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  宮古一中吹奏楽部 創部の頃

Tash

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八幡沖の“いか最中”
ボンネット・トラック
チョウセンアカシジミ
角力浜−父の夢の場所
こーせー様
おーすんよ
鍬ヶ崎あれこれ
フライ旗、港町のお正月
懐かしい通学路
臼木山の思い出

とっときの場所
クロコシジロウミツバメ
尾玉さまを科学する
まづぼだーべ。
仰げば尊し
ジャージャー麺の思い出
浄土ヶ浜の夜光虫
八幡鳥居の前は交差点だった。
「わが町 宮古を描く」
母のカダゲダ時代

三陸フェーン台風の恐怖
八幡の名水
鴨崎病棟
宮古弁カルタ
宮古でデレッキと言えば?
おとうちゃんとブームとストーブ
たきぎのお風呂
お深山に神社がふたつ!
ホヤは宮古に限る。
地震と増坂先生の絵画展

グリル喜楽
鍬ヶ崎1丁目
パンの耳とガリジュー
もすかや
寅さんの話
スレッポ
渡船と小山田橋のことなど
宮古一中吹奏楽部 創部の頃






うらら
OCCO
うらら
うらら
珊瑚
青年漁師
珊瑚
うらら
うらら
うらら

珊瑚
青年漁師
けむぼー
OCCO
*みんなの声
うらら
うらら
OCCO
うらら
OCCO

OCCO
OCCO
けむぼー
うらら
*みんなの声
ばっつ
ばっつ
まっこけっこ
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eco

OCCO
珊瑚
まっこけっこ
OCCO
OCCO
小成善吉
Tash
Tash

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■ 八幡沖の“いか最中”

                うらら

 大通りが八幡通りと呼ばれていた頃、小西煮豆屋さんの先の角を右に曲がって2〜3軒目に、いかの形をした最中を売っていた小さなお店があったこと、じんさん覚えていますか?
 “阿部のいか最中”というお店で、当時お店には最中しか置いていなかったように覚えています。
 最中は一つ一つ白い和紙の袋に包まれ、ガラスのケースに入ってバラ売りされていました。
 餡は小豆餡、白餡、青のりの入った磯餡の3種類。
 皮は、香ばしい、いかの味がしました。
 以前「おこちゃんのごっつお」のBBSで宮古の銘菓が話題になったあと、ひょっこりその存在を思い出しました。
 そういえば昔おやつに食べた“いか最中”はどうしたのだろう?
 話題にもなっていないし、もう今は無くなってしまったのかな、と……
 早速翌日、歌舞伎座向いの、いわて銀河プラザへ。
 菅田のいか煎餅は置いてありますが、やはり“阿部のいか最中”はありません。
 う〜ん、宮古の人に聞いてみるしかないかな、と思っていた2日後、私の元に荷物が届き、開けてビックリ。
 送られてきたのは、そう、探していた“いか最中”だったのです!
 「何か宮古のものを食べさせたいと思って送ったんだーよー」という友人のお母さんからの贈り物でした。
 不思議、不思議。
 どうして私の探しているものがわかったの?
 友人もお母さんも、BBSのことや私が探していたことなど、もちろん知りません。
 何十年ぶりかの“いか最中”は昔と変わらない懐かしい味で、おいしかったです。
 大好きな磯餡をたくさん食べました。
 現在“阿部のいか最中”は大通りから高浜に移転して営業しています。


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■ ボンネット・トラック

                OCCO

 四輪駆動あるいは六輪駆動のボンネット・トラックは、材木屋というより、山から木を切り出してくる××林業というようなところで主に使われていました。
 私のうちも昭和55年(1980年)まで材木屋(ぜーもぐや)、すなわち製材所でした。
 昭和40年(1965年)ぐらいを境に普通のノーマルなトラックになりました。
 というのは、近隣の山の木は××林業さんから丸太のまま仕入れるからです。
 切り出した丸太を積んでオフロードの林道を走るには、どうしてもへビーデューティーなトラックが不可欠でした。
 途中からは外材が多くなり、製材所ではあの手のいかついトラックは不要になったのです。
 ボンネット・トラックは多くがいすゞ製でした。
 当時の山間を走るバスやトラックは、ほとんどが同じような顔をしていましたね。
 この夏、帰省したとき、蜂ヶ沢で見かけたトラックは、すごかった。まさに40年ぐらい前の六輪駆動のいすゞ。
 ほんとうにクルマを愛している人が大切に乗っているトラック、という気がしました。


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■ チョウセンアカシジミ

                うらら

 シジミとつくので貝の名前と間違えてしまいそうですが、宮古に育った人なら誰でも子供の頃、閉伊川の川縁や野原で何度も出会ったことのある赤茶の縞々の蝶の名前です。
 この懐かしい蝶が、国内では初めて昭和28年(1953年)に三陸沿岸地域で発見されたこと、現在日本版レッドデータブックに希少種として記載されていて絶滅の危機にあること、そして宮古で昭和61年(1986年)に“チョウセンアカシジミの会”を発足させ保護活動を実践しているのが、宮高の同級生のOYさんだということを最近になって知りました。
 OYさんのことは“IPANGU”という小冊子に紹介されていたのですが、聞いたことある名前だな?と気になっていて、あとで宮高の卒業アルバムをめくってみると、彼はアルバムの中にいました。
 たぶん宮小、一中、宮高と一緒だったように思います。
 プロフィールを読んで知ったのですが、宮高時代にチョウセンアカシジミの研究で日本学生科学賞を受賞しています。
 生物部の写真にも写っていました。
 そして「宮古なんだりかんだり」に出ていた亀岳中学校のHPの「田代紹介」のところに、生徒と一緒に保護活動を行なっている姿がありました。
 チョウセンアカシジミの食樹であるトネリコが河川改修や伐採で激滅したことが、この蝶が消えつつあることの原因だそうです。
 OYさんは川岸や民家の周りに一本一本トネリコを植えて、すみかを甦らせる運動を広げています。
 「生息地を秘密にせず、みんなに知らせて守っていくことが今後の保護のポイント。
 昔からあったものがなくなるとはどういうことか考えてもらいたい」
 というのがOYさんからのメッセージです。
 
 *“IPANGU”は県の広報課が県外に岩手の情報を発信している季刊広報誌。
 チョウセンアカシジミの会の記事は同誌第27号に掲載。(じん)


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■ 角力浜−父の夢の場所

                うらら
 
 角力浜には思い出があります。角力浜は、実現されなかった“父の夢の場所”でした。
 父は今から15年ぐらい前に所有していた角力浜で観光業を行おうとしていました。
 宮古に観光で来た人たちに、海の近くで美味しいものを食べてもらいたい、というのが希望でした。
 県南でほかの事業を立ち上げていた父にとって、離れた宮古で新しいことを始めるのは無理があったと思います。
 角力浜に、事務所とモーターボートといけすを準備したところで、計画を中断してしまいました。
 新しい事業を続けていくには、多くの資金と時間とスタッフが必要ですが、それが不足していたのだと思います。
 上京して離れて暮らしていた私は、そのことを聞き、また父の新しいことやりたい病が始まったなぐらいにしか考えていませんでした。
 それまで何度か計画に協力したことがあったのですが、今度はちょっと無理だなと思っていました。
 いつ頃から構想を立てていたのかは知りませんでした。
 中断したあとに聞いてみると、角力浜をフィッシャーマンズワーフのようにしたかったとのことでした。
 私はまたもやこころの中で、やっぱり無理じゃないかなと思いました。
 いつも夢は誰よりも大きく、挫折してもめげない父でした。
 そんな父が病に倒れ、会社の負債の補填のために次々と家や土地を売却していったのですが、最後まで角力浜は手放しませんでした。
 亡くなったあと、どうしても相続を放棄しなければいけない状況になり、“父の夢の場所”は国有地になりました。


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■ こーせー様

           珊瑚

 昔は、お正月を何回もしたのでしょうか。
 母はよく、
 「松こで待って、笹こでさっと、杉こで済んだ」
 と言っていました。
 お正月が旧暦だった頃は、いろいろな行事があったらしいですね。
 小学校に入る前だったように思います。
 小正月の夕方になると子どもたちが集まり、近所の家々を、
 「おーすんよ、おーすんよ、今年もさがなが大漁で……」
 と言って回り、お菓子などを貰って歩きました。
 そのあと、こーせー様(金勢社)に集まって、貰ったものをみんなで食べたりしたような記憶があります。
 回るのは知っている家、町内と言うより班内のほんの数軒を回ったのだったと思います。
 大きい子たちの後ろについていき、すごく恥ずかしかったことを覚えています。
 鍬ヶ崎でも上町のほうはどうかな、鍬ヶ崎の一部の地域だけかな、とも思います。
 こーせー様は日影町の子供会や町内会の集会所として使っていました。
 おぐまん様(熊野神社)のお祭りに使うピンクと白の花なども割り当てられ、子どもたちも集まって作ったりしました。
 「何の神社だっけー」
 と姉に聞いたら、
 「ほら、おどごの人の〜」
 と言っていましたが、どう思い出しても神社の感じのしないところでした。


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■ おーすんよ

           青年漁師

 うちの86歳のばあさんに、
 「おーすんよって知ってるか」
 と聞いたら、
 「知っている」
 と言われました。
 昔の小正月に「おーすんよ、おーすんよ」と言って家を回ったそうです。
 「わらすの頃やって、あとはやってねぇ」
 って言ってました。
 ばあさんは、ぜえごからここ(日立浜)に嫁に来た人で、花輪で「おーすんよ」してたそうです。
 意味は、わがんねぇそうです。
 昔の人んどぉも「おーすんよ」って言ってだがら「おーすんよ」だそうです。
 昔の人というと100歳以上の人から、そんな「おーすんよ」してたそうです。
 こっちに嫁に来てからは、やっていたのかは知らないそうです。
 ちなみに、戦争中の臼木山(さぐら山)の半分は畑として使っていたそうですよ。
 その当時にも、エドヒガンザクラがあったそうです。
 今のサクラって、90年以上だそうです。
 とても貴重ですね。


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■ 鍬ヶ崎あれこれ

             珊瑚

 昭和8年の津波で母方の祖母と子供が亡くなった話を聞いたことがあります。
 地震で一度は逃げたらしいのですが、なぜか戻って、一番に船で田老から宮古の、たしか三浦医院に運ばれたけれど助からなかったそうです。
 チリ地震津波のときは菱屋さんの横のセキまで海水が来ました。
 道路には溢れなかったような気がします。
 私は母と姉の3人ですぐそばのお稲荷さんに逃げたのですが、その日は遠足のような……。
 被害にあったのは水上警察の近くに住んでいたI君の家で、床下浸水。
 クラスで一人だけでした。
 高浜はすごい被害だと聞いていました。
 でもその頃、実際によく分かってはいませんでした。
 田老の防潮堤を見ると津波に対して万全のように思えます。
 藤原も防潮壁でしっかり防災しているらしい。
 鍬ヶ崎は?
 と心配になり聞いてみたのですが、それなりの調査をしていて心配しなくてもいいらしいとか。
 ひとまず安心。
 でも、慶長の大津波は蛸の浜の坂を越えたのですね。
 絶対あり得ないと思っていました。
 チリ地震津波のときに逃げたお稲荷さんは家から1、2分のところにありました。
 そこから登って行くと測候所に出ましたが、道らしい道はなくて、タデヤマ(館山)と呼んでいました。
 隣りの家のお稲荷さんで、祠はけっこう大きく、ひと部屋くらいある感じでした。
 神主さんは山根町に住んでらっしゃるのではと思います。
 高校の頃、不動園(銭湯)の近くの神主さんに運動会の源氏物語の仮装行列に使う衣装を借りに行ったことがあります。
 すごく怒鳴られましたが、必死に説明をしたら貸してもらえました。
 「おおやんまね」とか「こやんまね」とか、どっちだったか……
 「おおやんまね」「こやんまね」というのは屋号です。
 むかし鍬ヶ崎は商売をしている家が多かったからでしょうか、屋号で呼ぶことのほうが多かった。
 近所の家は道路側の部屋を店の造りにして、商売をするか、貸すかしていました。
 近くの家の屋号を思いつくままにあげると……
 安念丸、さくら屋、からげぇ屋、はんぞう屋、ときわ屋、さすけ屋、だるま屋、きせる屋、いだこ屋、うまこ屋、むぐめ屋、せんま屋、とぐすけ屋、とぐすま屋、げんたろう屋。
 今もそのままの鯛屋、ひっさ(菱屋)、かすけ屋、さばね屋。
 鯛屋さんは清水橋の角、ヴァイオリニストの古館由佳子さんのご実家です。
 お菓子類からノート、鉛筆、花火など、なんでもありました。
 むかしは反対側に田老行きのバスの停留所がありました。
 私の家でもバス通り側の部屋を店と呼んで貸していた時期があります。
 屋号のついた番傘が玄関の上のほうに必ず何本か掛かっていました。
 鍬ヶ崎小学校の前を川が流れていて、清水橋〜前須賀のバス停のそばを通って海に流れていました。
 清水橋はバスの終点の所です。
 むかしは橋が架かっていたと思います。
 舗装になっていない頃、雪だるまを道路で作って遊んで、あまりにも大きくなり過ぎて道路から清水川に転がして落とした……
 そんなこともありました。


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■ フライ旗、港町のお正月

                 うらら

 小学6年生の夏休み、新潟の造船所に依頼して造った船の進水式のため、家族で新潟まで出かけました。
 そのとき初めて進水式というものを体験しました。
 ぴかぴかの真新しい船が、テープカットのあと、赤や黄、緑、青のたくさんのフライ旗を掲げて、音楽とともに水に滑り降りてゆく姿は、本当に美しかったです。
 緊張しながらも、不思議とおごそかな気持ちになったことを覚えています。
 昔から船底にはお守りとして、女の子の髪の毛をひと束入れる習わしがあります。
 新しい船には私の髪が入れられていたので、責任重大と心した記憶があります。
 お正月には宮古港でも船はフライ旗を揚げます。
 魚市場の初市が2日か3日?にあるので、その日はどの船も一斉に揚げます。
 大晦日から船は沖に出て漁をし、初日の出を拝むのは太平洋の大海原で。
 年が明けて大漁旗を揚げて堂々と帰港するために、年を越えての漁は一年で一番力の入ったものでした。
 初漁を頑張ってもらうため、母のおせち料理作りにも気合いが入ります。
 毎年27日頃からお手伝いの人と手分けして、家の分と船の分の計20人分の準備を、併行して段取りよくこなしていきます。
 私は“八べえや”さんや“みかわや”さんへ。
 それから材料の足りないものの補充の買い出しに走ります。
 よく手伝ったのが、お煮しめの野菜の皮むきと、お生酢やお雑煮のための大根の千六本。
 船の漁師さんは本当によく食べるので、大根の本数は生半可じゃなかったです。
 甘い物もみんな大好きなので、膨大な量のお汁粉と、黒豆を作りました。
 年末だけは我が家の台所も旅館の厨房のようになってしまうのでした。


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■ 懐かしい通学路

             うらら

 八幡沖の踏切を渡ってから宮町の八幡様までの道のりを、幼い息子たちの手を引いて歩いている8ミリの記録が残っています。
 子連れで帰省するようになって何年目かの夏に撮影したものです。
 「この道は夢の中によく出てくるの」
 と誰に話すわけでもなく、昔を思い出すように独りごとを言っている私が映っています。
 昔は右側は国鉄の線路や倉庫に沿ってバラ線と板塀が続き、左側は閉伊川の土手まで続く田んぼと数軒の住宅と倉庫でした。
 その間を一本の直線の長い道が続いていました。
 夏は日陰がないため容赦なく太陽がジリジリと照りつけ、道端の所々に咲く向日葵や芙蓉の花だけが色を添えている、そんな少し殺風景で寂しい道でした。
 冬の雪の降った朝はほとんど通る人がなく、降り積もって真っさらな雪道。
 前を行く数人の中高生の長靴の足跡を見ながら、滑らないようにと後に続いて黙々と歩きました。
 一中、宮高と6年間通った道だったからでしょうか、宮古を離れてからも繰り返し夢の中に登場してきた風景です。
 じんさんの「シミ雪」と「大寒」を読んでいて、懐かしく思い出しました。
 夢の中では一本道は永遠に続き、いつまでたっても曲がり角のところまで辿り着きません。
 新しい事にチャレンジしようとしている時、ちょっと迷っている時、ちょっと辛い時、どういうわけか夢の中に出てきました。
 幾度も夢の中に出てくる不思議な思い出の風景は、誰もがそれぞれ持っているものなのでしょうね。


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■ 臼木山の思い出

             うらら
 
 今日「宮古なんだりかんだり」を読んでいて、臼木山のことを懐かしく思い出しました。
 子供のころ、毎年ちょうど今ごろの晴れたお休みの日は、家族や親戚や近所のおばさんたちといっしょに臼木山にお花見に出かけました。
 お弁当はいつもの定番。
 のり巻きといなり寿司。
 おかずは煮物や玉子焼きや漬け物。
 ごくごく普通のものでしたが、桜の木の下でみんなで楽しく食べるお弁当は、ほかでは味わえない最高のごちそうでした。
 春の宮古の思い出のなかでは、いちばん心に残っているできごとです。
 お花見の日は、私はいつもゴザを運ぶ係りでした。
 ゴザはクルクルクルッと丸めて肩にかついで行きました。
 拡げる場所を探す係りも兼任で、臼木山に登り着くと、景色がよくてデコボコしていない場所を探しまわりました。
 でも、たいてい探している途中でカタクリの花のほうに目がいき、その可憐さに見とれてしまいました。
 「とってはだ〜め」
 という母の言葉に、
 「うん」
 と返事しながらも、一度だけこっそりとって、押し花にしたことがあります。
 初めはきれいな薄紫色だったのが、2週間ぐらい経つとだんだん白っぽく色が抜けてきて、咲かしておいてあげればよかったと後悔しました。
 母が言った意味がよくわかりました。
 アルバムをめくって、臼木山で撮った写真を見てみましたが、みんなモノクロで色はわかりません。
 でも、きっときれいな桜色だったのでしょう。
                   (2005.4.20)


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■ とっときの場所

             珊瑚

 子供の頃、家の畑や山に何度か父や母についていった記憶があります。
 ふだんは家の前のバス通りが遊び場だったので、山とか畑は、とっときの場所でした。
 おぐまん様(熊野神社)の石段を上ってどんどん行くと、蛸の浜の上のほうの山に出ます。
 山にはカタクリの花が咲いていて、近所の子たちで摘みにいったことがありました。
 子供だけでは滅多に行く場所じゃないのに、ちょうどよく咲いている時期に、どうしてカタクリの花を摘みにいったのか、不思議な気がします。
 たくさん摘んで、その後どうしたのかも記憶がありません。
 訪れる人もなく、今年も山にはカタクリの花はひっそり咲いているのでしょうか。
 だいぶ前ですが、東京の人から別荘を建てたいとの話があったそうです。
 見晴らしもいいし、なんとなくいい感じだなぁと聞いていたら、国立公園だからでしょう、家は建てられないそうで、木を切るのも届け出が必要だとか。
 ひと回り近く歳が離れた兄と姉の話では、戦争中、畑に小屋を建てて、昼はそこに疎開したのだそうです。
 あんな近くに疎開したって、空から見たら……と思いますが、どうでしょう。
 数年前、見にいったことがありました。
 水仙が畑の脇に咲いていました。
 数十年振りに見たまわりの景色は、お墓だけが目立つところになってしまった、そんな気がしました。
 浄土ヶ浜道路で二つに分断されてしまった小さな山で、沢を下っていくと蛸の浜です。
 場所は違いますが、いまは中里団地になったところに近所の家の畑があって、やはり子供だけで遊びにいったことがありました。
 畠山八百屋さんのところから坂を上り、どんどん行くと吉田花屋さんが左側にあって、そこからまた上っていきました。
 草のすっかんぽ?や桑の実を食べたのも、その畑に遊びにいく途中だったような……。
 お寺を下に見て、乾いた土の細い道を、ちょっぴり怖い感じで歩いていった記憶も残っています。
 田老鉱山から続いていたのでしょう、あの音符記号のような物体がすごく近くに見えて、雪を固めては投げ、届くはずもないのに何故か楽しかった記憶があります。
 「てっさく」(鉄索)と呼んでいたような気がします。
 東の空をゆっくり動いていく様子は、小学校低学年だった私には、なんとも不思議なものでした。
 畑は海のほうに向かってだんだんと低くなっていて、見晴らしが良かったような気がします。
 あの畑があった場所に、いまはたくさんの人が住んでいるんですね。
 8歳か9歳頃の記憶……
 それから一度も行ったことがありませんが、団地になってもきっと見晴らしの良いところでしょう。


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■ クロコシジロウミツバメ

                 青年漁師

 よく見ますよ、クロコシジロ。
 この鳥って、夜行性だから明るいときに見ることってほとんどないんじゃないでしょうか。
 秋冬くらいによく見ます。
 鮭漁の期間だと、夜中に黒い鳥が飛んでいます。
 光に向かってくるような習性があるんでしょうか。
 よく魚市場の明かりに向かって飛んできて、車にひかれて死んでるのがいます。
 狭いところに入っていきます。
 いちど家の庭の道具置き場でゴソゴソ音がしたので、おっかなびっくりで行ってみると、隅っこのほうにむりくり入ろうとしてました。
 臭いんですよね。
 やばつくて(汚くて)菌がつくかと怖かったです。
 汚くて臭いので触りたくないです。
 弱った鳥のような感じです。
 カラスのようにあんなに黒くはないです。
 日出島には無数の巣穴がありますっけよ。
 写真撮ったのがあります。
 斜面に巣が作られていたんですけど、斜面が崩れてきてました。
 見ているときに石や砂が落ちてきました。
 許可があって島に上がった人から聞いたんですけど、斜面じゃなく、上にも巣の穴がいっぱいあるそうです。
 高山植物らしき珍しい植物もあるそうです。
 道がちょこっと整備してあって、ヒモが張ってあって片側歩行できるそうです。
 蛇が多いそうです、マムシが。


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■ 尾玉さまを科学する

               けむぼー

 長根寺の尾玉さまの話、興味深く読みました。
 “花の産んだ仔は、握りこぶしほどの大きさの真っ黒い毛につつまれた一個の玉”
 これは、牛ではたまにあるのですが、先天性の奇形のひとつで、「無形無心体」だと思います。
 一卵性双子の片割れがうまく発育せず、牛の形にならないで、毛の生えた肉球状になって分娩されるようです。
 獣医産科学から写真を借りたので、お見せします。
牛の無形無心体
 ちょっと気持ち悪いかもしれませんが、それなりにご利益がありそうです……
 写真は白黒なのでホルスタインの尾玉様ですね!
 大きさは12〜13センチってところでしょうか。
 ちょうど握りこぶし大です。
 産気づいて娩出されたというところがポイントかもしれません。
 無形無心体は、基本的に毛と皮膚と皮下組織などで、内臓器官は形成されていないと思います。
 内臓組織がなければ、そのまま乾燥してしまって、長らく保存されることはあるかもしれません。
 それから、「毛球」というのも牛や馬ではときどきあります。
 嘗めた自分の毛が胃や腸内で毛玉になって、それにカルシウムやリンやマグネシウムなどのミネラル分が沈着して石のようになったものです。
 すごく軽くてきれいですよ。
 僕が見た毛球は、全体にツヤツヤしたコバルト色をして、ところどころに毛がはみだしているようなものでした。
 この毛球が発見されるのは家畜が腸閉塞とかで死んだときが多いようです。


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■ まづぼだーべ。

             OCCO

 まつも――
 観光土産用のパッケージには「まつも」とあるが、宮古の人、特に海側の人は「まづぼ」と呼ぶ。
 三陸を中心に磯場に生育する貴重な海草だ。
 春先に獲れる生まづぼを味噌汁や吸い物に放すと、ぱっと鮮やかな緑色に、さながら小さな松の小枝を散らしたように広がる。
 松藻――なるほど、いいネーミングである。
 図鑑的にはマツセノリというらしい。
 椀に放すのもいいが、ざるに取り、熱湯を通したものを三杯酢で食べるのもまたいい。
 香りがいい、ぬらぬらざらざらの歯ざわりがいい。
 春には生ものがたくさん出ているが、海苔状に焼いたものや、それをさらに小分けしてパッケージしたものが1年を通じて手に入る。
 まづぼのカロチン含有量は海苔のほぼ10倍。
 生活習慣病予防やガン予防にも効果大とのこと。
 宮古のまづぼ漁は4月から6月。
 漁師が、口開け(漁の許可された日)に、サッパ(小さな漁船)で獲る。
 たくさん獲れるものではないので、都会の魚屋やスーパーでは、ほとんど見あたらない。
 一般的にはまったく無名の不思議食材であり、また知る人ぞ知る高級食材なのだ。
 ものの本によると、料亭や高級割烹では出てくるらしいが、縁がない。
 ああ、まづぼのおつけが食べたいなあ。
 「今日のおつけはなんだーや?」
 「まづぼととーふ」
 おつけは御付、もっと丁寧になると御御御付。
 うちの親父は言ってたなあ。
 「まづぼの御御御付は、いづばんだあ」


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■ 仰げば尊し   *みんなの声



小国先生(一中・音楽)

 うららさん曰く――
 「仰げば尊し 中学篇」、とても懐かしかったです。
 小国先生! 私も音楽を教えていただきました。
 華奢で目のパッチリした、肩までの髪が外巻で、いつもちょっと首をかしげた感じでニコッと微笑んでいる、お姉さんのような先生でしたね。
 
斉藤先生(宮高・数学)
 
 “大柄で色の白い先生だった。講義が熱を帯びてくると赤ら顔になった。テンポがよかった。そのテンポのよさについてゆけなかった。”            「仰げば尊し 宮高篇1」より
 
 けむぼーさん曰く――
 たぶん自分が高1のときに数Tを習った先生かもと思いました。
 山形出身の方で、汗をかきながら板書し、
 「ハイ……。ハイ……。分かりましたね。……」
 とどんどん進んでいく。
 確かに白い丸いお顔に黒縁眼鏡。
 ときどき問題を当てられ、前に出させられて、黒板に書かせられました。
 ちんたら答えていると、
 「はい、こんな問題に時間かけてたらだめですねー」
 と言われました。
 「名前は、斉藤良夫と申します」
 と最初の授業のときおっしゃいました。
 好きな先生だったのでよく覚えています。
 
 HALさん曰く――
 斉藤先生には私も習いました。
 たしか新任で宮高にやってきたと記憶しています。
 斉藤先生の授業になると2階の教室の上級生が授業の邪魔を仕掛けて、先生は怒りに2階に駆け上がって行ったものでした。
 あの生真面目さが、おちょくるのにちょうどよかったのでしょうね。
 
谷地先生(宮高・地学)
 
 HALさん曰く――
 習いましたよね!
 あの浄土ヶ浜の白いギザギザ岩が石英粗面岩だって。
 教えてくださった先生のお宅が約850歩のところにあります。
 お会いすることはほとんどありませんが……。
 そう、谷地先生です。
 授業中、ダジャレを入れるのは毎年同じところ。
 おまけにテストの問題は先輩から必ずここが出るからと伝えられていて、そのとおりの出題でした。
 おかげさまで地学は良い成績でした。
 点数が良くても残念ながら身についてはいませんがね!
 
谷地先生・悟郎先生(地学・倫社)
 
 OCCOちゃん曰く――
 谷地さんの地学、悟郎ちゃんの倫理は普遍のドラマがあった。
 山岳部に伝わる地学と倫理の教科書にはいたるところに「ここで駄洒落入る」とか「ここで雑談入る」とか、注意書きがあった。
 それがあったので退屈な授業も来るか来るかと待っていたものだった。


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■ ジャージャー麺の思い出

                 うらら

 大学3年のちょうど今頃の季節、母校宮古一中で教育実習生としてお世話になりました。
 専門科目は家庭科でした。
 職員室では実習生という生徒なのに、教室では先生と呼ばれる毎日は緊張の連続でした。
 それでも数日後には受け持ちの生徒たちと仲良くなり、放課後にはいろいろな話をするようになっていました。
 ある日一人の女生徒に、
 「先生は大学を出たら先生になるの?」
 と尋ねられました。
 ドキッとしました。
 資格を活かした職業に就こうと考えてはいたものの、候補としていたいくつかの職種は、自分の進みたい道とは少しズレがあることに気づいていました。
 教職もその中の一つでした。
 「実はやってみたいことがほかにあるけれど、収入が安定しないので迷っている」
 と正直に話すと、女生徒は少しがっかりしたような表情を見せ、その後、真っ直ぐ私を見て言いました。
 「先生、収入よりも、あとから後悔しないように、やりたいことをやったほうがいいがぇー。
 夢に向かっていかないとー」
 ショックでした。
 15歳のストレートなパンチに完全にノックアウトされました。
 忘れてしまっていた大切なことを教えてもらいました。
 教育実習最終日、授業はジャージャー麺の調理実習でした。
 みんな予習したとおり、ちゃんと作ってくれるかな……とドキドキしていましたが、途中であちこちから、
 「先生ちょっと」
 と呼ばれて走り回っているうちに、どの班も時間内にはちゃんと出来上がっていました。
 「先生、すごくおいしーい」
 「うちで作ってみんなに食べさせっぺーすー」
 という声が飛び交いました。
 試食してみると、どの班も本当においしいジャージャー麺が完成していました。
 みんなの満足な笑顔に私も大満足。
 教育実習は無事終了しました。
 東京に戻り夏休みの終わる頃、私は卒業後の進路を決めました。
 今でも夏が近づくと懐かしく思い出します。
 おいしかったジャージャー麺とみんなの笑顔を。
 そして、後輩の一中生たちと一緒に過ごした楽しかった日々に感謝しています。      (2006.6.12)


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■ 浄土ヶ浜の夜光虫

              うらら
 
 「夜光虫を見に行きませんか」
 と誘われたとき、海辺を飛ぶ蛍のような、小さな光る虫を連想しました。
 実際のところ、どんな虫なのか今まで一度も見たことがないので、ぜひ自分の目で確かめてみたいと思いました。
 その日、急きょ結成された夜光虫探検隊。
 隊長が男性で、ほか3名は女性隊員です。
 夜の9時過ぎ、探検隊は浄土ヶ浜の駐車場に到着しました。
 お盆休みのためか、駐車場には車が1台止まっているだけです。
 人の気配はまったくなく、しんと静まりかえっています。
 車から降りた4人は懐中電灯を片手に、駐車場から中の浜に続く真っ暗な道を歩き始めました。
 闇の中を照らす灯の先に、10日ほど前に出たクマが再び舞い戻ってさまよっていませんように、と祈りながら……。
 「カラーン、カラーン」
 とクマ避けの鈴の音が響きます。
 さすがに隊長は、夜の浄土ヶ浜に通い慣れているせいか妙に落ちついて、頭にもライトをつけスタスタ歩いています。
 あとに続く私たちは不安で、あたりをじーっとうかがいながら、ソロリソロリとゆっくり進みます。
 「大丈夫かなあ〜」
 「大丈夫、大丈夫」
 怖さを紛らわすために、話し声も一段と大きくなります。
 怖いけれど、無事にここを通り抜けたら夜光虫が見られる、と思うと、ドキドキとわくわくした気持ちが入り混じります。
 ふと急に、子どもの頃に戻ったような気がしました。
 幼い頃はいつも好奇心で一杯でした。
 あの頃と変わっていない自分をちょっと感じて、なんだかとても嬉しくなりました。
 中の浜へ着くと、シャッターの降りた売店の外灯が、ぽつんぽつんと点いています。
 もうここまで来たらクマは出てこないだろう、と思うと、みな元気になって海へ向かいます。
 波打ち際でサンダルを脱いで、ぬるっとした石の上を滑りながら海に足を入れてみると、海水は思ったより冷たくて、ひんやりとしていました。
 「水面を手で円を描くようにすると夜光虫が見えるよ」
 と隊長の声が聞こえます。
 3人で手をくるくる回します。
 すると、シルクのような水面がきらきら煌めいて、星くずのようなものが光ります。
 とてもきれいで、優しい安らぎを与えてくれる光です。
 きらきらはすーっと消えていくので、またくるくる回すと、再びきらきら揺れて輝きます。
 このとき初めて夜光虫は、海辺を飛ぶ虫ではなく、水面のプランクトンが光を放つものだと知りました。
 小雨の中、海の方へ懐中電灯を照らしてみると、闇の中に白い岩肌がぼうっと浮かんで見えます。
 白い岩は、過去も未来もなく、今この時を、あたたかく見守ってくれているように思いました。


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■ 八幡鳥居の前は交差点だった。

                    OCCO

 子どもの頃を過ごした宮町(旧八幡前)周辺の古い地図を見て驚いてしまった。
 それはたぶん昭和30〜40年代ぐらいのものだろう。
 このあたりは、いまでこそ106号バイパスと旧女学校通りの交差点を中心に、宮古市で最も渋滞の名所となっているが、当時から思うとまったく隔世の感を禁じえない。
 バイパス工事が始まったのが昭和44年頃。
 大掛かりな区画整理によって八幡前は大きく変容した。
 かろうじて旧街路の名残をとどめているのは、鳥居から八幡様に向かう参道周辺だろうか。
 地図を眺めていたら、いまの見慣れてしまった風景にすっかり埋まって忘れていた風景が、記憶の奥から甦ってきた。
 バイパスの交差点から小山田橋へ向かって30メートルほど、八幡鳥居の前は、40年前は交差点だった。
 つまり参道から鳥居を抜け交差点を越えてまっすぐに道が伸び、右手に国鉄官舎と独身寮を見て田んぼにぶつかる。
 そこを右に行くと宮高。
 左に行くと銀杏の湯があり、さらに道なりに線路沿いを行くと八幡沖踏切に至る。
 交差点の4つの角は、一中側のガッチャンポンプ(現在、公衆電話)から時計回りに、朽木邸、多田商店、その向かいが現在宮古歯科となっている宮古服飾学院だった。
 宮古服飾学院は昭和37年にできたという。
 周辺がほとんど平屋だった時代、いきなりできた3階建ての真っ白なビルで、八幡様から観ると宮古市内でもとても目立った。
 紺色の制服をきたお姉さんが、とても大人に見えたものだった。
 記憶を手繰っていたら交差点から旧女学校通りのお店がぽんぽん目に浮かぶ。
 多田薬局の左側に内野屋食堂、もっきりの佐々木酒屋、八幡コロッケ・串カツの畠山精肉店、文具からお菓子までの今井商店、小さな庭を挟んで丸子八百屋が並び、八幡商店街をつくっていた。
 当時、女学校通りは未舗装で車が通ることなどほとんどなく、朝夕だけ宮高と一中の生徒、国鉄やラサに勤める職員の人通りで賑わった。
 お盆になると交差点の真ん中にやぐらを組み盆踊りも催されたものだった。
 もう40年も昔のことである。


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■「わが町 宮古を描く」

                うらら

 昨年の夏十数年ぶりに帰省した時、宮古の町が大きな変貌を遂げているのを見て驚きました。
 新しい建物が立ち並ぶ場所からは、以前そこになにがあったのか思い出せません。
 出逢い橋の上に立った時、「ここは本当に宮古?」と、まるで知らない町を見ているかのようでした。
 そして沢山のお店がシャッターを下ろしている末広町からは、不況の大きな波が宮古の町にも押し寄せてきたことを、まざまざと知らされます。
 十数年間の空白がなければ、こんなにも強い衝撃を受けなかったかもしれません。
 懐かしい思い出が消えていく風景とともに薄れてしまいそうで、悲しくなりました。
 今年の秋にインターネットの掲示板で、一枚の絵を見ました。
 それは今ではもう取り壊されて駐車場に変わってしまった昔の市立図書館を右手に、横町の方へ向かっている道を描いた水彩画でした。
 市立図書館は中学、高校と夏休みに調べものによく通った思い出の場所です。
 とても懐かしく、気持ちは一気にその時代に飛んでしまいました。
 友人と図書館で話していた会話、その時の、その場の空気も思い出され、消えてしまった時代が明るく蘇ってきました。
 その水彩画は宮古に在住され、沢山の素晴らしい絵を描き続けておられる画家の増坂勲先生の作品。
 「わが町 宮古を描く」という画集の中の一ページでした。
 画集は平成7年(1995年)に印刷されています。
 宮古駅から始まり、最後のページの十字架山から藤原方面を望む絵までの55枚は、イーゼルやスケッチブックを片手に増坂先生が市内を歩き回って、長い年月をかけて描きつづってこられたものです。
 一枚一枚の絵には、その風景にまつわるエピソードや、ご自身の想いが文章で添えられてあります。
 元気だった時代の宮古の町が生き生きと描かれ、懐かしい風景が鮮やかに描き出されています。
 そこには消え行く風景を絵の中に残しておきたいという、増坂先生の宮古を愛する気持ちがあります。
 画集に書かれてあった先生の文章に、
 「好きな町宮古、それを絵にすること、そして見てもらうこと、そして改めて宮古を考えてもらうこと」
 これが私の仕事なのかもしれない‥‥とありました。
 時は流れ町は大きく変わってしまいました。
 けれども、宮古の一人の画家の方が故郷の町を心を込めて描かれたかけがえのない絵とその心は、画集を閉じても私の中に残っています。


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■ 母のカダゲダ時代

              OCCO

 半世紀ぐらい前でしょう、母の実家は新町(あらまち)にありました。
 おじいちゃんが「一緒に遊ぼう」というと、いつもバスで鍬ヶ崎一周。
 お金もかからず宮古観光ができるというものでした。
 駅から末広町をやって来たバスに光生堂前停留所から乗ります。
 確か2つめぐらいが高橋バス停。
 車掌さんが独特の抑揚のある話し方で、
 「次はタ・カ・ハ・シ、タ・カ・ハ・シ、でございます」
 なぜかタカバシではありませんでした。
 市役所の手前、左手の三角地帯が片桁(カダゲダ)です。
 母が新町に越す前は、まさに現在水道局の碑がある場所でゲタ屋を営んでいたのだそうです。
 カダゲダのゲダ屋ですね。
 すぐそばには大きな防空壕があった時代。
 夫婦橋を渡りながらグラマンの襲来に備えていたのでしょう。
 昭和20年、終戦の少し前、商売屋密集地の片桁・新町・本町の一部などは、グラマンの焼夷弾攻撃に備えて強制疎開になり、更地にされたといいます。
 母の実家は3年ほど老木に強制疎開。
 そして23年、片桁にあった店「モダンな草履、趣味の下駄のいずみや」は、代替地として新町に来たというのです。
 母はいまでも水道局の碑の前に来ると立ち止まり、当時を振り返ります。
 片桁の三角地帯は、山口川が暗渠になる前はとてもにぎやかだったそうで、現在からは想像もつきません。
 狭い片桁通りをはさんで山側の旧丸石家具あたりに熊野屋、薬のきく屋、花札やトランプを売る広文堂、相沢商店、中川旅館、福川床屋、新川家具、量り売りの醤油屋、小成お茶屋、すみや靴店、平出金物……
 山口川沿いは、いずみや履物屋の隣が興産銀行という無尽会社。
 いまの川崎タクシーあたりのようです。
 イカ釣り用のイカ角を売っていた横山角屋。
 えび屋食堂となったえび屋魚屋……
 私は山口川の岸側を向いて、いずみやをはじめとする商店があったと思っていたのですが、川は店の裏手だったのです。
 にぎやかで建物がごちゃごちゃ密集していたので、空襲に備えて強制疎開となり更地になったわけですね。
 高橋から片桁通りにかけては週に一回、市が立ったそうです。
 市日には、ぜーご(在郷)からもたくさんの人が訪れて活気があったといいます。
 片桁通りをまっすぐに行けば、いまの築地通りの裏、旧宮古警察に抜ける道。
 かつてにぎわった道も、いまは時折、役所の人と年配の人を見かけるだけ。
 静かな通りになっています。


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■ 三陸フェーン台風の恐怖

                 OCCO

 じんさんのHPトップに、46年前の5月29日は「三陸フェーン大火の日」とあった。
 当時は「フェーン台風」と呼んでいた。
 この半世紀、あのような怖い思いをしたことがない。
 母と話すうちにあのおっかない2日間が甦った。
 当時、うちは製材所。
 まだ国産の木が主流の時代で、山(木)を買っていた父は、若い職工さんを引き連れて崎山の奥へ出かけ、2日ほど帰って来なかった。
 5月なのに妙に暑く、風が強い。
 フェーンというのが気象用語だということを知ったのはだいぶ後のことだった。
 最初は宮古の北西の山から小さな煙が上がっていただけ。
 しかしそれは乾いた風にあおられて見る見る広がり、青空に灰黒色の雲を作っていった。
 風はやまず、延焼区域はどんどん広がる。
 不安を覚えながら夜を過ごし、朝、目を覚ますと煙の帯は北西から北東までをどんよりと覆っていた。
 学校は臨時休校。
 八幡の山からは、たくさんのヒトが不安そうに見ていた。
 田老鉱山が避難した、崎山のすぐそばに来ている、風が南になれば宮古も危ない……
 いろいろな話が聞こえてくる。
 不安はますます増幅した。
 その日の夕方の空は、北側の空がまるで夕焼けのようだった。
 山の稜線に沿って鮮やかなオレンジ色の帯。
 生暖かい風が焦げくさい空気を運んできた。
 夜になり、外へ出ると、暗闇に山の炎がどんどん迫ってくるような気がした。
 怖い。
 その夜は誰も寝なかったのではないだろうか。
 母が避難する準備をしていた。
 父はその日も帰ってこなかった。
 長い夜をラジオに耳を傾けながら過ごした。
 朝になった。
 幸いにも風向きが東向きになったとかで火は宮古には来なかった。
 その火は、女遊戸(おなつぺ)あたりの山までをすべて焼き尽くし、燃えるものを失って自然と衰え、鎮火した。
 真っ黒になり顔を目を真っ赤に腫らした父が帰ってきた。
 火の勢いが強すぎ、まったく手に負えない。
 かろうじて一部の木を守っただけだったようだ。
 おそろしく長い2日間だった。
 記憶が薄くなりかけた頃、高校時代、田老鉱山の友人とわらび採りに行った。
 「こごらの山は火事で丸焼けになったから土がいいんだ。
 いいわらびが採れる。
 でもあんどぎは、おっかながったあ」
 あの日の暗闇に浮かぶ真っ赤な空は、一生忘れることがない。


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■ 八幡の名水

           OCCO

 八幡さまの社務所手前に手洗い場があります。
 御手水石(おちょうずいし)という名前は、この歳になって初めて知りました。
 ここの水はかつて「八幡の名水」としてもてはやされていたそうです。
 いまは立派な屋根がついて、その水がポンプで汲みあげられ、いつもこんこんと湛えられていますが、名水伝説はいつどこに行ってしまったのでしょう。
 私が子どもの頃は、井戸がガッチャンポンプだったので、御手水石には、お祭りと大晦日しか水が張られませんでした。
 ここの軒先は近所の水汲みおっぱやんたちの井戸端会議の場所でした。
 また八幡のわらすがどうの船ごっこやままごとのかっこうの場所でもありました。
 古い資料を見ると屋根はなく、御手水石がぽつんとあったようです。
 小学校のときだったか、台風で大荒れの夜、ど〜んという大きな音で目が覚めました。
 朝になり、外に出ると、屋根がぺしゃんこになっていました。
 柱が重たい屋根を支えきれなかったのでしょう。
 現在の立派な屋根は、そのときに修復されたもの。
 帰るたびに思い出してしまいます。
 八幡さまの参道沿いの風景で変わらないのは御手水石と灯籠、狛犬、碑。
 あとはまったく残っていません。
 ふもとの鳥居から眺めていると、半世紀前のなくなってしまった風景が、ついこの間のように思い出されるのです。


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■ 鴨崎病棟

          けむぼー

 鴨崎病棟は三上きもの会館や小松酒店のある通りの道を挟んで反対側にありました。
 小松っあんのところの道路に面して正門がありました。
 あの一帯は西公園対面の高等看護学校の手前まで病棟や宿舎がありました。
 西公園の道路を挟んだ南側に県立の高等看護学校があったのは、従姉妹が通っていたので間違いないと思います。
 そして、高等看護学校の南に道路を一本置いて隔離病棟がありました。
 窓に金網がしてあったのでよく覚えています。
 もとの山口川(本流)に沿って隔離病棟、霊安室があり、子供のとき、その傍を通るのは怖かったです。
 小学校の3、4年のころに栄町の宮古病院が建て替えられ、鴨崎病棟の業務はそこに移されて、鴨崎病棟は取り壊されました。
 そのあとに病院の先生方の宿舎が拡充されたと思います。
 昔からあの一帯はずっと和見で、その西側、山口川(閉伊川までのバイパス)までが和見のくくりでした。
 山小(山口小学校)の和見町子供会の区域です。
 ただし、宮小に通う子供たちもおりました。
 お医者さんの宿舎には思い出があります。
 小学校の低学年のころ、国語や足し算や引き算がうまくできなかったので、見かねた宮古病院のお医者さんの奥様から勉強を教えていただいた時期がありました。
 鴨崎病棟の敷地の西側に一軒建ての宿舎群があり、その中の一軒でした。
 板塀を巡らし、木戸、玄関、裏に庭もありました。
 部屋数もそれなりに多かったのではなかったかと思います。
 南側の窓を開けると笹藪があり、夜は蛍が飛んでいたのを覚えています。
 当時大学生だったお医者さんの娘さんがフランスに留学したときの写真を見せてくれました。
 娘さんがエッフェル塔のところで何故か作家の野坂昭如さんと撮った記念写真もありました。
 やっぱりいま思い返しても驚くべきハイソなのでした。


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■ 宮古弁カルタ

            うらら

 7月末に店頭で発売され、すでに宮古のたくさんの方が楽しまれている宮古弁カルタ。
 「みやごのごっつお」の掲示板上で、カルタが出来上がっていく過程をずっと見守っていたので、完成したカルタを手にしたときは、しみじみと嬉しく感動しました。
 カルタは新聞やテレビでも取り上げられ、
 「全国にいる元気な昔の宮古のわらすっ子たちが、ふるさとを思う気持ちで作った」
 と紹介されました。
 先日、9月の初めに放送されたテレビ番組の収録を見る機会がありました。
 映像は観光協会の方たちの息の合ったコントからスタートして、「カルタにかだって〜」の「かだって」の意味や、「でんで〜ん」という掛け声についての説明へと続きます。
 その後、読み札の解説と並行して、カルタ大会は白熱戦へ突入。
 思わず微笑んでしまう傑作の絵札が、「でんで〜ん」の声とともに次々と取られていきます。
 私もその場に参加していたのですが、本当に楽しかったです。
 そして小さな子供たちも一緒だったら、さらにもっと楽しいだろうな〜と思いました。
 「大人が楽しい、という姿を子供に見せたい。
 大人がシュンとなって宮古はシャッター通りだと言っていると、子供は、いまの大人はつまんないと思う。
 大人が楽しそうにやっていると、子供たちも自分たちの未来に楽しい時代が開けると考える」
 これはテレビのインタビューの中で、読み札の作者の一人、ecoちゃんが話していた言葉です。
 小児科医師として毎日たくさんの子供たちに接している現場からのメッセージです。
 インターネットから生まれた宮古弁カルタは、パソコンの画面を飛び出し、市内の小中学校の子供たちの手もとに届けられました。
 そして大人も子供も楽しく一緒に遊び、お年寄りには懐かしい昔の思い出を甦らせ、子供たちには消えゆく宮古弁を伝承する役割を果たしてくれます。
 カルタは宮古を愛する人たちの心に、目にはみえないけれど、しっかりとした手ごたえを残し始めています。


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■ 宮古でデレッキと言えば?   *みんなの声



@ ばっつさん
 「うちでは火ばさみのことをデレッキと呼んでいました。
 火かき棒もありましたが、あれはなんて呼んでただろう?」
 ブログ「宮古に帰ろう大作戦!」の「たきぎのお風呂」から抜粋。
 ばっつさんは横町(よこまち)で生まれ育った。

A 海猫屋さん
 「うちは、火バサミのほうをデレッキと呼んでいました。
 先がL字の棒は見た記憶がありません。」
 海猫屋さんは藤原生まれ。

B 青年漁師さん
 「薪ストーブに使うこの挟むの、『デレッキ』と言います。(画像省略)
 宮古の人には通じますが盛岡の人には通じませんでした。
 バーベキューする時にも挟むのってデレッキって浜どこでは言います。
 他地域には通じないようで、言われても分からない・知らない・何それ?
 意味不明らしい。
 オボエテクレ。」
 「漁師の徒然なるブログ」から引用。
 青年漁師さんは日立浜に住んでいる。

C Concordian さん
 「おお、なつかしのデレッキ!
 在米ですが、本州最東端の出身です。
 実家はその昔、風呂もストーブも薪でしたので、デレッキを使ってました。
 ただそれは、火かき棒(一本の形状の)ではなく、火バサミに近かったと思います。
 どう表現したら良いのかわかりませんが、何と言うか、巨大なとげ抜きの様な感じでした。」
 読売新聞「YOMIURI ONLINE」の読者投稿欄「発言小町」より。

D shiratori さん
 「火かき棒がデレッキではなくて、火ばさみがデレッキではないでしょうか?
 はたしてデレッキは何語でしょう?」
 「宮古on web」の宮古写真帖2より。
 shiratoriさんは高浜在住。

E けむぼーさん
 「十勝では先の曲がった鉄の棒のほうをデレッキというようです。
 十勝にも、じんさんのような方がいらっしゃいました。
 デレッキの語源についても考察なさっていらっしゃいます。
 http://homepage3.nifty.com/
         hakuhyodo/kuzu/hokaiben.html
 おもっさげーねーども、おら〜みやご弁の偏差値がひぎーんで、おらのボキャブラにはデレッキづのんはなごぜんす。」
 けむぼーさんは和見町生まれ、いまは北海道十勝に住んでいる。

F きっちゃん
 「おらも『デレッキ=火バサミ』さ一票です。
 って言っても、親父がそう言っていたっていうだけで、それ以上の根拠も確証もないんですけど。」
 きっちゃんは新町生まれ。

G まっこけっこさん
 「おらが記憶でも火バサミ=デレッキだがす!!
 なつかしい!」
 まっこけっこさんは、宮古のどこかわからないけれど、とにかく宮古生まれ。

Hうららさん
 「うちのストーブは楕円型で小型でした。
 台所にはほかに大きな調理用の竈(かまど)や、五右衛門風呂の竈もあり、一年を通して薪は大切な熱資源でした。
 火バサミや火っ掻き棒はいつも各所に置いてありましたが、呼び方はそのままでした。
 デレッキは『おら知らねぇ〜』派です(笑)。」
 宮古写真帖2より。
 うららさんは大通り界隈で育った。

I通さん
 「面白そうなので書き込みます。
 黒田町生まれ、宮古在住ですが、やはりデレッキ=火バサミですね。
 私は誰か(どっかのおじさん)から『これはデレッキっていうんだがや〜』と教えてもらった気がします。」
 
J甚六さん
 「私は千徳人ですが、デレッキ=火バサミでした。
 学校の外掃除のときに「今日はほうきが○○くん、デレッキは△△ちゃん」とか言って分担していたような気がします。」
 甚六さんは現在、盛岡(付近)在住。

 *出所の断り書きがない発言は「宮古 on web」の宮古伝言板へ書き込まれたもの。


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■ おとうちゃんとブームとストーブ

                     ばっつ

 先日、ずいぶん前になくなった父が夢に登場!
 変な編み揚げ長靴を得意そうに履いてニコニコしていました。
 ミックスサンドは父の大好物でした。
 よく横町の「しおや」(川上商店)に買いに行かされて、お駄賃に私のぶんも買ってもらってた記憶があります。
 父は「これだ!」と思うとしばらく凝る人でした。
 このミックスサンドブームのほかにも、ちっちゃいカップ焼きそばブームもありました。
 一生のブームとなったのが「どんこ釣り」と「あぶらっこ釣り」です。
 そういえば釣りにもミックスサンドを持って行ってたなぁ。
 N崎家の冬のミックスサンドの食べ方。
 たぶん発案者は父。
 「ストーブの上にのせる」
 です。
 ほんわか温まって、なかのバターがちょっと溶けてジャムと混じり、ふちがカリカリっとなって、めちゃめちゃ美味しいですよん。
 いや待てよ……
 うちではいろんなものをストーブの上にのっけて、
 「なぞ〜た〜べ〜?」
 と実験していた気がするぞ。
 みんなの家もそうですか?


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■ たきぎのお風呂

             ばっつ

 宮古で生まれて関西に旅立つまでの18年間ずっとお風呂は薪(たきぎ)でした。
 同級生の家でも近所の家でもすでにそんなものは無かったので恥ずかしいような気がしていました。
 板金屋という父の仕事柄、薪は取り壊した家の廃材でした。
 うちの燃焼方法は(笑)時代劇でよく出てくるような「外から火吹き竹でふぅふぅ吹く」というものではなく、釜は浴槽の横にあって上から縦方向に薪をくべるやり方です。
 浴室内には普通の窓のほかにもうひとつ窓があり、そこを開ければ薪が詰め込まれた空間が……。
 はじめは小さい木片を入れて、新聞紙に火をつけて入れ、団扇でぱたぱたします。
 そして徐々に大きめの薪をくべていく。
 家中に木の燃えるいい匂いとパッチンパッチンという爆ぜる音がしていました。
 テレビを見ているのに「こら、火ぃ見でこぉ!」だの、せっかくくべても「それぁダメだぁが! まっと燃えやすそうなぁのん入れろ〜!」だのと面倒なことこの上ないシロモノでしたね。
 入浴中にお湯がぬるくなれば薪の窓をあけてデレッキで薪をくべる。
 火力の調節は釜についた小さな空気穴をデレッキで開け閉めする。
 開け具合の微妙な調節に失敗すると火が消えてしまって、「消すた〜な! このぉ!」と怒られたのも今では懐かしいです。
 (うちでは火ばさみのことをデレッキと呼んでいました。
 火かき棒もありましたが、あれはなんて呼んでただろう?)
 先日宮古に帰ったときにも母と、「薪のお風呂は体が芯から温まって良がったがね〜」と話していたのです。
 福島湯の朝風呂につかりながら。
 やたらと手間がかかるし、風が強い日はたてられないから大変なんですけどね。
 今はもう灯油が燃料のお風呂に変えてしまったので懐かしがってもどうしようもないですが、ほんわかとよみがえってくる宮古の思い出なのでした。


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■ お深山に神社がふたつ!

                まっこけっこ

 横町のお深山に5月10日、上がってみた。
 40数年ぶり?
 谷口薬局側から上がったのだが、あとで私道だと教えられた。
 境内のスペースがずいぶん狭くなっていたような気がした。
 なんと神社がふたつ!
 左側に石崎神社、右側に羽黒神社。
 石崎神社の戸はアルミの雨戸に覆われていた。
 境内の西側に石碑らしきものがあり、彫られた字がよく読めないが「……神社」とある。
 「石の神社」なのか。
 建立日が刻んであり、「明治三…午年十月吉日」と見える。
 …の字が読めなかったが、じんさんの調べで「庚午」(かのえうま)で明治三年のことらしい。
 裏手に廻って昔ぶらさがった木の根っことか見ているうちに自分より少し年配の男の人が境内に来ていた。
 神社の下の自分が通ってきたところの家の人だと言った。
 口にはださなかったが、どうやら自分を怪しんで追ってきたようだ。
 (この人に、上がってきた道は私道だと、あとで言われた)
 「こんにちは」と声をかけ、社がふたつあることの疑問をきっかけに、いろいろ話を聞いてみた。
 左の石崎神社は以前、宮小の近くにあり、阿部家の氏神様だったのをこの場所に移築して地域の神社にしたのだそうだ。
 右の羽黒神社は神社の下の新川屋(あらかわや)の氏神様とのことだった。
 いずれにしても移築のことをはじめ、「石の神社」等々それらにまつわる諸々のことを詳しく教えてくれる人がいない、と半ば嘆いていた。
 神社の歴史はそんなに古くなく、100年くらい?とのことだった。
 お祭りは今でも7月の末に行われているらしい。
 境内も狭くなり、子供も遊びに来なくなって久しいから草も生えるのス、とも言っていた。
 帰りは右側の正規の参道を教えられて下りていったら、ちゃんと石段があった。
 けれど、草茫々だった。
 広々した境内で裏から取った竹で竹鉄砲や水鉄砲を作って遊んだことを思い出しながらの、約半世紀ぶりに近い探索だった。


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■ ホヤは宮古に限る。

              OCCO

 夏、帰省した日の夜は必ず「ホヤ」を食べる。
 私にとって宮古をがつんと実感できる味だからだ。
 芋焼酎のロックに合わせ4個ぐらいはぺろり。
 友人には、ホヤ通やらホヤフェチがやたら多く、語らせるともう止まらない。
 これもホヤのもつ魔力なのかもしれない。
 某年某月、東京のとあるデパ地下の魚屋で、一見新鮮に見えるホヤ見つけた。
 宮城産とあり、大きな袋に海水ごとパッキングされていた。
 いそいそと持ち帰り、さっそく食べてみたのだが……
 やっぱり違う。
 繊細な海の香りと甘みがまったく足りない。
 ホヤが苦手な人はたいてい海臭いという。
 それは明らかに間違いだ。
 鮮度の落ちた、悪いホヤを食べたからである。
 新鮮なホヤはいやな匂いもなく、上品な磯の甘さと独特の味わいがある。
 最近は剥いてビニールに入ったものもたくさん売っているが、あれもいただけない。
 旨いホヤを食べるには、必ず生きているものを買ってきて食べる寸前に剥き、すぐさま食べること。
 考えるにホヤは包丁が入り生命をたたれた瞬間から匂いが増すのではないだろうか。
 そして獲れたてのホヤは酢の物などにせず、ぜひ刺身でホヤそのものを味わっていただきたいのだ。
 最近は焼きホヤや塩辛、乾燥ホヤなど加工食品をあれこれ見かけるけれど、新鮮なホヤとは勝負にならない。
 冬に「身がうすけーども、めずらすーがす」という市場のおばちゃんの口上にのってはいけない。
 珍しいだけ、明らかにおいしくない。
 ああ、夏の盛り、まるまる太ったホヤを皿にてんこ盛りにして食べたい。
 ホヤは宮古に限る。


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■ 地震と増坂先生の絵画展

                eco

 24日の深夜に大きな地震がありました。
 正確には2008年7月24日の深夜、午前0時26分ごろ。
 宮古は震度5強だったそうです。
 津波はありませんでした。
 我が家は舘合町です。
 1階は被害がありません。
 2階はいろいろ落ちました。
 ベッドの2辺が本棚に囲まれています。
 本やビデオテープがばらばら落ちてきました。
 本箱自体も揺れているので、隠れ場所に身を潜めました。
 落ち着いてから1階の安全な部屋に移動して休みました。
 テレビの画面ではずっと川井村あたりに震源地のバッテンマークがついていて、震度6強を観測したという洋野町ではないなーと思いました。
 翌25日の夕方、走って末広町のべにやへ行きました。
 着替えもせずに走りました。
 増坂先生の77歳の記念絵画展があったからです。
  増坂勲 水彩スケッチ展
   〜北から南まで海、山のスケッチ77点を〜
   2008年7月24日(木)〜27日(日)
   午前10時〜午後6時(最終日5時)
   べにや3F催事場
 夕方6時までなので働いている方はほとんど間に合いません。
 お弟子さんの方が受付をしていました。
 「お店が6時までなのでしょうがありません」
 とのことでした。
 この地震で7枚の絵が落下して、うち4枚はガラスや額縁が割れたのだそうです。
 壁側は大丈夫でしたが、ついたてに掛けたものが、ついたてごと倒れたそうです。
 増坂先生が60歳から17年間にわたって描いた77枚。
 宮古に始まって青森の大間、北海道、秋田、福島の喜多方、そして沖縄までを描いたもので、絵にかけるその情熱に感激しました。
 海の音や潮の匂いも感じられるようでした。


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■ グリル喜楽

         OCCO

 グリル喜楽を覚えている人はいませんか?
 昭和30年代の後半から鍬ヶ崎にあった洋食屋さんです。
 カレーライス、ポークソテー、ビフテキ、オムライスなどを出していました。
 宮古市内にまだ名店「白十字」ができる前、鍬ヶ崎にグリル喜楽はあったのです。
 場所は、もとの郵便局やキッコーキがあった本通りで、たぶんもっと宮古寄り。
 宮古から行くと、切り通し、更科楼を過ぎて200メートルぐらいの右側でした。
 マスターはそこに店を出す前、末広町の中屋金物の向かいのカレー屋さんでコックをしていたそうです。
 次男の水野君が宮小時代に同級生。
 5年生で鍬ヶ崎に引っ越しましたが根性で通っていました。
 6年のとき誕生会に招かれ、グリル喜楽でポークソテー、カレーライスを食べました。
 カレーは銀食器に入り、ライスは別皿。
 私のポークソテーと銀食器入りカレーライスの初体験です。
 ランチが終わり、夜の営業に入る前だったのかもしれません。
 宮小から数人呼ばれたような気がします。
 でも当時、鍬ヶ崎は遠かった。
 水野君は二中に入り野球部で活躍、商業でもエースでした。
 水野君、元気かなあ。
 シェフのお父さんは白いコック服に山高帽をかぶってかっこよかったなあ。
 鍬ヶ崎のグリル喜楽――
 時代が限定されているのでなかなか知っている人がいません。


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■ 鍬ヶ崎1丁目

          珊瑚
 
 だいぶ昔のことで、記憶はいまひとつですが――
 グリル喜楽、覚えています。
 宮古から来ると右側。
 シェフだと思いますが、自転車で出前する白いコック服すがたを見かけました。
 スマートな印象があります。
 場所は鍬ヶ崎1丁目かも。

 お誕生会?といえば、初めてご招待されたのが親戚でした。
 小学校に入る前ごろです。
 姉と私は迎えに来てもらい、お汁粉を食べたことを覚えています。
 あの頃は感激したことが何日も続いて……

 話はとびますが、鍬ヶ崎1丁目バス停のまん前にお店屋さんがありました。
 となりが木村蒲鉾屋(魚屋)さん。
 そこのあぇ〜こを入ったところに、そろばん塾がありました。
 左側の入口から2階に上がると、2部屋あって、いつも混んでいました。
 いまだと中学受験の進学塾みたいに、すごい人数でした。
 その数十年後には、1階の部屋で編み物を教えてもらいました。
 大森編み物研究所といいました。


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■ パンの耳とガリジュー

               まっこけっこ

 中学3年生の頃、横町に溜まり場がありました。
 番長の家です。
 常に何人かたむろしていて、多いときは7〜8人いたと思います。
 なにかに書きましたが、最新式のステレオがありました。
 何枚かのレコードを同時にセットでき、自動で次々と音楽を聞けました。
 ビートルズのレコードがあり、「シーラブズユー」が最も印象に残っています。
 「シュラッチュウ イエーイエーイエー」と社会人になるまで間違って覚えていました。
 誰が言い始めたか、お金を出しあっておやつを買ってきて食べるようになりました。
 5円、10円と出しあって何を買うかというと、当時横町にあった日進堂へ行き、パンの耳と「ガリジュー」という細長いビニールに入っていて凍らせてあるジュースを買ってきて皆で食べたものです。
 パンの耳はただみたいなもので、いっぱい買えました。
 皆、腹をすかせているので、黙々と食べていたような気がします。
 ガリジューは1本いくらだったか覚えていませんが、5円で2本以上は買えたのではなかったでしょうか。(あいまいですが)
 その番長の家にはドラムセットもありましたね。
 それに刺激されて、自分もスティックだけは買って、いろいろなものを叩いていたものでした。
 あの頃の皆はどうしてるのかなーと、ときどき思い出します。


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■ もすかや

         OCCO

 それは太平洋戦争が始まる前のこと。
 私の家は新川町(しんかわちょう)で製材所を生業にしていました。
 父がまだ祖父の下で現場仕事に出ていたころ、鍬ヶ崎(くわがさき)の華やかさは、若者たちには、なんともたまらなく、また切なくまぶしかったそうです。
 当時のわげーもん(若者)にとって花街は、まだまだ敷居が高かったのでしょう。
 もんもんとしたわげーもんが行けるところといえば、鍬ヶ崎の手前の切り通しにあったという三業地のような歓楽街。
 ここは花街に繰り出すために、「さあ行ぐが」と景気づけをするための店、コリアン系の飲み屋さん、また、わげーもん向けのリーズナブルな一杯飲み屋も多かったとか。
 その店には女給さんがいて、飲み物や食べものを、
「はいよ、おまちどうさん」
 と愛想を振りまきながらサービスしてくれたそうです。
 女給さんの人気が界隈での店の人気を左右していたとも。
 わげーもんたちは、するめをかじり、カストリをあおり、
「めんけーなあ。
 いいなあ。
 もすかすたらなあ……」
 と思いをはせていたのいたのでしょう。
 いつしか、そうした店は、「もすかや」「もすかや」と呼ばれたそうです。


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■ 寅さんの話

         OCCO

 製材所の職工さんに、寅さんと呼ばれているおじさんがいました。
 寅さんは人がよく、自慢は健脚。
 ある日のこと、父に呼ばれた寅さんは、隣の田老の取引先に6000円を届ける仕事を頼まれました。
 いまでは数十万近い大金かもしれません。
 寅さんは朝早く、意気揚々と大きな仕事に向かいました。
 ところが、日帰りの予定が帰ってきません。
 次の日も、また次の日も帰ってきません。
 1週間ほどして鍬ヶ崎(くわがさき)の有名な遊郭から電話がかかりました。
「部屋から出てこないお客さんがいて、たずねたら、そつらの職工さん。
 引き取ってくれ」
 とのこと。
 父は烈火のごとく怒り、はせ参じたものの、寅さんは、ただただ平謝り。
「鍬ヶ崎さ行きたく行きたくて。
 切り通しを抜け、通りかかったら、牛太郎さんの呼びかけと女の力に吸い込まれだった」
 という。
「謝っても謝りきれない、死んでおわびを」
 と閉伊川に飛び込んだそうです。
 でも深さが膝(ひざ)までしかなかった。
「もういい」
 と許された寅さんは、その後、製材所でずっと働き、飲みすぎで他界したそうです。


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■ スレッポ

         小成善吉
 
 【編者註】
  投稿ではないけれど、ある人から文章を送ってもら
  った。
  津軽石川の鮭の、自然産卵を描写したものだ。
  書いたのは「小成善吉」という宮古の人。
  ただし、それ以外の詳しい人となりはわからない。
  文章も、いつどこに発表されたものか一切不明だ。
  とてもいい文章なので、少し手を加えて、「スレッ
  ポ」というタイトルをつけ、以下に紹介したい。
  なお、この文章や著者の「小成善吉」さんについて
  ご存じの方、どうかご教示ください。
 
 ――秋も深くなった頃、津軽石川の川口にたどりついた鮭は、雌雄でつがいを作って川をのぼり、適当な産卵場所を探す。
 場所は、少し湧き水のあるところ、冬場になっても水温のあまり下がらないところ、水が澱まずにいつも流れるところ、しかも増水で川底の水が動かないようなところが選ばれた。
 つがいの鮭は産卵場所を定めると、雌(めす)が尾鰭で砂利を掘り起こし、穴を掘る。
 直径10センチくらいの石でも楽々と動かすほどの力がある。
 そのためか、雄(おす)の尾鰭の付け根が割合細いのと対照的だ。
 雌が穴を掘っているあいだ、雄はその側について、ほかの雄が近づいてくると、それを追い払うために激しく争う。
 穴ができあがると、雌は産卵を始める。
 雄が雌の体にすり寄ってきて精子をかける。
 そうした動作を何回か繰り返して産卵を終える。
 それから雌は、まわりから砂利をまんべんなく産卵場所の上にかける。
 雄は、いつのまにか、いなくなってしまう。
 雌は、その後も産卵場所の側にいて、汚物が流れてきてそこに付着するのを尾鰭で払いのけたりしている。
 それを何日か続けるうちに、全身すり傷だらけになり、尾鰭は破れ、なかの骨だけが残ったようになる。
 それでも雌は産卵場所を離れない。
 晩秋から初冬の冷雨で津軽石川が増水し、水の流れが枯れ葉を運んでくる頃になると、雌は流れを泳ぎ切れなくなり、満身創痍の姿で押し流されて一生を終える。
 産卵後、雌から離れた雄も同じ運命をたどる。
 そうした鮭はスレッポと呼ばれた。
 冬の寒い頃になると、鮭の卵は孵化する。
 そして、春になって、雪解け水で津軽石川が増水する頃、7、8センチに育った稚魚が流れを下って海に入っていくのである。


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■ 渡船と小山田橋のことなど

                Tash

1 渡船と小山田橋

 父親がラサの硫酸工場に勤務していたため、小山田の和山社宅に中学校卒業まで住んでおりました。
 宮小、一中と9年間(1952年4月〜61年3月)ほぼ毎日、閉伊川を横断していたことになります。
 宮小のころは、トセン(渡船)と呼んでいた渡し船、繰り船に乗って川を渡りました。
 いつ橋ができたかは記憶にありませんが、一中に通うころには橋に替わっていたように思います。
 渡船は、両側の乗り場(桟橋)の間がワイヤで結ばれており、それに取り付けられた滑車と舳(へさき)が2mくらいの長さの鉄の鎖で繋がっていました。
 手繰るロープには多くの細い鉄の輪が繋がり、ループ状になっていました。
 水嵩が変わると乗り場と船の高さが変わり、乗り降りがけっこう大変でした。
 乗っている途中に船が離れて川に落ちることもありました。
 増水すると水の流れが速いので、船がワイヤから離れがちになり、船をコントロールするのが大変でした。
 けっこう腕力が必要でしたね。
 お年寄りは船を手繰れる人が来るまで待っているようでした。
 乗せてあげて、おこづかいをもらったこともありました。
 小山田橋ができてからは通学が楽になりましたが、増水するとよく流されたので、そのときは宮古橋を回って登下校するしかありませんでした。
 小山田へバスが通ったのはいつだったか記憶にありませんが、ラサの過リン酸工場のにおいを嗅ぎながら通ったものです。
 中学のころは、保久田の故斉藤和郎先生のお宅によく遊びに行き、帰りが遅くなって、小山田橋を渡るのが怖かった覚えがあります。
 自転車で橋を渡るのも怖いのですが、あたりが真っ暗で河川敷に柳が生えていたりするので、何かが出そうで後ろも見ずにふっとばして渡りました。

2 宮小の鼓笛隊

 アルバムを繰ってみたら、宮小鼓笛隊の写真がありました。
 宮高の体育館で1957年に行なわれた、宮古市内小中高校連合音楽会のさいの写真です。
 宮古小学校の鼓笛隊は、この年1957年の創立とありました。
 6年生のときです。
 器楽クラブもあったようです。
 音楽室で「キラキラ星変奏曲」を練習している情景がどういうわけか鮮明に残っています。
 スぺリオパイプ、今で言うリコーダーを吹いていました。
 ちなみに、一中の吹奏楽部は2年生のときにできて、以来、吹奏楽、金管バンドにはまってしまいました。


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■ 宮古一中吹奏楽部 創部の頃

                Tash


 宮古一中の吹奏楽部は1959年(昭和34)4月に創部されました。
 楽器がそろい実質的に活動を開始したのは6月だったと思います。
 当時の編成は下記のとおりです。
  顧 問:佐々木幸夫先生(指揮)
  副顧問:伊藤たかし先生(トランペット)
  クラリネット:山火     2年
  クラリネット:星      1年
  コルネット :名取     2年
  コルネット :太田     1年
  トランペット:鈴木     1年
  トランペット:岩田(鼎)  1年
  アルトホルン:池上     2年
  バリトン  :三浦     1年
  トロンボーン:岩田(和)   1年
  トロンボーン:中山     2年
  小バス   :佐々木(正) 2年
  中バス   :太田     3年
  大バス   :藤田     2年
  小太鼓   :関村     2年
  大太鼓   :工藤     3年
 1963年には40人くらいの編成になりました。
 佐々木幸夫先生は音楽の先生ではありませんでしたが(たしか技術科)、楽譜をアメリカから直接購入するなど熱心な(怖い)指導をされました。
 あだ名は「ザツオン」でした。
 伊藤たかし先生は正式な副顧問ではありませんでしたが、トランペットが吹けて、演奏や野球の応援など部員と一緒に活動されていました。
 アルバムに載っている当時の写真を見ると、しょっちゅう演奏しながら行進しているのがわかります。
 野球の応援などのあとさきで、学校と会場の間を行進していました。
 当時は、いちいち警察に届けなくてもよかったのでしょう。
 一番の思い出は、久慈での県下野球大会で一中野球部が優勝したことです。
 また、1960年に鈴木善幸さんが郵政大臣に就任して初めてお国入りしたときに、宮古市役所前で歓迎式典がありました。
 演奏しましたが、式典終了後に善幸さんがわざわざ挨拶に来られ、中学生に向かって丁寧にお礼をしたことが印象に残っています。


【付記】
 宮古一中(宮古市立第一中学校)の創立50周年記念誌「躍進」を見ると、吹奏楽部の副顧問格をつとめたという伊藤たかし先生の「たかし」の字は、「孝」と書くようだ。
 また、久慈市で第15回岩手県下中学野球大会が開催されたのは、鈴木善幸さんの郵政大臣就任・お国入りと同じ1960年(昭和35)の、8月5日から9日。
 このとき一中野球部は、県大会で初優勝。
 10日に凱旋し、宮古駅前で祝賀式典が催されて市内をパレードしたという。          (じん)


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