瀬川浩映画撮影監督労災訴訟事件
●瀬川労災事件年表
●解説・瀬川労災訴訟
●控訴理由書
●報酬・準備書面
●最終準備書面
◇準備書面(国)
◇最終準備書面(国)
●東京高裁判決(全文)
●東京地裁判決(全文)




1988年2月〜2002年12月までの
14年におよぶ活動の記録

緒方 承武
瀬川労災を支援する会事務局長

「労働者でなければおれたちは何なのだ」
 1989(平成元)年9月、映像職能連合(映職連)、日本俳優連合(日俳連)と映演共闘のメンバーが、新宿労働基準監督署長名の瀬川労災不支給決定通知を前にして会議を開いていた。通知書には「本件は、労働基準法第九条に規定する労働者とは認められないので、不支給と決定したものである」とだけ書いてあった。
 日本映画照明協会の久米光男さんが、ぽつりと「労働者でなければおれたちは何なのだ」といった。このひとことが、その後14年におよぶ瀬川労災認定運動の出発点となった。当時の私たちは「労働基準法の第9条の労働者」の意味もわからず、「労基法研究会報告」(85年)の「労働者性判断基準」というものがあることも知らなかった。
 1986(昭和61)年2月、映画カメラマン 瀬川浩さんは、ドキュメンタリー映画『北の仏』の東北ロケ中、脳梗塞で倒れ帰らぬ人となった。遺族は瀬川さんの死を過労死だと考え労基署に労災保険の遺族補償を申請したが、不支給決定をもらうまで、労基署には「瀬川浩という優れたカメラマンが過労死で倒れた」ことばかりを訴えていたのであった。
『軽井沢シンドローム』事件、そして「芸能労災連」の発足:
 瀬川労災を申請した年(88年2月)の夏(7月)、テレビドラマ『軽井沢シンドローム』ロケ中の自動車事故で録音技師が死亡し、運転していた俳優・堤大二郎さんが刑事責任を問われるという事件になった。堤さんを起訴しないよう、日俳連を中心に署名運動に取り組んだが、この事件が国会で取り上げられ質問が労災適用問題に及んだ際、労働省(当時)は「一般的に申しまして、俳優の方あるいはフリーの方、こういう方は労災保険の適用対象にならないという制度の現状でございます…」と答弁した。
 このあまりにも不条理な答弁をきっかけに、芸能現場の事故防止と労災適用を求める運動が広がり、翌年(89年)12月、芸団協(日本芸能実演家団体協議会)など芸能関連の8団体が「芸能労災連(芸能関連労災問題連絡会)」を発足させた。
 瀬川労災と、後に発生した映画美術監督・佐谷晃能さんの労災事件(91年、映画『一杯のかけそば』製作中撮影所の建具倉庫での転落事故)は、芸能労災連のフリーのスタッフや俳優等実演家の労災適用運動の代表的なケースとなり、個人署名など瀬川労災支援の輪が大きく広がり、国会でも西野康雄(旭堂小南陵)議員が、参議院労働委員会(92年4月)で瀬川労災をとりあげ質問に立った。 労災保険審査官の審査(労基署の不支給決定に対する異議申立て89年10月請求)では、国会答弁を問題にし「(不支給決定は)予断にもとづくもの」と批判し、映画製作や芸能の現場の実態を理解してもらうよう「撮影所の映画製作工程における労働の実態」(映演共闘作成)や芸団協の「意見書」を提出した。また15,500余筆の署名を提出し、NHKニュースで報道されたが審査官の判断は「労働者性なし」。2度目の「不支給決定」(94年11月)であった。
新しい「判断基準」(労基研「専門部会報告」)が出されたが・・・・:
 1995(平成7)年1月、瀬川労災は労働保険審査会に再審査(労災保険審査官の不支給決定に対する異議申立て)を請求した。再審査請求から裁決が出るまで3年半、瀬川労災の運動はさらに大きく広がった。1997(平成9)年6月「瀬川労災を支援する会」が発足、12月には「瀬川労災支援のつどい」で瀬川さんが撮影を担当した映画『落とし穴』(勅使河原宏監督作品)を上映した。労災認定を求める署名は323団体、17,192筆に達した。また、衆参の超党派議員による音楽議員連盟は、1997年3月の第21回総会から「芸能労災」問題を「取り組むべき課題」とし、瀬川労災を「映画カメラマンの労災事件」、佐谷労災を「映画美術監督の労災事件」という形でとりあげた。
 芸能労災連は、瀬川、佐谷といった個別事件だけでなく、実演家やスタッフの職能全体に国の労災補償制度の適用を求める運動をすすめ、1992(平成4)年6月に近藤労働大臣、1993(平成5)年には坂口労働大臣(いずれも当時)に大臣陳情を行った。これを受けて1994(平成6)年7月から、労働基準法研究会労働契約等法制部会労働者性検討専門部会(「専門部会」)が「芸能関係従事者の労働者性」について検討を開始し、1996(平成8)年3月、「専門部会報告・芸能関係者の労働者性について」(「新判断基準」)が発表された。
 この「専門部会報告」は、労働基準法研究会が1985(昭和60)年に出した「労基研報告」(「労働者性判断基準」)を、「芸能関係者についてより具体化したもの」であるが、総論でそれまで「フリーのスタッフや俳優には国の労災制度の適用なし」としてきた労働行政の見解を覆した点は評価できるものの、各論に入ると芸能現場の実態を見誤り、労働者性判断の重要なポイントでは「労基研報告」より後退するという「欠陥基準」であった。
 1998(平成10)年6月に出された審査会の裁決は、事実認定でも誤認が多く、「専門部会報告」の「欠陥基準」をあてはめて、「労働者性なし」の予断を押し通したものであり、「行政の壁」の厚さを痛感させられた裁決であった。
「事実認定は正確」「判断は誤り」の地裁判決:
 98年9月、東京地裁に訴状を出し瀬川労災は行政訴訟となった。「証言と証拠を積み上げ裁判官に正確な事実認定を迫る」との弁護団の方針で、証人は映画『北の仏』のチーフ助監督兼製作進行係の佐々木宏さん、同じくこの作品の監督、片桐直樹さん、東映大泉撮影所の現役プロデューサーで映演総連中央執行委員長の高橋邦夫さんにお願いした。結果的に地裁判決は「原告の請求棄却」で敗訴だったが、「事実認定」では原告の主張をほとんど認める内容になっている。問題は、せっかく正確な事実認定をしておきながら、これを判断する際「専門部会報告」の「欠陥基準」を無理にあてはめようとしたため、判断を誤ったばかりか事実認定と判断の整合性がなくなり、それをうめるために「そもそも映画の製作現場には指揮監督関係なし」として、一般的にフリーの映画製作スタッフの労働者性を否定してしまった点にある。これでは、「俳優やフリーのスタッフは労災適用の対象にならない」という88年当時の労働省の見解と同じである。
「専門部会報告」の誤りを正した高裁判決:
 東京高裁での控訴審では、映画撮影監督協会理事長の高村倉太郎さんが証人に採用された。高村さんの証言は、裁判官に映画カメラマンの業務、特に裁量の実態を理解してもらえる内容あるものであった。また、流通経済大学教授の鎌田耕一さんに「鑑定意見書」をお願いした。2002(平成14)年7月11日の高裁判決は瀬川さんの労働者性を認め「不支給決定取り消し」。労基署申請から14年5ヵ月後の逆転勝利判決だった。
 高裁判決をうけて、厚生労働省が最高裁に上告するかどうか注目されたが、上告断念、高裁判決が確定した。高裁判決から5ヵ月後、02年12月10日、瀬川労災は新宿労基署で業務上と認定された。 高裁判決は、地裁判決の「事実認定」を生かしながら、
@ それを一部補正することで「映画製作現場に指揮監督関係なし」とした地裁判決の「そもそも論」を覆し、
A 特に「場所的・時間的拘束」について、きわめて常識的な判断を示し、「専門部会報告」の「映画製作の特殊性論」をも正し、
B 報酬について「一本いくら」の支払い形態であっても、(地裁判決が)「日当と予定撮影日数を基礎として算定したもの」と認定したことをあげて「むしろ賃金の性格が強い」と判断している。
 これらは、今後フリーの映画製作スタッフや俳優等実演家に労災適用の道を開く画期的な意義をもつものといえよう。高裁判決の総合的な評価については専門家の検討を待ちたい。
 労災申請から14年5ヵ月、ようやく「労働者性」認定の判決を得ることができたのは、4人(柴田五郎、米倉勉、小林譲二、水口洋介)の弁護団と4人の証人の奮闘によるものである。控訴審で流通経済大学の鎌田耕一教授にお願いした「鑑定意見書」は、東京高裁判決に影響を与えただけでなく、今後の「労働者性」をめぐる運動に役立つ「財産」となり得るものである。また音楽議員連盟の「取り組むべき課題」となり、「芸能労災」問題が度々国会質問で取り上げられたことも世論と行政に大きな影響を広げた。「大臣陳情」も音議連のバックアップがあって実現した。
 なによりも大きな力は、芸団協、映職連、日俳連、俳優団体連絡協議会、全日本舞踊連合、日本演芸家連合、全技連、日本芸能マネージメント事業者協会、映演共闘の10団体による「芸能労災連」を中心とした「瀬川労災を支援する会」の運動が、日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)、東京地方労働組合評議会、さらには市民レベルにまで広がったことである。
                                            おわり