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明治初年の法学教育

 

 明治9年代言人規則制定以後、代言人検査(試験)を受験し合格した人々は、事前にどのような法学教育を受け、試験準備をしたのか。このきわめてシンプルな問題に関する考察を進めるための「作業場」としてこのページを開設した。どこまで解明できるか確たる見通しがあるわけではないが、やれるところまでやってみたいと思う。

 


 明治9年代言人検査(試験)問題(東京府第二回)

 

 このうち第一条の問題は、受取諸証文印紙貼用心得方規則(明治六年二月一七日太政官第五六号布告)、それを廃止して制定された証券印税規則(明治七年七月二九日太政官第八一号布告、同年九月一日施行)、さらには両規則に関する伺指令についての知識があれば解答可能である。

 同様に第三条の問題も、改定律例名例律犯罪自首条、とくに「第五十九条 凡罪ヲ犯シ。人ノ官ニ陳告セント欲スルコトヲ知テ。自首スル者ハ。本罪ニ。一等ヲ減スル律ヲ改メ。減二等ニ従ヒ。官ノ捕獲セント欲スルコトヲ聞テ自首スル者ハ。本罪ニ。一等ヲ減ス。」、「第六十条 凡罪ヲ犯シ。事。已ニ告発ヲ経ルト雖モ。本犯。未タ知ラス。及ヒ官。罪犯ノ名ヲ知ラスシテ。自首スル者ハ。仍ホ未発自首ト同ク。並ニ。罪ヲ免ス。」などの条文に関する知識が重要である。さらに伺指令などをもとに、当時の実務レベルにおける実際の法運用方針を知悉する必要もあった。

 

 


静岡県代言人の法学教育

 本資料によれば、明治九年(代言人規則の制定)から二六年(この年に弁護士法が制定され、代言人の名称は消滅する)までの間に代言免許を取得し、静岡県内で開業した者は四七名を数える(橋本が確認できた限りでの数字だが)。彼らの法学教育歴を概観して最初に気づくのは、明治二〇年以降、専修学校、明治法律学校、英吉利法律学校など、いわゆる私立法律学校の卒業生が一斉に代言免許を取得するようになったということである。そのもっとも早い例は小竹禄之助(浜松で開業)である。彼は、明治二〇年に二四歳で代言免許を取得するが、それまでに泰東法律学校(明治一四年)、専修学校(一五〜一七年)、明治法律学校(一九年〜)にそれぞれ在学した。これ以後、小竹のような私立法律学校卒業生が、静岡県代言人・弁護士の中心勢力となっていくのである。

 こうした背景には、明治一〇年代半ば以降、私立学校が安定的に法学教育を提供できる体制が整いつつあったという事情がある。明治一〇年代における開校状況は以下の通りである。

   

開設年

学校名

所在地等

備考

明治10年

法律学舎

山形県置賜郡米沢町/三年制

明治14年現在、白川密蔵を学校本主とし、生徒15名、年間授業日数250日、1ヶ年授業料総額45円。この米沢町「法律学舎」の詳細は不明である。なお、米沢町にはこのほか私立中学校として米沢中学校(明治7年設立)が、私立専門学校として米沢医学舎(明治12年設立)がある。この点だけを見る限り、米沢は全国的に見てもずば抜けて私学教育熱が盛んな地であったといえるのではないか。

明治11年

茂松法学校

東京府神田区今川小路

明治14年現在、廣瀬帆三を学校本主とし、教員4名、生徒106名、1ヶ年の授業料総額は150円。茂松法学校の詳細は不明である。

明治13年

東京法学社

東京府

4月開設、9月開校。のち東京法学校、さらに和仏法律学校と改称、現在の法政大学(法政大学百年史編纂委員会編『法政大学百年史』法政大学、1980年、9頁)。なお、『学校幼稚園書籍館博物館一覧表 明治14年』に東京法学社(東京法学校)の名称は記載されていない。

専修学校

東京府/経済科と法律科を併設/二年制

明治14年現在、専修学校の教員は10名、生徒109名、1ヶ年の授業料総額は640円95銭5厘。のちの専修大学。

明治法律学校

東京府/二年制

12月開設、翌年1月開校。明治14年現在、明治法律学校の教員は11名、生徒381名。のちの明治大学。

明治14年

明治義塾

東京府神田区錦町

明治14年現在、明治義塾は、西本正雄を学校本主とし、教員13名、生徒80名、1ヶ年の授業料総額271円62銭5厘。前身は三菱商業学校(明治11年設立)。それにもかかわらず、明治義塾の学科は「法」に分類されているが、それが事実に合致しているかどうかは今後の検討課題としたい。

藤雲館

福岡県福岡区天神町/法・文・数・英の学科を併設/三年制

樋口競・岡澤三仲を学校本主とし、教員7名、生徒200名、年間授業日数265日。なお、藤雲館の詳細については不明である。

明治18年

英吉利法律学校

東京府

7月開設、9月開校。のちに東京法学院、さらに中央大学と改称。

 (出典)おもに文部省『学校幼稚園書籍館博物館一覧表 明治14年』(文部省、明治15年)による。 

 

 いうまでもなく前島豊太郎をはじめ明治二〇年以前に代言免許を取得した人々は、これら私立法律学校に学ぶことはできなかった。それではどうしたのか。残念なことに、彼らの多くはこの点について何も語っていない。わずかに東京遊学(前島豊太郎、遠藤靖、鈴木音高)、さらには「法律学舎」(上掲表中の山形県米沢町の「法律学舎」とは別異のものである)への入学(澤田寧)などを知りうる程度である。

 

 


東京府「明治六年私立学校明細調」

 本資料によれば、明治六年五〜六月現在、東京府内には48の私立学校が開設されていた(このほか、数百余の家塾が開業していた)。このうち法律関係の授業を提供しているのは、わずかに律学を教授する依田薫紅梅塾があるのみである(家塾まで含めると、少なくとも7塾程度で法律関係の授業を行っていたことが確認できる)。

 本資料に記載された紅梅塾の日課表は以下の通りである。これによれば、律学の授業は週1回3時間のみであった。

 

時間

月曜日

火曜日

水曜日

木曜日

金曜日

土曜日

午前 自 八時

   至十二時

英学

習字

午後 自 一時

   至 二時

漢学

午後 自 二時

   至 四時

数学

夜   自 六時

   至 九時

 

 

 

 

 

律学

注)英学担当教員は宇高三蔵(石銕県貫族士族)。宇高は、慶応3年9月北門社に入塾し英学修業。明治3年10月横浜在住米国人ウオルフに従学。同年1月から依田薫塾で英学教授。

 

 この依田薫という人物は、明治五年現在四七歳。弘化元年一一月から嘉永二年九月まで都合五ヶ年間林大学頭塾頭河田八之助方に従学、嘉永四年京都で牧善助に従学、嘉永五年三月から翌年八月まで九州辺を遊学、嘉永六年一〇月から但馬出石において藩学校助教、明治二年九月から三年四月まで大学校少助教。同年四月から青崕塾を開塾した。同塾において、依田は、唐律疏議、明律、清律、棠陰比事を教科書に中国律学を講じていた(東京府「明治六年一月第四番中学区開学明細調」,東京都公文書館所蔵,請求番号606-C3-9)。したがって、紅梅塾は青崕塾の後身ということになる。

 

 


 

私学校・家塾開学願書−法学関係−(明治5〜10年)

 

 東京都公文書館には、明治6年から9年にかけて提出された私学校・家塾の「開業願」「開学願書」類が30冊以上の簿冊に綴じ込まれている。編綴数は1冊当たり50件であることから、総件数は1500件を超えることが分かる(この中には開業後間もなく閉鎖されたものも含まれているが)。その多くは旧来の寺子屋型(読み・書き・算盤を学習の基本とする)の初等教育を提供するものであった。それでは、当時、若干でも法律関係の授業を提供していた私学校・家塾はどの程度存在していたのであろうか。そうした関心から作成したのが本資料である。

 

 

(1)法律学舎の設立

 

 従来、日本最初の私立法学校とされてきたのは法律学舎である。たとえば、「実に我邦に於ける私立法律専門学校の祖なり」(奥平昌洪著『日本弁護士史』巌南堂書店、大正三年)、「私立の法学校としては・・・法律学舎をその初めとする」(文部省編『学制百年史』記述編、ぎょうせい、昭和四七年)などがその例である。本資料によれば、その法律学舎の開業願が提出されたのは明治八年五月一三日のことであった。それを示せば、左の通りである。

(簿冊表紙)

明治九年二月調

 開 学 願 書

第二拾七号   第五課

 

(願書表書)

 

私学開業願書

     東京府下第五大区五小区

     浅草森下町弐番地寄留

        大分県士族

         元 田  直

第八号

 

   私学開業願書

一私学位置

  東京府下第五大区五小区浅草森田町九番地辻平左衛門居宅校名法律学舎

一学校費用概略

家税    金八円

筆炭紙薪炭油等諸費 金五円

僕給    金三円五十銭

臨時入費  金五円

 右壱ヶ月分惣計金弐拾壱円五十銭

一教員履歴

           駿河台西紅梅町九番地

               東京府士族

                 依 田  董

弘化三午年ヨリ嘉永四亥年迄五ヶ年間河田八之助方江入塾漢学修業同年ヨリ安政六未年迄六ヶ年間牧善助江従学ス萬延元申年但馬出石藩学校助教明治二年大学本校助教ニ任ス

一教員給料

無之

一学科

内国法律諸書

支那及西洋各国法律翻訳書

一教則

生徒分テ上下二級トス

下級 内国法律書

上級 外国法律書

一校則

一此校ニ入ル者実際研究ヲ主トシ各自達材成徳以テ国家ノ用ニ供スルノ心掛アルヘキ事

一言行ヲ慎ミ心術ヲ正シクシ総テ政府ノ御規則ヲ遵奉シ社中ノ約束ニ背クマシキ事

一入舎ノ者ハ官員或ハ府下居住人ノ証書持参スヘシ

(証書雛形・略)

一教授時間  午前八字ヨリ十字迄 午後生徒会読

一学資表

入舎料  金壱円

月謝   金五十銭

講堂費  金十銭

右壱ヶ月惣計金六十銭

納金毎月二日ヲ限リトス

一休暇  政府御定休暇ニ依ルヘシ

一怠惰又ハ規則ヲ犯ス者ハ督責或ハ退舎ヲ命スヘシ

 右之通リ開業仕度此段奉願候也

              東京府下第五大区五小区浅草森下町二番地寄留

                                       大分県士族

 明治八年第五月十三日              元田 直(印)

                     右戸長

                         塩原昌之助

  東京府知事大久保一翁殿

 

 ここに唯一の教員として登場する依田薫は、上述のように、青崕塾(明治三年)、紅梅塾(明治五年)を開き、中国律学を講じていた人物である。依田薫が法律学舎の設立に関わった経緯は不明だが、彼の学問的蓄積から推して、法律学舎においてもおもに下級生徒を対象とする内国法律書、とくに「律」(新律綱領・改定律例など)の授業を担当していたのではないかと思われる。

 それでは、上級生徒を対象とする外国法律書の授業は誰が担当していたのか。翻訳書の素読であれば、依田でも指導することは可能である(それは、実際、他の多くの私学校・家塾でもやっていた)。それとも元田直が指導していたのか。今後の検討課題である。 

 

 

(2)「私立法学校」の範囲

 さて、「法律学舎」唯一の教員が律学専門であったという事実は、「私立法学校」の範疇を本来の意味で法学専門教育を提供する私学校・家塾だけでなく、より広く中国律学を講じる私学校・家塾にまで拡大する必要性を感じさせる。少なくとも「律」を学べば、当時の実体刑法である新律綱領・改定律例を体系的に理解することが可能になるからである。

 そこで、「私立法学校」の概念を<中国律学教育を提供するもの>と<法学専門教育を提供するもの>の両方を含むものとして措定した場合、そこに含まれる私学校・家塾は以下のようにかなり広範囲なものとなる。

 

「律」学教育

克己塾(青木先孝)/育英塾(木澤成粛)/双桂精舎(島田重禮)/登山塾(福羽美静)/芳野匏宇塾/藤野正啓塾/白井篤治塾/塙忠韶塾/曲尾光龍塾/西川学校(西川彬)/我為我学校(佐野義郎)/岡松学校(岡松甕谷)/観略学校(永尾時三郎)/六有学校(三輪田高房)/亦楽塾(井上重實)など

「法学」専門教育

福吉舎/法律学舎/仁平学校/法律学舎分舎/講法学社/審法社/明法学舎

 

 そのなかには島田義禮、福羽美静、芳野匏宇、藤野正啓、塙忠韶、岡松甕谷、井上重實など漢学者・国学者として著名な人物が名を列ねていた。

 

 一例として、亦楽塾の課程表を紹介しよう。

課 程

教科書

下等三級

西洋事情

上等五級

万国公法

上等四級

 

上等三級

清律,英仏法律訳書

 

 ただ、残念ながら、これらの私学校・家塾が、実際にどの程度免許代言人を輩出し得たのかは不明である。

 

 

(3)井上良一と「福吉舎」私立法学校の嚆矢

 本来の意味の私立法学校(法学専門教育を提供する私学校・家塾)に視点を戻そう。ここで言及したいのは「福吉舎」についてである。

 福吉舎は、明治七年一一月、井上良一と本間英一郎の両名によって開業願が提出された。学科は「英学」のみであり、井上が「法律学」を、本間が「造営学」をそれぞれ担当するとされていた。このうち法律学については、「英学」の看板にもかかわらず、教授内容としては「法律学一式 万国公法,本邦之律例規則布告布達類取調」(法律学一般から国内現行法の理解まで)を標榜していた。まさしく法学専門教育をその内容としていると言ってよい。

 この井上良一という人物は、次のような経歴を有する。福岡藩士として慶応三年米国に留学し、明治五年ハーバード・ロースクールに入学した。七年に卒業し、学位LL.B.を取得した。同年帰国し、翌八年には東京英語学校二等教諭兼開成学校教授補に任命された。その後、一〇年東京大学法学部教授に昇格したが、一二年には自殺してしまった(手塚豊「最初の東京大学法学部教授井上良一略伝」、同著『明治史研究雑纂』慶應義塾大学出版会、一九九四年、所収 、石瀧豊美「ボストンの侍・井上良一」全一七回、西日本新聞夕刊連載、二〇〇三年一月四日〜四月二六日)。つまり、福吉舎はハーバード・ロースクール卒業生が法学専門教育を提供するという点で、法律学舎よりもはるかに充実した教育内容を備えていたのではないかと推測される。その意味で、日本最初の私立法学校という名称に拘るならば、それは法律学舎ではなく福吉舎にこそ冠せられるべきではないだろうか。ただ、残念ながら、福吉舎の活動はごく短期間のうちに終了したようである。

 

 

(4)法律学舎の発展

 明治九年三月二四日付で法律学舎分校の開業願が提出された。すなわち、

 

(表紙)

私学分校開業願

第一千四百四十七号

第四十七号

 

   私学分校開業願

一法律学舎分校位置

第一大区九小区南鍋町二丁目八番地 吉川源六宅

一校費概算

家税    金五円

給料雑費  金十二円

 右一ヶ月分惣計金十七円

一教員履歴

神田五軒町三番地

   長崎県平民

     本 多  潤

      廿四年十ヶ月

漢学皇学凡五年

 但元蓮池藩及元長崎府学校ニ於テ教師元蓮池藩教授大野平一長

 崎府助教坂本秋郷

仏朗西語学凡四年

 但長崎廣運館東京日新社及ヒ制作寮及下二番町ライト方等ニテ  教師福地源一郎中江篤助フロラン

一教員給料

毎月金十円

一学科

内外法律諸書

一教則

生徒分テ上下二級トス

下級  刑法講義

上級  民法会読

一校則

(中略)

一教授時間ハ毎日午后二時ヨリ五時迄

 但シ十五歳以上ニアラサレハ入学ヲ許サス

一学資表

入校料  金五十銭

月謝   金二十五銭

一休暇  日曜日

右之通開業仕度此段奉願候也

              神田五軒町三番地

                 法律学舎長

                  大分県士族

  明治九年三月廿四日                   元田 直(印)

              第五大区四小区戸長

                      中村 介勇(印)

              学区取締

                      山口 文次郎(印)

東京府権知事楠本正隆殿

 

 

 

(5)私立法学校の増加

 仁平学校の開業願は、仁平豊次によって明治九年二月二八日に提出された。それによれば、時間割は以下の通りであった。おおよそ週三日授業が行われ、一日当たり二時間から四時間の授業が行われた。その内容も、内国法律書の講義と擬律擬判(民事法と刑事法の演習)というものであった。管見の限りでは、擬律擬判という授業方法を最初に用いたのはこの仁平学校であった

 

授業時間

1の日

(1,11,21日)

6の日

(6,16,26日)

3,8の日

(3,8,13,18,23,28日)

13〜15時

民事擬判

擬律

 

15〜16時

 

 

16〜18時

内国法律・漢書講義

内国法律・漢書講義

内国法律・漢書講義

 

 

 講法学社審法社・明法学舎はともに生徒を三級に分け、おもに「内国支那欧米各国ノ法律並経済書」の講読を行った。従前の法律学舎とほぼ同様の教育方法をとっていたといえるだろう。

 

 町田岩次郎編『東京代言人列伝』(漸進堂、明治一四年九月)は、当時の著名な免許代言人七人の履歴を紹介している。同書から彼らの法学教育歴を抽出すれば、以下の通りである。

 ここにも示されているように、この時期、免許代言人になったのは、)[С惻砲覆匹遼ヽ惺擦燃悗鵑誠諭垢、∨冥Ъ砲篏綉措砲里茲Δ並絽牲觴劼納駄碍亳海鮨箸砲弔韻真諭垢主であった(この点については、前掲・奥平『日本弁護士史』一八四頁以下、参照)。

 

 


 

 上述のように、私立法学校ではおもに国内外の法律書を教材として用いている。それでは、当時、国内外の法律書はどのような出版状況にあったのだろうか。そのような関心から作成したのが本資料2編である。なお、作成にあたっては、おもに国立情報学研究所Webcat Plus、NDL-OPAC(国立国会図書館蔵書検索・申込システム)、国立国会図書館近代デジタルライブラリー、西村捨也編『明治時代法律書解題』(酒井書店、昭和四三年)を利用した。

 

明治初年の法学文献(翻訳書類)

ヒッセリング口授/津田真一郎訳『泰西国法論』(開成所、慶応四年):国法学の理論書、でも巻頭には本邦初の法学概論の叙述が・・・

 

箕作麟祥訳『仏蘭西法律書』(全四〇冊、明治三〜七年):フランス諸法典の本邦初訳、日本最初の「六法全書」でもある?!

 

ピコー著/山崎直胤訳/谷森真男校『仏国民法註釈』第一冊(博聞社、明治八年一一月):本邦初のフランス民法注釈書

 

明治初年の法学文献(現行法関係)

外村有師(三行)訓解/安居修(以敬)・幸島三徳(浚明)校『三朝律書提要訓解(律書訓解)』上・中・下(三冊)(雪竹齋蔵版、須原屋茂兵衛ほか発兌、明治五年二月):本邦最初の法律用語辞典

川澄下枝編/近藤圭造閲『読律必携』一編(上・下)(一覧舎蔵版、千鍾房発兌、明治六年七月):律の注釈書

 

高橋秀好輯録『新律附例解』巻一〜六(太田金右衛門、明治八年四月):律の注釈書

 

横山成教・渡辺義雄編/五等議官依田董閲『擬律必携』乾・坤(二冊)(袋屋亀次郎、明治八年五月):律の注釈書

 

内村義城編述『律例釈義』(中外堂、明治九年六月):律の注釈書

 

平山果編/宮内貫一補閲『法律独稽古』(中村熊次郎蔵版、明治一〇年四月):本邦初の擬律用テキスト(事例問題集)

 

宮内貫一編『新撰法律独稽古』初編(中村熊次郎、明治一〇年一二月):平山編の全面改訂版