西東京鉄道管理局 管理人紹介
交通博物館の0系と
所属 西東京鉄道管理局
名前(HN) 元立川の人
年齢 201系900番台より年上
出身地 東京都立川市(HNの由来)
現住所 西武鉄道沿線(自転車で武蔵小金井〜三鷹に行ける)
性格 いいかげん・短気・凝り性
職業 本業:鉄道マニア(儲け無) 副業:(自称)会社員


車輌 国鉄型全般 特に201系
JR車輌:281系はるか・新幹線各種 その他
路線 青梅線・中央線
ヘッドマーク 特別快速 あずさ ピンク地に白いさくら
台車 DT46系
パンタグラフ PS21・PS23・PS24
朱色1号黒色
模型メーカー KATO
行きつけの模型屋 マイホビーキョーサン
モットー @旅行・移動は鉄道・公共交通機関か自転車を使う
A1枚でも多く撮影し201系の活躍を記録する
B夜更かししないでよく寝ること
Cマイカーを買わない・乗らない・走らせない

◆西東京鉄道管理局◆
▼鉄道マニアの概要です。長文ですのでお暇な時にでも読んでください。
鉄道マニアとしての四半世紀
 生まれながらの鉄道マニアだったのか0歳の写真を見るとしっかりと電車のおもちゃを持っていました。
 幼少期はオレンジ色の101系、201系や青梅線のED16牽引の貨物列車を見ながら育ちました。
 母の実家が奥多摩(川井)ということもあり「青梅鉄道公園」は子供の頃何度となく行きました。遊園地なんか行きたくない、鉄道公園や交通博物館に行きたい子供でした。
 5歳の時には一人で立川から川井まで一人旅、立川駅で母と別れた後は乗換が好きな私はわざわざ青梅行に乗車し青梅で下車、奥多摩行が来るのを待ったりしました。
 その時心配した母が後の車輌に乗っていて川井駅で降りたときに見つけた私が酷く怒ったのを覚えています。当の私は普通に前面で"かぶりつき"をしていました。低運転台の103系が懐かしい。
 国鉄がJRになって間もない頃だったと思いますが、拝島〜青梅まで201系の乗務員室に添乗させてもらったことがあります。当時小学生の私は川井に行く途中でした。青梅行の201系、拝島で数分の停車時間があり大好きな201系を眺めていると運転士さんが「乗るかい?」と声をかけていただきました。
 助手席に乗せていただき青梅まで夢のような時間を過ごしました。その時恥ずかしかったので遮光カーテンを降ろしたりしました。今では考えられない事、とても貴重な体験でした。(その時の運転士さん、ありがとうございました。)
 
 中学生時代はスポーツをしろと父の言葉により運動部で汗を流した日々でした。
 でも学校の横には中央線が走る素敵な立地条件、(これを書くと学校が解っちゃうかも)通学路には青梅短絡線もあり私の人生にいつも青梅線と中央線そして201系がありました。
 
 鉄道マニアとして生きていくしかない状況が確立されたのは高校時代。
 学校からは中央線の電車区が一望(これもまた学校が特定できちゃいます)、201系マニアにとってこれほど素晴らしい場所はありませんでした。通学も当然中央線、毎日201系に乗れるのが嬉しくて仕方ありませんでした。
 クラブは当然のように鉄道研究同好会に入りました。しかしその頃のクラブは落ち目で部員も数名で掛け持ちでやっている方ばかり。Nゲージのレイアウトはあるものの、手入れがされていなく酷い状況でした。
 新入部員は私を入れた同じクラスの3名。
 最初の文化祭は運転事故も多く悲惨なものでした。仕方ないのでレイアウトを作り直す事にしました。基本的にストラクチャー類は良くできていました。でも数年間手入れをろくにしていないレールや埃がたまり汚いシーナリーを撤去、一から作り直しました。
 文化系の部費は少ないのでバイトで稼いだ資金をつぎ込んだりしました。レールも張り替えシーナリーも自分たちの好みに作り替えたりして楽しみました。学校へは遊びに行っている感があり、そのお陰で休まず登校、充実した学生生活が送れました。
 1つ下の後輩も我々同様クラブに入り浸り、放課後は模型の運転を楽しんでいました。
 3年生になると修学旅行があります、場所は北海道で計画は2年生の終わり頃から始めました。
 その当時深名線の廃止が決定し「是非とも乗りたい」いうことになりました。しかし修学旅行の行動範囲は道南が基本。到底深名線など乗って札幌に帰ってこれらるわけもありませんので断念。「だったら春休みに行けば良い」ということで3月末に18キップによる無謀な旅の計画が持ち上がったのです。
 その当時は東京〜北海道の通称“黄金ルート”が存在。深夜新宿発のムーンライトで新潟・村上へ、その後ひたすら普通列車を乗り継ぎその日の夜に青森発のミッドナイトに乗車し札幌に向かう行路。
 あとは深名線に乗ってまた黄金ルートで帰る計画。北海道の普通列車の乗り継ぎが悪く2時間位待合室で待った記憶もあります。いくら暖房があるとはいえ春まだ浅い北の大地、寒かったです。
 黄金ルートで東京に着くと早朝、キップが勿体ないのでそのまま大垣夜行の返しで飯田線に乗りに。今考えてもとてつもない計画だったと思います。
 飯田線といえば某マンガを思い出す方も多いでしょう。流石に駅間競争はしませんでしたが乗車時間が半端じゃなく長いので疲れました。

 こういう人生を送ってきましたので就職先も鉄道関係を選ぶのが順当、でも私視力が悪く鉄道会社には厳しいと判断し鉄道工事会社に就職、現在に至ります。
 親友(鉄研部員)も鉄道関係会社に就職、こちらは某メーカーですが今も仲良くつきあっています。
 私の就職した会社には高校の先輩、しかも鉄研OBがいましてこれも何かの縁なのか?と思いました。仕事上鉄道に触れる機会が多く更にマニアとしてのめり込んでしまい収拾がつかなくなってしまいました。
 会社に入ってからも模型を買いあさった結果、学生時代は数100両だったのがあっという間に1000両を越えてしまいました。KATOから201系が発売されたのも大きな要因、結果今現在201系のNゲージは300両を越える始末。
 21世紀に入ってからはカメラを新調、レンズもそれ相応のものを使い本腰を入れて鉄道マニア人生を全うしている最中です。また2005年からはデジタルカメラを本格的に導入しホームページ制作や資料写真の撮影などに使用しています。
 2006年2月に発売された鉄道ピクトリアル(特集201系・203系)では写真の投稿を開始。最近では同誌で主に201系E233系関連の内容で写真や記事を掲載させていただいており、一層研究に没頭しています。
 以上が私の鉄道マニア人生、大分長くなってしまいました。でもほんの一部にすぎません。
 こんな私が運営している『西東京鉄道管理局』今後ともよろしくお願いいたします。
文章掲載2006-,一部追記2007-01-22

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