丹後の地名プラス

丹波の

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上野条(かみのじょう)
京都府福知山市上野条


御勝八幡宮25年大祭の様子は、こちらから


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京都府福知山市上野条

京都府天田郡金山村上野条



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明治34年発行
『幼年唱歌』


『大江山』
作詞 石原和三郎
作曲 田村 虎蔵


むかし丹波の 大江山
鬼どもおおく 籠りいて
都に出ては 人を食い
かねや宝を 盗みゆく

源氏の大将 頼光は
ときの帝の みことのり
お受け申して 鬼退治
勢いよくも 出掛けたり

家来は名高き 四天王
山伏すがたに 身をやつし
険しき山や 深き谷
道なき道を 切り開き

大江の山に 来てみれば
酒顛童子が 頭にて
青鬼赤鬼 集って
舞えよ歌えの 大さわぎ

かねて用意の 毒の酒
勧めて鬼を よいつぶし
笈のなかより 取り出だす
鎧かぶとに 身をかため

驚きまどう 鬼どもを
ひとり残さず 斬りころし
酒顛童子の 首をとり
めでたく都に 帰りけり

上野条の概要


《上野条の概要》


当地方最高峰の三岳山(839m)東麓に位置する。地内の西部は大呂川の源流部で、東部は花倉川の源流部になり、両川の分水点付近を占めていて、集落は標高320m付近にある天空の村。五老岳より高い、雪が降るころに行ったことはないが、大変なことだろう。
上野条(福知山市)

中世には佐々岐庄下山保(金山郷)の地で、地名の早い例は元亨2年(1322)6月20日付治部卿法印菓寄進状(金光寺文書)。
上野条村は、江戸期~明治22年の村。「正保郷帳」では野条村に含まれる。のち分村により当村が成立し、寛文4年朱印状目録と「元禄郷帳」には下野条・上野条両村が見える。「元禄郷帳」「丹波志」「天保郷帳」の当村の項には「下野条村枝郷」「古下野条村支」と付される。しかし「威光寺文書」 の「寺社方覚帳」には「上野条村枝、行積・下野条」とあって、上野条・下野条両村の関係は明らかでない。だいたいは上の村の方が古いのが一般的で、本当はもっと山の上にあったかも知れない。
はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年金山村の大字となる。
上野条は、明治22年~現在の大字名。はじめ金山村、昭和30年からは福知山市の大字。
大江山(酒呑童子)伝説の地である。

《上野条の人口・世帯数》 37・20


《主な社寺など》

御勝(みかつ)八幡神社
御勝八幡神社
御輿巡幸直前の様子↑
紫宸殿田楽の伝わる社として有名な神社だが、何せ25年に一度だけ奉納されるものだし、伝承する村々にはその上に過疎高齢化が進む村開闢以来の危機きびしい中、次の大祭は2015年の10月12日が予定されているという、今回を見逃すとワタシの場合は次はもうこの世にいるのかどうかもわからない。(大悪政の結果としてこれらの村々がこの世に存在しているのかもかもわからない??。村の「存立危機事態」であるが、どこかから攻撃されるという架空のありもしない想像上の危機はたとえ違憲でも守るというのだそうだが、実際に無数にあるこうした国内の危機は知らん顔、内政大失敗への不満のはけ口としての外部脅威論、よく使われる手口であろうか、もうこの政権は終わっていると見てよかろう)
境内はよく整備整頓されている。分水嶺の峠道を大呂側へ越えた道ぶちに鎮座している。御勝の「勝」は鍜冶だと指摘する人もある(『鬼伝説の研究』)、スルドイお医者もいらっしゃるものだ…、さらにスルドク切り込めば、鍜冶といった程度の社ではない、鍜冶屋の神社などはいくらでもあるが、当ミカッツァンこそ茨木童子の拠点社である、茨木童子の子孫という家・堂城家の所有する「山透かしの笛」がないと25年に1度の祭礼ができないのというのだから、当社は大江山の酒呑童子の一の子分、あるいは副将とされる茨木童子を祀る社であると見なければなるまい。
(天田郡式内社の荒木神社も茨木神社かも知れない。)
山透しの笛
これが「山透かしの笛」か。↑(か、などと頼りないことを言うのは厳粛な神事の途中なのでそうしたことを聞いて確かめるようなことがてきない、有名な笛をダ~レも注意していない様子で、不安になったが、総合判断でこの笛がそうだろう。)「青葉の笛」「谷透かしの笛」ともいう。「青葉の笛」を題材にワシは大小説を書く、と言っていた知り合いがいたが、成し遂げることできず、コロッと亡くなってしまった、フト思い出した。

案内板がある。
御勝八幡宮の由緒御勝八幡宮の案内板
 この神社の創建は、昌泰二(西暦八九九)年以前と云われている。この地方の総社として正暦元(西暦九九〇)年源頼光が大江山の鬼退治に行く途中にこの神社に参り、成功を祈願すること三十七日、その加護によって大勝した。帰る途中再びこの神社に立ち寄り大勝の報告をし、御神徳を讃えて御勝(みかつ)の名を与えた。
 以来、諸事必勝の霊神として後世の人々に崇敬され、二十五年毎に行われる御勝大祭は、近郷の七つの神社の御輿が参加し、紫宸殿田楽(びんささら踊り)が奉納される。
京都府指定無形民俗文化財



野条の紫宸殿田楽御勝八幡宮の案内板
(京都府登録文化財・福知山市指定文化財 無形民俗)
福知山市字上野条 上野条文化財保存会
 野条の紫宸殿田楽の由来として、大江山の酒呑童子にちなんだ伝説が伝わっています。
 京の都から大江山へ鬼退治に向かった源頼光一行は、その道中、三岳山の麓に鎮座する八幡神社で戦勝祈願をし、その後、酒呑童子を討ち取りました。再び八幡神社を訪れた一行は、御神徳を讃えて“御勝”の名を与え、ここに田楽を奉納したと言われています。御勝八幡神社の名もここに由来するとされています。
 紫宸殿田楽は、御勝八幡神社で25年に一度行われる御勝大祭の中で奉納されます。祭礼の歴史は古く、現在確認できる最古の記録は明暦元年(1655)で、当時の姿を地元で大切に伝承しています。
 田楽とは、もともと稲作に関わるもので、豊作を願い、全国各地で奉納される芸能の一つでした。その後、時代が下るにつれ生産の場を離れて観賞化され、諸寺社の神事に欠くことのできない芸能へと発展しました。また、紫宸殿田楽という名は、当時、宮中の紫宸殿で行われていた田楽に由求するといわれています。
 この御勝八幡神社に伝わる紫宸殿田楽は、礼状の板をつづり合せた打楽器のビンザサラを持つ踊り手12名、加えて太鼓2名と笛2名、前立(まえだち)と称する各1名の甲冑武者と山伏により構成されます。笛の音色に合わせ、列立している踊り手が互いに背合わせになったり、横に飛んだり、輪になったりと、独特の動きをする特徴があります。地元に伝わる笛の譜「紫宸殿笛記」などによると、伝承されている曲は「烏飛踊」「袖振踊」など全12曲。この神事は、古い様子がよく残されており、中世の田楽の名残を現代に伝えています。

紫宸殿田楽の様子

御勝八幡宮ノ由緒御勝八幡宮の案内板
祭神 誉田別命
創立 年代不詳ナルモ古文書ニヨリ按ズルニ昌泰二年(皇紀千五百五十九年)以前ニカゝルガ如シ
由緒 当社ハ往古当地方総社ニシテ一条天皇正暦元年(皇紀千六百五十年)三月源頼光勅命ニヨリ大江山鬼賊退治ニ際シ当社ニ参籠祈請スルコト三七日其ノ加護ニ因リ大勝ヲ得タレバ帰途当社ニ報賽シ御神徳ヲ讃ヘテ御勝ノ御神号ヲ奉レリ
以来諸事必勝ノ霊神トシテ弘ク世人ニ崇敬セラル 猶二十五年目毎ニ御勝祭ト称スル大祭典アリテ近郷七社ノ御輿ノ渡御アリ当日奏セラル紫宸殿田楽舞ハ我国希有ノ古楽ト云ハレ頼光奉賽故事ニ始マル
史蹟 頼光沐浴ノみそぎノ谷、みたらしノ池、神巫屋敷、神戸田、田楽田、御勝等ノ旧蹟ヲ有ス
社宝 麿子親王ノ甲冑、頼光愛用ノ合図山透ノ笛等アリ


社殿鎮座の地は宮守(みやす)といい、付近に神子屋敷・神子田・田楽屋敷などの名をもつ田畠があって、往時の神事が盛んであったことがうかがえる。祭神は応神天皇ほか。旧村社。
草創については不明、中世には佐々岐庄下山保(金山郷)の鎮守であったとされ、近世には上下の野条の氏神であったという。
寺社方覚帳(威光寺文書)の下野条村の項に、
 上野条下野条 両村ノ氏神八幡宮 宮五尺ニ四尺五寸 森 長拾六間幅拾弐間 除地社人なし
    宮高壱石六斗五升七合 村高ノ内
とあるそうで、
また「丹波志」には、
数百年前山城国男山ヨリ勧請之事跡多有之、先規トシテ廿五年ニ一度祭礼ヲ行フ、御輿ヲ出ス、喜多村・天座村・行積村ヨリ村々ノ御輿ヲ出シ、八幡宮聚り歌舞ス、神楽ヲ秦ル、千午院祭礼導師ヲ勤ム古例ナリ、本社五尺ニ四尺五寸 高一石六斗五舛七合除地
と記される。
25年に一度の大祭礼はいくつかの芸能が伝承する集落から奉納されるが、「紫宸殿田楽」とよばれる田楽躍の奉納が有名。伝説では源頼光が大江山の鬼退治の時、この社に戦勝を祈願し、無事に平定することができたので、感謝の意味で舞楽を歓じたのが今に継承されたという。祭日は9月最初の未の日と定められ、当日早朝付近の天座・行積・下野条・喜多・中・三岳の六社の御輿が、当社へ渡御する。祭儀が終わると、社前に敷かれた荒筵の上で田楽が始まる。12番あるうち3番までを神前で演じ、以下は舞台に移る。その後で狂言があり、そのほか各集落奉納の余興が行われる。田楽の踊り手はビンザサラ12人、太鼓2人、笛2人、先達2人の計18人。先達のうち1人は長さ2メートルもある赤塗りの木太刀をはいた山伏姿、他の1人は甲冑を着ける。この甲冑は野端村の旧家小田家に伝わったもので、麻呂子親王が鬼城退治の時に着用した遺品と伝えている。

本来は鉱山の村なのだと思われる、ミヤコの方からその偏見で見れば鬼どもが棲む山に見えたのだろう。その地元すらもその偏見と独断を影響を受けたのかも知れない。受けたようなフリをしているのかも知れない。そうした歴史があるのかも…


25年に一度の御勝八幡宮
大祭の様子 (平27.10.12)

御勝八幡25年大祭
御勝八幡25年大祭
このあたりに駐車できたら超ラッキー、ずっとずっとず~と遠くへ駐めて歩かないとたどりつけない。一生に三度だけと言われてきた、今は寿命が延びて、隣りに腰掛けていたジイちゃんも四回目や、と言っていたが、しかし一生のうちにそう見れらる祭礼ではない、それくらいで文句はいえない、見ないわけにはいかない。
御勝八幡25年大祭
この子たちなら4度見ることができるかも知れない、可能性の一つで、あくまでも、かも知れない、もう一つ重要な要素があって、それまで村が存続できるか、これは政治の良否の問題である、有権者の政治意識の良否の問題である。

10時、祭礼に加わる各神社が集まり、鳥居前のあいさつ↓

玉串奉納などの神事↓

11時巡幸開始↓
御勝八幡宮、愛宕神社、六柱神社、大歳神社と続く。七つの神社の御輿が参集したというが、今回は少し淋しい。

神社のうしろ側を一回りして戻ってくる。
のちに還幸祭でそれが終われば奉納神事、12:30くらいから。

紫宸殿田楽の奉納(上野条・下野条)
紫宸殿田楽
紫宸殿田楽
案内板の写真とはドえらい違いで、本殿前はものすごい人のもみくちゃの戦場である。紫宸殿田楽は12番まであり、3番までは本殿前で奉納されるが、カメラなど構えられるスペースがない。1番「御国踊」、2番「よせ踊」、3番「中舟踊」いずれも2分くらいのもの。太鼓2人、びんささら12人、笛2人、前立2人で奉納される。
中央二人が持っている締太鼓を「シテテン」と呼ぶのだそうだが、ここから紫宸殿(シシンデン・本来の意味は内裏のなかの重要な公的行事が行われた建物)と呼ぶようになったのだろうとか言われる。
何とも興味引かれる指摘で、もしそうならばさらに推測すれば、伝説の「酒呑」童子と「四天王」とかも発音が似ているが、あるいはこの太鼓から発したものかも。酒呑童子が有名なわりには、その実態がヨウとして掴めないのはこうしたことかも知れない、実際は副将格とされる茨木童子こそが大将だったのかも知れない。
元々は笛は道城家とか前立てはどの家とか役は特定の家に決まっていたそうだが、今はもうないという。
田楽は平安中期から鎌倉時代にかけてのもので、本来は田んぼの中で演じられた農民の娯楽なのだろうが、それが洗練されていき、比叡山妙香院佐々岐庄の荘園鎮守社・三岳権現の祭礼芸能としてミヤコより、こうした形で持ち込まれた、それを村のリーダーとなって引き継いできたのが道城家と見られている。

最低でも18名いないと奉納できないが、伝承集落は限界集落であり、自前で確保できず、踊り手の半数以上は集落外の人にたよる、無関係の人ではなくいずれも当集落出身者で福知山市や綾部市などに住む人達であるという。何度も練習通いを重ねて今日の奉納になった。

舞堂で奉納される4番~12番。皆には見やすくなるが、光線具合が悪いよう。





天座田楽の奉納
『三岳山信仰』に、
大祭では、紫辰殿田楽に続いて、天座地区から、「烏とび」「びんざさら」「猩々舞」が奉納される。
現在はすべて天座地区の芸能として、合同で演じられるが、もともとは、「烏とび」「びんざさら」は大歳神社の氏子が勤め、「猩々舞」は字桧谷の武田一族の長男が勤め、その伝承基盤を異にしていた。前者は田楽、後者は能を伝えるものと思われ、両者は全く別々に伝えられてきたものであった。
御勝八幡宮大祭の当日、早朝にまず「場ならし」と称して、大歳神社の舞台でこれらの芸能を奉納し、御勝八幡宮に赴いた。御勝八幡宮から帰ると、「かさばこなおし」といって、大歳神社でまた芸能を一通り演じ、その後には俄か芝居なども演じられたという。


烏とび(三分四十秒)
笛三、四人(本来は一人)・太鼓一人が舞台上手に囃子方として座る。裃姿に侍烏帽子。踊り手は三人で、少年の役とされている。衣装は囃子方と同じ。腰に扇をさす。踊り手は舞台下手から出てくると、横一列に並び、両腰に手をあてて、正面を向いて立つ。最後のほうで「カアー」と烏の鳴きまねをする。


びんざさら(所要時間八分)
烏とびの囃子方がそのまま残るが、太鼓役は加わらない。びんざさら役は十二人。裃に侍烏帽子姿で、腰に刀をさし、口に榊の葉をくわえる。ささらを左肩にかたげた姿勢で、舞台に登場すると、二列横隊に正面を向いて並ぶ。縦列の紫宸殿田楽と異なり、こちらは横列になる。


猩々舞(しょうじょうまい)(所要時間四分三十秒)
もとは桧谷の武田一族が勤めた。囃子方も、「烏とび」「びんざさら」とは別に、武田家から出たという。現在では、「烏とび」「びんざさら」の囃子方がそのまま残り、舞台奥に座って、囃子をつとめている。舞方は二人。ともに青年の役で、赤頭を被り、緋の袴を着る。扇を持ち、面はつけず、白粉を塗って化粧する。



流鏑馬
流鏑馬

練り込み太鼓
各集落にはかつては御輿や太鼓が伝わっていたのだが、だいたいは子供が叩き手であり、今回奉納できたのは2集落のみであった。子供がいないのである。郷土行事に主役として子供が参加するのは極めて大切なことで、太鼓が難しくなると全体が赤信号。
音曲を伝える譜面などはなく、すべて先輩からの口伝であるため、長く途切れると復活は難しくなるという。今ならビデオなどあるから、ぜひ記録を残されたい。太鼓も大小あり、笛もあるから一人では全記録は残せない。練習時に写しているのか本番ではそうした大事なカゲの部分を記録している様子がなかった。
下野条
下野条には小中生徒は3名だけだそうで、当集落出身者に手紙を出して協力を呼びかけ10年ぶりに復活させたという。


天座



餅まき
餅まき

芸能もスゴイが、それを未来へつなごうとする人達のこころざしがスゴイ、エライ、リッパ、さすがにオニだ、どちらが誠の鬼かを見せつけてくれた。どうか25年後も、そして50年、75年、100年、…と祭礼が続きますように、祈る。



地蔵権現
『丹波志』には次の記載がある。
地蔵権現  上野条村
祭神    祭日極タル事無之十月朔日
三岳山祭礼ノ翌日也、笠直シトテ神前ニ歌舞ス、本社四尺ニ三尺五寸、産子下野条ニモ有リ 高五石六斗八升上野条同出八斗一舛下野条ニ有リ



真言宗継明山宝光寺
『丹波志』
継明山宝光寺 真言宗 上野条村
  喜多村金光寺末寺
    寺内高一斗三舛田畑無之
    千手観音郡内順礼十八番札所
東照寺 真言宗 下野条村
          同右末寺
    寺高四斗三舛九合

公民館があるあたりにこんな石仏が残されている。このあたりにあったものか。

薬師堂。
『福知山市史』
上野条薬師堂木造薬師如来像(福知山市字上野条)
像高二七・三センチの坐像で寄木造り像である。
 定朝様の仏像ではあるが頬の肉付けがやや不足していたり、膝が胴から長く出て、足を強く曲げて組む、やや不自然な作風からみて、この地方で製作された仏像と思われる。各部に地方作としての特色を出しながら、起伏のゆるやかな衣文を作っているのは、藤原時代も末期にさがったころの作品であることを物語っている。
昭和三十八年十二月 福知山市指定文化財に指定。

上野条薬師堂木造釈迦如来坐像(福知山市字上野条)
 前記の薬師如来と同じ薬師堂内に安置されているが、当初から同一箇所にあったものとは考えられない。
 また、薬師像が寄木造りであったのに対し、この釈迦像は薬師像より古い手法の内刳のない一木造りで、両肩から先と膝部とが別材である。
 このように頭体が一木で、両肩から先と膝部が別材であっても、造像法上は一木造りと言うのである。
 頭部前面が欠けてしまっているのが惜しい。
 全体の感じが流麗で、衣文も低くなだらかである。頭部の側面観が鄙びた形になっていること、定朝様に仕上げられているのに一木造りであることなどが地方作としての特色を示している。藤原時代後期の製作と思われる。
  昭和三十八年十二月 福知山市指定文化財に指定。


御手洗の池
伝説によれば、頼光一行が御勝八幡宮に参籠したおりに沐浴したと伝わる、冬でも水温が下がらぬといい、紫宸殿田楽の田楽衆は注連縄を張ってこの池で潔斎するという。


《交通》



《産業》



上野条の主な歴史記録


『丹波志』
右下野条村支
上野条村
   高五百四石四斗六舛六合


『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』
この地域には大江山伝説以外にも、興味深い家伝承がいくつか見られる。その一つが、用明天皇の皇子麻呂子皇子の鬼賊退治伝説である。『丹波志』には次のようにある。
   一、小田家 子孫  野端村
   先祖ハ麻呂子親王ノ臣ト号ス内也ト云。河口郷小田村ニ子孫住ス。(中略)
   分家、同下小田村中西氏、長田村高橋氏、丹後国加佐郡河守町住ス公午デ
   氏、又公庄氏・塩于氏・松陰氏、皆麻呂子親王臣ノ筋也。
 これによれば、野端(福知山市上川ロ野花)の小田家をはじめ、多数の家が麻呂子皇子の家臣の家筋を主張していたことが窺える。この小田家は麻呂子皇子から拝領した鎧を家宝としているが、この鎧は紫宸殿田楽で前立の武者役が身につけるものである。
 また、天座の田楽で猩々の舞を務めるのは桧屋の武田一族であった。武田氏武田信玄ゆかりの者がこの地に移り住んだものという。
 上野条の山中家も大変興味深い伝承を伝えている。
 山中家は屋号を「あらた」と称した。ある夕暮れの雪の中、旅の僧侶が一夜の宿を乞うた。「あらた」の老婆は快く招き入れたが、お出しする食べ物がないので、他人の畑のものを盗んできてお膳に供した。ところが「あらた」の老婆は足の指がなく摺り粉木のようであったため、足跡から老婆の所行が村人に知られてしまう。そこでお大師さまは老婆の信心に免じて、足跡を隠すために雪を降らせた。陰暦十一月十七日には必ず雪が降ると言い伝えられている。この雪を「擂り粉木隠し」とか「あと隠し雪」と言っている。「あらた」では、毎年陰暦十一月十七日には食事とお布団を用意して待っている。翌朝に近所の
人たちが集まってきて、そっと布団に手を入れるとぬくもりがある。「あったかいなぁ、やっぱり今年もお大師さんが宿っちゃったなあ」と言って喜んだという。この行事は昭和十年頃まで続けられていた。
  こうした家伝承については、今後の研究がまたれるところである。   (西尾正仁)


『京都の伝説・丹波を歩く』
頼光とびんささら踊り         伝承地 福知山市上野条
今から千百年ほどの昔、一条天皇(九八六年)の頃である。
池田中納言のお姫様が大江山の酒呑童子にさらわれた時、一条天皇は源頼光に「酒呑童子を退治して、姫を救い出せ」と勅命を下した。勅命だから、断わることもできず、頼光は覚悟をきめて、渡辺の綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武の四天王を供に連れ、山伏姿に身をやつして三岳(みたけ)山に登っていった。
 三岳山地の頂上を御岳山といい、ここに行者が建てた御岳権現があり、少し下った山腹には八幡神社がある。頼光の一行はこの八幡神社におこもりをして、三七、二十一日間もの間、戦勝の祈願をしたという。満願の朝、山頂から大江山を見下ろして偵察した。三岳山が大江山より六メートルだけ高いからだ。すると大江山に上る一条の煙を見つけて、酒呑童子の住み家の見当をつけることができた。
 勇んで大江山へ向かう途中、下野条までくると一人のお婆さんが現われて、縁起のよいかち栗(勝栗)と、鬼のしびれる酒をくれた。ひょっとすると、八幡様のお使いだったかも知れない。おかげで無事に鬼退治をした頼光は、帰り道、また八幡宮にお参りして、御礼を申し上げるとともに「御勝(みかつ)」の名を献上して、「御勝八幡宮」と唱えたそうだ。
 また、鬼の霊をとむらうために大般若経六百巻を写経して、天座(あまざ)の大歳神社にお供えしたと伝えられる。(『福知山の昔ぱなし』)
【伝承探訪】
三岳山を望む山麓に御勝八幡宮は鎮座する。この山はかつて蔵王権現(現三獄神社)を祀る山岳修験の道場であり、いまに多くの頼光鬼退治伝説を伝えている。たとえば頼光は大江山に討ち入る前に三岳山の蔵王権現に戦勝を祈願、そこから北東の方角、眼前の大江山に出発したので、この山を「見立て山」ともいうと伝える。
 もちろんこの地を鬼退治の舞台とするのは口碑ばかりではない。近世中期の書写と伝える『大江山酒典童子』(巻子本)では、鬼が城に棲む酒呑童子を討ち果たした頼光は、麓の「いつもりあまさ村」に下りてくる。この村こそ三岳山麓の行積天座の聚落であった。そして天座の大歳神社の縁起は、またひとつの頼光伝説を伝えるのである。この大歳神社の加護によって鬼退治を成就することができたので、それに感謝して頼光以下六人の主従が大般若経六百巻を書写し奉納したとする。その大般若経はいまも大歳神社に保存されているという。
 このように三岳山は大江山とともに頼光鬼退治譚のメッカである。眼前に大江山を望む山岳修験の霊場として、山伏姿の頼光主従の活躍譚をはぐくむ土壌を有していたと考えられる。
 さてその御勝八幡宮にも、頼光は詣でて戦勝祈願をしている。無事鬼退治を果たした彼は、その感謝のしるしに祭を行ない、舞楽を献じたと伝える。それが二十五年に一度だけ行なわれて今に伝承される「びんささら踊り」である。この田楽神事の踊り手のなかに、木太刀をはいた山伏姿の者、あるいは甲冑を着する者もいる。その甲冑は、麻呂子親王が大江山鬼退治に着用した遺品だと伝えるのだ。ここにも鬼退治の別伝が生きている。
 一昨年の祭礼に「びんざさら踊り」が奉納されて、台風のなか多くの参詣者でにぎわったという。今その境内に立つと、鬼の活躍する舞台とは思われない穏やかな静寂のなかにあった。

『京都新聞』(96.12.11)
*ふるさとの社寺を歩く〈175〉*御勝八幡宮(福知山市上野条)*時空超えて田楽舞*
 丹波と丹後を屏風(びょうぶ)のように仕切る大江山連峰。その南側の山懐に分け入る。国道176号を外れ小さな谷節を登っていくと、開けた高台に石造りの大鳥居が姿を現す。御勝八幡宮は樹齢数百年の大木に囲まれ、伝説のベールをまとい静かにたたずんでいた。
 伝承では、正暦元(九九〇)年、大江山鬼退治に来た源頼光がここに戦勝を祈願。帰途には勝利を報告し田楽舞を奉納した-と伝えられる。
「神社の縁起はそれから百年以上さかのぽるが、御勝(みかつ)の名は、頼光が名付けたと言われている」と、大林八十彦宮司(六二)。以来、戦勝の神として武士階層にも信仰を広め、流れは日清、日露から太平洋戦争の出征兵士にまで続いた、とも。
 御勝の大祭は、干支(えと)二回りごとの未(ひつじ)年と決められている。その時、奉納される田楽舞は「紫宸殿田楽」(通称びんささら踊り)で、頼光の奉納した田楽舞を忠実に伝えているといわれ、最も古い形式の田楽舞を継承する貴重な民俗学的資料として注目される。
 最近では平成三年十月に行われた。古式通り、周辺六神社の祭神を招き、びんささら踊りを奉納した。中心になった上野条無形文化財保存会・山中勲男会長(七四))は「氏子は三十戸余り。それも年寄りばかりで踊り手が集まらず、都会に出ている息子らをかき集め特訓した。今回はしのいだが、次は…」と、ホッとしながらも表情は曇る。大林宮司も「支えの集落の住民減という物理的な足かせはどうしようもない」と心配顔になった。
 谷節を吹き上げてくる風に揺れる木の葉がシャララ、シヤララと、よく澄んだ音を響かせる。「ささら」の木片がたてる清い音に、どこか似ている。次に御勝の大祭が行われるのは平成二十七年。山中会長と大林宮司は「三年に一度ぐらい奉納すれば、伝えて行けるのだが」と、伝家の方策に頭を悩ます。
 千年余の時を超えてきた山里の伝統が、過疎の荒波に向かって闘いを挑んでいる。





上野条の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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