大阪市内で戦争と平和を考える

学童疎開がくどうそかい

1944(昭和19)年6月30日、政府は「学童疎開(がくどうそかい)促進要項(そくしんようこう)」を閣議決定しました。疎開区域にある3年生以上の国民学校初等科の子どもたちを疎開させることにしました。疎開区域とは、東京都の区部、横浜市、川崎市、名古屋市、大阪市、尼崎市、神戸市、と今の北九州市(当時は門司、小倉、戸畑、若松、八幡の各市)でした。

学童疎開は子どもたちの戦闘配置
「疎開(そかい)」は、もともと軍事用語

 「疎開(そかい)」は もともと軍事用語で、分散して闘いをすすめるという意味の言葉です。都市で足手まといになる者を地方に送り出して、都市の防空体制を強化するとともに、将来の戦力となる子どもたちを温存するためでした。

「1938年「歩兵操典」は、「疎開戦闘」は小隊あるいは分隊間の間隔を開くことで敵の火力の効果を弱め味方の突撃力を遺憾なく発揮するための歩兵の主要な戦闘方式だと規定している。政府は、空襲による被害を避けるための措置に、突撃準備のために前進展開するさいに、歩兵小部隊の間隔を開いておく戦闘方式を意味する疎開という軍事用語をあてたのであった。」(逸見勝亮「学童集団疎開史−子どもたちの戦闘配置」大月書店)

縁故疎開(えんこ そかい)が原則

 1944(昭和19)年7月18日、政府の方針にもとづいた大阪府の「学童疎開並びに避難要項」が発表されました。その主な内容は次のようなものです。

1.学童の疎開は縁故(えんこ)疎開によるを原則とする。
2.縁故疎開によりがたいものは、強度の勧奨(かんしょう)による集団疎開とする。
3.いずれにも参加できないものは必要に応じて集団避難を実施する。
4.疎開・避難側も、受け入れ側も、ともに共同防衛の精神であたる。

 まず縁故疎開が原則とされました。地方のしんせきの家などをたよって行くことを「えんこ そかい」といいました。6月末から9月末までにかけて、12万人の子どもたちが縁故疎開で大阪市から去っていきました。

学童集団疎開

 縁故疎開のできなかった国民学校初等科3年生以上の学童は学校ごとに集団疎開することになりました。区長・学校長を通じて、保護者に対して自発的に申請するよう「強力に指導勧奨」が行われました。

 集団疎開にかかる費用は、保護者が月10円負担することになっていました。それ以外に、ふとん・食器など身の回り品も各家で用意しなければなりませんでした。お金がないために疎開に参加できない子どもたちもいました。

 学童集団疎開にあたって必要な身の回り品(各家庭で準備したもの)
寝具   かけぶとん1枚 しきぶとん1枚 まくら1こ 毛布(もうふ)など
衣類   ねまき 下着 シャツ ズボン (男)さるまた (女)ズロース
     くつした たび はらまき もんぺ 防空ずきん など
日用品  食器 てぬぐい ハンカチ ちりがみ 歯ブラシ 歯みがき粉 水とう
     コップ 手紙用紙 せっけん ふきん ぞうきん マスク 糸 針
     古新聞 (女)くし など
はきもの げた うんどうぐつ など
その他  教科書 学用品

 また、身体検査を行い、病気にかかっている子や体の弱い子は参加できませんでした。

 8月9日、学童集団疎開の疎開先が発表されました。8月17日の阿倍野区をはじめ、確定した区から発表されていきましたが、受け入れ人数との調整などのため、最後に西区の島根県が確定したのは9月11日でした。西区住民からは「島根県は遠い」という不満の声もありました。

学童集団疎開 疎開先

8月9日割り当て
決定疎開先
実施月日
阿倍野区 和歌山 和歌山 8.28
浪速区 滋賀 滋賀 8.31-9.1
西成区 和歌山 和歌山 9.7-9
東成区生野区 奈良 奈良 9.9-10
天王寺区 奈良 奈良・大阪 9.8-10
此花区 愛媛 愛媛 9.13-15
都島区 石川 石川 9.15-17
西淀川区 大阪 徳島・香川 9.16-25
港区 香川 香川 9.14-25
大正区 徳島 徳島 9.13-25
福島区 広島 広島 9.20-21
東淀川
東住吉区(今の平野区含む)
住吉区(今の住之江区含む)
旭区
大阪 大阪 9.17-10.21
城東区(榎本小含む) 大阪 福井 9.17-21
大淀区(今の北区の一部) 福井 京都 9.21
西区 京都 島根 9.21-22

↓ 大阪からの疎開先府県
 

 こうして大阪市内の国民学校のうち、254校が集団疎開を行いました。この第1次集団疎開では1949(昭和19)年9月末には約6万6千人の子どもたちが2府10県に疎開していました。
 12月6日からは第2次集団疎開がはじまり、251校7778人が参加しました。

 集団疎開では旅館、寺院、教会所、錬成所などを寮とし、「教職員モ学童ト共ニ共同生活ヲ行フ」とされ、授業は疎開校の分教場形式か地元委託形式か受け入れ側と協議して行われることになっていました。つきそいは教員の他に寮母・作業員を雇い、医師を現地で委嘱(いしょく)することになっていました。寮母が見つからない場合は女の先生があたることもありました。(花園国民学校 疎開教育計画案

6年生 疎開から引き上げ 空襲にあう

 1945(昭和20)年1月、疎開の1年間延長と新3年生の参加が閣議で決定されました。2月17日から月末にかけて6年生の大阪への引き上げが行われました。卒業のために疎開先から帰ってきた6年生を3月13日深夜から14日未明にかけてアメリカ軍のB29爆撃機274機がおそいました(第1次大阪大空襲)。大阪市の国民学校の多くがこの3月14日に卒業式を予定していました。疎開先から帰ってきたとたん空襲にあい、卒業式どころではなくなりました。

全児童 疎開へ 学校での授業は停止

 1945(昭和20)年3月21日には、「新学期からは市内には国民学校初等科児童は一人も残さず、授業も実質停止」と集団疎開に1・2年生も加えることが大阪市から発表されました。すでに大阪市では3月13日の大空襲直後から授業は中止されていました。3月から5月にかけて3万人を超える子どもたちが新たに疎開に出発し合計8万人を超える子どもたちが集団疎開をしていました。一方、さまざまな事情から市内に残ってる子どもたちもいましたが、学校での授業はありませんでした。

堺・布施・守口からも集団疎開

 大阪市以外でも新たに堺市からは周辺の農村部へ、布施市(今の東大阪市の一部)からは福井県へ、守口町(今の守口市)からは石川県へと集団疎開を行いました。

疎開先の変更と再疎開

 空襲がはげしくなると、疎開先の変更も行われました。「防空防衛上不適当」として四国全域と大阪府・和歌山県の一部が疎開先からはずされました。四国にすでに疎開している子どもたちはそのままで、新たに疎開する子どもたちは他区の国民学校に転入した形にして大正区は石川県に、西淀川区は島根県に、港区・此花区は滋賀県に編入疎開しました。大阪府下の守口に疎開していた旭区の生江国民学校は島根県へ再疎開となりました。

 また、大阪府下が危険になり食糧事情も悪化しているということで大阪府内の泉北郡・南河内郡・中河内郡・北河内郡に疎開していた住吉区・東住吉区・阿倍野区・西成区・天王寺区の一部の学校は滋賀県や島根県に再疎開させられました。和歌山県に疎開していた一部の学校も敵軍の本土上陸に備えて島根県や滋賀県に再疎開させられました。

 沖縄での戦闘が終わりかけるとB29は大津市や福井市、高松市、松山市など地方都市を空襲するようになりました。これらの地方都市やその周辺に疎開していた学校は、もっと山間部に寮を移しました。疎開先が空襲にあい、焼け出されたところもありました。

最初の引き上げは10月

 1945(昭和20)年、8月15日、終戦となりました。8月末現在、集団疎開していた児童は5万6860人でした。政府は疎開継続の方針を決めました。疎開先に親が次々と子どもを引き取りに来ましたが、残された子どもたちにとって食糧事情はますます悪くなり、引き上げ時期や大阪のようすがわからないなど不安の日々でした。ようやく10月5日、生野区御幸森国民学校の奈良市から引き上げてきたのが最初でした。12月13日に大阪市は国民会館で学童集団疎開解散式を行いました。

 空襲によって焼け野原となった大阪市への引き上げ後、だれも身よりのいない児童(戦災孤児)もいました。大阪市の調査によれば10月9日現在で143人となっています。
 ご自身も疎開児童として戦災孤児になった金田茉莉さんは「引き取り手のない児童は143名ですが、引き取り人のあった孤児数は不明です。当時は親がいても生活が厳しい時代ですから、親のない子はさらに厳しさを強いられます。親がいれば強力に窮状を訴えられますが、物言えぬ子ども達のうち何名が集団疎開中に孤児になり、どのように引き取られていったか、そういう記録はありませんでした。」と書いておられます。(「東京大空襲と戦災孤児−隠蔽された真実を追って」金田茉莉 影書房 2002年10月)
 御幸森国民学校の集団疎開引率教員だった梅澤先生が引き上げてきた10月5日の夜、鶴橋駅前で梅澤先生のさいふをねらった7・8人の子ども達はこの大阪市の数に入っていないのです。

各区の学童集団疎開

北区][大淀区(今の北区)東淀川・淀川][都島区][旭区][城東区(鶴見区含む)][東成区][生野区][東区(今の中央区)][南区(今の中央区)][浪速区][天王寺区][阿倍野区][東住吉(今の平野区含む)][住吉区(今の住之江区含む)][西成区][西区][港区]|[大正区][福島区][此花区][西淀川区

「おおさか市内で戦争と平和を考える」の関連ページ

疎開先の火事で亡くなった子どもたちと十六地蔵(南恩加島国民学校)
御幸森小学校の学童疎開と学校
「連結器の上で」(高倉小学校)
大阪大空襲を見た私(佐藤 泰正さん)
私の戦争体験(高砂 光雄さん)(金甌国民学校)
友達の夢を見続けて(山下 猛さん)(八幡屋北国民学校)

児童文学で戦争と平和を考える>戦後50年に残したいもの(2)古世古和子 「ランドセルをしょったおじぞうさん」

【参考にした本】
「新修大阪市史」第7巻 大阪市 
「特別展 戦争と子どもたち 解説パンフレット」立命館大学国際平和ミュージアム
「学童集団疎開同行記」梅澤静子 編集工房ノア 1990
「学童集団疎開の生活−引率教員の日記」山中良太郎 枚方市1993
「学童集団疎開の記録 里にうつりて」竹神稲二郎 立教書院 1971
「学童集団疎開史研究」1〜5 研究紀要 大阪市教育センター
「大阪の学童疎開」赤塚康雄 クリエイティブ21 1996
他 本文中に紹介

(案内人 柏木 功)