大阪市内で戦争と平和を考える

大阪市立興亜拓殖訓練道場跡
(現 大阪市立大学理学部付属植物園)


現市大植物園の入り口正面の掲示板

 かつての道場講堂が図に残っている。講堂の横にある小さい建物が旧事務所。いずれも高台にあり、今はそこにあがる石段だけが残る。(赤い大きい○で囲む。)小さい○はかつての日輪兵舎の跡と思われる位置(戦後の航空写真から推定)  (赤い○や矢印はこのホームページで作成。)


 この石段の上に、かつての訓練道場講堂があった。
(上の地図参照 黄色い矢印がカメラの向き)

 大阪市は、満蒙開拓団を送るために職業と軍事の訓練のために、現在の交野市私市に「大阪市立興亜拓殖訓練道場」を作った。ここで訓練を受け、満州へ渡った。現在は大阪市立大学理学部付属植物園として研究施設となっているが、一般にも公開されている。当時の施設はもう残っていないが、訓練道場講堂への石段が当時のなごりである。戦後まもなくの航空写真の中に、当時の日輪兵舎(モンゴルのパオをまねた円形の宿舎)の跡が丸く点々と残っている。

道場の竣工を当時の新聞は次のように報じている。

興亜拓殖訓練道場 北河内交野に竣工す

 興亜の大陸へ優秀な開拓戦士を送るため、大阪市が工費25万円で北河内郡交野町私市に建設中の興亜拓殖道場は、このほど大部分竣工したので十日開場式を行ふ。同道場は名勝磐船峡に近く山水にめぐまれた健康地帯で、農場・山林とも十五万坪の広大な敷地に、日輪兵舎十棟のほか、講堂・本部・食堂・浴場・炊事場など(中略)
 日輪兵舎は一棟六十名を収容、全部で六百名の宿泊訓練できるやうになってゐる。早速十日から満蒙開拓青少年義勇軍第二隊大阪中隊三百名を収容、十三日からは転失業者の訓練を行ひ、全工事が完成すれば大阪全市の高等小学校学童を選抜、順次訓練を行ふ予定である。

(朝日新聞 昭和16年3月4日)

「満蒙開拓青少年義勇軍」

 1934(昭和9)年の第3次開拓団に14名の青少年の一団があった。
 1937(昭和12)年 日中戦争勃発 新京(今の長春チャンチュン)で関東軍が中心となる会議で青少年による開拓が出され、第1次近衛内閣が決定。拓務省が「満州青年移民実施要綱」を発表。 数え年16才〜19才の青少年が対象。
 茨城県の内原訓練所で2ヶ月間の訓練(日輪校舎とよばれるパオのような建物。日本体操(やまとはたらき)などに代表される国粋的なもの)。中心人物は加藤完治。その後、満州にある7カ所で3年間、現地訓練を受け、「義勇開拓団」に移行。

 各府県に目標数が割り当てられ、学校教員が説得とおどしで「義勇軍」に入れた。

小山仁示監修「大阪府の満州移民」(大阪府平和祈念戦争資料室)には、私市での訓練の果たした役割の一端が次のように紹介されている。

大阪市教育部では、1945年1月12日から2月16日までのあいだ、4回に分けて、約600人の高等小学校卒業予定者を、北河内郡交野村関西修養団関西道場に集めて、拓殖訓練を行っている。これは、「府当局の行ふ600名(大阪市300名、市外300名)の大派遣計画を一手に引き受け」る意気込みで、大阪市が計画したものであった。それまで他府県と比べて遜色があった送出数を一気に挽回し、「大陸大阪村を建設する」目的をもって、初めて大阪市が本格的に取りくんだ拓務訓練であった。
 開墾作業、武道、教練、満州事情の講話といった5日間の訓練を終え、義勇軍志願者をつのったところ、120人が応募し、身体検査、口頭試問の結果119人が合格した。こうして、大阪府の郷土中隊は、大阪市が、初めて、本格的、集団的に行った拓務訓練修了者を中心にして誕生した。

 大阪市内の国民学校(高等科=旧高等小学校)には、計40人以上を送り出した学校があった。(高等科の国民学校で旧高等小学校)
(港区)菊水国民学校  (東成区)阪東国民学校(高等科)  (旭区)高殿国民学校(高等科)  (福島区)八阪国民学校(高等科)  (東成区)西今里国民学校(高等科)

 大阪市立興亜拓殖訓練道場についての説明は、交野の戦争遺跡(交野市教組作成)が詳しい。

 満蒙開拓団についての詳しい説明は、満州開拓物故者の碑(一心寺)のページを見てください。

(案内人 柏木 功)