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丹波の

池部(いけべ)
京都府福知山市池部


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京都府福知山市池部

京都府天田郡庵我村池部





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池部の概要


《池部の概要》


庵我小学校がある、その少し川下側に集落がある。由良川の蛇行が最も顕著なところで、ちょっと古い地図には集落の西方に長さ二百数十メートルの南北に細長い河跡沼がある。池辺とはそうした池のことか。
池部村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。文化4年の上紺屋町を火元とする福知山城下の大火は大風により中村ついで当村へ飛火し120軒などを焼失させ山へ焼け上って鎮火したという。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年庵我村の大字となる。
池部は、明治22年~現在の大字。はじめ庵我村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。


《池部の人口・世帯数》 220・99


《主な社寺など》

臨済宗南禅寺派研珠山観音寺
観音寺(池部)
集落の裏山。当寺のうしろの山に池部城跡がある。

『天田郡志資料』
研珠山 観音寺  (臨済宗南禅寺派) 同村池部
 本尊 十一面観世音菩薩(聖徳太子御作と伝ふ) 中興 藕庵和尚
 開山 白峰和尚。中興 ?庵和尚
 創建 慶長二年文化四年三月福知山大火の際飛火猪崎、中村、池部まで延焼、当寺も災厄を被りしが本堂のみは無事、藕庵和尚、本堂再建依て中興とす。天保年中桃嶺和尚庫裡再建、観音堂は明治十年、大信和尚再建
、大信和尚は五十五年の久しき間在住。昭和三年三月、現住高木玄真師住職となるに及び大信和尚隠退す。
 (室町時代まで在りし中村大信寺真言宗なりし後が当寺と云)
 郡新四国第五十三番の札所なり。
 檀家 百二十五戸
(郷土資料) 往古は観音堂のみなりしを白峰和尚来って禅刹とし慶長二年観晋寺と称す。白峰和尚は慶長七年正月十五日遷化後、文化四年三月焼失、仝七年九月藕庵和尚再建、大工は豊富村談藤原宇八、又明治十年十月観音堂再建、大工福知山能勢市次郎。 ○庵我寺とて甚古き寺ありしと云ふ、中古唯辻堂として存し、本尊薬師は池部にあり云々。  ○倉山金顧寺、 筈巻にあり、領主武田越前守の寄附の額ありしと云。


池部城跡・鬼ケ城跡


《交通》



《産業》



池部の主な歴史記録


『福知山市史』(地図も)

池部城(字池部)
 中村城址から北流する由良川の東岸を、更に北へ約三キロメートル足らず、福知山盆地がボトル・ネックのようにせばまったところに池部の集落があり、その北側の東からのびた丘陵先端に池部城がある。
 標高五三メートル、比高一七メートルで東西およそ一五○メートル、南北でおよそ二八メートルが城域で、北方下流大江町方面、更に西方から注ぐ支流牧川谷(夜久野町方面)の眺望がきく要地である。
 中心部分の主郭は東西約四○メートル、南北二四メートルで、東端部で高さ二メートに 幅四メートルが矢倉台(または物見台)となっており、堀切りをはさんで東の曲輪と連なっている。堀切りは深さ約七メートル、上辺部の幅六メートル程の堂々たるもので、この地方では最大級のものである。東に連なる曲輪は東西約五○メートル、南北約二○メートルで、その東端はわずかな虎口を除いてカギ形の堀切りでもって背後の鞍部と切断されている。主郭部分の北側から西側にかけて約四メートル低く帯曲輪がめぐって、西面には更に三段の小曲輪が付属している。往時の大手口は、恐らく土地の人が「荒神さん」と呼んでいる南方の谷間にあったのだろう。その付近の崩れた土砂の中から、五輪塔の台石らしい石がのぞいているのが認められる。
 城主については伝承もなく、また、『丹波志』にも記載がないが、『塩見家文書』『福知山市史 史料編一』)の「細川高国感状」のうちの二通に「池部三郎次郎とのへ」という名前があり、この城の城主に想定しても大過ないと思う。しかし猪崎城主塩見氏に与力または加担した一土豪との推定は可能でも、『塩見系図』(塩見孝夫氏所蔵)のごとく、塩見筑後守利勝の四男利一(長男は猪崎城の家利)を「池部三郎次郎」とするにはもう一つ史料が乏しい。
 池部氏に関係のある名前が確実な史料に出てくるのは、康安元年(一三六一)七月十二日付の「氏衡注進状案」 『松尾大社文書〔東家文書〕』)で、地下人として「池辺四郎兵衛尉父子四人」が出ている。この史料は「荻野参川入道父子三人」その他による雀部荘濫妨の前田合戦に関してであり、塩見氏の活躍期(『塩見家文書」から推定すると大永五年~享禄年間)より百数十年古い。地下人から土豪に変貌する「池部氏」が、由良川東岸にいたことはほぼ確実であろう。).


鬼ケ城(字池部)
福知山の市民に親しまれている烏ヶ岳(標高五三六メートル)と・鬼ケ城(標高五四四メートル)とを含む山塊は、東部を山野口・印内、南部を川北・猪崎・中村、西部を池部・安井・筈巻、そして北部を加佐郡大江町南山の集落に囲まれて、尾根筋が複雑にのび、その山麓部も広大である。
その高さ、その広さから、『陰徳大平記』の伝説、氷上の赤井氏が中国の毛利と結び、吉川元春の本陣とするために鬼ヶ城に砦を築いたという話が生じたものであろう。しかしその立地条件をみると、古代の国家権力による地方の駐屯地としての山城ならともかく、中世以後の山城としては最悪に近く、せいぜい見張りの砦か、連絡用の繋ぎの砦か、最後の逃げこみの詰の城と思われる。頂上部の遣構に一部石積みがみられるので、南北朝期に見張りと繋ぎ用に利用した砦跡を、中世末に南麓の猪崎・中村・池部一帯を押えた国人が「詰の城」として利用したのであろう。
城郭遺構としては比較的小規模で、標高五四四メートルの頂上部に、約二~三メートルの落差のある曲輪が階段式に東南方に四つ連なり、頂上部の曲輪が最も広く約二八メートルに一六メートル、二段目が四メートルに一○メートル、三段目・四段目がほぼ同じ広さで五メートルに一○メートル。そして頂上部の曲輪と二段目の曲輪の東南部に石積みの遣構がみえる。更に南に坂道をおよそ三○メートル下ると、東西約二二メートル、南北約一三メートルの曲輪があり、○・五メートル低いその南側の小曲輪西隅に一部石積みを持った城戸口(虎口)がある。この曲輪から東南方におよそ十数メートル下ると、中央部にやや古風な虎口をもった幅約八メートル、長さ約一二メートルの一郭がある。以上三つの部分が、中世末に修築されたと推定できる部分である。地元の伝承『曽我井伝記横山硯』・『家懐記』によると、永禄三年頃、鬼ヶ城の南麓醍醐寺付近または城山に内藤某がこもったのを、地元の横山・塩見一族が討ったとの伝えがある。また、『丹後国加佐郡旧語集』『丹後史料叢書』第四輯所収)によると、内藤備前守、赤井悪右衛門と一戦し兵糧攻めにて落城との伝承が残っている。守護代内藤宗勝が和久郷で戦死したのは、前述(荒河城の項)のように永禄八年八月であるから、備前守貞勝を含む内藤の残党が鬼ヶ城にこもったのは、その直後であろう。そして雪崩のように赤井方に加担したこの地方の土豪・国人(『家懐記』の伝えによると横山を始め、奈賀山・和久・桐村・牧などが鬼ヶ城を攻めたと推察できないだろうか。
もう一つこの鬼ヶ城が詰の城としての機能を発揮した記録が『信長公記』にある。「天正七年 七月十九日」の項で「惟任日向守、丹波へ出勢のところに、宇津構(北桑田郡京北町宇津城)へ明け候を、人数を付け、追討ちに、数多討ち捕り、頸を安土へ進上。それより鬼ヶ城へ相働き、近在放火候て、鬼ヶ城へ付城の要害を構へ、惟任人数入れ置く」とある。






池部の小字一覧


池部(イケベ) 赤坂 石ノ向 大谷口 上谷 上町 川谷 加茂野 観音寺 コモ原 坂上 三田 下町 外丸池 谷尻 築堤 出口 中谷 中道 舟戸 三ツ石 三ツ津 釣鐘 大谷 深田 天王 ツキ土居 小川 丸池 岩尾 岩才 中津 池尻 岩尾 大谷 鳥ケ嶽 上楽 釣鐘 久ス谷 城谷 西谷 南河谷 北河谷 妙見山間岩

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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