大阪市内で戦争と平和を考える

真田山陸軍墓地

 

 大阪陸軍墓地と書いてあるのもある。どちらが正式の名称かはわからない。
 ミニ・オベリスクが一面に整然と並んでいる。印象的といったらよいのか、無気味といったらよいのか。私が始めてここを訪れたのは今から40年程前。今のように木々が茂っておらず、全面見回せ、奇怪な感を持ったのを憶えている。

 この墓地についていろいろと調べた。この墓地のまん中にあるこの墓地を守ってくださっているのであろうおばさんに尋ねたところ、「戦争に負けたやろ、兵隊さんが(書類を)燃やしてしまいはった。この建物(納骨堂)にはお骨がぎっしりや。墓もなんぼあんのか、知らんワ」という調子。自衛隊に問い合わせてもわからない。ピース大阪にたずねても資料を持ってないとのこと。西成図書館でみつけた「大阪と八連隊−大阪師団抄史」(関係者が思い出の文をのせたものだが)にお二人の方がこの墓地について書いておられ、それから推察すると次のようである。

 真田山陸軍墓地は昔、真田幸村が大坂の陣の時に大坂城の出丸として陣地をつくり、徳川の大軍を迎え撃った古戦場跡に西南戦争、日清、日露戦争から、この太平洋戦争に至るまでの戦没者将兵を埋葬したり、お骨を預かっている。

 この墓地の霊堂(納骨堂)の遺骨は約4万3000余柱、墓標は4800柱と清国とドイツ戦病没者10柱が建立されている。 

 終戦までは陸軍の管理に属し、衛兵が配置されて、遺族または特別な関係者だけが出入りを許されるほど、管理が厳重であり、整備も清掃も行き届いて荘厳であったとのことである。(現在でも、北の入り口の所に小さな石の「境界査定標・陸軍」の境界石が残っている。)

 戦後は新憲法により、国家が祭祀や維持をすることができなくなり、そのため、納骨堂は修復されず米軍の焼夷弾で穴があいたままで、雨漏りがひどく、骨壺がならぶ棚のあたりはネズミが走っている有様だった。一方、墓石は倒れたままで、昔の聖地の面影は全くなく荒廃しきっていた。(下見に来たときに花の世話をしている人に聞くと、戦後墓石はほとんど倒されていて、今見るのは後に整備したとのことだった。)

 その上、夜盗の集合所みたいになり、治安が悪く自由参拝する遺族さえも近寄れないばかりでなく、近所の住民もその無軌道ぶりに困ったということである。

 1947年(昭和22年)3月16日付で大蔵・内務両次官から「旧軍墓地の維持管理は都道府県又は市町村の宗教団体、遺族会において行うものとし、祭祀は宗教団体、遺族会等において行うものとする」と通牒がだされた。それを機に四天王寺住職・田村特海師らが発起人となって「大阪靖国霊場維持会」がつくられた。そして毎年秋に本門仏立宗清風寺の住職を中心にして法要が営まれている。1995年は10月の第3土曜日と伺っている。

 この墓地へは北側の宰相山公園(高射砲陣地の跡だと言われている)の間の坂道を上るのだが、入ってすぐ左側の一群の墓は日清戦争の頃の主として民間人の墓地である。軍役人夫、馬丁、軍役石工、職工、陸軍看護人、酒保請負人、通信員、小蒸気船乗員、台湾鹿港兵站倉庫付雇員、陸軍省雇員、○○丸舵取、○○丸火夫、○○丸水夫など亡くなった時、どのような仕事をしていたのかがよくわかる。一番多いのが軍役夫である。軍役夫とは、兵器、食料などを戦地で運ぶのに、一般の人を当時としては高給で雇った。仕事場はもちろん中国大陸であったため、武器を持たせた。高給のため、かなりのならず者的な人が雇われ、現地の中国人とのトラブルも絶えなかったとのことである。(日露戦争以後は廃止された)

 これらの墓の中に獨逸(ドイツ)○○軍曹ヘルマン・ゴル、兵卒ルードリヒクラフトの2名のドイツ人名も見える。彼らは大阪衛戍(えいじゅ)病院で死亡している。また清国○○楊永寛など5人の名も見える。

 なお、○○は俘虜と刻まれていたが、戦後セメントが埋められた。これらの墓は他の墓に比べて一段と低い場所になっている。

 西南戦争、日清戦争、日露戦争とほぼかたまっているようだが、管理の悪さからか混じっているのもある。

 「生兵」ときざまれているのもあるが、この「生兵」というのはどういう仕事をしたのか私、佐藤は知らない。

 大阪衛戍(えいじゅ)病院死が多いが、現在のOMMビルの南側、ドーンセンターの西側にこの軍人専用病院があり、そこで亡くなったというわけである。

 日清、日露戦争では戦場で死ぬより、病死の方が多かった。特にカッケ(脚気)で亡くなる者が大部分だったとのことである。

参考 戦死者の内訳
戦死
うち病死
西南戦争 政府軍
6936人
鹿児島軍
7276人
日清戦争 1万3249人 1万1345人(86%)
日露戦争
8万7983人
2万4182人(27%)
第1次大戦
1352人
247人(18%)

 板倉重弘著「日本の戦争の歴史」より

 この墓地の北西側、西側に特に大きな墓碑がある。墓碑名によると、ある一定以上の階級であることがわかる。(当時の監修としてセンしすると1階級上がるのが一般であった)他の場所にあったが、ここへ来たものもあるという。(佐藤の下見時の聞き取り)印象に残るものの一つに西南側に並んでいる日露戦争の戦病傷者の合葬碑である。西側の方から墓碑面には次のように刻まれているが、順次墓石も小さくなっていく。恐らく病院内でも階級毎に別々で設備も違っていたのではないかと想像される。

   明治三十七、八年戦役  将校同相当官 戦死者 合葬碑  大
       〃              准士官          〃    ↑
       〃              下士           〃    ↓
       〃              兵卒           〃    小

 この墓地について、もう一つ重要なことは昭和10年代に入り、大陸への侵略が拡大した時代には労働組合などに「真田山陸軍墓地参拝」が起用性され、「聖戦」遂行のため精神的支柱として軍部に最大限利用されたことである。

 やがてこれらの労働組合も順次つぶされ「産業報国会」にくりこまれていく。この墓地は繰り返されてはならぬ歴史の教訓的な「史跡」といえる。

 歴史研究者が中心になって「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」がつくられ、見学会や史跡としての保存を求める活動をしておられます。「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」のホームページは→こちら

 (案内人 佐藤泰正(元今津中学校教員))