丹後の地名プラス

丹波の

井田(いだ)
京都府福知山市夜久野町井田


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京都府福知山市夜久野町井田

京都府天田郡夜久野町井田

京都府天田郡下夜久野村井田




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井田の概要


《井田の概要》



国道9号で福知山の方から行けば、夜久野トンネルをくぐって最初の集落である。牧川に畑川が合流する地点で、JR山陰本線や国道9号が東西に走り、国道が府道小坂青垣線を北に分岐する。
もと今西中村のうちであったが、天正17年に分村したという。現在は当地に寺院がなく、住民は今西中の大智寺、額田の東光寺・妙竜寺を檀那寺としているが、これは当地住民が今西や額田方面より次第に移住してきたことを示すものであろうかという。
中世は安国寺(現綾部市)領今西村の地。伝承によると天正7年(1579)明智光秀支配下では北接する今西村と一村であり、同15年杉原七郎左衛門家次の所領の時、高569.4石と定まったという(井田村地税沿革誌)。同17年今西村より分離し、井田村は264.538石、今西村は304.862石となったという(井田村古事記)。
井田村は、江戸期~明治22年の村。寛政年間の余業人別下帳や御漆山木数覚などによれば当村は額田村とともに夜久野地方の漆の主産地。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下夜久野村の大字となる。
井田は、明治22年~現在の大字。はじめ下夜久野村、昭和31年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。明治30年頃当地から福知山広小路までの定期馬車が走っていたという。


《井田の人口・世帯数》 177・76

《主な社寺など》
加茂神社
賀茂神社(井田)
集落の裏山上、当社の裏山の頂に井田城跡があり、城山とよばれるが当社の地も城跡かも知れない、表参道は急勾配の石段で、昔はこの石段で御輿を下ろしたというが、今はもうできないとか、祭は額田のダシの日と同じ。
『天田郡志資料』
村社 加茂神社 同村井田鎮座
祭神 別雷神 社殿 流造唐破風三方椽勾欄付柿葺 境内 四百五十三歩行 祭日 十月十三日 末社 四位宮神社 三柱神社 祭神火産霊神、澳津彦、澳津姫の二神 大年神社 祭神大年、御年、若年の三神 武神社 進雄命 稲荷神社 秋葉神社 天満神社。氏子 六十一戸

『夜久野町史』
賀茂神社(井田)
祭神…ワケイカズチノミコト
節分祭…宮当番で参拝者に甘酒、福引などでもてなし、また氏子で神殿へ祝詞を奉納する。
夏祭り…参拝者の氏子で神殿へ祝詞の奉納をする。その後お神酒でお祝いをする。
秋祭り…150年ほど前から続いている、御輿の地区内巡行では、揃いの法被、白い足袋で御輿を担ぎ、各組の氏子宅(6~7宅)にお休みする。子どもたちが太鼓を叩きながら踊る伝統的な祭りである。 昔は男の子ばかりで踊ったが、最近は入数も少なくなり、女の子も一緒に踊り、とても可愛い。豊かな秋の収穫を祝い、神々に感謝を捧げる秋祭りである。

観音寺廃寺
『夜久野町史』
観音寺 井田
寛政六年成立『丹波志』・『本末帳』には真言宗で東光寺(額田)の末寺であることが確認できるが、『寺院明細帳』にはみえず、寛政年間から明治初期のいずれかの時期に廃絶したものとみられる。江戸時代の如来坐像、天部立像などが井田観音寺跡で保存されている。昭和十八年火事で焼失。

伝説
丹波与作の屋敷跡と称するものが残る。




《交通》



《産業》
夜久野漆。
近頃はメディアでもよく取り上げられる、このあたりに多いと言うが、キョロキョロしてもわからなかった。漆の木は触れたり近づいてもカブレルことがあるので注意(ウルシカブレ)。カブレルというのは肌がアレルギー反応で皮膚炎を起こしとても痒い。木を燃やしてもその煙でカブレル。子供の頃にはカブレたことがあった。近づかないでおこう。
『上夜久野村史』
夜久郷漆は福知山藩の特産品として重要視されたものである。集散の中心地は日置であったが、漆掻人は郷全域に及んでいる。額田の旦では田の仕事が苗代は八十八夜四・五日前、六月上旬麦刈りにつづいて田植えが始まり、稲刈りは十月上旬から始まり中旬に及ぶ。この傾向は山寄りになる程早まり、冬に備えるのであるが、漆業に従事する人たちは、五月の末までには他国まででかけるので、老人婦女子や、但馬出石方面からの雇人である男衆、女子衆にたよった。秋の氏神の祭礼の頃には帰ってくる習慣ではあったが、約半年を留守にしたものである。他所にもこの業に従事する人たちはかなりあり、ほぼ同様の出稼をしている。出稼の範囲は、東は北桑田郡知位村から若狭遠敷郡、西は但馬から美作、伯者、因幡さらに九州にも及んだという。
採取した漆液は生漆といい、目方で仲買人に売っている。通常一人一夏に十五貫から二十貫と採取した。この仲買人は日置がその中心をなしており、大阪の漆問屋に移出していた。漆掻人は個人で他郷に出かけるもののほか、一団をなしても出かけている。即ちこの場合には親分があり、その子分、弟子が追従して、半年の労役を行なうのである。親分は「山たて」といって前年中に次年度の漆山の見方を行なっておき、五月の採取開始期には必要経費や諸具を準備し、目的地に出かける。それ故親方は技術のほか質力をも要したもので、当時の村における資産の階級をなしていた。門垣にのこる明治十二年(一八七九)弟子入証文の文書では、徒弟奉公人は通常三年の年季で、給金六円、第一年目噌円、二年目二円、三年目三円となっているが、奉公は通年でなく、毎年五月からその年の仕事の終る秋まである。
採取法
一本の木から連続採ると樹勢が弱まるし質が落ちるので、適当な間隔をあけ休ませながら採るのを四日ヘン、五日ヘン、六日ヘンと呼んでいる。一人で細い木なら四百本、毎日百本づつ採取して五日に元にもどれば五日ヘンである。漆液の最もよいのは十五・六年生の径五寸、廻り一尺五寸(四十五糎)位のもので、これを三百本五日ヘンで一人掻するのがすぐれた「山たて」とされた。
夜久野漆の質
漆液には良否の見分けに「スキ」がある。透明度のことで、吉野漆と共に丹波漆はその名が高かった。そしてまた、丹波漆のよさは十一月から十二月の上旬にかけて最後の採液である「セシメウルシ」にもあった。これは残った枝から採るもので、透明度は悪いが粘着力が強く、友禅の型紙に用いられた。漆の産地は湿潤の気候の土地にあり青森、秋田、新潟、福井から当地方にかけ、更に鳥取、岡山に及んだ。丹波は品質の良さで知られ、当夜久野の漆も質量共にすぐれていたのである。
福知山藩の関心
近世諸藩では.漆業の保護奨励を行なっているところが多い。福知山藩でも振興施策をとっていたことが井田文書にみえる。

右文書は井田に残るものであるが、当地の村々においても同様に藩の奨励乃至命令によって、百姓銘々の持分の畑地や崎地に漆樹を植え、鹿に荒され枯木になるようなことがあれば植かえて、本数が減少しない様に心掛けるようとの達示を受けていたと当然考えられる。
漆業の衰退
藩政下に重視されてきた漆業が何故に姿を消していったか。本業は明治末から大正の初期まではまだかなり行なわれていたのであるが、養蚕業が盛んとなり桑畑が急速に拡がると共に、漆畑はその位置を奪われた。そして畑地のあぜや崎地に残った僅かの漆木は栽培されないまま掻捨にされて滅んでいったのである。漆樹が樹皮より採液されても再生存続するものであれば、斯業の生命は永らえ抜けたかも知れない。漆液の需要は今日尚多いにもかかわらず、殆んどを中国よりの輸入にたよっているのである。

『夜久野町史』
丹波漆の復活と現況
丹波漆の復活に生涯をかけられた故衣川光治の志を受け継ぎ、昭和61年、30~40歳代の農業青年数人が丹波漆生産組合を再構築され、漆の木の植栽や岩手県二戸郡浄法寺町、茨城県久慈郡太子町などの同業者、あるいは、京阪神方面の研究者との交流がされるなど、漆の研究に力を注がれるようになった。また、平成11年にオープンした「農匠の郷やくの」の「やくの木と漆の館」では丹波漆関連の展示と漆器製作、漆樹細工の民芸品つくりなどが試みられており、復活への足がかりができている。
漆樹の栽培
漆液を掻いた木はそれで役目が終わる。毎年続けていくためには計画的な植樹が必要である。ある農家では、平成13年に自宅近辺の山田に30本ばかり植樹されており、今後も計画があるという。しかし、幼木の段階は鹿の害もあり防獣対策として5m間隔で植えられた木を、すぺて網で囲うという苦労もある。
一般に漆の木は肥沃な土地で栽培し、作業がしやすいよう線的ないし円的な集団栽培が良いとされる。その場合実生と分根の方法があり、分根の方が成育は速いとのことで、この方の場合は分根方式をとられていた。漆の木は四方に伸びた根から芽をふく。漆液を採取した木の根を掘り出して10数㎝の長さに切って土中に埋めておくと、そこから芽を出して成長するのである。
京都府教育委員会は平成3年4月19日付けで、丹波漆生産組合宛に漆掻きの技を「丹波の漆掻き」として京都府指定無形民俗文化財に指定した。歴史的特産物の丹波漆が伝統の技を継承しながら復活発展することを願うものである。

『京都新聞』(2015.6.2)
漆追い風の初鎌入れ
福知山・夜久野
文化財修復に国が使用方針 職人ら期待
 府内唯一の漆産地の福知山市夜久野町で1日、漆をとるための最初の作業「初鎌入れ」があった。国産漆を文化財修復に使用する文化庁の方針が今年打ち出されたこともあり、漆かき職人は活性化への期待を込めて幹に傷をつけた。
 夜久野町には明治期に約500人の漆かき職人がいたが、海外産の輸入などで衰退し、現在、専門の職人は2人で作業は府無形民俗文化財に指定されている。生産や後継者育成にあたるNPO法人丹波漆が今年は町内の31本から6~9月末にかけて漆を採取する。
 同町井田での初鎌入れでは、職人らが樹齢20~30年という漆6本が生える斜面に足場を組んだ。幹に「カンナ」と呼ばれる特殊な刃物で1センチほどの傷を付けた。傷の数や長さを増やす作業をし、12日目以降に製品になる漆が採れる。
 今年2月には文化庁が国宝や重要文化財の建造物の修復に国産漆を使用するよう都道府県教育委員会に通知し、追い風も吹いている。
 丹波漆の岡本嘉明理事長(69)は「国産の需要が高まり、新しく植えた木も漆がとれるようになってきた。漆がたくさんとれるよう頑張りたい」と話した。(秋田久氏)


井田の主な歴史記録


『丹波志』
古今中村支
井田村
高 三百四十壹石四斗七合

『夜久野町史』
稲泉遺跡
所在地 井田(稲泉)
遺跡 畑川が南に流れて牧川に合流する直前の、畑川左岸の沖積地に位置する。
圃場整備工事の最中に、遺物が出土して明らかになつた遺蹟である。出土遺物は、縄文時代から平安時代に至る各種の土器が見られる。縄文土器では早期の山形文・楕円文土器が見られ、前期では北白馴式の爪形文土器がある。
稲泉遺跡
所在地 井田(稲泉)
遺跡・遺物 現状で遺跡の範囲は限定されたもので遺跡内容亀不明確であるが、夜久野町域内としてはまとまった弥生時代中期後半の土器類が出土している。地形的にみて畑川下流域に弥生時代以降、拠点的な集落が継続的に営まれてきたことが推測され、畑川と牧川の合流点村近、畑川両岸と牧川左岸、現在の井田の集落域一帯に遺跡の範囲が広がる可能性がある。
遺跡を見下ろす台地上には稚児野遺跡があり、古墳時代の遺物も採取されている。また畑川上流の今西中遺跡など、遺跡の広がりや駕関連など畑川流域全体を見据えた今後の解明が待たれる。
稚児野遺跡
所在地 井田(稚児野)
遺跡 龍ヶ城(標高六四五・六メートル)から南西にのびる尾根の先端部に位置し、畑川と牧川とが合流する東側の比高二〇メートルの尾根上にある。
昭和五十六年、当地に畜産養豚団地の建設計画に伴う発掘調査が京都府埋蔵文化財調査研究センターによって行われた。
遺物 遺跡地は、昭和三十一年に開田工事が行われており、その際に高所を削平して谷部を埋めたようであると言われている。発掘調査は四つの地区に分けて行われたが、遺構としては縄文時代のものは未発見であり、奈良時代から平安時代の溝等が見りかった程疲である。表面採集では、縄文時代にかかわる遺物として、口縁部内側に縄文を施した土器と打製石斧が発見された程度である。

大野古墳
所在地 井田(大野)
所在地 JR山陰本線の第三牧川橋梁から南へ約六〇○メートル程の台地上に位置する。古墳が全壊しているためにゆ墳形や埋葬主体については不明。

稚児野古墳
所在地 井田(稚児野)
遺跡 古墳は、国道九号稚児野トンネル上の稚児野台地南端に位置し、南北一〇メートル、東西八メートル、高さ一・四メートルの円墳である。






井田の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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