは実はアメリカの属国ですよと高いゼニを使って世界に宣伝しているようなものである。、もっともっと独自の色とデザインを使え、恥ずかしい。 こんな物騒な船をいい気になって写しいると、いつかの時のように、東舞鶴警察などに米軍へ通報されるかも知れない、誰の安全を守る警察なのか知れたものではない。誰よりも第一は、納税者の、お前さん達のスポンサーの安全を守れよな。 中はそれと同時に入港した潜水艦である。一緒に入港しているから、共同行動を取っていたものと思われる。日本の潜水艦だろうか、普通は艦橋の後に国旗を掲げているのだが、それがなく確認できない。米イージス艦を護衛していたのでなかろうか。米イージス艦が日本海に来たからといっても別に日本国を敵ミサイルから防衛するのが目的ではない。米本土までは今のミサイルは飛ばないようだからアラスカやハワイ島をねらう。米本土向けは北極越えだから日本海にいてもあまり意味はないが、太平洋の基地へはその飛行経路は日本海上にある。その飛ぶかも知れない飛行経路の真下に行くのである。アメリカ基地防衛こそが日本海へ来た理由である。米艦艇は米国の安全を守っているのである。そんなことは当然だが、日本の自衛隊は誰がために潜水艦を持っているのだろうか、誰がための「平和と安全」を守る軍隊なのだろうか。ゴツイこと日本国民の税金を使って、やっていることは日本の安全を守ることではないのかも知れない。よく言われていることで今さらに疑問とする方がおかしいかも知れないな。 ![]() 「あれがアメリカのイージス艦なんですか」と私が写していたら声をかけてくる女性があった。若いベッピンさんであった。 「そうなんです。アイツひょっとすると核を搭載しているかも知れませんよ」。などと云うと「へー」といっていた。ひょっとして戦術核くらいはもっているのではなかろうか、少なくともいつでも核武装ができる艦であろう。日本海は波高し、大変な時期を迎えようとしている。どうか若い人たちにも興味をもって頂きたいと願う。 下は「フイッツジェラルド」の米兵たち。雪が珍しかったのか、三段の雪だるまを作っていた。どこの国もやることは同じだなぁと市民たちの感想である。最近の日本の自衛隊員たちと雰囲気はよく似ている。 え、アメリカ青年ってこんな感じだったあ、という気になる。本国ではかなり優秀な青年たちなのだと思う。遊びが賢いしおとなしくて行儀かいい。兵士という感じがない。しかし日本青年と似て夢も希望もないという感じを持っている。彼らなりにあきらめきってる、深い絶望を抱いた青年たちだ。悲しみがどことなく伝わる。ささやかな幸せで満足しようとしている。悲しい青年たちよ、本国へ戻って早くいい国にもどせよな。自国に自信が持てないのは日本青年の方が上をいく。他国ではきっとそう見られていることだろう。「同盟国」の国民として痛く責任を感じた。フセイン後に、こんな青年が1000名もイラクで殺され、それに10倍するイラク市民を殺している。誰がためにであろうか。 米兵による性犯罪は、日本の米軍基地が飛び抜けて多いという。夜遅くまで飲食していた被害女性に問題があるのでは、と発言したという田中とかいう外務大臣がいたが、どこの国の外務大臣なのだろうか、こんな者を野放しにしたらどうなるかもわからぬらしい。即刑務所行きが当然なのである。女性としても人間としても日本国民としてもおよそ躰を為さない超人気大臣をありがたく戴くような国であるから、こうなるのも当然かも知れない。こうした犯罪は氷山の一角しか記録に残らない。実態はもっともっと多いと思われる。日本社会は犯罪が増えたというが、それも当然の結果であろう。国民自身がかなりおかしいのである。自分が無意識の共犯者だという反省がない。米艦船の寄港が頻繁になれば、舞鶴でもやがてはそうした重大犯罪が発生することであろう。 米軍兵士は魂が暗い。身びいきできないが、海自の隊員の方がずっと明るく好感がもてる。これは人殺しをしてきたか、そうでないかの違いだと思われる。 ![]() 戸島の戸は、由良の戸をわたる舟人梶を絶え…、でおなじみの戸で、出入口の狭くなっている所あたりを言う、そこにあるから戸(とびら)なのである。 カレキと読むのか、カレコあるいはカラキ・カラコなのか、唐古・鍵遺跡のある唐古池を思い起こさせる名である。ここに書くまでもなくよくご存じと思うが、弥生期の巨大な環濠集落である。 ![]() ![]() 残欠の笠松山之嶺をどこに比定するかであるが、四嶼の比定と統一しないと広報誌の説では木に竹を接いだものである。もっとも地名の泉源寺にはかつて泉源寺という真言宗の寺院があり、その山号が笠松山であった。また『丹後国加佐郡寺社町在旧起』に、 泉源寺村…、 しかし海路の順次に諸島を集合せしめたというのだから、もし浮島が最期なら、笠松山は市場・溝尻・倉梯あたりの山でなければならない、従来通りに泉源寺の愛宕山とするなら、その麓に湊がなければならないし、四嶼は戸島・乙島・蛇島・烏島でなければなるまい。乙島は枯木浦よりも九景浦(西舞鶴湾)に入り込む、勘案して私は前説をとりたい。笠松山という地名から考えてもやはり倉梯・高橋と呼ばれる地の辺りでないとどうもおかしいのである。 上の写真は泉源寺の愛宕山であり、海が枯木浦である、埋め立てられて当時よりもずいぶんと狭いものになっている。フェリー埠頭の先端から東を見ている。中央の高い山がそれである。残欠の笠松山に比定されている。この山からだと確かに四嶼のすべてが見渡せる。 ついでに説明しておくと、愛宕山には海軍の防空用の高角砲陣地があった、私の親父はこの山の対岸にあった防空壕に中にいて扉の割れ目ごしに、敵の艦載機の大編隊がこの山の上に飛来するのを見上げていたそうである。ちょうどこの写真を少し引いた状態である。撃ち落とせよと願っていたそうだが、偉そうにぬかしやがっていても、肝心のときにはアイツラ一発も撃たなんだナ、ということである。子供の私が何で撃たんのやと問うと、そんなことしたら自分らの位置がバレて、敵に攻撃されるからじゃ。能ある鷹は爪隠す、のではない。自分らの安全が第一ということか。それが本来の任務なのである。納税者・市民の生命財産はどうでもいいのである。そんなものを守るのは警察のお仕事、軍隊が守るのはそんなものではない。軍隊とはそんなものである。何を守ってくれるのであろうか。莫大な税金を投入するのが惜しくてかなわん。イラクにおける米軍しかり、ではイラクにおける日本軍はどうだろうか、自分たちを犠牲にしてでもイラク人の生命・財産を守れるだろうか。それともかつての偉大な神様に祀られる先輩たちのように能ある鷹は爪隠すのであろうか。 井伏鱒二の『黒い雨』だったか、こんなに話があったと記憶している、広島でも撃たなかったようである。 この山の下にあるのが、海自の教育隊である。ビルのように見えるのがそれである。かつての舞鶴鎮守府の海兵団である。海兵の教育・訓練を行ったという。左手(北)へ向いてすすむとすぐに平の引揚港になる。 ![]() |
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![]() ![]() 右の写真を見て頂きたい。加佐郡式内社の 表には「枯木堂」と書かれているようで(写真下)仏堂かとも思える、内部を覗くと石の仏像が三体祀られていた。しかし「大森大明神再興之記」(延享4)に、「枯木之宮者西宮夷三郎也」とあり、元々はこの浦の海人たちが齋き祀った立派な神社だったようである。 ![]() 枯木浦の枯木はここから出たものであろう、弥加宜浦とは呼ばないので、弥加宜神社よりも歴史が古く、本来はこの地の鎮守であったものと考えられる。後世に枯木神社はその鎮座地(杜清水の地)を弥加宜神社に奪われて、境外に追い出されたものであろう。もちろん枯木神社だけがあったわけではなく、周辺に集落があり、枯木の里と呼ばれる周辺一の大集落だっただろうし、倉梯とか高橋と呼ばれる以前はこの地は枯木と呼ばれたと思われる。残欠が書かれた頃にはすでに追い出されかけていたであろうが、残欠が枯木浦と記録していてくれたお陰で歴史は復元できるのである。『倉梯村誌』は、 初め現時の行永小字彌伽宜谷に奉祀せられしが、聚落の移動交通の発達に倶ひ再遷三遷遂に現神域に奉祀せられたりとの説あれども其年代更に詳ならず、果して然りとすれば、土地の沿革聚落の発達交通系統等より考へて蓋永禄…三七〇年…以後の事かとしている。永禄(1558〜70)ということはない、残欠の頃にはすでにここ杜清水の聖地に来ている。当時は現在ほどに大きなものであったかどうかはわからないが、参道は現在もその弥加宜谷の故地まで続いていて、その辺りをうろうろしていたかも知れない。現在も清水がわき出し続ける杜清水と呼ばれるこの聖地には古くからガンと枯木社が鎮座していたのである。弥加宜神社といえどもその歴史を抹殺することはできなかったのであろう。 ![]() ![]() ![]() |
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![]() ![]() ![]() 『丹後名所詞花集』(嘉永4)に、 枝もなき枯木の浦に風吹けは浪の花こそ散り乱るらん(玄旨法印) 冬見れば梢にくもる夜半もなし枯木の浦にさゆる月かけ(顕朝朝臣) ![]() 橋立の内海・阿蘇海の一番の奥て、野田川(倉椅川)の河口部、古代与謝の心臓部にあたる場所で、現在の宮津市 ![]() 加佐郡枯木浦には笠松山があったが、ここでも傘松山がある、橋立を股覗きをする観光名所の山が傘松公園である。何事でも少し見方を変えてみる、決まり切ったような見方ばかりでなく、できたら180度変えてみることも時には大事で面白いかも知れない。籠神社の横手からケーブルで登る山である(上写真)。アソとカサマツ、枯木、クラハシの地名とがここでも重複している。 ![]() ![]() 「あそこにはいつもあの船が浮かんでますけど、アレは何ですか」と宮津湾(与謝海)に浮かぶ貨物船(右写真)を指さして問われることがある。あれはニューカレドニアからニッケル鉱石を運んできた船である。 オーストラリアの東・南太平洋に浮かぶフランス領の島、天国に一番近い島とか呼ばれる。ミッドウェーで空母を4隻も沈められなければ、日本軍が攻略するはずであった島である。この島の鉱石はここで小さな艀に積み替えて、天橋立の回旋橋をすり抜けてゆく。 ![]() もともとは大江山からニッケル鉱石を採っていた、倉椅川をさかのぼれば、大江山である。「埋蔵量含有量ともに我国希だ」と大阪鉱山局が折紙をつけた大江山ニッケル鉱、中国人強制労働事件も起こして現在も訴訟が続いている。 企業は和解に応じたが、情けない国は謝罪もなく時効で逃ようとしているようである、「坊ちゃん鉄道」と呼ばれる加悦鉄道が大江山の鉱石を運んでいたが、北海道を除きニッケル鉱はここしかないそうであるが大江山は貧鉱とかで、ずいぶんと昔から輸入にもたよっている。軍の要求で橋立の中央を切断して艀を通そうといったような乱暴な話もあったそうであるが、地元民たちの命がけの奮闘で退けたという。 ![]() ![]() ![]() 『丹哥府志』は、 【穴憂の里】(菩薩岩の西、今輪の崎といふ)『地名辞書』によれば、与謝郡式内社の吾野神社は須津の須津彦神社だという。吾野は普通はアガノと読まれるが、アノあるいはワガノかワノかも知れなく、それはアノウの転訛かも知れない。吾野神社はここにあって穴生神社であったかも知れない。穴生なら鉄である。 ![]() |
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![]() 宇宙山と世界樹の伝説![]() ![]() ![]() ![]() ![]() いつだったか丹後の山中を車で走っていた。立派な道路の真ん中に猪の児の二匹がいた。何に気を取られているのか我らが乗った車が近づくのがわからないのかも知れない。しかしそのうちに気がついて逃げるだろうと考えてスピードも緩めずに近づいた。車としてはどちらかへ避けようもない所にいた。あわてて避けてもドンと接触した。ひき殺してはいないが、ケガくらいはしただろうと思う。降りて見てみたが、そこらあたりには姿はなかった。 「足くらいは敷いたかな」と言うと、丹後の同乗者は「帰りはこの道は通らないほうがいい」。イノシシだって児が傷つけられれば黙ってはいない、復讐のイノシシテロを恐れ遠回りして帰らなければならない。復讐されても文句もいえない。 ![]() △天橋の意義と伝説 此に行って予の心付いた事は、天の橋立なるものが、松の生えて居る長い砂嘴を意味して居るかどうか疑はしい事であります。古語の「ハシ」は、水平の橋梁を一意味するの外、梯とか、石階とかを意味して居ったのであります。さらば「ハシタテ」といふ以上は、常に雲梯(山に登る道)を意味して居るものであります。それで「丹後風土記」を見ますると、榊様が天に懸けようとした橋が、倒れて海上に横はったのであると書いてありますが、此のやうな伝説によるの外は、あれを橋立といふことが当らぬ。それよりも、今では山頂の寺の名になって居りますが、成相寺の成相といふ語が、もとは成合であって、即ち両陸の相接続することを意味することで、此方が寧ろ適当な名であると思はれます。『物語と語り物』に …埋立新田の広々と績く地方には、もうさういふことを知らぬ家ばかり住んで居るだらうが、附近に高く仰ぐ孤峰のある土地には、そこを精霊の降りて来る倉梯と感じて、いはゆる盆の月の七日又は朔日に、そこから里へ来る登路の草を苅る村里が、稀ならず諸国には有るのである。…『山宮考』に …高山短山の頂上は、祖神の常住む伊穂利では無くなって、或すぐれた天津神の雲を分けて昇り降りしたまふ倉梯であ るかのやうに、想像せられるに至ったのである。…ハシゴがでてくるので気になっていたのだが、やはり読み返してみるべきものだ。大変な事を見落としていたようである。 ![]() ![]() 宇宙山は世界の中心にある山で、現世の地上世界と天上世界、さらには地下の世界とを結ぶ山である。この山の頂にあるというハシゴを使って天上世界へも地下世界へも行き来ができる山である。大和の倉橋山(桜井市の音羽山。北麓に倉橋の地名がある)は知らないが、丹後の倉椅山がどちらもあまり険しくない、特に宮津の倉椅山(左写真。雲に隠れた中央の暗い山。。右手の煙の煙突は大江山ニッケルの工場)はなだらかに見えるので、「険しい山」説は、どうもおかしいぞとおもってはいたのである。 天橋立は ![]() このハシゴは太古は柱であったり樹であったようである。世界樹・宇宙木と呼ぶ巨木がこの山の頂上に生えていて、この樹を登れば天上世界(日の国・神々の国)へ、根の方へ降りれば地下世界(根の国・黄泉国)へと行けたのである。天上界の神々と地下界の祖霊が集う山であったのだ。 ![]() ![]() 地球の裏側の豆の木の童話は、丹後の羽衣伝説にも似ているので較べられるといいだろう。 ![]() シャーマンというのはツングース語らしいが何と説明すればいいのか、中国では ![]() 天孫降臨にもやはり世界樹の思想があったものと思われる。天照の孫の 大山津見神は宇宙山の神、木花佐久夜毘売も石長比売も世界樹であろう。人の生命を支配する神々であった。ついでに書いておけば、海部氏の祖・火明命は、この邇邇芸命と木花佐久夜毘売の間の子である。 記紀の国生み神話の天柱・天御柱(アメノミハシラと読む)もそうだろう。この柱の廻りを廻って伊奘諾尊・伊奘冉尊は国を生む。天照大神を「天柱を以ちて、天上に挙げまつりたまふ」とも紀き記す。 播磨風土記の印南郡、益気の里の斗形山にも、石の橋があり、上古の時代、天に至り、八十人がみんな上り下りに往来したと伝える。 ![]() 倉橋サンはどうなのかは知らないが、高橋サンは神官に多いようである。森や行永にもその旧家が多いが、あるいは太古の祖先は倉椅山のシャーマンだったのだろうか。 ![]() 梯立ての倉椅山を嶮しみと岩かきかねて我が手取らすも 梯立ての倉椅山は嶮しけど妹と登れば嶮しくもあらず という有名な歌があって、この連想から、倉椅山とは険しい山のことと考えられる事が多いようだが、先に述べたように宇宙山ととらえた方がいいと思われる。この山で行われたであろう歌垣のかけうたではないかともいう。倉梯山は当然にも歌垣山でもあったと思われる。 それにしても何故に女鳥王と速総別王は倉椅山へ逃れたのだろうか。それはその名が語ってくれる。メトリとハヤブサ、いずれも鳥である。記が述べるような仁徳の弟とか妹ではなく、その名が象徴するように飛翔能力を持つ天上界の人間であった。二人はこの宇宙山のシャーマンであった、この地の信仰や政治の中心人物であり、仁徳には邪魔であったのだろうかと思われる。尤も仁徳も本名は大雀命(大鷦鷯尊)であり、彼自身もまたどこかの宇宙山のシャーマンだったのかも知れない。弥生の伝統を引いて、東アジアのシャーマンにように天狗と同じように嘴をもった鳥装していると想像された人物であろう。 ![]() ![]() 大阪府高石市の 景行紀には、朝日に照らされると杵島山を隠し、夕日に阿蘇山を隠す樹の話がある。同じような話が『筑後風土記』逸文にある。『肥前風土記』にもある。 ![]() ![]() ![]() ![]() 私はこれをカラ木と呼んだのでないかと考えているのである。カラキ、あるいはカサマツと呼んだのではなかろうか。このように考えるとすべての謎がきれいに解けるのだが、いかがであろうか。傘松について柳田が『祭場の標示』に書いている 野中にただ一本の高い木が聳え、又は其形の特に他のものとちがって居る木ならば、人は直覚にでも是が神様の木だといふことを感じ得たであらう。たとへぱ杖銀杏・逆さ杉のやうな木は常には見ない。普通は上を向くべき枝が皆下へ垂れて居るのは、杖を刺したのが成長したのだからといふ様な想像も起り易いが、そんなことを言ひ出さぬ場合にも、傘松などの枝のさきが地に向ふるのは、天からこの土地へ降りたまふ神々の、梯子として便利なやうにも考へ たのであらう。『しだれ桜の問題』に、 何にもせよ墓所や寺の庭にしだれ桜のあること、山で天狗の木といふのがしだれ桜であったことと、仮にこの二つの現象はもつと遠方の地に離れてあってる、尚根原に何等かの共通するものがあることを、想像させずには置かぬやうに思ふ。…笠松又は傘松の名は有っても無くても、山野に孤存する多くの神様松は笠形であった。さうして星降りの松とか影向の松とか、現実に神霊の此木を梯として空より降ったことを、伝へ説く例も多かったのである。 世界樹そのものとその山は何と呼ばれたのであろうか。風土記はこの樹がクスノキだと書いている、それならクス山、クシ山、クシフル山であろうか。ハシ山、ハセ山もそうであろうか。長谷山に葬られたという大倉木命の大倉木もこの世界樹のことかも知れない。天木・大木・青木・高木・トノ木・クラ木・橋木これくらいがすぐ思いつくがどうだろう、天山・梯立山、高橋山、倉梯山、高倉神社のシハスクリというのもそうかも知れない。世界樹は大杉だという伝説もある。舞鶴倉梯山の北端の長谷山の麓には大杉稲荷社(左写真)がある。 ![]() 倉梯地区にはこの大樹伝説の残りなのでないのかと思える伝説があちこちに伝えられている。 ![]() ![]() ![]() 大宮町明田は西に大内峠を越えたところであるが、ここにも大杉の伝説があるという。引いておいたので参照して下さい。明田は古くは与謝郡に属したらしいが、ここには弥生後期の「岩立橋」遺跡があり、「心木神社」がある。世界の中心の木を祀る社なのであろうか。 ![]() 無限の豊穣の樹であって、宝舟にも宝臼にもなるし、琴を作ればいい音がするし、灰にして蒔けば花が咲く、ありがたい樹であった。枝葉で天上世界を支え根で根の国を支える樹であった。これが倉橋山にあったのであろう。 ![]() 崑崙山に不死樹があるという、羽人は上が人、下が鳥の姿をした仙人であるという。矢尻のように見えるのが不死樹であろう、不死鳥なら知っているが、こんな樹があったとはついぞ知らなかった。羽人はその上下にあるものがそれなのだろうが私にはよくわからない。 ![]() タリム盆地の南嶺が ![]() 枯木はあるいは記紀の軽野船の話から考えると軽木か刈木の転訛かも知れない。もしそうならば銅の木と意味になる。しかしこの説明には自信がない。 ![]() 大江町内宮にもある(左写真の白っぽく見える枯れた杉を「竜灯の杉」と呼んでいて、同じような言い伝えがある。樹齢600年以上といわれ大江町一の巨木であるそうである)。 これらも古くは世界樹伝説の一つであろうかと思う、根の国(冥界)からの祖霊が通る樹であったということになろう。 ![]() ![]() 左写真は坂根正喜氏のもの。城屋の揚松明神事を写している。16メートルの柱の先端に取り付けられる。重機を使って立てて3本のロープで固定する。柱に繩、あの世とこの世をつなぐものである。 ここでは8月14日夜の9時過ぎくらいから、下から火を点けた小松明を投げ上げて、この部分を点火する。ここの水分神との関係からか雨乞い行事だとも云われ、古来納得できそうな説明もなく、お盆の真ん中の日の行事にもかかわらず祖霊信仰の盆の行事とは地元ではまったく意識されてはいないようだが、そうではなく、起源はずっと古く世界樹の思想に基づいているものであろう、今の形は盆の精霊迎えの行事ではなかろうかと私は考えている。 ![]() ![]() これが盆の高燈籠であり、祖霊は根の国(地下の冥界からか天国からか)からこの柱を伝ってこの世に戻ってくる、その目印になるよう点火するお盆の行事であろう。 雨引神社のすぐ社前を流れる高野川は先の23号台風で川岸を2箇所ばかりえぐっていた、一時交通止めになった。こうした川原的な場所で神事が行われる。こうした場所は網野氏風に言えば無縁地、この世ではあるが、あの世にかも知れないような、その境目と意識される場所である。あの世にもっとも近いこの世である。この世とは意識されない、この世ではないこの世で、あの世の人々がこの世にあらわれてくるにはもっともふさわしい場所である。 橋の袂の川辺の柳の木の下に幽霊が出るように、本来の幽霊は決してどこでもでるわけではなくて、場所を選んで出ているのであるようだが、こうした川原に精霊迎えの揚松明が焚かれたのであろうか。テレビから幽霊は出てくるのかと幼稚園にかよう子に尋ねられたが、それは悪いテレビの見過ぎだろう。そんな所には幽霊は出ない。 そうした起源的な意味づけは現代人ならずともよく忘れてしまうが、もう一度思い起こして、どうかこの柱から各自の家々に続く道を掃き清めて亡くなったオジイちゃんオバアちゃんはじめ祖先の霊を迎えて頂きたいと願う。 写真は城南会館(舞鶴市女布)に展示されていた。その説明に、「近々450年を迎える伝統行事の揚松明は、豊作を願う雨乞いと大蛇伝説を後世に引き継いでいこうという、城屋区民の思いに支えられている」とあった。 450年とはかなりいいかげんなものであろう。もう一桁や二桁増やしてもいいだろう。各国各宗派の寺院の尖塔やイラクあたりのジッグラドなども、元はみなこの世界樹である。人類みな兄弟の感がある。これらが現在の世界樹である。魔法使いや仙人の持つ杖、僧侶の持つ錫杖なども世界樹である。彼らもまた遠い過去はシャーマンであったのであろうか。祇園祭の山と鉾もそうであろうか、ビル8階にもなるという高いホコは真柱とか真木と呼ばれている。小一の子は竹の短い棒を拾ってきて、何やら呪文を唱えていた。張りボテの見過ぎかも知れない。 揚松明はそれら以上の古い起源を持つと考えていいだろう。揚松明よりも「上げ燈籠」と呼べば起源に近い呼び名となるだろうか。先端の燃えるところは稲ワラでなく大麻である、仏教以前の起源はまちがいないだろう、人類が最初に栽培したと言われる麻、あるいは初期農耕時代・稲作以前にさかのぼるものかも知れない。同種の行事は揚松明とか柱松、あるいは松上げとか呼ばれるのであるが、このマツは松の木というよりも火を意味した古語のようである。柳田国男はマツは火のことのようだ、と書いている(「妹の力」「火の昔」)。戦時中は松の根っこから松根油というものを取った、オクタン価が高く航空燃料として使ったそうである。若き特攻隊の兵士達は松根油を片道分だけ入れて貰い250キロ爆弾を抱いて飛び立った、そして二度と戻ることはなかった。ほんの60年ほど昔の事である。二度とあってはならない歴史である。今はイラクで若者がこれをやる。本当にテロかどうかはずいぶんと怪しい話である。檜は火の木で松の木も火の木だったのであろうか。 ![]() ![]() ![]() 大麻と言ったってここは茎のところだけを燃やしているので麻薬効果は期待できないと思われる。「大麻取締法」が出来たのは昭和23年であり、古来より大麻は麻薬でも覚醒剤でも何でもなく、この祭り用としておおぴらに栽培されてきたものである、その大麻はどんな種類でどんな経路でこの地に入ったのか興味があるが、私などがこんな事を書くと何か怪しまれるかも知れない。専門家の研究分析を待ちたい。「エアーグリーンの大麻製品」 ![]() 盆の迎火・送火に皆さんの所では何を燃やされるのであろうか。私は今以てそんな事をしたことがないのであるが、私の母は ![]() 裏山の千石山だろうか、この山の聖なる樹を選び、その世界樹を伐って、本来はこの山の頂上で行われたものと想像するのであるが、その世界樹で作られた柱は「聖なる柱」とは意識されてない様子だが、こうした現世と天界・冥界を結ぶ柱はそれ自体が神であり、祖霊であったことは、神様や霊魂、遺骨や高貴なお方などを何柱と数えることで現在にも伝わっている。柱に繩、火や大麻ははるか太古の世界樹の思想やシャーマニズムとつながりがあると思われる。畑井氏によれば、柱も神も朝鮮語ではツルギというそうである。 ![]() このヘビや、その場所をたまたま通りかかった宗坡の娘は本来は神様であり、宇宙山・世界樹が動物の形をとったものであろう、世界樹に人間を生贄に捧げる時代もあったのであろうか、冥界から戻るのは祖霊ではなく、本来は穀霊であった過去があったかも知れない(それならこの祭は豊穣祈願祭となる)。実際に神の化身であるヘビか人間を殺してバラバラにし各地でその断片を食して豊穣神として祀った時代があったのであろうか、神が殺されてまたよみがえる、そんな太古の『金枝篇』の祭、そこまで行かなくてもイヨマンテの篝火になかに引き込まれていきそうな伝説である。あるいは太古は夏至の大篝火で、この日を堺に衰えゆく太陽に生気を吹き込むための行事であったかも知れない。我々のご先祖さまたちが寒くてよく日が照らない土地にいた時代の祭かも知れない。 (最近テレビを見ていたら、「バレンシアの火祭」あるいは「サン・ホセの火祭」と呼ばれるイベントが写っていた、どこの国なのか途中から見ていたのでわからないが、ラテン系のヨーロッパの国であろう、この祭のために一年かけてつくった巨大な人形を何体もえり抜きの美女、まだ中学生かそこらに見えたが、何人か女王様として撰ばれて彼女たちが火をつけて燃やしてしまうのである。これは『金枝篇』の世界だと思ってしまったのであるが、本当は人形でなく人間が燃やされたのであろう。その女王様が燃やされたのであろう。) ![]() ![]() ![]() ![]() 神を殺して、さらにそれを食べなければ生きてはゆけない人間の悲しい宿命。しかしキリがないので、ここらで取りあえず終えよう。もし興味ある方はさらに研究してみて下さい。 こんな事を書いていたら、舞鶴あたりでは婚礼の日に集まった近所の者たちに「嫁さん煎餅」という物がふるまわれることが多い。それを一枚貰ったのである。その煎餅には角隠しを結ったお嫁さんの横顔が描かれていた。こうなると嫁さんと煎餅は等価で、煎餅を喰うことは即ち嫁さんを喰うことになる。嫁さんというのか盛装した若い娘を喰った遠い過去の時代の名残ではないかと煎餅を食しながら考えたのであるが、如何であろう。 遠い過去までさかのぼらなくとも、ほんの少し前までは神の化身としての生きた人間を殺してバラバラにして食したという記録が全世界にあるそうである。今ある人類は皆そんな時代をくぐってきたのである、最初から今のように生活していたわけではない。日本人の祖先だけはそんなことはなかったというはずはない。「蛮人ども」がそうしたらしいが、現代人が彼らを蛮人と呼べるほどに成長しているかどうか厳しく点検してみようではないか。どちらが文字通りの蛮人で、どちらがろくでもない信仰の虜であるかわからなくなってくることであろう。蛮人などと何か現代人様からは理解の出来ない劣った種族のように考えてはなるまい、彼らは現代人の歩んできた遠い過去の生ける化石である。彼らは我らがとうの昔に忘れてしまった我らの遠い過去の姿なのであろう。 ![]() 古代、この森の風景は、繰り返される不思議な悲劇の現場であった。湖の北岸、現在のネミの村が位置する切り立った崖の真下に、ディアナ・ネモレンシスすなわち森のディアナの、聖なる木立と聖所があった。この湖と木立は、ときにアリキアの湖と木立と呼ばれた。だがアリキアの町(現在のラ・リッキア)〔現在の名はアリッチャ Ariccia〕は三マイル離れたアルバノの山の麓にあり、山腹の小さな噴火口のような窪みに横たわる湖からは、険しい勾配によって隔てられていた。この聖なる木立にはある種の木が生えており、その木の周りでは、昼日中、そしておそらくは夜中まで、奇妙な姿がうろついているのが日にされたことだろう。この男は抜き身の剣を手にし、いつ何時敵に襲われるかもしれないといった様子で、用心深くあたりを見回していた。彼は祭司であり殺人者であった。そして彼が探している男は、遅かれ早かれ彼を殺し、彼の代わりに祭司職に就くことだろう。これがこの聖所の捉であった。祭司職を志願する者は、現在の祭司を殺すことによってのみ、その職に就くことができる。そして殺してしまえば彼は、より強く校滑な男に彼自身が殺されるときまで、その職に就いていることができる。イタリアに伝わる古い伝説である。この殺される王は、たぶん世界樹の化身としての資格であろう。 「森の王」はかって、われわれがすでに見てきたように、アリキアの木立で毎年行われた夏至の火祭りにおいて、生死にかかわらず焼かれたのだ、と仮定しさえすればよい。木立で焚かれた永遠の炎には、ロモヴのオークの木の下で焚かれた永遠の炎のように、おそらくは聖なるオーク材がくべられた。したがって、かつて「森の王」が終わりを迎えたのは、オークを燃やした大きな炎の中でのことであったろう。すでに指摘したとおり、後の時代になると、一年という彼の在職期間は延長され、あるいは縮められた。つまり、彼が自らの聖なる権利を、腕力で証明できる限りは生きていて良いという捉によって、延長されることもあれば短縮されることもあった。だがそれは、剣で倒されることにより、炎で焼かれることを免れた、というだけの話である。この辺りは、後に「国歌・君が代」を分析するのに役立ちそうなので、記憶に残しておいて下さい。 ![]() ![]() 吉原のマンドロは左の写真では少し形が見えにくいかもしれないが魚形をしていると説明されている。楕円形をしていてその外側に14個の松明が灯される。右の模型を見てもらいたい ![]() 。これは何をかたちどっているのだろう。古代人に返ってよく見てみればいいだろう。これは太陽ではないのか。 アタゴというのはもともとは丹波の山で、別の側とか異なる側という意味であり、この世とは異界・別界、要するにあの世の山であり、神々と祖霊の集う山であったと思われる。まさに愛宕山自体が宇宙山だったと思われる。この山の山城側麓は 地名から見る限りは本来は火伏などといったものであるはずもない土地柄である。愛宕神社の火には火伏だけではない、こうしたアタゴの葬地の歴史がある程度は無意識のうちにも反映されていると私は想像している。火伏の火こそこうした古い火からの分化・分流ではなかろうか。都が大きくなって都市問題として火災が出てきた、火伏はそうした大都市が形成されてからの話ではなかろうか。 別にここから伝播しなくても同じ山と同じ信仰を持つ土地がたくさんあった。京都人は京都が世界の中心、日本文化の中心と考えているのではなかろうかと思ってしまうような発想をすることがあるように、私はときたま感じているのであるが、そんなことはない。京都京都といってもたかだか1000年そこそこの歴史しかない。たったの1000年では世界の中心ではない。250年で世界の中心と思っている愚か者よりはちとましかも知れない程度の話に過ぎない。 その土地でそれぞれに同じような行事が、京都とは各個独立して行われていただろう。その地に古来より伝わる行事が後に一体何のための行事だったのか村の衆にもわからなくなり、再意義付けや再権威づけのために愛宕山の火伏をひっつけたものではなかろうか。 私の向日市に住む従兄弟はこの愛宕山に千回も登ったといって記念の写真を見せてくれたことがある。私は一度も登ったことがない。 ![]() 『丹波の話』(礒貝勇・昭和31)は、次のようにしている。 今は全く客寄せの観光行事化しているが、京都の大文字も、それを真似た福知山の大文字もともに盆の行事につながる火焚き行事であることに間違いない。中部日本の各地には、山頂などで村共同で火を焚く例は多い。 ![]() 諸国の都では、それぞれ一人の人に、天神を祭らせている。〔この人を〕天君と名付けている。また、蘇塗(そと)を作っている。〔そこには〕大木をたてて、〔その木に〕鈴や鼓をかけている。〔ここにいる人たちは蘇塗の〕鬼神に仕えている。さてその『三国志』「魏志」韓伝には、 〔人々は〕鬼神を信仰していて、各国の都にはそれぞれ一人を立てて天神を祭らせている。この〔人物〕を名づけて天君といっている。また諸国には、それぞれ特別な地域があり、蘇塗(そと)とよばれている。〔そこでは〕大木を立てて、その木に鈴や鼓をかけて、鬼神に仕えている。さまざまな逃亡者がその地域に逃げ込めば、〔逃亡者を〕けっして外部に追い出したりはしない。〔このような風習があるので、この地方の人々は〕しばしば〔秩序に反し〕害になることを行なう。〔馬韓で〕蘇塗を作る意味は、仏教に似たところがあるが、行なっていることの善悪は異なるところがある。この木が世界を産み出している世界樹であろう。そこは神聖な聖域と考えられていて、俗権力は近づけない。どういう事情で逃亡したかは別としてこの聖域にある者は過去の者ではなく新しく再生した新たな者なのであろうか。 |
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大風呂南遺跡(岩滝町)![]() ![]() ![]() ![]() どこかで書いたと思うが岩滝町 与謝郡物部郷に属したと思われ、すぐ東に山田郷、そして多田神社(タタラか)、式内社物部神社、穴石神社(野田川町四辻・穴師だろうか)などもあり、銅鐸も出土している。鬼の住む大江山を水源として北流して橋立内海に注ぐ倉椅川、この鉄の川の流域は与謝郡というか古代丹後の心臓部であり、また最古の時代から現時点のものまで金属文化の中心でもあったと思われる。天下の奇勝・天橋立があるのもこの川が大江山の砂や小石を多量に流してくれたおかけである。倉橋山は古墳も多い。『丹後の宮津』(橋立観光協会・昭33)は、 …このように一地域に古墳を多くみられるところは、わが宮津市には他にないのではなかろうか。この点、市民として大いに注意すべきであり、由良の石浦附近とともに、今後さらに調査研究されねばならない。.須津の江西寺(臨済宗)は元は天台宗だという。 ![]() ![]() |
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![]() ![]() ![]() 大江町南有路の枯木川、蛍の名所だそうで、この川に沿って綾部市へ越す峠がある。丹後・丹波を結ぶ峠で、これを 総工費2854円。…この工事は、明治二十五年.二十六年の二年がかりて、幅二間(三・六メートル)の道一、六八七間(約三、○六七メートル) を開削したものである。峠の頂上では一丈九尺(約六メートル) を切り下げ、北有路側は由良川船着場から宮津街道取付まで整備され、あとは架橋を待つのみとなった。 ![]() 絶えず洪水に脅かされる所で、この写真の場所もすぐにつかるが、近くから縄文・弥生の遺跡も出土している。 ![]() すぐに水につかる所ではあるが、このあたり一帯には、古代の条里制の地割が残るそうである。枯木川の南有路は見つかってないようである、阿良須神社の南側の水田に見られるという。 ![]() ![]() 大江町にはこのような明確な条里地名が残っていないようである。大江町だけでなく、丹後全体にない、地図だけから復元しても地名が残っていないと条里制の遺構とはなかなか皆には認めてもらえないかも知れない。古代条里制地名が一つでも残っていたら決まりだろう。しかしこんな大事業は国家権力によるものであろうとしか私には思えない、土地の豪族クラスには無理だと思う。集権国家と鉄と土木技術が揃わないとできないと思われる。 河守の由良川に建設省が巨大な堤防を建設中である、その一番高い所から見回してみたが、これ位の高さではわからない、坂根正喜氏にヘリからついでに見てもらおうか。国土地理院が最近この辺りの空中写真を試験公開している。これはまた高すぎて100メートルくらいのものの区別がつきにくい。 ![]() 同じ枯木の地名のある岩滝町の男山あたりから日置にかけても条里制が見つかるという。では舞鶴の枯木はどうか。母校・青葉中学校(舞鶴市行永)の北に「桜が坪公園」があり、この辺りは一町間隔の正南北の街路が何本も並ぶ、私は中学生の頃から不思議に思っていたのだが、誰も指摘する者はなかった。地図だけから復元するなら、これは条里制の遺構である。ただここも決め手の地名がない。しかしたぶん間違いなく条里制の遺構であろうと私は考えている。何も都だけに坊条があったのではなく、地方の各地にもあったと思われる、そうでなければ口分田制度が敷けないから、地方には古代がなかったことになってしまう。この古代国家の力のすごさが偲ばれる。丹後国には典型的な条里地名がみられない。丹後国はすべて一ノ坪とか二ノ坪とかよばない別の呼び方をしていたかも知れない。 ![]() 問題はそこへ流れ込む支流である、そしてまたその支流へ流れ込む、孫支流というか、小さな川、それへ流れ込むまたまた小さな川、最期は無数の網の目の幅1メートルにも満たないミゾに到まで20メートルの堤防が必要となるではなかろうか。小川でもあればいいが、不断は川でもない所が突然に川となる。ものすごい水量と勢いで流れる。そんな想定外の所が無数にある。ここにも当然に堤防を。 ![]() 本流よりもこうした川が溢れるし被害は大きい。村中を堤防だらけにして、さらに至る所にものすごい強力なポンプでも据え付けて本流へポンプアップして流せるようにして、あっちにもこっちにも堤防だらけ、ポンプだらけにすれば洪水はあるいは防げるかもわからない。がしかし、こんなことが実際に実現できるのであろうか。 いっそうのこと村全体を20メートル土盛りして高くしたらどうだろう。しかしそれでも洪水は防げない、洪水時の由良川の水量はどこかで溢れないことには納まりがつかない。大江町で溢れなければ、他の場所で溢れるだろう。 上流の福知山の市街地などはこうして洪水を防いでいるのだが、この堤防を由良川流域全部に作ったなら、どうなるのであろうか。一番低い古い堤防が切れるだろうから、福知山あたりで切れることだろう。 堤防を作ると付近住民に説明会が舞鶴の該当地でも行われたという。それで参加した住民達が頭をかしげざるを得ない、みんなで大笑いしたりするのは、川口の上の写真の状態であるという。両側から砂嘴が伸びてきて川口を封鎖している。これでは水が流れん、ケツが糞詰まり状態だのになんぼ堤防を作ってもあかのとちゃうか。ケツは詰まっとる、上流からはどんどんどんどん水が流れてくる、この辺で溢れて当たり前でないか、上はどうしようもないかも知れんが、ケツを開かんと解決せん、これは取るのかと聞くと、これはこのままらしい。管轄が違うのだそうである。全国20位の大河である。どちらも国の管理であろう。どう違うのか知らないがこれは取らない。由良川改修の歴史は中洲や川中島を取って流れをよくするという方向だったと思われるが、この部分をチイとはなんとかするのが効果的でないのかと素人としては考えるのである。 ![]() 枯木川はあれど水銀らしきものがない。弱ったことである。しかしそんなはずはない。探せばあるに違いない。地名に教えられてここまで来たのだから、絶対にある、あるはずだ。かように私の本能は叫ぶ。 ![]() 枯木川の上の写真の辺りにバス停がある(右写真)。「九日」。おお!おもしろい地名が見つかった。こんなことに一人感動しているのだが、九日は現在はココヌカと呼んでいるが、本来はクヒ、さらに本来はクシであろうか。バス停の後の姿いい山がクシフル山であろうか(今は十倉山と呼ぶ)。枯木川はこのバス停とその山の間を流れている。 九日バス停のすぐ近く、それを見下ろすちょっとした高台に ![]() 枯木峠の頂上に枯木延命地蔵があるから、枯木とは崑崙木であり不死樹であるとする伝説があったのであろうか、私の想像を裏付けてくれそうな地蔵様である。倉橋山とかそんな名の山がありそうであるが、よくわからない。倉橋・高橋サンがこの辺りにもある。長橋寺というお寺がある。 峠を越えた向側(何鹿郡側。綾部市西坂)に 九社神社のすぐそばには、「赤目坂集会所」がある。古い住宅地図にはそう書かれていたのだが、今はないようである。赤目坂村が江戸期にはあった。何鹿郡西坂から大江町尾藤に越す峠を赤目坂と呼ぶ。 ![]() 大江町側に戻ってみると 有道ト称ル所以ハ、往昔、天火明命ガ飢テ此地ニ到ッタ時。往ニ随ヘテ、食ヲ求メテ螻蟻ニ連行サレタ所以ニ、穴巣国ニ在ル土神ヲ見タ。天火明神ハ食ヲ請フタ。土神ハ歓喜テ種々盛饌ヲ奉饗シタ。故ニ天火明命ハ土神ヲ賞シ、且、爾後ハ蟻道彦大食持命ヲ以テ称ト為スベシト詔シタ。故ニ蟻道ト曰フ也。亦、蟻巣ト云フ神祠ガ有ル。今、阿良須ト云フハ訛レルナリ。(以下七行虫食) 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食) ![]() 1988年1月発行の『郷土と美術』(91号)に、小牧進三氏が書いている。もうかれこれ20年も以前にすでに分析されていた。この雑誌は廃刊になっていて今入手することは無理と思われる。丹後の図書館ならあるかも知れないが、ほかでは無理であろう。ここにその全文を ![]() そこではすでにここ有路の周辺についても触れられていた。こんな文献があるのなら今更たぶんさして変わらぬ似たような話をここに書いていくのも何か二番煎じの無駄な努力のような気もするが、しかしここも私なりに分析をしてみたい。何か氏とは異なる新たな知見が見つかるやも知れない。 ![]() やはりこの話は何かそれなりにこの地のそうした歴史を元にしていない限り無理な説話である。この話は有る程度は歴史的根拠を反映していると考えるより、理解できないと思われる。 大江町の地名で考えれば、千原の上流の ![]() 大江町は至る所、蟻だらけ、土蜘蛛だらけ、鬼だらけである。大江山の鬼伝説は本来は都の西側の老ノ坂のあたりの大枝山の話であった。それが何故にこの地にやってきたのか、亀岡でもなく、綾部でもなく、福知山でもなく、なにゆえにわざわざこのさして人も通わぬ、加佐郡の僻村でなければならなかったのか、誰も答えがないが、その秘密は大江町の地名が答えてくれそうである。しかしここで触れるのは枯木川の周辺だけである、面白くて引き返すのも惜しいが、何もかも一度には私にはできない。後日またの機会に立ち戻ることにしよう。 ![]() ![]() 式内社の阿良須とは穴巣、あるいは蟻巣であるという。「室尾山観音寺神名帳」には、正三位・ 『大江町誌』は、 (阿良須神社) 町内における唯一の延喜式内社であり、祭神は神吾田津姫命(別名・木花開耶姫)である。付近には古墳跡もあり、境内からは須恵器も出土し、前面の水田には条里制遺構も確認され、古い由緒を裏付けている。この阿良須神社のある有路地区には四つの十倉神社があって、いずれも神吾田津姫を祭神とし、十倉五社と呼んでいる。 十倉神社が何故にこれほど一ケ所にと思われるほどにたくさん集中する地である、二箇矢ノ谷・南有路森安・南有路中矢津・北有路五日市といずれも神吾田津姫命を祀るが、十倉は鉱山とは関係が深いということになる。蟻巣・穴巣社の分社をこう呼んだのであろうか。舞鶴市の十倉もやはりそうであろうか。 クラは磐座のクラで、クリ石と言うが、それは岩のこととされたり、馬の鞍で座る所の意味でもあるが、クラは刳るという語から出て、刳り貫いた所をクラと呼ぶのではなかろうか、従ってクラは穴の事をいうのかも知れない、穴蔵という言葉もある。こんな日本古語発見は私がたぶん最初であろうが、そうすると倉のつく地名は鉱山と関係がありそうだということになる。十倉は戸刳ラで恐らく、坑道の入口に祀られた神ではなかろうか。神を祀るのだから、本来の戸倉とはそうとしか考えようがない。これら現在の鎮座地がその坑口かとなれば、それはたぶんちがうだろう。場所は移動していると思われるが、恐らく付近に坑口があったに違いないと私は想定している。来寿森神社はこれら五社の御母神とも伝わるそうであるが、あるいは刳る巣守神社なのかも知れない。 阿良須神社裏山古墳と呼ぶのだが、この古墳の被葬者がこの社の本来の祭神であろうと思われる。古墳から発達した神社であろう。何かもう日本的な話ではなくなってくる。彼の名は残欠から蟻道彦大食持命、アリジヒコオオウケモチという名である。 ところで蟻道彦によく似た名が多いのが、渡来人系である。天日槍と言われる、都怒我阿羅斯等。任那王とされる阿利斯等。火の葦北国造阿利斯登。アリジはこんな渡来系の人名から出た地名かも知れない。丹後海部氏の救い神・蟻道彦大食持命は、たぶん天日槍のことではなかろうか。そうだとするなら、枯木地名の名付け親は天日槍だろうと思われる。 大江町の南に福知山市、その南が兵庫県氷上郡青垣町であるが、その東芦田に蟻の宮(高座神社)がある。さて蟻通神社には全国的に有名な社が幾つかある。それらをいくつか見ておこう。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 東吉野の小川/ 吉野郡東吉野村小川で,小川とはこの谷を流れる吉野川の一源流の名に因む。高見山への街道すじに生きる鷲家口から南の横谷に入ったところで,川に面して丹生川上神社の中社すなわち旧の蟻通神社がある。社前を過ぎて三尾川を蟻通橋で対岸に渡ると,すぐ右手の山側に摂社の丹生神社が杉の老樹に包まれている。これを本宮(もとみや)と称しているが,この呼称が明かにするように,摂社の方が古い沿革をもつ。その祭神はニウゾヒメであったが,対岸の蟻通神社が丹生川上神社に昇格したときに,その祭神のミズハノメが丹生神社をも侵してしまった。水銀含有0.002%(昭和35年11月5日採取)。 ![]() 蟻道と蟻通では違うではないかとも思われるが、道と通の字はよく同じ意味で通して使われる。現地ではアリツウなどとも呼ぶというが、蟻通は普通はアリトオシと呼んでいるが、本来はアリチかも知れない。その本来の祭神は丹生都比売だという。三尾川というのは二尾川か。大江町の地名から考えれば、納得できそうな話である。 また『山城名勝志』に、紀伊国名勝図会云、高野山の鎮守天野四所明神は、一宮丹生神、二宮高野御子、三宮気比、四宮厳島なり、後の三所は承元中の勧請とぞ、其三宮を官符には蟻通明神とす。とあるそうである(地名辞書)。 気比と蟻通は同じ意味らしくなる。越前一宮、あるいは豊岡市の気比と関係があるのだろうかと考えていた舞鶴市岡田由里の気比神社などが面白くなってきた。 小牧氏が取り上げる穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、元は巻向山にあったという、社名から見て鉄の神社以外ではない。中世には穴瀬明神・穴世神・穴晴神とも記されたという。戒重(のち芝村)藩に残る記録に、当社は「蟻通明神」と誤り伝えていたこと、京都の吉田家に願出て、当社が穴師明神で三輪と一体の神であり、大己貴神を祀ったものとする縁起をもらいうけたことを記す。そうである。(奈良県の地名)。 ![]() 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野の ![]() ![]() ![]() 『遠敷郡誌』(大11)は、蟻通神社 同村龍前字中西にあり、祭神不詳。.としている。 ![]() ウカや血原という地名と水銀が関係ありそうなことは『丹生の研究』が述べている。 血 原 の 伝 説 ![]() ![]() ウカと金属が関係あるなら、ウケも同じであろうか。カとケはよく通音で用いられる。丹後の竹野郡、最近消滅したが、タケノグンと読んでいた、本来はタカノ(タカヌ)である。現在も海沿いの竹野集落はタカノと呼ぶし、竹野神社もタカノ神社である。開化妃の竹野媛の古里である。、竹野遺跡もタカノ遺跡と読む。ここのカやケもたぶん金属を意味するのであろう。その他を簡単に見ておこう。 ![]() ![]() ![]() ![]() 現在はセンバラと呼んでいるが、本来はチハラであり、それは血原、血のように赤い原の意味である。河守の対岸になり、有路のひとつ川上に位置する、広い川原のある所である。少し前まではずいぶんと恐ろしげな道路であったが、今はよくなっている。現在この地を見ても、どこが血原なのかさっぱりわからない。何も赤くはない。 しかしかつては赤かったのであろうか。 しかし尾藤はたぶん人の姓ではなかろうか。南側に陣取山という山があるが、その山城の大将が尾藤某なのではなかろうか。そう思って岡野允『丹後の山城』を開いてみると、尾藤城に、「城主は長野市正、四百石とも五百石とも記し、姓も尾藤との説もある」としている。たぶんそれに違いないと思う、尾藤はたぶん尾張の藤原でなかろうか。中世史は詳しくないので、これくらいしか書きようがない。 チハラは加佐郡式内大社の大川神社の鎮座地(舞鶴市大川)が千原であった。『岡田下村誌』は、 大川は、顕宗天皇以前は千原村と唱へていたが、大川神社鎮座せられてより大川村と改称したものと伝えられている。それも当然かも知れない。ここは碇山の麓である。この山のすぐ麓で問うても、この山の名を知らない。さあ知らんナ、そうかも知れんナ、このあたりの地名は碇山というナ。この麓にガソリンスタンドがあって碇石油という、オーナーが碇サンなのでそうなのか、この地の名を取ったのかわからない。出光石油だったと思うが、これもイカリだろう。 舞鶴市の阿良須神社の鎮座地(小倉)にも、千原がある。『加佐郡誌』は、 小倉には小倉木王の領であったから王を慕ふて小倉と称したとのことである。小字に血原と称する所がある。崇神天皇の十年青葉の賊を此処に追ひ詰めて射殺した時、血の流れたのを以て後血原といふと伝へられている。『古代の鉄と神々』は、 大阪府南河内郡千早赤阪村の千早は血原である。辰砂を含み、鉄も豊富…忠臣・楠木正成もやはり蟻か土蜘蛛か鬼であったか。そうでもなければあんなには強くなかったかも知れない。忠臣と呼ばれたり、鬼であったり、土蜘蛛と呼ばれたり、まあ好き勝手に呼ばれるようである。波美も気になるが、これもキリがない、頭が痛くなってきたので、ここらで切り上げて先に進もう。 ![]() |
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![]() この島の頂上には 浮島は現在は溝尻であるが、元々は泉源寺村に属していた。泉源寺村は志楽川の河口部に位置していた湊であったと思われる、元は波多村という。中世の中心地の市場は枝村である。恐らく志楽の地名はこの泉源寺村と思われる。慶長郷村帳に端村として志楽の名がある。現在も志楽畑という小字がある。たぶん本来の地の志楽は現在の市場のあたりではなかろうかと思う。古代は枯木里が中心であったが、その後は志楽市場が中心となっていく。 そこで祀られた神社であろうかと思われる。 ![]() ![]() |
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![]() 大浦半島の下佐波賀にある「浮島丸殉難の碑」から、 ![]() ここを航行中の海軍の輸送艦・浮島丸(4730トン)が突然に爆発沈没し、乗船していた朝鮮からの労働者(強制連行も含む)とその家族ら500余名(政府発表)が死亡した事件であった。 波穏やかな枯木浦では信じられないような戦後日本の海難史上二番目に大きな犠牲者を出したのであった。 こんな大変な数の犠牲者を出したにもかかわらず、きちっとした爆発原因や犠牲者数の調査は行われていないし、そのとき一行も報道されなかったので、舞鶴市民の間ですらよくその真相は知られてはいない。誰に問うても「さあ、よく知りません」と返事される。 ![]() 世界最高の技術を誇るという現在の掃海艇の乗組員も、掃海といっても何も100%掃海できるものでもない、もし生きた機雷が残っていても不思議ではないという。『両丹地方史』(96.4)に、 日本の近海は、日本とアメリカ両国が敷設した機雷の海でした。掃海した安全な航路を示す海図もなく、釜山航路ははじめての航路でした。 ![]() あほらしい話である。日本政府役人は神様かあるいはペテン師か。はじめから信用する気持ちにはなれないが、そんな驚くような責任逃れと保身と思われて仕方のないような空疎な一般説と、また一方、機雷の海を渡って朝鮮へ行くのが嫌だし、向こうでどんな目に遭うやら不安で、乗組員が自爆させたのだという、驚くような証言と物的証拠を持つ説もある。 (尼ヶ崎事故のJR西の首脳部のようなものである。まだ事故原因も調査されず、それどころか電車の中には死傷者が数も確認できないほどに多数が閉じこめられているにもかかわらず、さっそく置き石写真や運転手の資質を持ちだした。私どもには関係ありませんよ、悪いのはよその人でしょう、証拠はこれです、私どもこそ被害者ですよ。他国の人のことだといいかげんに考えていると、こんなこととなって復讐される。何も終わってしまった事故ではない。きびしく追求し続けなければならない。 もっとも彼らだけの責任でもないだろう、民営化の当然の行き着く帰結であろう。私は無関係ですよといった涼しげな顔をしているが、政府の安全無視した監督責任は少なくともある。又、安全無視は現代の社会現象になっている。安全よりも儲けが優先される。ゼニ・ゼニと惚け、時間・時間と惚けている。それが世界で一番大事な値打ちあるもののように。「安全第一」といった標語がどこの事業所にも掲げてあったものだが、今では見ることがなくなった。 ![]() さらに「合理化」で、人員が事業所に正常に確保されていない、どこの事業所でも似たようなところが見られるが、私ども定年間近の世代は多いがその下の世代がいないのである。その下はぐっと若くなる。将来を見ない人員削減の悪い回りがきている、私どもの世代は警鐘を鳴らしてきた、無理な削減をするなと、15年ほど以前には事業所は違っても同世代が集まるとこの話であった。さておかげで今は肝心の大黒柱の世代がいないこととなった。アホの資本主義的「合理化」である。インビュジュアル・ハンドが全能であるはずがない。人間の叡智でカバーすべき所なのだが、ゼニしか眼中にないアホ資本にそれはわからない。安上がりが本当にいいのなら、何故に自衛隊を民営化しないのか、警察も民営化すべきではないか。宮内庁や外務省などは一番に民営化すべきものであろう。安ければいいといったものではないのだ。要するに遊んで暮らせる大金持ちどもの安全は税金で守るが、ナンボきばってもアカンわいと嘆く社会の下っ端の安全安心は、どんどうと切り捨てようというのが政府の考え方・やり方である。経験のない若い世代がいきなり大きな責任ある仕事を任されることになる。たった11ヶ月の訓練で秒単位の運転をしているのは何もJRだけではない。何でこんな運転手に…と、あるいは思われたかも知れないが、高い賃金を出さねばならない経験豊かな人はいない、安給料の彼しか人がいないのである。経済界の責任である。 そんなことで社会の共同責任も大きい。そうした社会の代表選手である彼らJR首脳だけに反省させても問題は決して解決できない。もっと根深い社会的下地があろう。JRは変わるのか。社会は変わるのか。事故のない安全な社会にするためには何が求めらているのであろうか。) ![]() ![]() ![]() では、浮島丸の場合はどうであったか。『浮島丸 釜山港へ向かわず』(金賛汀・かもがわ出版・1994)は、 …大湊市内では市民たちの間に、浮島丸について奇妙な噂が流れていた。こんなウワサは、当の朝鮮人たちさえ一笑に付して取り合わなかったとあるが、しかし一般に「ウワサはホンマやで」とも言われる。 実際に事前の謀略のウワサの通りに事件が発生したならば、まずここを疑うのが解明の本筋ではなかろうか。触雷説はその次であろうかと思う。そうでなければ、「そんな事はするはずがないで」の人のいい身びいきの日本人の多くは認めても、被害者は黙ってはいまい。何は置いてもまずは早急に国際調査チームをいくつかつくるべきだろう。 戦争は要するに一種の気違状態ですな、ワシらもそうやったです。気違いですらな、何をやるやらわかりまへんで、と体験者は言う。平常の神経ではない。平常な人には自爆などは考えられなくとも洗ってみなければなるまい。500余名もの命が失われた悲劇であった。二度と繰り返すまいの固い反省と決意、強い信念と責任感なしに、爆沈の原因を探っても、どこぞの鉄道会社の「空疎な反省文」のようなものとなろう。そんなことならやってみても、何の意味もないのである。やる気もないような者や、何も困らないヨソ者が「検討委員会」を立てて、地域の活性化とか再建するとか言っているような話である。 ![]() ![]() 八月二十二日大湊出港と同時に、この船が無事朝鮮につくか否かわからないと言い出しました。その話は、日本人将校や水兵は殺され船は没収されるだろうとまことしやかに話されていたのです。船では幹部船員による秘密会議が持たれ、船内には重々しい空気が充ちていました。そして乗船者に配給されるために船に積みこんであった毛布や衣類などの必要物質を、海中に投棄したのを目撃した人々が不思議なことをするものだと語っていました。 やがて船が舞鶴に近づく頃、朝鮮人憲兵の白氏は、同船底に爆発物が仕掛けられ電線がつないであるのを知って驚き、湾に入るや船から海にとびこんで逃げ出しました。これを追跡する三人の水兵の手をのがれて、朝鮮同胞の家にかくれて助かったということです。 以上の話は、一九五四年の四月十三日われわれが第一回の浮島丸殉難者追悼慰霊祭を挙行するにあたり、現地調査を朝鮮人解放救援会の諸君とした折りに、老人達の記憶から引き出したものです。また、ジャーナリスト金哲秀氏の記事もある。テキストは朝鮮語、新聞労連が翻訳したようである。 記者は、西舞鶴の大森海岸通りに居住する○○○(当年六十四歳)同胞を訪ねた。この老婆は、浮島丸爆破を体験した生き証人である。証人は実名で書かれているが、ここでは伏せておいた。 ![]() ![]() この水路は舞鶴軍港の心臓部へ続く最重要な喉元であり、ここに機雷があっては軍港は機能しない、死んだも同然となる、掃海部隊が懸命になって作業を終えていたはずの水域である。 もっとも相手は掃海を逃れる仕掛けだらけの機械であるし、故障や誤動作が絶対にないとはいえない、そうした非常に希な生き残りがあったか、機械的な米機雷の故障でもないかぎりは、ここには機雷はなかったとも言われる。 船体を引き上げた時に傷跡を見れば素人でもわかりそうなものだが、そんなことすら調査されていない。国は一人の検査官も専門家も送ってこなかった。先の『両丹地方史』の同じ記事に、 一九五四年(昭二九)浮島丸前半部を引き揚げた際、遺骨の収集を取材した国際新聞(大阪市)の記事に、爆破口が外側に鉄板が曲がっていたという記事と写真が掲載されており、自爆説の有力な根拠になっています。 ![]() ![]() ![]() 左下は『浮島丸釜山港へ向かわず』(金賛汀、かもがわ出版1994)のもの。「1954年2月まで沈んでいた浮島丸」とある。 巨大な超時代もののレーダーと三連装機銃、マストが海面から姿をみせている。ご覧のごとく何もそれほど深い海ではない、このあたりは水深20メートルもない。重要なことを書き落としているようであるが、この船の中には遺体がそのままになっている。何百の遺体が船と共に沈んでいる。すぐに引き上げるという気さえあればいつでも引き上げられたであろう。 ![]() ![]() この時(1950.3.13)の引き上げの目的は船のエンジンがまだ使えるかどうかを確認するためのものであった。浮島丸は1937年の建造で10年も経てない新鋭船であった、エンジンは日本製ディーゼルで当時としては優秀で効率がよかったそうである。このまま錆びさせておくのはもったいない。引き上げてもう一度リサイクルできないだろうか。 結果は破壊がひどく使い物にならないことがわかり、引き上げは中止された。触雷ならエンジンまでも破壊されることはないという。船体のリサイクルであってもとよりそのような高尚なというか当前の遺体を引き上げるというような目的はなかった。 ![]() 昭和28年にスクラップとして船全体が引き上げられた。もっともこの時も遺体を収容するためではない。スクラップにして金儲けするためである。28年といえば私が小学校に入学した年であるが、その当時の日本人どもは朝鮮人は人間と思ってはいないのである。もしかして今も思ってはいないかも知れない、中国人も朝鮮人も人間ではない、日本人だけが人間なのだ、金持ちの日本人だけが人間なのだ、何をぬかすか…、とはさすが言わないが、そういったも同然の「妄言」がよく日本の政治家たちから飛び出す。いうだけならまだしも行動に出る、閣僚の靖国参拝、教科書などもそのよき例であろう。石を投げられても当然のようなことである。こんな政府だから東アジア外交は四面楚歌・八方ふさがり、常任理事国入りも夢と消えた、そんなものに入って何ができるというのだ。そのうちに自国民からも投げられよう。 遺骨収容に当たった日本人は4名だけであったという、知らぬ顔をして突っ立っている日本人作業員や援護局役人どもの間を70名ほどの舞鶴や京都に住む朝鮮人がかけつけて一体一体収容していったという。 ![]() ![]() 上の引揚船・興安丸は拡大して見ると引揚者で一杯である。この中に彼らの父の姿はあったであろうか。どうかあってもらいたいと願うが、どうであったかはわからない。 この写真は200ミリくらいの望遠で撮影している。対岸が写っているが、そこが平の引揚港の入口になっている、引揚船は毎回この親子が見つめる水面に停泊したであろう。 写真からはでるがもう少し左側にはこの時点ではまだ沈んでいた浮島丸があった。その浮島丸には、この時もかの国の父たちが沈んだままであった。かの国でも帰らぬ父を待つ同じ岩壁の母や妻や子の姿があったことであろう。 一体いつになったら引き上げるのだろうと、佐波賀あたりの住民達はおもっていた。日本政府は人間の条件は言うまでもなく、舞鶴の岩壁の石の条件すらも満たしてはいない。 全世界に誇れる日本人の立派な歴史がここにはある。もう日本人をやめたいくらいだが、そんなわけにもいかない。私はここに写っている子供よりも更に年下であろうが、そんな戦後生まれにも戦争責任はある。その大きな負の遺産もしっかり背負っていかねばならない。これからの日本人は戦争世代と超借金世代のツケをしっかりと支払わなければならない。戦争犠牲者数はアジア太平洋地域でだいたい2000万人といわれているし、借金の額はまもなく1000兆円にもなるだろう。誠にアホらしい話であろう、私などは一人も殺していないし、高額の賃金をもらっているわけでもないが、そろそろ退役である、こんな物を残したままというのは何とも心苦しい。このごろの若い者はなどと偉そうにいう気にはなれない。これからの日本人はどうすれば、石を投げられずに国際社会で生きていけるのだろうか。借金に押しつぶされずに未来を開くのだろうか。 あまりに天文学的な数字のために、さらにその殺戮内容があまりにめちゃくちゃにすぎるために内容がこれを信じない人も多い。いやもっと少ないだろう、いやもっともっと少ないはずや。それは日本国内にいたってわかる訳がない。殺害の現地へ行って見てくればいいだろう。日本にいて日本国内だけを見ていれば、国内にもある浮島丸などは全部無視していれば、何か日本人は被害者のような錯覚にとらわれるかも知れない。 ![]() ![]() 一方大テレビ局は、これは中国の教科書が悪い、中国政府が悪い、インターネットが悪いといいだげな口調であった。中国では罪もない人々をおそらく1000万人、東京都の人口くらいは殺したでしょう、こんな恨みが簡単に消えるわけがありません、西ドイツなどがどれほどそうした負の遺産の克服のため努力を積み重ねてきたか、これまでの日本政府の対応と比べてみましょうなどという正気のテレビはない。 石を投げてはいけませんと、猿でも知っているようなことで、お説教しているつもりの大新聞社。くだらない、誠につまらない、数万のデモ隊の全員が石を投げたか、石を投げるような者はデモ隊とは関係がない者かも知れない、どちらにしてもごく一部のはねかえり者である、こんな者はどこにでもいるがさほど問題ではない。テレビもゼニもうけなので、こんなところばかりを写すが、石を投げなかった数万のデモ隊にこそ目を注がねばならないだろう。どこの国の新聞社なのだ。そんな事を書いてるヒマがあれば、なぜそんな分かり切った道理も通らなくなりつつあるかも知れないその原因を探れ、現地へ取材班を送れ。 外務大臣さん、何枚割られたか知らないが、損害賠償などと子供のようなことは言ってはならない。過去に我国が中国で何枚のガラスを割ったか御存知か、そして賠償したかどうかをご存知か。歴史認識の頼りなさが、すぐに現れる。つまらぬ者がおりましてご迷惑をおかけ申した、今回のガラス代は弁償いたしましょう。過去60年以前に我国のガラスも割られました、我国も大変な時期でしたが、あなたのお国も当時は大変でした、隣国のよしみ賠償まではいいませんでしたが、たいへん豊におなりになったようです、そこまでおっしゃるのなら、それは当然に弁償していただける用意をお持ちでしょう。まさか立派な貴国が過去をお忘れではありますまい。我が政府が調査できた範囲のこれは非常に少なめの額なのですが…、大人と子供の差が感じられるて、これ以上を書くのは恥ずかしい、やめよう。 現在の日本人には大昔の中国人や朝鮮人に対する根拠のない差別意識が残っている、こんなものは早く克服しないと大変だと思う。私より少し年上になると、私にも信じられないほどに差別感情を持っている。何も中国・朝鮮ばかりではない、南の国々の人たちを土人と呼んでいる。どれほどに日本人が立派だというのだろう。政治屋さんばかりが駄目なのではないようである。アメリカ人やヨーロッパの西側の人たちだけを人間だと思っている。自分がどこに住んでいるのかもわかってはいないようである。人間でないのはどちらであろうか。我々を一番よく知っている隣国の叫びに耳を謙虚に傾けないと自分自身が駄目になろう。 これは好意にとれば加害者意識・加害責任感の裏返った反応なのかも知れない。政治屋さんたちの裏返った加害者コンプレックスが靖国参拝なら、国民のそれが差別意識を温存させているのかも知れない。しっかりと過去が認識できるためには、子供は卒業して大人の精神の強さが必要のようであるが、甘やかされた人間にはそれができない。 ![]() ![]() ![]() ![]() こうした事件は氷山のごく一角でしかない。実際にはもっともっとある。さて逆に強制連行、現在の言葉でいえば拉致被害者の少なくとも500余の日本人が、仮にその国でこうした事件の巻き込まれ死亡したと考えてみよう。そこの政府、どう言い逃れをしようとまちがいなく拉致の張本人である政府、その政府がこんな、ロクに調べもしない態度をとったとしたら、皆さんならその国はどんな国と判断されるだろうか。経済制裁くらいはされるのでなかろうか。 しかしこんな制裁はやめよう、効果がないであろう、肝心の問題は何も解決しないであろうし、貧しい国への経済制裁は悪質な戦争と同じである、人を殺すことである。飢死するのは何の関係もない子供や年寄りであろう、罪もない子供たちを餓死させる権利は私たちにはない。経済制裁をするくらいなら戦争をしなさいと、私はいいたい、宣戦布告するに値する理由なしには軽々しく経済制裁すべきものではない。 ![]() 経済は持ちつ持たれつの関係である。一方的にどちらかが制裁されるというものでもない、制裁をかけた方にも同じ大きさの制裁は及ぶ、どちらが制裁されているのかわからなくもなる。戦争と同じで双方の大損になる超愚かな行為である。 ![]() 保険には加入しない、高い物に加入していては割に合わないらしい。トラック満杯の自転車の山がもう見られないかと思うと寂しいな。もうあの船員たちと合うこともないな。子供好きでね、孫を連れて散歩していると船から手を振っていた。今度は中国へ行くと言っていた。彼らは痛くもかゆくもない。カニを喰うのは日本人だけではないから。損をするのは日本の中小企業だけだ。腐ったテレビがヘンなことばかり言うから。と ![]() ABCDだったかそうした経済包囲網を敷かれて当時の日本がどんなにヤケクソな態度をとったかを思い起こしてみよう。「経済封鎖され、うまくハメられて、帝国はやむにやまれず正義の正当な戦争を始めた。悪いのはルーズベルトだ」と主張する論者は今でも後を絶たない。どこかの国はそのようには考えないと、自らの行動に照らして考えてみてはどうか。 日本国憲法を改「正」して、自主憲法にしたいという。その案を見てみれば、どこかの国とそっくりではないか。と ![]() ![]() 靖国参拝や軍拡、憲法改正にとうとう先制攻撃論までも飛び出す日本の支配者どもではあるが、何も全ての日本人がそう馬鹿なことを考えているわけではない。同じようにかの国とてすべての人々が時の支配者のやり方に賛成しているわけではなかろう。表向きは賛成のフリはしてるいるかも知れないが、そうミソクソを一緒くたにしてはなるまい。まして日本国内の北朝鮮人の学校へ通う生徒までリンチが及ぶといわれるがそこまで行くともう犯罪である。自分の勝手な信念だけで行動するのではなく、お互いに隣国の事情もよく考えようではないか。何の利益ももたらさないであろう。 いよいよ朝鮮と戦争ですよ。口先ばかりのアホどもは正気ですかね。どんな武器で先制攻撃するんでしょう。そんな武器があるのですかね、私は興味があるんですよ、きっと自衛隊に竹槍持たせるんでしょうね。竹槍で先制攻撃。たぶん戦史上はじめてのことでしょう。どうしますか。と問うてみると。ワシはな、家の庭に穴を掘って、一年分の食糧なんかを持って、そこへ逃げる。それでアカンかな。なにせ核が相手だ。一年分ではアカンやろうかな。ということであった。 ![]() また次のような伝説も残る。 ![]() ![]() |
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![]() 角川日本地名大辞典は、 ![]() 戸島(舞鶴市) ![]() ![]() |
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![]() 天橋立は別名が多くあり白糸浜とも呼ばれるが、これは美称的な呼び名であろうかと思う。舞鶴の白糸浜は白糸という小地名があり、実体があってそう呼ばれるのである。 ![]() 右の写真はその白糸に架かる橋「白糸橋」である。国道27号線を西から東へ写している。陸橋の向側に白糸橋があるのだが、よく見えない。左の写真は川の上手から写しているが小さなトラックが走っているのが白糸橋である。東舞鶴市街地の入り口、寺川にこの橋が架かっている、この辺りを白糸と呼ぶ。白糸中学校や白糸浜神社が名を伝えるが、それらが現在ある場所が白糸なのではない。 ![]() 現在の東舞鶴市街地は行政地名としては「浜」である。江戸期の浜村で、ずいぶんと広い地域であるが、この浜はフルネームで呼べば白糸浜であろう、もっと正確に言えば志楽糸浜であろうか。(写真の道をこのまま行くとすぐに与保呂川に架かる万代橋に達する、この辺りを万代浜とも呼んだそうであるが、それはたぶんかなり後世の美称的な呼び名であって歴史的地名ではなかろう) ![]() 舞鶴市役所のある所は その谷の東側の飛び地のようにあるのが白糸である。この辺り江戸末期から明治にかけて素麺の生産が盛んであった、従って白糸とはその素麺のことだと、地元の史家達はおっしゃる。私はとても信じる気持ちにはなれない。 糸は倭人伝の ![]() ![]() ![]() |
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![]() ![]() ![]() ![]() 師楽遺跡 〈牛窓町〉『続日本紀』の巻15の天平15年(743)5月28日条に、面白い記事がある。 備前国言さく、「邑久郡新羅邑久浦に大魚五十二隻漂着す。長さ二丈三尺已下一丈二尺已上なり。皮薄きこと紙の如く、眼は米粒に似たり。声鹿の鳴くが如し。故老皆云はく、゛「嘗て聞かず」といふ」とまうす。一丈は10尺で3.3メートルくらいである。クジラかイルカの類であろうか。邑久郡の新羅の邑久浦は錦海湾のことであり、新羅の遺称が設楽であるとされている。 こんな事で舞鶴の志楽も新羅なのかも知れないことになる。新羅と志楽は違うだろうと思われる向きもあろうかと思うが、たとえば、新羅の隣国の加耶は、カヤ(伽耶)、はカラ(加羅・伽羅・迦羅)、カラク(駕洛・伽落)などと出典・時代・地方によってさまざまな呼称や表記がみられるわけで、 ![]() ![]() ![]() 『丹後風土記残欠』は、 志楽郷 本字領知少彦名と大穴持はさらに東の越の国へ去ってしまう、去ったのか追放されたのかわからないが、ともかく此の地は海部氏の祖・火明命が領知することになったようである。大穴持命・少彦名命と火明命の関係を示した注目すべき記事であろう。播磨風土記に、大汝命の御子を火明命とする所伝があり、偽作だ、混乱だではすませそうにもない記事である。とにかく志楽は海部氏の領知する土地となった。 『舞鶴市史』は、 志楽郷私メのたぶん未発表の原稿に、この反論がある。もう5年以上以前のものだが、そのまま引用しておく。 キャ太郎「志楽とは桔梗だそうです、新説ですね。」 ![]() 火美子「すぐに誤写と判断するのはよくないと思うけど、『和名抄』は他でも久とすべきところを之としている、訓注はいつの時代のものかわからないけど、志楽はシラシとは読めない、ここも誤写の可能性は高い。『平凡』は勝手に之良久と読み変えてる。 桔梗は紫か白かの花が咲いて、根がお薬になるわ、何の薬かは知らないけど。たぶんのど飴に入っていたと思うけど。 桔梗の意味かしら。ここはそんなことにはならない。」 キャ太郎「広辞苑によりますと、桔梗の根は、去痰・鎮咳薬だそうです。桔梗の古名は、オカトトキ、キチコウです。平凡社の世界大百科辞典なども、万葉集に詠まれる秋の七草のアサガオが桔梗だとする説があるとしてますが、僕が調べた範囲には、現在の辞典類には、桔梗に白薬なんて古名や異名を記したものはありません。 牧野富太郎『植物知識』(学術文庫版)がずいぶん詳しいですが、《キキョウは漢名、すなわち中国名である桔梗の音読で、これが今日わが邦での通名となっている。昔はこれをアリノヒフキと称えたが、この名ははやくに廃れて今はいわない。また古くは桔梗をオカトトキといったが、これもはやく廃語となった。このオカトトキのオカは岡で、その生えている場所を示し、トトキは朝鮮語でその草を示している。このトトキの語が、今日なお日本の農民に残って、ツリガネソウ一名ツリガネニンジン、すなわちいわゆる沙参をそういっている。 右のオカトトキを昔はアサガオと呼んだとみえて、それが僧昌住の著したわが邦最古の辞書である『新撰字鏡』に載っている。ゆえにこれを根拠として、山上憶良の詠んだ万葉集の秋の七草の中のアサガオは、桔梗だといわれている。今人家に栽培いている蔓草のアサガオは、ずっと後に牽牛子として中国から来たもので、秋の七草中のアサガオではけっしてないことを知っていなければならない。…》 『万葉集』巻八、山上臣憶良の秋野の花を詠む歌二首に、秋の野に咲きたる花を指折りてかき数ふれば七種の花(1538) 萩の花尾花葛花なでしこの花 女郎花また藤袴朝顔の花(1539) この朝顔については、岩波文庫版(伊藤博校注)は、《いかなる花か未詳。桔梗か。》としてます。 川口氏の「萬葉集植物帖」(十二)は、《朝顔は諸説の別れるところであるが、桔梗説が強力である》としてはります。 貧窮問答歌など、憶良という人は今で言う社会正義派ですね。誰もとりあげないテーマをただ一人で詠んでます、『万葉集』が光るのは、だいぶにこの人のお陰です。現代でもこんなテーマが詠める人はめったにない。花だ夢だと歌ってる時かと誰か言ってましたが、でもわかっていてもこんな歌はなかなか歌えない。 憶良なんていう名ですから、この人も間違いなく百済系渡来人でしょう。」 憶良四才のとき渡来したとされている。 キャ太郎「江戸時代の『和漢三才図絵)『和漢三才図絵』。寺島良安の著。正徳二年。1712。図説百科辞典百五巻。』の、桔梗の項に、白薬、梗草、薺?。和名は阿里乃比布木。とあります。 白薬にはルビが振ってありませんが、これはハクヤクと読むのでないですか。漢方薬の本草学上の異名を列挙してるらしき中にあり、和名は別に書いているのですから、まずこれはシラクスとは読まないと、僕は判断します。 志楽=白薬=桔梗説の市史が典拠としているものを明らかにしていませんが、あるいはこれかもわかりません。もしそうなら仮にこれをシラクスと読んだとしても、それをそれよりも千年以上さかのぼる昔の地名に当てはめるのは無理でないでしょうか。 『出雲風土記』神門郡・飯石郡・大原郡条の草木、これは薬草に用いられたものを挙げているようですが、そこに「桔梗」が挙げられてます。これに岩波古典文学大系本などはすべてアリノヒフキとルビを振っています。風土記自体には訓注がありませんから、本当は何と呼んだか明確でありませんが、大系本など学問的権威のある本はみなそう読んでいます。 また木簡の白薬里とは音借表記であって、土地の呼び名に無理に漢字を当てただけの当字ですから、本来表記された漢字には意味がないものでしょう。舞鶴シラクは現に志楽、設楽、白楽、白久と表記する文献が残ります。 白薬と書いてあっても、その漢字の意味を取ってはならない。万葉仮名として読まなければならない。これは地名学の常識です。 『丹後国加佐郡寺社町在旧記』は、志楽を白楽の谷とか、白楽の庄と書いています。 木簡の白薬里は白楽里の書き誤りでないのか、はたしてシラクスノサトと読むのか、今ともなれば誰にも正確にはわからないことです。角川はシラクリと読んでます。 それから面白いですが、福井県史が、平城京出土木簡に、□敷郡青郷川辺里とあるので、若狭国青郷が東大浦地区に深く入り込んでいたとしているが、地勢を度外視した丹後・若狭両国境界の推測は如何なるものか、「若狭国惣田数帳」(1265)記載の青郷田井浦を、現在の舞鶴市田井とするのもどうか、としてます。 ずいぶん愛郷心のあるがんばる人ですね。」 火美子「自分の故郷を少しでも大きく立派に考えたいのかもわからない、そのホットなハートは愛すべきものだと思うけど、強過ぎると対象に対する正確な判断を誤るかもわからない。 本当は郷土史というものは、その郷土に生まれ育った人でなくて、できるだけ誰か遠くのクールに考えることのできる人に頼むのがいいのかもわからない。 川辺とか田井などはどこにもある地名だから、それがただちに現在の舞鶴に含まれる地名なのかどうかはわからないけど、でもその可能性は高い、高浜にはそんな地名はない。違うと言うのなら、川辺里・田井浦が高浜の何処だといわなければならない。 境界線が現在と千年以上も以前も同じだとはいえない。 山や谷が複雑に入り組んだ所で、地勢なんてこと言っても、ほとんど主観的なもので、古代を考える客観的根拠にならない。地勢論なんて、そんなものをもちだすのは侵略主義者たちの侵略のための、苦しまぎれの時代遅れのエセ論理くらいのものでしょう。」 キャ太郎「田井や河辺より西の蛇島には高浜城主の逸見駿河守の城がありました。」 ![]() ![]() 今村鞆氏の「朝鮮の国名に因める名詞考』によると、「尚、『和名抄』の武蔵国 ![]() 私はまずそのような「吉備王国」の周辺部となっている、「 氏が牛窓町長からもらったという、『牛窓風土物語』、貰っておきながらこういうのもナニながら、一見したところ皇国史観のかたまりであったそうなのだが、 その「師楽」の項をみるとこうなって、からおもしろい。 ![]() ![]() |
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![]() 私はそれだから、中世の市場の地こそが古代の志楽だろうと推定するわけである。もとよりそれを証明する書はないが、この神社名が証拠になるかも知れない。本来の祭神は新羅の神様か天日槍あるいは秦氏の祖であったであろう。 市場は地名の通りに東舞鶴のかつての経済の中心地であった。明治になり舞鶴鎮守府ができ軍港都市建設で市場の西側の浜村が整備されて、こちらに中心は移った。明治30年代くらいまでは、いろいろな商店が軒を並べ一応は揃っていたのはここの市場だけで、中舞鶴以東の村々の人たちはここで物を買った。 ![]() 舞鶴市は大きな町であった、現在では舞鶴といっても通用しない、ああ大分県でしたか、などと云われる。しかし戦争たけなわ時には人口15万以上にふくれあがり、その時点では人口においては日本海側第二の都市となっていた。(当時の人口の確かな統計はない) 『神社調査書』に、 (市場八幡神社) 一、神社所在地 京都府加佐郡新舞鶴町大字市場小字市場鎮座 ![]() ![]() 嘉永五年(嘉永1852)に『田辺旧記』を著す田辺竹屋町の重鎮・逸見与市左衛門久堅は逸見駿河守の裔という。 ![]() |
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![]() 亦の名は天御蔭命、亦の名は天御蔭志楽別命、母は伊加里姫命なり。神日本磐余彦天皇の御宇に参赴て、祖神より伝来りし天津瑞の神宝(息津鏡・辺津鏡是なり)を献じ、以て仕え奉る。(弥加宜社、祭神天御蔭命は丹波道主王の祭り給う所なり)此の命、大和国に遷坐の時、白雲別神の女豊水富命を娶り、笠水彦命を生む。(笠水は宇介美都と訓めり).(原漢文)さて大変な所に来てしまった。まず鏡から始めてみようかと思う。 ![]() 鏡の記事は勘注系図の巻首にもあるが、ここでもう一度でてくる。息津鏡は直径175ミリ、内行花文長宜子孫鏡で後漢時代のもの、辺津鏡は直径95ミリ、内行花文昭明鏡で前漢時代のものである。当主の代替わりごとに口伝ををもって厳重に伝世されてきたものという。この時代の鏡は墳墓の副葬品として土の中から見つかることはあるが、伝世したものはないといわれる。昭和62年に公表されて、国宝となっている。 始祖火明命が弓矢を副えて天祖から授かったものであると巻首にはある。これらの鏡については、他の古文書の類にはいっさい記載がなく、籠神社当主くらいしか知らなかった鏡であろうと思われる。従って秘蔵の鏡についての記事がある勘注系図を偽書とするわけにも、その勘注系図に引用される『丹後風土記』残欠を偽書と決めつけるわけにもいかなくなる物証のようなものとなる。 ![]() 前漢鏡は日本では北九州の甕棺墓くらいしか出土しないものである。海部氏の遠い祖もその辺りに出るのであろうか。伊都国の王墓ともいわれる三雲遺跡(福岡県糸島郡前原町)の一つの甕棺から江戸期に35面の鏡が出土したが、そのほとんどが前漢鏡だったといわれる。奴国王墓ともいわれる春日市須玖の岡本遺跡の甕棺から23面の鏡が出土したが、大半が前漢鏡であった。この時代は「王墓」といっても他の甕棺と一緒に埋められており、特別に大きな立派な甕棺というわけではない。ごく普通の周囲の甕棺と同じものである。そこからピカピカの前漢鏡がこれだけも出土する。 栗太郡栗東町の下マガリ遺跡(弥生後期)から前漢鏡の小さな破片が出土した。近畿地方では4例目となり、ここが前漢鏡出土の国内東限だそうである。五十ばかりの遺跡から百三十面はがりの前漢鏡が出土してそうであるが、ほとんど九州北部の弥生中期の王墓からのものである。 ![]() 福井県福井市花野谷町の古墳時代前期の円墳、花野谷1号墳(径18m)の木棺跡から、前漢鏡である連弧文銘帯鏡(径9.6cm)と三角縁神獣鏡(径22cm)がそろって出土したと、同市教委が発表した。九州以外の古墳から前漢鏡が出土したのは初めて。また、連弧文銘帯鏡は摩耗が著しいことなどから、長年に渡って祭祀に用いられた伝世鏡と見られる。三角縁神獣鏡は四神四獣鏡で、黒塚古墳出土鏡と同型。とある。2000/8/31に福井市の花野谷1号墳(古墳前期・4世紀前半,円墳18m)に西漢(前漢)の連弧文銘帯鏡と三角縁神獣鏡(天王・日月獣文帯四神四獣鏡)副葬。西漢鏡は伝世品。三角縁神獣鏡は黒塚古墳などに同型鏡が発掘されている。船井郡園部町の今林6号墳から後漢鏡が出土した。 ![]() これらを根拠に『宮津市史』は、これら籠神社の二面は近くの古墳から出土したものでないかとしている。弥生期から伝世してきた二面の鏡を古墳時代になってから副葬して、そして又後世に発掘されるなどして伝世し続けたことになる。これは不可を二乗するものであろうと私は考える。 古事記に記載される、天乃日矛の持ち渡りし来し八種の神宝の奥津鏡・辺津鏡であろうかとも考えられる。 日本最古の伝世鏡を伝える籠神社が元伊勢と名乗るのは故があるのである。 籠神社の現在のご当主は82代目だそうで、82代×25在位年数=2050年となり、前漢鏡が伝わっていてもおかしくはない計算にはなる。 ![]() 倭宿禰は神武その人だとする説もある。この注文のように神武に鏡を献じて仕えたとするものもある。それならなぜにその鏡が籠神社にあるのであろうか。いずれにしてもそれなら鏡はないはずである。 もし倭宿禰が神武なら、神武は舞鶴から大和へ入ったことになる。おおかたの古代史家が腹をかかえ泣いて笑ころげるかもしれないような話になる。 しかしこの話は完全にでっち上げとばかりも言えない。9代の開化に丹後の竹野媛が嫁いでいる。それまでは大和政権といってもただ大和とその周辺だけの狭い地域であったが、この頃から丹後(丹波)と連立政権となり、ようやく国らしいものとなってくる。丹後の勢力が大挙して大和へ入っていることは否定はできないだろう。当然に「物々交換」であって、記録からは抹殺されているが、丹後の竹野媛が嫁いだのなら、大和天皇氏からも誰かが竹野へ嫁いだことであろう。征服したとか支配下においたとかいったものでなく、大和からも人がきたであろうし、丹後からも人がいっているのである。その一人が倭宿禰であったかも知れない。伊勢の外宮に丹後の神が祀られるのはこんな故ではなかろうか。 ![]() 亦名の天御蔭志楽別命、これはシラクワケと読んでいいのだろうか。それともシラワケとでも読むのだろうか。新羅からの渡来神で製鉄の神様という意味だろうか。まさに天日槍という感じがする。 ![]() |
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![]() 大倉岐命は志楽谷の小倉地名の元であるともいわれ、現在は志楽小学校向かいの阿良須神社の布留山神社がそれであるといわれる。勘注系図の注文に、 亦名を大楯縫命。稚足彦天皇(=成務)御宇癸丑年夏五月、桑田郡大枝山辺に大蛇有り、而人民被害を為す。則此命直方市愁い、群臣を率い之の征伐を将いた時、大山咋命が現れて之を助けた。群臣と之を斬る。此時孤独窮口を憐撫する状が天聴に達した。故楯桙等を賜り而して丹波国造を賜った。加佐郡志楽郷長谷山に葬った。(原漢文)風土記残欠にも、 長谷山墓大倉木(以下虫食)残欠の大倉木社は現在の阿良須神社境内の布留山神社であるという。右手の少し高いところにある社である(左手は阿良須神社)。 ![]() 「室尾山観音寺神名帳」の正三位大倉明神にあたる。 ![]() 一方大枝山(老ノ坂のある山。丹波・山城を分ける山)での大蛇退治伝説を持つ大倉岐命はやはり鉄の人であろうか。八岐大蛇退治伝説を思い起こすが、丹後の鬼退治伝説の大もと的な説話であろう。 鎮座地の裏山がフル山である。布留の大神とか石上神宮(天理市)を呼ぶが、フルは朝鮮語の火や日、光明のことで、ここは製鉄の火を意味していようか。布都御魂とも呼び、武器であろう。鉄とか武器に関係する地名である。『神社資料集』は、当地のフル地名について、 小字布留は古のお旅所と云ふが「フル」とは「クシフル」とか「ソフル」などでも判るとおり韓語の首邑との意であって新羅来(シラキ)に縁由するのではなかろうか。フルには二つ意味があって、村を意味する言葉でもある。ソフルのフルであり、フルは現在でも村を意味する日本語でもある。思いもよらぬ故に気がつかないだけで結構な数、日本にもあるのである。触といったりもする。フルがムルとなり村となったのではなかろうか。ここがクシフルの地であってもおかしくはない。春日・草下・ヤスカ・アスカ、あるいはカハラとも呼ばれ、カサとも呼ばれた地であり、玖賀耳御笠の地である。これらの地名はすべてクシの転訛とも思える。 ![]() しかしここのフルは火であろうか私は考えている。「おまつ神事」という火祭が伝わる。いつの時代のものか知らないが窯趾があるという。 ![]() 舞鶴市内でも「風呂」という小地名があちこちに見られる、岩滝町弓木の大風呂南墳丘墓、多量の鉄剣などが出土した、まさか銭湯があったわけではあるまいと思われるような山の中にもある。これについては諸説あるが、丹後の多くの論者がいうように寺院の本当のお風呂があったのかも知れないが、案外にこのフルの転訛かも知れない。このページ上の方で書いたが、テポドンのドンとも同じ洞穴のホラの転訛かも知れない。何か穴があった、竪穴であろうか。フル・フロは鉱山の竪穴である可能性も高いし、あるいは開口した墳墓の地であるかも知れない。フネ・フナという地名もこれに似ているかも知れない。下の写真にあるような水受けは現在でもフネと呼んでいる。漢字で「舟」と書く場合は「丹」である可能性もある。朱の産地にもなる。 舞鶴の岡田地方へ行くと、 ![]() 上の画像は長谷山、下を流れるのが与保呂川、両国橋がかかる。その後の高架線はJR小浜線である。 ![]() 大倉岐命の石棺ではないかと、白糸浜神社へ行ってみたが、現在は新しい物となっていた(右画像)。私が子供の頃はこれではなかった、場所も違ったと記憶しているが、もうわからない。大倉岐命は実在したかどうかもわからない。惜しいことをした。被葬者が明確な丹後では唯一の古墳であったのに。 ![]() 浜地区が軍港の町となる前、白糸湾に面したこの地には三つの社があった。寺川尻には水無月神社、七条通八島南には蛭子(えびす)神社、八島児童公園のあたりに稲荷神社。大正の初め、水無月神社境内が軍用地になるのを機会に。この三社を合祀した「白糸浜神社」として、新舞鶴町の氏神とすることになり、河川改修、区画整理された与保呂川東岸の現在地に、大正二年移転、同四年に社殿建築、同七年に村社、同一三年に郷社と社格が上がり、昭和十九年三月には大森神社と肩を並べる府社となった。秋祭は戦後「だるま祭」の初日、十一月一日としていたが、最近神輿のかつぎ手の集めやすい十月下旬の日曜日に変った。舞鶴の出身、この神社の氏子ですぐ近くに住んでいて、この社前を通りすぐ近くの新舞鶴小学校に通ったであろう、大江季雄選手についてはコラムでとりあげています。 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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水銀地名−邇保・二尾
水銀地名−大浦半島
大浦半島2
朝来・志楽
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元伊勢宮・つづき
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鉄の弥加宜神社1
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陸耳御笠の伝説
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朝来・志楽
このページの索引
揚松明(舞鶴市城屋)
朝来(舞鶴市)
吾野神社(与謝郡式内社)
穴憂の里(宮津市二本末)
天御影志楽別命
蟻通神社(各地)
有路(大江町・加佐郡有道郷)
阿良須神社(式内社・大江町北有路)
浮島(舞鶴市溝尻)
浮島丸事件
浮島丸殉難の碑(舞鶴市下佐波賀)
宇宙山伝説
息津鏡・辺津鏡(籠神社藏)
笠松山(舞鶴市泉源寺)
枯木浦(加佐郡・東舞鶴湾)
枯木浦(与謝郡・阿蘇海)
枯木川・枯木峠(大江町南有路)
枯木之宮(舞鶴市森)
烏島(舞鶴市佐波賀)
倉椅川(=野田川)
倉椅山(宮津市須津)
来寿森神社(大江町南有路)
嶋満神社(舞鶴市浮島)
白糸浜(舞鶴市浜)
白糸浜神社(舞鶴市浜)
志楽(舞鶴市)
志楽市場
設楽神社(市場八幡)
蛇島(舞鶴市佐波賀)
千原・血原(大江町)
須津(宮津市)
須津彦神社(宮津市須津)
世界樹伝説
田口神社(舞鶴市朝来中)
戸島(舞鶴市長浜)
十倉神社(大江町有路の各社)
日本得魂命(海部氏の祖)