ホーム


 論文 「三位一体のカテキズム」完全版 PDFファイル  


以下は論文からの抜粋です。




問 三位一体は人間には理解できない教理ですか。
答   そうではありません。それは唯一のまことの神は私たちが信じることができるほどに理解できても、なお私たちは神のすべてを完全に理解できないことと同じです。人間が完全に理解できる神は、まことの神ではありません。
ヨブ11:7(注1)
「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限
 を見つけることができようか。」
詩篇145:3
「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測
 り知ることができません。」

注1 カテキズム中の聖書本文は新改訳聖書(日本聖書刊行会1970年)から引用させていただきました。ただいま引用の報告を提出中です。

    本サイトはWooden Soldier SoftwareのフリーソフトFAQ Builder ver1.1を用いて作成いたしました。


はじめに <三位一体のカテキズム>

    表題の「カテキズム」とはいわゆるQ&A形式で学ぶ聖書の教理テキストのことです。ものみの塔の教えを学ぶ方は「三位一体」が聖書の教えでないという刷り込み教育を受けます。しかし聖書の中にある「三位一体」が本当にわかると、いままであれほど価値があるように思っていたその「特別な知識」が輝きを失い、その呪縛から解き放たれ、神の救いがよりいっそうわかるようになると信じます。このページはものみの塔の教えから開放されたい方のため、また「三位一体」を知りたいと願うすべてのクリスチャンのために作成しました。最初からじっくりお読みくださることをお勧めします。
2004年 著者 阿部起士

ホーム

 目 次 


T.三位一体とその起源について

U.神が霊であることと三位一体について

V.キリストの完全な神性について

W.キリストが父なる神から生まれたことについて

X.父なる神とキリストの区別について

Y.聖霊について

Z.聖書が示す三位一体について

[.三位一体の私たちに意味すること


ホーム

三位一体のカテキズム


T.三位一体とその起源について


問1  三位一体という言葉は、聖書には出てきません。また聖書の中でそのような教理は組織立てられていませんが、聖書的なものですか。

答   聖書の中に、その言葉はありませんが、三位一体の思想、あるいは教理は、初めから旧約聖書にも新約聖書にもあります。三位一体は、聖書を通して、神ご自身が啓示されたものです。人間の思考力が用いられたとはいえ、三位一体は、聖書研究を通して、聖書のみから、知らされたものです。三位一体が組織立てられ、定式化されたのは、2世紀後半から4世紀後半のことですが、そのような必要があったからです。


問2  その必要とは、どのようなものですか。

答   新約聖書の中では、キリストを神として礼拝しているのですが、神はひとりであるという唯一神教において、どう調和できるのかということに他なりません。もし三位一体でないなら、キリスト教の礼拝は、偶像礼拝になってしまいます。
申命記6:4
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとり
 である。」

黙示録 5:8
「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長
 老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを
 持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りで
 ある。

黙示録5:12−14
「彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知
 恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい
 方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆ
 る造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを
 聞いた。 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄
 光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメ
 ンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」



問3  どのような歴史があったのですか。

答   1世紀はイエス・キリストが歴史上に現れ、救いの道が開かれ、使徒たちや弟子たちによって伝えられ、さらに1世紀末までには、新約聖書が啓示として教会に与えられました。(正典化は2世紀後半からです。)1世紀、2世紀のキリスト教会はイエス・キリストを最初から神として礼拝しました。(注2)

 2世紀前半(AD95年から150年頃まで)の使徒後教父たち(使徒たちと面識のあった生き証人)は、真剣な信仰と敬虔を単純に表明し、教理を体系立てることはしませんでした。初めて、神の三位格を主張し、それらが実体的に一つであることを唱えた最初の人は、2世紀後半から3世紀前半の教父テルトゥリアヌスです。(注3)

注2 キリスト教の残っているものとしては最古の説教であるローマのクレメンスの第二の手紙(おそらく1世紀末か2世紀前半のもので著者は不明)の中には「われわれはイエス・キリストを神とみなさなくてはいけない。」と記されています。(この資料の日本語訳は荒井献他訳『使徒教父文書』聖書の世界 別巻4(講談社 1974年)93頁にあります。)
 また、異教徒であったビテニヤの長官プリニウスは、AD112年にローマ皇帝に対して出した手紙の中で、「キリスト教徒は日の出まえに集まり、神に対するごとくにキリストに讃美歌を交唱し」と書いており、またキリスト教徒は異教の神々の像を崇拝したり、皇帝に神的栄誉を帰することを拒んだこと示しています。(この資料の日本語訳はF・F・ブルース『イエスについての聖書外資料』(教文館 1981年)31, 34頁、またはH・ベッテンソン編『キリスト教文書資料集』(聖書図書刊行会 1962年)24頁にあります。)
 またスミルナの長老ポリュカルポスは、AD155年頃殉教しましたが、その伝記がその後まもなくして書かれました。その中には「われわれは神の御子なるキリストを尊び、キリストを礼拝する。」と記されています。(この資料の日本語訳は荒井献他訳『使徒教父文書』聖書の世界 別巻4(講談社 1974年)166頁にあります。)


注3 キリスト教会の歴史については以下の本が参考になります。
E・E・ケァンズ『基督教全史』(聖書図書刊行会 1957年)
丸山忠孝『キリスト教会2000年』(いのちのことば社 1985年)
三位一体の教理の歴史については以下の本が参考になります。
ルイス・ベルコフ『キリスト教教理史』(聖恵授産所1993年)





問4  ものみの塔の書籍には、いろいろな文献が引用され紹介されています。それによると、テルトゥリアヌスは、三位一体を否定したように書かれていますが、どうですか。

答   ものみの塔の書籍の、文献引用の仕方には、問題が多いことが明らかになっています。(注4)
 部分引用の仕方によっては、著者の意図が変えられます。文献の引用部分の前後を、見せていただいてください。

注4 以下の資料が明らかにしています。
ウィリアム・ウッド著『エホバの証人の反三位一体論に答える資料集』(いのちのことば社 1992年)
ウィリアム・ウッド著『エホバの証人の反三位一体論に答える』(いのちのことば社 1990年)59, 60頁




問5  位格という言葉は聖書にありません。ものみの塔は、三位一体はギリシア哲学からの借用と言っていますがどうですか。

答   そうではありません。2世紀後半の教会も、迫害の中にありました。その中で、キリスト教を弁証して、擁護したのが教父たちでした。キリスト教を、当時の哲学の用語を用いて表現し、知識人たちに受け入れられるように合理的に論じたのですが、その内容は不十分とは言え、キリスト教そのものでした。


問6  三位一体(さんみいったい)とはどのような教理ですか。

答   唯一のまことの神には、一つの本質を持った、三つの位格があるということです。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神です。三位の「位」とは位格のことで、一体の「体」とは本質のことです。三位は神の人格の区別性を、一体は神の本質の統一性を示しています。(注5)

注5 三位一体の教理については以下の本が参考になります。
ヘンリー・シーセン『組織神学』(聖書図書刊行会 1961年)
ウィリアム・ウッド『エホバの証人の反三位一体論に答える』(いのちのことば社 1990年)




問7  位格とは何ですか。

答   神の人格のことです。唯一のまことの神には永遠に固有の三つの人格的区別があります。それを三位(さんみ)と呼んでいます。一つの位格は、他の位格と永遠に関係を保ちながら、それぞれ固有の立場と職務を持っておられます。そして、これら三位格は、人格的固有性によって区別されますが、一つの本質を持っておられます。すなわち、父なる神は本質として完全な神性を持たれ、子なる神も本質として完全な神性を持たれ、聖霊なる神も本質として完全な神性を持っておられます。それで三つの神ではなく、ひとりの神です。


問8  神の本質とは何ですか。

答   神の実体のことです。神のご性質(属性)の根底にあるもの、神の実在そのものを指しています。実体とは神の体のことではありません。神は霊ですから、空間に限定された体をお持ちになりません。唯一のまことの神は、霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。ですから、三位一体とは一つの体ではなく、一つの本質と三つの人格的区別を持ったまことの神のことです。
ヨハネ4:24
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって
 礼拝しなければなりません。」



問9  三位一体は人間には理解できない教理ですか。

答   そうではありません。それは唯一のまことの神は私たちが信じることができるほどに理解できても、なお私たちは神のすべてを完全に理解できないことと同じです。人間が完全に理解できる神は、まことの神ではありません。
ヨブ11:7
「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限
 を見つけることができようか。」
詩篇145:3
「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測
 り知ることができません。」



問10 ものみの塔は、古代における諸民族の三つ組の神々が、キリスト教の三位一体の起源だと言っていますが、それは事実ですか。

答   そうではありません。古代における異教の三つ組の神々は、ひとりの神でもなければ、実体において一つでもありません。三位一体とは異質のものです。三位一体は聖書を起源として、教父たちによって語られ、その定式化は、教会を異端から守るためでした。


問11 どのような異端から教会を守ったのですか。

答   3世紀のモナルキア主義(単一神論)という異端は、神の唯一性を強調するあまり、人間イエスが神の力を受けて徐々に神的な者にされたので、イエスは本質的に完全な神性を持たない者とされました。この考え方では、キリスト教を偶像礼拝にしてしまいます。ものみの塔は、これとよく似ています。
 もう一つのサベリウス主義(様態論)という異端も、神の唯一性を強調するあまり、キリストの完全な神性は認めましたが、三位格は唯一の神が自分自身を、三つの様態で現したのだとしました。この考え方では、キリストの十字架は、父自身が十字架にかかったことになります。これは、十字架上で、「父よ」と叫んだ時、天にいた相手は誰か、という問題を引き起こします。
 三位一体は、この二つの異端を退け、キリストは完全な神性を持ち、かつ、キリストは父なる神とは人格が異なることを述べています。


問12 三位一体の定式化はどのように起こったのですか。

答   4世紀になって、キリスト教が迫害にもかかわらず、帝国全体に拡大してきたのを、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、政治に利用するために、313年にミラノ勅令によって公認宗教とし、迫害政策から、融和政策へと転換しました。国家側からの迫害は、教会を一致させていましたが、脅威が無くなった結果、三位一体の神学論争が起き、公式見解を出す必要が生じました。
 4世紀の異端は、モナルキア主義の一種である、アリウス主義と言われるものでした。唯一神とみ子を区別し、み子は父によって無から創造されたため、それ以前は、存在していなかったとしました。み子は永遠でなく、神的であるが、完全な神性はなく、造られたものの中で最も大いなる者であり、かつ最初の者であり、み子を通して世界が造られたとしました。ものみの塔と同じ主張です。(注6)
 これに対して教父アタナシオスは、キリストには完全な神性があるとして、このアリウス主義と論争が生じました。結果として、アリウス主義は退けられて、三位一体は定式化されました。

注6 ものみの塔は、イエスが、エホバ神によって最初に造られ、唯一、エホバ神に直接造られたものであるとします。(イエスは被造物)ヨハネ3:16「独り子」、コロサイ1:15「全創造物の初子」、黙示3:14 「神による創造の初めである者」がその根拠だとしています。さらに、イエスが創造された後、イエスは他のすべての被造物を造る手段としてエホバ神に用いられたとします。またエホバ神がイエスを生み出された後、イエスは地上の人間になる前に、長い期間を天でエホバ神と共に過ごされ、み子は計り知れない長い年月にわたる密接な交わりを通して、み父エホバのようになったとします。イエスは被造物であるから、神よりも劣ったものとして、創造された当初はあったが、交わりを通して後天的に神性を付与されたとするのです。




問13 教父アタナシオスが、キリストの完全な神性を主張したのはなぜですか。

答   聖書研究の結果、彼は、人の罪が赦され、救われるには、神との結合が不可欠と考え、キリストが神であるから、十字架を信じるだけで救われると考えたのです。彼は、十字架の贖いの、価値の大きさを、正しく評価しました。それで彼は、キリストの完全な神性を主張し、三位一体を擁護しました。
 一方、ものみの塔は、キリストの完全な神性を認めず、被造物としますから、キリストの贖いの価値は、小さくなります。結果として、キリストを信じるだけで、救われないことを意味しています。ものみの塔の福音は、キリストの贖いによる救いではなく、組織への忠誠という行いにより、終末の時に生き残るという、見込みです。


問14 どのようにアリウス主義は退けられたのですか。

答   皇帝コンスタンティヌスは、325年、ニカヤ総会議を召集しました。そこで、三位一体を擁護したアタナシオスは、父なる神とキリストは異なる人格であり、かつ、父なる神とキリストは同一本質であると主張しました。二ヶ月の討議の結果、アタナシオス派が勝利を得ました。この会議で制定されたのが、原ニカヤ信条です。


問15 原ニカヤ信条(325年)はどのような信条ですか。

答   以下の信条です。(磯部訳(注7))

われらは、唯一の神、全能の父にして、
見えるものと見えざるものすべての創造者を、信ず。

われらは、唯一の主イエス・キリストを、信ず。
主は、父から生まれた神の独り子にして、父の本質より生れ、
神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られずして生れ、
父と同一本質であって、天地の万物はすべて主によって創造された。
主は、われら人類のためまたわれらの救いのために下り、
そして肉体を受け、人となり、苦しみを受け、三日目に甦り、
天に昇り、生者と死者とを裁くために来たり給う。

またわれらは、聖霊を、信ず。

それゆえ、主に存在しない時があり、生まれない前はおられず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或いは異なる実体より成り、造られ、
変化しうる者である、と宣べる者らを、
公同なる教会は、呪詛排斥する。

注7  カテキズム中の信条翻訳は以下の本から引用しました。
磯部理一郎編『わたくしたちの信条集』(ナザレ企画 1994年)




問16 原ニカヤ信条の最後において、アリウス主義は呪詛排斥されていますが、ものみの塔はどうですか。

答   この信条は、キリスト教の信仰の根本を指し示す、重大な「標識」の役目を果たしています。ものみの塔にも適用され、キリスト教とは区別されます。初期のキリスト教会は、堕落または背教して、三位一体の教理を、異教から借用し、真理をゆがめたと、ものみの塔は主張しています。その主張の理由は、ここにあります。しかし、エホバの証人の方たちを愛さず、彼らに福音を誠実に証ししない理由にはなりません。
マルコ16:15
「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行
 き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
コロサイ1:23
「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立っ
 て、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に
 踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のす
 べての造られたものに宣べ伝えられているのであって、この
 パウロはそれに仕える者となったのです。」
Uテモテ2:24, 25
「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優
 しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で
 訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与
 えて真理を悟らせてくださるでしょう。」



問17 原ニカヤ信条には、聖霊のことがほとんど触れられていません。

答   アリウス主義は、聖霊は被造物としましたが、アタナシオスは、聖霊は父と同質であると主張しました。しかし、大きな議論になっていなかったため、この時点では信条には盛り込まれませんでした。


問18 ニカヤ総会議(325年)の決定は、皇帝コンスタンティヌスの政治圧力によるものですか。

答   そうではありません。皇帝が最終的に権威をもって裁定を下したのは事実ですが、それは会議の結果を覆したのではなく、会議の合意を権威によって認め、論争を終結させる目的がありました。しかし権威による解決は、アリウス派はもちろんアタナシウス自身も納得せず、論争を終結できませんでした。その後、ニカヤ信条に反対するアリウス主義の勢力が優勢になり、皇帝は常に多数派に回りました。アタナシオスは5回島流しにされ、そこで死にました。最終的に、新しい世代の教父たちが、聖書研究を通して、三位一体を支持しました。381年のコンスタンティノポリス総会議で、三位一体は318名の教父たちによって決議採択され、キリスト教信仰の生命線が守られました。その時制定されたのが、ニカヤ・コンスタンティノポリス信条で、それによって三位一体が確立されました。


問19 ニカヤ・コンスタンティノポリス信条(381年)はどのような信条ですか。

答   以下の信条です。(磯部訳)信条中の( )内の言葉は、589年以後付加された部分です。

われらは、唯一の神、全能の父にして、天と地の造り主、
見えるものと見えざるものすべての創造者を、信ず。

われらは、唯一の主イエス・キリストを、信ず。
主は、神の独り子にして、あらゆる世に先立って父より生れ、
(神からの神、)光からの光、真の神からの真の神、造られずして生れ、
父と同一本質であって、万物は主によって創造された。
主は、われら人類のためまたわれらの救いのため天より下り、
聖霊によって処女マリアより肉体を受け、人となり、
ポンテオ・ピラトのもとでわれらのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、聖書の通り三日目に甦り、
天に昇り、父の右に座し、
主は、生者と死者とを裁くために再び栄光のうちに来り給う。
主の支配は尽きることなし。

われらは、聖霊を、信ず。
聖霊は、主にして命を与える者、
父(と子と)から出で、父と子と共に礼拝され、崇められ、
また預言者を通して語りたまえり。

われらは、唯一聖にして、公同なる使徒の教会を、信ず。
われらは、罪を赦す唯一の洗礼を、受け入れ信ず。
われらは、死者の復活と、きたるべき世の生命を、待ち望む。


問20 この後、重要な「標識」となる信条は制定されなかったのですか。

答   二つ制定されました。451年のカルケドン信条と、作者は不明ですが、6世紀頃のものと推定される、アタナシオス信条です。カルケドン信条は、キリストの二性一人格を扱っており、父とキリストの同質性が、より徹底して表現されています。またアタナシオス信条は、的確にまとめ上げた三位一体と二性一人格に関する信条です。


問21 カルケドン信条(451年)はどのような信条ですか。

答   以下の信条です。(磯部訳)

われらは、聖なる教父たちに従い、一同心を一つにし、かく信じ宣言す。

すなわち、われらの主イエス・キリストは、
唯一同じなる御子であって、
神性においても完全であり、また人性においても完全である。
真の神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成る真の人間である。
神性においては父と同一本質であり、
人性においてはわれらと同質にして、罪を除くすべてにおいてわれらと等しい。
神性においてはあらゆる世に先立って父より生まれ、
人性においてはこの終わりの世に、われらのためまたわれらの救いのために、
神の母なる処女マリアより生れた。

主は、同じ唯一のキリスト、御子、主なる独り子であって、
二つの本性においては、混同・変化・分割・分離せずに、存在する。
この結合により、二つの本性の区別は除去されることはなく、
かえって各々二本性の特質は保たれ、
ただ一つの位格またただ一つの存在として一体にあり、
二つの位格に分割されず、
同じ唯一の独り子、神の御言、主なるイエス・キリストである。
これは、いにしえより預言者たちが主について宣べ伝え、
イエス・キリストご自身がわれらに教え、
教父たちの信条がわれらに伝えたことである。


問22 アタナシオス信条(6世紀頃)はどのような信条ですか。

答   以下の信条です。(磯部訳)

 一、  だれでも救われたいと願う者は皆、すべてに先立ち、公同の
     信仰を信じ保つべきである。
 二、  この信仰を、損なうことなく完全に守るのでなければ、
     必ず永遠に滅ぶ。
 三、  公同の信仰は、唯一の神を三位格において、三位格を
     一体において礼拝する。
 四、  三位格を混同せず、一実体を分割しない。
 五、  父と子と聖霊は、各々別の異なる位格である。
 六、  しかし父と子と聖霊の神性はただ一つ、その栄光は等しく、
     尊厳は永遠である。
 七、  子と聖霊とは、父のように同じである。
 八、  父は造られず、子も造られず、聖霊も造られず。
 九、  父は量り難く無限、子も量り難く無限、聖霊も量り難く無限。
一〇、 父は永遠、子も永遠、聖霊も永遠。
一一、 しかし三つの永遠者ではなく、一つの永遠者。
一二、 三つの造られざる者でなく、三つの量り難き者でもなく、
     一つの造られざる者。
一三、 父は全能、子も全能、聖霊も全能。
一四、 しかも三つの全能者ではなく、一つの全能者。
一五、 父は神、子も神、聖霊も神。
一六、 しかも三つの神ではなく、一つの神。
一七、 父は主、子も主、聖霊も主。
一八、 しかも三つの主ではなく、一つの主。
一九、 各々別個の位格を持つ神が主であることを、
     キリスト教の真理として告白する。
二〇、 三つの神、三つの主と言うことは、公同の信仰によって
     禁止される。
二一、 父は、何ものによっても成らず、造られず、生れず。
二二、 子はただ父よりのみ、成らず、造られず、生れたのである。
二三、 聖霊は父と子より、成らず、造られず、発出したのである。
二四、 ゆえに、唯一の父であり三つの父でなく、唯一の子であり
     三つの子でなく、唯一の聖霊であり三つの聖霊ではない。
二五、 この三位一体においては、先も後もなく、大も小もない。
二六、 三位格は皆、同じようにともに、永遠同等である。
二七、 この通り、すべてにおいて、一体を三位格においてまた
     三位格を一体において礼拝されるべきである。
二八、 ゆえに、救われたいと望む者は、このように、
     三位一体について信ずべきである。

二九、 また、永遠の救いのためには、われらの主イエス・キリストの
     受肉を正確に信じなければならない。
三〇、 それゆえ、われらが信じ告白する正しい信仰とは、われらの
     主イエス・キリストが神であって、神にして人であり、
三一、 父の本質よりあらゆる世に先立って生まれた神、
     母の本質よりこの世に生まれた人、
三二、 完全なる神にして、理性を有する霊魂と肉体を備えた完全
     な人間、
三三、 神性においては父と同質同等にして、人性においては父の
     下に服す。
三四、 神にして人であっても、ふたりでなく、ただ独りのキリスト、
三五、 その独り子とは、神性が人性に変化変質して一つになった
     のではなく、神が人性を受けたことによる。
三六、 本質の混同によらず、位格が一つゆえに、独りのキリストである。
三七、 人が理性を有する霊魂と肉体から成るように、
     神と人とによる独りのキリストである。
三八、 キリストは、われらの救いのため苦しみを受け、陰府に下り、
     三日目に死者のうちより甦り、
三九、 天に昇り、父なる神の右に座し、生者と死者とを裁くために来
     るであろう。
四〇、 主の再び来り給うとき、すべての者は肉体と共に復活し、
     各々自分の行ないについて申し開きをなし、
四一、 善を行った者は永遠のいのちに入り、悪を行った者は永遠の
     火に入る。
四二、 これこそ公同の信仰であって、これを忠実かつ正確に信じない
     者は救われない。


U.神が霊であることと三位一体について


問23 神は霊ですが、神は体を持っておられますか。

答   持っておられません。神が霊であるとは、神は非物質的で、形がない実体であるということです。神は人間が誰ひとり見たことのない、また見ることのできない方です。
Tテモテ6:15b, 16
「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひと
 り死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわ
 れ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのでき
 ない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。
 アーメン。」



問24 ものみの塔は、神は霊者で、霊の体をお持ちですと言っていますがどうですか。

答   聖書は、神のご性質は霊であると言っていますが、神は霊者であるとは述べていません。またTコリント15:44「物質の体があるなら、霊的な体もあります。」を、ものみの塔は引用して、ですから神は霊の体を持つとしていますが、この箇所は人間の復活の体について述べており、神の体のことを述べてはいません。ものみの塔の描く神は、物質的な体の材質を、霊と置き換えただけの体を持つ、霊者である神であり、空間に限定された、小さな絵に描ける神を作り出しています。
 ものみの塔は、イエス・キリストも霊者であると述べています。すなわち、父なる神と、イエス・キリストは異なる実体であるという意味を作り出しています。これは三位一体の否定につながっています。


問25 聖書の中で神を見たとしているのは、どういう意味ですか。

答   聖書中では、人間が理解できるようにするため、神を擬人的、象徴的に手、足、目、耳、といった肢体を持つ者として表現されている所があります。またそれとは別に、人が神を見たとする箇所があります。(創世記32:30、出エジプト3:6、24:9−11、民数記12:6−8、申命記34:10、イザヤ6:1、エゼキエル1:26−28等)それは、人は神の栄光の反映を見たが、その実体を見たのではないと考えられます。
出24:9−11
「それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエル
 の長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの
 神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものが
 あり、透き通っていて青空のようであった。神はイスラエル人
 の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しか
 も飲み食いをした。」



問26 ものみの塔は、ヨハネ1:18から、人々はイエスを見たことがあるのに、いまだ神を見た者はないと書いてあるから、イエスは神ではないというのですが、いかがですか。

答   この意味は、誰も神を見た者はないが、イエス・キリストを体験的に知ることによって、神を体験的に知らせたということです。また人が目で見たのは肉体を取られた、人性としてのイエス・キリストであって、完全な神性としてのイエス・キリストではありません。イエス・キリストを体験的に知ったなら、父なる神を体験的に知ったのだと言うことは、キリストの完全な神性だけでなく、子なる神と父なる神との深い人格的交流をも表しています。これは三位一体そのものです。
ヨハネ1:18
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられる
 ひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
ヨハネ14:9
「イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたが
 たといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったの
 ですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあな
 たは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」



V.キリストの完全な神性について


問27 キリストが完全な神性を持っておられることを、どのようにして知るのですか。

答   聖書のみことばによります。
コロサイ2:9
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって
 宿っています。」
ヘブル1:3
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、
 その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、
 罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座
 に着かれました。」



問28 キリストは完全な神性である永遠性、遍在性、全知性、全能性、不変性をお持ちですか。

答   はい。キリストは持っておられます。
   永遠性については(注8)

注8 永遠性について
私たち人間は時間に拘束されていますが、神は時間を超越しておられます。神には生成、発達などの時間的変化を考える必要はありません。この世界は時間と共に造られました。時間は造られたものの特質です。人間は、今という一時点にしかいませんが、神は今という時点に限定されず、その時間の連続性を越えておられ、どの時点にもおられることがおできになります。永遠とは、単に時間を無限に引き延ばしたものではありません。量が違うのではなく、質が違います。

ヘブル7:24
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わるこ
 とのない祭司の務めを持っておられます。」
(ミカ5:2、ヨハネ17:5、黙示1:8、ヘブル1:11)


   遍在性については(注9)

注9 遍在性について
私たちに人間は一つの場所にしかいることができませんが、神は空間に拘束されません。同時にどこにでもおられます。汎神論でも神はどこにでもおられると言い、世界を神としますが、聖書のまことの神はそれとは違います。世界は造られたものであり、神はそれを超越しておられ、世界とは区別されます。

マタイ28:20
「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守
  るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わり
  まで、いつも、あなたがたとともにいます。」
                         (マタイ18:20、エペソ1:23)


   全知性については(注10)

注10 全知性について
マタイ24:36、マルコ13:32には、世の終わりの再臨がいつであるか、子も知りませんとあります。このことについては問42で答えています。

ヨハネ2:24, 25
「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。
  なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
  また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておら
  れたので、人についてだれの証言も必要とされなかったから
  である。」
        (マタイ9:4、12:25、マルコ2:8、ヨハネ16:30、
           Tコリント4:5、コロサイ2:3、黙示2:23)


   全能性については(注11)

注11 全能性について
キリストの行った多くの奇跡は、父なる神や、聖霊によるものではなく、キリストご自身の力によるものです。キリストの本質にその原因があります。

ピリピ3:21
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によ
  って、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同
  じ姿に変えてくださるのです。」
               (マタイ28:18、ヘブル1:3、黙示1:8)


   不変性については(注12)

注12 不変性について
神ご自身が完全であることを考えるとき、神ご自身には変化を持ち込むことができないことがわかります。完全であるゆえに、神ご自身には改善、改悪、改良、進歩、発展というものが無いということです。しかし不変性は、不動であることや、不活であることとは区別して考えなければなりません。キリストは、現れという点で変化はありましたが、神性という意味では不変性をお持ちです。

ヘブル13:8
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じ
  です。」
                                     (ヘブル1:8−12)



問29 キリストは、旧約聖書においても神としておられますか。

答   はい。おられます。旧約聖書と、それが引用された新約聖書を比べて読むと、キリストが神であることが、わかります。
旧約聖書
イザヤ6:1−3
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座して
 おられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがそ
 の上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのお
 のその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛ん
 でおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、
 聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」」

   (新改訳においてゴシックで記されている主とは、ヘブ
    ル語の原語では神名hw"hy>ヤハウェが記されているこ
    とを表しています。)

イザヤ6:8−10
「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだ
 ろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」すると仰
 せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟
 るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分
 の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされること
 のないために。」」

それが引用されている新約聖書
ヨハネ12:39−41
「彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のよ
 うに言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。ま
 た、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、
 心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、という
 ことがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤ
 がイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのであ
 る。」
    (使徒28:25−27とも比較してください。
     ここでは聖霊が語られたと言っています。)

 他にも旧約聖書の詩篇102:24−27の主(hw"hy>ヤハウェ)に対して言われていることが、新約聖書ではヘブル1:10−12において、これはイエス・キリストのことであると言われています。イエス・キリストは旧約聖書の主(hw"hy>ヤハウェ)であられます。


問30 ヤハウェという神名は父なる神の固有のお名前ではないのですか。

答   いいえ。主(hw"hy>ヤハウェ)という神名は、唯一のまことの神のお名前であり、一つの本質という統一性と三つの位格という区別性を持っておられるまことの神のお名前です。イエスは主です。(ものみの塔は主(hw"hy>ヤハウェ)をエホバと言い、誤った発音に固執しています。)
ローマ10:9−13(新約聖書)
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの
 心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと
 信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義
 と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っ
 ています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、す
 べての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵
 み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だ
 れでも救われる。」のです。」

ヨエル2:32(旧約聖書)
「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」



問31 キリストは、新約聖書において神と呼ばれていますか。

答   はい。呼ばれています。
Tヨハネ5:20(注13)
「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに
 与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真
 実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにい
 るのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」

ヨハネ20:27−29(注14)
「それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、
 わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し
 入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさ
 い。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じた
 のですか。見ずに信じる者は幸いです。」」

    (テトス2:13(注15)、ヨハネ1:1(注16)、
     Uペテロ1:1)

注13 Tヨハネ5:20について
ものみの塔はこの箇所を、独自の翻訳である新世界訳聖書において、次のように改変して、イエスをまことの神ではないようにしています。「しかしわたしたちは、神のみ子が来て、真実な方について知ることができるよう、わたしたちに知的な能力を与えてくださったことを知っています。そしてわたしたちは、み子イエス・キリストによって、真実な方と結ばれています。この方こそまことの神であり、永遠の命です。」しかし、原語を見ると「によって」と訳された前置詞(ギリシア語ではエン、英語のin)は「真実な方と結ばれています」と並行的に、同じ前置詞で表現されており、この前置詞を「によって」と、この並行関係を破って訳すことは不自然で、翻訳者の意図が入っています。むしろ、ここは新共同訳のように「そしてわたしたちは、真実な方のうちに、そのみ子イエス・キリストのうちにいるのです。」と翻訳されなければなりません。


注14 ヨハネ20:28について
「私の主。私の神。」 偶像礼拝を忌み嫌う、唯一神教のユダヤ教徒である、弟子のトマスが、イエスに、言ったところに重要な意味があります。トマスはイエスを誰だと告白したのでしょうか。また、イエスはそれを認めたのでしょうか。認めたのです。
 この箇所の「私の神」の神には定冠詞がついており、ものみの塔は、定冠詞がついているなら、例外なくエホバを意味しているそうです。(しかし実際は、ギリシア語文法では定冠詞がなくても、唯一のまことの神を意味しています。ヨハネ1章参照。文法書としてはメイチェン『新約聖書ギリシア語原典入門』(ニューライフ出版社1967年)168頁を参照してください。)


注15 テトス2:13について
「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」(新改訳)
 ものみの塔の新世界訳では「そしてわたしたちは、幸福な希望と、偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光ある顕現とを待っているのです。」となっています。「神」と「キリスト」を結ぶ接続詞カイを、新世界訳では「および」と訳し、神とキリストの二人に言及しているようにしています。しかし、ギリシア語では、「神」と「キリスト」は同じ格の名詞で、しかも定冠詞が二つの名詞にあわせて一つしかついていないため、同一人物を指していることになります。(ギリシア語文法のグランビル・シャープの法則)新改訳や他の翻訳が正確です。また、このことはUペテロ1:1でも同様です。


注16 ヨハネ1:1について
この箇所については、ものみの塔も多くの議論をしています。問39で扱っています。




問32 ものみの塔は、聖書の中で、サタンや人間も「神」と呼ばれていることを取り上げて、イエスにも同様に完全な神性があったのではないとしています。これはどうですか。

答   Uコリント4:4ではサタンが「この世の神」と呼ばれています。これは、神のみ業を妨げようとするサタンに対して皮肉をこめて、「この世の神」と呼んでいます。しかしイエス・キリストの場合はそうではありません。同列において議論するのは誤りです。
 また詩篇82:6では、神が高ぶる人間たちに対してその愚かさを示すため「おまえたちは神々だ」と呼んでいますが、これもイエス・キリストと同列に議論すべきではありません。イエス・キリストは皮肉の意味で「神」と呼ばれていません。イエス・キリストの神性は完全な神性です。


W.キリストが父なる神から生まれたことについて


問33 基本信条では、キリストは「父より生まれ」となっていますが、処女マリアよりお生まれになったのではありませんか。

答   イエス・キリストは人性においては、処女マリアより生まれられました。これは、キリストが肉体を取って人間になられたということです。そして、神性においては、父より生まれられました。イエス・キリストは父より生まれられましたが、父によって造られたのではありません。聖書には、キリストが造られたと述べている箇所はありません。
ヘブル1:5
「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。
「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」
 またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」
 (詩篇2:7、使徒13:33、ヘブル5:5も参照)



問34 イエス・キリストは神性においては父より生まれられたとは、どういう意味ですか。キリストは、父よりお生まれになる前は、存在しなかったことになりますか。

答   イエス・キリストは、永遠のうちに、父よりお生まれになられました。永遠のうちにとは、時間を超越した出生を意味しています。すなわち、生物学的な出生ではなく、父なる神と子なるキリストとの、永遠の区別と永遠の関係が、強調して表わされています。父なる神と子なるキリストの父子関係は、永遠の関係です。キリストが生まれる前は存在しなかったと言うことは、はっきり否定されなければなりません。
 ものみの塔は、「人が息子であると同時に、どうして父と同じほど年を取っているなどということがあり得るでしょうか」(注17)としています。これは父なる神が時間に制限されない永遠の方であることを無視し、父なる神を時間に拘束される人間のレベルまで引き下げる考え方です。そしてそのレベルで、イエス・キリストの父よりの出生を考える誤りを犯しています。

注17 『あなたは三位一体を信ずるべきですか』(ものみの塔聖書冊子協会 1989年)15頁に出てきます。




問35 聖書の中には、イエス・キリストを被造物であるとする聖句はありませんが、なぜ、ものみの塔はイエス・キリストを被造物とするのですか。

答   ものみの塔は、コロサイ1:15の「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」から、イエスは創造の初めであり、被造物であるとしています。
 イエス・キリストの完全な神性を否定するものみの塔は、この聖句を基礎としています。(注18)

注18 ものみの塔は、コロサイ1:15の「造られたすべてのものより先に生まれた方(新改訳)」を、イエス・キリストは被造物という意味に解釈しますが、その曲解の努力を無駄にしないために、コロサイ1:16, 17を、彼ら独特の翻訳である『新世界訳聖書』において、次のように改変しています。
コロサイ1:16, 17(新世界訳)
「なぜなら、[他の]すべてのものは、天においても地においても、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ、彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して、また彼のために創造されているのです。また、彼は[他の]すべてのものより前からあり、[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。」
 新改訳と比較すればわかるように、[他の]という言葉をカッコ付きで4箇所挿入しています。御子イエス・キリストがすべてのものを創造したのなら、御子は創造されたものではないことになります。すると、コロサイ1:15の「御子は最初に造られたもの」というものみの塔の説と調和しなくなってしまいます。そのために、ものみの塔は、以下のような巧妙な議論をしています。(『聖書から論じる』(ものみの塔聖書冊子協会 1989年)の163頁)
 新改訳など他の一般の聖書翻訳でも、ルカ13:2では「イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。(新改訳)」と「ほかの」という原語にはない言葉が挿入されて翻訳されているのだから、コロサイ1:16, 17において、ものみの塔が「他の」を挿入してもおかしくない。なぜなら、イエスは被造物なのだからとしています。
 しかし、一般の聖書が、ルカ13:2において「ほかの」を挿入しているのは読みやすくするためであり、挿入しても意味は変わりません。一方、コロサイ1:16, 17では、「他の」を挿入すると意味が全く変わってしまいます。したがって一般の聖書がルカ13:2に「ほかの」を挿入したことと、ものみの塔がコロサイ1:15に「他の」を挿入したこととは、同じではなく、関係もありません。
 また、ものみの塔が、コロサイ1:16, 17に「他の」を挿入する理由として、「なぜなら、コロサイ1:15にはイエスは被造物とあるのだから」という議論をしていますが、これは本末転倒です。コロサイ1:15が基礎となって、ものみの塔はイエスは被造物であると主張しているのですが、肝心のコロサイ1:15にある「先に生まれた方、初子、長子」の意味は、その文脈であるコロサイ1:16, 17によって解釈されなければなりません。しかし、コロサイ1:16, 17を15節によって解釈しているのです。この議論は循環論法になっています。神の啓示である聖書をもとにして解釈するのであって、初めに解釈があってそれを聖書に当てはめることは許されません。




問36 ものみの塔が言うように、コロサイ1:15の「造られたすべてのものより先に生まれた方」とは、最初に造られた方という意味があるのですか。

答   いいえ。この「先に生まれた、長子、初子」という言葉には、「先に造られた」という意味はありません。(注19)「生まれた」とはイエス・キリストが父なる神から出たという、永遠に子としての独自な関係を父なる神と持っている方であることを表しています。
 また「先に、先立って」とは、「最初に」と言う意味もありますが、「最も大事なもの」という意味もあります。(注20)それが「造られたすべてのものより」と創造と関連づけられています。コロサイ1:15に続く16, 17節は「なぜなら」とコロサイ1:15の理由となっています。それを見ると、「万物は御子によって造られた」のですから、イエス・キリストは造られたものの一部には含まれていません。つまり「造られたすべてのものより先に生まれた方」とは、イエス・キリストは、父なる神との独自な関係において、全創造に対して卓越している方、すなわち創造者であることを述べています。(注21)

注19 「先に生まれた方(ギリシア語ではプロートトコス)」の意味については、以下の文献によります。
Horst Balz, Gerhard Schneider 他 『ギリシア語 新約聖書釈義事典』第3巻(教文館 1995年)226−228頁


注20 「先に生まれた者、初子、長子」が、「最も大事な」という意味を持っていることは以下の聖句によく表れています。出エジプト4:22では、イスラエルは他の民族に対して「初子」です。また、エフライムは出生では初子ではないのに、エレミヤ31:9では「長子(初子)」と言われています。さらにダビデは同様に出生では初子ではありませんが、詩篇89:27では「長子(初子)」とされています。
出エジプト4:22
「そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。」
エレミヤ31:9
「彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」
詩篇89:27−29
「わたしもまた、彼をわたしの長子とし、地の王たちのうちの最も高い者としよう。わたしの恵みを彼のために永遠に保とう。わたしの契約は彼に対して真実である。わたしは彼の子孫をいつまでも、彼の王座を天の日数のように、続かせよう。」


注21 これに対して、ものみの塔は、以下のような反論をしています。(『聖書から論じる』(ものみの塔聖書冊子協会 1989年)の163頁)
 三位一体から言うと、父や聖霊も全創造に対して卓越した者であるのに、父や聖霊が「先に生まれた方」と呼ばれていないとものみの塔は論じています。しかし、「先に生まれた方」とは、父と子の関係における、イエス・キリストに対して向けられた言葉です。三位一体の位格の区別を無視して考える誤りです。
 また、ものみの塔は「初子」とは、その後に生まれてくるグループと同質のものであると論じていますが、この言葉の「初」には時間的に最初という意味と、卓越しているという二つの意味しかありません。また「子」は、父との特別な関係を表しています。したがって「初子」という言葉は、グループの一員であるという意味を持っていません。それでイエス・キリストが「初子」と呼ばれたとき、イエスが被造物と同質であることを意味していません。


コロサイ1:15−17
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのもの
 より先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造
 られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、
 また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子
 によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御
 子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、
 万物は御子にあって成り立っています。」



問37 他に、ものみの塔がイエス・キリストを被造物と解釈する基礎となる聖句はありますか。

答   あと二つあります。まず、「ひとり子」と翻訳される言葉です。(ヨハネ1:14, 3:16, Tヨハネ4:9)この言葉は「ひとり生まれた子」という意味であり、「ひとり」には、唯一の、独特な、無比のという意味があります。また「生まれた子」とは、永遠に子としての独自な関係を父なる神と持っている方であることを表しています。したがって、「ひとり子」には、「ただひとり父なる神によって造られた者」という意味はなく、「ただひとり父なる神と独特無比な子としての関係を持つ方」という意味です。(注22)
 もう一つは、黙示3:14の「神に造られたものの根源である方」の「根源」とは、「初め」とも翻訳でき、イエス・キリストは「創造の初め」である、すなわち「最初に造られた者」とものみの塔は解釈しています。しかし、この言葉は黙示21:6において、父なる神が「最初であり、最後である。」と言われた「最初」という原語と同じであり、あらゆる時間に先立ち、永遠に存在する者という意味です。したがって、黙示3:14の「創造の初め」は「創造の根源」と理解されます。(注23)

注22 「ひとり子(ギリシア語ではモノゲネース)」の意味については、以下の文献によります。
Horst Balz, Gerhard Schneider 他 『ギリシア語 新約聖書釈義事典』第2巻(教文館 1994年)506, 507頁


注23 「初め、根源(ギリシア語ではアルケー)」の意味については、以下の文献によります。
Horst Balz, Gerhard Schneider 他 『ギリシア語 新約聖書釈義事典』第1巻(教文館 1993年)199−201頁





問38 イエス・キリストが、父なる神と、ただひとり、子として持っておられる独特無比な永遠の関係とは、どのようなものですか。

答   神は愛です。また神は被造物に依存されないお方です。神は、世界が創造される前から、永遠に愛です。しかし人格の交わりがなければ愛は存在しません。神は、世界が創造される前に、神ご自身のうちに、人格的交わりを永遠に持っておられます。父とキリストは、初めに、共に栄光のうちにおられ、永遠のうちに子は父から生まれ、父と愛し合い喜び合う関係で永遠に結ばれています。父のものはすべて、キリストのものです。父とキリストは一つであり、父のいのち、父の人格が子に対して永遠に交流しています。地上でキリストは、そのご人格と本質のうちに、父なる神を完全に現されました。
マタイ3:17
「また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの
 愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」」

ヨハネ17:5	
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。
 世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの
 栄光で輝かせてください。」

ヨハネ17:24
「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわた
 しのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなた
 がわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに
 下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」

ヨハネ16:15
「父が持っておられるものはみな、わたしのものです。」

ヨハネ14:7
「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知って
 いたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、
 また、すでに父を見たのです。」

ヨハネ14:10
「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは
 信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わ
 たしが自分から話しているのではありません。わたしのうち
 におられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」

ヨハネ5:26
「それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、
 子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったか
 らです。」



X.父なる神とキリストの区別について


問39 父なる神とキリストの人格の区別は、三位一体とどのような関係がありますか。

答   三位一体とは唯一まことの神のうちに、三つの人格的区別と一つの本質があることです。父なる神とキリストには人格的区別があることは、三位一体そのものです。ヨハネ1:1で、神と共にいるキリストが、同時に神であることは不可能であるとするものみの塔は、三位一体を理解せず攻撃しています。父なる神とキリストは一つの本質(実体)を持っておられます。しかし、ものみの塔は神とキリストは空間に拘束されるような霊の体を持つとして、父なる神とキリストは別の実体であり、別の本質を持っているとします。これは誤りです。


問40 イエス・キリストが、地上で「父よ」と祈られた時、父なる神とキリストは別個の存在であったのではありませんか。

答   イエス・キリストが地上に来られた時、罪は別として、人と同じようになられました。人性として持たれた体は、空間的に、時間的に、能力的に拘束されました。しかしイエス・キリストは、完全な神性を同時に持っておられました。人性においては父なる神と別個でも、神性においては父なる神と一つの本質を持っておられました。
 ものみの塔は、イエス・キリストが地上におられた時、父とキリストは別個の存在であったのだから、キリストは神ではないという種類の議論を繰り返し展開しています。これは、キリストの人性においてはそうですが、神性においては誤りです。神性と人性を混同しています。


問41 イエス・キリストは、ご自身も神であるのに、父のことを「わたしの神」、「唯一まことの神」と呼ばれ、区別されたのはなぜですか。

答   キリストは、完全な人間として地上におられました。その人性において、キリストは父を「唯一まことの神」とお呼びになられました。しかし、この時もキリストは、神性においては、父なる神と人格は区別されますが、同じ一つの本質を持っておられました。
ヨハネ17:3
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあな
 たと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることで
 す。」
 (ヨハネ20:17)



問42 世の終わりの再臨がいつであるか、キリストは知らず、父だけが知っておられますとあるのは、イエス・キリストには全知性がなかったことになりませんか。

答   そうではありません。このマルコ13:32の「子も知りません」という意味は、知識がないという意味ではなく、その権限にあずかっていないため、関心事ではないという意味です。三位一体内の三位格の職務、役割の違いを現しています。またマタイ20:20−23も同様です。三位一体内の三位格の職務は同等ではありません。
マルコ13:32
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りませ
 ん。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知って
 おられます。」



問43 イエス・キリストは、父はわたしよりも偉大な方であると言われましたが、同等ではないのですか。

答   三位格内の職務は同等ではありません。しかし、イエス・キリストは、いつも父に従属しておられたのではありません。人の姿を取り地上に来られた時からです。ピリピ2:5−8では、本質において神であったキリストは、この地上に下って来られた時、神として持っておられた権利を主張し、人々にその立場を認めさせ、自分のために栄光を奪い去ることができました。しかし、キリストはそのように栄光を受ける考えを退け、ご自身を低くされ、十字架にまでかかって、奴隷のように仕える者となられました。そして、そのようなご自身を人々が信じて告白することにより、栄光をお受けになり、父なる神と本質において等しいことが公に認められるようにされました。
ヨハネ14:28
「父はわたしよりも偉大な方だからです。」
Tコリント11:3
「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。
 すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であ
 り、キリストのかしらは神です。」

ヘブル3:2
「モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエ
 スはご自分を立てた方に対して忠実なのです。」

ピリピ2:6−11
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨
 てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕
 える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリ
 ストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死
 にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それ
 ゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名
 をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天
 にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、
 ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主であ
 る。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」



問44 イエス・キリストはその職務において、いつまで父なる神に従属されるのですか。

答   この世の終わりに、キリストは再臨され、すべての敵が滅ぼされ、罪を破り、死を克服し、救いの計画が完全に達成される時が来ます。その時、キリストは父のもとへ、勝利者が凱旋するように帰って行き、すべてを父なる神にゆだねられます。こうして神の勝利は完成されます。そして、キリストはご自身にゆだねられた職務を達成して、完全な従順のもたらす栄光を冠として受けらます。キリストはもはや、従属する者ではなくなり、父・子・聖霊なる三位一体の神が、すべてとなられます。
Tコリント15:28
「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物
 を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいて
 すべてとなられるためです。」



Y.聖霊について


問45 聖霊は完全な神性をお持ちですか。

答   はい。聖霊は持っておられます。

永遠性については
ヘブル9:14
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によ
 って神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良
 心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える
 者とすることでしょう。」

遍在性については
詩篇139:7−10
「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあ
 なたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が
 天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設け
 ても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海
 の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あ
 なたの右の手が私を捕えます。」

全知性については
Tコリント2:10, 11
「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊
 はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、
 だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのこ
 とは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」

全能性については
ヨブ33:4
「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。」 
  (詩篇104:30、Tコリント12:4−11)



問46 聖霊は神と呼ばれていますか。

答   はい。聖霊は呼ばれています。
使徒5:3, 4
「そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなた
 はサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を
 自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのも
 のであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。
 なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いた
 のではなく、神を欺いたのだ。」」
(Uコリント3:18、ヘブル3:7−11、使徒28:25−27)



問47 聖霊は人格を持っておられますか。

答   はい。聖霊は持っておられます。聖霊は「助け主」と呼ばれ、その意味は、弁護を必要とする者の相談相手として、そばに呼ばれた者のことです。キリストは聖霊を「もうひとりの助け主」と呼び、聖霊をキリストと同じ種類のもう一つの者とされました。
ヨハネ14:16, 17
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの
 助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつ
 までもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、
 真理の御霊です。」
(ヨハネ14:26、15:26、16:7)

聖霊は知性を持ち、考え、意志を持って行動されます。
ヨハネ16:13, 14
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがた
 をすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのでは
 なく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしているこ
 とをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わ
 します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるから
 です。」

ローマ8:26, 27
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。
 私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、
 御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たち
 のためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方
 は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、
 御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをし
 てくださるからです。」

使徒16:6, 7
「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によっ
 て禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こ
 うしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こ
 うとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」

使徒15:28
「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたに
 その上、どんな重荷も負わせないことを決めました。」
(ヨハネ16:8、使徒9:31、13:2、
   Tコリント2:10, 11、12:11)

聖霊は悲しみ、痛みを覚える方です。
エペソ4:30
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの
 日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」

イザヤ63:10
「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主
 は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」

聖霊は人格的扱いを受けておられます。
マタイ12:31
「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒
 涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦さ
 れません。」

使徒7:51
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなた
 がたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているので
 す。」
(使徒5:3, 9、ヘブル10:29)



問48 人々が聖霊で満たされたり、聖霊でバプテスマを施されたり、油そそがれたりすることから、聖霊には人格がないことがわかるとものみの塔は述べていますが、どうですか。

答   人格的なものは、人の内に入り、人を満たすことができないと聖書は教えていません。たとえば、ものみの塔が認めているように、サタンや悪霊にも人格があり、人の内に入ることを聖書は述べています。聖霊と、悪霊は聖書の中で人格を持ったものとして対比されています。
Tテモテ4:1
「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、
 ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰か
 ら離れるようになります。」

Tヨハネ3:24−4:4
「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうち
 におられます。神が私たちのうちにおられるということは、
 神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。
 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。
 それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜ
 なら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人とな
 って来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのも
 のです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告
 白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。
 それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを
 聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。子ども
 たちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝っ
 たのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうち
 にいる、あの者よりも力があるからです。」

また聖霊でバプテスマを施されることや、油そそがれることも、満たされることと同様の意味です。


問49 聖霊が人格を持っているように表現されている聖書箇所は、すべて擬人法だとものみの塔は述べていますが、どうですか。

答   そうではありません。聖書の中で、知恵、罪、死、水、血等が擬人法で表現されているところは数が限られています。一方、聖霊が人格を持っておられるとされる箇所の数や範囲は、擬人法であると片づけてしまえるほど少なくありません。


問50 聖霊降臨の時、一度に120人ほどの弟子たちが同時に聖霊に満たされたのであるなら、その聖霊は人格的なものとは言えないとものみの塔は述べていますが、どうですか。

答   そうではありません。聖霊には神性があります。神は同時にどこにでも存在されますが、人格があります。
 ものみの塔は、このような三段論法の議論をよくしています。よく考えれば、誤った議論であることは明白です。



Z.聖書が示す三位一体について


問51 新約聖書には三位一体を示す聖句はありますか。

答   はい。あります。マタイ28:19, 20において、水のバプテスマは父と子と聖霊の御名によって授けるよう、キリストは命じられました。この御名という言葉は、ギリシア語では複数形ではなく単数形ですから、父と子と聖霊がそれぞれ違う名前を持っておられるのではありません。名前は性質を表しますが、一つの御名は一つの同じ本質を持っておられることを表しています。
マタイ28:19, 20(注24)
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子と
 しなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマ
 を授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべての
 ことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世
 の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

他にも、三位一体を示唆する箇所があります。
Uコリント13:13
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あな
 たがたすべてとともにありますように。」

注24 マタイ28:19, 20について
ものみの塔は、「これらの節は、神、キリスト、および聖霊が、三位一体の神を構成し、その三者は実体、力、および永遠性において同等であると述べていない。また、太郎や次郎や三郎のような三人を列挙したからと言って、彼らが三人で一人であることを意味していないのと同じです。アブラハム、イサク、ヤコブ、またペテロ、ヤコブ、ヨハネが一緒に言及されている箇所はたくさんあるが、だからといってその三人が一人となっているわけではない」とします。(『あなたは三位一体を信じるべきですか』1989年23頁に出てくる議論です。)
 ウッドは『エホバの証人の反三位一体論に答える』166, 167頁で、「太郎、次郎、三郎」や「アブラハム、イサク、ヤコブ」や「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ」はそれぞれ三人のグループであって、メンバーはおのおの人格を持っている。しかも、この3人のグループは、それぞれ、似た者同士、血のつながりのあるイスラエルの祖先、キリストの使徒、というグループを表している。だから、これらの例は三位一体を否定するのではなく、むしろそれを裏付けているとしています。
 また興味深いことに、マタイ10:2−4「さて、十二使徒の名は次のとおりである。」に続いて名前のリストが出てくるが、この節の「名」というギリシア語の言葉は複数形です。また、マルコ3:16, 17にはイエスがゼベダイの二人の子に雷の子という名をつけたとあります。「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。」ここでの「名」という言葉は単数形です。複数の人に単数形の名がつけられたのは、このゼベダイの二人の子が同じ性質を持っていたからです。マタイ28:19の「父と子と聖霊の御名」の御名という言葉が単数形であるのは、一つの性質を表しています。




問52 旧約聖書には三位一体を示す聖句はありますか。

答   はい。あります。
神の人称が複数形で「われわれ」と表現されています。創世記1:26では神が「われわれのかたちに人を造ろう」と語っておられますが、「われわれ」が神以外の天使などを含むとは思われません。三位一体の複数性を示唆しています。

創世記1:26
「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、
 人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のす
 べてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰
 せられた。」
(創世記3:22, 11:7、イザヤ6:8)

 他にも、アブラハムに現れた三人の人は主(ヤハウェ)であり、しかも複数の主(ヤハウェ)が区別されていること(創世記18:1, 2、9−22、33−19:1)、セルビムの三重頌(イザヤ6:3)、アロンの三重の祝祷(民数記6:24−26)などに三位一体が暗示されています。

問53 三位一体の神が一体となって働いておられる聖書箇所はありますか。

答   はい。あります。聖書には父なる神と、イエス・キリストと聖霊が、人間の救いの計画の実行と、教会の完成のために一体となって働いておられる多くの箇所があります。
キリストの誕生の時(ルカ1:35)、キリストがバプテスマを受けられた時(マタイ3:16, 17)、信じる者の内に住まわれる神として(ヨハネ14:17, 23)、聖霊を信じる者に注がれる神として(使徒2:33)。
ヨハネ14:17
「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることが
 できません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。
 しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあな
 たがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

ヨハネ14:23
「イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、
 わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその
 人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とと
 もに住みます。」



[.三位一体の私たちに意味すること


問54 三位一体は私たちの信仰にどんな意味を持っていますか。

答   三位一体は、私たちの主イエス・キリストが、十字架にかかって私たちのすべての罪をあがなって下さったおかげで、私たちのすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、完全な救いに、行いによらず、信仰のみによって、入れて下さったことを確信させます。なぜなら、主イエス・キリストは、唯一まことの神であられるからです。主の支払われたあがないの代価は、私たちを完全に、永遠に救って、あまりある価値があります。
ヘブル9:11, 12
「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭
 司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この
 造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を
 通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の
 血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖い
 を成し遂げられたのです。」

Tヨハネ1:7
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

 また、唯一のまことの神、主イエス・キリストが、このような大きな価値あるものを、神の敵であった人間にすぎない私たちに、無償でお与え下さったことによって、私たちにも愛がわかりました。
Tヨハネ3:16
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てにな
 りました。それによって私たちに愛がわかったのです。」



問55 神は私たちを、ご自身のかたちに創造されました。このことは三位一体に関して、どのような意味がありますか。

答   神は初めから、三位一体の神です。そこには愛し合い、喜び合う人格の交わりがありました。私たちも、その神ご自身のかたちに造られています。私たちは、主イエス・キリストの救いを通して、この神のかたちを回復し、愛し合い、喜び合う、神と人との交わりへと招かれています。
Tヨハネ1:3
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるの
 は、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。
 私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの
 交わりです。」


ホーム






2004年5月5日カウント開始