天白信仰

鍵語;天白神,御社宮祠,伊勢,三河,信濃,駿河,祓神,天一神,太白神,天御中主神,奈加加美,比止比米久利,甕神,天香香背男,金星,太白星,天一星,源順,大倭神,伊勢神楽,邪神,天白羽神,長白羽神,石田三成,石田数正,戦国武将,天狗,天伯,天寓,天魄,天宮,天蛩,高嶺,振草,暮露,ヒーノー面,ミーノー面,火玉神,水玉神,大天伯,小天伯,富士天伯,辰巳天伯,朝日天伯,夕日天伯,平松天伯,てろう天伯,宮天伯,お天具,御帝戸屋神事,客僧,五方,五色,五色宝,サンヨリコヨリ,トウト神,注連


0.はじめに

今井野菊は,『御社宮司を訪ねて(1964年)』『大天白神(1971年)』において,長野県,および,その近県の土着神である御社宮神,および,天白神の分布を明らかにし,両神が,記紀神よりも古いものであると主張した。前者の御社宮司に付いては,拙論「諏訪社神(『古族研究』,1999年)」,「御社宮司(同,2003年)」「守矢文書(同,2003年)」などにおいて触れられているように,倭族的な土着神が,時の覇権の締め付けを受けながらも,細々と伝えられて来たと考えられている。反面,後者の天白神に付いては,研究の舞台が愛知県,三重県などに移り,精力的な調査,研究が推し進められることになった。

今,御社宮神,天白神を比較して見るに,これらに伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表01:土着神

表字

音訓変換

裏字

裏意






→お→小→
→ジャ→乍→
→ク→

┬△→ジャ→鑿→のみ→已→イ→









倭(本)族

顧ミル
神。





→あめ→雨→ウ→熊→くま→奥→オウ→
→しろ→






倭王
質ス
神。






┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→しろ→







徐福ノ
大祀リ

質ス
神。


表01によると,当該神の裏意は,御社宮神が「倭(本)族が顧みる神」であり,天白神が「倭王を質す神」「徐福の大祀りを質す神」である。この場合,裏文の構造は,前者が「主語+動詞」であり,後者が「目的語+動詞」であるので,そこには,意図的な区分が認められる。

拙論「正神邪神(同,2007年)」によると,「神[ケミ]」の裏意は「倭族が魅する」ものであり,「君[きミ]」の裏意も「倭族が魅する」ものであり,「戸畔[とヘ]」の裏意は「倭族が拝む」ものであるので,何れも「主語+動詞」の構造を有している。詰まり,「神[ケミ]」「君[きミ]」「戸畔[とヘ]」は倭族用語であり,この種の倭族用語の裏文は「主語+動詞」の構造を有しており,拙論「御社宮司」「守矢文書」などにおいて提起された倭族的なものに近似していると思われる。反面,拙論「宮中神座(同,1999年)」などによると,神名に伏在する裏意は倭族に対する午族(=高句麗人)の呪詛であるので,何れもが「目的語+動詞」の構造を有している。表01の天白神は,その裏意が同じ範疇に存するので,午族(=高句麗人)的なものであると思われる。

なお,筆者は,土着神「みしゃくじ」に関する拙論「御社宮司」「諏訪社神」「守矢文書」などを通じて,これが御社宮祠「倭(本)族が顧みる祠」に由来していると考えるに至り,土着神の本質は徐福神であるとの観を強くしている。倭本族は,列島の覇権が倭本族から倭支族に移行し,倭支族が社を重視した頃の前後において,御社宮神(=徐福神)の由縁を意識したものと考えられる。詰まり,御社宮祠は,倭族の底辺から自然発生的に沸き上がったものと思われる。

また,天白神の裏意が表01のようなものであるなら,天白神は,列島の覇権が,倭族から午族(=高句麗人)に移行した後,倭族を呪詛する施策の一環として,設定されたものと考えられる。詰まり,天白神は,既に,電子頁『古族研究』が明らかにしているように,上位の午族から下位の倭族に強要されたものと思われる。

今般,三渡俊一郎の『天白信仰の研究(三重県郷土資料刊行会,1986年)』を拝見する機会を得た。本書は,前編:現地調査,中編:資料研究,後編:付載資料から成り立っており,何れも貴重な記録になっている。ここでは,中編:資料研究第4章の部分に焦点を合わせ,これを教材として,天白神が内蔵する呪詛的な性格を考究することにした。(注:僭越ではあるが,筆者が理解できるように,一部の表現を変えたことをお断りしておきたい)

なお,古族情報である表情報から裏情報を発掘するに際しては,電子頁『古族研究』の「共通前書」において記述されている時代認識を踏襲し,解説されている音訓変換法を援用することにした。詳しくは,拙論「音訓変換(同,2001年)」を参照されたい。また,拙論「異星人がやってきた(『長野日報』,2008年08月30日)」「音訓変換法は実学である(『信濃』,2009年08月20日)」を参照されたい。

1.研究史


江戸時代の伊勢の神学者:谷川士清[たにがわことすが](1709〜1776)は,『和訓栞』の中で,「伊勢国の諸社に天白大明神というもの多し。何神なるか知るべからず。恐らくは,修験宗に天獏あり,是なるべし。」と言っている。この頃に書かれた,松平君山らの『張州府志(1752年)』には,大矢村(現稲沢市大矢町)の手白明神祠について,「手白明神祠,在大屋村,按手白明神不見出処,丹波国愛宕山旧名手白山,然則愛宕別名耶,或曰手白作天白,祀太白星,大方天真画相近訛耳。」と記している。天白を太白と考えていたようである。『駿河志料(186年1)』で,中村高平も,同じように,「高平按に,天一神(,天一星),太白神(,太白星),此の2神を祭れるなるらん」と述べている。御巫清直も,『伊勢式内神社検録』で,と天白神は天一神と太白神を合祭して天白神と略称したと記している。

明治時代に入って,柳田国男は,『石神問答(1910年)』の中で,天白神に付いても言及し,天白神は分布広き神であるが,端緒がえられず,風の神ではないかとしている。

大正時代には,天白に関する研究文献は見当たらないが,昭和の世に入ると,『岡崎市史(1927年)』が出版され,天白社は民間信仰で風水除の神として,修験道から出たものと思われると記してある。その後,永い戦争の期間を経て,堀田吉雄氏は,「天白神序説(1951年)」,「大天白神考(1954年)」,「天白新考(1964年)」を書いているが,「天白新考」では,天白は,天一星と太白星より合成し,大体平安末期から中世初期に掛けて,陰陽道が公家社会から武家社会へ浸潤した頃に発生したと観るのが素直な考えではないかとした。

今井野菊は,『大天白神(1971年)』を発刊されたが,本書は,西は滋賀県から東は埼玉県までの郷土研究家の協力を得て,天白社の所在地を集成されたもので,著者の地元:長野県における天白社について,詳細な資料を集成し,また,三重県員弁郡までの実査の足を伸ばした労作である。その結論として,天白信仰民族は,狩猟民であるが,その本来は,漁労と焼き畑の原始農耕民族で,水稲農耕に先立つとしている。即ち,縄文時代に遡ると考えられているようである。

三渡は,天白信仰に関する研究者の時系列を,「→谷川士清(江戸)→松平君山(江戸)→中村高平(江戸)→柳田国男(明治)→堀田吉雄(昭和)→今井野菊(昭和)→」の順とし,堀田の見解,今井の見解を要約している。その意図は,堀田,今井の両説に対する違和感を解消するために,彼著において,持論を展開しようとしたことに在ると思われる。筆者も,また,3者に対して同じような感触を得ているので,ここでは,拙頁『古族研究』的な視点から,天白信仰を考察することにしたい。


この『大天白神』に掲載された3人の研究家の回答を次に示す。鈴木和雄氏(愛知県)は,矢作川古川沿いの天白は昔は海上交通の要所に位置し,海から渡ってきたと想定,『岡崎市史』に言う如く,天白は昔より風水害を受けている所に必ず存在するとは限らず,風水害のない所にもあると指摘している。田中静夫氏(岐阜県)は,天白とは,天白波神(=天白羽神)を祀ったものであるとし,茂木六郎氏(埼玉県)は,ラマ教の信仰対象に大天白があって,性神としての信仰があると記している。

今井野菊氏の研究と相前後して,水野都沚生氏(長野県)は,『伊那』に,「天白さまという神様(1971年)」を発表され,天白社のほとんどは,天竜川流域に集中点在し,天白様の近傍には,必ず谷川が流れていて,どの社祠も小高い丘の上に鎮座しておると立地状況を総括され,これは天白様という神様の特殊性によるものとせられた。また,ほとんどの天白様は,昔でいう無格社で,確たる氏子らしい崇敬者もないと指摘し,「遠山まつりに登場する天白について詳述し,これは伊勢神事文化が天竜川に沿って山間に入りこみ,山間民と結びついたものと推考している。

和歌森太郎氏は,『戸隠の修験道(1972年)』の中で,戸隠修験道の中に天獏信仰があり,天白の本は,これかと思うとし,空中を歩くという天狗類似のイメージで,天白さんが畏信されていると述べている。

水野氏の研究発表の1年後,山田宗睦氏(神奈川県)は,『神の道(1972年)』の著書中に,天白神の1章を設け,5年後には,中日新聞紙上に,「天白紀行(1977年)」を発表されたが,その論旨は後記する。

川澄勝久氏(愛知県)は,「天白神考(1974年)」の中で,天白は荒い神で,水害の多い所に祀られるものが多く,祟りが強く,女神であるとも伝えられておると記し,天白神はバク民族の祖神を祀ったものであると説いている。

筆者の友人の村瀬正則氏(愛知県)は,「天馬狗大明神(1974年)」,「天白区と天白の神(1975年)」の小文で,天白は水田農耕民の切実な願いを担った水神で,馬または土馬を供えたこに起因すると仮定したが,後に,「岡崎市の天白社(1978年,1979年)」では,天白とは,天つ神に申し上げてもらう神であると変更したが,まだ十分な仮説ではないと表現している。そして,天白神の特徴として,極めて水に近い地点に祭祀跡ががあり,水と何らかの形で関わりがあったこと,また,個人の屋敷内に祀られた形跡のあることの2点を指摘し,祭祀開始の年代を鎌倉時代初頭におき,室町時代に拡大の方向を辿り,その末期から江戸時代の初頭に掛けて,急速に後退する傾向が看取されると述べている。最近の村瀬正則氏は,天白が天魄からの変化で,墓所ではないかと3転している。

今井野菊氏は,『古諏訪の祭祀と氏族(1977年)』の中で,「諏訪の大天白神」と題して,この地方の天白社について説明しているが,この信仰は,巫,行者によって移行したと推考し,その立地条件は,海岸や河川の監視に良い位置で,また,交通の本通りから河川に沿って遡る位置に祭祀跡を残すとしている。更に,天白祭祀者の家には,天狗の面があったことを伝え,一般の人は,その家を行者,または巫の家だと語っていると記している。同じ著書の中で,野本三郎氏は,「天白論ノート」を掲げ,長野県伊那市美篶では,天白は巫女達の手箱が転じたという説のあることを紹介している。この手箱説は,山田正勝氏(名古屋市)も出されていて,巫女や祈祷師が活動していた鎌倉時代頃,悪霊を閉じこめた箱だと説明している。

山田宗睦氏は,今井野菊氏蒐集の資料より,三重,愛知,長野,静岡,山梨の5県下の天白社を重点的に実査し,中日新聞紙上に50回に亘り,「天白紀行(1977年)」を発表,5県下の読者から相当の反応があった。纏めとして,次の如く記している。「天白の起原を伊勢土着の麻積氏の祖神天の白羽に求める。起原はそうだが,すでに北勢の員弁の地で,天白は治水農耕の神に変容している。起原とその後の神格の変化は別なのである。大和王朝の全国支配が進む7,8世紀,麻積氏は,員弁氏等と共に,伊勢から三河,伊那谷,諏訪,深志へと移転した。これに連れて,天白社も北上し,諏訪神社の前宮の即位式にも現れることになる。この移動の途中と,その後の土着の中で,三河ではセオリツヒメ,水神,伊那谷では水と機織りの複合として,棚織姫(ナハタヒメ)といった性格を持つ星への繋がりもできる。中世は,妙見信仰とも絡んで,武士の間に,星神天白の信仰も生じた。しかし,大部分の天白は,治水農耕の神として民間に広まった。そして,犀狭地域で,特殊に,火伏せ,治水,農耕に食い入ろうとした戸隠修験道と平行して,治水農耕の天白神が,村持ち,ないしは個人持ちとして,夥しく信仰された。ただ,天白は,記紀神統譜には出てこない。古語拾遺にしか出てこない(筆者注:長白羽神として出ている)。そこで,江戸時代という太平で,したがって,学問にも正当性が重んじられた時代に,既に忘れられて行く。集落,個人の氏神(=祝殿)となっても惣村の社(=村社),総鎮守にはなりにくくなる。今も残る数少ない「村社」を除いて,天白社は低位の神社となっていく。江戸時代,天白は個人の祝殿として普及しつつ,他方では,正当の神社ではなくなり,これが明治政府の神社政策で一層激しくなる。」これが,「天白紀行」の論旨である。

松山義雄氏は,『山国の人と神』の中で,「天白様は,土地の主人公,詰まり,大地を主宰する神様と言われております。それ故,神々の中で最も古い神様であると共に,全ての神様を総監する実力者として崇められてきました。したがって,天白のノサは,この神の性格のように,悪魔を追い払い,万物を統治する力を持つものと解されています。」と記している。

三隅治雄氏は,霜月祭の天伯が何れも,村に災厄をもたらす邪神を鎮める意味の呪法であり,悪魔を払っておいて,やがて来る新春の正気を呼び迎えようとするのであるとしている。

遠藤鉄樹氏は,花祭りや霜月祭の行われる集落に残る文献中より天白についての関係資料を抽出し,特に「天白がえし」に注目して,勧請する天白神が花祭りの中心的な神であるとした。そして,この神は,天空を司る山の神であり,荒ぶる水神ではあるが,歴史的に抹殺された神と結論した。

上述のように,20世紀後半に入って,天白の研究はかなり進んできたのである。以上,記してきたことを要約すると,次の如くになる。

起原名;天獏,十二天白,天馬駒,手箱,天一星と太白星の合成,天の白羽神
発生期;7〜8世紀,鎌倉初期前後
立地状況;水辺,街道脇,屋敷内
信仰目的;治水,農耕,除災
流布者;麻積氏,巫女,行者,修験者

しかし,どの説も十分な説得力を備えておらず,今後の研究に待つところが多い。乏しい文献資料によっては研究を進めるに困難があるので,筆者は詳細な立地状況を調査することが大切であり,また局地観に囚われずに広い観点から考究しなければならないと考えている。

三渡は,先学の業績を具に考察して,天白信仰の本態が未だ解明されていないことを看取し,広い視座に立った実地調査が必要であることを痛感していたことになる。その判断に異論を挟む余地はないと思われる。しかし,先学の集積されて来られた資料には,角度を変えた検討が時には必要であろうと思われるので,ここでは,電子頁『古族研究』の「共通前書」において触れられた時代認識に立って,あるいは,電子頁『古族研究』に収録された諸論を踏まえて,先学の遺された資料を再検討することにしたい。

2.信仰形態


祭神名:

天白社の祭神名は,先学の調査資料に基づいて集成すると,40数種あり,第1表[省略]に示す。

表のよると,祭神名は極めて多いことなる。筆者は,天白神が本来の名であり,他の神名は後世,特に明治時代の神職によって附会されたものであると考えているが,これらの神名は,天白神の性格をいくらかは示唆するものと思われる。勿論,全部の天白社の神名が知られたのではなく,地名を含めて全数の約3割を今回収録したにすぎない。神名は,同一地域で多くとも,地方毎に異なるので,その地方の天白信仰の特色を示していると思われる。

同一地域に5社以上ある神名は下記の通りである。なお,最多の地方名を括弧内に左記した。

「宇迦之御霊(東三河),須佐之男(北信),天御中主(南信),棚織姫(南信),瀬織津姫(西三河),長白羽(北勢),猿田彦(遠江),保食神(上甲),月読尊(下甲)。」

宇迦之御霊は稲荷信仰,須佐之男は天王,天御中主,猿田彦は天狗との習合が考えられる。このように,地方毎に,神名が異なるのは,天白信仰の流布,伝播の過程で,時間の経過に連れて,信仰目的が変化していったことによると思われる。

筆者は,伝播の流れは,伊勢に始まり,尾張,三河,信濃,甲斐,武蔵への本流と,三河,遠江,駿河への分流を考えている。志摩では神名が判らない。ここは早い時代に信仰があったので,天白神がその名であったと思われる。

最初は,水神(瀬織津姫)的な信仰から,農業神(宇迦之御霊,須佐之男,保食神)的に変化し,後に,山林農業神(五十猛,大山祇)的に変容したと推定したい。水神的特性は,川天白という名称が存在する天竜川流域までと考えて置きたい。

記述が前後したが,主たる神名から,天白神の性格を探ってみよう。

宇迦之御霊,稲倉霊は稲霊の神格化したもので農業神であり,『延喜式』では,豊受姫は宇迦之御霊としている。須佐之男は疫神,農業神として信仰され,保食神は食物神で,これも農神になろう。

天御名主は,高天原の主宰神であるが,中近世に入り,天一星と妙見信仰とが習合し,星神と同一視されるに至った。棚織姫は,古代では神の来臨を待ち,神の衣を織り,一夜を神に侍して過ごす聖なる少女とせられ,神の帰る日には,村人は禊ぎを行って,神に汚れを託した行事があったという。したがって,棚織姫は,祓いの水神とも考えられる。

瀬織津姫は,『延喜式』の大祓詞によると,速秋津姫と共に,祓戸の大神としての水神である。水破女,罔象女,水上之命,市杵島姫も水神である。長白羽神は伊勢麻積氏の祖神で,この麻積氏は伊勢神宮に毎年荒妙衣を織り供えていた。したがって,棚織姫的である。これらの諸神は祓い神であり,詰まり,天白神が祓神であったことは,諏訪明神の「御帝戸神事」の祝詞からも明白である。

北勢の宗像3女神は海上安全の神であり,西三河の天香々背男は星神である。共に,海運業神的で,これも水神の部類であると考える。

猿田彦は,土地の守護神で,天狗と習合し,五十猛は,須佐之男の子で,木の種を持って,天下った植林の神で,品陀和気(応神帝)は治山治水に務められた。山神の性格が共に認められる。

2社ある神名は,大山祇命,罔象命,別雷神,天穂日命,火産霊命,国常立尊,天太主命である。

1社ある神名は,矢塚雄命,大元尊,大巳貴命,小彦名命,高津島命,天老男命,日高見命,奥津毘古命,水上之命,菅原大神,天火明命,竹内宿禰,玉依姫,手白香姫,菊理姫,木花咲夜姫,大宜津姫,早秋津姫である。

>「天白神が本来の名であり,他の神名は後世,特に明治時代の神職によって附会されたものである。」

三渡は,天白社が明治維新以前から存続してきたこと,祭神が明治維新時に『記紀』の神々に擬せられたことを主張している。前者は,天白という名称が江戸時代には記録されていたとする前章の「研究史」により,明白である。後者は,前編の「現地調査」において,明らかにされていなければならない。ここでは,後者も,確認がなされていることとして,先に進むことにしたい。

>「宇迦之御霊は稲荷信仰,須佐之男は天王,天御中主,猿田彦は天狗との習合が考えられる。このように,地方毎に,神名が異なるのは,天白信仰の流布,伝播の過程で,時間の経過に連れて,信仰目的が変化していったことによると思われる。」「筆者は,伝播の流れは,伊勢に始まり,尾張,三河,信濃,甲斐,武蔵への本流と,三河,遠江,駿河への分流を考えている。」

三渡は,天白神が『記紀』の神々よりも古いとする前提を設けているように思われる。『記紀』の神々が,明治維新頃,天白神に習合したのであるなら,天白神は諸神の習合前から存在していたことになる。しかし,このことと,天白神が『記紀』の神々よりも古いと結論付けることは叶わない。ましてや,天白社の伝播の流路が,伊勢から信濃への本流と,三河から駿河への分流に区分されると結論付けることはできない。そこは,論理を尽くして説明されるべきかと思われる。

>「志摩では神名が判らない。」,「ここは早い時代に信仰があったので,天白神がその名であったと思われる。」

前編の「現地調査」においても,早い時代に信仰があったとする確たる証拠はないので,天白神が古い時代の神名であるとの結論は尚早としなければならない。ここでも,天白神の発祥の地が伊勢であるという前提に立って,天白神が古くから信仰されていたと結論しているように考えられる。問題は,むしろ,列島の歴史の節目をどのように理解し,歴史のどこに天白神の発生を位置付けるかに在ると思われる。

>「これらの諸神は祓い神であり,詰まり,天白神が祓神であったことは,諏訪明神の「御帝戸神事」の祝詞からも明白である。」

三渡は,第4章において,「御帝戸神事」の祝詞を取り上げている。それによると,当該祝詞は,天白神を招いて,諸神を祓う目的を有していると考えられる。因みに,「御帝戸」が「御門戸」「門戸」に由来するものであるなら,「門戸」が「→モンゴ→卍午→」を経て「僧侶,高句麗人」に至るので,「御帝戸神事」も,特別の意図の下に作られた確率が高いものと思われる。

3.天白の名義と他社との習合


江戸時代には,天白の名義について, 「太白星と天一星の合成,天白羽神,天獏」の3説があったが,今,明確なものであるとは思われない。ここでは,その中の2説について考察したい。

天白と太白星,天一星:

矢作川流域の天白社は,天香々背男を祭神としているが,『日本書紀』に,「一書に曰く,天に悪神あり,名付けて曰く天津甕星,またの名を天香々背男といい,先ずこの神を誅し,しかる後に下りて,葦原の中つ国を揆かんと請う」とある。

平田篤胤は,『古史伝』において,「しかばかり輝く星は,太白星をおきて何かあらん。しかれば甕星というは太白,長庚にて,香々背男は星神なること疑いあるまじく思ゆ」と力説している。

この篤胤の説をとると,天白は太白星ということになろう。また,下伊那郡上村上町の「天白の湯」で,金王猿田彦という天白が出る。天白の白は五行説では金に相当し,また白は太白とされる。

天竜川流域の天伯社で,天御中主を祭神とすることが多い。中,近世になり,天一星信仰と妙見信仰とが(天白神に)習合し,天御中主と同一視された。この説では,天白は天一星に繋がることになる。

堀田吉雄は,天白の名義が色々と考えられても,天一星,太白星の陰陽道的星神より合成したものと観るのが,素直な考えではないかとし,『倭名抄』において,は天一星は「奈加々美」と訓じているとし,また,「中神」は太白神(太白星)とも言われていると論じている。

上記した天香々背男,天御中主を祭神とする天白社から観れば,間接的に堀田説は首肯できる。然し,この合成が何時,何所,何人によって行われたかについては論究していない。

また,堀田説では,伊勢神楽歌の中の詞句「いやほしの次第の神なれば,いや月のわにこそまいたまへ」を説明することができない。

なお,諏訪明神祝詞段には,詞句「天白ワホシノクラ位ノ神ナレバ月ノワクラニヤドメサレル」とあるので,天白は天一星よりは,むしろ月と考えるべきであろう。

>江戸時代には,天白の名義について, 「太白と天一の合成,天白羽神,天獏」の3説があった。

三渡は,天白の由来譚の1つとして,太白,天一の合成,縮名説を上げている。その際,「太白」は「太白星」であるとし,「天一」は「天一星」であると限定しているように思われる。しかし,このような限定条件が付されると,合成された「天白」は,「天白星」であると見なされることになる。

因みに,「太白神」「天一神」に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表02:天一神,太白神

表字

音訓変換

裏字

裏意






┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→もっぱら→







徐福ノ
大祀リ

専トスル
神。







┬丶→チュウ→駐→

└大→ダイ→
→ヒャク→


┬馬→うま→
└主→










午族ノ
主(=帝)

大祭ル
君主ノ
神。


表02によると,当該神の裏意は,「天一神」が「徐福の大祀りを専らとする神」であり,「太白神」が「午族の帝を大祭る君主の神」である。前者は,その裏意が然らしめるところとして,倭族神であり,後者は,その裏意が然らしめるところとして,午族神であると考えられる。詰まり,「天一神」は,倭族が創出したものであり,「太白神」は,午族(=高句麗人)が創出したものであると思われる。

なお,源順は,『倭名類聚鈔』において,『百鬼経』を引用して,「天一神」の和名を「奈加加美[なかかみ]」とし,『新撰陰陽書』を引用して,「太白神」の和名を「比止比米久利[ひとひめくり]」としている。これらの和名に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。但し,「加美[ケミ]」に付いては,拙論「正神邪神」を参照し,引用することにしたい。

表03:奈加加美,比止比米久利

表字

音訓変換

裏字

裏意






→ナ→難→ナン→男→おとこ→夫→フ→
→ケ→
→か┬神→
→み┘






徐福
化シタ
神。









→ヒ→ひ┬一→イチ→いち→
→と→→┘
→ヒ→ひ┬姫→キ→
→メ→め┘
→ク→く┬栗→
→リ→り┘





┬西→にし→
└木→





八┬
木┘

徐福

棄テル

倭族。



表03によると,当該和名神の裏意は,「奈加加美」が「徐福が化した神」であり,「比止比米久利」が「徐福が化した倭族」である。前者においては,午族(=高句麗人)が,倭族創出の「徐福の大祀りを専らとする神」を暗喩する「天一神」に,「徐福のが化した神」の意を付加したことを意味しており,後者においては,午族が,午族創出の「午族の帝を大祭る君主の神」を暗喩する「太白神」に,「徐福を棄てる倭族」の意を重ねたことを意味していると思われる。

なお,「比止比米久利」においては,裏意が,「徐福を棄てる倭族」であって,「徐福を棄てる午族(=高句麗人)」ではない。このような,神名と裏意の関係は,拙論「宮中神座」においても明らかにされており,勝者となった午族が,敗者となった倭族の軟派を自陣に取り込んだことを示唆していると思われる。

>「一書に曰く,天に悪神あり,名付けて曰く天津甕星,またの名を天香々背男といい,先ずこの神を誅し,しかる後に下りて,葦原の中つ国を揆かんと請う」とある。平田篤胤は,『古史伝』において,「しかばかり輝く星は,太白星をおきて何かあらん。しかれば甕星というは太白,長庚にて,香々背男は星神なること疑いあるまじく思ゆ」と力説している。この篤胤の説をとると,天白は太白星ということになろう。

『漢字源(学研,1988年)』によると,「甕」は,「→かめ→亀→ク→」を経て,「駒(=高句麗人)」に至るので,甕星は,高句麗人の星,詰まり,極めて光り輝く星を譬えていると考えられ,しかも,これは,表02において発掘された太白神の裏意に通じているので,「甕星が光り輝く太白星であるので,甕星と相同の香々背男は,太白,長庚の星神である」とした平田篤胤の主張は,正鵠を得ていると思われる。詰まり,香々背男も尊称ではないかと思われる。

ちなみに,天津甕星,天香々背男に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表04:天津甕星,天香々背男

表字

音訓変換

裏字

裏意







┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→シン→
→かめ→亀→ク→








徐福ノ
大祀リ

譛シル
高句麗人ノ
星。








┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→か┬母→ム→
→か┘
→せ→未→ライ→









徐福ノ
大祀リ

侮ル

高句麗人ノ
男。


表04によると,天津甕星の裏意は「徐福の大祀りを譛しる高句麗人の星」であり,天香々背男の裏意は「徐福の大祀りを侮る高句麗人の男」である。両者は,裏意において通じている。詰まり,天津甕星は,徐福の大祀りを譛しる高句麗人であるが故に,天香々背男は,徐福の大祀りを侮る高句麗人であるが故に,共に,光り輝くべきものとして理解されねばならない存在になっている。

>天竜川流域の天伯社で,天御中主を祭神とすることが多い。中,近世になり,天一星信仰と妙見信仰とが習合し,天御中主と同一視された。この説では,天白は天一星に繋がることになる。

表04において導かれた,天津甕星,天香々背男の裏意が示唆する,光り輝く存在は,午族(=高句麗人)から見た太白星に他ならない。太白星が金星の代名詞になった理由は,金星の「金」が,方角で「西」に配当し,「→にし→8→八→」を経て,倭族に至るので,大和皇権が「倭族の星」を嫌ったことに拠ると思われる。このことは,天白の白が五行説において金に相当することからも納得し得るところである。なお,電子頁『古族研究』によると,倭族は,徐福を北極星に準えているので,大和皇権は,北極星を太白星に宛てることはないと考えられる。

>堀田吉雄は,天白の名義が色々と考えられても,天一星,太白星の陰陽道的星神より合成したものと観るのが,素直な考えではないかと論じている。

堀田吉雄は,「天白の名義が色々と考えられても,天白神が天一星,太白星の陰陽道的星神を習合している」としている。詰まり,堀田は,天白神に習合した太白星を陰陽道的星神と推断したことになる。恰も,堀田は,表04の裏意を理解していたかのように思われる。このように考えて見ると,天白神,天一星に習合される前の,元の天白神は,如何なるものであったのか,とする疑問が新たに生じる。

大和皇権は,もしも,天白神に,天津甕星,天香々背男を習合せしめていたのであれば,その目的は,表04から,呪詛を籠めることであった,と容易に推察することができるので,この場合には,大和皇権は,習合前から存続している天白神が気に入らなかったので,天白神の中身を替えることによって,倭族が天白神を尊崇すれば,するほどに,倭族が午族(=高句麗人)を崇める落とし穴に填ったことになると考えられる。反面,習合が全く為されていなかったなら,習合前に天泊神は実在していなかったことになり,天白神は,倭族を呪詛するために,午族(=高句麗人)によって,新たに創作されたことになる。真実は何れであろうか,新たな疑問が生じることになる。

>堀田は,源順の『倭名抄(平安中期)』において,天一星は「奈加々美」と訓じられており,「中神」は太白神(,太白星)とも言われていると述べている。

源順は,平安時代初期を代表する学者,歌人であるが,『倭名鈔(935年頃)』の中で,「天一星」が,「奈加々美」と訓じられ,「中神」の意で用いられていたことを記録している。「奈加々美」に付いては,既に,表03において,検討を加えているので,ここでは,別角度から,「中神」に付いて検討することにしたい。

堀田は,『山の神信仰の研究−増補改訂版−(光書房,1980年)』の「天白信仰」において,「奈加」,即ち,「中」は,天白社の幾つかが「天御中主神」を祭神としても,「天御中主神」の略称することに疑問を呈し,「奈加神」=「天一神」を支持している。

反面,拙論「正神邪神」によると,神[かみ]は,倭語の加美[ケミ]から導かれている。因みに,電子頁『古族研究』の諸論,なかんずく,拙論「元号諡号(同,1999年)」「中国史観(同,1999年)」によると,列島の覇権は「→倭本族→倭支族→午族(=高句麗人)→」の順に交代し,これに伴って,国家が「→小倭国→大倭国→大和国→」の順に移行している。この場合,「奈加」が「中(=大倭国)」であるとすれば,「奈加々美」は,列島における覇権の交代という時系列の中の「倭族由来の中(=大倭国)の神」に相当すると思われる。詰まり,源順は,天白に付いて,「今は,天一星と称している」が,「昔は,倭族が,それも,大倭国の倭支族が尊崇していた神である」と断じたことになるので,「加美[ケミ]」は倭語であり,「神[かみ]」は和語であることを承知しつつ,『和名鈔』において,「天一星」を「中神」,即ち「大倭国の神」であると記録したことになる。

天白神の背景を,このように考慮するならば,天白神は,大和皇権が改変した後のものである考えられるが,改変以前には,倭族が創出した別称で存在していたと思われる。拙論「御社宮司」「古族相関(同,2005年)」などによると,倭族が御社宮神(倭本族),千鹿頭神(倭支族)を尊崇し,午族が天白社を創出したと考えられる。

>記した天香々背男,天御中主を祭神とする天白社から観れば,間接的に堀田説は首肯できる。然し,この習合が何時,何所,何人によって行われたかについては論究していない。

直上の考察が正しいとするならば,天白社は和語であり,天白社の前身である倭系神に,和系天白神が習合し,更に,『記紀』神が習合したものと考えられるので,習合の時期は,大和皇権が列島における覇権を握って,午族が倭族に対して呪詛を掛け始めた時からであると思われる。注;拙論「高句麗考(同,2006年)」によると,倭族に対する高句麗人の敵意は,大倭国が発足してから間もなく,高句麗僧によって始められている。呪詛の連続性を勘案するならば,本格的な呪詛は天武帝朝から始まったと思われる。

>堀田説では,伊勢神楽歌の中の詞句「いやほしの次第の神なれば,いや月のわにこそまいたまへ」を説明することができない。

当該詞句の「弥星ノ次第ノ神ナレバ,弥月ノ輪ニコソ舞ヒ給エ」に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表05:祝詞詞句(伊勢神宮)

表字

音訓変換

裏字

裏意










バ,












→いや→礼→ライ→
→ショウ→

→ジ→
→ダイ→

→かみ→



→いや→礼→ライ→
→つき→就→ジュ→

→わ→ワ→



→ム→

┬糸→シ→
└合→あう→期→ゴ→























高句麗人ヲ
称エ,

徐福ヲ
詒ク

邪神




高句麗人ニ
従ウ

倭族ヲ



侮ル

倭支族

忌ム。


表05によると,当該詞句の裏意は「高句麗人を称え,徐福を欺く邪神は,高句麗人に従う倭族を侮る倭支族を忌む」である。これは,邪神の,高句麗人と連携する倭族を侮蔑する倭支族を忌避することに他ならない。拙論「銅鏡銘文(同,2004年)」など,「午族背神(同,2002年)」などによると,大和皇権の中枢は邪神に任じたと考えられるので,その邪神が伊勢神楽に乗って現れたことになる。

>諏訪明神祝詞段には,詞句「天白ワホシノクラ位ノ神ナレバ月ノワクラニヤドメサレル」とあるので,天白は天一星よりは,むしろ月と考えるべきであろう。

当該詞句が,「天白ハ,星ノ位ノ神ナレバ,月ノ輪座ニ宿召サル」であるとすると,これに含まれていると思われる裏意は,以下の通りである。

表06:祝詞詞句(諏訪明神)

表字

音訓変換

裏字

裏意




ハ,







バ,





宿




┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→ヒャク→

→ショウ→青→

→イ→

→かみ→



→つき→付→フ→

→リン→淋→ラン→
→くら→倉→ソウ→

→やど→舎→いえ→家→ケ→
→めす→雌→シ→

























徐福ヲ
詒ク
邪神


倭族

欺キ,

君主



国父

懶イ,
僧侶

倭族
嗤ウ。




表06によると,当該詞句の裏意は「徐福を大祭る邪神は倭族を欺き,君主は国父を懶い,僧侶は倭族を嗤う」である。これは,午族(=高句麗人)である邪神,君主,僧侶の倭族に対する呪詛に他ならない。詰まり,拙論「六月祝詞」「出雲賀詞」「儺の祭詞」「中臣寿詞」などが明らかにした,午族の倭族に対する呪詛と軌を一にしているので,諏訪神社の天白に関する祝詞も,また,諏訪倭族を呪詛するためものであると思われる。

なお,拙論「国号科野(同,2008年」)」によると,「科野」の「シナ」は,「太陽」「月」のような発光天体,即ち「輝くもの」を指称する列島の古語である。その「輝」は,「→ケ→」を経て,「虫(=列島倭族)」に至るので,「科野」は「輝ける/倭族の野」を指称していると考えられる。したがって,科野倭族,特に,水内倭族に取っては,「月」が極めて思い入れのあるものである。伊勢神宮に巣くった社僧は,「月」を「従う」意の動詞として利用したが,諏訪神社に巣くうことになった社僧は,「月」を「国父」の意の名詞として利用したことになる。詰まり,「月」は,似たような祝詞詞句として用いられているが,それぞれの祝詞の中で,別々の裏意を与えられている。


天白羽神と天白:

北伊勢には,祭神を天ノ白羽神とする社が6社ある。

「北勢町麻生田(長白羽社,天白社→天白神社),大安町高柳(天白神社),大安町宇賀(天白神社),菰野町吉沢(天白大明神→麻積神社),四日市市川島(天白神社),鈴鹿市山本(天白祠→天白羽祠)」

特に,北勢町麻生田,鈴鹿市山本の事例が注目され,明治時代,天白社の祭神を天白羽神とする説が導かれた。なお,天白羽祠の祭神は,天真鶴命とされているが,これは鶴の羽が白いところから連想されたものと思われる。

『石崎文雅郷談(1778年)』には,伊勢市神社湊の天白社について,「神楽歌ニアリ。天白ノ御前ハ下野村ノ南ニアル天白社ナルベシ。天白羽神ヲ祀ルニヤ。ソノ地ハ神社村ニ属ス。郷人ハ潮満寺ノ鎮守ナリト言ヘリ。」と記している。

豊橋市羽田の天白叢社は,北勢から来た神主が奉持した神で,林乙森(1787年没)は,その祭神を天長白羽神であると『吉田記』に記している。即ち,このような説は,江戸中期に既に存在したのである。然し,天白羽神は,古代文献には出ず,その初出は『古史伝』で,平田篤胤は,「『神名式』には,常陸国久慈郡に,天之志良波神社が載せられているが,これは,貞観8(866)年に,授常陸国正6位上,白羽神従5位下,同16(874)年に,授従5位下,天之白羽従5位上,など国史に見ゆ。これは,常陸誌に,今白羽村と云うに白羽明神と申すなり。」と記している。

以上の資料から見る限りでは,天白羽神が長白羽神の別名だとしたのは篤胤であり,それは江戸末期のことであった。念のため,茨城県の天白地名を探して見ると,土浦市の南方の阿見に字大天白がある。然し,この天白は,埼玉県からの伝播のようで,天白羽明神とは何の関係も無い。

『古語拾遺』には,「長白羽神,伊勢国麻続祖,今俗衣服謂之白羽是縁也」と記されているが,梅田義彦氏は,長白羽の長は丈長きを言い,白羽は真白き布帛を指せりとしている。

以上の資料から考えて,天白羽から天白を連想することはできない。


天白羽神,長白羽神に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表07:天白羽神,長白羽神

表字

音訓変換

裏字

裏意







┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→ヒャク→
→ウ→








徐福ヲ
詒ムク
君主

憂エル
神。







→おさ→他→

→ヒャク→
→ウ→


┬人→ひと→一→イチ→いち→
└也→ヤ→










徐福ヲ
射ウ
君主

憂エル
神。


表07によると,当該神の裏意は,天白羽神が「徐福を詒むく君主を憂える神」であり,長白羽神が「徐福を射う君主を憂える神」である。これは,表01において触れた,天白神の裏意「倭王を質す神」とは異なっている。詰まり,天白羽神,長白羽神は,天白神の別名ではないと思われる。


天白社と他社との習合

天白社と他社との習合例を第3表[省略]に示した。この習合現象は桃山時代頃に始まったと思われる。

次に,時代の明白な2例を示す。大阪府堺市東之町の境市役所の西南隅にかって天白稲荷社が鎮座していた。この社は,天正4(1576)年に,石田三成が境政所の鎮守として勧請したと言われ,江戸時代でも,境奉行が篤く崇敬していたという。松本市北深志2丁目の天白稲荷社は,松本城主石川数正が城の鎮守として文禄,慶長の頃,勧請したと推察されている。


石田三成,石川数正は,貴族社会を打破する役割を背負わされた戦国武将であるが,平安時代の風靡した呪詛を重んじ,引き継いでいたことになる。ここに,武士の内面的な脆弱性が感じられる。もしも,電子頁『古族研究』において主張されるような列島における古族の葛藤が存していたならば,これらを断ち切る機会は,武士社会が形成されて行く過程において,期待されるべきものであったと思われる。

4.神事と芸能

三渡は,愛知,静岡,長野3県境附近で年初に行われる花祭,田楽,霜月祭において登場する天白に注目している。

花祭

花祭は,天竜川の1支流である大千瀬川から分かれた大入川と,振草川,奈根川の流域で行われるが,祭の型式に差があるので,早川孝太郎氏は,これを川の名によって,大入系と振草系とに分けている。大入系はほぼ今日の愛知県北設楽郡豊根村,振草系は同郡東栄町の区域に相当する。

花祭は,文献的には,永享11(1439)年の奥書のある下津具村の禰宜屋村松家に保管されているものが最も古い。東栄町布川の花祭では,高嶺祭に「天白がえし(,天白打ち)」という神事が行われる。花大夫が天狗(,天白)の御幣の前で,九字を切り,印を結ぶ。そして祭文「きんぜい東方,1万3千の大てんぐ小てんぐ大てんぱく小てんぱくわれうけなんじじゅの神やたち,これよりましまさば,これよりたまへ,うってまします」を唱え,これを5方に行う。豊根村下黒川の御す御料では,祭言「根渡り,葉渡り,高根は大徳権現,大天宮には小天宮とよ,大天宮には小天白とよ,山には山の神,木にはこだま,岩にはしゃご神,道には道ろく神,川にはびしゃもん水神」を唱える。天宮は天狗のことで,室町時代には,「てんぐう」と発音したらしい。振草系の後段行事で,「おぼろげ」の行事があり,5方位に向かって,祭言「伊勢や伊勢の国のおぼろけや,ひぼろけうけてかへり給え,謹請東方には,1万3千宮の大天狗小天狗大天白小天白,おぼろけ,ひぼろけ,われうけ,なんぢちょうの神様,ここよりあらわれてましまさば,ここえり給え,打ってまします」を繰り返し,その度に,供物の包みと祓銭を共に投げる。唱言は土地によって異なるという。

花祭には,「天の祭」という神事がある。遠藤鉄樹氏は,「天白祭」ではないかとし,天白神は天空から降臨した神であるとしている。しかし,豊根村では高根さま,天伯社が別々に祭られており,また,高嶺祭は,別名天狗祭とも言われ,「天の祭」には75膳の供養を行うので,「高嶺祭」,「天の祭」が天白神の勧請する点は首肯できない。この75膳は,「大峰70靡之秘事」の中に,「75膳天狗供養者大阿闍梨秘伝法ニ依ルモノ也」とあり,天狗に供えるものである。前述したが,上黒川中平の天伯社の祭には,75膳を供えるというが,これは天狗と天白とを同一視してる。東栄町布川の「天狗かえし」は後に,「天白かえし」に変形したと考えるのである。

>大てんぐ小てんぐ大てんぱく小てんぱくわれうけ

唱文の当該部分は,「大天グ,小天グ,大天パク,小天パクは霊気」であると考えられる。ここでは,「グ」「パク」に関して,次のような視座を提起することにしたい。

表08:グ,パク

  パク→


魄[漢:ハク]
(地上に留まる魂)

蛩[グ]
(=蝗)

寓[グ]
(仮住居)
A(小)

B(x)

宮[ク]

C(x)

D(大)


表08によると,「グ」は「寓」「宮」に区別され,「パク」は「魄」,「蛩」に区分されている。これによると,「蛩」は「蝗」であり,「倭族の皇(=倭王)」であるので,その居所は類音の「宮」となり,「魄」は「地上に留まる魂」であるので,その居所は同意の「寓」となると考えられ,「魄,寓」「蛩,宮」の組み合わせは有り得るが,「魄,宮」「蛩,寓」の組み合わせは有り得ないと思われる。このように考えて見ると,「蛩,宮」の組み合わせは,徐福の実在を教示するかのように,「大」と表現されたと考えられ,「魄,寓」の組み合わせは,徐福の彷徨する魂を暗示するかのように,「小」と表現されたと思われる。かくして,「大」が宮であれば,「小」は,表01に掲げた「御社宮祠」である可能性が高いと考えられる。

>きんぜい東方,1万3千の大てんぐ小てんぐ大てんぱく小てんぱくわれうけなんじじゅの神やたち,これよりましまさば,これよりたまへ,うってまします。

高嶺祭の「天白がえし(,天狗討ち)」における唱文の意味は,概略,「謹請。東方の1万3千の天
,天は霊気なむ。市呪の神たち,これより座しまさば,これより(座し)給え。(霊気を)討ってまします」である。「謹請」は,この限りにおいて,「慎んで乞う」のか,「慎んで請ける」のかの何れか,明白ではないが,後出の部分が「討ってまします」であれば,「慎んで請ける」ことになり,「討ってましませ」であれば,「慎んで乞う」ことになると考えられる。「霊気」は「もののけ」であるので,祭主に取っては,排除すべきものであると思われる。「東方」は,倭族を象徴する方角であるので,「霊気」とは,倭族が尊崇する「徐福」に纏わるものと考えられる。「市呪[ジシュ]」は,「徐福を呪う」ことであるので,「市呪の神たち」は,拙論「銅鏡銘文」において明らかにされた「邪神(=辟邪)」であると思われる。詰まり,祭主は,「邪神」に向かって,「これより,坐しまさば,これより,座し給え」と唱え,「邪神」を招いたことになるので,原祭文は,「討ってまします」でなく,「霊気を討ってましませ」であったと思われる。拙論「銅鏡銘文」によると,「邪神」は,大和皇権の中枢;帝(,尊,藤原,僧侶)が自任したものでるので,これは,表01に示される「天白神」,表02に示される「太白神」の裏意に密接に通じていると思われる。したがって,高嶺祭は,大和皇権の意図の下に,企画され,受け継がれたものと思われる。

>根渡り,葉渡り,高根は大徳権現,大天宮には小天宮とよ,大天宮には小天白とよ,山には山の神,木にはこだま,岩にはしゃご神,道には道ろく神,川にはびしゃもん水神

振草系の当該祭文は,「根絶り,葉絶る高根()は大徳権現(とよ),大天宮には(大天蛩,)小天宮(
には小天蛩)とよ,大天には(大天魄小天寓には)小天とよ,山には山の神,木には木霊,岩には神,道には道陸神,川には毘沙門水神(とよ)」の省略形である。「根絶り」は,「根」が「→コン→今→いま→イ目→倭モク→倭木→」を経て「倭族」に至るので,「倭族を絶やした」となり,「葉絶る」は,「葉」が「→ショウ→青→木→」を経て「倭族」に至るので,「倭族を絶やした」となる。「根絶り,葉絶る高根には大徳権現とよ」は「倭族が途絶えた高根には,大徳権現が相応しいんだよね」ほどの意味であるので,祭文は,倭族への呪詛を予感せしめるものになっていると考えられる。

因みに,関係神仏に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表09:関係神仏

表字

音訓変換

裏字

裏意







→ダイ→台→イ→
→トク→得→うる→
→ゴン→
┬王→オウ→
└見→ケン→







倭族ガ
徐福ニ
願ウコト

悒エル
倭奴。







→ダイ→台→イ→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬△→グ→
└虫→







倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

忤ル
倭族。







→ショウ→青→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬△→グ→
└虫→







倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

忤ル
倭族。







→ダイ→台→イ→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬白→しろ→
└鬼→帰→ケ→







倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

質ス
倭族。







→ショウ→青→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬白→しろ→
└鬼→帰→ケ→







倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

質ス
倭族。





┬h→コン→
└凵→コン→






倭支族
困ラス
神。





┬八→
└十→ジュウ→






倭族
襲ウ
霊。





┬金→コン→
└楽→たのしい→娯→グ→






倭支族
忤ウ
神。





→ドウ→
→おか→丘→ク→






藤原
救ウ
神。







→ビ→皮→かわ→川→セン→
→桑→ソウ→
→モン→曼→マン→
→スイ→








倭族ガ
僧侶ヲ
謾クコト

責メル
神。

注09α:△=(蛩−虫)
注09β:▽=(示+帝)=大祀る
注09γ:◇=(言+卒)=責める
注09δ:沙門=桑門

表09によると,当該神仏の裏意は,大徳権現が「倭族が徐福に願うことを悒える倭奴」であり,大天蛩,小天蛩が「倭族が徐福を大祀ることを忤る倭族」であり,大天魄,小天魄が「倭族が徐福を大祀ることを質す倭族」であり,山神が「倭支族を困らす神」,木霊が「倭族を襲う霊」,鑠神が「倭支族に忤う神」,道陸神が「藤原を救う神」,毘沙門水神が「倭族が僧侶を謾くことを責める神」である。何れもが,倭族に敵対し,倭族から離反するものである。拙論「宮中神座」によると,このような裏意の組み込みは,午族に取って,珍しいものではない。

>伊勢や伊勢の国のおぼろけや,ひぼろけうけてかへり給え,謹請東方には,1万3千宮の大天狗小天狗大天白小天白,おぼろけ,ひぼろけ,われうけなん,ぢちょうの神様,ここよりあらわれてましまさば,ここえり給え,打ってまします

振草系の祭文は,「伊勢や,伊勢の国の男暮露木や,妃暮露木を請けて帰り給え」「(云うことが判らぬのか,されば)謹請」「東方に(座しまする)は,1万3千の天蛩様,天魄様」「男暮露木
妃暮露木は霊気なむ」「市懲の神様,ここに現れて坐しまさば,ここより(坐し)給え」「(霊気を)討ってましませ」の省略形である。「暮露」は「半僧半俗の物乞い」であり,「木[け]」は「倭族」であるので,「男暮露木」は「男性倭族の半僧半族の物乞い」を指称し,「妃暮露木」は「女性倭族の半僧半族の物乞い」を指称していると考えられる。全体では,「伊勢や,伊勢の国の男暮露木や,昔は高貴であられた妃暮露木を連れて帰りなさい」「謹んで乞いまする」「東方に座しまするは,1万3千の天蛩様,天魄様」「男暮露木,妃暮露木は霊気[もののけ]である故」「徐福を懲らしめる神様,ここにお出で下されるなら,ここにお出まし下され」「霊気を討って下され」であろうと思われる。

当該祭文は,倭族系の「暮露」を登場させている。祭主は,「暮露が目障りであるから去れ」と云い,「云うことが判らないようだから,東方に座します1万3千の天蛩様,天魄様に請いましょう」と云い,「男女の暮露は霊気である故」「徐福を懲らしめる神様」「どうかお出座して,霊気討ちをお願いします」と,午族(=高句麗人)的な立場を明らかにしている。詰まり,電子頁『古族研究』が明らかにしている,列島の覇権が倭族から午族に移行した事実に鑑みると,祭主は,当時,倭族系の高貴な出の「暮露」の発生に際して家,彼らを霊気[もののけ]として排斥していたこと,霊気を排除する役者が徐福を懲らしめる神の天蛩,天魄であったことを証言したことになると思われる。

ところで,「天白」「天狗」の関係は未だ明らかではないと思われる。

因みに,天狗,天寓,天蛩伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表10:天狗

表字

音訓変換

裏字

裏意

@





┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→ク→家→ケ→







徐福

大祀ル
倭族。

A





┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→ク→







徐福

詒ク
高句麗人。

B





┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→グ→







徐福

大祀ル
倭本族。

C





┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→グ→







徐福

詒ク
倭本族。

D





┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→グ→







徐福

大祀ル
倭本族。

E





┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→グ→







徐福

詒ク
倭本族。

注10α:△=(示+帝)=大祀る

表10によると,当該詞の裏意は,「天狗@」が「徐福を大祀る倭族」であり,「天狗A」が「徐福を欺く高句麗人」であり,「天寓B」「天蛩D」が共に「徐福を大祀る倭本族」であり,「天寓C」「天蛩E」が共に「徐福を欺く倭本族」である。前者@,B,Dは倭族の本質を突いており,後者A,C,Eは午族の本質を突いている。したがって,大和皇権が列島の覇権を握ったAD669年を境として,それ以前の倭族を覇者とした社会においては,実態が「天狗@」「天寓B」「天蛩D」であったとしても,倭族が当該手法を用いていなかったので,このような裏意を想定することは難しいと考えられる。しかし,それ以降,午族を覇者とした社会においては,実態が「天狗A」「天寓C」「天蛩E」であり,午族が当該手法を援用していたので,「天狗」→「天寓」,「天寓」→「天蛩」を想定し得ると思われる。このことは,裏意が「徐福を欺く君主」である「天白」に重なるので,詰まるところ,「天狗」→「天寓(天魄)」→「天白」,「天宮(天蛩)」→「天白」とする理解が許されるものと思われる。


田楽

南設楽郡鳳来町黒沢は静岡県との境にあるが,ここで行われる田楽の「まつかげ」の神楽の中に,歌言「細川上りの天白天王」とある。細川は黒沢の西南方5kmばかりの所にあり,今日も天白神社がある。

静岡県磐田郡水窪町田浦の田楽の「御酒上げ」行事の中に,能衆の1人が雨戸を1枚外して外に出て,男木(=正月の門神柱)に手をかけ,3度「天狗天白おいでやれ」と呼び掛ける。また,同じ行事の中で,祭言「おもいおもい神々東方南方製法北方中方,大天白小天白火口天権小天権」と唱える。天権は天狗のことである。

長野県阿南町新野は愛知県に近い山村であるが,田楽祭の「庭の儀」に天白が登場し,同郡天龍村坂部の冬祭の「湯潔め」では,天白にお湯を差し上げる。『熊谷家伝記(江戸中期)』に,「同(1454)年,新野村へ向方之仁善寺観音を迎イ往キ,伊豆権現と本地壱本分神成はとて同所に祭り,関氏の本国ト云,郷主村松国成は伊勢之関の田の神祭を真似て,田楽祭と号ス」とあり,新野では,田楽祭が15世紀中頃行われたことが判る。

>細川上りの天白天王

鳳来町の田楽唱言に見られる「天白天王」の「天王」は,「天白神」の「神」に相当するので,天白社に祭られる神を天王と呼称したに過ぎないと思われる。「天王」は,「→一大王→」を経て,「徐福を大祀る王」を暗喩しているので,「天白天王」の裏意「徐福の大祀りを質す徐福を大祀る倭王」は成立していないと思われる。「天白天王」は,陰陽師の意図とは別に,民衆の中において,誤用されたものと考えられる。

>天狗天白おいでやれ

水窪町の田楽唱言に見られる「天狗天白」の裏意は,既に検討してきたように,「徐福を欺く高句麗人,徐福を欺く君主」であるので,午族の視座において,「さもあらん」ことと思われる。


霜月祭

霜月祭の行われる遠山郷は,長野県下伊那郡の次の旧6ヶ村で,今日の南信濃村,上村の「門村,木沢,和田,八重河内,満島,鶯巣」である。

霜月祭の由緒は各説あるが,大別すれば,京都で習ってきたという説と,伊勢山田の人々が伝えたという説とに分かれる。筆者は,霜月祭に歌われる神歌の面から考えて,伊勢説が正しいと思っている。

由緒;

南信濃村和田の霜月祭は,承久元(1219)年,京都から伝来したと伝えられている。

上村上町の霜月祭は,承平年中(931〜7),佐久麿が京の儀式を習って帰ったと云われている。また,伊勢の山田から,8人の乞食の集団が天伯様の神楽面を盗んで当地にやってきたとも云われている。あるいは,1人の浮浪者が或る村から面を1つ盗みだし,伊勢の山田まで来た時に,急に面が重くなり,その場へ捨ててしまったところ,そこで疫病が発生したので,地元の遠山に知らせ,面迎えの禰宜が持って帰ったところ,疫病が治まったという話も伝わっている。

上村程野の霜月祭は,伊勢から流れて来た人が,ここに神楽を伝授したと云われている。

通説としては,江戸時代の初期,元和4(1618)年,家督相続争いと,百姓一揆のために亡びた,この地方の領主遠山氏の霊を慰めるために始めたと云われている。

天白登場;

木沢では,祭の次第に,「天白の湯」という行事があり,大天伯,小天伯,富士天伯,辰巳天伯,朝日天伯,夕日天伯,平松天伯,てろう天伯,宮天伯どが登場する。

大天白は,赤い鼻の高い面で,襷がけで帯刀して現れるが,大天伯[ヒーノー]面と小天伯[ミーノー]面を被る人が大役とされ,村人等の伝承的理解を見ると,大小天伯ガ1番偉い天伯だと思われている。空を自由に飛び回り,また,宮天伯は,神社の森だけに住んでいて,社の建物だけを守り,祭の日の旗の番を務め,数々の荷物を守るのだというから,天狗のような変幻自在の神と理解しているようである。

「ヒーノー」は火王,「ミーノー」は水王であるが,火王,水王を始めて祭り,そして神楽を行った年は,『熊谷家伝記』によると,下伊那郡天龍村坂部で,「正長元(1428)年,夢の告により,神楽を始める」,「享徳3(1454)年,地震の鎮めに火王,水王,白髭大明神を祀る」と記されている。したがって,火王,水王面の初見は,15世紀初期に遡ることはあるまい。

上町では,祭で天竜神祇の神名を読み上げて,釜湯の上,3寸に請ずるが,その神名に天伯も読み込まれている。

天伯は,金王と云われ,以前は,赤シャツ,赤モモヒキ,赤タビで猿田彦面を着けていた。今日では,錦織の狩衣に,紅白のだんだら巻の弓と鎬矢を持って現れ,釜の前で,東西南北天地に向かって,矢を放ち,悪鬼外道を追い払う。天伯は,富士庚申の姿,猿田彦命だという。

富士山では,庚申の年を庚申縁年と称し,その初現は定かではないが,『妙法寺記』の明応9(1500)年の条に,「此年6月,富士道者悉無限,関東乱ニヨリ須走ヘ皆道者他也」と見られる。この年は,庚申の年だが,上町の富士庚申は,これより後出であろう。

下栗でも,赤い鼻高面の宮天伯が現れる。

遠山郷では,宮の遷宮式の折の行事に,「お殿入り」というのがある。この「お殿入り」の行列に加わる面で注意しなければならないのは,霜月祭の際に,登場する天伯がこの行列に参加しない点である。この天伯は,木沢では宮天伯,上町では富士天伯,中郷ではただ天伯である。そしてこれらの天伯は,新しくできた社殿の前に控えて,行列の到着するのを待っている。そして練り込んで来る行列を迎えるのである。これは恐らくは,宮天伯から想像されるように,社の建物,その他を守る役目であることに基づくものであろう。

本項を纏めると,何故にさまざまな天伯が出場するのか判らないが,宮天伯は宮を守る神であると思われる。現に,上町,中郷,程野の各集落の氏神八幡社の向かって右,詰まり,東方の小木祠に天伯祠が祀られているし,中郷の天伯社の祭神は八幡社の祭神(=応神天皇)に仕えた大臣竹内宿禰だということが,その理由である。

富士天伯は富士庚申に,辰巳天伯は花祭に際し,祭場の辰巳のの方角で辻固めという神事があるので,このことに由来するのであろう。てろう天伯は太郎天伯のことで,太郎坊という天狗からの変化と考える。太郎坊は京都愛宕山の天狗である。朝日天伯,夕日天伯は須沢に朝日,夕日の天伯という講があり,霜月祭に,朝日と夕日の天伯は,釜を挟んで対面しながら舞うという。

このように,天白は,多くの祭場に登場するが,花祭は15世紀初頭には存在したと仮定すると,天白もこの頃に初現したのではないかと思われる。

花祭りや田浦の田楽では,天白と天狗とは別格のものであるが,霜月祭では,天狗は出ず,天狗と天白とが習合しているようである。次記する伊勢神楽歌でも,同様なので,天狗と天白とが習合した方が,別格の場合より後出ではないかと思われる。即ち,霜月祭は,花祭,田楽よりも後に開始されたと考えられる。


>天白の湯という行事があり,大天伯,小天伯,富士天伯,辰巳天伯,朝日天伯,夕日天伯,平松天伯,てろう天伯,宮天伯どが登場する

固有名詞の中,「富士」は高い,「辰巳」は7,「朝日」は輝く,「夕日」も輝く,「平松」は伏せる,「てろう(=太郎?)」は兄と思われる。何れもが同数の文字から成り立っているので,そこに伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表11:*天伯

表字

音訓変換

裏字

裏意







→ダイ→台→イ→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬人→ニン→仁→ニ→
└白→ヒャク→







倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

血塗ル
君主。







→ショウ→青→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬人→ニン→仁→ニ→
└白→ヒャク→







倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

血塗ル
君主。







→ケ→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬人→ニン→仁→ニ→
└白→ヒャク→







倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

血塗ル
君主。







→シチ→蟋→

┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬人→ニン→仁→ニ→
└白→ヒャク→
┬虫→
└悉→




虫┬
全┘




全倭族ガ

徐福ヲ
大祀ルコト

血塗ル
君主。





→ブク→復→かえる→帰→ケ→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬人→ニン→仁→ニ→
└白→ヒャク→





倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

血塗ル
君主。






→あに→豈→ケ→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬人→ニン→仁→ニ→
└白→ヒャク→







倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

血塗ル
君主。







→ク→家→ケ→
┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
┬人→ニン→仁→ニ→
└白→ヒャク→







倭族ガ
徐福ヲ
大祀ルコト

血塗ル
君主。

注11α:△=(示+帝)=大祀る
注11β:▽=(血+耳)=血塗る

表11によると,当該天伯の裏意は,何れに於いても,「倭族が徐福を大祀ることに血塗る君主」である。「辟」は,「邪神」を自任する帝のことであるので,電子頁『古族研究』的な理解においては,「天伯」=「天狗」=「天寓」=「天蛩」=「天魄」=「辟」=「邪神」となって,何れもが,大和皇権が構築した「邪神」ネットワークの中の異名同種であると思われる。

>大天白は,赤い鼻の高い面で,襷がけで帯刀して現れるが,大天伯[ヒーノー]面と小天伯[ミーノー]面を被る人が大役とされ,村人等の伝承的理解を見ると,大小天伯ガ1番偉い天伯だと思われている。

上村の霜月祭の唱言においては,大天伯面,小天伯面を被る役者が大役とされている。当該訓の「ヒーノー面」,「ミーノー面」に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表12:ヒーノー面,ミーノー面

表字

音訓変換

裏字

裏意

ヒー
ノー


→ひ→日→か→夫→フ→
→の→之→シ→






国父
嗤ウ
面。

ミー
ノー


→み→巳→ジ→
→の→之→シ→






徐福
嗤ウ
面。


表12によると,当該面の裏意は,「ヒーノー面」が「国父(=徐福)を嗤う面」であり,「ミーノー面」が「徐福を嗤う面」である。共に,倭族が尊崇してきた徐福を嘲笑するものに他ならない。

>享徳3(1454)年,地震の鎮めに火王「ヒーノー」
,水王「ミーノー」,白髭大明神を祀る

火王神,水王神に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表13:火王神,水王神

表字

音訓変換

裏字

裏意





→ひ→陽→ヨウ→よう→
→オウ→






倭族
悒ム
神。





→スイ→出→
→オウ→






倭族
悒ム
神。


表13によると,当該神の裏意は,共に,「倭族を悒む神」である。これらは,「ヒーノー面」,「ミーノー面」に比して,軌を一にしていると思われる。

神楽歌と祝詞

伊勢神楽歌;

外宮の摂社では,社神楽がそれぞれあったが,年に1度,霜月13日に楽人たちが,一口頭大夫の家に集まって,寄合神楽を行い,宝祚延長,武運長久,万民安全,五穀豊穣の祈願を催すことがあった。この神楽が御師の神楽殿で行われるようになったのは,大平になってからである。

この伊勢神楽歌の1つに,「てんぱくのうた(後記)」がある。

奥書には,「天文11(1542)年壬寅2月吉日書之畢」と記され,「天白御前の遊びをば,星の次第の神なれば,月の輪にこそ舞給え,紀の国やからう(高野?)こがわ(粉河)に下り給う,天白御前,原の天白,野の天白,村の天白,鵄の尾の天白,片岸の天白,千代のお神楽舞する,」と記されている。

これらの字句から,天白は星神で,神楽遊びをし,月輪に舞い,紀の国の赤らむ粉河に下り,原,野,村,鳶の尾,潟岸の天白など,多くの種類の天白があったこと,千代の神楽を奉ったことが判る。

高野や粉河は,山伏に関係ある真言宗当山派の正大先達の住する所であり,鵄の尾の意味は判らない。なお,伊勢御師の神楽殿では,檀家の求めに応じて,太々神楽を行ったが,その中に八幡天白之があり,「てんぱくのうた」は,その時に歌われたようである。

>天白御前の遊びをば,星の次第の神なれば,月の輪にこそ舞給え,紀の国やからう粉河に下り給う,天白御前,原の天白,野の天白,村の天白,鵄の尾の天白,片岸の天白,千代のお神楽舞する

伊勢神宮の神楽唱言は,「
さあ皆様天白御前の遊びをば始めようぞ」,「天白御前は,星の次第の神なれば,憑きの惑乱にこそ舞給え」,「やがて,紀の国,厄洗う粉河に下り給う」,「天白御前,原の天白,野の天白,村の天白,鵄の尾の天白岸の天白神とし,千代の神楽舞するぞよ」である。「月の輪座[わくら]にこそ舞う」は,一般に,「満月を背景として舞う」であると信じられているようであるが,天伯祭には,倭族に対する午族の呪詛が色濃く感じられるので,「月」が「→つき→調→ジョウ→」を経て「懲」に至り,「輪」が「→ワ→環→ゲン→岩→いわ→イワ→」を経て「倭」に至ることを勘案すると,「凝らしめの倭族の座において舞う」ことも強ち間違いではないと思われる。「厄洗う粉河」は,「粉」が「→米分→倭忿→」を経て「倭族が忿る」ことから,「厄を洗うべき倭族が忿る河」を意味していると考えられる。して見ると,祭主は,「徐福を懲らしめる神」である「天伯神」が,「倭族が忿る河」にて,「厄落としする」ことを断言していることになるので,倭族に対する,これに優る侮辱はないと思われる。しかし,電子頁『古族研究』の諸論によると,大和皇権は「勝者が敗者の犠牲の上に成り立つ」という確固たる信念を有していたと断じざるを得ない。「鵄の尾」は,鵄の尾が凹形であることから,窪地を指称していると思われる。「かたきし」は,三渡が解読した「片岸」ではなく,「潟岸」であろうと思われる。「潟岸」の「天白社」が少なくなかったことから,「天白社」が「水神」であると信じられるようになったと考えられるので,天伯神の神楽舞する場所は,原,野,村,鵄の尾,潟岸など,広範囲に亘っているところから,呪詛の目的は,災害に関係していたとしても,抽象的,総括的なものではないかと思われる。
注A:やからう←やくあらう←厄洗う
注B:かたきし←潟岸


諏訪明神の神楽歌と祝詞;

諏訪上社の神楽頭,茅野外記大夫家に伝えられた茅野文書の中に,嘉禎3(1227)年丁酉11月吉日に書かれたという諸神勧請の段の「天白の神楽歌」が収録されており,「お天白の北の林の鈴虫は,鈴虫は千代の声にて常に絶いせぬ。お天狗の遊びするまに,次郎坊,太郎坊,丹波のお神楽参らする。」とある。

また,天正13(AD1585)年3月に記録された祝詞「御天具」の中に,「あの山で,荒れ往く神は,何神よ,愛宕の山の天白よ,天白は,星の位の神なれば,月の輪座に宿を召さる。」とある。

更に,記録年不明の『神長守矢文書』にある御頭祭の御帝戸屋[みかどや]神事の申し立て祝詞は,「御帝戸屋湛のきよみ,先のやいらは,よいらは,おりかしやと申,天白こそ館内におはり来るべし,災難,口舌がまた来ぬ先に祓い,退かせ給え,と畏こも,畏こも額づか申す」である。

以上の神楽歌や祝詞によって,天白は星の位の神で,月の輪座に宿り,天狗の遊びをし,丹波の神楽を奉り,御帝戸屋神事に際しては,祓神として,降臨することが判る。

次郎坊,太郎坊は天狗の名前で,次郎坊は琵琶湖西岸の比良山の天狗,太郎坊は京都西北郊外の愛宕山の天狗である。太郎坊が文芸書に初出するのは,『源平盛衰記(鎌倉末期)』の中の,後白河法皇と住吉明神との天狗問答の条であり,次郎坊が初出するのは,謡曲『花見』の中である。『花見』は,世阿弥(1363〜1443)当時からあったとせられ,作者を決定する確実な資料はない。太郎坊,次郎坊が共に見られるのも『花見』の中である。

>お天白の北の森の鈴虫は,鈴虫は千代の声にて常に絶いせぬ。お天狗の遊びするまに,次郎坊,太郎坊,丹波のお神楽参らする。

諸神勧請の段の唱言は,「お天白の北の林の鈴虫は,鈴虫は千代の声にて常に絶いせぬ。お天狗
遊びする間に,次郎坊,太郎坊,丹波の御神楽参らする。」である。

当該唱言に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表14:諸神勧請

表字

音訓変換

裏字

裏意













は,














ぬ。









に,


坊,














る。



→あめ→雨→ウ→熊→くま→奥→オウ→
→しろ→
┬示→ジ→
└土→ツ→
→1→イチ→いち→

→リン→淋→ラン→

→リョウ→
→ジュウ→

→リョウ→
→ジュウ→

→セン→
→ダイ→

→ショウ→青→


→ジョウ→

┬糸→シ→
└色→シキ→



→あめ→雨→ウ→熊→くま→奥→オウ→
→ク→

→ユ→雄→ウ→熊→くま→奥→オウ→



→ケン→

→シ→
→おとこ→夫→フ→
→いえ→室→シツ→
→タイ→台→イ→
→おとこ→夫→フ→
→いえ→室→シツ→

→に→于→ウ→熊→くま→奥→オウ→
→なみ→汰→タイ→

→み→子→シ→
→ジン→
→たのしむ→娯→グ→戸→と→十→ジュウ→

→シン→





























































午族ハ)

倭王
質シ,
徐福
厭イ,
徐福

厭イ,

倭両族
襲イ,

倭両族
襲イ,

倭本族
詒キ,

倭本族


懲ラシメ,

倭支族
拭イ,



倭王
苦シメ,

倭王



慊キタラズ,

倭支族ノ

質シ,
倭本族ノ

質シ,

倭王
詆リ,

倭支族
尽クシ,
倭本族

譖シル。




注14α:△=(四/幸+攵)=厭う

表14によると,当該唱言の裏意は,「倭王を質し,徐福を厭い,徐福を厭い,倭両族を襲い,倭両族を襲い,倭本族を詒き,倭本族を懲らしめ,倭支族を拭い,倭王を苦しめ,倭王に慊きたらず,倭支族の父を質し,倭本族の父を質し,倭王を詆り,倭支族を尽くし,倭本族を譖しる。」である。これは,倭族に対する午族の敵対に他ならない。拙論「六月祝詞(同,1999年)」「中臣寿詞(同,2002年)」などによると,主立った祝詞には,最初から最後まで,呪詛が籠められているので,諏訪神社上社の諸神勧請の当該祝詞も,呪詛が全面的に籠められていると考えられる。

>あの山で,荒れ往く神は,何神よ,愛宕の山の天白よ,天白は,星の位の神なれば,月の輪座に宿を召さる。

祝詞「お天具」の当該部分は,「の山で,荒れ往く神は,何神よ,愛宕の山の天白よ,天白は,星の位の神なれば,月の輪座に宿を召さる。」である。

当該唱言に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表15:お天具

表字

音訓変換

裏字

裏意





で,





は,


よ,








よ,



は,







ば,





宿



る。


→かれ→伊→イ→

→セン→

→あれる→蕪→ム→

→オウ→

→かみ→髪→ホチ→

→なに→底→タイ→
→かみ→髪→ホチ→

→オ→
→いわや→崛→ゴチ→月→つき→付→フ→

→セン→

→あめ→雨→ウ→熊→くま→奥→オウ→
→しろ→
┬示→ジ→
└申→シン→
→あめ→雨→ウ→熊→くま→奥→オウ→
→しろ→
┬示→ジ→
└申→シン→
┬日→か→夫→フ→
└生→うむ→
→イ→

→ジン→



→つき→付→フ→

→わ→ワ→
→すわる→据→コ→

→やど→舎→いえ→家→ケ→

→ショウ→

















































午族ハ)
倭族

懺イ,

巫女

悒ミ,

徐福

詆リ,
徐福

汚シ,
国父

懺イ,

倭王
質シ,
徐福
譖リ,
倭王
質シ,
徐福
譖リ,
国父
惓ミ,
倭族

尽クシ,



国父ノ

倭族

欺キ,

倭族

悄エル。



表15によると,当該祝詞「お天具」の裏意は,「倭族を懺い,巫女を悒み,徐福を詆り,徐福を汚し,国父を懺い,倭王を質し,徐福を譖り,倭王を質し,徐福を譖り,国父に惓み,倭族を尽くし,国父の倭族を欺き,倭族を悄える。」である。これも,倭族に対する午族の敵対に他ならない。

>御帝戸屋湛の
清み(をば申す),先の八面[やいら]は(また)四面[よいら]は下りかしや(とぞ)申す,天白こそ館内にお入り来るべし,災難,口舌がまた来ぬ先に祓い,退かせ給え,と畏こも,畏こも,額づか申す。

御帝戸屋湛の祝詞は,「御帝戸屋湛の
清み(をば申す)」「先の八面は(また)四面は下りかしや(とぞ申す」「天白こそ館内にお入り来るべし」「災難,口舌がまた来ぬ先に祓い,退かせ給え」「と畏こも,畏こも額づか申す」である。「湛の清み」は「湛の祓い」であると思われる。「八面[やつら]」は「8を鍵値とする倭本族」であり,「四面[よいら]」は「4を鍵値とする倭支族」であると思われる。これらには,祭主の蔑視が感じられる。「下りかしや」は「(倭族の霊魂が)下りて,揃ったか」の意味である。祭主は,そこで,徐福を懲らしめる邪神である天伯神に入館を呼び掛け,倭族の霊魂がもたらす災難,口舌(=言い争い)を防ぐべく,修祓をお願いし,倭族の霊魂の退散下されと,謹んで,頭を垂れた。詰まり,拙論「民衆信仰(同,2002年)」において究明されたように,列島の覇権争奪における勝者である午族(=高句麗人)は,現世において,敗者である倭族の犠牲の上に,安寧を得る戦略を採ったので,午族の犠牲になって亡びた倭族が黄泉から戻ることのないように,「湛の祝詞」を奏上したと考えられる。
注C:きよみ←清み←清める
注D:やいら←やつら←八面←奴等
注E:よいら←よつら←四面
注F:はおりかしや←は下りかしや
注G:おはり←おはいり←お入り

御帝戸屋湛の祝詞に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表16:御帝戸屋湛の祝詞

表字

音訓変換

裏字

裏意








み(



す)






(ま
た)







や(

ぞ)

す,















し,

難,










い,
退



え,



も,


も,




す。

→み→巳→ジ→
→タイ→
→と→十→ジュウ→
→や→八→
→たたえる→称→ショウ→

→ショウ→青→



→シン→

→さき→崎→


→メン→



→シ→
→メン→

→ゲ→華→ケ→






→シン→

┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→
→しろ→
┬示→ジ→
└申→シン→

→カン→缶→フ→
→ナイ→→イ→


→ニュウ→乳→ちち→

→ライ→



→サイ→西→にし→8→八→
→ナン→南→5→ゴ→
→ク→家→ケ→
→した→下→ゲ→



→ライ→戻→もとる→弗→ホチ→

→セン→

→はらう→掃→ソウ→

→のかせる→斥→シャク→柵→セン→


→コウ→


→エ→隈→くま→奥→オウ→


→おそれる→恐→ク→


→ギャク→


→シン→














┬山→
└奇→キ→














































































































































徐福ヲ
詆リ,
倭族,
倭族ヲ
悄エ,

倭族ヲ



譛リ,

倭族ヲ
棄テ,
倭族ヲ
謾キ




支族ヲ
謾キ,

倭族ヲ






譛シリ,

徐福ノ
大祀リヲ
質シ,
徐福ヲ
譛リ,

国父ヲ
欺キ,


国父ヲ

懶イ,



倭族ヲ
忌ミ,
倭族ヲ
訝リ,



徐福ヲ

悛メル


僧侶

倭族


抗イ,


倭王


苦シメ,





譛ル。


注16α:△=(示+帝)=大祀る
注16β:▽=(言+也)=欺く

表16によると,御帝戸屋湛の祝詞の裏意は,「徐福を詆り,倭族,倭族を悄え,倭族を譛り,倭族を棄て,倭族を謾き,倭支族を謾き,倭族を譛しり,徐福の大祀りを質し,徐福を譛り,国父を欺き,国父を懶い,倭族を忌み,倭族を訝り,徐福を悛める僧侶は,倭族に抗い,倭王を苦しめ,覡を譛る,」である。これは,倭族に対する僧侶の敵対に他ならない。


伊勢,諏訪の前後関係;

天白の本源地は,天白神楽歌が存在する伊勢の近くであると思われる。それは,伊勢外宮の御師殿の邸内に設けられた神楽殿である。希望があれば,多額の金を受けて,太々神楽が行われた。神楽は,外宮大宮の段から,注連上舞までの25舞であり,その中に八幡天白段がある。その時,歌われたと考えられる。

この太々神楽が何時代から始まったのかは明白にされていないが,その歌詞は後白河法皇の集められた『梁塵秘抄(1179年)』に次ぐ古い形式のものとされ,中世のある時点であろう。残念にも,明治44(1871)年の神宮大改革で,この太々神楽は滅亡した。幸いにも,天白神楽歌のの歌詞の写しが『神宮文庫』に遺されている。これは,天文11年の裏書きのあるものを寛永10年に写し,更に,昭和11年に写した本である。したがって,天白は,天文11年以前には,神楽として舞われたことが判る。

四日市市日永の『天白の橋』には,西行作の和歌と云われる,月,天白の2句があり,天白神楽歌の中にも,「月の輪にこそ舞ひ給え」という詩句があるので,日永の和歌の作者が西行でなかったとしても,詠者は,この神楽歌なり,天白神に付いて詳しい人であったに違いない。伊勢地方の人と考えたい。

諏訪の神楽歌は,嘉禎3(1237)年記録のものを天正13(1585)年に写したものだという。然し,これが嘉禎3年に存在したことが認められるかどうかが疑問である。

第1点は,この神楽歌が天正13年よりやや早い頃に作られたのではないかという疑問である。それは,この中に,次の詩句「お天白の北の林の鈴虫は,鈴虫は,八千代の声て,常に褪せぬ」があり,これの類歌が花祭の神歌「産土の北の林に住む虫は,常にぞ,声を何時も絶やさぬ」,「氏神の北の林で鳴く鹿は,チエてう声を常に絶やさず」,「不動堂の西の扉に住む虫は,チエてう声を常に絶やさず」にも見られるためである。

花祭の神歌は,諏訪神楽歌に比して,歌詞が崩れているが,これは口伝で伝承された為であろう。花祭が記述の如く15世紀に遡ると考えれば,諏訪の天白神楽歌は,13世紀の所産とはとても認められない。

第2点は,同じ神楽歌の中に,御頭社宮神の神楽歌がある。この社宮神という表記は,江戸時代に,尾張で用いられた表記で,諏訪地方では,吉野時代に作神,室町時代に左口神,桃山時代に左口神,さくし,江戸時代に左口,しゃくしが用いられている。

社宮神は,江戸時代に近い頃の表記である。したがって,諏訪の神楽歌が伊勢のものより遙かに古いという点には大いに疑問が残る。即ち,諏訪天白神楽歌の記録年である嘉禎3(1237)年は,後世の作為とすべきではなかろうか。

>諏訪神楽歌によると,「お天白の北の林の鈴虫は,八千代の声て,常に退せず」となっており,花祭り神歌によると,「産土の北の林に棲む虫は,常にぞ,声を何時も絶やさぬ」,「不動堂の西の扉に住む虫は,チエてう声を常に絶やさず」となっている。

歌句3種は,それぞれに,微妙に異なっているように思われる。

因みに,当該歌句に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表17:歌句3種(倭族視座)

表字

音訓変換

裏字

裏意













は,





て,




ず。


┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→台→イ→
→しろ→城→ジョウ→上→かみ→髪→ホチ→
┬示→ジ→
└土→つち→地→ジ→
→1→イチ→いち→



→リョウ→



→セン→
→よ→宵→ショウ→青→

→ショウ→青→

→ジョウ→上→かみ→髪→ホチ→

→あせる→焦→ショウ→青→





























徐福,
倭族,
徐福,
徐福,
徐福,
徐福,

倭族,

倭族,
倭族,

倭族,
倭族,
倭族,

倭族,

徐福,

倭族。














は,


ぞ,








ぬ。

→セン→
→つち→地→ジ→
→かみ→髪→ホチ→

→1→イチ→いち→



┬木→
└妻→サイ→西→にし→8→


→ジョウ→上→かみ→髪→ホチ→


→ショウ→青→

→ガ→河→かわ→川→セン→
→ジ→

┬糸→シ→
└色→シキ→織→シ→




























倭族,
徐福,
徐福,

徐福,

倭族,

倭族,
倭族,
倭族,

徐福,


倭族,

倭族,
徐福,

倭支族,
倭支族。







西






は,











ず。

→フ→
→うごく→△→コン→
→ドウ→

→にし→8→

→とびら→扇→セン→

→ジュウ→虫→



→チ→知→しる→識→シ→
┬木→
└世→よ→代→ダイ→台→イ→

→ショウ→青→

→ジョウ→上→かみ→髪→ホチ→

┬糸→シ→
└色→シキ→織→シ→




























国父,
倭支族,
倭族,

倭族,

倭族,

倭族,

倭族,

倭支族,
倭族,
倭族,

倭族,

徐福,

倭支族,
倭支族



注17α:△=(音+欠)=うごく

表17によると,当該歌句の裏字は,諏訪神楽が,「徐福,倭族」であり,花祭神楽が「徐福,倭族,倭支族」,「国父,徐福,倭族,倭支族」である。歌句3種は,何れにおいても,倭族関連語から成り立っている。詰まり,徐福,倭倭族は歌句3種に取り込まれているが,倭支族は,花祭神楽に取り込まれていても,諏訪神楽には取り込まれていない。これは,諏訪域が,大和皇権から見て,特殊な地域であったことを示唆している。事実,拙論「諏訪古史(同,2002年)」「古族相関」などによると,諏訪域においては,倭本族が倭支族を凌駕していたと考えられ,地域の覇権交替が,列島の覇権交代のように,明確でなかったので,諏訪域は,健御名方命に関する『古事記』の神物語が『日本書紀』において抹殺されるべき事情を有していたことに無関係ではないと思われる。時代背景を,このように参酌し,天伯信仰が物真似によって伝播したものであるとするならば,裏字における「倭支族」の有無によって,当該神楽の古新を判別することが可能である。先ず,天伯神楽が伊勢から諏訪方面に流れたとするなら,諏訪神楽においても花祭におけるように,「倭支族」の裏字が踏襲されていても可笑しくはないと思われる。反面,天伯神楽が,諏訪から伊勢方面に流れたとするならば,花祭神楽においても諏訪のように,「倭(本)族」の裏字に統一されていても可笑しくはないと思われる。しかし,現実は,「倭支族」が,花祭神楽において取り込まれ,諏訪神楽において取り込まれなかったのである。

表01によると,「天白」と「御社宮司」は対立したものであるとした上記推論によって,「天白」が倭族に対する午族(=高句麗人)の呪詛であるとみなされるので,「倭(本)族」「倭支族」の区別が重要視された時期は,大和皇権が発足し,陰陽師が活躍した頃であったと思われる。したがって,「天白信仰」は,大和皇朝の初期に芽生え,拡散したと考えられる。反面,列島における覇権の交代を承知していた陰陽師が貴族社会から武家社会への転換の流れに乗ったのであれば,諏訪には諏訪流の,花祭には花祭流の歌句を遺したと考えられる。

しかしながら,当該手法は,拙論「倭国詞律(同,1999年)」において明らかにされたように,裏意が倭族関連語から成り立っている倭系名詞に類しているので,倭系地名の場合,倭族がそこに裏意を籠めたのは明らかである。では,当該歌句においても,同じことが言えるであろうか。

それは,考察されるべき課題であると思われる。因みに,当該歌句に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表18:歌句3種(午族視座)

表字

音訓変換

裏字

裏意














は,





て,




ず。



┬一→イチ→いち→
└大→ダイ→

┬示→ジ→
└土→ツ→
→1→イチ→いち→

→リン→淋→ラン→

→リョウ→
→ジュウ→


→セン→
→ダイ→台→イ→

→ショウ→

→ジョウ→上→かみ→髪→ホチ→

→タイ→





























午族ハ)

徐福
詒キ,

徐福
厭イ,
徐福

懶イ,

倭族
襲イ,

倭族
悛メ,
倭族

悄エ,

徐福

詆ル。















は,


ぞ,








ぬ。


→セン→
→ツ→
┬示→ジ→
└申→シン→
→1→イチ→いち→

→リン→淋→ラン→

→サイ→西→にし→8→

→ジュウ→

→ジョウ→上→かみ→髪→ホチ→


→ショウ→

→ガ→河→かわ→川→セン→
→とき→秋→シュ→

┬糸→シ→
└色→シキ→識→シ→





























午族ハ)
倭族
厭イ,
徐福
譛リ,
徐福

懶イ,

倭族

襲イ,

徐福


悄エ,

倭族
呪イ,

倭支族
嗤ウ。








西






は,











ず。


→フ→
→うごく→△→コン→
→ドウ→

→サイ→

→とびら→扇→セン→

→ジュウ→



→チ→
┬木→
└世→よ→代→ダイ→

→ショウ→青→

→ジョウ→

┬糸→シ→
└色→シキ→識→シ→





























午族ハ)
国父
血塗リ,
倭族

猜イ,

倭族

襲イ,

倭族

質シ,
倭族
詒キ,

倭族

懲ラシメ,

倭支族
弑ス。



注18α:△=(音+欠)=うごく
注18β:▽=(血+半)=血塗る
注18γ:◇=(四/幸+攵)=厭う

表18によると,歌句3種の裏意は,諏訪の歌句が「徐福を欺き,徐福を厭い,徐福を懶い,倭族を襲い,倭族を悛め,倭族を悄え,徐福を詆る」であり,花祭の歌句が,「倭族を厭い,徐福を譛り,徐福を懶い,倭族を襲い,徐福を悄え,倭族を呪い,倭支族を嗤う。」「国父に血塗り,倭族を猜い,倭族を襲い,倭族を質し,倭族を詒き,倭族を懲らしめ,倭支族を弑す。」である。これらは,何れもが,倭族に対する午族の敵対に他ならないので,拙論「六月祝詞」「中臣寿詞」などにおいて考察されたように,午族が籠めた当該裏意に類している。

表17,18を比較するに,歌句3種の裏意は,片や倭族の関連語であり,片や午族の呪詛である。このような組み合わせは,電子頁『古族研究』においても,初出であるので,断定するまでには至らないまでも,祭主は,否,祝詞を考案した陰陽師は,呪詛の対象が倭族であることを考慮して,倭族関連語を呪詛の組み込みが露見した時の保険に擬していたのではないかと考えられる。拙論「銅鏡銘文」などによると,「邪神」を自任した藤原氏を代表とする午族は,何処までも,狡猾であったということであろう。

5.天狗と天白


諏訪神楽歌,花祭,田楽では,天白,天狗が別個になっているのに対して,伊勢神楽歌と霜月祭では,天白と天狗が習合していて,この方が後出であると思われる。ここでは,天狗の面から,天白初出の時代を考察することにしたい。

花祭や田浦田楽のように,唱言の中に,大天狗,小天狗の出ることは前述したが,この大小天狗が文芸書に現れるのは,『源平盛衰記(鎌倉末期)』の「天狗問答」である。このことから考えると,花祭,田浦田楽などは,鎌倉末期に存在していたということになろうが,実は,田浦田楽の「はね能」12番の中の8番目に,「くらまてんん」という能があり,その中で,「この山に,年経たる大天とは,吾がこと,さればと云うて,客僧は雲を飛んで行く」と歌っている。

右の幾つかの字句は,『鞍馬天狗』に出てくるものであり,この謡曲影響を受けたものではないかと思われる。『鞍馬天狗』は,客僧作,世阿弥作などの説があるが,世阿弥は14世紀末前後に生存した人である。したがって,田浦田楽は,15世紀初頭,室町時代初期以降に行われるようになったのではないかと考えられる。

諏訪神楽歌では,天狗を「テンク」と書いてあるが,謡曲の古写本や説話では,天狗を「天宮」と書いており,「テングウ」と発音するのが本来であったと思われる。したがって,この神楽歌は,謡曲の発生した14世紀末より新しい時代に記録されたと推定される。

愛知県北設楽郡富山村大谷では,神楽の行われる熊野神社の後ろに,杉の大木が2本あり,宮天狗と原天狗を祀っている。宮天狗は,熊野神社専属の天狗であり,原天狗は一般の天狗である。天狗は,歌舞御曲が巧で,お神楽の権威者と考えられていて,祭を無事に終わらせる重要な役割を持つとされている。

『熊谷家伝記』によると,大谷集落は,正長2(1429)年に開拓されたと云われている。この事から,宮天狗の祭祀は,この時代を遡ることはないと考えられる。

同郡豊根村三沢の花祭では,「みるめおろし」などの唱言の中に,「天魔天狗,大天狗,小天狗,宮天狗,道天狗,渡天狗,木葉天狗,古眷属たち」がある。

大谷住民の宮天狗の理解は,遠山郷木沢の宮天狗のそれと一致していて,修験道に出てくる護法である。

花祭,田楽,伊勢神楽などには,天白に,次のような種類があり,宮天白と宮天狗,通り天白と道天狗,大小天白と大小天狗などの対が見られる。
「花祭;キミサキ天バク,村天バク,通り天バク,家天バク,門天バク,宮天バク」
「伊勢神楽歌;原の天白,屋の天白,村の天白,鳶の尾の天白,潟岸の天白」
「西浦田楽;大天白,小天白」

天白に付いては,遠藤鉄樹氏の資料集成が大変参考になった。

西浦田楽の「はね能」12番の中の8番目に,「くらまてんごん」という能があり,その中で,「この山に,年経たる大天ごんと,吾がこと,さればと云うて,客僧は雲を飛んで行く」と歌っている。

「はね能」の当該歌句は,「これ,この山に年経たる大天
,吾がことなり」,「さればと云うて,客僧わ雲を飛んで行く」であると思われる。歌句を限定して見ると,歌句の意味は,前半において明瞭となり,後半において明瞭でなくなる。因みに,「客僧は雲を跳んで行く」に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。
注H:これ←われ
注 I :大天狗←大てんごん

表19:雲を跳び行く

表字

音訓変換

裏字

裏意











く。


→キャク→革→かわ→川→セン→
→ソウ→

┬雨→ウ→熊→くま→奥→オウ→
└云→ウン→
→とぶ→


→ゆく→征→ショウ→














午族ハ)
倭族
憎ミ,

倭王
チム
午族


称エル。


注19α:蜚=非虫=非倭族=午族(=高句麗人)

表19によると,当該歌句の裏意は「倭族を憎み,倭王をチむ午族を称える」である。詰まり,天狗が徐福を懲らしめる神であることをしっている祭主が,年経た大天狗だと名乗った天狗に向かって,倭族を憎み,倭王をチむ午族(=高句麗人)を称賛したことになる。

大和皇権が推進した神楽の唱言は,「六月祝詞」「出雲賀詞」「中臣祝詞」などの祝詞の場合に類して,列島の覇権争奪の敗者である倭族に対して,勝者である午族(=高句麗人)の呪詛が仕掛けられていたので,電子頁『古族研究』が取り上げた事例で明らかなように,呪詛のカラクリが明白になることは避けられねばならなかった。さもないと,敗者を自覚した倭族であっても,反抗の已むなきに至ったであろうから,「天狗が名乗ったら,客僧が去った」類の表現を採らざるを得なかったと思われる。したがって,大和皇権は,陰陽に長けた人物を抱えていたことになる。

>諏訪神楽歌では,天狗を「テンク」と書いてあるが,謡曲の古写本や説話では,天狗を「天宮」と書いており,「テングウ」と発音するのが本来であったと思われる。したがって,この神楽歌は,謡曲の発生した14世紀末より新しい時代に記録されたと推定される。

『諏訪史料叢書A(中央企画,1983年)』によると,諏訪神楽歌では,「天狗」を「天具」とも記録している。呉音を基本にすると,「天具」は「テング」であり,天狗は「テンク」であるので,古文書の濁音,清音の表記は,明確に区別されたものではないと思われる。「天宮」は「テンク,テンクウ」である。「天狗」が,濁音化されて「テング」となるように,「天宮」も,濁音化されて「テング」になっても可笑しくはない。ここでは,呉音よりも新しい慣用音の「テング」を持ち出す必然性はないと考えられる。相対立する「御社宮祠」「天白社」が同時期に創作されたとするなら,両者に伏在する裏意が考慮されるべきであり,それ故に,「御社宮祠」「天白社」は,奈良時代に,萌芽していたと思われる。

>『熊谷家伝記』によると,大谷集落は,正長2(1429)年に開拓されたと云われている。この事から,宮天狗の祭祀は,この時代を遡ることはないと考えられる。

三渡は,大谷集落の開拓史に着目して,開拓が正長2年であるから,「宮天狗」がこの時代を遡ることがないと推断しているが,このような推論は,「宮天狗」が大谷集落で創作されたとする前提を設けなければ,導くことのできないものであると思われる。寧ろ,「宮天狗」の文化を持った人物が大谷集落に居着くことがあって,「宮天狗」が定着したとするなら,当該文化は,別の箇所で発達していたことになる。今は,当該文化が廃れてしまっていて,確認できないということであろうかと思われる。

6.庭の天白


静岡県磐田郡水窪町押沢の天伯神社と庭の天白様

押沢は,豊橋より飯田線に乗って急行で約1時間半,水窪駅で下車し,信州街道を1.5kmほど北上し,右に分かれる道をとって進むこと,約1.5km,水窪川の東岸の小集落で,人々は,山の斜面の地を耕作しつつ,山林の仕事を中心に,生活している。柱戸部落は,その上流の隣の集落である。

天白神社の例祭は,9月15日で,押沢,柱戸から各家1人ずつ出席し,禰宜と一緒に参拝する。その後,御前10時頃から,禰宜の家で会食し,正午頃,再び,宝(別名ゴザオクと称される御幣)を持参して参拝し,禰宜にそれを祓ってもらってから解散する。

会食のご馳走には,汁物,うどん,酒の肴(煮しめ),寿司などが出されるが,それらの準備は当番制になっており,毎年10人組の当番に当たった家が,御酒や茶菓子と一緒に用意する。また,お冷やしといって,これは禰宜の家で用意するのであるが,生米(昔は,各戸から1合ずつ集めていた)を冷やしておいて,それを臼で搗いて,水で固めて,お餅のような形にする。それを神棚にお供えしてから切って,1軒に1欠片ずつ配るのである。そのため,各家共に,祭には餅を搗かない。

天伯神社の例祭の日に,庭の灯籠のそばに,宝を飾り,庭の神様を祀る。この宝は,長方形の紙を上図(省略)の如く,三角形に折り,それを5色重ねたものを,長さ3尺位の細い竹竿に挟んだものである。これは,毎年,新しいものが使われる。

5色を5行説に対応させると,次のごとくである。
「青は東,赤は南,黄は中,白は西,黒は北」

したがって,5色の宝は5方を意味し,宝を天白神社の禰宜に祓ってもらえば,5方を祓ったことになり,宝を庭に飾るのは,屋敷の4方を祓ったことになると考えられる。

> 五行説によると,五色と五方との対応は,「青は東,赤は南,黄は中,白は西,黒は北」である。

三渡は,天白信仰に五行説が導入されていると述べている。因みに,それぞれの組み合わせにおける裏意は,以下の通りである。

表20:五色五方

表字

音訓変換

裏字

裏意





→ショウ→


称/悄

倭族
称エル/悄エル。




→ナン→男→おとこ→夫→フ→
→あか→垢→ク→


顧/枯

国父
顧ミル/枯ラス。




→なか→仲→ジュウ→
→き→生→ショウ→


称/悄

倭族
称える/悄える。





→チュウ→駐→

→き→生→ショウ→

┬馬→うま→
└主→


午┬
主┘
称/悄

君主

称える/悄える。

西


→にし→8→
→しろ→代→よ→宵→ショウ→


称/悄

倭族
称エル/悄エル。




→1→イチ→いち→
→くろ→黎→ライ→


頼/懶

徐福
頼ル/懶ウ。


表20によると,五色ご方の組み合わせの裏意は,東青が「倭族を称える/悄える」であり,南赤が「国父を顧みる/枯らす」であり,中黄が「倭族を称える/悄える」,あるいは「君主を称える/悄える」であり,西白が「倭族を称える/悄える」であり,北黒が「徐福に頼る/懶う」である。目的語が,東,南,中,西,北のように倭族であても,中のように午族であっても,動詞は肯定的ともなり,否定的にもなる。

しかるに,「五色の宝」に伏在していると思われる裏意は,以下の通りである。

表21:五色の宝

表字

音訓変換

裏字

裏意






→ゴ→
→シキ→識→シ→








午族
祗ウ

宝。




┬宀→ベン→坂→さか→斜→ジャ→
└玉→たま→璧→ヒャク→




邪ナル
君主。


表21によると,五色の宝の裏意は,「午族が祗う宝」である。本裏文は,五(,午族)が主語,色(,祗う)が動詞に相当しているが,この宝は,午族が祗うべき宝に他ならないと思われる。因みに,拙論「銅鏡銘文」によると,大和皇権の中枢は「邪神(=辟)」を自認している。

表20,21を勘案するに,倭族は,倭国の時代において,東,南,西,北の四方を祓っていたと考えられ,目的語を倭族とし,動詞を肯定的に捉えていたと思われる。また,午族は,東,南,西,北に中を加えて,五色の宝を創出し,「宝」の裏意に煽られて,目的語が倭族であっても,動詞を否定的に捉え直していたと思われる。

7.「サンヨリコヨリ」行事


応永(1394〜1428)年間,天竜川支流三峯川の大洪水の際に,藤江村片倉の天白が流され,桜井片倉の平岩潭に入り流れて来て,川手裏の川岸に止まった。鎮水後,桜井より神酒などを持参して,1体を迎え奉り,川手から送って行く。それから,1体は,裏川原に社地を求めて,社殿を造営して,此処に祀ったという伝承が遺されている。川手天白社では,毎年8(旧の7)月6,7日を祭の日と定め,神輿を川手天白社より桜井片倉天白社まで送り,祭事の後,再び,川手天白社へ迎え入れる神事を行う。即ち,上記した伝承を祭に再現するのである。

渡御に先立ち,社殿の東広場で,「サンヨリコヨリ」の踊りを行い,その後に,神主に先導された五色の幟に囲まれた神輿が三峰川の流れを渡り,対岸の桜井に着く。桜井の天伯では,神主以下の出迎えがあり,神輿を据え,幣帛を社殿に移し,祭式が行われる。この後,再度,子供達によって「サンヨリコヨリ」祭事があって,神輿は元の道を戻ってくるという形を取る。

子供達の行う「サンヨリコヨリ」の祭事は,次の如くである。

1時頃に,区長の「さあ,踊りを始めて下さい」の合図で,子供達は,青竹の飾りを担いで,広場に大きな輪を作ると,その中に,2人の男が股引,はっぴで菅笠を被り,太鼓を持ち込んでしゃがみ,合図の太鼓を打ちながら,円陣の子供達は,元気な声を張り上げて,「サンヨリコヨリ」と連続して叫びつつ廻る。3回廻ると,輪の中の男2人が,激しく太鼓を乱打して,円陣の囲みを破って逃げ出す。子供達は,出さず逃がさじと,竹の飾りで激しく叩き追うの大活躍の後,2人の男は元の輪の中に帰る。こうして繰り返す事3回で終わり,青竹の飾りは全部踏み折ってしまう。輪の中の男は,骨だらけになった笠を脱いで,笑って終わる。

「サンヨリコヨリ」の行事は,愛知県津島祭においても,次の如く行われている。

小学校の男児達が,裸になって津島様の幡を担いで,「サンヨリコヨリ」と叫びながら,津島さまの祠の回りを3周,次いで部落を3周して,最後に水浴して帰る。「サンヨリコヨリ」の意味は,地元では,「さー寄れ,子寄れ」という説と,「麻撚り,こ撚り」という説の2通りである。

『長野県誌』には,次のように載っている。

祭神は棚機姫命にして,祭日は9月7日,祭礼に村内人民願望成就のため,破れ笠を破り,縋々の衣服を着て,太鼓を打つ。そして,「サイヨリ,コヨリ,菜がなくば,糠味噌」と唄う。児童は,七夕のナヨ竹を持ち,打擲すること3度,暫時ありて,社官指揮し,神輿を駕し,三峯川を隔てて,富県村の桜井片倉に鎮座する天伯社へ渡御する。また,土俗の言い伝えに,棚機姫を祭るに仍てt,絹,麻,木綿の別なく,竹に巻き付けて親善に供うことなどが行われる。村瀬正則氏は,打擲を受ける男2人が,集落を代表し,村中の罪,穢れを背負った人の姿で,打擲を受けることにより,村に平和が迎えられるので,「サンヨリコヨリ」は,「幸い寄り小寄り」と解すべきであり,男の服装から,『日本書紀』の「素盞鳴尊結束青草,以為笠藁,而乞う宿於衆神」を思い出すと述べている。

実は,「サンヨリヨ」行事は,下伊那郡上村下栗でも,かっては行われていた。禰宜,村方,子供が行列をなして,2本の幣束と紅白の紙幟を立て,鉦や太鼓で「サンヨリヨ,トウトの神を送れよ,ちいちのぽっぽサンヨ」と唱えたという。疫病神が入らぬように。集落の境に注連縄を張った。この行事は,「コト神送り」と云い,愛知,長野両県で行われ,2,6,11月などの8日に行われたので,「ヨウカサマとも云われ,土地によって,ゲーキ,ガイキ,ガンキ,咳気神,風邪の神送りの別称もある。神幟に,「津島午頭天王」と書くので,天王に托して,村民の無病息災を祈るものであった。

以上の数例と比較して,川手,桜井片倉の天伯社の神事は,天王と天伯とが習合したものであることが判る。

国会本『蕗原拾葉集』には,「天白」という謡曲がある。その中の天白に関する部分に,「信濃国伊那郡,深砂の庄,貝沼の里に,天白と申して,霊神ましませど,世人これを知らず候間,(中略),竜神が,抑もこれはこの川だけに代々を経る天白とは,我がことなりと申す。(中略),鐘も響けば,竜神も,是までなり。,名残の袖,今よりはいよいよ,この村の,五穀成就取り分けて,水難を除かんと,岩間を伝い,波を蹴立て,岩間を伝い,波を蹴立て,逆巻く淵にぞ入りにける。」とある。

貝沼の庄は,今日の長野県伊那市貝沼の付近と見られ,三峰川の南に当たる。桜井も,貝沼庄に在ったとすれば,桜井片倉の天白社が,この謡曲「天白」に比定できるであろう。謡曲では,天白は竜神で,五穀豊穣と水難除去の神である。


>渡御に先立ち,社殿の東広場で,「サンヨリコヨリ」の踊りを行い,その後に,神主に先導された五色の幟に囲まれた神輿が三峰川の流れを渡り,対岸の桜井に着く。桜井の天伯では,神主以下の出迎えがあり,神輿を据え,幣帛を社殿に移し,祭式が行われる。この後,再度,子供達によって「サンヨリコヨリ」祭事があって,神輿は元の道を戻ってくるという形を取る。

三峰川流域の天白祭の唱言は,「山[漢音:サン]より来たれ,湖[漢音:コ]より来たれ」であろうと思われる。前述の如く,「山の神」も天白神であるとする視座においては,天空を司る「山の神」が「山より来たれ」となり,荒ぶる「水の神」が「湖より来たれ」となると考えられる。しかし,山,湖が漢音にて発音されているので,当該唱言が三峰川に定着したのは,倭国の時代までは遡り得ないことである。

>「サンヨリ,コヨリ」の意味は,地元では,「さー寄れ,子寄れ」という説と,「麻撚り,こ撚り」という説の2通りである。

当該意味が,「さー寄れ,子寄れ」であるなら,唱言は,「サンヨレ,コヨレ」となり得る疑念が残る。「麻撚り,こ撚り」には,必然性が見られない。しかし,「去るぞ寄り
来たれ,来るぞ寄り来たれ」であるなら,「サンヨリ,コヨリ」が,神輿を送り出す時と,受け入れる時に,行われるので,可能性がまだしも高いと思われる。

>打擲を受ける男2人が,集落を代表し,村中の罪,穢れを背負った人の姿で,打擲を受けることにより,村に平和が迎えられるので,「サンヨリコヨリ」は,「幸い寄り小寄り」と解すべきである。

当該意味が,「さ(いわい)寄り来たれ,コ()寄り来たれ」であるなら,「幸寄れ,幸寄れ」となるので,民衆の視座において,可能性は可成り高いと考えられる。ただ,幸[コウ]は漢音であるので,このような解釈に基づけば,倭国時代まで遡ることはないと思われる。

以上の3説を比較すると,独断ではあるが,唱言の可能性は,「山より来たれ,湖より来たれ」,「幸寄り来たれ,幸寄り来たれ」,「去るぞ寄り来たれ,来るぞ寄り来たれ」の順に,低くなると思われる。中者,後者の魅力は捨てがたいところであるが,ここでは,天白神への呼び掛けと見て,前者を採ることにしたい。

>禰宜,村方,子供が行列をなして,2本の幣束と紅白の紙幟を立て,鉦や太鼓で「サンヨリヨ,トウトの神を送れよ,ちいちのぽっぽサンヨ」と唱えたという。

上村の唱言は,「(山の神は
)山より(来たれ),トウトの神を送るべし市々[いちいち]の坊々[ぼつぼつ]サマよ」であると思われる。「サンヨリ」は,直上で触れたように,「山より(来たれ)」である。「トウト神」は,拙論「徐福神考(同,2007年)」において,「チカツ神」に対比される存在が推定されていた「トウツ神」であると考えられるので,この唱言は,「トウト神」が午族から見て呪詛すべき神であることを証言しているように思われる。「市々の坊々サマよ」は,「市々」が,「→市ジ→市食→市イ→市◇(=言+)→」を経て,「徐福を欺く」となり,あるいは,「市2」が「→市ニ→市*(=血+耳)→」経て「徐福を血塗る」となるので,祭主の,呪詛を専らとした僧侶集団への呼び掛けになっていると思われる。

>疫病神が入らぬように,集落の境に注連縄を張った。

天白信仰は,これを維持,存続せしむるには,その目的を隠し通しては,不可能である。そこで,祭主は,倭族への呪詛の代わりに,疫病神の,午族の領土への,進入防止に目的をシフトしたと考えられる。したがって,列島においては,大和皇権が意図した,倭族に対する呪詛は,現在に至るまで,隠蔽されたままになっていると思われる。因みに,拙論「注連寸考(同,2006年)」によると,注連は,倭族の聖域を護るためのものから,倭族を疎外するためのものに変質しているので,原初の疫病神とは,倭族の亡霊を指称したものであると思われる。

7.まとめ

@「御社宮司」の裏意は「倭本族を顧みる神」であり,「天白神」の裏意は「倭王を質す神」,あるいは,「徐福の大祀りを質す神」であると規定して,その信憑性を探った。

A堀田吉雄,今井野菊,三渡俊一郎に対する違和感を是正するために,電子頁『古族研究』的な視座に立って,先学が集積して来られた資料,情報を再検討した。

B三渡は,天白神に諸神が付会されていること,天白神伝播の流路に関して,主路が伊勢から三河を経て信濃に至るものであり,傍路が三河から駿河に至るものであること,天白神は志摩には見当たらないので,天白神の古名は天白神ではなかったこと,天白神は祓い神であったことを前置している。

C三渡は,天白神が天一神,太白神の結合したものであるとする既説を支持しているが,裏意によると,天一神は倭族神であり,太白神は午族神である。また,源順が記した神名の裏意は,奈加加美が倭族神であり,比止比米久利が午族神である。

D三渡は,平田の甕神が太白神であり,天香々背男であるとした説を支持しているが,共に,裏意は高句麗神である。

E太白神と別称される金星の裏意は倭族神である。午族は,倭族神と見なされ星名を嫌って,金星をして,午族神となる太白星に呼び替えた。

F堀田は,天白神に天一星,太白星の習合を見て取り,新たに籠められた甕神,天香々背男の裏意を支持しているが,習合前の天白神の本質については,述べていない。

G堀田は,源順が,天一神は中神であり,天御中主神であるした説を支持しているが,これは,列島の覇権争奪史から見ると,中神は大倭神に相応しい。詰まり,倭本族が御社宮司を,倭支族が千鹿頭神を,午族(=高句麗人)が天白神を創出したと言える。

H伊勢神楽の唱言「弥星の次第の神なれば,弥月の輪にこそ舞い給え」の裏意は,「高句麗人と連携する倭本族を侮蔑する倭支族を忌避する」ものである。邪神が,伊勢神楽に重なって,伝播したことになる。

I諏訪神楽の祝詞の唱言「天白ワホシノクラ位ノ神ナレバ月ノワクラニヤドメサレル」の裏意は,邪神が倭族を欺き,君主が国父を懶い,僧侶が倭族を嗤うことである。

J三渡は,天白神と天白羽神,長天白神との関係を否定している。因みに,天白羽神が「徐福を詒むく君主を憂える神」であり,長白羽神が「徐福を射う君主を憂える神」であるので,両神は倭族に親和的である。

K天白社を勧請した石田三成,石田数正などの戦国武将は,列島が貴族社会から武家社会に向かう境目にあって,呪詛を継承したので,列島における葛藤が存続することになった。

L天狗,天白神に関して,類音,類意を辿るなら,仮寓居の天寓と地上に留まる天魄とが対になり,実の住まいであった天宮と実在の天蛩(=蝗=倭族の王)とが対になっている。前者が小であり,後者が大であると推測される。

M高嶺祭の唱言「謹請。東方の1万3千の天,天
は霊気なむ。市呪の神たち,これより座しまさば,これより(座し)給え。(霊気を)討ってまします。」によると,「天蛩(=蝗),天魄は霊気であるので,徐福を呪う神たちが現れ座して,これらを討って下され」とするものであるので,高嶺祭は明らかに大和皇権(,陰陽師)の統制下に存する。

N振草系の唱言「根絶り,葉
絶る高根()は大徳権現(とよ),大天宮には(大天蛩,)小天宮(には小天蛩)とよ,大天には(大天魄,小天寓には)小天とよ,山には山の神,木には木霊,岩には神,道には道陸神,川には毘沙門水神(とよ)」は,倭族に対する午族の呪詛に他ならない。ここに取り上げられた諸神は,倭族に敵対し,倭族から離反するものとして比定されている。

O 振草系の祭文「伊勢や,伊勢の国の男暮露木や,妃暮露木を請けて帰り給え」,「(
云うことが判らぬのか,されば)謹請」「東方に(座しまする)は,1万3千の天蛩様,天魄様」「男暮露木妃暮露木は霊気なむ」「市懲の神様,ここに現れて坐しまさば,ここより(坐し)給え」「(霊気を)討ってましませ」は,敗者である倭族の象徴としての「暮路」に対する呪詛に他ならない。

P「天狗@」が「徐福を大祀る倭族」であり,「天狗A」が「徐福を欺く高句麗人」であり,「天寓B」「天蛩D」が共に「徐福を大祀る倭本族」であり,「天寓C」「天蛩E」が共に「徐福を欺く倭本族」である。天狗→天寓(,天魄)→天白,天宮(天蛩)→天白の類推が可能である。

Q天白天王においては,「天白」「天王」の裏意が相互に矛盾している。

R「天白の湯」という行事に出てくる大天伯,小天伯,富士天伯,辰巳天伯,朝日天伯,夕日天伯,平松天伯,てろう天伯,宮天伯は,「富士」は高い,「辰巳」は7,「朝日」は輝く,「夕日」も輝く,「平松」は伏せる,「てろう(=太郎?)」は兄と思われるので,何れもが「*天伯」の構造を有している。「*」の裏意は「倭族」であり,「天伯」の裏意は「徐福を大祀ることに血塗る君主」であるので,何れもが「邪神」を指称している。

S「ヒーノー面」は「国父を嗤う面」を暗喩し,「ミーノー面」は「徐福を嗤う面」を暗喩している。「火玉神」「水玉神」は共に「倭族を悒む神」である。両者は根底において繋がっている。

S@ 伊勢神宮の神楽唱言「さあ
皆様,天白御前の遊びをば始めようぞ」「天白御前は,星の次第の神なれば,憑きの惑乱にこそ舞給え」「やがて,紀の国,厄洗う粉河に下り給う」「天白御前,原の天白,野の天白,村の天白,鵄の尾の天白岸の天白神として,千代の神楽舞するぞよ」は,天災などの倭族の復讐を防止するためのものである。全国,至るところで執り行われたので,具体性はTPOに応じて異なっていた。

SA 諸神勧請の段の唱言「お天白の北の林の鈴虫は,鈴虫は千代の声にて常に絶いせぬ。お天狗遊びする間に,次郎坊,太郎坊
,丹波の御神楽参らする。」は,倭族に対する呪詛に他ならない。ここでは,倭支族も呪詛されている。

SB 祝詞「お天具」の唱言「の山で,荒れ往く神は,何神よ,愛宕の山の天白
よ,天白は,星の位の神なれば,月の輪座に宿を召さる。」は,これも,倭族に対する呪詛に他ならない。

SC 御帝戸屋湛の祝詞「御帝戸屋湛の清み(をば申す)」「先の八面は(また)四面は
下りかしや(とぞ)申す」「天白こそ館内にお入り来るべし」「災難,口舌がまた来ぬ先に祓い,退かせ給え」「と畏こも,畏こも額づか申す」は,倭族の亡霊の退散を願うものである。列島の覇権争奪における勝者である午族(=高句麗人)は,現世において,敗者である倭族の犠牲の上に,安寧を得る戦略を採ったので,午族の犠牲になって亡びた倭族が黄泉から戻ることのないように,「湛の祝詞」を奏上したと考えられる。

SD諏訪神楽歌の唱言「お天白
の北の林の鈴虫は,八千代の声て,常に退せず」,花祭の唱言「産土の北の林に棲む虫は,常にぞ,声を何時も絶やさぬ」,同「不動堂の西の扉に住む虫は,チエてう声を常に絶やさず」は,裏意に倭族関連語を含んでいる。これは,倭系地名が裏意に倭族関連語を含むに似ている。

SE当該3唱言は,同時に,倭族に対する午族の敵意を秘めているので,陰陽師の狡猾さが垣間見られる。

SF西裏の 「はね能」の唱言「
これ,この山に年経たる大天,吾がことなり」「さればと云うて,客僧わ雲を飛んで行く」は,午族に対する礼讃に他ならない。

SG三渡は,天狗がテンクであり,天宮がテングウであるので,神楽歌は14世紀以降に記録されたとしているが,呉字の清濁は新旧に関係するものではない。寧ろ,御社宮司,天白社が同時期に作出されたことに着目すると,奈良時代まで遡る可能性が高い。

SH五方,五色の対における裏意は,目的語が倭族であっても,午族であっても,動詞は肯定,否定の双方を取り得る。しかし,「五色の宝」は「午族が祗う宝」であり,「宝」は「邪神」を暗示している。

SI三峰川流域の天白祭の唱言「サンヨリコヨリ」は,幾通りにも解釈されるが,「(神輿が)去るぞ,寄り来たれ,(神輿が)来るぞ,寄り来たれ」「幸は寄り来たれ,幸は寄り来たれ」「(天白は)山より来たれ,(天白は)湖から来たれ」などに絞られる。天白祭であることから,「山の神は山より寄り来たれ,水の神は湖から寄り来たれ」は無視されるべきではない。

SJ上村の霜月祭の唱言「(
山の神は,山より,トウトの神を送れ,市々の坊々サマよ」は,祭主の,呪詛を専らとした僧侶集団への呼び掛けになっている。

SK全ての習俗が呪詛に絡んでいるので,集落の境に注連縄をり,疫病神の進入を防いだとする習俗も,倭族の亡霊の直接的な進入を防いで,この亡霊がもたらす疫病の間接的進入を防ぐことを目的にしていたと思われる。

SL原初の御社宮司を倭族神とし,天白神を午族神とする区分は,正鵠を得たものと思われる。天白神は,多様な異名を有するが,倭族に対する午族の呪詛を秘めており,列島における古族間の念闘の一端を担っている。

以上

長田通倫(日本古族研究所)
初稿:2008.02.21
改稿:2008.03.01, 2009.10.29