多聞寺・多田源氏の道  
 

年月日:2013年06月22日 天気:曇り
ルート :神鉄岡場→八田町附物→ピクニ池→天ケ峰→多聞寺
メンバー:単独

多聞寺は、源平の一ノ谷の合戦当時は古寺山の山頂にあり、清盛の寄進もあって平家の味方をしていた。平家に味方をしたため源氏に寺を焼き打ちされ、室町時代に現在の古寺山の麓に再建された。この古寺山多聞寺を攻撃し、焼き討ちしたのは源義経ではなく、川西に本拠地を置く多田源氏であったようだ。北区八多町附物には義経の伝承もあるが、これはおそらく多田源氏のものと思われる。また、附物には当時奥蔵寺(廃寺)があり、源氏と何らかのかかわりがあったかもしれない。
今回は、附物から多聞寺への最短の道を歩き、当時の多田源氏が進んだと思われる多聞寺・多田源氏の道を歩く。
出発点は神鉄岡場で、藤原台の住宅を歩き附物まで出る。附物からはピクニ池まで南進し、ピクニ池を過ぎた所で分岐があるのでそれを左の道をとる。広いザレタ広場に出る。ここを南進すると整備されたハイキング道になるが、その昔は附物から唐櫃へ出る最短の生活道路であったようだ。また尾根ずたいの整備された道は天ケ峰と呼ばれ、東側は武庫川水系で、西側は加古川水系になる分水嶺でもあり、天ケ峰は雨ケ峰から来ているようだ。途中の分岐で多聞寺の方向へ取り、有馬街道に出て多聞寺に着く。
本来なら古寺山の山頂jまで攻め込まないといけないが、今回をここを終点とした。


 多聞寺・多田源氏の道
 
多聞寺・多田源氏の道の概略ルート
7:50
神鉄岡場駅前を出発する。少し有馬口側(南側)に戻り信号で西側に曲がる。
7:58
有野小学校の西側で左折し、藤原台の遊歩道を歩く。丹生山系の北側を見るが、キスラシ山の痛々しい山容が時々目に入る。
8:16
広い道路に出ると右折する。すぐ右側にありの藤原幼稚園と藤原台小学校が見える。
8:30
歩道を西へ歩くが、六甲北有料道路の下を通り、柳谷の交差点で左斜めのため池の横を通る農道へ曲がる。
8:36
神戸市とは思えない田舎の雰囲気の道を道なりに進む
8:45
川の小橋を渡ると四辻に出会う。石の標識もある。「有馬大阪」「三田篠山」と彫られている。太陽と緑の道の標識もある。ここを左折(南へ)する。
8:49
しばらくは田園が続き、道の左手が梶岡山で右手が大蔵山でこの一帯が奥蔵寺(廃寺)であった。奥蔵寺は結構大きな寺であったようだが織田秀吉軍による三木攻めの時に焼失したようだ。
8:57
霊園があり、その分岐をすぎると地道になる。
9:06
ピクニ池に着く。説明の看板がある。

ピクニ池(手箱の池)
「昔し、大蔵山奥蔵寺に八百比丘尼という尼さんが長らく住んでおり日々写経や読経に励んでいたが、ある日、日頃大切にしていた玉手箱を抱え池に身を投じた。「我が命尽きるまでこの池の水は渇れることなし」といい残したといわれる。現在もかれることなく青々とした水をたたえている神秘な池である。」
9:23
ピクニ池から少し急な登り道を登り、登り切ったところに分岐がある。右は屏風谷道で黒甲越や天下辻へ、左が天ケ峰を通って多聞寺への道である。ここは左へ進む。
9:26
ザレタ広い広場にでる。
9:29
この広場の南の端に道が続く。
9:41
平らな尾根道が続く。
9:51
天ケ峰の最高部であろうか?
左(東)へは有野川から武庫川へ、右(西)へは屏風川から加古川に続く。
有野町誌には旗立石の説明で、「堀越の天ケ峰頂上で、昔、源義経が丹波から平家の守る一の谷へ進軍の途中、笹リンドウの白旗を押し立て休憩した」と記載されている。旗立石らしいものは分からなかった。
10:00
(社)兵庫みどり公社の看板がある。その先に小道が続くがここは右側のしっかりした道をとる。
10:07
分岐である。左は多聞寺、直進は天下辻である。
ここは左折する。
10:10
道に倒木が折り重なっている。
10:28
谷筋である。少し道も荒れ、大きなマムシソウがいくつも生えている。マムシが出そうであまり長居したくない雰囲気である。
10:37
有馬街道にでる。すぐ横にはコンビニがある。
10:47
現在の多聞寺前に着く。かつて、多田源氏はここから古寺山の山頂にあった古寺山を攻撃に、焼き討ちにした。当時、神戸市内の寺で平家に味方したのは多聞寺だけで、他の寺は攻撃されず恭順したのであろう。
参考文献
山田郷土誌(第二編) 1979年 山田郷土誌編纂委員会
八多町誌 2008年 八多町誌編纂委員会 
有野町誌 1988年 神戸市有野更生農業協同組合
セミナー資料「古寺山の埋もれた歴史」 2012.1 斉藤豊和

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