丹後の地名プラス

丹波の

今安(いまやす)
京都府福知山市今安


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京都府福知山市今安

京都府天田郡福知山町今安

京都府天田郡下豊富村今安





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今安の概要


《今安の概要》


和久川流域の天照玉命神社の鎮座する一帯。和久川左岸丘陵の本今安、同右岸の天照(とんしょ)、南方の谷口の鴫谷および谷の奥に入った小野脇からなる。当地一帯は古くから福知山城ができるころまでは天田郡の中心地と思われる。
中世は今安保で、南北朝期~室町期に見える保。建武3年(1336)8月13日付の足利尊氏御教書に「丹波国今安保事」とあるのが初見の大炊寮領荘園で、史料的には中原師守の日記「師守記」および中原康富の日記「康富記」に散見するもの以外、多くをみない。平安末期以後、大炊寮の長官大炊頭が中原氏の世襲となったため、その日記に当保が散見するものである。前者からは南北朝中葉、後者からは室町時代中葉の当保の様子が瞥見されるという。
今安村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下豊富村の大字となる。
今安は、明治22年~現在の大字。はじめ下豊富村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。


《今安の人口・世帯数》 391・155


《主な社寺など》

今安遺跡
『福知山市史』
今安の遺跡(字今安)
昭和二十六年九月、市内字今安に鎮座する式内天照玉命神社の北方約五○○メートルの北側の山ろくに近い水田から、土器の破片が発見された。その後さらに同地から壷及び高杯の破片と共に木炭の一片が採集された。すべて破片のみで完形品はないが、壷や甕の破片が多い。全体の形の復元は困難であるが、口径はそれぞれ約二○センチ・一五センチ及び一二センチの壷の口縁部の破片が見られ、また全体の体積に比して、底の割合に小さい平底の弥生式土器の著しい特色を表わした壷の破片もあり、その中の一つに、口径約二○センチの壷の口縁部が外側へ開いて水平になり、その端に対して直角に断面T字形をなすように、幅二・五センチ、厚さ○・六センチのへりがついているものがある。その表面(外側)には線状文と直径○・五センチの円形の押型文をつけており、これまた弥生式の特徴的な文様である。(京大所蔵の鳥取県東伯都下郷村字釣出土のものと酷似している)なお、同一個所から真赤な土師器の台付の盤の破片も出土した。その台は、上夜久野小倉出土の台付盤の台と同じく、下部が開いているが、そのそりが内側にそっていて皿を伏せた場合の曲線に似ている。台の下部の上面には三方に径約一センチの穴があいており、台の高さは約六・五センチである。
この地は豊富谷での最初の弥生式土器発見地であるが、後に発見された字半田や字奥野部及び字厚の同種土器出土地点に比べると最も低いところではあるが、和久川の氾濫するところではなく、当時の水田に近い住居跡であったらしい。

式内社・天照玉命神社
天照玉命神社(今安)
天照玉命神社(あまてるたまのみことのじんじゃ)は、今安集落の中央天照(てんしょ)に鎮座。「延喜式」神名帳にみえる「天照玉命神社」に比定される。案内板↓
天照玉命社の案内板
天照玉命神社
祭神は天火明命(饒速日命)
社格は元郷社延喜式内の古社で天田四座の一にして創建は人皇第十三代成務天皇(四世紀)の御代丹波国造大倉岐命が宗家の祖先を祀られたものである その後戦国時代の混乱と荒廃により一時期衰微していたが承応二年(一六五二)時藩主松平主殿守忠房公は崇敬の念特に篤く同年十一月荘厳な本殿及び拝殿を建立された。現在の建物は大正九年氏子の寄進により三ヶ年の歳月を費して再建したものである。
尚本殿西に現存の校倉造の宝庫は近在唯一のもので享保十四年(一七一六)の造営によるもので非常に高い文化資料と称されている。
当神社は五穀豊穣(穂明)神としても名高く豊富庄を中心とした十三地区民の崇敬をあつめ雨乞いの練り込みは今もって我々の記憶に新である。
例祭は十月十日
丹波忠重朝臣の和歌
大枝山昔のあとの絶えせぬば
天照神もあわれとや見む
天照玉命神社社務所


天照玉命とは何者だろうか。有力な説として火明命のこととするが、本当かどうかはよくわからない、火明命なら火明命神社とか、饒速日命なら饒速日命神社とすればよかろうに、何故にこうした神の名にしたのであろうか。アマテルタマと読むのかあるいはアマテルミタマと読むのかもわからないが、天照として何か皇祖神と関係ありそうな名にボヤかさなければならないような複雑な事情があったのかも知れない、何とか丹後勢力を押さえたい中央権力ともめたか、歴史とは闘争だ。そうだとするなら舞鶴の笶原神社も「神明さん」というものでなく、火明命を祀るものかも知れない。
あるいはそれとも元々はこの簡単な名の祖神であったが、モッタイをつけるためたくさんの修飾語がつけられてしまい後世まで伝わらないのか、あるいは何か修正を受けたか。現在に伝わる諸史料にはこの名の神はない。名前から考えれば太陽神で、天照大神と同じものだろうが、記紀などではだいたは天照大神の子孫の一人ということになっている。
この神を祀ったのが、海部直千足という丹後一宮の宮司家出の新任の「天田郡郡司」であったという。養老(717~24)の頃で、舞鶴の笶原神社も本社の籠神社もだいたいはこの頃に創立されたという。
海部直と言わず、丹波直と名乗る天田郡郡司氏が自らの祖神を祀ったものと考えられている。
千足の子が足嶋で、天平九年(737)の『但馬国正税帳』に、「丹波国少毅无位丹波直足嶋」の名があり、あちらの方まで力を持っていたようである。丹波直と名乗り、元々は丹波郡に根拠地があった氏と見られる。『続日本紀』延暦四年(785)「丹波国天田郡大領外従六位下丹波直広麻呂」とみえる。
あるいはもっと古く伝説の時代と見て、海部氏系図の十六世孫、大倉岐命が大枝山の大蛇を退治したので、成務から丹波国造を賜ったとあり、その時代の創立ともする。
『三代実録』貞観八年(866)閏三月には「丹波国丹波郡人左近将監従六位上丹波直副茂 本居を改めて山城国愛宕郡に貰附す」とあり、あちらの方へ移っていったようである。
あるいはさらに古く、伊勢神宮が丹後から伊勢へ遷座した時に、当社が宿になり、それを尊び創立したとも言う、しかしそれは天照大神と混同したものだろうが、江戸期にはそのように見られていたようである。
火明命を祭神とする天照御魂神社は各地にあるが、天照玉命神社は当社だけである、名は少し違うが同じものと思われる。誰もが言うように海部と関係深いが、また火明命は伊吹氏の祖でもあり金属とも関係が強く、そうした性格を見逃さないようにしたい。皆が見落とすが当地は金属と無関係の地ではなかろうと思われる。鬼の大江山に皇太神社があるように、天照とあれぱ金属と見て大きくは間違いがないように思われる。
フツーには「丹波志」が述べる、「丹波国天田郡天照玉命ノ神社ハ、天ノ饒速日命ナリ、按スルニ国ノ造本紀ニ曰、丹波国ノ造尾張同祖饒速日命ヨリ出ツト、天田郡ノ名天照号ヨリ初ル歟」が、今日の定説となっている。いまだ 歴史の深みまでは切り込めていないようである。享保2年建造の校倉造の正倉
古代の神は忘れられ、戦国時代には社殿、宝物、古記録等悉く兵災に罹り烏有に皈せり徳川治世に至り福知山城主松平主殿頭忠房侯神祇を崇敬し承応二年(1653)十一月神殿を造営せり、という。
その後も享保14年(1729)福知山城主朽木玄綱が再び神殿を造営、大正七年(1918)再建され今日に至っているという。
当社は古来、豊富谷(古代の和久郷および拝師郷東部を含むと考えられる)の総社であった。氏子の今安・半田・新庄・奥野部・岩井・和久寺・大門・拝師・室・市寺・正明寺・厚・笹尾・石場・榎原の各村に支社があったが、明治15年(1882)頃にそれらの社が分離独立して、それぞれの村の産神となった。しかし当社でも境内社として、前記一五ヵ村の産神を祀る(九社明神・八社明神)。
天照というのは最も元初的にはテルテル坊主だから、雨を止める方の神様だと思われるが、民間では雨乞いの神として仰がれている。
福知山藩日記の寛文八年(1668)七日七日条に「豊富筋十二ケ村 為雨請天照宮御踊仕候」とあるのが雨乞の初見という。社蔵文書の中には、過去数十回の雨乞神事のみを記録した一冊があり、大正13年夏の旱魃の時は、古例に従って、氏子の全集落から、太鼓台や手踊などの練込みが行われたという。


今安廃寺
天照玉命社の南方の今安寺(こんなじ)山にあったという。威光寺文書に、「天正七己卯八月光秀福知山城建築之際近郷ノ寺院破潰材木石塔抔ヲ奪取シ其時今安寺中威徳寺名か之住僧光秀之悪置ニ返対シタルヲ以テ両寺中合テ六ヶ寺ヲ漬シ材木等持還リ」「為兵火天文(享禄カ)四年冬十月今安威徳焼亡ス」とある今安寺があったと見られている。鴫谷でも今安寺の伝承を残しているそうである、一説には同寺は天照玉命神社の神宮寺という。
光秀が福知山城を作るために石材や木材を取りにきたので反対したため焼き討ちにあい潰されて木材などは持ち去られたという。今の電車基地の一番奥あたりで、工事に先立って調査が行われ、経塚や古墓群、建物跡が見つかった、地名から大道寺と呼ばれている平安時代末頃の寺院跡がそれではないかと言う。「大道」は山陰道丹後別路のことでないかと言う。氷上郡から入ってきて、この辺りを通り、大江山へ続いていたのかも知れない。


今安城跡
『福知山市史』
今安城(字今安)
半田城址から西南方におよそ四○○メートル、式内社天照玉命神社の裏から和久川を渡って西方におよそ五○○メートルに、標高一○二メートル、比高およそ七○メートルの独立山があり、東方に二つの尾根をのばしている。そして頂上部分とそこから東南方にのびる尾根部分に、古風な中世城郭の遺構がある。東方に向かう尾根筋にも四つ程の削平地が連なるが、この方は古墳であろう。三角点のある頂上部分は東西一七メートル、南北二八メートルの曲輪で、北方に二メートル、三メートルと低く階段式に二つの小曲輪がある。大手筋と思われる南側には八メートルに九メートルの曲輪、更に三メートル低く一○メートル、七メートルの曲輪が連なり、この曲輪の東西は帯曲輪風に北にのびて上の曲輪を固めている。以上が頂上部分で、この部分から東南方にのびる尾根筋にも曲輪跡が二つと、土橋で結んだ堀切跡と推定できるくぼ地が二つ、更に先端部に見張台らしい約六メートル四方の削平地がある。頂上部から福知山の市街地の眺望もきき、南北朝期に利用された城ではなかろうか。
今安城跡


《交通》



《産業》


《姓氏》


今安の主な歴史記録


『丹波志』
今安村 支 小野脇 鴫谷 右同
高六百五十石
今同村高五百四十四石七斗貳舛貳合
同支小野脇 今ハ小野脇村古ヲ考ルニ三開ノ崎ニ寄ルハ野ニ脇ナリ 俗名所部ニ出ス
小野脇 本今安村ノ支村也 此地ニ湯ノ谷ト云所有 福智山ヨリ榎原ノ奥村ニ行道ノ脇 湯ノ谷ニ今ハ田地ト成ル少ノ所 湯坪ノ跡ト云 今モ寒冬早ク消ルト云 古老曰 古温泉繁昌ノ節ハ薬師ヲ安置極楽寺ト云寺有リト也 此本尊薬師像ハ小野哥懸ノ薬師トナリ 今ハ福智山町西蓮寺ノ地中ニ堂在 此仏ヲ安置ス 極楽寺ノ上人勧仕帳ト云モノ佗ニ有テ近年寄附人有之 西蓮寺ニ納巻紙ニ書リ口ノ所切リテ紛失ノ?喰染物等有リ非可信書月日ト斗ニテ年号無之実ニ薬師再興非勤 帳也 古跡ノ部寺院部ニ出之 小町塚陵墓ノ部ニ出ス


『丹波志』
天照玉神社 二内神名 四座之内 古和久郷今豊富郷 今安村 建
祭神 天照玉命  祭礼八月朔日
本社 二間三間 鳥居
境内森平地鳥居前溝流裏ハ和久川流
宝藏一宇 社人宅地除地ナリ
 茂正謹按 天照社記ニ垂仁帝四十五年ノ秋但波吉佐ノ宮ヨリ天照大神大和国伊豆加志ノ宮ニ移リ玉ノ時ノ行宮ノ地ト見ユレトモ社人足立宗之私ニ考ルニ此宮ノ御祓剱形ニ包天照玉命ト記之 古来ヨリ出セルヲ以再考之 天照玉命ハ饒速日命ナラント記セリ
北邑継元足立宗之ニ求メ記之宗之云 里諺ニ天照太神ト言伝タルヨリ 松平忠房承応二年神社敗壊ヲ修造シ新開ノ地ヲ寄附セラレシ時ノ棟札ノ裏書ニ 丹波国天田郡今安村大神宮 往昔自丹後国余佐郡遷座於伊勢国之時宿御於此由是崇建神宮云々 洛陽講習堂人昌易謹記トアリ 宗之追考ニ旧事天神本紀ニ天ノ日ノ神命 対馬縣主等ノ祖トアル度会延佳校正本ノ冠注ニ淡島ノ社司紀ノ如尚ノ云 天ノ日ノ神ノ命ハ天照太神ニ非ス蓋高皇霊尊裔神也 顕宗紀ニ日ノ神人ニカゝリテ阿閇ノ臣事代ニ謂テ曰 磐余ノ田ヲモテ吾祖高皇産霊多ニ献セヨ事代則奏セシカハ神ノ乞ルニヨリテ田十四町ヲ献セシ 対馬縣主祠侍ス 神名帳曰対馬下県ノ郡高御魂ノ神社阿麻底留ノ神社又山城国葛野ノ郡木嶋ニ坐天照御魂ノ神是皆天ノ日神ナルカ 天孫本紀ニ天照国照彦火ノ明櫛玉饒速日ノ尊 九世ノ孫玉勝山代根古命ノ冠注ヲ引テ其次ニ伊勢ノ神主松本氏云 丹波国天田郡天照玉命ノ神社ハ天ノ饒速日命ナリ 按スルニ国ノ造本紀ニ曰丹波国ノ造尾張同祖饒速日命より出ツト 天田郡ノ名天照号ヨリ初ル歟 其外天照ト称ル神号ニ付テ国々諸社ノ故事ヲ引テ載タレト当社ニアツカラツ事ハモラシツ其中ニ国華万葉記ト云近世諸国ノ事ヲ書集タル書ニ 丹波国天田ノ大明神天田ニ立社領廿五石祭神少彦名命ノ垂跡 陽成天皇御宇元慶二年建立トナルヲモ載テ明和二年乙卯仲春中院足立宗之八十一歳応需謹記天照皇太神天ノ日ノ神命 天照玉命 天照御魂ノ神社 少彦名命 右神号差別アルニ依テ心ヲ用ル事多年ナリト云ヘトモ 愚慮ニ不能然トモ神徳ノ奇々妙々記ニ遑アラスト書リ 又宗之カ書ニ台記ヲ引テ文安三年十月十三日癸卯先日典薬頭重基朝臣申テ云 来十七日氏神ヲ拝セン爲丹波国ニ下向スト云々
按ルニ丹波氏天照社ヲ以テ氏神トセル歟 丹波氏ノ事姓氏禄記之
丹波国天照ニテ 丹波忠茂朝臣
大江山昔ノ道ノ絶セタハ天照神モアハレトヤシム
社記云神地神戸古跡 宗之ノ書
御供田 今姫少ト云 本社ヨリ一町余戌ニ当レリ
杉上二本 本ノ杉大風ニ倒レリ 其木ヨリ上リヲ杉上ト云 本社ヨリ四町斗未申ニ当リ
御油田 今安村之支鴫谷ノ在中ニアリ本社ヨリ四五町午未ニ当レリ
掃除田 鴫谷ノ奥午ニ当レリ 本社ヲ去コト六町
洗米田 本社ノ前ヨリ一町辰巳ニアリ 今ハ宮前ト云
神戸田 本社ヨリ六町斗東ニ当レリ
土器田 半田村ニアリ 本社ヲ去ルコト四町寅ニ当レリ
右宗之カ意ヲ以書之
松平主殿頭忠房 寄附状写
寄附
丹陽天田郡今安郷天照宮神鎮之事
高四石 宮内森 林居屋敷竹木共 目録在別紙
夫天照皇宮者本朝第一之宗廟也 自往昔
当所雖 御鎮座其以前依無神領暦年
宮殿悉及大破曰 茲万治年中奉修造之再
破之時為修補開新田新規令所附畢是
爲天下安全且武運長久也仍寄進状如件
寛文七丁未六月十六日 主殿判
              当 社人
朽木伊予守稙昌寄附状写


『天田郡志資料』
郷社 式内 天照玉命神社  下豊富村字今安小字天照鎮座
 祭神 天照国照彦火明命、又御名天照国照彦火明櫛玉饒速日命
成務天皇の御宇建稲種命四世の孫大倉伎命丹波国造に任せられ(国造本紀)在任中其祖神にます正哉吾勝々速日天忍穂耳命の御子天照国照彦火明命を奉紀されしを当社と為す(昭和二年栗田博士著神祇志料附考巻十三参照)
丹波志によれば明和二年当社々人足立宗之の説として「此お宮の御祓は剱形に包に天照玉命と記し古来出札せるを以て再考するに天照玉命は饒速日命ならん」と記せり。 天火明命高天原にます間、天道日女命を妃とし天香具山命(又の御名高倉下命)以天孫の祖にまします。河内国に天降りまして饒速日命と申し長髄彦の妹御炊屋媛を妃とし宇麻志麻治命を生みます依て以下天神系の祖神にますこと旧事記に明かなり、天火明命、饒速日命は異名にして同神にまします然るに徳川初期には当社祭神を皇祖天照大御神と誤信せしことあり。
建稲種命は尾張連の祖にして天火明命十二世の孫にます、古書に当社の記事あるは延喜式神名帳を始め、台記、夫木抄、大八洲記、大日本神祇志、国華万葉記、和漢三才図絵、丹波志等とす。
創建 志賀高穴穂宮即ち成務天皇の御代なること国造本紀に徴して明かなり、境内樹木の齢に依るも其創建の上古にあることを知るべきなり、成務天皇五年九月の創草と云、上古神田、神戸制備はり、境内に接続して競馬場、矢場等の在りしこと今猶ほ附近に小字として遺れり。久安三年十月十三日癸卯、先日典薬頭重基朝臣申日来十七日、爲拝氏神、下向丹波国、請賜馬及指貫、今日送此二物。卜又夫木抄(三十町神祇)丹波国天照る乃社にて、丹波忠茂朝臣
  おほ江山昔の跡の絶えせぬは天照る神もあはれとや見ん

丹波氏は天火明命の後にして世々当社に奉仕し天田郡の大領たりしこと続日本紀に見えたり、戦国の時代に至り社殿、宝物、古記録等悉く兵災に罹り烏有に皈せり徳川治世に至り福知山城主松平主殿頭忠房侯神祇を崇敬し承応二年十一月神殿を造営せり棟札に曰く
延喜式神名 丹波国天田郡 天照命神社 丹波国天田郡今安郷
                      福知山城主 松平主殿頭 忠房 敬白
天照皇大神宮
  承応二年癸己仲冬(十一月)穀旦(吉日に仝じ)修造之
其裏書
 丹洲天田郡今安郷大神宮者往昔自丹後国余佐郡遷坐於伊勢国之時宿御於此地、由是崇建神宮村翁走祭紀、国人致敬神自爾
 以来、茲経星霜、甍破扉摧既成壊宮於是郡太守松平氏主殿頭忠房感歎霊社乙敗壊、重修造之運成風之斧鍾楚材之美余?之
 巧、成輪煥之功武運長久子孫繁栄、不期之然者也  洛陽講習堂人昌易謹記
  丹腸天田郡今安郷天照宮神領之事
   高四石 宮内森林居屋職目録別紙有
 夫天照皇大神宮者本朝第一之宗廟也自往昔当所雖御鎮坐其以前依無神領歴年宮殿悉及大破因茲万治中
 奉修造之、再破之時為修補、開新規令所寄附畢、是爲天下安全且武運長久也仍寄進状如件
  寛文七丁未暦六月十六日
              主殿判
                    当社人
祭神を誤認されたるは当時の世状を知るに足らんか。爾来同城主朽木土佐守玄綱侯は享保十四年三月神殿の再造営而して現在の社殿及拝殿は大正七年一月起工仝九年三月竣竣成翌四月御遷座式執行、工費約参寓余円と云尚右享保十四年建設の欅烏居今猶存せり、昭和十年より二百○六年前なり
本殿 流造桧皮葺、拝殿入母屋造、向拝唐破風 宝庫 校倉造
境内 五百八十六歩、
末杜 八神社、九神社 各同型流造にして氏子十七ヶ材(現今別記の通り)に鎮座の産土神を此二社に合祀したるものにして他の末社とは大いに趣を異にす実当社の特色たり、依て祭日の幟にも各神社名を記したもの十七本を本社大幟の外に樹てしは著者のよく知る所なり。
祭日 大祭 十月十日、祈年祭 二月十九日、新嘗祭 十一月廿三日
明治の中頃までは例祭八月朔日八朔祭といふ、六月十九日宝物虫干を兼ねて夏祭なりしを大正初年頃より氏子農業の関係上八朔祭は十月十日に夏祭は廃止せり、大祭には供進使の参向あり古来宵宮には踊り当日は角力ありて福知山の御霊祭に次ぐ殷賑を極めたりしか、現今は当日正午、小供、青年に止まる故又昔日の観なし、此外除蝗祭、風鎮祭を行ふ。
当社古和久の天照とて雨の宮とも称へられし御社なれば旱魃に方りては近郷隣郡より祈雨の爲め参詣するもの頗る多し、尚天照の大雨乞とて氏子十三部落より各太鼓打、手踊等の練込あり而して必ず其神助を被らざるはなしと云、是れ古来著名の地方の芸術といはんか。
此外当社祭神は鎮魂の十種の天璽を天神より授からせ給ひし古事に由り疾病又武事に関する御神徳弥々高くまします又丹後風土記に依れは天道日女命は農事を奨励したまひ田庭(丹波)なる国名もこゝに基くといへば又稲作の祖神と仰ぎ奉るべきなり。
氏子、今安、半田、新庄、奥野辺、岩井、和久寺、大門、拝師、宝、市寺、正明寺、厚(以上、下豊富村)戸数千戸余
   笹尾(福知山) 石場、榎原(上豊富村)
社宝、貴重品とし府の登録済のもの
第一 神鏡 (雲形、大さ直径一尺三寸七分、重さ壹貫五百匁、台共)延宝元年の銘あり
第二 五十鈴 (高さ一尺三寸、径七寸、重さ七百匁)五段とし一段に十ケの金鈴を附す 寛文八年九月の銘あり
第三 無銘新刀 白鞘
第四 銘刀 白鞘(忠光の銘あり)
第五 鰐口(径一尺厚三寸五分、重さ九百四十匁 元和九の銘あり
第六 珊瑚樹
第七 銀牌門(総純銀現祠献納) 以上七点 其他文書あれども略す。
財産 藩政時代領主の寄進に係る田地二反七畝歩余ありしも明治維新の際不明となり其後田地四口にて二段朋畝十九歩、
宅地四十三歩荒地四畝廿八歩は現在の不動産なり其他基本積立金若于、
神職 往昔は丹後元伊勢祠の社僧常駐を管掌せし由口碑に存すれども確ならず前に記せる松平忠房侯の代上豊富村談の住人足立政次に宮守を命じ居宅及田畑等を給せらる寛文九年其子宗次に至り当社々人に任せらる、足文伊豆守宗次とて延宝
元年十一月風折鳥帽子狩衣の着用神祇管領卜部兼連より裁許状受領爾来子孫世襲し九代足立豊男(大和と称す)に明治維
新となり神職の異動により他に転勤せしが後罷めて商業を営めり現在は其宅当社々宅に隣せり。今は其孫の代なり。
明治維新三年福林岩根(堀一宮神社々人福林雅楽ともいふ)明治九年谷中和勢(福知山旧藩士)明治十七年山口汲志目
(多保市天神々社より) 谷中氏と入り交りしか谷中氏は間もなく死云依て山口波志目多保市兼勤せり、明治三十九年篠崎
武正(菟原梅田神社より) 明治四十年森本正典(土村松尾神社より)明治四十一年山本龍道(新任)大正二年其子政照
氏、昭和二年前記山口波志目二男予備陸軍少将山口鹿太郎氏子の懇望を容して奉仕現在に至れり。
○前記足立氏の内 代宗之は学を好み神祇に関する諸典籍を渉猟閲読して神社の祭神、由緒を考究して元亀天正以後の遺蹟
を調査し神殿、華表の再造営其他の修築を領主に稟申して実現し天照文書を編纂して後昆に伝ふる等其功績偉大なり、尚
前記所々に散見せる如く従前は当社の祭神は天照大御神又は少名彦命等諸説ありしを天火明命と確定したるが如きは此宗
之氏の最も顕著なるものと云ふべし、氏は八十余歳の高齢を以て歿しぬ。
○山口波志目は明治十七年奉仕より仝三十九年五月急死まで二十有三年間の久しき間始終一貫真に至誠通神希有の神職なりき
幼より学を好み藩儒近藤、田中の両先生に漢籍を京都玉翁に皇典を学び明治三年出てゝ多保市村天神々社に始めて奉仕す
維新の皇道復古祭政一致の御主旨を体得し神祇崇敬尊皇愛国の思想を鼓吹し一方神社の諸設備に力を致し以て神威の発揚
に尽瘁したる偉功歿没すべからす。尚神道講究所分所長として後進を指導し郡内神職の幹部として大いに活躍せり、晩年
蘊蓄を傾けて精考審明し当社の昇格を企てしが成らずして歿す年六十九


古代の条里制の地割りが残っている、中世は「今安保」があった。
『福知山・綾部の歴史』

今安保とその周辺の荘園分布図(『福知山市史第2巻』より)
御所に納められた今安の米

福知山市今安地区の天照玉命神社を中心とした一帯は、中世に「今安保」といわれた一画であった。「保」というのは平安末期から中世を通じて存在した地域的行政単位で、荘園制の発達に伴なって中央官庁領に保と呼ばれる組織が出現し、郷とか荘などと並称された。しかし今安保がいつ成立したかは不明である。古代の律令制で宮内省に所属する役所の一つに大炊寮があった。これは諸国から運ばれる春米(臼で掲いた米)・雑穀などを親王以下の諸氏の食糧としてとり集める仕事を行なった。室町時代に確認される大炊寮領は全国で大小合わせて約七〇か所であるが、「今安保」もその一つであった。ここから朝廷に納められる米を中原師守の日記『師守記』には「今安熟食用途」とか、中原康富の日記『康富記』には「今安御稲」と表わしている。したがって今安保は「殿上熟食米料所」と呼ばれた、宮中に常食米を納める官田の性格があった。今安保から大炊寮へは米以外に紙・麻・麦粉が納められている。このように福知山に朝廷の経済を担う大炊寮領が存在したことは注目される。
室町時代中期には、この今安保は大炊寮領としての管理がずさんになり、寮領として建て直されることとなった。このとき中原康富が今安保の管理者である預所職になった。ところがすでに今安保から大炊寮への収入分は、丹波の守護細川氏一族の家臣である吉良七郎という者が買得、知行(支配し収益を上げること)を行なっていた。そこで宝徳元年(一四四九)、康富自らが京都から福知山へやって来た。当時、彼は京都から三日間の旅で土師宿へ到着している。康富は天田郡司堀孫次郎を伴なって今安保に入り、保内の名主・百姓たちへ、今後は自らが大炊寮への貢納管理を行なうという指示をあたえた。そして今安保内の天照玉命神社・賀茂神社・天神社に参拝し、般若心経・法華経を書写し各神社に奉納して成就祈願を行なっている。一方、吉良七郎も今安保の代官職を望んでいたので折合いはつかず、ついに吉良は実力行使におよび、今度は今安保から大炊寮へ納められる年貢を横領した。大炊寮は室町幕府に訴えて善処を求めた。しかし武家衆側の力は強く、引き続き今安保には守護細川勝元による臨時課税がたびたび課せられて、年貢その他は大炊寮へ円滑に納まらなかった。そのため康富は二年後の宝徳三年一二月に再度、今安保支配の徹底を図るため来福した。しかしその効果は一時的で根本的解決はできず、吉良七郎の今安保における横領は止まなかった。そこで康富ら大炊寮側は、この年貢横領に対して少しでも収入を確保するため交渉し、吉良七郎を今安保代官として認め、その代わり毎年、年貢六貫文を確実に大炊寮へ支払うという請所の制を仕方なく用いることになった。一度、請所を設定すると今安保の領有権は有名無実と化した。こうして室町時代中期に大炊寮領今安保は守護やその家臣の武家衆によって侵略され、公家衆側の収入が絶たれていった。(嵐光澂)


伝説

小野脇の薬師堂と小野小町伝説。(小町神社)
小野脇「小町の郷」の碑
ちょっとわかりにくいかも、小野脇公民館めがけて行かれるとよい。
小野脇の案内板
小野脇公民館の案内板。先の集落の手前から右手に100メートルばかり入った山裾にある。小さな車なら入れる。
薬師堂と小町池↓
当地に薬師を祀る極楽寺という寺院があったが何時の頃か廃寺となった、その薬師仏を祀る形らしいが、元はもっと奥にあったという、またその「歌かけ薬師」は西蓮寺に移されたが、そこも廃寺となったため、今はその隣の久昌寺に祀られているという。
小町が療養に浸かった温泉池、これらをまとめて「小町神社」と呼ばれている。
薬師堂
案内板がある。薬師堂の案内板
小野小町と薬師堂
平安時代の百人一首で知られた六歌仙の一人で、絶世の美女と言われた小野小町は、旅の途中で病にかがり、顔も手も腫れ上がり、かさぶたが出来て、あわれな姿でこの地へ迷い込んで来ました。
この女の姿を見て泊めてくれる家は一軒もありません。しかし親切な村人から、薬師堂に泊まるよう教えられました。人目をさけ、村はずれにある湯の谷の出湯で身を洗い療養していました。
ある日女は、近くの山に登り「みびらけば 法の声する正明寺 物さびしきは小野脇の里」と和歌を詠みました。これを聞いた村人は、ただの旅人ではないと思いました。
薬師堂にこもり出湯にひたり、毎日お祈りをしていましたがながなか治りません。そこで「南無薬師 頼む施療の願なれば 身より薬師の名こそ惜しけれ」とお願いすると、薬師さまが夢枕に現れて「村雨は ただ一時のものぞがし おのがみのがさ そっと脱ぎ置け」とおさとしになりました。
女はおあさとしの通り出湯にひたり、養生を続けるうちに日に日にかさぶたがとれて、元の美しい姿になりました。
近くの池で顔を映した女は喜びと感謝で胸一杯になりました。
 別れの際村人に、せめて名前だけでもと強くせがまれ、長い間の温情に涙し、昔、都の御所に仕えた小野小町で、山陰に人を訪ねての帰路病にかかり、お世話になったと語り、別れを惜しみつつ旅立って行きました。


『京都の伝説・丹波を歩く』
小野小町と小野脇の里 伝承地 福知山市今安
今から丁度千年程も昔の話、今安の南の山の裏手に当る小野脇に、極楽寺という寺があり、その付近は温泉が湧いていた。
ある日の夕方、年若い女が顔にも手にも、かさぶたが出来て、あわれな姿でこの地へ迷い込んで来た。付近の山を眺めて、「見聞けば法の声する正明寺物淋しきは小野脇の里」と口ずさんだ。
日はとっぷり暮れて来たので、どこか泊めてもらおうとしたが、この女の姿を見て泊めてくれる家は一軒もない。
けれどこの女は顔かたちは、何となく上品な所があり、ことばも雅びなものがある。とある親切な人が、大層気の毒に思い「暫らく休養しなさい」と言って泊めてくれることになった。
ところが数日たつと、この村にでき物がはやりだした。これは「あの家に女を泊めているからだ」と非難の声が高まって来たので、心配をして「あの山かげの薬師堂で泊まりなさい。食事は家から運んであげましょう」と教えてくれた。
女は教えられるままに、薬師堂にこもって温水にひたり、薬師さんにお祈りしてみたが、なかなか治らない。そこでお薬師さまに「南無薬師頼む施療の願なれば身より薬師の名こそ惜しけれ」と和歌を作ってお願いすると、薬師さまは夢枕に現われて「村雨はただ一時のものぞかしおのがみのかさそっと脱ぎ置け」と和歌でおきとしになった。女はおさとしの通り、温泉につかって、養生をつづけるうちに、一日一日かさぶたがとれて、美しい姿となって、いずこへともなく立ち去って行ったという。
後になって、その女は朝廷に仕える女官で有名な歌人、小野小町であったということがわかった。それ以来村人たちは小野小町のかさぶたを治したというこの薬師さまを前より一層大切に信仰するようになった。  (『福知山の民話と昔ばなし』)


『丹波志』
小町塚 和久郷今安村 小野脇村
小野脇村ノ西 字  ト云所 山ニ二間四方松十本斗有 二尺四方ノ石壇有 村ヨリ塚ヘ行道ノ谷ニ小町池ト云有 同村ノ内兎田ト云谷也 塚トハ三丁余東ノ谷二尺四方程ノ泉也 小町屋敷ト云ハ塚ヨリ四五丁西方カツラ山ト云高山ノ下也 芝野ニ段有此所也ト云 小町此所ノ温泉ニ浴セント此所ニ至ルト云 歌ナリ有テ伝之 小町ハ即小野小町也ト云 此説不審
按ニ小町ノ古事ヲ云伝或歌ナトヲ引小町ト云名小野良実ノ息女歌ノ達人ニテ非凡人依之 附会ノ説モアランカ 小野ノ小町ノ古跡予知斗モ多シ 先山州江州境逢坂ニ関寺在 摂州玉造ニ在 丹後国三重村ニ墓有 其外所々ニ小町ノ旧跡有 小町ト云人一人ニ不限哉 右何モ古事有 然ハ此所小町旧跡モ禁裡ニ勤シ女ナラン若シ恐ラクハ官名役名ナト云ヲ其名アル歟 證トスル物ヲ不見ハ極テ難? 此所ヲ小野脇ト云コトモ疑無ニシモアラス 一説野々脇ノ里ト云ヲ歌ヲ伝フ人北続ニ野々端(ハシ)ト云所有野々脇土地ノ形相実ニ?エリ然トモ元禄年中迄ハ今安ノ内ニテ一村ト不成所也 小野脇ハ小字ト也 尤高モ不分也 野々脇 小野脇ノ糺シ無拠 小町塚小町池小町屋敷ト云コト其所ニ残ル上ハ由来無ニハ非又温泉ノコト無證依之俗名所ニモ出之 小町ノ実所ヲ不糺ハ薬師ノ記難唯願後人ノ糺ヲ侍 或云小町ト云ヨリ野々脇ヲ小野脇ト云ト不知是非郡郷部寺院部古跡部ニモ出

『丹波志』
極楽寺 古跡 今安村内小野脇村
温泉在リシ時薬師ヲ安置 温泉郡郷ノ部ニ出ス 薬師今ハ福智山町西蓮寺ニ在 寺 陀部ニ出ス 小町塚陵墓部で古跡ノ所ハ 

『横山硯』
小野脇村に小野の小町の宮あり。此村に小町入湯しられたりとて湯の谷と云処あり。市寺の薬師を湯の薬師と云はれたり 此薬師に小町の詠じられたりとて、
南無薬師頼むしつとの頼なれば
身より薬師の名こそおしけれ 小町
村雨はただ一時のものぞかし
己が蓑かさそこにぬぎおけ 薬師
然るに小町が難病をわづらひたりとて、小野脇村に宿かさじとて立出給ふ砌、小町のうたに、
市寺や鐘音聞ゆ正明寺
物淋しきは小野脇の里
とよみ給ひければ、其湯止りたりと云ふせつあり。覚束なし。此の歌こしおれにて年頃はあわず小野か様な歌よむひとにあらず 古今無双の女歌人也。日本書とも云はれたる大学の人なり。深草の少将も歌学の伝を得たきとて通ひけるを、世の人恋して百夜通ふたりと云触れたり。医学の書に名湯功能記と云書あり、此書に湯の出る処日本に貳百八ヶ所あり 此の内に小野脇の湯と云印なし。誠に小町が入湯望みなれば、右の内何国にても入らされし一ヶ処も小町の入りたると云ふせつなし。又湯は岩より出るものなり小野脇の湯坪と云所は黒土にして岩なし。按するに小町にあらず。されば市寺の院主が薬師の名をふれむため拵へたりと見へたり。又俗節弁と云へる書に諸の非なる事、俗証を正したる事あり。此書に深草の少将の百夜通ひし恋のうらみと云ふ事非なりとあり。又曰く小野が人にはだをゆるさぬと云ふ事、恐多くも玉体ならではと思ふ心にて何れの公にもこころゆるさざる人なのとあり穴かしこ。
又此里今安の百姓山田を打開かんと思ひて滝山の麓の小野を打ひらき田地を拵へたり。是より今安の百姓小野の小町田と云ひ伝へたり。追々打ひらきて小野の脇場に出作の家を建て追々出て小野脇村と名附けたり。いかに名を触れたきとて薬師のよまれたる歌などとは力なし。古より仏の歌よみたる例なし。

しかし伝説とはそうしたものである。科学的根拠のある伝説などはなかろう。その土地の人達のわが故郷に向けての伝説的空想的表現なのでそれていいではないか。たとえて言えば三歳児のオハナシに何も大学者が目くじらたてて、それは違うなどと言っていい気になることはなかろう。どちらが三歳児かわかないことになる。







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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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