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知覧武家屋敷通り

知覧武家屋敷通り
知覧武家屋敷通り(国指定重要伝統的建造物群保存地区)

所在地:鹿児島県南九州市知覧町上郡

路線名:知覧町道城馬場線(武家屋敷通り線)

区間:知覧町大字郡字内屋敷〜知覧町大字郡字河上

延長:0.8キロメートル

知覧武家屋敷通りは、国の文化財として選定を受けた重要伝統的建造物群保存地区の中を東西に通る藩政時代の鹿児島への往来に使われた街道です。

沿線には、名勝庭園として国の指定を受けた武家屋敷が石垣とイヌマキの大刈り込みによる生け垣に囲まれ、約700メートルに渡る武家屋敷群を形成しています。

知覧は、武家屋敷通り線に立つ電柱の移転や排水施設の地下埋設を行い、歴史的道筋にふさわしく、路面舗装は石垣や生け垣と調和させるため、名勝庭園の庭上と同じ色あい(シラス色)の特殊舗装にしています。

また、本路線の終点側を流れる麓川には、石橋の重量感を出すため高欄や橋面に地元産の石を使った新しい橋をかけ、幹線道路の県道谷山知覧線とも結び、武家屋敷群との一体化が図られていいます。

 武家屋敷群は、260年ほど前に前後して造られました。

主家と庭園とがよく調和し、石垣の上には大刈込みによる生垣が続いて、麓の町並み全体が一種の庭園都市を形成している点に特色があり、 世界に誇り得る文化財として高く評価されています。

 上郡地区18.6ヘクタールは、昭和56年11月重要伝統的建造物群保存地区として、国の選定を受けました。全国では17番目、九州地区では2番目の選定となります。


歴史的背景 (現地案内板より)

 現在に残る知覧麓(ちらんふもと)の武家屋敷群は、江戸時代中期、佐多氏18代で知覧領主島津久峰(1732〜1772)の時代に形づくられたとされています。

江戸時代、薩摩藩は領地を外城(とじょう)と呼ばれる113の地区に分け、御仮屋を中心に武家集落を造り、鹿児島に武士団を終結させることなく分散して統治に当たりました。

知覧もその外城の一つです。

 ところで、佐多氏初代忠光が地頭として知覧を治めるようになったのは、南北朝時代の文和2年(1353年)から始まり、当初はここから約1.5km南西にある知覧城(国指定史跡)を拠点としていました。

しかし天正19年(1591年)11代久慶の時代に、海賊事件により川辺の宮村に転封となります。

佐多氏が復帰する慶長15年(1610年)まで種子島氏が知覧を治めました。

その間に知覧城は火災にあい焼失したと伝えらえています。

 復帰した佐多氏12代忠充は、本拠(御仮屋)をっこから約1km西にある中郡竹に移します。

そしてさらに江戸中期になって18代久峰が現在の上郡地区に御仮屋を移しました。

つまり佐多氏が最後に形成した武家集落が現在残るこの武家屋敷群となります。

 また佐多と島津の二つの姓の関係は、佐多氏16代久達(1651年〜1719年)から始まります。

もともと佐多氏は島津氏の分家筋に当たり代々薩摩藩の重席にありました。

それまでの功績が認められ久達の時代に、知覧領の私領化と島津姓を許されましす。

ですから佐多氏16代以降は地頭職ではなく領主となり佐多姓ではなく島津姓を名乗りました。

 この武家屋敷地区は「門を構え、その奥に主屋を配した武家町の姿をよく今日に伝えている」として昭和56年、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

 

知覧武家屋敷通りのスライドショーをご覧ください。


重要伝統的建造物群保存地区(以下現地案内板より)

 知覧の武家屋敷群は、260年ほど前に前後して造られました。

主屋と庭園とがよく調和し、石垣の上には大刈込みによる生垣が続いて、麓の町並み全体が一種の庭園都市を形成している点に特色があり、 世界に誇り得る文化財として高く評価されています。

 上群地区18.6ヘクタールは、昭和56年11月重要伝統的建造物群保存地区として、国の選定を受けました。全国では17番目、九州地区では2番目の選定となります。


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