日本史特講II「神仏習合の古代文化論」質問と回答


〈10月20日分〉

Q. 斎王には、天皇の姉はなれないのでしょうか?
A. 天皇の娘や妹が理想とされたようですが、実際は姉や伯叔母、いとこ、遠縁の女性などが選ばれることも多くありました。歴代斎王については下記のホームページを参照してください。
斎宮歴史博物館:歴代斎王一覧 http://www.pref.mie.jp/SAIKU/HP/jiten/itirann/itirann.htm


〈10月27日分〉

Q. 神婚によって神が生まれ直すのだとすれば、玉依比売に対する賀茂神の関係は近親相姦にはあたらないのでしょうか?
A. 固有名詞を伴う神話のなかでは、玉依比売と交わるのはあくまで乙訓神社の火雷神、生まれたのは賀茂別雷神なので、近親相姦には当たりません。ただ、始原の神話の繰り返しである祭祀では、賀茂氏の巫女が神霊を迎えて活性化させることを内実とします。そこで再活性化する神格は、いかに「若宮」などと呼ばれようと、人間の女性の子どもとはみなされないのでしょう。神話に登場する玉依比売や父の賀茂建角命は、彼ら自身神として祀られる存在です。現在の根拠になっていながら(あるいは根拠であるがゆえに)隔絶してもいる世界、それが神話なのです。

Q. 女神と神婚を結んだ男性はいないのでしょうか?
A. 『日本書紀』や『風土記』に初見する浦島子(浦島太郎の原型)、天の羽衣の伝説などがそれに当たるかも知れません。昔話にも女神と人間の男性が結ばれる話は多くありますが(雪女や山姥などもそうです。あれは山の神ですね)、悲劇的結末に至る場合が多いようです。ただし、いずれも共同体の祭祀の始原を語る事例ではありません。それが男女の相違に基づくものなのかは、よく考えてみる必要がありそうです。

Q. 滋賀津彦は死霊であり、神ではなかったと思うのですが?
A. 折口信夫の考えからすれば、やはり御霊信仰が念頭にあって、滋賀津彦を神格化しているのでしょうね。死者を神として祀る事例は、一般には8世紀の初めには確認できるのですが、7世紀、大王の神格化=天皇化が進むなかで、歴代天皇を神的存在と捉える発想は生じていたようです。前期の講義でもみたように、中国では死んだ人間から選ばれて神が誕生する。神身離脱が喧伝される頃には、列島にも中国的神観念が伝わってきていた。これに即して考えれば、滋賀津彦も〈神〉とみることができるでしょう。

Q. 悟りとは、何をもって「開いた」と認められるのでしょう?
A. 原始仏教では、サンガ(僧伽)と呼ばれる修行者集団において、その認定がなされたようです。日本仏教では、密教の理想とする即身成仏(ありのままの状態で仏になる)が存在する一方、末法思想と浄土教の普及により、現世の覚醒を不可能として死後の〈成仏〉を願うようになってきました。ただし、浄土教の主流をなす浄土真宗は念仏者を「弥勒と等しい」(現生正定聚。現世において成仏の定まった者)と捉えており、即身成仏と本質的には同じであるともいえます。問題は覚醒が自己の修行により達成されるか、超越的な救済として行われるかの相違でしょう。それは上座部仏教と大乗仏教の相違でもあり、現在まで続いています。

Q. 大乗仏教では、悟りを開くのにも煩悩が必要だとありましたが、そうすると、煩悩を取り除く修行は必要ないということでしょうか?
A. 日本仏教では、宗派によってかなりの相違が出てきます。例えば性欲について、原始仏教ではもちろん邪なものとして抑制しようとしますが、真言宗では男女の合一に真理をみる考え方もあります。浄土教では、末法における戒律の無意味から仏力による救済のみに依拠、悟りを開くための自力作善を放棄する傾向が強く、真宗では最も先鋭的に結婚を容認するに至ります。罪悪深重の凡夫を自認する親鸞は、師法然の教えを受け継いで悪人正機説を唱え、煩悩にまみれ自力で覚醒できない自らこそが、阿弥陀如来が救済しようとする正当な対象であると考えました。ここでも、煩悩は救済の契機として作用しているといえそうです。


〈11月10日分〉

Q. 東博の特別展に展示されている円空の仏像はとても変な形をしていますが、あれらも神仏習合と関係があるのでしょうか?
A. 一木から仏を彫り出すという行為は、木の仏性を顕現させるという意味があります。中国の『高僧伝』の類には、僧の徳や法力に応じ、山野河海から仏・塔などの出現する物語が多くみられます。その言説形式は列島へも早くに入ってきており、山岳寺院の縁起譚などに援用されてきました。とくに、いま目前にある現実世界がそのまま真理の世界であり、あらゆるものが仏の顕現であるという本覚論的世界観が広まると、「一切衆生悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」といった常套句が語られ始め、仏像制作にも影響を及ぼしてゆくわけです。一方、神祇信仰的世界観では樹木には山の神、もしくは樹霊が宿ると考えられ、造宅や造船の際に種々の儀礼を行い、樹霊を建築物の守護神に転換してゆく実践もなされていました。そうした方式が仏教に採り入れられれば、とうぜん儀礼レベルで神仏習合が起きてくることになります。事実、平安初期の仏教説話集『日本霊異記』には、仏塔の心柱に宿る「塔霊」が確認できます。仏像制作の現場でも同様の現象が起こっていたと考えられ、美術史学の方面では、初期の一木造りなどに神仏習合像の可能性を認めています。東国の鉈彫仏像、円空仏などは、その系譜上に位置するといえそうです。

Q. 冒頭で話のあった日本人の自然観とキリスト教の自然観の相違とは、具体的にどういうことでしょうか?
A. 他の講義、「日本史概説I」や全学共通の「日本史」では詳しくお話ししているのですが、簡単にいうと、キリスト教では人間も自然も唯一神の創造物であり、唯一神を頂点とした秩序(現実世界では〈神の似姿〉を持つ人間に収斂される)が貫かれているのに対し、列島ではアニミズム、もしくはパンセイズム的な自然観があらゆる思想・宗教の基盤にあるということですね。西アジアやヨーロッパでもそうした多神教的文化は強固に存在しましたが、キリスト教が拡大する過程で排除され、破壊されてしまうか、もしくは文化の深層に身を潜めるしかありませんでした。列島では、外部から新たな宗教が入ってきたとき、多少の軋轢はあるものの、結局は数多存在する神々のひとつとして受容されます。それが他の神々をも圧迫するような振る舞いをすると、かえって疎外されてしまうということになります。浄土真宗の阿弥陀一仏信仰はよくキリスト教唯一神信仰と似ているといわれますが、親鸞の依拠した浄土三部経、彼自身の著した聖教類では多神多仏の仏教的世界観が肯定されており、質的な相違は顕著です。

Q. 蛇と神との関係はどのように創造され、維持されてきたのですか?
A. 前期の講義でも扱ったかと思うのですが、蛇は土着の神の姿としては極めて一般的です。脱皮を繰り返すその生態は不死、死と再生のシンボルとみなされ、古くメソポタミアの『ギルガメシュ神話』では、人間が月(満ち欠けを繰り返すのでやはり再生の象徴となる)から授かるべき不死の力を横取りする存在として登場、同様のモチーフは『旧約聖書』のサタンにまで受け継がれてゆきます。東アジアでは、湿地帯に住むことから水の神とみなされ、日本でもミズチの呼び名は水の精霊の意と解釈されます。再生と水に関わることから早くに農耕と結びつけられたようで、原始農耕の始まる縄文後期の中部・関東では、蛇のレリーフを持った土器類が生産されます。早くから男根象徴ともみなされたらしく、同じシンボル機能を持つ雷とも習合、7〜8世紀の神話群には男神の化身のひとつとして現れます。『道成寺縁起』にみるように女性と結びつけられるようになるのは、仏教が蛇神に怒りや嫉妬深さを重ね合わせてからでしょうね。その意味では、講義で紹介した宮亭湖廟の伝承は、蛇の女性化の源流ともなっているといえるかも知れません。


〈11月17日分〉

Q. 宮亭湖廟の信仰が交通災害を解決するためのものだとしたら、新しく登場した仏教は、その問題をどのように処理していたのでしょう?
A. いい質問です。仏教が在来信仰を吸収したり解体したりすることはよくありますが、その信仰が担っていた社会的役割をどう処理するかは、時代情況や社会情況によって異なります。例えば、神に対する信仰が農耕開発を疎外している地域では、仏教の伸張とともに水路や溜め池といった灌漑施設が整備され、開発が進展することもあります。宮亭湖の場合はその後のありようがよく掴めないのですが、『観音経』に依拠した観音信仰などは水難に対する効験を謳っており、溺れそうなところを救われたという説話が観音霊験譚としてよくみられます。宮亭湖の神の機能を、仏教が代替することは可能だったと考えられます。

Q. 仏教から神へのアプローチに対し、神の側から仏教へのアプローチはなかったのでしょうか?
A. 後に少しお話しするように、六朝期には、仏教と道教などとの交流も盛んに行われ、お互いの教義体系に少なからぬ影響があったようです。老子が西域に渡って釈迦になったという『老子化胡経』や、冥界の神泰山府君の仏教化などに、両者の交流がみてとれます。神身離脱は仏教側から語り出された言説ですが、護法前神のなかには、神の側が仏教と共生するために起こしたアクションもあったかも分かりません。

Q. 中国人の虎に対する両義的な感情は、現在でも残っているのでしょうか?
A. 現在では虎害自体がなくなっていますので、かつてのような心性は強固には残っていないでしょう。ただ、自分を超える力を持つ存在に対し、人間が憧憬/忌避の矛盾した感情を抱く現象は、何も中国に限ったことではありません。日本でも、例えば熊に対し、同様の心性が息づいていたと思われます。現在でも、東北地方やアイヌ民族のなかにそうした認識は残存していますが、秋冬に被害をなす熊を〈処分〉する現代人の心性は、彼らを神と崇めていた頃のものとは大きな隔たりがあります。人間と他の生命との関係は急激に変化し、そのことが環境問題の激化などにも影響を及ぼしていると考えられます。


〈11月24日分〉

Q. 本地は仏、垂迹はその仮の姿としての神とすると、宇賀神は神であるから弁財天は仏になるのでしょうか?
A. いい質問ですね。弁財天は天部ですので、厳密にいえば仏教に帰依した善神(仏教の守護神)であり、古代インドのバラモン教の神々が仏教に採り入れられたものです。仏とは仏陀=目覚めたものであり、真理の体現者である如来を意味しますので、天部は厳密にいうと仏ではありません。サンスクリットの原語Devaも、神の意です。しかし大乗仏教では、如来の他、菩薩や明王、天部なども含めて広義の〈仏〉と捉えています。日本の本地垂迹の場合にも、如来だけでなく、観音菩薩や地蔵菩薩、不動明王などが本地として表されます。例えば京都の北野天神は十一面観音、奈良の葛城の一言主神は孔雀明王、といった具合ですね。

Q. 仏教における数字の意味が気になりました。三毒や三熱など、三にこだわる理由は何でしょう?
A. 仏教でよく出てくる数字は、何も三だけではありません。四諦などの四、五蘊などの五、六波羅蜜などの六、…とあらゆる数字が揃います。とくに八は聖数視されますが、これは仏教に限らず、世界的にみられる傾向です。経典のなかには、それぞれの概念における数字の意味について詳しく論及したものもありますが、すべてに一貫する説明は存在しないでしょう。整理したい、という欲望のなせる技でしょうか。

Q. この単元に入って急に難しくなった気がします。よい参考書はないでしょうか?
A. 仏教の難解な語句、概念が出てくるからでしょうね。それらは()に入れておいても、説明の本筋を理解してくれていればいいかと思います。神仏習合の場合、研究が急展開したのが最近のことなので、現在あまりよい参考書が存在しません。分からないことがあったら、具体的に質問してください。補足説明をいたします。


〈12月1日分〉

Q. いざなぎ流の儀式では紙を多用していますが、何か特別なものなのでしょうか?
A. 紙自体は普通の和紙で、特別なものではないようです。しかし、小刀でそれを切り分ける太夫の技によって、〈普通の紙〉は神聖なものへ変貌してゆきます。紙を使って御幣を作ることは、古代より神祇信仰で行われ、陰陽道でも人形や式神の事例があるので、何も珍しいものではありません。しかし、いざなぎ流で使われる御幣は200種以上あり、それぞれが太夫の記憶に従って細かく切り分けられてゆきます。御幣の左右には〈ちぢ〉といわれる細かい折り目があり、その数は御幣の種類によって相違します。〈ちぢ〉には祈祷が他の太夫によって妨害されたとき、それを払いのける力があるといい、これがうまく付けられるかどうかによって、御幣は「生き」たり「死んだ」りするということです。つまり、作成自体がすでに宗教的(呪術的)実践なのです。完成した種々の御幣はミテグラや法枕という神座に設置され、祭文を伴う祭儀を受けることで、世界に充満する数多の神霊が太夫のもとへ勧請されます。なお、太夫のかぶりものも五色の紙で作られており、〈綾笠〉と呼ばれています。類似のものは他の民俗信仰にもみられますが、修験道で用いた〈斑蓋(あやいがさ)〉が原型ではないかといわれています。

Q. 仏教や神道、その他アニミズムなどが混在しているようですが、民俗学的にはどのように整理されているのでしょうか?
A. 現在の私たちの目からすると、あの神仏習合の姿は特殊かも知れません。でもそれは、私たちのみている日本の宗教的情況が、明治の神仏分離・廃仏毀釈を経てある程度の〈整理〉を受けたからで、それ以前の中世的宗教世界は、まさにいざなぎ流の種々の祭文に語られるような〈何でもあり〉の状態だったのです。近年、中世神話というパラダイムで研究が進んでいますが、『古事記』や『日本書紀』に代表される古代の神話群が解体・再構成され、仏典にみられる本生譚や霊験譚、中国の神や聖帝、英雄に関係する伝説など、ありとあらゆるものが混ざり合って新たな物語を創出しているのです。いざなぎ流は、あくまで現在の民俗信仰に過ぎませんが、それが前近代の文学者や一部の歴史学者にも注目されているのは、〈生の中世的イマジネールの世界〉とでもいうべきものを、私たちに垣間見せてくれるからでしょう(しかし重ねていいますが、それが中世そのものではないことには注意が必要です)。

Q. どうしたら太夫になれるのでしょう?
A. 斎藤英喜さんは太夫に弟子入りして、あと少しで…という段階まで到達したようですが、そこで研究者と宗教者のどちらを採るかという二者択一的難問に直面します。彼は結局研究者としての立場を堅持することになりますが、人類学などの世界では、時折〈向こう側〉に行ってしまう人が出てきます。その代表例が、アメリカのカルロス・カスタネダ。彼が呪術者になってゆく過程は一連の著作で克明に語られていますが、その真贋をめぐっては現在でも議論が続いています。斎藤さんの件については、彼の論文「表のなかに裏あり」(同『いざなぎ流 祭文と儀礼』法蔵館、2002年)を参照してください。


〈12月8日分〉

Q. 太夫と神主の違いは何かあるのでしょうか?両者に上下関係はあるのでしょうか?
A. 太夫が近世より続く下級の民間宗教者であったのに対し、ビデオでみた神主は国家神道以降の上級(制度的)宗教者です。太夫が物部村の歴史に直接接続しているのに対し、神主は接ぎ木されたもので、村の風土に立脚したものではないといえるでしょう。

Q. ビデオのなかでいわれていた山の神、水神とは一人なのでしょうか複数なのでしょうか?また、固有名詞はないのでしょうか?
A. 神に名前を付け、その数を確定することは、本来不遜な行為であり、また常人にはできないこととされていたのでしょう。神霊に名前を付けられるのは異界の論理に通じたものであり、それを通じて神霊を束縛することができる。僧侶や陰陽師とはそうした存在であったと考えられます。いざなぎ流の世界にも多くの「名前を持った」神々が登場しますが、その背後には、名前も数も分からない神霊たちの渦巻く山谷が口を開けている。邪な霊や穢れを山海に送り返すことは、大祓や河臨祓などの前近代的祭儀にもみてとれます。列島の、最もプリミティヴな宗教観に近い認識といえるでしょう。

Q. 湯を立てて吉凶をみる占いは、湯立て神事と関係があるのでしょうか?
A. 鳴釜神事のことでしょうか。岡山の吉備津神社に発祥するこの神事は、湯立てた釜の上に乗せた甑で玄米を回し、殿が震えるほどに響く怪音から吉凶を占うというもの。私も実際にみたことがありますが、うわんうわんというかなりの轟音が起こります。音の主は、吉備津彦によって竈の下に封じられた鬼・温羅だといわれています(つまり桃太郎伝説の原型)。恐らくは竈神に対する祭祀が発展したもので、その意味では湯立て神事と共通の基盤を持っているといえるでしょう。他にも古代の盟神探湯や、鍋のなかに竹筒を数本入れて粥を炊き、筒中に米が何粒入っているかで吉凶を占う筒粥神事なども、やはり竈神信仰に端を発したものではないかと考えています。

Q. 日本の祭儀には、なぜあんなに米が出てくるのでしょう?
A. 全学共通の「日本史」では話をしているのですが、米には豊穣を生むエネルギーともいうべき〈稲魂〉が宿っており、ゆえに神聖なものとされ、邪なものを退けたり、神へ供えられることでその力を活性化させたりできると信じられていたのです。いざなぎ流でもみられた散米は古代よりの供献の方法で、酒や木綿などとともに撒く所作が儀式書などにも確認できます。伊勢神宮には、緑を育む山の力を田に注ぎ込み、豊穣を予祝する湯鍬神事が残っていますが、これと考え合わせると、稲魂と山の力は本来同質のものであるといえそうです。

Q. いざなぎ流の祭儀で行われていた、印を結ぶこと、舞、餅を投げることの歴史的意味について教えてください。
A. 印は密教とともに日本に入ってきたもので、身・口・意を如来と一体化させる(即身成仏)ための手段です(身に印を結び、口に真言を唱え、意に如来を観想する)。やがてその形だけが遊離し、真言の呪文化と軌一して、さまざまな呪術に用いられてゆくのです。いざなぎ流のビデオでみた作法は五印といい、剣の印・ばらもんの印・あじろの印・金わの印・岩の印の五種類を指します。これによって「関」といわれる封印のバリアーが構築されるといい、この作法を「関を打つ」とも呼んでいます。
舞は神に捧げられ、神を楽しませるもので、一般的には、『書紀』『古事記』の天岩戸神話に登場するアメノウズメの舞が起源とされています。個々の祭儀においては〈神憑り〉をもたらす機能があるようで、舞や踊りを通じて参集した人々の昂奮が頂点に達するなか、踊り手に神がよりつくシーンは、いざなぎ流のみならず、奥三河の花祭りなどで現在でもみられるといいます。
餅を投げるのは、原義的には、米を撒く散供に等しいと思われます。しかし、散米が神霊を対象とするのに対し、餅まきは人間に向かって行われますね。餅も稲魂を持つ聖なる食物ですから、それを持って帰って自宅の神棚に供えたり、一家で食べることには招福除災の意味があるのでしょう。今年の3月に調査にいった和歌山県の清水町では、直径30センチ以上もある巨大な餅がまかれていましたが、それを怪我することなくいかに取るかということも、レクリエーションの知識・技術として伝承されていたようです。多く宗教儀礼や呪術に起源を持つとされる、〈遊び〉の成り立ちを考えるうえでも面白い事例でした。


〈12月15日分〉

Q. 蘇我氏と物部氏の対立を崇仏/廃仏の関係にしたことは、日本が繁栄していることを示すためだったのですか。それとも実際の利益があったのですか?
Q. そもそも仏教がどうしてそんなに人を引きつけたのか分かりません。ただ政治に利用しただけなんでしょうか?
A. 仏教は6世紀の東アジア世界で、中国王朝・朝鮮諸国と対等な外交関係を結ぶためのツールであったと考えられます。寺院を建立して僧侶を養成するには、建築・工芸・思想の各分野で高度な知識・技術の導入が必要となりますが、そうした文化協力を通じて友好関係を構築してゆくこともでき、事実、推古朝ではそうした目論見で隋・百済・高句麗との外交が展開されてゆきます。宗教・儀礼としての面では古墳祭祀に代わるもの、すなわち祖先信仰の方法として受容されたようで、飛鳥寺の塔心礎からは、古墳の埋納品と共通する玉類・装身具・武具・馬具などが発見されています。当麻寺など古墳の上に立地する寺院もみられ、『書紀』に最初に始修されたとある仏事も盂蘭盆会です(他に釈迦の誕生を祝う潅仏会がありましたが、当時は寺を釈迦の古墳とする認識があったという見解があり、それが正しいとすればやはり祖先信仰の枠内に位置づけられます)。古代の宗教事情を概観すると、神祭りにおいても常に最新のモードが追求されていますので、仏教もそうした意味で流行したのでしょう(ただし、後に寺院建立・仏像制作を国家が援助するようになると、その供与のみを求め寺院が濫立することになります。信仰の厚薄は多様であったわけですね)。崇仏論争は、日本の仏教界が自覚的に活動できるようになったとき、創始の神話として構成したものでしょう。列島最古の仏教説話集である『日本霊異記』が、因果応報の出現に仏教国の証を求めその種の説話を採録、中国の先例に対し仏教国としての日本の価値を訴えたように、廃仏→復興という仏教史の歴史語りのパターンが踏襲されたと考えられます。日本も中国王朝と同じ道を辿って仏教国になったというアイデンティティが、8世紀の律令国家と仏教界には必要だったのだと考えられます。

Q. 神身離脱によって入滅した神は、最終的には仏になるのでしょうか。それとも存在自体が消えてしまうのでしょうか?
A. 難しい質問ですね。そのあたり、中国仏教の言説群にも明確には書かれていないのです。悪身から仏にまで至るのは数段階の超越が必要ですから、恐らくは「よりよい状態に至った」ことだけが描かれているのでしょう。宮亭湖の蛇神は少年の姿で現れますが、それは、前世に長者の子どもであったことを含意しているのかも知れず、あるいは純粋な存在へ浄化されたことを表しているのかも分かりません。堕落以前の状態へ回帰したことを示しているとも考えられます。護法善神の場合も戒律を授かったりはしますが、状態としては神のままです。その意味で、〈菩薩〉称号を得る日本の場合は、やはり神を尊貴なものとする意識が(仏教界においても)強いのでしょう。

Q. 久米勝足をよりによって梢に持ち上げるというのは、何か意味があるのでしょうか。木と神との関わりには、日本独自の宗教的展開の結果なのでしょうか?
A. その可能性は高いですね。原伝承を復原できないので臆測にしかなりませんが、樹木に顕現する神の様子を古代〜中世の神話・伝説によって調べると、やはり「樹上」に姿をみせることが多いようです。樹木を伐採するときの儀礼にトブサタテという、梢を切り株に刺して山神に返却する所作があるのですが(『万葉集』に歌われているので、7世紀にはすでに行われていたと考えられます)、これなど、生命の源としての株と成長の最先端としての梢を繋ぎ、幹の部分の再生を祈願する意味があると思われます。梢は神のパワー、エネルギーが最も強力に作用する場所なのでしょう。


〈12月22日分〉

Q. 前世に罪業が作られ、現世に畜生の身に堕ちてしまったというのは分かるのですが、神格を得ているのはどうしてなのでしょう?
A. 神に対する信仰を仏教がどのように捉えるか、どのように説明するかということですから、まず神が神として存在することが前提ではあります。そのうえでということですが、中国の原型では、霊威をもって人間に崇められていること、すなわち神であること自体が、まずは苦しみだと捉えるわけです。神が上位の存在にみえるのは一般人の誤解(すなわち愚痴のなせるわざ)であり、信仰の内実とは例えば祟りによる恐怖で、性質として人に災害を及ぼしてしまう、その見返りとして酒や肉などを要求してしまうということは、罪業に罪業を重ねてゆくどうしようもない存在でしかない。ただし、供え物として宝物などが集まるのは、善因の結果である……とかなり徹底しています。これに対して日本の場合は罪業性が不明確で、ゆえに神であることそれ自体が罪の結果であり、また罪を作り続けてゆくことになるという位置づけが曖昧です。そこには、神身離脱を唱える仏教者自身のうちにも、神に対する強い信仰のあったことがうかがえます。

Q. 『日本霊異記』では、神は白猿の姿となって現れますが、神が人間以外の姿をとる場合、他にはどのような事例があるのでしょうか?
A. 中国では、実際には存在しない奇怪な姿をしたものも多いのですが、日本の場合には、縄文以来の〈動物の主〉信仰に規定されている面が強いと思われます。すなわち、山では熊や猿、野では鹿や猪、藪沢では蛇といったように、それぞれの自然環境を代表するような動物が、自然の象徴として崇敬されるという形式ですね。その残滓は現代まで繋がっています。神身離脱が導入されたとき、インド・西域の仏典や中国の先例に登場する動物のうち、列島の環境と適合し人々が〈神と崇めやすかったもの、あるいは既に崇められていたもの〉が、苦しむ神の姿として選択されていったのでしょうね。


〈1月12日分〉

Q. 神と自然環境とが直結しているところが日本的特徴、とのことでしたが、それは世界的にみて珍しいことなのですか?
Q. 中・日の神観念の相違として、前者は人文化が進み、後者はアニミズムが濃厚に残ったのはなぜなのか?
A. アニミズムですから、汎世界的にみられる宗教形態ではあります。しかし、近代文明成立後も持続しているのは珍しいですね。日本史概説などで詳しく話したのですが、ヨーロッパではキリスト教を奉じた森林開発によって、古代ギリシアやローマ、ガリア、ゲルマニアなどに存在した自然崇拝はかなり破壊されてしまいます。中国(漢民族の文化)ではもちろん自然信仰が残っていますが、その内実は多く人文化されていて、自然も文明のなかに組み入れられている割合が強い。日本がそうならなかったのは、月並みな言い方ですが、自然環境と歴史過程の固有な相関関係によるものでしょう。ものすごく簡単にまとめますと、自然の力が人間社会にとって好適な情況に保持されており、自然に敵対し克服する労力を費やさずとも、人々は充分に豊かな生活を送ることができた、ということになります。しかしその点がひとつの要因となり、個別の責任意識が希薄で全体(共同体やその首長、そして自然環境)への依存心が極めて強い心性を醸成してしまいました。根強いアニミズムを残していながら、環境問題に対する日本の意識・取り組みがヨーロッパなどに比べ著しく遅れているのも、その結果と考えられます。

Q. 神体山は仏教から出た考え方かもしれないとのことですが、仏教思想では古くみられたことなのでしょうか?
A. 言葉が足りなかったかもしれませんが、神体山信仰が仏教所産のものだというわけではありません。古代の神名には、「○○坐××神」といった表記がよくみられます。山の神にしても川の神にしても、あくまで山に宿る神霊、川に宿る神霊であって、山川そのものではないということです。しかし『叡山大師伝』にみえる香春神は、明らかに香春岳を自らの身体としている。これが仏教との関わりのなかで、環境の悪化を神の苦しみと捉えなおすなかで生まれてきたものなのか、それとも元来存在したプリミティヴな発想なのか。そのあたりは、これから議論を深めてゆかねばならないことでしょう。

Q. 日本の神は再生するとのことですが、同じ神として生まれ変わるということですか?
A. 後期の講義の前半でも扱いましたが、日本の収穫祭の基本的な形式のひとつに、豊穣を生むことで枯渇した自然のエネルギーを再活性化する流れを、神の死/再生として表現するものがあります。物語としては〈御子神の誕生〉と語られますが、季節がめぐって冬から春になるのと同じで、〈生れなおし(あれなおし)〉なのです。こうした発想は自然崇拝の典型で、月の満ち欠け、四季の移り変わりなどに自然のサイクルの本質をみて信仰し、人間生活にも採り入れることで自らの生命力の活性化にも役立てます。縄文期の土偶は生命力の漲る妊婦の姿で破壊され、そのエネルギーを保持したままに収穫場や病者の家、墓地などに埋められて、共同体社会の復興に用いられたと考えられています。

Q. 祟り神の祭祀更新において、神祇信仰に替わり仏教が台頭した根本的な要因は何なのでしょう? また、神祇信仰の力の低下に伴う、関係宗教者の仏教に対する態度、意識はどのようなものだったのでしょう?
A. 次回の講義で詳しくお話しすることになると思いますが、奈良朝後半期に仏教が国家的に喧伝され、畿内や東国でも仏教思想に支えられた開発が展開、民間へも広く普及してゆきました。そこでは神仏関係に多少の軋轢があり、開発を抑制しようとする神祇イデオロギーを仏教が解体する、神を相対化するという実践も行われたようです。それは、民衆の欲求を支持する新たな神の出現を示しており、少なからず歓迎されたと考えられます。国家の喧伝と民衆の支持を受けた仏教が、中国的論理を奉じた僧侶の活動によって新たな祭祀の選択肢となったのは、半ば必然的であったと思われます。仏教によって神が解体される場合も、それはそれで祭祀の更新となるわけです(ヤマタノヲロチを殺したスサノヲが信仰されるのと同じことです)。しかし、規模の大きな神社となると仏教への対応は様々で、宇佐宮がいちはやく神仏習合を達成しその傾向を持続させてゆくのに対して、伊勢神宮は称徳朝に神宮寺を建設するものの、同政権の崩壊とともにあっさりと放棄してしまいます。そういう意味では、仏教の存在もひとつの祭祀方法の選択肢、それ以上でも以下でもなかったといえるかも分かりません。