第19章 山陰歴史の旅

旅行日 平成 5年10月 9日

 今回は十月の三連休を使っての、久々の一人旅である。一ヶ月ほど前から、どこかへ行こうかと考えて時刻表と格闘してきたが、一泊二日ではどうしても無理があった。週休二日制のおかげで、一泊二日であれば、会社を休まずに好きな日に行けるのだが、二泊となると行く日が限定される。要は三連休でないとまずいのであって、自由に休めないサラリーマンの宿命である。

 「好きな日」の第一の条件は、雨の降らない日であるということだ。私にとって旅の楽しみの半分近くは、車窓風景と列車や駅を眺めることなので、雨に降られると楽しみが半減する。だから、雨が降りそうな時は無理に行かないし、混雑する時期以外は予約も当日しかしない。つまり、行き当たりばったりの旅である。
 第二の条件は、平日の月曜日を除いた日であるということだ。博物館の類は月曜日を休館日とすることが多いからである。ちなみに月曜日が祝日の場合は、翌日が休館日になっていることが多い。
 第三の条件は、安い切符が入手できる時期であるということだ。つまり「青春18きっぷ」などの期間限定の安い切符が使える日であることが条件となる。誠にみみっちい話であるが、できるだけ多く旅をするとなれば、ケチケチ精神でいくしかない。

 津和野・萩へは、山陰本線の鈍行列車に乗って行きたかったのだけれど、列車の接続が悪くて、観光する時間が少なくなってしまう。しかたがないので、山陽本線から山口線へ入るルートでスケジュールをたて、「津和野・萩フリーきっぷ」を買った。

 十月九日(平成五年)土曜日。見上げるとみごとな快晴で、朝のひんやりとした空気の中、奈多駅へと向かう。
 香椎線から、鹿児島本線の6時42分発、普通列車に乗り継ぐと、大きなカバンを持った旅行者らしい人と、通学客が多かった。しかし、今日は第二土曜日で学校は休みのはずなのだが、何かあるのだろうか。
 次第に乗客も増えてきたが、小倉に着くとほとんどの人が降りてしまい、車内はガラガラになった。まあ、ここら辺までは通勤で乗っているから見飽きた区間ではある。

 小倉を出てからしばらくは、工場の間をぬって走る。左手に響灘が見えてくると、東小倉実習線という立看板とまっすぐな線路が見える。運転手の練習用の線であろう。
 前方にサッポロビールの工場が見えてくると門司に到着。関門トンネルが開通するまでは大里と呼ばれていた小駅である。ここからは山陽本線となるが、列車はそのまま乗り入れる。五分後に発車すると操車場を移動するオハ50と並走する。

 関門トンネルを四分ほどで通過し、車両基地を眺めているうちに8時15分、下関着。ここで私の乗っている後部四両を切り離すというので前の車両に移ったが、景色を眺めるには不便なロングシートであった。
 電車は意外と広い下関市街を走り、山陰本線と分岐して田畑が見えるようになると新下関に到着。駅付近にだけホテルやビルが立ち並んでいたように思っていたが、今はそうでもないようだ。
 鈍行列車で山陽本線に乗るのは何年ぶりだろう。久しぶりに見る山陽路であるが、ロングシートでは旅情は湧かない。

 トンネルを抜け、新しい住宅地が見えてくると、城下町長府に着く。ここも、いつかゆっくりと回ってみたいところである。家から比較的近いものの、一度も行ったことがないところは意外に多いもので、いつでも行けるという気安さのせいであろう。
 海上自衛隊の航空基地がある小月に着くと、目の前に日清食品の工場が見える。ここで作られたインスタント食品を、今までにどのくらい食べてきたことかと思う。
 小野田、宇部駅付近は、大きい市でありながら、中心部から外れているため田園地帯が広がり、緑豊かな低い山々が連なっている。高い山々に囲まれると圧迫感があるが、低いと解放感があり明るい。

 左手から新幹線の高架が寄り添ってきて9時30分、小郡着。山口線の益田行は9時33分発なので接続は大変良い。いや、良すぎて駅をゆっくり眺められないのが残念だ。
 列車はキハ58とキハ28の二両編成で、ワイン色のモケット、蛍光灯と網棚はカバーをかけて見栄えを良くしている。車内に入って妙に暑いと思っていたら、なんと暖房がはいっている!? いくら山口線が山の中を走っていても、まだ十月の、しかも日中である。これには少し参った。

 この地域の線はチャレンジ2万Kmをやっていた十年前に乗ったけれども、家の屋根が赤銅色をしているのを不思議に思っていた。他の乗客も、
「屋根が赤いね」と言い合っている。それでも、最近は茶色や黒い屋根も多くなっている。
 小郡からしばらくは駅間距離が短いので、発車してはすぐに停車する。矢原を過ぎる辺りから山口市街が見えてきて、NTTのアンテナやホテルが遠望できる。いずれは、ゆっくりと回ってみたいが、今度の会社の旅行は湯田温泉の予定である。湯田温泉は山口市内である。

 山口で大半が下車したが、同数が乗ってきて満員になった。今は小郡町と山口市と別れているが、昔は一つの市であったと聞いている。そのせいか、小郡−山口間の列車本数は多く、普通列車が一日二十八本なのに対し、同じ山口市内である宮野−山口間は十八本である。
 宮野駅の、今は使われていないホームに可愛らしくコスモスが咲いている。そのホームも石積みが崩れ、いずれは土手となり自然に還っていくのだろう。
 山口の市街地もここまでとなり、宮野を過ぎると上り坂になって、心なしか窓からの風が冷たく感じる。いや、気のせいではないだろう。気圧計付の腕時計を見ると、どんどん気圧が下がっていくのがわかる。

 十年前に、今日とは逆向きで山口線には乗っているが、どんな線だったのか覚えていない。かすかに、山口市が県庁所在地の割には小さな街だな、と思ったぐらいである。写真を見ても車両と益田駅を撮っているだけであった。
 ところが、その時の旅行記を読み返してみると、「宮野に近づくにつれて、家が急に増えてくること」、「徳佐では標高二百九十八メートルのせいか少しひんやりしていること」、「津和野が、列車から見る限りでは、小京都のように見えないこと」など、箇条書きではあるが書いている。
 つくづく人間の記憶のいい加減さにあきれかえる。もっとも、これは私だけかもしれないが。旅行記にしても、未乗線区を踏破する事だけが目的のような時分だったので、しかたがないとは思うけれど、お粗末で少し淋しい。もう少し詳しく書いていれば良かったのに、と思う。

 仁保からは山々がいっそう険しくなり、ディーゼルカーもエンジンを唸らせてゆっくりと登っていく。この近くには、ここからは見えないけれどKDDの山口衛星通信所があって、一度は見に行きたいと思う。
 仁保−篠目間は上り坂で、駅間距離も八・七キロと長く、十八分もかかって登っていく。普通の半分のスピードである。
 篠目の次は長門峡で、地図を見ると駅から遊歩道が延びている。竜宮淵まで五・五キロ、徒歩二時間とある。バス停もあるので、片道にバスを使えば三時間ぐらいで往復できそうだ。紅葉の時分には賑わうのだろう。

 三谷で四両編成の特急「おき」と交換のために四分停車する。今度は、地福で普通列車と交換のために六分停車する。停車時間が長いのでホームに降りてみると、写真を撮っている人がいた。
 宮脇俊三さんのように、ダイヤにはあまり興味がないので、列車交換のたびに時刻表を見ることはない。けれども、ローカル線の鈍行は停車時間が長いので、待ち合わせの時間を利用して、ホームに降りたり、駅前に出たりできるので時刻表を見ることも多い。

 11時11分、鍋倉着。隣の乗客が、「あっ、姫りんごがある」と騒いでいる。見ると、小ぶりのりんごがたわわに実っている。ふーん、これが姫りんごなのかと思いつつ写真を撮ってみた。
 11時16分、徳佐着。どこかで聞いたことがあると思ったが、徳佐りんごの産地である。地図を見ると、りんご園がしっかりと載っている。
 津和野の街が左手に見えてきて、「あれっ」と思う。確か街は山口線の右手のはずなのだが。不可解なまま津和野に近づくと鉄橋を渡って、右手に町並みが見えてきた。

 11時31分、津和野着。切符を残す為に、改札で初めて無効印を押してもらった。何かの本で、「不正乗車に使われるので、無効印は押してくれない」と、書いてあったので今までは押してもらったことはなかったのである。
 駅を出ると、左手に貸自転車屋がある。津和野は小さな町だから、自転車が便利である。料金は一日乗っても八百円と安く、ちなみに一時間は百五十円である。手荷物も無料で預かってくれるので、さっそく中に入り手続きをして、ロッカー室に入ると、高校の下駄箱で使うような古ぼけたロッカーが置いてある。カギはなく、扉が外れたものもあるが、ようやく扉付きのロッカーを見つけて荷物を入れる。一応、ロッカー室には無断では入れないようだが、カギがないのが心配だ。

 ここで津和野町観光協会のパンフレットを買おうと百円を出すと、店の人が、 「え?」という顔をした。
「これなんですけど」と言って、積み重ねてあるパンフレットを指差す。
「札に100円と書いてあるから、そうなんでしょうね」と、とぼけたことを言う。これで店番なんだろうか。
 自転車は借りたものの、地理が今一つ分からない。とりあえず産業道路を走っていき、右へ曲がる。弥栄神社へ行くつもりだったけれど、いつの間にか行き過ぎてしまい、気が付くと太鼓谷稲荷神社であった。参道が赤い鳥居のトンネルになっている珍しい神社であるが、肝心の本殿は山の上なので入口で引き返す。

 リフト乗り場を捜したが見あたらず、津和野伝統工芸舎まで行ってしまった。地図の縮尺が曖昧なのと、案内板が少ないせいである。決して私が方向オンチではない、と思いたいのだが…。
 津和野高校近くの道を上ると、ようやくリフト乗り場にたどり着いた。五、六分で山頂に着くが、ここから城跡まで十五分かかる。どうして城跡の方にリフトを造らなかったのだろうか。
 標高三百六十七メートルの城山山頂に築かれた山城である「津和野城」は、三本松城とも呼ばれ、世間台からは赤銅色の石州瓦の町並みがよく見える。石垣しか残っていないが、四万三千石の小藩にしては、りっぱな城だったようだ。

 再びリフトで降りるが、上りとは全然印象が違う。今にも転がりそうで、下りの方が恐いのだけれど、反対側の女性客は上りですでに騒いでいる。
 リフト乗り場の近くに「津和野伝統文化館」がある。ロビーにアベックが一組いるだけの閑散とした展示室に入る。鷺舞や津和野おどり等のパネル展示が中心で、さしておもしろくもない。観光施設というより、町民の為の伝統芸能の練習場である。

 坂を降りて右手に曲がると、さっき折り返した「津和野伝統工芸舎」がある。ここでは手すき和紙の実演の他に、実際に和紙を作ることができるというので、ハガキ作りに挑戦してみた。
 観光客用のコンパクトな道具があり、これを使って作るのだけれど、職人さんの言われた通りに手を動かしただけであった。紙をすくった後に行う水抜きや乾燥は、機械がやってくれるので便利である。和紙が乾燥するまでに時間がかかるというので、他を見て回ることにした。

 道の反対側に「民芸館陣笠」がある。入館料を払いスタンプを押していると受付の人が、
「ずいぶんたまりましたね」と言う。
「いいえ、これはスタンプ帳ではないんですよ。スタンプだけでなく旅行中の出来事を書いているんですよ」
「好きなんですね。写真も一緒に貼るんですか?」
「はい、好きなんですよ。なかなか大変だけど。写真は切符や入場券と一緒に、ポケット式の写真帳に入れてます」と言うと、
「これもあげなきゃね」と言って、入館券をくれた。

 展示は民具が多く、なかなか見応えがあった。何かのテレビ番組でクイズに出された旅道具が、番組のパネルと一緒に展示してあった。できればもう少し、展示品の説明があれば良いのにと思う。
 民芸館を出るといい匂いがする。みやげを買うには早いが、匂いにつられて名物源氏巻きを買ってしまった。
 民芸館の写真を撮っていたら、フィルムがまだ残っているのに、カメラが勝手に巻き戻しを始めた。最近どうもカメラの調子がおかしくて、スイッチを入れただけでフラッシュが光ったりする。一度、修理に出した方がいいのだろう。

 工芸舎に戻りフィルムを買い、さっき作った和紙を受け取り、製作費を払う。
 「西周旧居」を見て、新橋を渡る。新橋から見える津和野川は石積みの護岸がされており美しい。
 橋の近くにある「亀井温故館」は、江戸時代藩主だった亀井家の別邸で、家宝が展示されているが、入館料が五百円のわりにはおもしろくなかった。
 途中、瓦屋根のきれいな建物があったので中をのぞくと、客の少ないパチンコ屋であった。ここら辺はどの建物もできる限り和風にしてあり、町並みの保護に注意しているのがわかる。

 観光客や車が多くなってきたと思ったら、「森鴎外旧宅」であった。観光バスの団体がごった返していて、ゆっくり見れそうにない。幸い、会社の旅行で来ることになっているので、今回はパスした。マリア聖堂も見ることになっているので、ここもやめておくことにする。その隣に「石州和紙会館」がある。ここも団体が多く、二階のみやげ物屋を見て、出る間際に「つまようじ入れ」を買った。

 津和野川沿いのサイクリングロードを走っていくと、津和野大橋の近くに「郷土館」がある。養老館の資料や、森鴎外・西周などの遺品・遺墨、地図・絵図の展示がある。なかでも鴎外の展示室は見応えがあって、とても良かった。もう少し見ていたかったものの、他にも回るところがあるので出てくると、左手に饅頭屋がある。昼食を抜いていたことを思い出し、おやつに買うことにした。「子鷺饅頭」といって、こしあんを薄いカステラ生地で包んである。
 津和野大橋の近辺にはコイが集まると聞いていたけれど、橋から見る限りでは魚は見えなかった。その津和野大橋も工事中でよく見えず、新しい欄干が少しのぞいているだけであった。

 よくテレビで紹介されるコイの泳ぐ堀割りのある通りが「殿町通り」である。残念ながら、時期ではないので花菖蒲は咲いていない。津和野のコイはもともと、非常食として藩が奨励したものらしいが、食料にされることはなく、今では八万匹にもなっているという。なんと人口の十倍である。
 その殿町通りに藩校「養老館」がある。門の左側は元の剣術道場で、民俗資料館になっており、武具や産業・民俗芸能が展示されている。門の右側は元の槍術道場で、町立図書館となっていて、女の子が一人で本を読んでいた。
 道を隔てた反対側にガイドブックに載っている「多胡家表門」がある。何の変哲もない門であるが、とりあえずくぐってみた。道路と道路の間にあるので、まるで殿町通りから産業道路へのドアのようであった。

 養老館の並びに「カトリック教会」があり、展示室にはキリシタン迫害の資料などが置いてある。教会の中に入ると、シスターのもと子供達がお祈りをしていた。教会の敷地内には幼稚園もあり、お祈りしていた子供達がここで遊んでいたようだった。
 時間があるのでしばらくぶらついていると、京都のように松方弘樹の店とか、梅宮辰夫の店を見つけた。観光地になるのはやむを得ないが、東京を持ち込むのはやめて欲しいと思う。

 日も暮れかけてきたので、津和野駅の横にある「津和野産業資料館」へ寄る。とりたてて何もないので来客も少なく、観光ビデオを見ながらひと休みする。
 昼食を食べ損ねてしまったので、少し早めの夕食をとることにした。ガイドブックに載っている店をいくつか寄ってみたが、閉まっていたり、高そうなところばかりだった。メインストリートから外れたところにある店で「山菜定食」を注文する。おかずは良かったが、ごはんはまずかった。

 時間は余っているものの、さすがに疲れたので森鴎外旧宅には行く気にはなれず、自転車を返しに行く。八百円を払いロッカー室に行くと、カギはかけていないのに、カバンはちゃんと残っていた。
 発車まで四十分ほどあるので電話をして、記念にテレホンカードを買う。

 ホームへ行くと高校生が多い。座れるのか心配になり、のりばに並んで立っていたが、山口線益田行の三両のディーゼルカーは、ガラ空きのまま17時42分に発車した。
 ホームで待っている間はなんとか景色も見えたが、今はもうほとんど見えない。「秋の陽はつるべ落とし」というが、その上、山間なので日が暮れるのが早い。顔を窓に近づけて、手で回りを覆う。こうやって外の様子を眺めていたが、疲れてしまい外を見るのはあきらめた。

 本俣賀を過ぎて、益田の市街地に入ると国道9号線と並走する。人口は四万程度であるが、街の灯がきらめいていて、都会のように見える。列車は大きく右へカーブして益田に18時26分着。
 福岡であれば今の時間帯は、まだ店が開いているので明るいのだが、駅前の商店街はほとんどが閉まっていて暗かった。メインストリートではないのだろうか、街灯もさして明るくなく人通りもないので、真夜中に来てしまったような錯覚を覚える。何だか不気味な感じがして、早くホテルに入りたくなった。

 ところが、そのホテルがなかなか見つからない。国道9号線の陸橋まで来て、もしや反対ではなかったのかと思い、あわてて駅まで引き返す。駅の看板にホテルまでの地図が載っていたので、もう一度確認をする。しかし間違ってはいなかった。実は、その陸橋を渡らなければならなかったのだ。何かどっと疲れが出て、妙に重く感じるカバンを肩にかけ、トボトボと歩き出す。
 「ステーションホテルダイエー」は小ぢんまりとしたホテルで、フロント係の愛想も良かった。

 十月とはいえ、日中は暑くて汗をかき、益田に着いたら冷や汗をかいたので、シャワーを浴びた。日に焼けたようで、顔が少しヒリヒリする。ひと段落ついたところでテレビをつけたが、チャンネルが少なく、おもしろそうなのがない。NHKが二つと民放が二つ、それと衛星放送で五チャンネルしかない。
 明日の予定を考えていると、良い案が浮かんだ。それは予定より一時間前の列車に乗って、とりあえず東萩へ行く。貸自転車屋が早く開いていれば借りればよいし、閉まっているのであれば近場を歩いて回ればよい。ホテルにいても何もすることがないのだから、早く移動しておいた方がスケジュールが楽になる。

 夕食が早かったせいか、お腹が空いてきた。しかたがないので、自動販売機でカップうどんを買って、部屋に備え付けのポットでお湯を沸かす。
 夜中、目が覚めたので、窓を開けてみる。開けてみて驚いた。星がすごくきれいで、オリオン座の近くに四十個ほども見える。点滅しながら少しずつ移動する人工衛星らしきものも見えた。


 翌朝、寝不足のまま身仕度をして部屋を出る。フロントには誰もいなかったが、管理人室から明かりが漏れていたので、ドアを叩く。中から、寝ぼけ眼のおじさんが出てきたので、部屋のキーを渡す。
 薄暗い街中を、新鮮な空気を胸いっぱいに吸いながら歩いていくと、昨日、陸橋から降りてきた階段の脇に、駅へ向かっていそうな道がある。時間があるので行ってみると、道は思っていた通り、商店街を抜け駅に続いていた。
 朝食に駅弁を食べたかったのだが売り子もおらず、キオスクも六時四十分開店で新聞さえも買えなかった。

 6時30分発、山陰本線下りの長門市行普通列車は、キハ30とキハ58の三両編成で、乗客はジャージ姿の学生と先生が七名、その他が四名、そしておまけが一名のたった十二人であった。もちろん、そのおまけは私のことである。
 薄暗かった空も明るくなってきた。今日も快晴のようだ。益田を出ると、左手に大和紡績の工場が見え、高津川を渡る。左手に益田競馬場が見えてきて、こんなところに競馬場が?と思う。後で知ったのだが、この地方競馬場には初の女性騎手がいるのだそうだ。

 地図を見ると、左手に蟠竜湖があるはずだが、列車からは見えない。右手にきれいな海岸線を見ながら、飯浦を過ぎると、トンネルに入り島根県と別れる。無人駅が多い中、江崎は交換設備があるせいか駅員がいて、ポケットに手をつっこんでボーッと立っていた。駅長かもしれないが、名札は見えない。
 宇田郷を過ぎたあたりで島が見える。手前に小高い姫島があり、よく見ると、その前に小さな赤島が見える。遠くには平たい宇田島が眺められる。今の時期の日本海は、波も静かで眺めも良い。ここは、北長門海岸国定公園である。

 列車は7時48分、東萩に到着。萩よりこちらの方が街の中心に近く、特急や急行も東萩には停車するが、萩は通過する。
 駅を出ると、左手に自転車を並べているおじさんが見えた。ここのレンタサイクルも一日八百円なのでさっそく自転車を借りる。

 少し前に見たテレビで知ったのだが、萩城内にある「花江茶亭」は茶室で抹茶を飲ませてくれるというので、どうしても行ってみたいところであった。この花江茶亭は、常磐島対岸の川手御殿にあった江風山月書楼の茶室で、萩城解体後、現在地に移されたものである。
 とりあえず萩城跡へと向かうが、開店まであと一時間ほどある。そこで「石彫公園」まで足を延ばす。ここには昭和五十六年に開催された萩国際彫刻シンポジウムに集まった作品が展示されている。芝生にいくつかの石が配置されているが、作者や題名は書かれていない。公園は柵もなくそのまま西ノ浜まで続き、指月山も眺められる広々とした空間になっている。

 時間は少し早いが、萩城跡へと向かう。途中、「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」があり、入館料は城跡と共通で二百円と安い。萩では最大の武家屋敷で、五十一・五メートルもあるが、ただ長いというだけで別に何もないので、端まで行って戻ってくる。
 内堀に架かるめがね橋を渡って、今は指月公園となった萩城に入る。天守閣跡に行くと、石垣が階段状になっていて、何か不思議な感じがしたが、いざという時に駆け登り易くしている為だという。ここは園内を自転車で回れるので、「梨羽氏茶亭」、「福原家書院」、「志都岐山神社」をざっと見て「東園」を一周する。

 「花江茶亭」に行くと、東萩ロータリークラブというハッピを着たおじさんがうろうろしている。立看板には「慈善茶会」と書かれ「抹茶 お菓子付 300円」とある。門の前にはテーブルまで置かれ、受付と書かれた紙がぶら下がっている。
 今日は何かあるのかな、と思いつつ中をのぞくと、門にある受付のおばさんが、
「どうぞ、お入り下さい」と言う。それで茶亭の庭に入ると、縁台に赤い布をかけたお茶席ができている。ハッピ姿のおじさんに、
「お茶をどうですか」と言われ、門の受付まで行く。お茶券を買う時に、
「今日は何かあって、入れないのかと思っていたんです」と言うと、おばさんは、
「今日は慈善茶会をやっているんですよ。いつもは四百円だけど、今日は三百円になっています」と言って、お茶券とパンフレットをくれた。

 さっそく茶室に上がり込むが、私が今日の初めての客であろう。クラブの人が甘納豆と殿様巻きとを載せた菓子皿と、お茶を持ってきた。甘納豆を食べ、一応お茶器を回して抹茶を飲む。
 相手をしてくれたおじさんとは、「風景を愛でることのできる日本人の繊細さ」、「微妙なニュアンスを伝えることが出来る日本語を大切にしていきたい」、そして、「こういったことを自分一人でもいいから持ち続けなければならない」などという、精神論や文化論を話し合い、意気投合した。また、こういった自然の中にいると気持ちが落ち着くと言っていた。城跡は造られたものではあるけれど、田園風景と同じでもう自然の一部になっているということだろう。城内を回っていた時に、家を見かけた。今でも人が住んでいるのかと聞いてみると、やはりそうであった。

 話をしていると、後ろで観光バスのガイドの声がする。花江茶亭の説明をしているようだったが、人に見られているかと思うと、少し緊張してしまった。観光バスで来ていれば、ここに上がることはなかっただろう。
 三十分も話し込んでいたので足が痛くなってきた。話も区切りがついたので、そろそろお暇をしようとすると、
「もう一杯、飲んでいきませんか」と言われ、御馳走になる。これを期におじさんも足を投げ出して、
「これはたまらん」と言っている。それもそうだろう。こっちは畳で、おじさんは板張りに正座していたのだから。こちらも立ち上がった時に転ばぬように、足首を揉んでおく。
 花江茶亭を辞して庭園を見て回る。有意義な時間を持てたことで、気分がとても良くなっている。庭園ではいつの間にか、何人もの人がお茶を飲んでいた。

 片道二十分で頂上まで行けるというので、標高百四十三メートルの指月山まで登ってみることにした。登り口には看板が立っていたが、道は草に覆われていて定かではない。
 土砂崩れで足一本分の幅しかないところもあって非常に危なく、草むらを分け入ってようやく山頂までたどり着いた。山頂には陸と海の監視を行っていた詰丸跡の石垣が、わずかに残るだけで往時の面影は少ない。
 頂上に出れば展望が開けると思っていたのだが、緑豊かな木々のせいで視界が遮られている。その上に霞がかかっていて市街はよく見えなかった。天気も良いし観光客も多いのだけれども、山に登る人には一人も出会わなかった。

 萩城跡を後にして、「萩資料館」へ寄る。藩政時代から明治維新までの長州萩の文化遺産が展示されているが、おもしろくはなかった。
 堀に沿って追回し筋へと向かうと、「江風山月書楼跡」がある。花江御殿とも呼ばれ、お茶を飲んだ花江茶亭はこの屋敷内にあったものだ。「旧二の宮家長屋門」や「口羽家住宅」を見ていくと、鍵曲りの追回し筋に出る。ここでは地べたに座り込んで絵を描いている人がいた。土塀を見てみると、石垣の組み方が違っていたり、崩れた土塀の中から、瓦がのぞいているものもあった。

 新堀川に架かる「平安橋」は、玄武岩の吊り桁・定着桁を備えたゲルバー橋脚という珍しい構造だというが、どこがどのように珍しいのかよくわからない。
 「村田清風別宅」を捜したが見つからず、うろうろしているうちに道に迷ってしまった。市民球場を見つけたので、なんとか現在位置を確認できたものの、これでは先が思いやられる。名所・旧跡を捜すのに骨が折れそうである。
 市民球場からすぐのところに「江戸屋横町」があり、観光客がごったがえしている。ただでさえ狭い道なのに、自転車や車までもが入り込み騒々しい。

 「青木周弼旧宅」を通り過ぎ、「木戸孝允旧宅」をのぞく。旧宅には今も人が住んでいる為か、見学不可が多い。もっとも、見学ができるところも室内には入れず、外側から部屋を眺めるだけであるが。
 「菊屋横町」は、「日本の道100選」にも選ばれたぐらいだから、情緒あふれるいい通りのはずだが、人が多いので道を眺めることが出来ない。この通りには「高杉晋作旧宅」があり、しっかりとのぞいてきた。「田中義一銅像」を見て、外濠公園を捜すが、細い路地が入り組んでいて、結局、見つけられなかった。美しい土塀の通りに「益田家老長屋」「旧周布家長屋門」が並び、ここが現代とは思えなくなってきた。

 お腹も空いたので、「海岸通り」という喫茶店に入り「ハンバーグセット八百八十円」を注文する。出来上がるまでに、これからの予定をたてることにするが、見るところは決まっているので、地図上で最短経路を捜すだけである。
 再び自転車を走らせて、「北門屋敷」「旧毛利別邸門」を見て回る。萩高校の敷地内に、「萩学校教員室」がある。明治二十年ごろに建てられた、市内では珍しい白ペンキの二階建ての洋風建築である。見学不可になっているが、今でも教員室として使われているのだろうか。隣の校舎からはドラムの音が聞こえてくるけれど、木造の校舎には似合わない感じがする。

 「明倫館跡」に行くと運動会が行われているのか、校庭では歓声が上がり、体育館では球技大会が行われていた。明倫館は、家臣の子弟のために設けられた藩校で、八歳から四十歳までの人が学んでいたという。今では有備館と水練池しか残っていないが、当時は五ヘクタールもの敷地を占める大規模なものだったらしい。
 「有備館」の建物は明倫小となり三棟ほど残っているが、よく見ると窓はアルミサッシに変わっていた。日本初のプールといわれる「水練池」だが、邪魔にならないので残っているだけで、今はもう汚い池となり果てている。水泳だけでなく水中騎馬用ということもあり、馬が入りやすいように中央に階段が設けられている。その脇に建っている倉庫みたいな建物が、「聖賢堂」であった。

 道を隔てた反対側には有備館とは対照的に、モダンな市役所や市民館が建っている。その並びにある「萩市郷土博物館」へ行くと休みである。ガイドブックをよく確認しなかったのも悪いが、日曜、祝日が休みというところも珍しい。近くにある、「民俗資料館」も休みであった。
 松本大橋を渡って「伊藤博文旧宅」へ行く。日本の初代総理大臣であるが、松下村塾では優秀ではなかったらしい。場所は松陰神社に近いが、観光バスが来ないせいであろう、来客は少なかった。

 「松陰神社」は名前の通り、吉田松陰が祭られている神社で、観光客が多い。境内にある「松陰遺墨展示館」に入り、歴史の勉強をする。学生時代は暗記が苦手なため、歴史は嫌いだった。しかし、最近はこういった資料館や旧跡を目の当たりにすると、多少とも興味が湧いてくるから不思議なものである。
 吉田松陰はよく旅に出ており、九州へも何度か行っている。全国各地に遊学するなど大変な勉強家でもあったようだ。密出国を企てて失敗し野山獄に移され、さらに病気保養のため父杉百合之助宅で謹慎となった。東端の三畳半の間が幽囚部屋にあてられ「吉田松陰幽囚旧宅」と呼ばれている。

 「松下村塾」が意外と小さいのには驚いた。杉家の物置小屋を八畳間に改築しただけの質素な建物で、ここには明倫館にも入学できない下級武士の子弟が多かったという。ここからは、高杉晋作、久坂玄瑞らが巣立っていった。松下村塾の近くに、「親思うの碑」が建っている。「親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何ときくらん」という有名な句が刻まれている。
 「松陰歴史館」には等身大のロウ人形の展示があるが、入館料が五百円と高いのでやめ、「松陰記念館」に行くと閉まっていた。

 再び街中に戻り田町アーケードへ行くと、入口にUFOビルが建っている。何がUFOなのかわからないが、UFOビルと書いてある。あまり大きくもないアーケードを通り、右折していくと「光國本店」がある。「萩の薫」という夏ミカンの皮の砂糖漬けが有名だというので寄ってみたが、すでに売り切れであった。
 以前に読んだ「旅の手帳」という雑誌に、萩の散策記事が載っていた。是非とも見てみたいと思った所があったはずなのだが、それがどこだったのか覚えていない。持ってくるのを忘れたのが悔やまれる。

 朝早くから回っていたので疲れてしまった。一度ホテルへ行って休もうとしたが、四時前なのでまだチェックインできないという。やむを得ないので、藍場川を見ることにして自転車を走らせる。
 この藍場川には、コイが泳いでいる。昔は水上交通路で、道路と家の間の石橋は高くなっていて小船が通れたという。川沿いに自転車を走らせていると、ハッピ姿の連中がみこしを担いでいる。近くで母親に連れられた小さな女の子が、「落ちろ、落ちろ」と騒いでいる。見ていると、みこしを担いだまま藍場川に前の担ぎ手が落ち、そして、とうとう全員が川に落ちた。聞いてみると、この地区だけの小さなお祭りだという。何のお祭りだったのか聞くのを忘れたが、落ちた時にコイを踏まないものかと思う。

 そろそろバテてきたので、自転車を返してタクシーで笠山へ行くことにした。東萩駅でタクシーを捜すと、一台だけ停まっていた。往復三十分ぐらいだと言うので、料金も高くはないだろうと乗り込む。
 運転手は長門市から萩へ来た人であった。市内を見物していると、タクシーに乗って回っている観光客を多く見かけた。聞いてみるとやはり多いらしく、東萩駅でも一台しか停まっていなかったし、運転手もちょうど客を降ろしたところだったという。私は運良くタクシーに乗れたが、一歩遅ければ待たなければならないところだった。
 笠山へ向かう国道191号線は妙に渋滞していて、メーターが気にかかる。三十分というので、三千円ぐらいかと思っていたが、この調子だと五千円は越えそうな気がして不安になる。

 途中、萩反射炉が見えると、運転手はガイドを始めた。「萩反射炉」というのはいわゆる溶鉱炉で、建設を中止したままになっているという。現存する物としては伊豆の韮山とここだけだそうだ。裏日本には旧跡が多いという。どうしてかというと、戦災を免れていることが理由の一つだそうで納得がいく。
 話をしているうちに笠山の頂上へ到着し、タクシーはほぼ満車の駐車場の端に停まった。メーターはどうするのかな、と思っていたら、運転手はレバーを倒してメーターを止めた。

 展望台からは六島が見えるというので行ってみたが、霞がかかっていて見えない。笠山は高さ百十二メートルの成層火山で、頂上の噴火口は世界最小の噴火口の一つといわれている。もちろん今は死火山で、山というよりは小高い丘のように見えるが、小さいとはいえ直径三十メートル、深さ三十メートルの火口が、赤茶けた肌を見せているから正真正銘の火山である。
 メーターは止めてはいるが、長いこと待たせるのは少し気が引けるので急いで戻ってみると、運転手は駅弁を食べていた。こんなことなら、もう少しゆっくりすれば良かったと後悔した。

 三月になれば、この山には一面にツバキの花が咲きほこり、見事だという。ちなみに、萩の名はツバキのツがとれて、ハギになったといわれている。明神池は塩水湖で海の魚がいる。ここで写真を撮っていたらフィルムがなくなったので、あわてて売店で買う。
 冷たい風が吹くという「風穴」に行ってみたが涼しくない。看板には、「笠山を形造っている多孔質の溶岩に、雨水や地下の海水が浸透し、蒸発する時に熱を奪うため温度が低くなるといわれています。真夏でも大体十度前後の温度です」と書かれている。
 喉が乾いていたのでウーロン茶を二つ買い、運転手にも渡す。ホテルまで行って往復四十分ぐらいだったが、料金は三千二百九十円だった。

 四時過ぎに「ホテルオレンジ」にチェックインする。ここは、四、五日前に宿泊の確認の電話があった。台風が来ていたからであろう。宿泊代を払うと、所持金が五千円ほどになり、明日、郵便局が開いていなかったら、と不安になる。
 汗をかいて気持ちが悪いのでシャワーを浴びると、ようやくひと息ついた。今さら見て回る時間はないのでしばらく休憩し、五時半ごろ街中へ出て食事処を捜す。ガイドブックに載っていた店を捜すが見つからず、田町アーケードまで来てしまった。アーケードをぶらついて「萩食堂」に入ると、客は誰もいなかった。萩というのはとりたてて名物料理がないので、八百円の長州うどん定食を注文する。いわゆるなべ焼きうどんであるが、とてもおいしかった。しかし、どうやら閉店間際に入ったらしく、悪いことをしてしまったみたいだ。

 店を出ると、まだ六時半なのに、通りのほとんどの店がシャッターを降ろしていた。ホテルへの帰りは別の道を通ったが、福岡ではあまり見かけない自動販売機があって、こういう些細なことでも、よその土地に来たのだと感じることができる。
 ホテルへ戻り、明日の予定をたてる。やはり疲れているので、観光は午前中で終わらせ、帰りは急行「さんべ」に乗ることにした。
 テレビをつけ、部屋の点検を始める。ホテルの案内書には、一階にあるレストランのビール一杯無料券が数枚入っていたが、ハブラシはなく、テレビもタイマーが付いていた。必ずと言ってもいいほどホテルの部屋にある聖書もなかった。観光を中心にした旅行をすると、夜にすることがなくて、暇を持て余してしまう。しかたがないので、早過ぎると思いつつも八時に床に入った。すぐに眠ったものの、夜中に何度も起きて寝返りをうつ。


 居眠りをするので、出来れば眠った方がいいのだろうが、とうとう四時に起き出して旅行記のメモをまとめることにした。音楽が聞こえてきたので、時計を見ると六時であった。
 七時過ぎにホテルを出て、東萩駅へ向かう。キオスクで新聞を買ってしばらく読み、自転車を借りに行く。昨日、借りたところはまだ開いていなかったので、別の店に入る。

 松本川の河口に「鶴江の渡し」がある。浜崎から対岸の鶴江を結ぶ渡し船で、残っているのはここだけということなので行ってみた。待合室があって、対岸に渡し船らしい小舟が見えるのだが、船頭がいない。待合室にも客らしい人がいないし、もうなくなってしまったのだろうか。しかたがないので港の方へ自転車を走らせる。
 菊ガ浜商港は大型の漁船が魚を荷揚げしていたり、釣客も多くにぎやかだった。浜づたいに走っていくと「女台場」がある。婦人たちが中心になって築いたので、この名が生じたという。

 ガイドブックに載っているので、「鉄腸文庫」を捜したがなかなか見つからない。よく見ると浜に建つ倉庫のように見えた小屋がそれであった。余りにもみすぼらしい建物なので入る気になれず、白砂青松の菊ガ浜沿いの道をサイクリングする。
 「橋本川河川公園」を見て、「山県有朋誕生地」に行く。住宅地の中にひっそりと碑が建っている。橋本橋を渡り、「金谷天満宮」に寄り道をして、萩駅を見に行く。東萩駅とは比べようもないほど、みすぼらしい駅である。普通なら、東とか西が頭に付く駅の方が小さいものだが。

 橋本橋を写そうとしたら、またフィルムが巻き戻しになった。カメラの調子の悪さに、「もう、いいがげんにせえよ」と言いたくなってくる。
 夏みかんジュースを飲んでみたかったので、藍場川沿いにある「藍場庵」へ行く。あまり愛想は良くなかったが、通りを眺められる部屋で飲む夏みかんジュースはさっぱりしていておいしかった。和室でゆっくりくつろげて三百円は安い。昨日、藍場川で見たお祭りのことを聞いてみると、近くにある今は鳥居しか残っていない厳島神社のお祭りだという。

 のんびりと自転車を走らせて田町アーケードの「しらがね白石書店」へ行く。ここでは独自に作成した「萩城下町地図」があるので記念に買う。九時を少し過ぎたぐらいだが、半分ほどの店は開いている。私と同じ早寝早起きの商店街である。
 郵便局でお金を降ろして、地方限定販売のハガキを買った。しかし、今日は振替休日である。うっかりしていたのだが局員は、
「今日は取り扱わないのですが」と言いながら、ハガキを売ってくれた。
「すみません。ありがとうございます」と言って郵便局を出る。

 途中、市営住宅らしい鉄筋コンクリートの建物が建築中であったが、瓦屋根であった。 津和野と同じように、街並みには神経を使っているようだ。
 昨日、買いそびれたので光國本店へ寄ってみたが、萩の薫はやはり売り切れであった。
 「熊谷美術館」は、藩の御用商人熊谷家の豪邸をそのまま美術館にしたもので、展示品は三つの蔵に収蔵されており、シ−ボルトが寄贈した日本最古のピアノが展示されている。主屋の軒下には、水琴窟があったりして、優雅な生活が偲ばれる。部屋に立てかけてある説明板は、説明文が薄くなっていてよく見えない。あまりゆっくりもしていられないので、美術館を後にする。

 次は「菊屋家住宅」に寄る。代々藩の御用商人を勤めた豪商の家で、江戸時代前期の造営である。内部は外から見るよりも随分と大きく、造りも立派である。展示の仕方も判り易く、ところどころに説明員が配置されており、質問にもきちんと答えてくれる。展示品や屋敷から往時の暮らしぶりが偲ばれる。
 朝食を食べていないので、菊屋家の隣にある茶店に入る。注文をして、カメラのフィルムを入れ換える。途中でフィルムが巻き戻しになったと思っていたが、実は十二枚撮りだった。店のおばちゃんが間違ったのだろうが、少し腹が立つ。注文した「きのこかまめし」は、割合おいしかったが、千五百円は高いと思う。デザートのバナナには、「サカクラ 215」のシールが付いていた。一房二百十五円で買ったのだろうが、思わず笑ってしまう。食べていると、アベックが入ってきて、ビールとおつまみを注文している。ビールは判るが、おつまみとは。スナックではないのだから、そんなものがあるわけがない。それでも店のおばさんは、文句も言わずに何かを作っていたようだ。

 食事を済ませて、東萩駅へ戻る。駅前に地下道があったので地下街があるのかと思ったが、単なる通り道だった。
 色々と回ってみて思うのだが、ガイドブックには悪いことは書いていない。もちろんスポンサーになっているからであろうが、それでは役に立たないと思う。ペ−ジを埋めるだけよりは、取材をしてみて良いところだけ載せればいいのにと思うのだが、やはり無理な注文であろう。

 東萩では三十数人が列車待ちをしていた。多分座れるとは思うが何両編成で来るのか分からない。ホームに並んでいると、山陰本線下りの急行「さんべ」は二両編成で定刻に到着し、二十人あまりが降りてきた。
 列車は全員が乗っても立客はおらず、ところどころ空席が見えるまま、12時09分に東萩を発車した。

 地図帳を片手に外を眺めているうちに、予想通り居眠りをしてしまった。せっかくの良い景色なのに、残念なことをした。さすがに長門市からは座席はほぼ埋まったが、それでも百八十人ぐらいだろう。道路よりは高いところを走るので眺めは良いし、ゆっくりできるのが汽車旅の良いところだと思うが、利用者は少ない。そんなことを考えているうちに、下関に14時11分着。ここからは幹線になるせいか、普通列車に変わるせいか、乗客がドッと乗り込んできた。
 下関の操車場にレ−ルバスみたいな列車が一両見える。工事用の車両であろうか、それとも山陰本線の単行用であろうか。列車は四、五分遅れて小倉に到着。ありがたいことに、快速もそれなりに遅れていたので間に合った。

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