丹後の地名プラス

丹波の

長田(おさだ)
京都府福知山市長田


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京都府福知山市長田・長田野町・大池坂町・中坂町・東平野町・南平野町・北平野町・西平野町

京都府天田郡下六人部村長田





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長田の概要


《長田の概要》


長田野工業団地のある一帯↓。福知山駅に歌詞の石碑があるが、「福知山出て長田野越えて、駒を早めて亀山へ、ドッコイセー、ドッコイセー」と福知山音頭に謡われるその長田野の村である。20万年前に作られたという、手つかずの段丘があり、聚落はその南側の土師川東岸側の麓にある。自治会は長田関・長田北・長田段・上松・市の谷・大野に分かれる。
4車線の道路は国道9号線、左右が長田野工業団地。↓
旧国道9号線(京街道)は西方の土師から江戸ケ坂(絵堂ケ坂)を越えて地内の上の写真で言えば右手の長田野の麓を東西に、今の国道と平行に通っている。
長田野工業団地

長田は、早く鎌倉期に見える村名で、「新古今集」巻7に「寿永元年、大嘗会主基方稲舂歌、丹波国長田村をよめる」として「神世よりけふのためとや 八束穂に長田の穂のしなひそめけん」と権中納言藤原兼光の歌が載せられる。丹波国は古来から大嘗会の主基方に卜定されることが多く、この歌もそれにちなんだものとされる。
また「増鏡」の「おどろのした」にも、元暦元年の後鳥羽天皇大嘗会に関して「十一月十八日に大嘗会なり。基方の御屏風の歌、兼光の中納言といふ人、丹波国長田とかやと」と記して、同様の和歌を載せているそうである。
中世は六人部庄の地。
長田村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下六人部村の大字となる。
長田は、明治22年~現在の大字。はじめ下六人部村、昭和30年からは福知山市の大字。明治31年陸軍歩兵第2O連隊が大阪より移駐し、地内の長田野は演習場となった。第2次大戦後は同地に海外引揚者が入植して甘藷・ブドウ・ナシなどの果樹園を開き、昭和40年代からは大規模な内陸工業団地が建設された。一部が同47年長田野町1~3丁目、同48年長山町・大池坂町、同49年東平野町・西平野町・南平野町・北平野町となった。


《長田の人口・世帯数》 2627・1069


《主な社寺など》
和田賀遺跡
村の南方和田賀(わだが)からチャート製の鋭い石鏃が五個以上と石鎗が出土している。また長田野の北縁には東西にわたり古墳群が並ぶ。

高倉神社・嶋村殿小祠
当地の産土神は多保市の天神神社だが、氏神さまがあったという。高橋氏先祖を祭神とする高倉大明神。高橋氏は、用明天皇の皇子麻呂子親王の従臣、鎌倉期に尾張国より当地へ来住したともいう。
中世、勢力をのばして、六人部六大将の1人に数えられている。江戸初期に帰農、家名を惣右衛門と称して、累代南郷の大庄屋を勤め苗字帯刀も許されていたという。法林寺のあたりにあるのか、誰もいないので確かめようもなかった。
『丹波志』
高倉神社  六部郷 長田村
祭神高橋氏先祖 祭礼八月十六日
本社二尺ニ二尺五寸上家有 此所ニ住ス高橋氏祭之
境内八間ニ十間 田地ノ中松林
高橋氏先祖  墓所也 則小祠ヲ建祭レリ
上畠一石四斗一舛六合 社ニ付年貢地
子孫有 姓氏ノ部ニ出之

嶋村殿小祠
祭神 嶋村八之助霊
高倉ノ社ヨリ一町斗西五間ニ四間斗薮地
嶋村氏光社ヲ祭ル 子孫有姓氏ノ部ニ出之

『丹波志』
高橋刑部太輔高景子孫 長田村
高景ハ   此ノ人也 自是今安永 惣右衛門迄拾五代
高景先祖ハ麻呂子親王ノ臣也 公手 公荘高橋小田氏同烈也ト云 同所今城屋敷ト字スル所ニ居住ノ所ナリ旧栖ノ部ニ地形等委出ス
先祖代々墓 城屋敷ノ南ニ在監物迄葬之 其所ニ小祠ヲ建 高倉明神ト称ス

高野山真言宗泰平山真明院願来寺
願来寺(長田)
本尊薬師如来は麻呂子親王が丹後の鬼賊退治の時、戦勝を祈願して自彫した、七仏薬師の一と言い伝えている。
願来寺(長田)
一番左が薬師堂。
『丹波志』
大平山願来寺
真言宗高野山宝城院末寺 開基宥範
境内一反一畝廿四歩村除 門
本堂陣裡トモ三間半八間 薬師堂 本堂ナリ 千体地蔵堂 観音堂

『天田郡志資料』
泰平山 真明院 願来寺 (古義真言宗)  同村長田小字段
本尊 薬師如来   脇立 日光菩薩 月光菩薩
開山 空也上人   中興 泉教阿闍梨
創建 年代不詳、再建は寛永六年二月結縁総村中其他十方有縁者、大願主泉教阿闍梨。此旧建物は岩間高浄寺庫裡に譲与、本堂再建は延享五年三月、--此年寛延と改元依て寛延元年を正とす)施主同前大願主は尊雅、智真の両大徳、 ◎地蔵堂再建は宝永七年三月、大願主隆範法印の代 ◎観音堂建立は寛政元年三月十六日阿闍梨梨寂巌の代 ◎鐘楼建立は宝暦十二年十一月晦日、性応阿闍梨の代。此再建は文久元年阿闍梨広融の代 ◎寺坊再建は大正十二年四月十七日竣工、結縁総村中並に府下、大阪府、兵庫県に亙る有縁者。落慶供養大導師として泉涌寺長老泉智等猊下を屈請したり、大願主現住義晃の代
傳云 本尊薬帥瑠璃光如来は用明天皇の皇子麿子親王(聖徳太子御弟君)御作,七仏薬師の随一にて霊験顕著、治癒除厄を祈願する者遠近よりの報賽者頗る多し。或は云,和銅年間(一三六八-一三七四)の安置に係ると。

真宗大谷派出雲路山法林寺
法林寺(長田)
鎌倉時代末から南北朝にかけて長田を本拠とした土豪高橋高景の子清範(のち乗専)が、一向宗を究め後醍醐天皇の帰依を受けて勅額を賜り、当地に蒙摂寺という寺を建立したのに始まり毫摂寺の旧跡に建立されたのが法林寺といい、あるいは多保市に古跡があるともいう。
『天田郡志資料』
出雲路山 法林寺 (真宗大谷派) 下六人部村字長田小字段
本尊 阿禰陀如来、清純法師の覚如上人に事へし時、請ひて弥陀正面の画像を受く、之を筆初の本尊といふ。
開基 長田村主高橋高景の子、乗専幼より仏徒となり、天台真言の教義を極む、其名天聴に達し清範法師の号を賜はる。即ち乗専なり。一日乗専の老母、契縁尼、曰く在家の信者、名号のみにては信心も深か深からず、正覚大悲の御姿を拝せしめたしと常に語りき、是に於て本願寺二世覚如上人は貞和四年四月初旬に丹後の天橋立へ遊覧の途、雲原の山中にて郭公を聞きはるばると葉山の裾に分け入れば樹しげき方に鳴く郭公。
  又 雲の波いくへともなき洲崎より眺めをとほす天のはしたて。
    此時乗専お供しければ老母契縁の菴に立ち寄らる。此時日頃の念願申し上げければ上人さればちて御手づから御丈け一尺五寸の禰陀の尊像を画き裏に方便法身の尊形と御筆を加へられたり。是に於て老母契縁の菴を寺として之を本尊とせりとぞ。
創建 正平三年再建宝徳二年三月 寛政六年十一月八日庫裡改築 文政九年四月本堂末修繕、並挙棟、向拝宝藏等新に建立、此時福知山城主朽木侯より木材一切を寄進せらる。蓋し当寺は六人部川(土師川の上流)に臨み長田の田圃を距て、千歳山を望み尚ほ遠く大内宮村の聚落を眺め前記善光寺の客殿よりは眼界広濶にして眺望絶佳なり、故を以て当時、法林寺八景ありしといふ。されば藩侯も屡々茲に遊覧を試みられき。藩侯の寄進故なきにあらず。(八景の記憶なきを遺憾とす)長田高倉祠は高橋高景の霊を祀ると云。
檀家 六十余戸
宝什 一、筆初御絵阿禰陀仏  一、祖師上人御木像  一、租師上人御筆十字名号
   一、袈裟-後醍醐天皇より乗専拝戴の      一、古画 (新待賢門院より下賜)
(丹波志)従四位下高橋刑部大輔高景(兄は和泉守盛永と云ふ)の子乗専は幼にして出家、天台真言の奥義を極め博学の聞えありけるが其名終に天聴に達し、清範法師の号を腸はる、後醍醐天皇の叡信殊に篤く後青庵といへる三字の勅額を賜ふに至れり。(此宸翰、摂津国小浜の毫摂寺にありと云)後、出雲路山毫摂寺と号し、中古山城国愛宕郡出雲路村に移る、又摂津小浜に移る。此頃長田村には古の毫摂寺の址ありしに、こゝに明覚寺といへる寺を建てたり。爾後、福知山にて一向宗の道場明きけるを以て明覚寺は移りて一寺となし、長田村には特昌といへる法師其旧地に菴を結びて又一向宗の道場とす云々。
◎薬王寺址多保市にあり、今ヤコウジの小字は京街道に沿へる東端なり。又山田の湯舟といふ所に、観音屋敷といふ所あり、田地となる、山門の址など其近辺にありといふ、さて此観音は観音寺に(西中筋村)移せりと云。

浄土真宗本願寺派照蓮寺
照蓮寺(長田)
『天田郡志資料』
頓円山 照蓮寺 (真宗本派本願寺派)  同村字長田
本尊 阿禰陀如来(木仏御丈ケ一尺八寸の尊像)脇立親鸞上人蓮如上人聖徳太子七高祖(三国相承)以上尊影奉安
開山 教円  開基 了順
創達 文亀二年小道場建立、寛永元年三月今の地に移転再建応永三十年某深く仏教を信仰し終に剃髪して教円と号し、私邸内に画像を奉安して道場とす。後文亀二年字島ヶ下、古屋敷に道場を建立したりしが、寛永元午三月第十二世了順に至り今の地に移れり。斯くて寛永十八年八月十三日本願寺第十二世良如上人御筆の裏書付木仏安置許可同時に寺号公称をも許可せらる。
檀家 百十五戸(内五戸は川合村字岼)

名勝「養老水」
チョロチョロ↓と出ている。(小さいので見にくいかも)
養老水
福知山温泉のあるあたりの向かい側に案内板があるが、そこは公園になっている、公園から下へ降りた所にある。福知山藩主第六代朽木綱貞はこの滝を賞して「養老水」と命名し、この滝水は藩侯の飲料水となったという。その後、名が知られ、江戸時代、地方風流人の歌碑も立ち、旅人も夏季は涼をとったという。


長田野練兵場
長田野はだいたいは木が生えているだけの広大な原野である、原野というのか雑木林というのか、どちらを見てもそうした見通しのきかない、けっこうアップダウンのある原野で、まったく同じ風景、これは迷子になる、今の鋪装道をナビを見ながら走っていても迷いそうな気分になる。今は陸自の演習場があり、過去には陸軍の練兵場があった。
『天田郡志資料』
本村にはかの関西で有名な、大野ヶ原がある、陸軍演習地として、京都師団はいふに及ばず、時に大阪師団、姫路師団、或は舞鶴要港部から陸戦隊等の演習が常に行はれ、日夜剱光の閃き、砲声の轟き、時ありて銀翼、空高く飛翔する。従って野の南方松林の下、即ち本村民家の近くには、廠舎があって、舎営に便にしてある。近傍に食料品を需めることが少くない。


長田野演習場↑(福知山市)第20連隊の演習場であるが、第4師団や舞鶴海兵団、舞鶴重砲兵なども常にこれらの兵舎に宿泊し、訓練をした。福知山からここを越えて亀山へ向かう進軍も行われた。明治末期の写真(『目で見る福知山・綾部の100年』より)

今は陸自の演習場となっているが、丹後のレーダー基地の米兵が実弾訓練をしたいと申し入れているという。富士山まで行くのは大変ですな、日本を守ってくれるとか、などとドアホを考えて、甘い顔してひとつ許せばクセになるぞ、最初は羊の皮を被っているが、本性は沖縄のごとく狼の米帝である、日本の独立と安全を守る気になって、本気で断固拒否することだ。


《交通》
京街道・江戸ヶ坂
江戸ヶ坂(長田)
旧国道9号線(京街道)の土師の方から長田野丘陵に50メートルばかり登る坂道である。地図にはここがそう書かれている。今はこのようにスイスイの道だが、写真の左手の雑木林の中に細い山道がある、それが江戸ヶ坂でないかと思われる。今は猫の子一匹通る様子もないが、かつては京都ヘ登ろうとすれば、皆この坂を登らねばならなかった。
江戸に通じる坂というよりは、このあたりを「エド」と呼んでいたのではなかろうか。東京の前身・江戸もそうだが、地名からは被差別の民がいたような歴史がありそうな名で、丹波志が少し触れているようなことかも知れないが、差別といっても藩が民百姓支配上、勝手に差別したものなので当ページには引かない。お城は何もスンバラシイだけのものではない、歴史は見る者のアタマのようにしか見えない、スンバラシく見えたなら、それはうわべしか見てないチミのアタマであるのかも知れない、彼らに厳しく支配された民の苦難の生活もまたあったことも忘れず知っておくべきであろう。

『天田郡志資料』
京街道 (即山陰図道)
京街造の福知山の出口は、洪水のため屡々変更されて、現今のやうに呉服町から南へ、新切通を過ぎ、山陰線を横ぎって、字堀の北端に出るやうになった。京都まで廿三里余。さて、此所から雀部、下六人部、上六人部、細見、菟原の五ケ村を経て、船井郡梅田村大久保に出る。約六里半。大久保から仝郡桧山、須知、園部、八木・南桑田郡亀岡を過ぎ。大江ノ阪(又老いの阪)を越え、京都七条大宮の丹波口に達する。これが京都街道で大久保から約十六里余である。
土師川土師川橋は昔無瀬川の上流なる土師川に架してある。此川は、遠く船井郡須知と園部の中間なる観音峠附近に発源し、本郡に入って、六部川といひ、細見、川合の二渓流を合せ、更に中六人部、下六人部の境にて、氷上郡、国領村、舟城村から来る竹田川と会したものである。此川は鮎、鯉共他雑魚の産多く、附近の好漁場である。観音峠は丹波の分水嶺で、こゝから南の諸流は保津川に集注して大阪湾に、北の諸水は土師川となって、何鹿郡より来れる和知川と合流し、由良川となって日本海に潮す。(和知川は水源より由良川口まで三十五里余)此橋を渡って雀部材土師を南進する絵堂阪(又江戸ヶ坂)を越えて下六人部村長田に出づ。街道の南方一町許の谷間に養老水とて清泉あり、(六代綱貞侯命名)昔は福知山藩侯の御料水であつたといふ。今は小公園となって居る。この長田は大嘗会の斎田に卜定された名所である。後鳥羽天皇の御代、中納言兼光、丹波国長田村を詠める
  神代よりけふのためとや八束穂に長田の稲のしなひそめけむ
と増鏡に見えたるはこの里である。此街道の北方松丘を限っての台地は、所謂丹波第一の広原、大野ケ原(又長田野)にして、今は陸軍の演習地である。次は同村多保市、街道より一町余北方に、天神々社あり、六人部七天紳の一である。此御牡の東に善光寺あり、大地を隔てゝ翠緑滴る千歳山に封し、眺望絶佳、藩侯の遊覧所であった。此辺一帯の松林より松茸の産出多く、遠く京阪へ輸出する。福知山より此所まで約一里半。次は上六人部村字岩崎、藩政時代にはこゝより綾部領であった。岩崎から右折して、六部川を渡り、中六人部村、字宮、大内、田野を経て、氷上郡竹田村に出づ。其竹田村と田野との境に小丘ありイノギ野といふ。丹波志に福岡城址とあるは此所であらう。此辺大内は小豆、宮村瓜が最も名高い。さて京街道を進めば字三俣に式内生野神社あり。街道より北方約一町半土俗ミデグラサンと称す。此辺は古の生野ノ庄である。六部川を渡って数町にして我郡最古の名所生野に出づ。人家数十軒立ち並び近世まで生野町と呼び名高い宿駅であった。
  大江山生野の道の遠ければまだ文も見ず天ノ橋立。
を始めとし、歌枕として名高い。今は鉄道開通して、唯古の名残をとゞめるのみ。されどなほ我が郡東部の名邑である。福知山より此まで三里余。近傍に雲田といへる小字存す。今ミマダといふ。平治元年大嘗会の齋田に卜定された地で、千載集に
  天地のきはみもしらぬ御代なればくも日の村の福をこそつけ。
とあるは、此所である。生野の次萩原に綾部郡是製糸の分工場あり。此辺往昔は荒野であったのを、字上野の井本氏、萩原の高橋氏等、率先して開墾したりといふ。次は細見村字芦淵、小字琴ケ瀬より、六部川を渡り北方へ往けば、川合村約一里半にして、府社大原神社がある。郡中第一の名社である。芦淵の次は千束・大嘗会の名所として千束橋とあれども今は定かならず。此所より南方字寺尾、草山を経て氷上郡鴨ノ庄村に出づる街道あり。尚千束野より南方は細見谷。次を菟原村とす。本郡の東端なり。福知山より此所まで約五里、定期自動車の便あり。以上川合、細見、菟原は木炭木材の産出量も多く、又茶業も盛である石灰、桂石をも産す。


郷土物語。
太郎兵衛坂   下六人部村
丹波の国は、山の国。大波小波の打ちよせる様に、つらなってゐる山脈。その山々の間をぬけて走る道々には、所々に大きな廻り道や、昼でさへ暗い様な、恐ろしい山道が何程あるかわかりません。まだ汽車もなかった昔、長い旅をする人達、老人や、子供の旅人達は,どんなにこの廻り道を苦しがり、山道を恐しがったでことでせう。一分でも早く通りぬけたい。一米でも近くなって、足のつかれを休めたい。殊に遠い旅をする人達は。一米はおろか。一糎でも近くなるこ)とを願って居りました。
その廻り道の一つ、京街道の江戸ヶ坂に残る、本当のお話
            ×
月は出てゐませんでした。夜明けにはまだ一時間余りもあるでせう。道端にはや夜露がしつとりと、置いてゐました。ヒタヒタヒタヒタヒタ………人の足音………。今日も、こんなに早くから,長田村の太郎兵衛さんは、大きなにぎり飯を、十も包んだ風呂敷づゝみを腰に下げ、つるはしを肩に、一体何処へ、何をしに行くのでせう。
一昨日のことでした。福知山へ行っての帰り道、秋の日は、つらべ落しに落ちて、もう道端の草も、はつきりそれと、わからぬ、ばけものでも出さうな、暮れかゝつに江戸ヶ坂で、太郎兵衛さんは、一人のみすぼらしい旅人に呼びかけられました。
見れば長い旅に足をいためたのでせう、いたさうに、びっこを引いて、而かも年は六十を二つ三つは、たしかに越えてゐると思へました。
「もしもしここは、大変な廻り道になってゐますが、どこかに近道はないものでせうか…………?。」
「近道?………。さあ…………?。」
「ないでせうか………?。」
「はあ………。おつしやる通り………。」
「………。」
旅人は、こまりはてた様な顔つきで、だまって太郎兵衛さんを見つめました。
話によると、旅人は丹後の峰山から、京都へ行くのだといふ、それにふとしたことから足をいため、今日中に生野までは、どうしても行かねばならぬ。と。気の毒に思った太郎兵衛さんは、親切に、荷物を持ってやったり、もし泊るのならと、一番近い宿屋まで教へてやりました。
「ほんとになあ、あそこに近道かあったらなあ。あそこだけなら、ほんの少しの苦しみかも知れぬが、遠い旅をする人には、大きな苦しみになるだらうに……。せめて三足でも近くなったらなあ。おまけに、あの山道、ずい分泥棒も出たと云ふ。人殺しもあったと聞いてゐる……。」
「あそこに近道を作ったらなあ。そして一日に一人の旅人が喜んだとしたら一年には三百六十五人、十年には三千六百五十人百年には…ええ、三万六千五百人………こりやあ、なかなか大きいぞ。」変ってから,ねどこの中で、こんなことを考へてゐた太郎兵衛さんは、もう立ってもゐても居られない様な気がしました。
「江戸ヶ坂に近道を作らう」かう決心して、早速昨日から仕事をはじめ、にぎり飯も五つでは、お腹がすいて仕方がなかったので、今日は十も大きなのを持って来た太郎兵衛さんでした。
だんだん夜か明けて来るにつれて、幾人かの旅人たちが、江戸ヶ坂を通って行きました。
「めっきり寒うなりんしたなあ。」
「さよさよほんに寒うなりんした。」
「はい、あれあれ、あんな所に,山柿がすゞなりになってらあ。」
此のあたりの人とも思はれない様な旅人の話声。
「お母さん、もうなんべん宿屋にとまったら京へ行けるの。」
「もう二つ泊ったら京へ着きますよ。」
いぢらしい母娘の巡礼。
併し、誰一人太郎兵衛さんが、たった一人で近道を作ってゐるのだなどと気か付く者はありませんでした。只時々顔を知ってゐる村人がふと、太郎兵衛さんの姿を見つけて、「今日は」と声をかけて行く位でした。秋の空は、すみ渡って、處々、白いちぎれ雲が東へ西へただよってゐました。日は高く上って太郎兵衛さんも、お腹がすいて来ました。
「どれどれ昼飯にしようかな。」
今朝、おばあさんにこしらへてもらった、大きな十のにぎり飯をほゝばつた時、太郎兵衛さんは何とも云へぬ気持でした。そこらあたりには、今刈りとられたばかりのいばらや、雑木が、足のふみ場もない程に、散らばってゐました。
お午からの太郎共衛さんは、又一生懸命働きましたが、さう長くは続きませんでした。それは、困ったことに、今日も亦にぎり飯か少なすぎることでした。
その次の日、
昨日にこりた太郎兵衛さん、「今日は、昨日より沢山にぎり飯を持って行きませう。」と大きなのを十五。
「これだけあれは大丈夫だ。」
と何時もの如く、カチーン、コツーン、と、仕事をはじめました。其の日も幾人かの旅人達が話をしたり、中にはよい声で唄をうたひながら通って行く人もありました、がまだ太郎兵衛さんには何の注意もしませんでした。只其の日の変つたことと云へば、やっぱり太郎兵衛さんの持って来たにぎり飯か足らぬことでした。
その翌日の太郎兵衛さん、此度は思ひ切って、二十のにぎり飯をおばあさんに注文しました。
「おぢいさおぢいさん、手かだるくなるよう。」
と云ひながらも、おばあさんは二十のにぎり飯をせつせと作って呉れました。こんどは朝から晩まで仕事をすることが出来ました。
そんな日が何日続いたことでせう。どうやら道らしいものが出来かかりました。其の頃です。人々は初めて太郎兵衛さんが一人で近道を作ってゐるのだと云ふことを知りました。誰云ふとなく、何時伝はるとなく、旅人達の間にまで、知れ渡ってゐました。雨が降っても風が吹いても、太郎兵衛さんの姿が江戸ヶ坂に見えない日はありませんでした。山に烏の鳴かぬ日はあっても、おばあさんが太郎兵衛さんのにぎり飯を作らない日はありませんでした。
「今日は,太郎兵衛さん。」
「御苦努さんです太郎兵衛さん。」
口ぐせの様に、誰もがあいさつをしながら江戸ヶ坂を通る時、何時でも、汗みどるになって、つるはしを振つてゐる太郎兵衛さんを見ない者はありませんでした。休んでゐるのは、ついぞ見たこともありませんでした。或時など、づくづくになった汗の手拭をしぼってゐることさへありました。
何時だったか、少しも知らない旅人が、「太郎兵衛さん、太郎兵衛さん、のざがかわきませう。お茶がわりにこれでも食べて下さい。」まだ少し皮目に青い所もありましたが、十ばかりのみかんを、紙袋に入れて名前も云はず置いて行きました。
併し中には、ずい分、にくまれ口を云って通るならず者らしい旅人もあることはありました。そんな時には、人々は自分のことの様におこりました。
「太郎兵衛さんが江戸ヶ坂に。…。」
「江戸ヶ坂に、太郎兵衛さんが…。」
「ほゝう……太郎兵衛さんが……。」
「へえ……江戸ヶ坂に……。」
近道を作る太郎兵衛さんのうわさが、ずい分遠い所へ聞へる頃、三十日の日は早くもたってゐました。忙しい秋のとり入れ
も、ほとんどかたづいた頃
「もう一息だ!」
ばつと振り上げたつるはし。其の時です。
「おゝ太郎兵衛さん。わしも手伝はせてもらふぞ。」
「うゝう…新兵衛さんか、有難う。」
カチーン振り下した太郎兵衛さんのつるはしの先に、キラッっといなづまが走りました。今まで一つだったつるはしの昔か二
つになり,カチーン、コッーン、コッーン、カチーン、秋空の江戸ヶ坂の空気を破って、こだましました。仕事のはかどるこ
と、はかどること、とうとう三十三日目、新らしい近道か出来上りました。太郎兵衛さんの日にやけた真黒の顔は何にたとへ
様もない喜びにあふれてゐました。
それから五十年--。太郎兵衛さんの作った近道は何回も、村の人達によって修繕せられ、ひろげられ、今では、広い、広い
道となり、春はうぐひすの声を聞きつつ道端の花をつみながら、秋は木々の紅葉を賞でながら、幾千人、幾万人の人達が、ど
んなに喜んで通って行ったことでせう。又、これから後も--
誰云ふとなく、「太郎兵衛坂」「太郎兵衛坂」と呼ぶ様になりました。     (をわり)


《産業》


《姓氏》


長田の主な歴史記録


『丹波志』
長田村 上松・下道場・奥・駒場 福知山領
高千三百六拾三石五斗 民家二百戸
此所ニ長山ノ南長田アリ、上古供御ニ奉リシ田所也 大嘗会ノ主基方ノ歌ニヨメリシ八束穂ナト云シ所ナリ 名所ノ部ニ委出之 字一ケ嶋ト云長田ト字ス ○長田野ノ内ニ青塚ノ平ト云所ニ石塚三ツ有 内一ツハ平(ナル)ニ在 二ツハ石原村境道ヨリ長田村分ニ在 長田本村多保市岩間三ケ立会政之ト云 ○… ○コノハ山ニ毫摂寺古跡有 此村法林寺条下ニ委

『福知山市史』
長田野段丘
福知山盆地の地形上の最大の特色は、その周縁地域に多くの幅広い段丘が存在することである。その中でも最も広大なものは長田野である。これは土師川と由良川との間にあって、高岳の西方一帯に広がっている。東西約四キロ、南北二キロないし三キロに及ぶ。地質は酸化鉄に富む赤色粘土と、珪質の円礫とが混じっている。表土は火山灰質のいわゆるクロブクの腐植土であり、西部は薄く東部はやや厚い。江戸ヶ坂北方の丘陵地には、礫の洗い出された部分が非常に多い。北、西、南の三方より侵食谷が発達しかけているが、極めて若く、大部分は平坦であって高度七○~八○メートルである。その北部にはあたかも残丘状に長さ六~七○○メートル、幅二~三○○メートに 高さ一三○~一四○メートルの丘陵があるが段丘ではなかろう。石原及び前田方面から狭長な谷が入り込み、その谷を人工的にせき止めて一○個の潅漑用池が造られている。南部長田、多保市方面も同様な地形ではあるが、潅漑用池は侵食谷を出たところかまたは段丘崖下の窪地を利用したものである。
長田野の周縁地域及び段丘崖には松が生えているが、建築用材になるほどのものは少ない。昔から牛の牧場に利用されていたが、明治三十一年八月福知山に連隊が設置されてから、専ら陸軍の演習場として、また、工兵の作業場として廠舎が置かれていた。かくて別称大野ヶ原(その東部は大鼓原という)と呼ばれたこの原野も、一部東端に長田新田・多保市山田の集落が形成せられた外は、ほとんど耕地には利用されなかった。ところが、第二次世界大戦後の食糧難のため、付近の集落のみならず福知山市街地の人々も、この地の開墾に着手し、甘藷・粟・陸稲等の栽培を行った。また一方農地拡張、戦災者、引揚者の更生のために長田野開拓組合が設置され、新集落が発生し、相当広範囲にわたって開墾が行われたが、昭和四十五年京都府が、府北部開発の拠点として工業団地造成事業に着手し、内陸工業団地としてはわが国最大の規模をもつ工場街が現出しつつある。
この段丘の周縁部、土・石原・前田・多保市・長田などで、石鏃や石斧などの石器が拾得され、弥生時代の遺跡や十数基の古墳の調査が行われて、そのあたりが、古代人によって利用されたことが明らかになった。

『福知山聯隊史』(写真も。場所は不明)


演習場
兵営台地の南側で、工兵第十大隊との間の原野が練兵場でそこが主たる訓練場となり、兵営の周辺でよく訓練したが、青野ヶ原と長田野が主たる演習場であった。
青野ヶ原は福知山から約二十里、播磨平野の東北部にあり、簡易を廠合があり、年に一度は聯隊全員が廠営して訓練を行った。
長田野は聯隊の将兵に取って、最も忘れ難い演習場である。東方と南方を山に囲まれた原野の台地で、平坦部で一里四方は優にあり兵営から西入口まで一里半、駈走で往復した事も属々で、兵の大部分が山国育ちである上に、この演習場で健脚聯隊の素地は造られたと言えよう。
著名を地点の名称はサツ街道登口、八六高地、弾痕山、二子山、不動山、カブト山、青塚二本松、方形林、大野森林、五丁谷等があり、殊に大鼓原は将兵に取って最もなつかしい地名であった。
大鼓原ではよく密集訓練が行われた。中隊将兵が歩調を取って行進すると、美しい芝生の原が本当に大鼓を叩くような饗をした。即ち大鼓ケ原たる所以である。密集教練実施の最適の場所であり、戦闘教練の検閲後、直に密集教練や分列行進が検閲されたものであるカブト山に対する突撃訓練がよく実施され、実弾射撃場では旗竿高地に赤旗が掲揚され、地方人の交通遮断が行われたのも思い出の種である。

長田野と青野ヶ原の想い出  木村敏夫
健脚聯隊をいえば福知山歩兵第二十聯隊、福知山歩兵第二十聯隊といえば健脚聯隊と、共偉名は、京都師団管下のみなこらす、近隣の師団えも鳴り響いていた。いつ頃からその名が生れたのか、さだかではないが、「敢斗精神と機動力」に重点を置いた聯隊の猛訓練が、例年行われる秋期の機動演習で、迂廻行動、正面よりの錐もみ戦斗行動で偉功を挙げ、師団長や作戦参謀達に感銘を与え、講評内容に賞掲されそれが亦聯隊将兵を発奮させ、訓練に訓練を重ね、いつとはなしい、自他共に相許す「健脚聯隊」に発展していったのだろう。勿論、山国育ちの頑健を壮丁の集団がその根底をなしたからである。戦斗行動に機動力が最重要視されることは、誰しも異論は挿しはさまない。
主力の本隊が、極寒の曠野の満州に駐留し、留守部隊が原隊に在った昭和五年当時、留守聯隊長は田中丸勝一中佐、第九中隊長は四ノ宮大尉、第十中隊長は忘れたが、第十一中隊長は河辺大尉であった。三ケ中隊の留守隊に、九十名の幹部候補生が三十名宛配置され私は第十一中隊の幹候生だった。
満州の本隊に負けてなるものかと、留守聯隊は、駐在地を五粁余り離れた長田野演習場に、訓練の場を求めて、寒暑晴雨の区別なく猛訓練を繰返していた。
演習の際は、四装用の程度の惑いドタ靴に、ツギハギだらけの軍服だった。
軍衣袴や編上靴は、最低だったが、意気は天を衝いて、しなやかな若い体駆は、甲種合格にものをいわせ、早朝屯営を出発して、隊はいつも長田野演習場に向っていった。
教官は島谷中尉、助教は吉岡軍曹、助手は増山上等兵と山下上等兵だった。
福知山市を出外れると、きまって交換駈走だった。徒歩と駈走の行進を併用し、目的地へ、体力の能う限り一刻を争って急行進するのである。
長田野演習場近くなると、斥候動作に移る。主隊の時速五粁行進に先んじて、三人位が一組となって、道路に沿った森や林、小高い丘に走り寄り、敵情を探り、報告しつゝ斥候動作を繰り返えす。
この斥候動作は、超人的努力を必要とし、誰もが、顎を出して喘いだ。
旧式の三合入りの小型の水筒は、いつもからっぽであり、道路傍の溝や田圃に頭を突っ込んで、なま温い泥水を、「またなき此の世の甘露」とばかり、腹一杯飲んだ。不思議と、誰一人腹痛も下痢も起らなかった。
長田野演習場に着くと大野森林があり、坂を昇ると台地が一時に開け、巨大な原野がある。
そこが、福知山聯隊将兵の忘れ難い、汗と油を積み重ねた演習場なのである。情況が示され、白帯を巻いた先発の防禦兵を、遥か遠くに眺め、残った力を振り絞って、全速で原っぱを駈走る。
眼は血走り、疲れをしらないもののように、弾丸に似た速さで、一塊りとなって突進する。バラバラ松のあたりまでくると、地形は錯雑し、方向感覚を失ってしまう。
事実、長田野演習場の地形地物を知り尽すまでには、相当の日時を要し、最初の演習では、よく迷児になったものである。
分隊毎や、小隊単位の攻防動作は、飽くなき執拗さで繰返される突撃動作など真に迫る物凄さがあり、老境に入った現在でも、在りし日の若さにものをいわせた演習訓練は、「よくぞ耐えた」と、懐しく思い出されてくる。
帰路は平静な時速四粁の徒歩行進で、雑談交りの愉快か行進であった。
島谷教官は、疲労を防ぐ意味もあってか、一箱五銭のミルクキャラメルを、自分のポケットマネーで、全貞に特別給与してくれた。
「此の世に、こんな美味なものがあったのか」と、むさぼり喰べたことを憶えている。
青野ヶ原は長田野の数倍も広く大きく、遠方でもあり、一週間以上も長期滞在し、小隊以上の規模の大きさで訓練が行われた。長田野での訓練の総仕上であり、時期も、秋期であった。
青野ヶ原の原野は広大で、そのだだっ広い草原で、小隊単位の攻防戦が、若いいのちを堵けて、全力でぶつっかり合うのである。私の体験では、軽機の射手にでもなると、体力を越えた加重で酷使を強いられ、軽機を肩に、一挙!五百米も全速で走ると、「アゴをだし、へたばってしまう」苦難の体験も、今は、若き日の遠い想い出となって、ただなっかしい。
青野ヶ原演習場には、バラック建ての廠合があり、訓練に来た将兵は楽しい合宿生活に入るのである。
建物の設備も粗雑だが、雰囲気は明るく、にぎやかで、兵営を離れた解放感も加わって、十日近い長期の訓練も、夢のように、あっけなく早く過ぎ去ってしまう。
静かに沈思すると、四十数年前の廠舎生活の出来事が、次々と、走馬灯のように脳裡をよぎり、たゞ訳もなくなつかしくなる。






伝説








長田の小字一覧


長田(オサダ) 市場 市ケ島 猪子田 上松 浦ケ田 大榎 勘尻 木戸 国坂 五丁ケ谷 下出合 下野 宿 島ケ下 高場 出張 鞍ケ瀬 仲堤 西田 野台 野々端 太毛 前ケ島 松山下 南端 向田 和田賀 市ノ谷 山嵯峨 長谷 莇谷 嶌池下 チサ谷 中ノ谷 蛇池 砂子 大野上 新田 大野下 花つり 深谷 中ケ谷 駒場 池内 西池 細田 京ケ岡 大谷 捨ヒ上 銭堀 平野 青塚 莇谷 市ノ谷 池内 上松 大野 大野上 大野下 大谷 木戸 小野袋 駒場 琴谷 小嵯峨 五丁谷 宿 島池下 蛇池 千ケ尾 チサ谷 長山 長谷 中ノ谷 西田 西池 新田 早咲ケ尾 花つり 捨上 細田 松山下 松ノ市 中ケ谷 青塚裏 京ケ岡 松山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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