丹後の地名プラス

丹波の

千原(ちはら)
京都府福知山市夜久野町千原


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京都府福知山市夜久野町上千原・中千原・下千原

京都府天田郡夜久野町上千原・中千原・下千原

京都府天田郡下夜久野村千原




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千原の概要


《千原の概要》


町の南部の山間の農業地で、千原川が東流する。西より上千原・中千原・下千原の集落がある。
千原村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。
南に千原峠を越えれば氷上郡遠坂村へ牛馬道が通じ、口千原よりユズリ峠を越えれば豊富郷下戸(さげと)村に達した。
文化12年(1815)3月、配札と修行の途次当地を通った野田泉光院は、「日本九峰修行日記」に次のように記しているという。
 晴天。ヤクノ郷と云ふ方へ峠を越し、千原村と云ふに下る。直ちに宿求むれども宿なし、日は西山に落ち一寸の虫も見へ分かず、十軒計り尋ぬれども宿なし、此辺辻堂とてもなし、野宿せんと云へは田地計り、前後困り入り、夫より此村を出で三丁程行く、道脇に家三四軒あり、口をかゝりに宿貰へば、若さ男思案顔にて立去る、暫時してかへる、最早夜に入りたり一人は我方へ宿し玉へ、一人は本家の方に宿 参らすと云ふ、右に付主従分れて宿す。予が宿せし方は本家にて大家也、辰衛門と云ふ宅、朝暮振舞に逢ふ。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下夜久野村の大字となる。
千原は、明治22年~現在の大字。はじめ下夜久野村、昭和31年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。


《千原の人口・世帯数》 230・100


《主な社寺など》

矢取神社(上千原)
矢取神社(上千原)
矢取神社は舞鶴の市場八幡神社境内社に箭取神社があり、田中の鈴鹿神社にも箭取神社(祭神・経津主命)がある。ほかにはあまり聞かないが、奈良県高市郡明日香村に八釣という所がある、今はヤツリだが、万葉集の頃はヤトリと呼んでいる。ここには弘計皇子神社があり、顕宗(弘計)の近飛鳥八釣宮はここだろうとされている。ヤトリとオケヲケは何か関係があるのかも知れない。千原は大江町の千原と同じ血原だろう、そこにシロトリだから、金属系の神社であろうか。
『丹波志』
矢取大明神 千原村 上産神
祭神      祭礼十一月三日
本社 五尺ニ六尺 上家有
境内 東西廿間南北十五間 山林下田廿歩村除

『天田郡志資料』
村社 矢取神社 同村字千原上
祭神 日本武尊
社殿 入妻造唐破風三方椽勾欄付柿葺
末社 若宮神社、祭神多久理比売命 稲荷神社、三柱神社
境内 一反六畝十二歩  祭日 十月十三日
改修 文安四年十月五日 文化十二年十二月廿八日
氏子 五十戸
(伝説) 鳥海彌三郎、鎌倉権五郎景政と戦って腰を射られながら白鳥と化し血を流し当千原の深山に降れり依って之を祭り後此地に移す。金谷村田和有徳神社は景政を祭る。故に古来千原と田和とは結婚せず。若し背くときにはいろいろ不吉の事起ると云。此社へは腰痛の者矢を奉納すれば全治すと伝へ賽者多しと。

『上夜久野村史』
矢取神社 日本武尊 十一月三日 上千原 棟札に文安四年丁卯(一四四七)十月五日建立とありしと。

『夜久野町史』
矢取神社(上千原)
祭神…ヤマトタケルノミコト、配祀=トリミヤサブロウ
初午…氏子が冬場の仕事として稲わら細工、竹細工に励み、その製品一品を提供し、福引き抽選により互いに交換した。子どもたちにとって「くじ」を引く楽しい行事だった。
文安4年(1447)の神社の棟札が保存されている。
祭り…12月第1日曜日に「お当渡し」も兼ねて「大祓」の祭典を行う。
昭和60年より、上、中、下干原区民が、子ども太鼓屋台の先導で、矢取り神社を出発して荻野神社~大歳神社へと巡行する。大歳神社横のゲートポール場で盛大な直会を行う。

《上千原の矢取神社》
祭神に鳥海弥三郎を祀っている、鳥海弥三郎は鎌倉権五郎景政と戦い、腰を射られて白鳥となって、血を流しながら千原の深山に舞い降りたという。それを見た村人がお祀りしたのがこの神社の始まりで、その後、現在の位置に移されたと伝えられている。

『福知山市史』
金山・川口・金谷・夜久野方面に有徳神社という宮が存在する。すなわち旧上川口村字夷の有徳神社は源義家、同義綱、同義光を祭り、旧上夜久野村字板生の有徳神社は進雄(すさのおの)命を祭り、その末社に鎌倉神社と称し、鎌倉権五郎景正を祭る祠がある。また旧下夜久野村字千原に矢取神社というのがあって祭神は日本武尊となっていて、鎌倉権五郎の仇、鳥海与三郎の霊が白鳥となって同地へ飛来したといい伝えている。これは日本武尊の霊が伊勢の能褒野から白鳥となって、大和や河内に飛んで来たという記紀の伝説と類似するもので、いわゆる「白鳥伝説」の一つであろう。
 一方市内宇田和の有徳神社は、鎌倉権五郎景正及びその母が祭ってあると同社に標示してある。なぜこの地方にほとんど無縁の義家や景正を祭っているのであろうか。この地方では次のような俗信もある。昔田和の神と千原の神が戦いをし、田和の神は目を射られ、その矢を抜いてやった千原の神は逆に怒られて腰を射られたというので、後世千原の神に矢を供えるようになったといい、近代でも田和の人と千原の人とは結婚することを忌むというのである。また田和の神は古来眼病治癒の神として人々が参詣し祈願したという。
(現今はその習慣は絶えている)
 元来田和の有徳神社は、字宮垣の一宮神社の分霊を一条天皇の正暦五年(九九四)に、田和が宮垣から分離した時に移し祭ったものという。そして一宮神社は、貞観三年(八六二 に出雲大社の祭神大己貴神の分霊を祭っているのである。それがどうして鎌倉権五郎をまつるといい、また「目の神」となっていったものであろう。
 古語拾遺によれば、忌部氏の祖に天一目命というのがある。天一目命は日本書紀の一書に曰くというところでは、天日一箇命とかいて作金者(カナタクミ)となっており、名のごとく採鉱・冶金をつかさどったものとなっている。この地方では古代において相当金属鉱物を産したらしく、その鉱山業に従事する部民が、この天一目命を祭ったものであろう。実際田和(宮垣)にはごく近代でも銅山が経営された。田和には鉄滓もあるし、額田(ぬかた)は泥形(にかた)に通じ冶金に関係する地名ともいわれる。丹後の浜詰にも鉄滓が出るし、中郡五箇村の藤社の末社には金屋神社があり、天一目命を祭っているという。旧上川ロ村字上小田の三吉野神社は金山彦命(鉱業神)を祭り、下夜久野の三柱神社の末社に鍛冶神社がある。こういうわけでこの天田郡西北部一帯は古代における冶金・鍛冶に関係が多いことがうかがわれよう。
 もともと採鉱冶金の術は他のそれと同じく朝鮮から伝来したものらしい。最近は木炭と共に鉄鉱を焼いたが、後に石や粘土で炉を造り、踏鞴(「ふいご」のこと)でもって強い風を送ることが行われるようになった。(応神紀に韓鍛治(からかぬち) 卓素入朝のことが出ている)こうして新しい朝鮮の技術の輸入により、天目一箇命のことは忘れられ、ただ漠然と、「目一つ」ということのみが強く印象づけられて残り伝わったのであった。
 ところが後三年の役に源義家に従った鎌倉権五郎平景正というものが、金沢柵を攻めた時、敵の矢が景正の眼にあたったが、景正は自らその矢を折って、別の矢で敵を射殺し、冑をぬいでたおれた。矢はまだ眼に立っていたので、戦友三浦為継が足で景正の顔を踏んで矢を抜こうとしたところ、景正は立って刀を抜き、人の顔に足をかけるとは何事ぞと為継を殺そうとした。為継はその失礼を詑びて跪いて矢を抜いたという。関東武士大中臣氏がこの地方の地頭に補せられて、この地方に来てからこの武勇伝が地方にも喧伝されたので、片眼となった権五郎と、天目一箇命が混同されて、権五郎が冶金の神に間違えられたものである。
 なお一般に、金谷とか金屋とかいう地名は採鉱に関係がある場合が多いということは、香取秀真著「日本鉱業史資料」にも書かれており、また天目一箇命の子孫は主として剣を作る家柄となったもので、命やその子孫のことは播磨風土記や姓氏録にしばしば出ている。

鳥海彌三郎は蝦夷の裔という安倍家任(いえとう)のことで、阿部貞任(さだとう)や宗任(むねとう)(鳥海三郎)とは腹違いの兄弟、「前九年の役」では兄弟らとならんで安倍軍の指揮を執り、源頼義軍を悩ましましたという。今の鳥海山のあたりは彼の領地だったという。あるいは彌三郎は安倍宗任のことともするが、両者とも権五郎が活躍した時代とは少し早い人なので実際に合戦で顔を合わせることはなかっただろう。安倍晋三首相の祖先もこの奥州俘囚の長という安倍氏だという。もしそうなら米帝と原発大資本の体制権力ベタベタでなく、支配を受ける側の国にこそ援助をしないと先祖が泣くぞ、自家の歴史も知らない者が、自国の歴史を知るわけもないし未来が描けるわけのないのも当然で、後ろ向きのハタメタぶりにまったく何も期待できまい。体制側の有徳神社側とは仲がよくない、反体制側神社の伝説もあり、あるいは当社は奥州蝦夷系の製鉄神社なのかも知れない。隣の額田に東光寺があり、奥州衣川から衣川氏の来住が伝わるが、意外にもそうした奥州俘囚開発史があったかも知れない。


千原峠
千原峠(遠坂峠)
道標当社のすぐ西側の道が千原峠で、越すと兵庫県氷上郡青垣町の遠坂へ出る。橋のたもとに古い道標が立っている。当社は古くはもっと奥にあったのではなかろうか。
「丹波志」に「矢取明神森社アリ此所ヨリ氷上郡ノ遠坂郷ニ越ス 千原峠ト云 氷上郡ニテハ遠坂峠ト云」とある。
本州島の分水嶺を越す峠道で、手前側に降った雨は日本海へ、山の向こう側に降った雨は加古川で、瀬戸内海、太平洋側へ流れる。
下千原から福知山市下戸に出るユズリ峠(今はトンネル)とよく混乱されている。




大歳神社(中千原)
大歳神社(中千原)
当社境内にもイチョウの巨木がある。
『丹波志』
歳末大明神 同村 中産神
祭神    祭礼 九月廿三日
本社 五尺ニ三尺 上家有  篭家二間四面
境内 南北三拾間東西廿五間山林下田拾歩村除

『天田郡志資料』
村社 大年神社 同村字千原中鎮座
祭神 大年、御年、若年の三柱神
社殿 改建嘉永廿五年 延宝四年
末社 稲荷神社、出雲神社、祭神大国主命、地主神社、埴安命、天満神社。
境内 三百三十歩余 祭日 十月十三日 氏子 二十四戸

『夜久野町史』
大歳神社(中千原)
祭神…才オトシノカミ、ミトシノカミ、ワカトシノカミ
境内に京都の自然200選に指定された銀杏の大木がある。
お日待ち…1月14日。
節分祭…2月3日。
夏祭りと「夏越の大祓」を7月第1日曜に斎行する。

荻野神社(下千原)
荻野神社(下千原)
下千原の村はずれ、右側が荻野神社、書によっては萩野と書かていたりするが、神額には「荻野」とある。左は八幡宮と末社。

『丹波志』
萩大明神  同村 下産神
祭神     祭礼九月廿三日
本社 五尺四方上家有 拝殿二間一間半
境内東西十五間南北三十間下田二畝歩村除

『天田郡志資料』
村社 荻野神社  同村千原下鎮座
祭神 天児屋根命 太玉命
社殿 前記加茂神社に仝じ 境内 百廿五歩 祭日 十月十三日
末社 稲荷神社 疫神々社 改修 万治元年 享和三年 文化二年二月廿二日  氏子 七十戸

『夜久野町史』
荻野神社(下千原)
祭神…アメノコヤネノミコト、アメノフトダマノミコト
配祀=オギノトモタダ公(荻野朝忠公)昭和37年、三カ所にお祀りしてあった、八幡言、厄除神社、稲荷神社、三柱神社、日吉神社、胞衣神社、秋葉神社、山神神社、蚕養神社を荻野神社境内に合祀する。
八幡宮の祭日には、児童相撲、青年相撲が行事として行われていた。
厄神祭…1月17日。
節分祭…2月3日。
お日待ち…1月14日。
秋祭り…宮司により祭典。

車を三転させる広さもないような所だが、山には何か城跡の雰囲気がある。このあたりに愛古城があったという。



曹洞宗照霊山瑞光寺
瑞光寺(中千原)
こんな案内板があった。瑞光寺の案内板
木造阿弥陀如来橡、観音菩薩立像、勢至菩薩立像
(福知山市指定丈化財 彫刻)
福知山市夜久野町千原 曹洞宗瑞光寺
木造 漆箔 像高 阿弥陀如来立像 78.6cm
         観音菩薩立像 57.0cm
         勢至菩薩立像 57.2cm
 瑞光寺の本尊として祀られている阿弥陀三尊像です。
 中尊の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代初期の作とされています。顔立ちは細長い三日月形の目をしており、体部はなで肩ですらりとしていますが、大腿部は豊かな肉付けを示し古様な表現となっています。材質は檜材、頭部は頭頂部を別材とし両耳後ろで割り矧ぎ、体幹部は両肩中央で前後二材矧ぎとしており、像底は刳り上げて漆箔としています。
 両脇侍像は、蓮華(亡失)を捧げる観音菩薩立像と合掌する勢至菩薩立像で、中尊より少し下る鎌倉時代後期の作と考えられます。両像とも、腰を軽く曲げ、天衣の動きや二段折り返しの裳など難しい動きを無難にまとめていますが、顔立ちや表情、裳の折り返しなどが異なることから、これらは作者を異にしていると思われます。
 阿弥陀三尊像はこの地域には珍しく、個性的な表現をみせる作例として特色あるものです。平成27年3月 福知山市教育委員会


『天田郡志資料』
照霊山 瑞光寺 (曹洞宗) 同村字千原
本尊 阿禰陀如来(聖徳太子御作) 脇立 観音菩薩 勢至菩薩(恵心ノ作)
開山 霊瑞照山長老        開基 鉄山泉鎖和尚
創建 天文元年霊瑞長老、字城山に建てしと云、其古城主衣川下総守往玄、以て香花の地となせり、延宝八年七月鉄山和尚今の地に移せり
中興開基、額田水谷藤兵衛、元禄十五年三月廿四日、田畑旧高三十三石、山林廿八ヶ所を寄進す。
     法名 勝業院心春道範居士
        順牲院蓮譽妙範大姉
中興 大機達音大和尚(明治廿八年春)
再建 明治十四年(明治九年五月三日焼失)
  本堂梁銘に曰く 照霊山聳、瑞光寺新、永除災蹟、禅藍土神、神安人護、千百一春、僧輝仏日、常転法輪、
            明治十四年四月大吉祥日上棟
  鐘堂梁銘、 …
          明治廿六年四月十日鐘勝鋳之日 鋳物師 福知山 足立八左エ門藤原光次
寺什 御開山伝衣(寛永頃の品)  大藏経(昭和三年完成)
団体 吉祥講、観音講
檀家 百七十一戸

『夜久野町史』
照霊山瑞光寺 中千原
『寺院明細帳』によると曹洞宗で、円通寺(丹波市氷上町)の末寺。天文年間(一五三二ー五五)の創建と伝え、霊瑞照山長老を開基とし、山号・寺号は長老の名に因ると伝えるが、『丹波志』では開山を玉照寺(末)と同じ鉄山和尚とする。千原城主衣川下総守が大檀越となり、創建時は字城山に堂宇を構えたが、延宝八年(一六八〇)に現在地に移ったと伝える。元禄十五年額田村水谷藤兵衛が田地三三石、山林二八ヵ所の寄進を行ったことを徳として中興開山として位置づけ、本堂の歴代住職の位牌と共にその位牌が安置されている。明治九年五月三日千原村大火によって堂宇・梵鐘等のこらず焼失し、明治十二年に再建された。

衣川下総守の愛古城址
『上夜久野村史』
千原愛古城趾(下千原)
この城主については、中世の武将が地待となり、集落民に君臨し、領王の地位から次第に地王に転じ、農民層に移行していく過程を明らかに示すものである。
「千原城」
北側に千原川、南側に奥山川、この間にある高さ四十米ばかりの丘陵地を城址と伝えている。
丹波志 古城ノ部
千原村 口千原
独立ノ山有 愛宕城主 衣川下総寺 子孫有 姓氏ノ部ニ出ス
この丘陵地より北東に十米ばかり下った所に碑があり、刻して次の様である。

愛古城 則 奥州 衣川之住 以
地名為衣川姓 至 衣川下総守
住去 移村城後 捨士 耕干野遂
為 農家矣 後世 号 衣川在助
請衣川下総守塔
寛文五已年(一六六五)十二月二日OOO
卒月峰 宗桂居士 今天保
十三寅年 一百 七十八年○為
末世 高名 朽衣川氏 志此塔
造立六已
所々判読し難いところがある。城主衣川下総守が奥州衣川よりこの地に移住し、定着したと確せられる。
寛文五年(一六六五)卒とあり、当時は徳川四代将軍家綱の世である。城主の在世期の初が数十年前に遡れば、江戸幕府以前、関ヶ原前後の推定がされる。中世未期の頃の来住であろうか。

夜久野あたりには衣川(きぬがわ)サンが多いが、その子孫であろうか。義経弁慶最後の地として有名だが、平安後期までは奥州衣川(ころもがわ)は蝦夷と大和の国境線であった。当地とは何か古くから関係があったものと思われる。


《交通》



《産業》
千原は大江町の千原と同じように血原であろう、赤い金属鉱石の地であったと思われる。
『夜久野町史』
・千原鉱山尾平谷鉱床[夜久野町宇千原(下干原)]
産出鉱物:黄銅鉱・四面銅鉱・黄鉄鉱・石英・方解石・孔雀石
・千原鉱山中千原旧坑[夜久野町字干原(中千原)」
産出鉱物:黄銅鉱・黄鉄鉱・石英
・弥生鉱山[夜久野町字千原(上千原)]
産出鉱物:黄鉄鉱


千原の主な歴史記録


『丹波志』
千原村 支 口千原中千原奥千原 右同
高六百六石
千原村本村ヨリ南氷上郡遠坂村ニ越ル嶺千原峠トモ遠坂峠トモ云牛馬通
奥千原道ノ下タ谷川ノ向矢取明神森社アリ此所ヨリ氷上郡ニ遠坂郷ノ越ス千原峠ト云氷上郡ニテハ遠坂峠ト云頂迄十七八丁此道ノ左右千原ノ上深谷ト云牛馬道嶺疆郡堺
口千原ヨリ南豊富郷下ケ倉村ニ越ス嶺ヲユツリ峠ト云口千原ヨリ頂マデ拾二三丁斗下戸村四五丁頂ヨリ方角北ノ方井田村見ル丑ノ方龍ヶ城丑虎ノ間三岳山天子間為母山亥ノ方直見大ナル山ハ額田村ノ深山ニ隠ル戌亥ノ間鉄床山午ノ方ノ谷下ケ戸村也


『上夜久野村史』
◎あねおの局(下千原)
天正の頃、織田信長の死後、愛妾あねおの局が千原のこの地に隠棲し、ここで没したと伝えでいる。
☆☆☆
下千原には屋号局屋(つぼねや)がある。この家の前の道ばたに据えられている石をあねおの局石といい、縁りのある石とされている。何かが埋められていようと、かつて道路の改修の時、村の青年たちによって掘られたけれども、土中の部分が大きくて底に達しないままにやめたという話がある。
松井挙堂氏(氷上郡)編丹波志年表に阿能局に関した次の記がみえる。
「天正八年(一五八〇)千原村住の後藤六郎太夫、阿能局の兄波多野秀治、福井主水の仇信長を討たんとして果さず、六郎太夫は捕えられ安土城にて死す」
右の記よりすれば「あのうの局」(あねおの局)は千原の住人即ちその当地千原を支配していた武将後藤六郎太夫とゆかりがあり、その人をたよって千原に身を寄せたらしいと考えられる。


『夜久野町史』
上千原の観音様(千原)
昔々、上千原の山の上、鴨というところに江州よりさずかった有り難い観音様が祭ってあったということだ。ある時、額田と千原の村人が、観音を奪い合い、とうとう半分ずつに壊してしまった。千原には腰より上、額田には腰から下の観音が持ち帰られ、それぞれ半身の観音をお祭りしたが、さすがの観音も半身では半分の力しか出せず、千原でば頭痛など腰から上の病、額田では足痛などの腰から下の病を治して下さるよ5になったという。
今日、千原にも額田にも半身の観音様はみうけられないので、ただ昔語りの言い継ぎにすぎなくなっているけれども、観音様を奪い合ったという鴨の道は昔ながらに存在し、いたずらに草を生い茂らせて上千原より額田へとつづき、伝説のなごりを止めている。(下夜久野村誌刊行会『下夜久野村誌』)







千原の小字一覧


千原(ちはら) ヨセ 小長谷(こながたに) 刈又(かりまた) 二枚畑(にまいばた) ミノオ(みのお) ズエ田(ずえだ) 長谷(ながたに) ケイジ(けいじ) 小倉谷(おぐらだに) 柳ケ岶(やなぎがさこ) 祖道の神(そどおのかみ) 鍋谷(なべだに) 光森(みつもり) 寺元(てらもと) 堂本(どおもと) 堂ノ上(どおのうえ) 地蔵屋敷(じぞおやしき) 野田(のだ) セキヤ(せきや) 田中(たなか) 小寺(こでら) 天神ノ下(てんじんのした) 池ノ元(いけのもと) 石橋(いしばし) 門前(もんぜん) 寺ノ奥(てらのおく) 寺屋敷(てらやしき) 中ノ森(なかのもり) 光田(ひかりだ) 高木(たかぎ) ヒナタ 八代(やしろ) 長畑(ながばたけ) 堤山(つつみやま) 京田(きょおだ) 嶋ノ奥(しまのおく) 加茂(かも) 由利(ゆり) カセ 草イ谷(くさいだに) 前田(まえだ) 小谷(こたに) ビクニ屋敷(びくにやしき) 下地(しもじ) 早田(わせだ) サヤミ キシノ下(きしのした) マトバ 堂畑(どおばたけ) ウツキ谷(うつきだに) 西ノ上(にしのうえ) 向谷(むこうだに) 立畑(たちばた) 和田(わだ) 辻堂(つじどう) サガ畑(さがばた) 宮ノ本(みやのもと) 宮ノ奥(みやのおく) セガキタ 漆倉(うるしくら) 丸田(まるた) 横縄手(よこなわて) ノボリヲ 古池(ふるち) 青木(あおき) コモ田(こもだ) アカオカ フシブシ タン田(たんだ) ゴオ田(ごおだ) 広田(ひろた) 早滝(はやたき) 馬ノ骨(うまのほね) 峠(とおげ) 小田ノ奥(おだのおく) 熊ノ倉(くまのくら) 金堀(かなぼり) 笹之尾(ささのお) 滝谷(たきだに) 防ノ口(ほうのくち) 嶋ノ奥(しまのおく) 嶋ノ口(しまのくち) 大深山(おおみやま) 椿尾(つばきお) 万道山(まんどうやま) 瓜田(うりた) 崩谷(くずれだに) 流田(ながれだ) 大栗道(おおぐりみち) 畑ケ田(はたけだ) 竹ガ端(たけがはな) シウロガ谷(しうろがたに) カセ(かせ) 畑谷(はただに) 森ガ市(もりがいち) 西ノ奥(にしのおく) 向谷(むこおだに) 小寺(こでら) 平田(ひらだ) 木村(きむら) 城山(しろやま) 市場(いば) 角田(かくた) 門田(かどた) 浜井場(はまいば) 大野(おおの) 西ノ谷(にしのたに) 向山(むこおやま) ユブネ 黒ケハナ(くろがはな) 小栗尾(おぐりお) 深山(みやま) ツヅラ岶(つづらざこ) スゲガ谷(すげがたに) 荒堀(あらぼリ) 森(もり) タノミ岶(たのみざこ) 若サ屋敷(わかさやしき) 前ガ谷(まえがたに) 日背(ひしろ) 風呂屋(ふろや) 池ノ谷(いけのたに) 東シ(ひがし) 殿田(とのだ) ジヤクロ ナガ田(ながた) ユズリ タツ尾(たつお) タシノフ ヤケ尾(やけお) クレノ谷(くれのたに) 峠(とうげ) クロ岩(くろいわ) 木古り谷(きこりだに) 菖蒲谷(しょおぶだに) ザクロ 宮ノ向(みやのむこお) 有田(ありだ) 岩走り(いわばしり) 骨川(こつがわ) マツ川(まつがわ) 長者(ちょおじゃ) 黒田(くろだ) 肥タツ(こえたつ) 大山(おおやま) 寺田(てらだ) 平畑ケ(ひらばたけ) 豊ノ元(とよのもと) トヒノ本(とひのもと) 犬ツナギ(いぬつなぎ) 岡花(おかばな) 梅岶(うめざこ) 羽徳(はとく) 片谷(かただに) 西倉(にしくら) 小盥(こだいら) イネノ上(いねのうえ) 岩走り(いわばしり) 有田(ありた) 光森(みつもり) 野田(のだ) 長谷(ながたに) 天神(てんじん) 堤山(つつみやま) 小倉谷(おぐらだに) 加茂(かも) ユリ(ゆり) サヤミ 宮ノ奥(みやのおく) 青木(あおき) 馬ノ骨(うまのほね) 熊ノ倉(くまのくら) 嶋ノ奥(しまのおく) カセ 向井谷(むかいだに) 城山(しろやま) 西ノ谷(にしのたに) ヒナタ(ひなた) オヒライ(おひらい) 柴ノ谷(しばのたに) 前ケ谷(まえがたに) 東シ(ひがし) ユズリ 宮ノ向(みやのむかい) 西倉(にしくら) 豊ノ元(とよのもと) 骨川(こつがわ) 黒田(くろだ) 寺ノ前(てらのまえ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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