大阪支部女性会員のページ

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−投稿−(2006/3)
〜第1回「暮らしのトップニュースを科学する」学習会〜
「牛海綿脳症(BSE)と牛肉輸入問題」に参加して


大阪支部では、今年から、マスコミ等で大きく取り上げられた話題を科学的な視点で議論する、標記学習会を企画しています。
第1回目は、1月30日に哲学研究会との共催でBSE問題を取り上げ、研究会初参加の方を含め12名が参加しました。講師をお願いした寺岡敦子さんは、大阪支部の会員であると同時にBSE市民ネットワークのメンバーとして活躍されています。(支部ニュース1月号で活動を紹介) 日本政府がアメリカの圧力を受けて、強引に米国産牛肉輸入の再開を実施した直後、除去が義務付けられた危険部位の脊柱が発見されたばかりであり、タイムリーな話題でした。
 学習会では、寺岡さんから、プリオン蛋白の性質やヤコブ病発生にいたる歴史、レンダリングビジネスの仕組み、各国における食品安全行政の比較など、生化学・医学から政治・経済まで、BSEに関係する幅広い問題を総合的に解説していだたきました。その後、参加者それぞれから質問が殺到、予定の時間があっという間に過ぎ、場所を変えて胃袋のご機嫌をうかがいながらの議論も行いました。
 プリオン病については、1950年代にすでにヒツジで確認され研究が行われていたそうです。1980年代半ばから、牛を効率よく成長させるとして肉骨粉が飼料化され、オイルショック以後、製造工程を簡略化したため病原体のプリオンが多く残存、牛から牛へさらに人へと感染が広がりました。
イギリスでは、生まれたばかりの子牛にも、肉骨粉から作ったスターター(人口乳)を与えており、BSE感染牛は約18万頭に上っています。1988年に肉骨粉を自国では反芻動物の飼料とすることを禁止しましたが輸出は継続したとのこと、ヨーロッパやアジアにBSEが拡大したのです。 アメリカでも1997年に肉骨粉を反芻動物に与えることを禁止されましたが、鶏の飼料としては継続して許可されており、その鶏糞が毎年100万トンも牛の飼料へ。牛飼料となる鶏糞の30%が肉骨粉と米食品医薬局が見積もっています。しかも、トレーサビリティ制度が全くなく、ごく少数のBSE抽出検査で精度も悪いとのこと。それにしてはアメリカにおける変異型ヤコブ病患者が少ないのは異常だと感じていましたが、その理由は、正しい診断がされないからだと理解できました。本疾患の確定は、死後病理解剖しいて脳の状態を診なければならないとのこと。CNN.com のHP、“disease dies-Jun 21 2004htmを見ると、アメリカには隠された多数の患者がいることが推測されます。
アメリカは、自由貿易協定や国際獣疫協定などを通じて、世界的に経済的な支配を進めようとしており、日本へも「年次改革要望書」等でいっそうの規制緩和、米牛肉輸入再開を迫っています。寺岡さん達ネットワークは、学習会、街頭宣伝、リスクコミュニケーションでの発言など、精力的に活動していますが、さらに大きな世論によってアメリカ言いなりの政策に歯止めをかけ、私たちの子供や孫の健康を守っていかなければならないと感じました。
寺岡さんの言葉、「憲法9条問題と根っこは同じ」に心から共感します。
学習会では、私を含めて、参加者10名がネットワークに加入しました。(中村)


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−投稿−(2005/4)
珍しい梅  



梅や花桃では、一本の木に白、ピンク、赤など複数の色の花が咲くことがあります。

一本の木は遺伝子が一種類なので、花の色はすべて同じであるはずなのに、なぜ花の色が様々になるのか?

花モモの花の赤い色を作る遺伝子を発見された、研究者からお話を伺いました。

その遺伝子をpeace gene と言います。「平和」の遺伝子!

Peach(モモ) anthocyanin(赤い色素の名前)  coloration(発色) enhance(増やす) gene(遺伝子) の頭文字をとったとのこと。彼女はこの名前を誇りにしていました。花モモや紅梅は本来この「平和」遺伝子を持っていますが、一方では、この遺伝子が働くのを邪魔する風来坊の遺伝子(transposon)が別にあり、その遺伝子が「平和」遺伝子に取り付くと赤い色素を作ることが出来ず、白っぽい花になると推測されています。

満開の一本の梅。少し斑がはいった白い花が圧倒的ですが、濃いピンクの花ばかりの一枝と、白とピンクが交互に咲いている別の一枝があり、大変美しい、珍しい樹木でした。一般には、源氏と平家の旗の色にちなんで「源平咲き」と言われます。

純粋に科学として興味深い話ですが、大変ドラマチックな「遺伝子物語」でもあります。私は、思わず日本社会の現在の状況を連想しました。すなわち、平和を希求し憲法9条を守ろうとする庶民と、邪魔する勢力とのせめぎあいです。Pesce遺伝子が邪魔されて起こる「源平咲き」は美しいものですが、「戦争」遺伝子は絶対に増やしてはならない!と心から思います。(大阪 中村)


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−投稿−
第15回総合学術研究集会(2004年11月、京都)
女性研究者・技術者交流会に参加して
   大阪支部 A.T. 

   約一年前の03年10月に医療技術職を定年退職した後、あらためて女性研究 者・技術者の問題に関してよく知りたいと思うようになりました。私自身、 経済的自立を掲げて41年間ひたすら働いてきたものの、女性という限界を常 に感じつつ、十分のことができたという充足感がないからでしょうか。  今回の女性研究者・技術者交流会に参加して、各分野で活躍される諸姉 方々の、それぞれの専門を生かしつつ創意工夫されたお話などを聞いて、 とてもすばらしいと思いました。
 その後さらに感じたのは、このような場に出てこられない多くの女性が、 もっといろいろな物理的・現実的な悩みを抱えておられるのではないかとい うこと、結婚して家庭責任を負いつつ責任ある仕事をしようとすると、そう した問題で優秀な人材が埋もれていくことも多いのではないかということです。  今回は少人数の交流会で時間も限られていたので、そうした話を深める程には至り ませ  んでしたが、この委員会の活動の中で多くのそうした声を集約し、愚痴や感傷で終 わるの  ではなく理論的に考察し、その成果を現に悩んでいる女性達への示唆や励ましとし てゆく  ことができれば、意義深い活動になるのではないかと思いました。 


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第11回女性研究者技術者全国シンポジウム(2003年7月、大阪)
大阪支部ニュース”大阪めぐり”より

第11回女性研究者技術者全国シンポジウム参加者の皆様
大阪支部ニュースの”大阪めぐり”シリーズ(全12回,2001.9〜2003.2)のうち、会場に関係あるところなど、3点をお送りします。観光もお楽しみ下さい。

個人的には、水上バスのアクアライナー(下記にアクセス)に乗って、新装なった、中ノ島中央公会堂地下の大正ロマンのレトロな食堂で、ゆったりハヤシライスとお茶を楽しみたいと思っていますが。
大阪支部 H.

水上バス:
http://www.my-concierge.org/kansai/contents/concierge/osaka_01/data/1052222125.htm
http://www.keihannet.ne.jp/suijobus/aqualiner/aqualiner.html 中ノ島中央公会堂:
http://webnews.asahi.co.jp/you/special/2002/t20021025.html


アピオ大阪付近
大阪めぐりその3

森の宮貝塚遺跡と玉造稲荷神社

植村幸生(点在池田分会)

 前2回の大阪城公園および難波宮跡史跡公園は、上町台地の北端部に在り、この上町台地は縄文時代その東西両側とも海で、文字通り半島であった。その後、土砂堆積で順次陸地化が進んだものの、有史時代に入り遣隋使船、遣唐使船時代でも、なお今日の森ノ宮から玉造、鶴橋付近は玉造江と称された入海で、それらの船を含め、西側に比べ波静かなため船の発着場であった。これらをしばしば話してきたが、すんなり納得してもらえず、時には奇を衒う者とみられた。そこで今回は、かって半島状で海に近かったことを、幾らかでも実感あるいは想像しやすい場所を紹介したい。
 JR環状線森ノ宮駅で下車し、駅前から環状線の高架に直交して西方に見える坂道の左(南)側を約200mゆくと旧日生球場跡だが、その手前で左折(東方向)すれば、すぐ森ノ宮ピロティーホールがある。その地下に小さいが森ノ宮遺跡展示室がある。大都市中心部としては珍しく大規模な森ノ宮貝塚の出土品が中心だが、"大阪市民第一号"と名付けられた縄文後期の一体の人骨は一見に値する。日曜日を除き、12〜15時まで自由に入れる。
 このピロティーホール前を約300m南へゆくと、やや大きい道との四つ辻に出る(2つ目の信号)。そこのほぼ西南方向に右折しているやや急な坂道を200m弱登ってゆくと、右側に石の鳥居がある。そこをくぐり急な石段を登ると、玉造稲荷神社があり、この辺りが古来玉造岡と称されてきたところである。この辺一帯は敗戦直前の1945年6月、米軍の大空襲でほぼ完全に焼失し、筆者などの知る戦前の面影はほとんどないが、地形の骨格を偲ばせるには十分である。境内東側の崖近くに1986年開設の「難波・玉造資料館」があるが、戦前そこには木造の舞台があった。その舞台からは、崖下から生駒山の麓までよく遠望できた。暗越奈良街道が菜の花畑を縫う様が、明治中頃まで見えたという。この崖の上に立てば今でも、この付近に貝塚があり、上述の玉造江や船着場が在り得たのを実感できよう。なお、前記「資料館」見学には3日前までに事前予約が必要。TEL06-6941-3821



一日か半日かけてなら
大阪めぐりその6

天満の天神さんの"船渡御" −大阪天満宮と大川の水上観光船−

植村幸生(点在池田分会)

 数ある大阪の夏祭りの中で、全国的にも知名度が高く、そのハイライトともいえるのは、天神祭の船渡御(ふなとぎょ)であろう。今やかつての面影は薄れている"水の都"大阪ではあるが、その水の都の夏の風物詩の代表的なものである。菅原道真を祭神とする天満宮は、全国各地はもちろん大阪府下にもかなりの数あるが、天神祭といえば大阪天満宮−大阪人は"天満の天神さん"と親しみを込めてそう呼ぶ−の夏祭りを、ほぼ一義的に指している。
 前回述べたが造幣局や泉布観は大川(旧淀川)の西の川岸にある。その両者の間を通る国道1号線は桜宮橋(通称:銀橋)を渡ってからも、ほぼ真西に約2卍梢覆掘御堂筋と直交する梅田新道(通称:梅新)交差点で、国道2号線に接続する。造幣局から西へほぼ1Kmの地点、すなわち銀橋と梅新とのほぼ中間点付近で、国道1号線は天神橋筋と交差する。この交差点の約50m手前に南北に長く延びる商店街がある。後に詳しく述べる天神橋筋商店街であるが、この商店街を左折し(南向きに)約200m行き、そこで再び左折して(東向きに)200m弱行くと、左側にやや神社にはそぐわぬ感のする屋根付きの門に出会う。そこが大阪人の親しみを込めて言う"天満の天神さん"である。その所から南方4〜500mに、天満橋の東でほぼ直角に向きを西に変えた大川が流れている。その辺りから上述の銀橋付近までの川面が、現今の船渡御の舞台である。
 今日、船渡御は神社の行事すなわち神事としてよりも、イベント的性格の強い催し物として、テレビ等で生中継されるので、その概略は多くの人々に知られている。しかし、その歴史的故事来歴はほとんど知られていないので、若干述べておきたい。 今年(2002年)は菅原道真没後1,100年に当たるので、全国各地の天満宮でそれぞれの趣向を凝らした天神祭が準備されていることとて、今年の船渡御も例年に比し一段と華やかさを増すことであろう。それはさておき、天神祭そのものは千年を越える歴史を持つが、今日のに近い船渡御の原形は江戸時代初期には出現していたようである。その後いろいろな変遷を経て、昨今テレビ中継されるような、天満橋付近から前述の大川の川面を上流へと遡航するようになったのは、戦後も10年近い1953年からである。幼心に残る船渡御は、堂島川を川下の御旅所(おたびしょ)へと下る神輿船を中心にするものなので、昨今の船渡御の光景には、いささかの違和感がわたしにはある。戦前1937年7月、"支那事変"という名のもと日中戦争が本格化したため、この年の船渡御を最後に中止され、1949年戦後最初の船渡御が再開されたものの、この間に進行し続けていた大阪市域全体の地盤沈下のため、大川の橋の下の高さが低くなり、神輿船の航行が不能となり、やむを得ず大川を遡航することになったのが現在の船渡御である。外形的にはともかく、神事としての船渡御の意味合いは、かなり変わってしまっている。ここからわたしの違和感が生じているのであろう。
 船渡御をどう見、どう考えるかは少しおき、現在船渡御が行われる川面を含む、大阪城・中之島めぐりの水上観光船"アクアライナ−"が毎日運航されている。大川上の船から眺める大阪の街の光景は、常日頃見慣れている地上での風景とはかなり異なった姿で迫ってくるものがある。機会をみつけて一度乗船されるのをお勧めしたい。


科学者会議大阪支部事務所、住まいの情報センター付近
大阪めぐりその7

きわめて大阪らしい天神橋筋商店街

植村幸生(点在池田分会)

「その5」から、それまでの大阪城を中心にした上町台地北端部より眼を北の方へ移し、大川(旧淀川)が隔ててはいるが、直線距離では1Kmとはない、造幣局とその付近を先ず取り上げ、次にはその北西2Km前後の天六(天神橋筋6丁目)付近をとの心積もりでいた。だがいきなり天六付近を述べ始めたのでは、前回の造幣局付近との位置関係を明瞭に理解しにくく、単なる旅行案内のような個々の地点あるいは施設の紹介に終り、大阪の全体像をつかむのに幾らかでも役立つ"大阪めぐり"にはならないように想われた。
 そこで、造幣局から天六へと歩いてゆく道筋の案内を付け加えようと考えた。するとそこには、天神橋筋商店街があり、それに関係深い"天満の天神さん"という、大阪を語るには避けられない場所があり、その天神祭の船渡御にもふれざるを得なかったのが前回(その6)である。やや横道にそれ駄弁を弄したが、今回はその天神橋筋商店街について述べる。
  南北に2Km強−1丁目から8丁目まで、天神橋北詰から長柄橋南詰まで−という、この商店街の長さは日本一と称されている。この天神橋筋という道はかなり古く江戸時代からあり、"天満の天神さん"への参詣道として、また天神橋の北詰東の大川端にはかっての大阪三大市場の一つ、天満青物市場があったこと等から、自然と形成され賑わってきた。戦前の大阪には多くの商店街があったが、太平洋戦争末期の米軍の度重なる大空襲で、かなりのものは壊滅状態に陥った。この天神橋筋商店街も御多分に洩れず、全てではないもののかなりの部分が焼失し、無残な姿をさらしていた。幸い部分的に焼失を免れたところもあり、そこから復興は比較的早く始まっていた。今日、商店街の繁栄には交通の便の良さは欠かせない。その点、この商店街は恵まれていたといえよう。すなわち、ごく近辺のあちこちに多くの交通機関―JR環状線、同東西線、阪急千里線、市営地下鉄堺筋線、同谷町線―の駅がちりばめられていることも幸いしたといえよう。
 次に、筆者が感じているこの商店街の特色を記してみよう。空襲により焼失した部分と免れた部分とで、雰囲気がかなり異なり、戦前の商店街の面影を偲ぶこともできる。また、2Km余の場所場所で、飲食店が中心、衣料・服飾・靴店などが多い、あるいはゲ−ム類や娯楽用品・道具類が目立つところ等と場所ごとに特徴がある。これら全体を通じて、心斎橋筋とか東京の銀座通のように楽しみながらぶらぶら歩く商店街とはやや異なり、極めて庶民的な日常生活に密着した商店街というか、大阪人特有の実質を重んじる生活のにおいのする商店街のように思えてならない。そしてこの商店街を知る人でも、片方の端から他の端までを同時に通して歩き抜くことは少ないようである。それは先に述べた駅があちこちにあることにもよるようであるが、自分の欲すること−食べる、購入するなど−があってそこにゆき、それが満たされればさっさと返るという、これも日常生活に密着した商店街の特色の反映でもあろうか。 一度全体を通して歩かれれば、大阪の風土というか、大阪人の体臭を感じとれて興味深いと想われる。