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啄木と宮古

吉田 仁  

 宮古に石川啄木の文学碑がひとつある。
 先日、ひさしぶりに帰省した。
 ひまを見つけて、その啄木碑を訪ねた。
 宮古の町なかから閉伊川沿いにずっと歩いて光岸地(こうがんじ)の切り通し坂を登る。
 右へ折れて漁業協同組合のビルに向かって登ってゆく。
 宮古湾を見はるかす高台――鏡岩である。
 そこに、“啄木寄港の地”と刻まれた文学碑が建っている。
 碑は後回しにして、息をととのえようと風景をながめた。
 眼下左手に宮古港、正面に太平洋が広がり、月山を擁する重茂(おもえ)半島が横たわる。
 目を右に転じてゆくと、宮古湾が奥深く広がっている。
 啄木がこの高台に立って同じ光景を目の当たりにしたかどうかは分からない。

 啄木は1908年(明治41)4月6日に宮古を訪れている。
 いわゆる北海道放浪――転々とした新聞記者生活をきりあげ、文学に専念しようと、北海道を離れて上京する決心を固める。
 釧路から家族の待つ函館へ向かった。
 海路をとって乗り込んだ酒田川丸という船は、津軽海峡を南に離れて宮古を経由する航路をとった。
 函館に行こうとする啄木にとっては、ずいぶん遠回りだが、その船しか便がなかったのだろう。
 1908年4月3日に乗船。
 石炭の積み込みが遅れ、出港したのが5日。
 宮古に着いたのは6日だった。
 そのときの日記を引用する。

 “起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。
 灰色の濃霧が眼界を閉ぢて、海は灰色の波を挙げて居る。
 船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。

 十時頃瓦斯が晴れた。
 午后二時十分宮古港へ入る。
 すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。
 梅許りではない、四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。
 菊池君の手紙を先きに届けて置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。
 御馳走になつたり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻辞す。

 街は古風な、沈んだ、黴の生えた様な空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。
 街上を行くものは大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。
 鎮痛膏をこめかみに貼つた女の家でウドンを食ふ。
 唯二間だけの隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を習つて居た。
 芸者にするかと問へば、
 「何になりやんすだかす。」
 夜九時抜錨。
 同室の鰊取の親方の気焔を聞く。”

 原文にない改行を加えた。
 こめかみは漢字。
 難しい字で、パソコンでは出ない。

 この日記の全文が、光岸地の鏡岩にある“啄木寄港の地”碑に刻まれている。
 1979年(昭和54)、“宮古港に啄木文学碑を建てる会”の手によって建てられたという。
 石はアフリカ産の黒御影。
 書体は朝日新聞社の新聞活字。
 “宮古港に啄木文学碑を建てる会”は、のちに宮古啄木会となった。

 日記のなかに“菊池君”や“道又金吾氏(医師)”“富田先生”などの人名が出てくる。
 道又金吾氏は鍬ヶ崎に住んでいた。
 菊池君や富田先生というのは宮古にかかわりのある人物だろうか。
 そう思っていろいろ調べてみた。
 啄木が宮古の地を踏んだのは、あとにもさきにもこのとき一度きりだったようだが、啄木と宮古の接点がいくつか浮かび上がってきた。
 まだ途中の報告にすぎないけれど、とにかく分かった範囲で啄木と宮古との接点を、ここに書き留めておこう。

 啄木にかかわりのある宮古出身者、または宮古になんらかのゆかりある人物は6人ほどいる。
 すでに挙げた富田先生こと富田小一郎、道又金吾医師のほかに、伊東圭一郎・狐崎嘉助・小国露堂・小笠原善平らである。
 啄木に紹介状を書いた菊池君というのは、どうだろう。
 名を武治という。
 菊池武平の長男として盛岡に生まれた。
 父の菊池武平というのは、中央大学の初代学長となった菊池武夫法学博士の従兄弟で、盛岡の外加賀野にあった菊池武夫家の差配人をしていた。
 菊池武治は、啄木が「釧路新聞」に勤めていたときにライバル紙「北東新報」の記者を務めていた。
 小説「菊池君」の主人公のモデルになっている。
 宮古とのかかわりは道又金吾以外にはみつからない。

 以下、啄木にかかわりのある宮古出身者、または宮古になんらかのゆかりある6人を、ひとりひとり簡単に紹介してゆきたい。
 前提として、いくつかの点を確認しておくと――
 啄木は1886年(明治19)に生まれ、1912年(明治45・大正1)に死んでいる。
 このころの宮古はまだ町制を敷いていて、下閉伊郡宮古町だった。
 鍬ヶ崎町と合併して新制の宮古町になったのが1924年(大正13)4月1日。
 さらに山口村・磯鶏村・千徳村と合併して市になったのは1941年(昭和16)2月11日のことだ。

●富田小一郎(とみた・こいちろう)
 日記のなかに富田先生として出てくる富田小一郎は、1859年(安政6)盛岡に生まれている。
 東京帝大の政治学科理財学選科を卒業して教師になり、啄木の盛岡中学1年から3年生のときに担任となって数学を教えた。
 恩師である。
 陸軍系の学習機関である素養団の学務も担当していた。
 愛称は山羊(やぎ)。
 啄木に、こんな歌がある。

  よく叱る師ありき
  髯の似たるより山羊と名づけて
  口真似もしき

 1901年(明治34)2月下旬、のちに野村胡堂の名で捕物帖の流行作家になる野村長一や啄木らが起こしたストライキ事件によって盛岡中学から転出し、青森県の八戸中学の校長となった。
 その後、八戸中学を辞して宮古で漁業に従事していたらしい。
 このことは1909年(明治42)11月20日と21日の2回「富田先生が事」と題して『岩手日報』に連載した「百回通信」のなかに啄木が書いている。
 1945年(昭和20)2月3日に死んだ。

●道又金吾(みちまた・きんご)
 道又金吾は盛岡の本宿(ほんしゅく)家の三男に生まれ、鍬ヶ崎町の医師・道又元兆の養子に入った。
 母は直子で、1896年(明治29)に三陸大津波が襲ったときには道又家にいて災厄に遭っている。
 長兄は海軍主計総監の本宿宅命(たくめい)。
 妹の清子は、岩手県二戸市生まれの物理学者・田中館愛橘の夫人だった。
 道又金吾は1894年(明治27)に死去している。
 道又医院は鍬ヶ崎に健在である。

●伊東圭一郎(いとう・けいいちろう)
 伊東圭一郎は1885年(明治18)5月15日、盛岡市加賀野に生まれた。
 自由党代議士だった伊東圭介の長男である。
 盛岡の下の橋高等小学校で啄木と知り合い、1898年(明治31)4月に啄木とともに盛岡中学に入学した。
 1900年(明治33)には級友の啄木・阿部修一郎・小野弘吉・小沢恒一と英語自習会ユニオン会を結成し、1902年10月31日の啄木上京にさいして撮った写真が残っている。
 1903年3月に盛岡中学を卒業した伊東は、9月になって磯鶏(そけい)村の小学校に代用教員として赴任した。
 宮古の南に位置する磯鶏は当時、下閉伊郡下の一漁村で、財政も貧しかったらしい。
 伊東の月給13円は、5円、3円と分割して支給された。
 あとの5円は、
 “これは当時、私は素封家の岩船栄次郎さん方に下宿していたので、その下宿料だったが、役場ではそれを、岩船家の税金と相殺するという有様だった。”
 著書『人間啄木』(岩手日報社、初版1959年5月・改版1974年1月・復刻版1996年7月)に伊東はそう書いている。
 『人間啄木』から引用を続けよう。
 “校長は晴山芳太郎先生(宮古市教育長晴山機智雄さんの厳父)で、教員はたった4人だった。
 私の半ヵ年の磯鶏生活での思い出は、あの美しい浜辺を散歩したことと、啄木から長い手紙を貰ったことである。
 啄木は私の貧乏と病弱に同情して、月に二、三回長い長い手紙を呉れた。
 或る晩、啄木の手紙を広げているところへ岩船夫人が入ってきたので、手伝ってもらって計ってみたら五間半あった。”
 宮古市を西から東へ流れる閉伊川の河口部、太平洋に向かって右側に藤原から磯鶏のほうへと延びていた“美しい浜辺”は、埋め立てられてしまった。
 かつては松の生い茂る美しい砂浜で、県下有数の海水浴場だった。
 伊東は磯鶏村小学校に半年ほどしか務めていなかった。
 その後は盛岡に帰り、1904年(明治37)10月に黒沢尻小学校に赴任。
 辞職して上京。
 国民英学会に学び、「中外商業新報」(日本経済新聞の前身)や「静岡民友新聞」をへて「東京朝日新聞」の整理部員・通信部次長・同部長・調査部長・編集局顧問兼記事審査部長を歴任し、1947年(昭和22)9月に盛岡に戻って岩手日報社の常任顧問となった。
 1957年11月24日に死去、享年73。
 啄木との10年間の交遊の記録をつづった『人間啄木』が同社から上梓されたのは1959年5月。

●狐崎嘉助(きつねざき・かすけ)
 啄木の盛岡中学時代の級友のなかに狐崎嘉助という名前がある。
 狐崎は1883年(明治16)宮古に生まれている。
 戸籍上1886年2月20日生まれの啄木より3つ年長だが、盛岡中学では啄木と同期だった。
 盛岡遊学中は大沢河原の叔父・田中館忠雄宅に下宿していた。
 1902年、中学5年の第1学期末試験のさい啄木に代数の解答を教え、啄木とともに譴責処分を受けている。
 狐崎は謹直な人柄で、盛岡中学入学以来つねに最優等の特待生として毎月の月謝1円50銭(うち25銭は校友会費)を免除されていたという。
 その特典も譴責処分によって失っている。
 仙台の二高の医学部を卒業して大成が期待されたものの、1906年(明治39)23歳の若さで病没した。
 なお、小笠原善平の項目で触れることになる徳冨蘆花の小説『寄生木』のなかに“高崎精助”という名が出てくる。
 この人物のモデルは、狐崎嘉助だといわれている。
 『寄生木』からその個所を引用しておく。
 “下閉伊郡はまことに遊学生を出すことの少ない処だ。
 其少ない中の今法科大学生当時盛岡中学生の川田法憲君、仙台第二高等学校医学部在学中の高崎精助君に良平(小笠原善平)は手紙して中学生活の模様を尋ねた。
 (中略)
 高崎君は今は金の世界で、自分は学資が少ない為甘んじて二高の医学部に居る云々、と後進良平に不平を漏らして来た。”

●小国露堂(おぐに・ろどう)
 小国露堂は本名を善平という。
 『寄生木』原作者の小笠原善平と同じ名である。
 1877年(明10)10月、宮古の横町に生まれている。
 田代家から養子として網元の小国家に入るが、家業を継がずに北海道へ渡り、札幌の「北門新報」硬派記者――政治部記者として活躍していた。
 たまたま知人の向井永太郎(号は夷希微)の依頼で、函館大火によって職を失った啄木の北門新報入社を推薦したことで交際が始まっている。
 ふたりは1907年(明治40)9月15日に向井の引き合わせによって初対面する。
 さっそく意気投合したらしい。
 まもなく啄木は函館の友人・岩崎正(号は白鯨)に送った手紙に、こう書いている。
 “小国君は純正社会主義者に候へど赤裸々にして気骨あり真骨頂あり”
 つぎの啄木の歌のモデルも小国露堂だといわれる。

  平手もて
  吹雪にぬれし顔を拭く
  友共産を主義とせりけり

 啄木が「北門新報」に移って数日も経たないうちに、ふたりは「小樽日報」の創刊に加わることを話し合い、啄木は9月27日に小樽におもむいている。
 小国は遅れて翌年1月に「小樽日報」の札幌支社に転じている。
 啄木は12月21日「小樽日報」を退社。
 翌1908年1月「釧路新聞」に移ったすえ、60日あまりで文学への専心を期して辞職している。
 上京の途につくべく釧路を離れ、いったん海路を函館に向かい、その途中、小国露堂の郷里である宮古に船が寄港して上陸したことは、すでに書いた。
 「釧路新聞」の編集長に啄木の後任として入社したのは小国露堂だった。
 その後、露堂はみずから「東北海道新聞」を創刊。
 のち帰郷して「宮古新聞」を創刊した。
 1952年(昭和27)2月4日死去、享年74。
 葬儀は常安寺で行なわれた。
 なお、露堂の次男・三平は、啄木と交流のあった小田島孤舟の娘と結婚したという。
 これもひとつの縁といっていい。

●小笠原善平(おがさわら・ぜんぺい)
 啄木が宮古に寄港した年の翌1909年(明治42)2月、ひとりの作家が宮古を訪れている。
 徳冨蘆花である。
 啄木と蘆花があいついで宮古を訪れたことのあいだには、なんの関連もない。
 啄木と蘆花に交流があったという記録もない。
 だから、この話は啄木から離れるようだが、実はまったくの偶然としかいいようのない啄木と蘆花の接点が宮古に、そして宮古市出身のひとりの陸軍軍人にあった。
 宮古市山口(やまぐち)の慈眼寺門前に寄生木(やどりぎ)記念館という小さな文学館がある。
 これは蘆花名義の小説『寄生木』の原作者で、宮古出身の陸軍中尉だった小笠原善平を記念する施設である。
 明治100年記念事業の一環として計画され、1969年(明治44)に開館した。
 建物は明治時代のものをと探していたところ、盛岡市内丸の日本赤十字病院で書庫として利用していた建物がちょうどいいので、これを譲りうけて移築・改装した。
 日赤病院は1917年(大正6)に現在地の上田に移転した盛岡中学の跡地に運営された。
 書庫は日赤病院の書庫となる前は盛岡中学の図書庫(としょぐら)だった。

  学校の図書庫の裏の秋の草
  黄なる花咲きし
  今も名知らず

 と啄木が歌った、あの図書庫である。
 白いモルタル塗りで、小笠原家の菩提寺である慈眼寺門前の深い緑に映えてひっそりとたたずんでいる。
 徳冨蘆花の名前で小説『寄生木』は1909年(明治42)12月6日、東京・京橋区尾張町の警醒社書店から発行された。
 翌1910年になって啄木は、歌稿ノート「八月二十八日」の項に13首を書きつけた。
 そのなかに次の3首が並んでいる。

  かなしきは夏子にしあれや夏子夏子
       その一生の記憶にしあれや

  人といふ人の心に一人づゝ
      良平がゐて常にうめけり

  今日逢ひし町の女のどれもどれも
       夏子の如き心地せらるゝ

 この3首には推敲の手が加えられた。

  かなしきは夏子にしあれや夏子夏子
       その生涯の記憶にしあれや

  人といふ人の心に一人づゝ
      囚人がゐてうめくかなしさ

  今日逢ひし電車の女のどれもどれも
       夏子の如き心地せらるゝ

 そして、そのうち2首目だけを1910年12月1日に東雲堂書店から刊行した第1歌集『一握の砂』に入れた。
 収録された歌に“良平”の字は残らなかったが、良平というのは小笠原善平の小説中の名前である。
 夏子はその恋人の名。
 啄木の歌稿ノートにあるこの3首は、『寄生木』を読んでの感興を表現したものと断定して間違いない。
 話が前後するようだが、小笠原善平は1881年(明治14)6月5日、下閉伊郡山口村、いまの宮古市山口に生まれた。
 1886年2月20日生まれの啄木より5つ年上である。
 1895年15歳のとき宮古の高等小学校を卒業して盛岡中学に進学しようとしたが、手続きの期日に遅れて受験できなかった。
 その直前に仙台二高医学部に在籍中の狐崎嘉助に中学生活の模様を問い合わせたことは、すでに書いた。
 その狐崎が啄木の試験不正を助けて譴責処分を受けたことも書いた。
 狐崎嘉助は啄木の級友であり、善平の先輩だった。
 善平にとって盛岡中学を受験できなかったことは、生涯の大きな分岐点となった。
 善平は仙台に出奔し、陸軍第2師団の団長として仙台にいた乃木希典将軍の学僕となる。
 以後、乃木将軍の庇護のもとで軍人となるべく学び、陸軍歩兵中尉となった。
 乃木の恩義に報いるためもあってノート40冊に自伝をつづり、徳冨蘆花に小説化と出版を託した。
 それが善平の死後に蘆花の小説『寄生木』として世に出、明治・大正にかけて六十数版を数えるベストセラーになるのである。
 善平が死去したのは1908年(明治41)9月20日のこと。
 結核を患って山口村の実家で病床に臥していた矢先、ピストルで自殺したという。
 享年28。


 小笠原善平が自殺する数ヶ月前――
 1908年4月6日、啄木の乗った船が宮古港に停泊していたのは6時間ほどだったらしい。
 啄木は、いったん函館へ行く。
 そして経済的に多大な援助を惜しまなかった宮崎郁雨の餞別10円を懐ろに、ふたたび東京をめざして三河丸三等室の船客となった4月24日の日記には、こういうくだりがある。
 “日の落つる頃、船は宮古の沖を南に駛つて居た”
 宮古沖を通過しただけで、寄港はしなかった。

  かの船の
  かの航海の船客の
  一人にてありき死にかねたるは

 とも歌った啄木。
 この上京に“一生の死活問題”をかける覚悟だったから、感慨もひとしおだったろう。
 啄木は、この上京の果てに死を迎える。
 わずか4年後のことである。
 1908年4月6日に宮古へ上陸したのを最後として、ふたたび故郷岩手の大地に足をつけることはなかった。

                       (2003.11.7)

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