丹後の地名プラス

丹波の

喜多(きた)
京都府福知山市喜多


-PR-






京都府福知山市喜多

京都府天田郡三岳村喜多






-PR-



-PR-

喜多の概要


《喜多の概要》


三岳山の南斜面、大呂川の上流、御勝八幡宮と天寧寺の間くらいに位置している。集落の中心は標高300m前後の高い場所にある。当地が古く佐々岐荘に属し、その北部に位置したため北と称したのがのちに喜多と改めたという。
三岳山蔵王権現(現・三嶽神社)への南の登り口にあたり、蔵王権現の別当寺であった金光(きんこう)寺がある。
中世は佐々岐庄下山保(金山郷)の地で、嘉暦4(1329)年5月日付の預所道戒寄進状に「佐々岐下山保北村七王子大般若転読祈事」とあって、当村の七王子大般若転読供新として「野条村奴多谷上坪」を金光寺に寄進したという。
喜多村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年三岳村の大字となった。
喜多は、明治22年~現在の大字。はじめ三岳村、昭和30年からは福知山市の大字。

《喜多の人口・世帯数》 44・24


《主な社寺など》

高野山真言宗千手院金光寺(きんこうじ)
金光寺不動堂(喜多)

三岳山南腹の標高360メートルばかりの所にある、御勝八幡神社の前の道の三叉路を下へ下らずにまっすぐに行く三岳山登山道。近くに「三岳青少年山の家 みたけ山荘」があるのでそこを目指して行けばよい。
金光寺不動堂
三岳山千手院と号し、高野山真言宗、本尊不動明王。
中近世を通じて三岳山上蔵王権現(三嶽神社)の別当寺で、この道を1キロばかり登ればその三嶽神社である。平安・鎌倉時代は当地は延暦寺末の妙香院門跡領佐々岐庄(上山保・下山保)で、蔵王権現・別当寺も妙香院(跡地は現八幡市)の支配下にあったという。
明徳5年(1394)正月11日付沙弥威光(大中臣実宗)の金光寺衆徒宛文書(金光寺文書)よれば当時蔵王権現神領上山保が領家代官に押領されており、それに原因してか蔵王権現別当寺が退転していたらしいこと、応安2年(1369)守護から上山保の地頭職を認められた沙弥威光の尽力により、上山保は一円金光寺領であることが改めて本所(妙香院)から確認されたこと、沙弥威光こと大中臣実宗が檀越として別当寺を再建したこと、金光寺という寺名はこの時名付けられたものであるという。
嘉慶二年(一三八八)二月日付の金光寺大檀那(割注・大中臣実宗)置文(同文書)によれば、応安三年八月に当寺の規式が定められており、この時期から大中臣氏の外護を受けるようになったと思われ、これは以降の金光寺の歴史と密接にかかわる。
宝徳元年(1449)12月、丹波守護細川勝元の祈願寺とされた。
天文3年(1534)12月18日付風呂番交名に七坊が記される。
『丹波志』に「金光寺炎上、天文十九年二月晦日、此後野集村ヨリ喜多村ノ地ニ引ト云、同炎上、弘治元年乙卯三月廿三日、申刻同再興、永禄六年癸亥四月十五日建立」とあるが、炎上についての典拠は明らかでなく、もと野条村にあったという寺伝もないという。
不動堂より200メートルで「不動の滝」がある。↑

江戸時代の当寺については元文頃書かれた寺社方覚帳(威光寺文書)に、
  高野山宝城院末寺
 一金光寺 寺ノ鋪地高壱斗壱升 但シ上畑壱畝六歩
      也 同持高六石四斗七升余田畑共
  今公事ノ本堂
 一不動堂 古代堂八尺間五間四面金山備後守殿建立
      天和三亥年正月雪潰同四年秀範建立ス
      堂三間四面 堂屋敷長拾間幅八間 内庭
      十間ニ三間 先規ヨリ除地
と記される。塔頭支院として宝寿院・宝光院があり、同覚帳に、
  高野山宝城院末
 一宝寿院 寺屋敷上畑弐拾四歩此高八升
      同持高田畑三石五斗五升
   三岳山別当神宮寺断絶、以後宝寿院ヲ以別当寺
   ニ致シ神職也、
 一宝光院 寺屋鋪上畑弐拾壱歩此高七升
      同持高田畑四石四斗弐升余
   三岳執行入峯寺断絶、以後宝光院ヲ以為山伏寺
   ト、右宝寿・宝光弐ケ寺者神宮・入峯ノ両寺断
   絶ヲ申立両院建立、延宝元年ヨリ高野山宝城院
   ヨリ本寺証文出ルト云云、
とみえる。
「神宮・入峯ノ両寺」断絶後、宝寿・宝光の二院が建立されたらしい。宝寿院には神職が住して氏子の村々を、宝光院には山伏が任して信者を管掌したと考えられる。蔵王権現と一体となった宗教活動がなお盛んであったことがうかがえる。
金光寺がいつ、どういう事情で高野山宝城院末になったかは不明。金光寺は江戸末期に火災により焼失、千手院(不動堂)は天保年間に再建されたが、二院は廃絶した。また明治に入って蔵王権現は三嶽神社として分離した。現在の建物は昭和23年の火災により同27年再建されたもの。
当寺蔵の中世文書は28点を数え、金光寺文書と称される。また絹本著色愛染明王画像・紫絹金泥種子曼荼羅図は市指定文化財。
金光寺案内板
境内の案内板に、
金光寺とその文化財
金光寺は、三岳山の中腹にあり、山麓の佐々木荘は平安時代から始まる比叡山妙香院の荘園として中世-近世に至まで大いに栄えたと伝えられます。金光寺も密教寺院として、あるいは三嶽蔵王権現の別当寺でもあり、また修験道の聖地である三岳山の山伏寺として発展し、以下の貴重な文化財が残されました。しかしながら江戸時代初期には下佐々木威光寺所蔵の『寺社方覚帳』では金光寺のほか宝寿院と宝光臨の二坊のみが記載されており、江戸時代末期からは不動堂を本堂とする金光寺だけが現存することとなります。
絹本着色愛染明王像図
「輪宝羯摩文」と呼ばれる装飾を施した絵絹の中に描かれた愛染明王です。明王は、仏・菩薩・明王・天の4種類に分けることができる仏の一つで、愛染明王は一般的に全身赤色、三目六臂で憤怒の形相をしており、弓矢などを持ち容易に救うことのできない人々を導くという役目をもっています。
金光寺に伝えられるこの明王は、大円相中という円内の蓮台に座し、獅子の冠を著けた姿で描かれており、六臂の腕を持っています。
描画はのびのびと闊達に表現され、画相の諸特徴からみて、鎌倉時代の製作と考えられ、同時代の愛染明王としては出色の作品です。
紫絹金泥種子曼荼羅図
縦九八・八cm 横六七・八cmを測る絹地に横八、縦一二、合計九六の種子曼荼羅を金泥で描いたもので、両界曼荼羅・増趣経曼荼羅系の各別尊曼荼羅をはじめとして、薬師十二神将・請観音経・仁王経・法華経・六地蔵・六観音・三十仏・三衣梵写・福徳・知恵・二十五菩薩・十二光仏等の諸曼荼羅、さらに、熊野・日吉山王・白山・箱根・走湯山の修験霊所の諸曼荼羅を描いています。書体から考えて鎌倉時代を下らないものと思われます。
このほか、紙本墨書の金光寺文書があります。鎌倉時代から江戸時代におよぶ御教書・寄進状・譲状・令旨・禁制・置文・沽却状・書状・掟書などを四巻の巻物にして整理したもので、福知山地方の中世の歴史を研究する上には欠くことのできない史料です。
平成18年3月         福知山市教育委員会


『天田郡志資料』
三岳山千手院 金光寺(真言宗)  三岳村字喜多
 本尊 不動明王  開基 役ノ小角
 創建 文化年(一三〇五-一三〇九) 再建、寛政十一年(二四五九)四月 (以上郷土史料による)
  郡西国十九番の札所 郡新四国第四十五番の札所なり。
  境内建物 本堂、庫裡、観音堂、惣門、鐘楼,土蔵二ケ所、
  修養事業 観音婦人会 五葉児童会、
  寺宝 雲舟 三幅対    洪鐘 享保十五年(二三九〇)三月鋳造  
  檀家 百八十戸  
  郡新四国第四十一番の札所なり、  当寺 世住職月孝和尚は細川越中寺深く帰依せりと云。

酒呑童子伝説では、頼光一行は蔵王権現の祈願文を当寺に納め、本尊不動明王に必勝祈願をしたという。
近くに行枝家がある、伝説によれば一行が手形を置いていったという。

三嶽神社(蔵王権現)
三岳山の中腹にあり、本社・役行者堂・奥院などがある、境内山林は除地で、山畑はことごとく年貢地という。当社より三岳山頂までは8町余で女人結界。鳥居は中佐々木村にある。
当権現は天文14年に炎上、同21年金山備後守晴実によって再建された。また祭礼は下山保内6か村と上山保内5か村が隔年交代で営み、祭礼当日は神輿が大呂村の天満宮下の御旅所まで往復したという。鎮座地を喜多としたり上佐々木としたりしている。

『天田郡志資料』
村社 三岳神社 三岳村字喜多鎮座
祭神 大国主命 祭日十月十七日。
郷土史料=奥の院白山権現までは本社より八丁許あり(山頂なり)境内山林はすべて地頭の除地なりき、喜多村より登る時は本社十八町、本社より上は女人禁制、此山御嶽山ともいふ。東柿の尾登堺三岳山頂於南、坂柿の尾横大道於西、今田野堅道堺山上道於北、三岳嶺堺雲原堺、右方至為結界之上、甲乙無狼籍地頭之証状有云々と丹波志に見ゆれど確かならず。
鳥居は上山保カミヤマホ中佐々木にあり是正面なり、三岳山金光寺は下山保喜多にあり是本保坊なり、上山保とは上、中、下佐々木、一ノ宮、常願寺の五ケ村、下山保とは大呂(長尾、花倉、瘤の木は昔大呂に族す)喜多、上下野条、行積、天座の六ケ村をいふ。
祭礼式・下山保登山の年は御輿は大呂村天満宮の下御旅所まで神幸アリ、上山保登山の年は古例として御輿は出さず、神弊を捧げて別当野際の社に出づ。
天文十四年(二二〇五)四月廿三日炎上、仝廿一年再造営  願主 金山備後守晴実
伝説・源頼光等大江山鬼退治の際此山に分け登り遥か艮の方なる大江山を認むるを得たるより見立山(みたてやま)と云。

『丹波志』
三岳山 東北南ハ丹波 北ハ丹後 古川口郷 下山保内 金山郷 喜多村 別当 金光寺
                      天田郡佐々木庄ト四百五六十年已前ノ天寧寺寄付ニ有之
  祭神 蔵王権現 右脇士篭権現
             左   勝手権現  中尊五尺但前立也
本社西南向八尺間五間ニ四間半東脇ニ舞台在
役行者堂 本堂ノ西ニ間四面  奥院白山権現本社ヨリ山頂マテ八町斗
境内山林地頭之除地也山畠ハ悉年貢地ナリ
北ハ下野条村東ハ上野条村辰巳喜多村南未中下佐々木村
上佐々木村西ハ丹後国雲原ノ内名島
喜多村ヨリ山ニ登ル十八町本社ヨリ上ハ女人結界
三岳山御嶽山トモ 東柿ヶ尾峯登ニ疆三岳山頂於南疆柿ヶ尾横大道於西今田竪道?山上ノ道於北三岳嶺疆雲原境ヲ右方至爲結界之上申乙人無狼藉様地頭之證状在之
鳥居 上山保中佐々木村ニ在是正面ナリ
三岳山金光寺 下山保喜多村ニ在リ是本坊ナリ
真言宗高野山末寺真言別当宝壽院山伏入峯
寺宝光院 一観音堂 一不動堂 一薬師堂
右ハ金光寺地中ト云 十王堂 屋敷而巳ナリ
境致
明顕塔 右九輪八尺斗 金光寺ノ上 観練添直流十七丈余
観練門 惣門ナリ 金剛岩 トウの左道ニ歌立不動ノ真影石面ニアリ怪石縦横?深也
三本杉 山上本堂ノ下一町斗 大樹ナリ
鉤掛(カギカケ) 参詣ノ人木ノ枝ノ曲リタルヲカギノコトリシテ掛ルナリ俗ニカンカケト云
明顕塔供養法諸天寧寺愚中禅師禄ニ出
観練門モ同禄ニ出
右之外往古坊屋敷由緒最多シ略之
祭礼毎歳九月晦日下山保上山保村々隔年ニ登山祭礼ヲ努
下山保内ト云ハ大呂村 長尾村 花倉 瘤木 三ヶ所ハ大呂村ニ属修之
喜多村 上野条村 下野条村 行積村 天座村
以上六ヶ村
上山保内ト云ハ上佐々木村中佐々木村下佐々木村
一ノ宮村常願寺村
以上五ヶ村
祭礼ニ九月晦日御輿出テ大呂村天満宮ノ社下辻
宮御旗所ト云是下山保ヨリ登山ノ年ナリ
上山保エハ古例トシテ御輿不下神弊ヲササゲテ別当
野際ノ社江出ル是上山保ヨリ登山ノ年ナリ
中古ノ縁起在之往古ノ紀禄等不伝ト云
権現炎上 同再建 天文十四壬子年 施主金山備後守晴実 但備後守宗恭五代孫
金光寺炎上 天文十九年二月晦日
此後野条村ヨリ喜多村ノ地ニ引ト云
同 炎上 弘治元年已卯三月廿三日申刻
同 再興 永禄六年癸亥四月十五日建立
三岳山古記等無之
一源頼光願書ト云書在之雖然本書失却ス写也難證故略之
一中古書モノ等多略之
前太平記ニ曰丹後国アオヱノ社ハ非丹後国也丹波国三岳山社ノコト
六所権現  喜多村
 祭神    祭礼九月九日
 本社四尺 五尺 舞殿屋敷斗 社高一石七斗余除地
正一位権現 同村
 祭神   祭日同月同日
 本社 三尺五寸 四尺 社高二石三斗除地
地蔵権現  上野条村
 祭神    祭日極タルコト無之十月朔日
 三岳山祭礼ノ翌日

六所神社
六所神社(喜多)
金光寺山門↑と六所神社(右手の黒い屋根の覆屋の中)↑
六所神社

『天田郡志資料』
六所神社  三岳村字喜多鎮座
 祭紳 上筒尾、中筒尾、底筒尾の三柱及大直日、大禍津日外一柱の神達 (祭日仝前)(六月十七日、九月九日)

『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』
第六節 喜多
 喜多には、株親の十一戸で構成される親講(講中)と分家や寄留者などで構成される平講があったが昭和三十年ごろに統一された。親講の構成者は、株親に限られ、隠居や分家をしても入ることはできず、家が絶えると再興しても入ることができなかった。
 統一されるまでは、親講・平講は別に講を開いていたが、氏神六所神社の経営や宮田の管理は親講に限られていた。特に、親講は三岳山祭礼の際に、前日から六所神社に籠り、当日は金幣や白幣を持つ家が決まっており、それぞれ所定の御幣を持って三岳神社に登るが、平講は幟持ちなどの役をつとめていた。親講のトウヤに当たると、部屋に注連縄を張り女性の入室を禁じると共に、料理も精進料理と定められていた。六所神社の本殿に入ることが出来るのもトウヤだけに限られた特権であった。
 親講のトウヤの引継ぎ式(トウワタシ)は、毎年二月一日に行われていた。トウワタシは、トウヤの表の間(向座)で行われた。トウヤとショウジダイは部屋の内側に注連縄を張り、六所神社のお供えを準備する。表の間の床には「六所大権現」の軸をかけ、席は新旧トウヤ、ショウジダイなど決められた席に座り、男性の調理した精進料理の本膳で接待をおこなった。この席で、ショウジダイの采配でトウワタシの盃事が行われていた。
 この、喜多のトウワタシについては、『福知山市史』第二巻に報告が掲載されているので参考にしてほしい。
 現在、六所神社では次のような神事が行われている。
 元旦 当番が鳥居の前に大きな火を焚き、六所神社に御鏡餅と御神酒を供える。
 御礼会(一月二日)月ごとの神社当番のうち、一月の当番が準備を行う。七王子神社に、塩鯖、大根、ごぼう、お米、鏡餅、御神酒を供え、神官が神事を行う。六所神社の祭礼は、七王子神社の祭礼の際に行うようになっている。神事のあと、直会が三岳会館で行われる。
 三岳神社祭礼(四月九日・十日、十月十七日) 現在では、野際と喜多の七王子神社で祭礼を行っているが、以前は、春・秋いずれか氏子十ケ村の区長・自治会長が三岳神社に参拝し、下山ののち三岳会館で直会を行っていた。六所神社の祭礼は、この七王子神社の祭礼に合わせて行われていた。
 七王子神社は三岳神社の輿を借り、六所神社は一宮神社の輿を借りて参加した。一年前に上野条から連絡があり、区長中心に準備を進める。
 昭和四十二年には、太鼓打を出した。大太鼓一、小太鼓二組、笛役、太鼓警護、ささばやし一人、太鼓はまい太鼓で右回りに四人で打つ。御勝八幡宮へは、神輿、印幟、太鼓打などが行列をつくり参加した。 (久下隆史)




《交通》



《産業》



喜多の主な歴史記録


『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』
【三岳権現社】
 三岳権現社の祭礼について『丹波志』は次のように記す。
     北東     古川口郷、下山保内 別当
 三岳山 南ハ丹波、北ハ丹後、金山郷喜多村、金光寺、
 祭神蔵王権現 天田郡佐々木庄ト四百五六十年己前ノ天寧寺寄附ニ有之
            有脇士籠権現
                 中尊五尺、但前立也
            左勝手権現
      (中略)
 祭礼 毎歳九月晦日 下山保・上山保村々隔年ニ登山、祭礼ヲ務

           長尾村・花倉村・癌木
   下山保内卜云ハ大呂村       ・喜多村・上野条村・下野条村
             三ヶ村は大呂村ニ所属
    ・行積村・天座村 以上六ヶ村
   上山保内卜云ハ上佐々木村・中佐々木村・下佐々木村・一ノ宮村・
常願寺村 以上五ヶ村
 祭礼ニ九月晦日 神輿出テ大呂村天満宮ノ社下遷宮、御旅所ト云、是下山
 保ヨリ登山ノ年ナリ
 上山保エハ古例トシテ神輿不人、神幣ヲささげテ、別当野際ノ社エ出ル、
 是下山保ヨリ登山ノ年ナリ
 中古ノ縁起在之、往古ノ記録等不伝ト云、
 権現炎上 天文十四乙己年四月廿三日
             施主金山備後守晴実
  同再建   天文廿一壬子年
             但備後守宗恭五代孫
  金光寺炎上 天文十九年二月晦日
   此後野条村ヨリ喜多村ノ地ニ引ト云
   同 炎上 弘治元年己卯三月廿三日申刻
   同再建 永禄六年癸亥四月十五日建立
 三岳山は、現在三嶽神社と称されるが、本来蔵王権現を記る修験の社で、役行者の開基とする伝承をもつ。別当寺に金光寺があり、この山岳寺院を中心に、多くの坊があったようである。『丹波志』には記されないが、権現社は元禄十年(一六九七)にも火災に遭い、本尊などを焼失している(牧家文書)。
 金光寺については、『丹波志』はもと野条村にあったものを、天文十九年(一五五○)の火災後に喜多村に移転したと記しているが、真偽は不明である。創建を大化年中とするのは別として、現在も鎌倉時代末期以降の史料が残るから、山岳修験の寺院として古くから存在していたことは確かであろう。
 この付近が平安時代中期以来、比叡山妙香院領佐々岐庄に属していたことはすでに記したが、三岳山の蔵王権現は、その鎮守社的性格を有していたようである。若干時代は下るが、領主祈祷のために、寄進がなされていたことを示す次の文書(前述の元亨二年六月二十日付「治部卿法印某寄進状」金光寺文書が残される。
 寄附 蔵王権現七王子惣大般若転読供料事
       御年貢
   合壱石弐斗   者
        斗定
   佐々岐下山保野条村奴多谷上坪囚合田所当内
  右件大般若転読供料、無其足之由嘆申之間、為本家領家御祈梼、永令寄附
  之状如件
    元亨式年六月廿日
この佐々岐庄のうち半分の下山保には、鎌倉時代後期に関東から地頭が入部していた。常陸より移住したという大中臣(金山)氏である。この金山氏は、南北朝の混乱に、領家代官たる武士層の狼籍によって、蔵王権現(金光寺)の寺域が荒廃した時に、その建直しをおこなったらしく、応安三年(一三七○)の年号を持つ次の文書(金光寺文書)が残る。
  丹波国天田郡金光寺之寺内四至方至事
   合 東尾峯登仁限三嶽山順於
    南限尾横大道於
    西今田堅道限山上乃路於
    北三嶽嶺限雲原境於
 右之方至爲結界之内間甲乙人等猥致殺生不可及狼籍異儀仁於山林等任雅意
 不可剪之者也、於此背仁者可被処重科者也、仍後代亀鏡之状如件、
   応安参年庚戌八月廿二目
            大壇那地頭
              右衛門尉大中臣実宗(花押)
この文書によって、南北朝期にはかつての荘園領主である比叡山妙香院に代わって、金山実宗が大檀那地頭として、大きな力を持っていたことが知れる。
ただし金光寺には、中世期の祭礼などに関する文書は残されておらず、近世以前の三岳山を中心とした祭礼が、どのようなものであったかを知る手がかりはない。ただ近世の祭礼については、前述の如く『丹波志』に若干の記述があり、ほかにも地元の数家に数点の文書が残ることで、その実体の一部は推測できる。
 『丹波志』に三岳山の祭礼は、上山保と下山保が隔年に勤めたとあるように、三岳山の氏子圏は、かつての佐々岐庄の範囲である上山保(上佐々木村・中佐々木村・下佐々木村・一ノ宮村・常願寺村の五ヶ村)と、下山保(大呂村〈長尾村・花倉村・瘤木〉・喜多村・上野条村・下野条村・行積村・天座村)であり、その祭祀は、上山保と下山保が隔年で勤めたようである。この祭祀組織は、近世のそれではなく、中世以来のものであったと考えてよいかと思う。
 このうち下山保の村々は、地頭金山氏の支配地であった故に、中世後期には金山郷の名でも呼ばれた。ただし厳密には下山保と金山郷の範囲は必ずしも一致しない。御勝八幡宮の大祭の祭祀は、金山郷の村々というより、三岳山の一方の祭祀圏である下山保の村々が参集するといった方が実状に近い。これは三岳山の祭祀組織や、御勝八幡宮の祭祀組織が、金山氏入部以前から存在した組織であったからに違いない。
 この金山氏は、荘園領主の側が衰退するのに替わって、この祭礼に積極的な援助を与えたようである。『丹波志』の姓氏の項に、
 一、加藤氏 子孫 大呂村奥谷
   金兵衛ト云者系図無之、金山氏ヨリ拝領猩々頭所持、
とあるが、この猩々頭は、御勝八幡宮の大祭に出る「猩々舞」(近年は天座が伝えている)と関係があるのかもしれない。本来猩々舞は、三岳山の祭礼や、御勝八幡宮の大祭に大呂村が担当していたものが、その不参により、天座が代わって伝承した可能性も考えられるからである。
 以上のことを勘案すると、野条村(上下)の鎮守社が地蔵権現社、野条を含む下山保の鎮守社が御勝八幡宮、下山保を含む佐々岐庄の鎮守社が三岳山(三岳権現社)と考えてよいようである。
 もう少し別のいい方をすれば、平安時代に成立した比叡山妙香院領佐々岐庄の荘園鎮守社として、それ以前から鎮座した山岳修験の神社である三岳権現社が祀られ、その祭祀を、荘域内の地理的条件によって編成された上山保と下山保が、隔年に担当するという祭祀制度となった。下山保では別に、それ自体が郷的村落組織を形成して、その郷社的性格を持った御勝八幡宮を祭祀し、その大祭に下山保の村々が参集した。また下山保内の一共同体であった野条村では、村落結合の紐帯として、地蔵権現社が祀られ、その祭祀も行われた。
 この地には以上のような重複的な祭祀組織が、中世期に成立していたということになるのではなかろうか。








喜多の小字一覧


喜多(キタ) 荒倉 荒倉口 庵屋敷 有ケ市 後ケ岶 アラタ 家ノ上 家ノ下 家ノ脇 稲開地 稲置場 岩ケ端 池尻 今田ノ下 岩本 石ケ岶 石バシ 内クモ ウシロ 江戸大根 大西 奥根 ヲク 片ケ岶 上家谷 上開地 カゴ 北垣 木戸ノ元 岸谷 岸根田 クロ山 クロザコ 小谷 コウ岶 ゴモン 祭ノ木 サカ サコ サコダ サクラガイ サユウ 新田 下開地 釈戸 十王堂 シレ 杉ケ岡 ズエ ズエガ市 青蓮寺 セキマ ソウ宮 谷 谷口 滝ノ下 滝ケ端 立道 立壁 ダン ダン子 ダイラ 辻 辻ノ下 造道 寺ノ上 寺ノ下 寺ノ前 寺ノ向 寺ノウラ 鳥ケ尾 堂ガ岶 堂ノ前 堂ノ下 トチ子が原 ドエノ元 ドンギレ 中東 中田 中坪 中が岶 中ノクゼ ノタ子西田昔 原尻 ハリノキ 林ゲ岶 広替 樋口 日ノ本 風呂ケ谷 不動岩 古戸 クジノヲ 正岶 松坂 宮ノ上 宮ノ下 宮ノ前 南田 南坊 道ノ上 溝ノ下 ミコ田 ミツヲ ミヤス 向田 向イ 森ケ岡 森ケ前 森ケ上 柳本 柳原 薮ノ下 矢ノ谷 山ギハ 湯ノ岡 ユリ ユリノ下 ロクロギ 中谷 前ノ前 ハラ 荒倉 荒倉口 家ノ上 家ノ向 池立 池ノ尾 石ケ岶 威光寺峠 ウバガフトコロ 江戸 大西 大根 大滝 奥 奥根 奥ノ坊 ヲリト ヲノタ ヲビシロ カレ カゴ カクシ畑 力タガ岶 カラガマ カギカケ 岸谷 岸根田 木戸ノ木 北垣 小谷荒神山 コウ岶 ゴモン サル山 サカ 釈戸 青蓮寺 シモ峠 ソミヤ 滝ノ本 滝ノ上 滝ノ下 谷 谷カイチ 高ノ奥 立壁 タキガシリ 寺ノ上 寺ノ向 寺ノ浦 戸倉峠 鳥ノ尾 ドガ岶 中東 中ケ岶 ナベ畑 ノタ子 林ケ岶 ハテ ハラ ハナノ木 姫ケ岶 広替 広岶 ビシヤ門山 風呂ケ谷 フルト細谷 ボウガクボ 松坂 宮田 宮ノ下 三ツ尾 三石畑 ミコ田 ムクロジ 森ケ岡 森ノ上 矢ノ谷 山ギハ ユノ岡 ユリノ下 ユグチ ヨコヲ 吉六 トリノヲ 家ノ前 コタキ サイノ木 山ノ畑 ヌタノ尾 タカノス


関連情報










資料編のトップへ
丹後の地名へ



資料編の索引


50音順



市町村別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索して下さい。




-PR-




-PR-




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2015 Kiichi Saito (kiichisaitoh@hotmail.com
All Rights Reserved