丹後の地名プラス

丹波の

土(つち)
京都府福知山市土


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京都府福知山市土・中坂町・長山町・大池坂町・北平野町・西平野町

京都府天田郡西中筋村土





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土の概要


《土の概要》


戸田橋へ続く府道524号と綾部街道が交差するあたり、古い集落は鉄道より北側の低い所にある、南側の旗竿山の周辺は住宅団地となっている。
土や前田のあたりは河岸段丘の地で、由良川から南を向いて走ってくると由良川があって、次ぎに広い水田が広がる、ここは由良川の氾濫原、洪水にやられる覚悟が必要な所であろうか、市街地というか城下町もそんな地で、最大5メートルとかの洪水が予測されている。次ぎに段丘(低位段丘)があって、水田面とは崖になっいる、道はすごい急坂をオイオイと言いつつ登る、この段丘には古い元々の集落がある、社寺はこの段丘にある、全体に斜面で一番高い所を鉄道が走る。その次がまた崖で、綾部街道の走る段丘(中位段丘)、弥生遺跡はこの面にあり、今の大型商店などもこの面にある。その南がまた崖で、山というか長田野台地(高位段丘)になる、古墳はこの面にあり、新しい住宅団地が建ち並ぶ。
長田野台地上の住宅街、山は旗竿山(143m)。↓
このあたりの広い一帯は陸軍の長田野演習場で、小銃実弾射撃が行われる日には山頂に赤旗が立てられたことにちなむという。旗が立てば一般人が入ることは制限された。戦後は海外引揚者が入植して果樹園などを開いていたという。
このまま行けば再びそうした日々が来るのも近いかも知れない。
旗竿山
低・中段丘は表面は「くろぶく」と称する夜久野の宝山の火山灰の黒色土壌で農耕に適さない、その下層は砂礫が混じった粘土層。中位段丘に大池などの潅漑池があり、その付近からは白い良質の陶土を産したという。長田野の地層には同種の粘土が散在し、古代人が土器を作るに適したようである。土師や当村の地名の起源にも関係があろうと推察されている。
中世は松尾社領雀部庄。
土村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、寛文10年から幕府領となり平野藤次郎のち五味藤九郎支配地。天和元年からは岡部藩領。安部摂津守は武蔵国岡部藩(埼玉県)藩主。土村が岡部藩領となったのは天和元年(1681)で、慶長五年~寛文九年(1600-69)は福知山藩領、寛文10年~天和元年は幕府領であった。なお幕末に安部氏が三河国半原(はんばら)(愛知県新城市)へ転封されたため、半原藩領と称した。
由良川の対岸川北村との間に作場舟があった。明治4年半原県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年西中筋村の大字となる。
土は、明治22年~現在の大字。はじめ西中筋村、昭和24年からは福知山市の大字。明治37年国鉄山陰本線敷設、昭和15年には府道福知山綾部線の改修工事が行われ開発が進行した。一部が同48年に中坂町・長山町・大池坂町、同49年に北平野町・西平野町となる。


《土の人口・世帯数》 1743・661


《主な社寺など》

下野遺跡・論所遺跡
小字の論所(ろんしょ)とよぶ地からは、線条文・凸帯文・櫛描文のある弥生中期の土器片が出土し、砥石・磨製石斧・軽石・小鉄魂・土錘や、煤煙付きの土器片、木炭も検出され、同時代の住居地に比定されている。
論所の東やや高い下野(しもの)からは石鏃・石錐・石斧が発見された。

土遺跡
土遺跡現地説明会資料(3・4次)」「土遺跡現地説明会(5次)


中坂古墳群
長田野段丘には横穴式粘土室を特徴とする方墳が多く、北縁部に中坂古墳群(8基)がある。昭和47年発堀調査が行われ、そのうち西群の4基は方墳で、家形・楯形・円筒埴輪が出土、5世紀前半から6世紀。東端のものは横穴式粘土室で、全国的にも珍しいものであり、金環・玉類・土師器などが出土、7世紀前半のものと推定された。
そのうち1基が公園に復元保存されている、いうので、探してみた。これがそうだろうか、何も案内はない。10メートルに満たない円墳で高サは1メートルばかりか、封土が流されて低くなってものか、埋葬施設などはわからない。


松尾神社
松尾神社(土)
大きな鎮守の森の中に鎮座、子供達がたくさんいた。遠足なのか社会見学なのか、「コンバンハ」と挨拶してくれる(^^)/。愛想よいが、まだ昼だぞ、外国の子かと思ったが日本の子達であった。
当地一帯の中世は松尾社領雀部庄の地とされ、その鎮守社と思われ、雀部庄七村の産神という。
案内板がある。案内板
境内神社の御案内(福知山市字土小字東ノ上一一一四ノ一)
松尾神社の境内には、つぎの十二の御柱の神々がお祀りしてあります。
本殿
(一)松尾神社(第九十八代 長慶天皇 建徳元年創建)   祭神 大山咋命(大山祇命)とも称されます。
   例祭 歳旦祭(一月三日)
      節分祭(二月三日又は四日)
      夏祭 (七月 国民の祝日「海の日」)
      秋の大祭 (十月 第三日曜日)
 当地の松尾神社は、京都松尾大社(山城)の分社で、かつては、福知山市字石原の小字坂ノ下と言うところに祀られていて、雀部郷(七ケ村=土師村・前田村・川北村・土村・石原村・興村・戸田村で構成)の土産神として広く人々の崇敬を受け、多くの人々の参拝がありました。その後(時代年号等不詳)当地土村に御遷座し、氏神様として今日まで村民の厚い信仰を集めてきたものであります。
(二)建田神社(第百七代 後陽成天皇 文録三年創建)   祭神 気長足姫命(神功皇后)
   例祭 松尾神社に同じ
  本神社は、字土小字水取にお祀りしていたのを明治三十九年十二月に松尾神社に合祀したものであります。又、安産守護神として遠方からの参拝者が多く、その御利益は大変あらたかであったと伝えられています。
境内神社
 (一)八幡神社 (第百十九代 光格天皇 寛政年間の創建)
   祭神 誉田別命
   例祭(九月 国民の祝日 「敬老の日」 )
  本神社は、字土小字中路にお祀りしてあったものを明治二十二年九月に御遷座したものであります。
 (二)稲荷神社 (森光稲荷神社)
   祭神 保食神
  元来、当境内地の鎮座神であって、明治四十一年に新築されました。
 (三)疫神神社
   祭神 素戔嗚命
   例祭(二月二十日)
  元来、当境内地の鎮座神でした。
 (四)武大神杜
   祭神 武大神命(素戔嗚命)
  元来、字土小字天王軒にお祀りしてありましたが明治十三年十月御遷座されました。
 (五)斎宮神社(伊都岐神社)
  祭神 屋麻都毘売尊(委姫命)
  元来、字土小字イツキに鎮座されていた神様ですが明治十三年十月御遷座されたものであります。
 (六)三柱神社
  祭神 天児屋根命
     埴山姫命
     菅原道眞公
   元来、境内神社です。
 (七)水神神社
  祭神 網象女命
   水の神様で元来、字土小字水取に鎮座されていました。
 (八)幸神(荒神)神社
  祭神 猿田彦命
   道の神様で元来、字土小字水取に鎮座されていました。
  以上は、元宮司森本正典氏の「松尾神社由来記」によります。
      御霊神社 岡部宮司監修



『曽我井伝記横山硯』
松尾神社  雀部庄 土村ニ在
松尾大明神は御年神の子にて大山咋の命なり、古神代の時丹波国は湖水の所なるを此神水落し峠を葛(くづ)して切落し下は今の丹後国さかひへ切落し丹波の国とし給ふ。依て丹波の国造の神也。古私部庄今の私市村に私の漁翁と云ふ人ありて和知谷より由良へ流るる大川にて味方より神守迄の間川魚を取って松尾神社へ日供に奉る。又丹波国は国恩のある神なれば昔古は国中信し奉る処也。此川四季ともに釣を禁じ、さはがしき事を止め、静なる事を好みて殺生禁断の場所なり。依て音無川と名附く。此川味方よりは和知川と云ひ神守より下は小久保川と云ふ。
水の音は高く聞へてながれけり 名をこそおしめ音無しの川  原誠章
いつの世に名を流さじと古の瀨はかはりけり音無しの川    塩見利義
上は嵯峨に松尾神社を祭り奉りて桂の漁翁桂川にて釣を禁じて川魚を取つて松尾神に奉る古例もあり。

『丹波志』
松尾大明神 雀部郷 土村 辰巳脇ノ山
祭神  祭礼 九月十日
古へ雀部郷七村ノ産神也 石原村ノ内坂ノ下(・モト)ト云所古跡有 今石原村ニ社ハナシ 祭モナシ 土村ニ坐ヲ今モ七ヶ村ヨリ参詣ス 本社東向、籠屋弐間五間 鳥居
境内凡弐丁ニ三丁

『天田郡志資料』
村社 松尾神社 同村宇土鎮座
 祭神 大山祇神、市杵島姫神、神功皇后
(郷土史料)当社往昔は雀部郷七ヶ村(丹波志に土村、戸田、石原、興、川北、土師、前田)の産土神なり、もと石原村の坂の下といふ所に在りしを今の地に奉移せり、依て今も七ヶ材より参詣す、曾我伝記に曰く古私部庄(今の佐賀村私市)に私(キサ)の漁翁といへるあり(私はキサイ皇后の意)和知谷より由良へ注ぐ大川筋にて味方(今の綾部町字味方)より神守(今の加佐郡河守)までの間の川魚を捕って此大神の日供に奉る(中略) 此川四季共に諸人の釣を禁じ且つさわがしきこは一切禁して即ち殺生禁断の所とせり依て此川筋を昔無瀬といひ味方より上は和知川、神守より下を小久保川といひしとかや
○水の音は高く聞えて流るめり名をこそ惜め音なしの川  原 誠龍
○いつの世に名を流せしぞ古の瀬はかはりけり音なしの川  塩見利義
上には嵯峨に松尾神社ありて桂の魚翁桂川の魚を供し奉る、これ亦古例なり云々
氏子


建田大明神
建田神社(土)
松尾神社に合祀されている建田神社の元の鎮座地に残された社なのか、神社というよりも小さなホコラである。周辺が二反ばかりの空き地のようになっているが、これ全体が社地か。
『丹波志』
建田大明神 土村
祭神    祭礼九月十日
社東向境内凡貳反斗内除地モ有
館田神社だろうか、社地は低いがすぐ南は丘陵になっている、ここに城があったのかも、詳細はわからないが、カンによって中世の館(たち・たて)がこのあたりにあったと見るがどうかな。



《交通》



《産業》


《姓氏》


土の主な歴史記録


『福知山市史』
前田・土村の段丘
長田野の北側に今一段低い段丘がある。すなわち雀部小学校付近が海抜三一メートルであるが、大体これと同じ高さの平地が土師の天神森の付近から、前田の集落をへて東方土村と石原との中間まで延びている。その長さ約一・二キロ幅二~三○○メートルないし四~五○○メートルである。元来前田から戸田付近の田圃の面が二○~二五メートルであるが、その面と前記三○余メートルの台地面との間に、たしかに傾斜の急変するところが認められる。便宜上この台地を前田・土村段丘と名づけることとする。前田集落の中央部及び東部の谷には水田が見られるが、他の部分は久しく荒蕪地で、牛の牧場として利用されるに過ぎなかったが、戦後工場や住宅の建設が目立ち、近年とくに市街化の傾向が著しい。

『丹波志』
土村  安部摂津守殿領
高四百壹石五斗六升八合元改帳 民家六拾戸
西ニ沢有七間ニ七十間往古ヨリ除地 今池ナリ 桑アリ
西ニ前田村拾ヶ年福智山道三十丁此エ 川北村 間河有作場舟アリ 拾丁斗艮ニ戸田村八丁斗東ニ石原村十丁斗綾部本道

『福知山市史』
下野遺跡(字土)
上野平遺跡と論所遺跡の中間に位置するもので、上野平より約二○メートル低位置、論所遺跡よりやや高位置にある河岸段丘面にある。石鏃二個でサヌヵイト製・安山岩でできた石錐一個・砂岩の石斧の完形品一個が採集されている。付近には良質の粘土層があり、近年まで採土していたことから、土を中心とした地域は絶好の居住地ではなかったかとみられる。

『福知山市史』
論所遺跡(字土)
由良川の氾濫原を直下に見おろす海抜三○メートルの台地の縁辺部にある。ここは河岸段丘によってできた長田野の一段下に位置する段丘面に立地した造跡である。表土数十センチが「黒ぶく」といわれる火山灰性のち密な土壌でおおわれ、その下が洪積層の赤土になっている。その黒ぶくと赤土の交わる黒ぶくの最下部から、帯状に約一○メートルにわたって遺物が発見された。
この遺跡で文様の入った弥生式土器片の口縁部が数種類出土した。刻み目を入れた凸帯文、円形の粘土を貼りつげた凸帯文、縦に数条の粘土を貼った凸帯文(中期)櫛描文(中期)などである。綾部の館造跡出土のものと類似しており、由良川流域の当時の人々の交流がうかがえる。また薄手の細かい砂を混合した壷が出ているが、これはススがかなり厚く広く付着しており、その他に木炭も出ているので住居跡がある可能性が大きいとみられる。同じ地点から土錘が一個出ているが、弥生式土器と同じ層から出土しているので弥生時代の土錘と断定できるものである。花崗岩製の砥石・かなり刃部が磨滅した砂岩の磨製石斧・鉄塊(直径一センチ位)・軽石などがある。

『福知山市史』
中坂の古墳(字大池坂町)
府道綾部・福知山線から市道岩間線(長田野工業団地に通じる道)に入った左手台地上、現在福知山市中坂町・大池坂町として住宅団地になっている台地北縁ぞいに八基の古墳がある。そのうちの一基「中坂七号墳」は緑地公園内に復元保存されている。
この古墳群は、昭和三十六年、京都府教育委員会によってなされた遺跡分布調査で確認され、中坂古墳群と命名された。その後、この古墳群の立地する台地一帯が、長田野工業団地造成にともなう住宅地として開発されることになり、上野平遺跡発掘に先だつ昭和四十六年十二月から翌年二月にかげて、京都府教育委員会によって発掘調査が実施された。
八基の古墳(八号墳は古墳でないことが判明し欠番、新たに発見の一基を九号境とした)は、その配置から三群に分けることができる。すなわち、一・二・三・九号墳で構成される西群、四・五・六号墳からなる中央群、その東方に離れて孤立する七号墳である。
西群の四基はすべて一辺一〇メートル前後の方墳であり、たがいに周濠を接するほど近接して築かれていた。いずれも墳丘封土が洗い流されており、わずかに二号墳で木棺を直葬した埋葬施設が検出されたにとどまり、他は主体部が消滅していた。出土遣物は周濠部から家形埴輪・楯形埴輪・円筒埴輪など数個体分と二・九号墳に副葬されたわずかな鉄器だけである。四群四基の築造年代は、それぞれに若干時間的前後はあるにしてもほぼ五世紀後半と推定される。
中央群は三基からなり、四号墳が一辺一三メートルの方墳、五号墳が円形造出しをもつ全長一八メートルの円墳、六号墳は円墳とも方墳とも判断しがたいが径(または一辺)一○メートル余の規模である。これら三基は発掘前にすでに盗掘を受けており(大正末年ごろらしい)、一部抜きとられた遺物はその行方が知れない。調査の結果、四号墳で埋葬施設一基、五号墳で三基、六号墳で二基を検出した。このうち、五号墳の埋葬施設一基(第三主体部)をのぞいて他はすべて木棺が直葬されたものであった。五号墳三主体部は円形造り出しの部分にあり、横穴式石室に似せて粘土で部屋を造った珍しい形式である。この中央群では、西群にみられなかった須恵器が豊富に出現すること、西群にくらべて鉄器が増加することなどが特徴としてあげられ、五号墳第三主体部をのぞいて、ほぼ六世紀代に築かれたものと推定される。
東に孤立する七号墳は、直径約一三メートルの円墳であり、五号項第三主体部と同形式の、横穴式粘土室とでも呼ぶべき埋葬施設であった。その長さ六メートル、幅二・三メートルで、粘土をとりのぞくと床面の小石敦の上に、金環・玉類・鉄器のほか総数五三点にのぼる須恵器・土師器が出土した。二基の横穴式粘土室の類例は、中坂古墳群発掘に次いで行われた上野平遺跡発掘調査の際、仏山一号墳でもみられ、計三例を数える。築造年代は七世紀前半と推定される。横穴式石室が盛んに造られたこの時期に、粘土だけで横穴式石室を模した理由として、石材の入手、加工の技術、あるいは氏族の伝統などの面から検討する必要があるが、全国的にも類例がほとんどなく今後の研究課題として残されている。

『日本の古代遺跡京都Ⅰ』
中坂古墳群
八ケ谷古墳の東方、口池の対岸丘陵に存在する中坂古墳群は、方墳五墓、円墳四基からなるが、一九七一年(昭和46) から翌一九七二年にかけて調査され、多くは調査後に消滅してしまっている。この古墳群は、一辺または直径が一〇メートル内外の均質な古墳群で、西群として分類された周濠をたがいに重ねる方墳四基の築造が先行し、方墳一基と円墳三基からなる中央群、および円墳一基からなる東群の形成が後続する。このうち、西群の方墳四基は五世紀後半代に属するもので、うち三基に埴輪をともなうことが知られている。中央群および東群は、六世紀前半代から七世紀初頭に属している。
内部構造は、木棺直葬が主体をなすが、最終段階の七世紀初めころにいとなまれた中央群の八号墳と東群の七号墳の二基の円墳には、〝横穴式粘土室〟のあることが知られている。これは木材と粘土によって横穴式の墓室をきずくもので、〝横穴式木芯粘土室〝 〝カマド塚〟とも称されている。おなじ長田野台地北縁にある仏山一号墳でもこの種の横穴式粘土室が確認されており、長田野周辺の後期群集墳の一つの特徴とみることができる。
副葬品には、須恵器、土師器、玉類、鉄器などがあるが、とりわけ注目すべきものとしては、八号墳から出土した唐草文様の銀象嵌をほどこした鐔(つば)がある。
土師の地名
長田野丘陵に存在する古墳をいとなんだ人びとの性格に関して、丘陵の西麓に「土師」という地名があることから、土師氏に関係するものとしてとらえる見解がある。たしかに宝蔵山四号墳の土器棺墓や、八ケ谷古墳、中坂古墳群西群における埴輪の存在などは、土師氏にふさわしい考古資料といえる。しかし、逆に横穴式粘土室については、須恵器生産工人に関係する墓制とみる説もあって、長田野周辺に分布する古墳すべてを、土師氏集団と結びつけて考えてよいかどうかは、今後の研究にまたれる。



伝説








土の小字一覧


土(ツチ) 赤ノ水 荒打 アサ アブ 石原村下 久津町 久保 猪ノ坂 イツキ 梅木畑 上ノ欠 江田 江ノ上 奥沢 上河原 カケト 岸ノ下 北中畑 桑換 蔵ノ後 黒殿塚 小二郎 小角 コブカタ 三反畑 竿折 莱洗 清水 清水尻 下野 下溝 下河原 谷子 竹下 高島 大子 辻ノ前 天王軒 出合 ドウゲ 中島 中畑 中路 長塚 長畑 二反田 二反畑 二丁越 布本 走上り 八斗田 東ノ上 乗ノ下 菱上町 稗田 ヒノ詰 フケ 前小田 ヌケ田 浦向 溝尻 水取 向入保 山ノ下 屋敷田 ヤセ町 ヤケザヲ 論所 中坂 大池坂 上山ノ下 桑替 上小角 麻 大池坂 クサキ 下道 下野 中坂 鯰釜 仏山 論所

関連情報










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市町村別
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京都府福知山市
京都府綾部市


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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