1. 咲いた桜になぜ駒つなぐ 4月
2. 銀座の柳        4月
3. 鰹前線,北上中     5月
4. 遅れた万太郎忌     5月
5. 地に紫陽花,天に虹   6月
6. 酸っぱい桜桃      6月
7. 三十光年の愛      7月
8. 芥川龍之介と鰻     7月
9. 夏の風物詩       8月
10. 蚊――このうるさきもの 8月
11. 子規と漱石,秋ふたつ  9月
12. 糸瓜忌[へちまき]   9月
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13. 月下の栗を穿つ     10月
14. 毒のない河豚      10月
15. お酉さまと樋口一葉   11月
16. 七五三と三五七     11月
17. 危うきに遊ぶ      12月
18. 風狂の雪見       12月
19. 乱と治の門松      1月
20. 去年今年[こぞことし] 1月
21. 不忍池の河豚      2月
22. 永遠に失われた日    2月
23. ボタ餅あれこれ     3月
24. 弥生に辞す       3月

■おもな登場人物(50音順)芥川龍之介 渥美清 在原業平 石川啄木 石田波郷 伊藤左千夫 井伏鱒二 内田百閨@榎本其角 大田南畝 大伴家持 太安万侶 岡本綺堂 加賀千代 柄井川柳 久保田万太郎 小林一茶 新門辰五郎 荘子 高浜虚子 太宰治 武田麟太郎 永井荷風 夏目漱石 新島襄 新渡戸稲造 野村胡堂 坂東三津五郎 樋口一葉 平賀源内 正岡子規 松尾芭蕉 三好達治 森鴎外 山口素堂 山上憶良 山本夏彦 与謝蕪村
■本文中,現存者も敬称を略しました  [ ]内はルビ・読みです


■ 咲いた桜になぜ駒つなぐ                     四月


 桜の花だよりが南からとどく時期になった。季節は重苦しい冬の外套を脱ぎすて、確実に春へと歩みつつあるようだ。
 二月の半ばごろ、日溜まりに凛と咲いた梅の花に春のきざしをみる。それでも素肌はまだ寒気にすくんでいる。三月下旬、桜の花が咲きはじめるころになって、やっとほんとうの春らしさを実感する。もう四月も間近、桜前線の到達が待ち遠しい――
 日本人のほとんどが持つにちがいないそんなメンタリティーに、ぼくもどっぷり浸かっている。
 それにしても、花だよりとは味わいのある言葉だ。桜だけではなく、いろいろな花についていうのだろうけれど、いちばん桜にふさわしい。
 桜前線というのもまた、新しい季節の訪れをつげるいい言葉だ。気象庁が天気予報を始めてから、つまり近代のはじめになってから生まれたのだろうと漠然と思っていた。どうやらちがうらしい。太平洋戦争後になって使われはじめた新しい言葉だという。
 桜はこの場合、ソメイヨシノ(染井吉野)をさしている。植物図鑑をみると、バラ科サクラ属には約三百もの種類がある。当然、その種類によって花の開く時期はちがう。だから、全国に普及したソメイヨシノで桜を代表させることになる。
 気象庁の統計によれば、東京のソメイヨシノの平均開花日は三月二十九日だという。ことしは何日になるのだろう。
 ここ数年、桜前線が関東に近づきつつあるのを新聞やテレビで知ると、ぼくは東京・九段の靖国神社にでかけてゆく。
 市ヶ谷田町、牛込台の中腹に建つ古ぼけたマンションから朝の日差しのなかにとびだすと、数日まえよりも空気ははるかにやわらいでいる。緑色に濁ったお濠とJR中央線をまたいで架けられた新見附橋を渡り、外濠公園の土手に立ちならぶ桜の古木を見上げつつブラブラ歩く。神社まで十五分もかからない。
 靖国神社は維新以後に戦争などによって死んだ人たちを祭っているところだ。花は桜木、人は武士という。二本差しの侍は維新によって滅びたけれど、いさぎよく国のために散ってくれる士[もののふ]は富国強兵のために必要とされ、散りぎわのみごとな桜の花にその美意識が仮託された。そういう時代が、かつてあった。
 散華という言葉も死語になった。死語になってよかったと思う。
 ただ、桜好きの日本人の心性が、ひとつのイデオロギーの高揚という目的に巧みに利用された歴史は忘れられない。靖国神社の境内に桜の花が多く植えられているのも、その名残りだろう。
 いま靖国を訪れる若い人に、血なまぐさいこんな話をもちだしたら興醒めかもしれないが……。

 この季節になると思いだす逸話がある。古い話だ。野村胡堂が「新渡戸稲造先生」という短いエッセイのなかで書いている。絶版になっていなければ中公文庫版『胡堂百話』で読むことができる。
 新渡戸稲造が、あるとき宴会に出た。
 ひとりの老妓が三味線を抱えて唄った。

  ♪咲いた桜になぜ駒つなぐ
     駒が勇めば花が散る〜

 すると新渡戸は言った。
「日本にもこんないい唄があったか。もっと聞かせておくれ」
 老妓は、お安いご用とばかりつぎつぎに都々逸をくりだす。
 ところが新渡戸は、
「だめだめ。いいのはひとつもないじゃないか」
 とつぶやいては、“咲いた桜に〜”という唄ばかりを、いつまでもほめていた――
 新渡戸稲造は、いったいこの俗謡のどこがそれほど気に入ったのだろう。堅物として知られた新渡戸の意外な一面をものがたるエピソードとしてこの話を伝えた野村胡堂は、残念ながら、そのわけを書きのこしてくれてはいない。
 新渡戸稲造といえば、一九八一年(昭和五十六)に肖像画にかかげられた五千円札によって、その顔を知っている人も多いだろう。謹厳なキリスト者にして教育者・思想家であり、一九二〇年(大正九)から国際連盟事務局次長を七年つとめて国際的な平和主義者として知られた。旧制一高の校長もつとめ、胡堂こと野村長一[おさかず]の恩師だった。一九〇四年(明治三十七)から一九〇七年にかけてのころである。
 その野村胡堂は、『銭形平次捕物控』三百八十三篇に示されるように、ファンの熱い支持を受けてきた作家である。”あらえびす”というペンネームで書きつづった音楽レコード評でも知られ、『名曲決定盤』(中公文庫)という名著がある。盛岡中学では石川啄木の一学年先輩として啄木の愛好家にも親しい存在になっている。
 新渡戸も胡堂も啄木も、東北岩手の出身である。その岩手まで桜前線が北上するのは、四月も半ばちかくになってからだろう。北国の春は遅く、すばやく過ぎ去ってしまう。
 私事で恐縮だが、ぼくも岩手に生まれ育った。故郷の中学校の庭にたちならんでいた桜の古木がソメイヨシノかどうか、当時は気にもとめなかった。ただ、咲いてはあっというまに散ったという印象だけが鮮明に残っている。
 ところで、“咲いた桜になぜ駒つなぐ駒が勇めば花が散る”という唄は、ただでさえはかない花の生命、どうして鼻息の荒い若馬をつないで散らせるようなむごい仕打ちをするのかと歌っていた。もう一度くりかえせば、新渡戸稲造がこの唄に強く惹かれた理由はなんなのだろう。
 ひょっとすると、彼の胸奥にひそんでいた、あまりに短い東北の春を惜しみ慈しむ心性が、突然に刺激されたせいだったのではないか――そんな推測もしてみたくなる。もちろん的はずれにちがいない。
 新渡戸は一八九九年(明治三十二)にアメリカで『武士道』を出版している。英文で、原題は“BUSHIDO, THE SOUL OF JAPAN”。そのなかで、開国後に日本が西洋から輸入した文物・精神は武士道というバックボーンに接ぎ木されて花開いたけれども、“悲しむべし、その十分の成熟を待たずして、今や武士道の日は暮れつつある”と新渡戸は書いている。
 岩波文庫版『武士道』の矢内原忠雄訳から引用をつづけてみよう。
 西洋の功利主義や唯物主義はキリスト教とともに世界中を席巻し、武士道は“桜花のごとく一陣の朝風に散る”だろう。しかし、“その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後も、なおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。”
 新渡戸が武士道をどういうものと考えていたかは実際にこの本を読んでいただいたほうが手っとりばやい。ここではただ、新渡戸が描いたのは理念としての武士道だったような気がするとだけいっておきたい。
 理念としての武士道など実際は存在しなかったかもしれず、逆にファシズムが美しい理想としての武士道を悪用して抜き差しならない滅亡へと日本を導いていくことになったのだが、それはともかく、新渡戸は、みずからがうたいあげた武士道を一陣の風に散るようなはかない存在と見て、その運命に嘆息していたのである。
 だからこそ一老妓の唄った“咲いた桜になぜ駒つなぐ駒が勇めば花が散る”という里謡に激しく打たれたのだろう。

 江戸時代の初期、一六二四年から四四年のころ後水尾院の指示によって収集されたといわれる俗謡集『山家鳥虫歌』に、この唄は収録されている。
 よほど日本人の感性に訴えるのだろう、愛唱されたために同じ詞句がほかの歌謡にもしきりにあらわれるといった意味のことを、大岡信が『折々のうた』(岩波新書)のなかで書いていた。
 いま具体的にそれらの歌謡を紹介する知識はぼくにはない。かわりに、同様の心情を逆説的に表現して有名な和歌を引用してみよう。
 江戸期からはるかにさかのぼった平安朝時代の初期、京の都にあって宮廷歌人の在原業平はこう詠っていた。

  世の中にたえて桜のなかりせば
    春のこころはのどけからまし

 散りいそぐ桜の花に気をもむ日本人の心性というものは、日本列島の北から南まで、昔も今もかわらないといっていいようだ。
 この和歌は『伊勢物語』の第八十二段に出てくる。“咲いた桜に云々”という唄にまして人びとにくちずさまれてきたのではないかという印象がぼくにはある。
 ところが、そのあとにすぐつづけて掲げられている和歌を知っている人の数は、あるいはそれほど多くはないかもしれない。

  散ればこそいとど桜はめでたけれ
    憂き世になにか久しかるべき

 ぼくはむしろ、こちらの歌のほうに心引かれる。同時にまた、この歌にあらわれている思いこそ、はるかのちになって散華の思想を支えることになる美意識ではないのかと思いいたれば、なにかしら遣る瀬ない。

 いつきても靖国の境内に咲きほこる桜は美しい。はらはらと散る姿も見事だ。ただ、猥雑な花見の喧噪が始まるまえに訪れるたびに、咲く花、散る花が美しければ美しいほど、戦前・戦中にその桜の美がになわされた役割を思って複雑な気持ちにならざるをえなくなってしまう。
 靖国神社で桜そのものの美しさを堪能するのはむずかしい。単純に桜の花を楽しむつもりなら靖国神社は不適当な場所としかいいようがないのだ。
 しかし、花が咲きそめるこの時期、どうしてもここの桜でなければならないという理由がひとつだけある。
 いまは花見のシーズンにまだ早い。能楽堂のかたわらに何気なく立っているソメイヨシノのつぼみも固そうだ。そのなかに標本木と呼ばれる三本の木がある。そのソメイヨシノこそが、東京の桜の開花日、つまり桜前線の到達を知らせてくれる。
 あえていうなら、ほかの桜がどんなに咲いても、この三本の桜のつぼみのいくつかがほころばないかぎり、東京に“春”はやってこない――

 陽気に誘われ、桜の花のおもかげに導かれるかのように、ぼくは深川をめざした。九段から都営地下鉄新宿線に乗って森下駅で降りる。地上に出て歩くこと十分弱。
 江戸時代の初期に下総の行徳から塩を運ぶために掘られた運河だという小名木[おなぎ]川と隅田川とが出会うところ、万年橋の北のたもとに芭蕉稲荷がある。
 所番地は江東区常盤一丁目三番地。松尾芭蕉の住んだ庵の跡だともいわれる。こぢんまりとした祠があり、つぼみをつけた一本の桜の木が、隣家の壁のかたわらに身をすぼめて頼りなげに枝を伸ばしている。そして、その幹には芭蕉の一句を記した木札がくくりつけられている。

  さまざまの事おもひ出す桜哉[かな]

 桜の花は不思議と過去の追想をよぶものらしい。
 「さまざまのこと思いだす桜かな、さまざまの、こと思いだす……」
 と二度ほどかるくくちずさんで、桜にまつわる過去のあれこれを思い浮かべてみる。
 しかし、俳聖芭蕉の名がなければ、これといってなんの変哲もない句ではないか――そんな感想を真っ先にいだいてしまったのは、やはり俗物の哀しさだろう。
 一六八八年(元禄元年)の作で、紀行文『笈の小文』に出ている句である。それにしても芭蕉が思いおこした“さまざまの事”とはどんなことだったのだろう。ふるさとの伊賀上野でみた桜にまつわる事柄だろうか。そのふるさとを捨て、武士という身分を棄てて江戸に出た芭蕉は、どんな桜をみたのだろう。
 前置きを“草庵”としたこんな句も芭蕉にはある。

  花の雲鐘は上野か浅草歟[か]

 一六八七年(貞享四)刊行の、芭蕉一門の句を多く集めた『続虚栗[ぞくみなしぐり]』(榎本其角編・山口素堂序)に収められている。
 花はもちろん桜。深川の芭蕉庵から上野や浅草の花のさかりが薄桃色の雲のごとくに望まれる。寛永寺や浅草寺の鐘の音も、伸びやかな春の温気のなかをおぼろに響いてくるという句で、ぼくにはこの俗っぽさがたまらない。春風駘蕩たる花のお江戸を彷彿させてあまりある。
 芭蕉稲荷から、まだ早い桜のおもかげを追い求めて、今度は隅田川沿いを向島へとさかのぼった。途中に芭蕉記念館もあるけれど、先が長いので今日はパス。
 駒形橋で浅草の町を横目に、吾妻橋ではビール会社の屋上に黄金色に輝く構造物に驚かされ、下を見ては浄化されたとはいえいまだに汚れている大川の流れにあらためて失望しつつ、てくてくと墨堤をゆく。
 歩くにはかなりの距離だ。そのうちに、腹のムシが鳴きだす。さいわい吾妻橋から二十分ほど歩いた墨堤沿いには言問団子の店があり、その手前には“長命寺の桜餅”で知られた老舗やまもと(山本)がある。
 やまもとは桜餅発祥の茶屋とされる。その起源は江戸時代末期の一八〇〇年代はじめにまでさかのぼるらしい。
 久保田万太郎に、こんな句がある。

  船つけて買ひにあがるや桜餅

 舟遊びの手土産とするために店のまえに小舟を乗り着けたのだろう。やまもとは土手際に川を向いて建っている。かつては長命寺の境内にあったらしい。いまは裏手にあたり、長命寺の門を潜るには、ぐるりと回らなければならない。
 やまもとに着いてみると、はとバス観光の一団でもあるのか、店頭に春らしく華やいだ年輩の女性たちがたむろしている。その人混みをかきわけるようにして、十個入り千八百円なりの包みひとつを家族への手土産に買い求める。
 そして、道を隔てて隣りあう、これも向島の名物である言問団子の店へ移る。

  秋出水[でみず]言問団子休みけり

 こんな句も万太郎はものしている。あたりは隅田川と荒川に挟まれた低地で、しばしば長雨や台風などによる増水にみまわれたという。
 長命寺には芭蕉の句碑をはじめとして碑がいくつもある。なかば土に埋もれてしまったものもあるのは、この出水のせいだといわれる。そのうえ関東大震災で一面の火の海になり、かつての向島のすがたは一変した。
 さいわい言問団子の店は開いていて、しかも不思議に空[す]いている。桜餅屋の一団が移ってくるまえの嵐をひかえた静けさか、あるいは嵐のあとの閑散のようである。
 この店の名物は、白餡と小豆餡、求肥に味噌餡を包んだ青梅の団子。三個ひと皿五百円――そうメモすると、おもむろに渋茶をすすりつつ甘い団子をほおばった。
 空腹はおさまったものの、さすがに餡団子ばかり三個は胃にもたれて悩ましい。桜の花に心を悩ませた在原業平とは大違いである。
 業平の歌を、もう一首あげてみよう。

  名にし負はばいざ言問はん都鳥
    わが思ふ人はありやなしやと

 言問団子の創業は一八六九年(明治二)という。言問橋が竣工したのは一九二八年(昭和三)。以来、地名のようになってしまった言問のもとはといえば、『伊勢物語』に出ている業平のこの和歌だ。
 『伊勢物語』は、在原業平の一代記の体裁をとった歌物語だった。物語――つまりフィクションである。
 “むかし、男ありけり”として描きだされている男はしかし、かなり興味ぶかい人物だ。平安朝の貴族で身勝手、漢学の知識には乏しかったけれど和歌をつくる才能に長じ、眉目秀麗で恋愛遍歴を重ねた。
 あるとき、大胆にも后つまり天皇の夫人と密通して京の都にいたたまれなくなり、旅に出てしまう。有名な“東[あずま]下り”だ。最終的には“陸奥[みちのく]”まで東へ東へと落ちてゆく。その道中、武蔵の国にたどりつく。
 『伊勢物語』第九段には、おおむね、こう描かれている。
 男は、わが身を無用のものと思いなし、都を捨て、東国に住むべき場所を求めてさまよう。
 “なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との”あいだにある“いと大きなる河”のほとりにいたる。
 “かぎりなく遠くも来にけるかな”とわびしく思っていると、白くて、くちばしと脚が赤く、鴫[しぎ]ほどの大きさの鳥が、水の上で遊びながら魚をとっている姿が見える。
 京では目にしたことのない鳥なので渡し守に尋ねてみると、こういう返事が返ってきた。
 「これがあの都鳥ですよ」
 都鳥という思いがけない名を聞いて遠い京の都に思いを馳せ、“名にし負はばいざ言問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと”という歌を男は詠む。
 
 “いと大きなる河”が隅田川だ。武蔵の国(東京)と下総の国(千葉)とを区切って流れているのは現在は江戸川だけれど、かつては隅田川が境になっていた。隅田川に架かる両国橋は下総と武蔵のふたつの国を結んだ橋だった。いまは都内の中央区と墨田区を結んでいる。都鳥という優雅な名の鳥は、いまのユリカモメ(百合鴎)だとされる。
 ユリカモメはドブのにおいのする川面を舞っている。河原はコンクリートで固められ、“親水テラス”と呼ばれるものになっている。墨堤の上には高速道路がおおいかぶさっている。長命寺は鉄筋コンクリートの味気ない建物にかわった。ビール会社も巨大なビルの屋上に醜悪な構造物を載せている。聞くところによると、あれは風にたなびく炎のオブジェだそうだが、人はそれを“ウンチ・ビル”などとあられもない名で呼ぶらしい。
 重層した歴史、堆積した過去の上にのしかかる現在。その現代から平安の古[いにしえ]へ、そしてふたたび現代へと、ぼくの頭のなかでフィルムがあっというまに巻きもどされ、また巻き上げられる。
 その酩酊感に溺れかけながらきびすを返したぼくの目に、大川の向こうに沈もうとする真っ赤な夕陽と、欄干にとまって金色に染まったユリカモメの姿がとびこんできた。
 いや、ユリカモメなのか、ただのカモメなのかはわかりようもなかったけれど、それは理屈なしの美しさだった。
 ぼくは、心のどこかで、こんな無垢の美に打たれる感動を求めていたのではなかったか。
 桜にも――そう、花より団子に心を奪われていたぼくだったけれど、まさにいま咲こうとしている向島の桜の花にも、花そのものの美しさを感じたいと思っているにちがいない。


■ 銀座の柳                            四月


  見わたせば柳桜をこきまぜて
    都ぞ春の錦なりける

 三十六歌仙のひとりに数えられる素性法師の著名な歌で、『古今和歌集』に収められている。
 前書きに“花ざかりに京を見やりてよめる”とあるところをみると、平安京を一望のもとに見渡せる場所で詠んだのだろう。
 しかしいまは、この歌にあるような錦織りにも似た桜と柳の競演に絢爛たる春の風情を感じるという繊細な時代ではないのかもしれない。桜の花への愛好は失われていないいっぽうで、柳の葉に春の到来を感じる心性は、どうも日本人から失われてしまったようだ。
 なによりも柳の木そのものが少なくなった。

 銀座に柳通りという道がある。
 中央区役所で聞いた話では、メインストリートの銀座通り(中央通り)とまじわるこの狭い道――裏道といっていいのか、メインストリートに対してサブストリートとでもいったらいいのか、とにかく六〇〇メートルほどの道の両側に合わせて約百二十本の枝垂れ柳が街路樹として植えられているという。
 剪定してからまだ充分に生長していないようで、枝葉も少ない。それでも、ともかくこの柳通りに“銀座の柳”は生き延びていたのである。
 生き延びていたなどとあえておおげさな表現をしたのは、“銀座の柳”といえば一八八七年(明治二十)に植えられた銀座通りの並木をさしたからだし、この柳並木は一九六八年(昭和四十三)に文字どおり、ことごとく根こそぎにされてしまったからだ。
 歩道の下に電線やガス管などを埋めこむための溝がつくられ、柳が充分に根を張ることができなくなってしまうのがひっこぬかれた直接の原因だという。また、雨や風の日に柳の葉が通行人の衣服を汚したり、顔や髪にさわるのも、繁華街の並木としては不適当と断定された一因だといわれる。
 銀座にはもはや柳並木はない――根こそぎにされた柳のかわりに、そういう固定観念のようなものが知らず識らずぼくのうちに根を張っていた。
 じつをいえば、盛んに枝を伸ばしていたころの銀座通りの柳の風情というものを、ぼくは目にしていない。地方出身の貧乏学生として東京に住むようになったとき、“銀座の柳”はすでに姿を消していたのである。
 たまに銀ブラ、というより銀座の街をひたすら彷徨する機会はあっても、場所をかえて生き延びていた柳に気づくほどの心の余裕は、財布の中身と同様に持ちあわせていなかった。
 そんなぼくでさえ銀座といえばすぐに柳の並木を連想してしまうのは、これはもう、西条八十の作詞で一世を風靡した、かつての流行歌の影響というしかない。

 ♪昔恋しい銀座の柳
  仇な年増を誰が知ろう
  ジャズで踊ってリキュルで更けて
  明けれやダンサアのなみだあめ〜

 中山晋平の作曲で、唄は流行歌手の嚆矢ともいわれる佐藤千夜子。そう書いただけで、SP盤のかすれたメロディーが聞こえてくるような気がする。一九二九年(昭和四)六月、ビクターレコードから発売され、たちまち二十数万枚が売れたといわれる当時の大ヒットだった。
 といっても、戦後生まれのぼくが、そのころを直接知っているわけはない。テレビや本を通じて得た間接の知識にすぎない。そして、やはり付け焼き刃の知識というものは、まちがいを起こしやすい。
 ぼくはこの曲のタイトルを「銀座の柳」と覚えこんでいた。今度調べてみたら、なんと「東京行進曲」という題だった。これには驚かされてしまった。
 しかも、まぎらわしいことに、同じ西条八十・中山晋平のコンビによる「銀座の柳」という曲が別に存在するのだ。こちらは一九三二年(昭和七)に発表されたらしい。
 歌詞の一節を紹介するが、ぼくには聞いた記憶さえもない。

 ♪植えてうれしい銀座の柳
  江戸の名残りのうすみどり〜

 往年の歌謡曲ファンなら、この二曲を混同せずに覚えているだろう。
 しかし、そんなオールドボーイでも、いまかかげた「銀座の柳」の歌詞を西条八十の自筆で刻んだ石碑が、銀座通りのまさに尽きようとする場所にあるという事実まで知っている人は少ないかもしれない。
 港区新橋一丁目六番地。銀座通りのまさに尽きようとする場所――いや、正確にいえば、番地のうえではもうここは銀座ではない。銀座通りから柳並木がとりはらわれたように、“銀座柳の碑”も高速道路の下の日陰に追いやられてしまった恰好だ。
 最初は銀座八丁目九番地、汐留川のほとりに建てられた。東京オリンピックをまえにした一九六二年(昭和三十七)、高速道路をつくるために汐留川は埋め立てられた。
 工事が終わってみると、石碑をもどす場所がなくなっている。ほかに空いた土地が日本一地代の高い銀座にあるわけもない。ついに碑は銀座に帰るところを得られず、隣接する新橋の空き地に移されたままになってしまった。側面に“銀座文化碑”と麗々しく刻まれているのは皮肉である。
 いまは暗渠になった堀に架かけられていた、新橋のたもとなのだろう。高速道路の下の石碑のかたわらには二本の柳が寂しく植えられている。一本はかなり古い木で、柳といってもがっしりしている。もう一本は新しく、ひょろひょろと痩せ細っている。立て札があって、“銀座の柳二世”と記されている。
 そばの御門通りが中央区と港区との境になっており、そこにもわずかに柳が植えられ、貧弱な並木をかたちづくっている。

 たまたま仕事先のひとつがJR新橋駅のすぐそばにあるため、地下鉄有楽町線の有楽町駅か銀座一丁目駅で降りてぶらぶらと歩いていくことがある。
 数寄屋橋から外堀通りをいくか、銀座通りを通ってこの「銀座の柳」の歌碑を横目にみながらいっても、せいぜい二十分ほどの距離だ。急ぎの用でもなければ、大きく迂回して築地の場外市場まで足を延ばし、立ち食いのラーメンをふうふういいながら食べたり、横丁にさまよいこんだりしてみることもある。
 そんなある日、並木通り沿いの歩道に建っている小さな碑に気づいた。近寄ってみると、石川啄木の上半身が浮き彫りにされた像と、三行分かち書きの歌一篇が新聞活字体で刻まれている。

  京橋の
  滝山町の新聞社
  灯ともし頃のいそがしさかな

 かつての京橋区滝山町とは現在の中央区銀座六丁目の一部にあたる。そこに、いまは同じ中央区の築地に巨大なビルを構えている朝日新聞社の前身、東京朝日新聞社の煉瓦造り三階建ての社屋があった。

  春の雪
  銀座の裏の三階の煉瓦造に
  やはらかに降る

 啄木は一九〇九年(明治四十二)三月から校正係として、この新聞社に勤めはじめている。

  やはらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ
  泣けとごとくに

 岩手県渋民村――現在は玉山村と名をかえてしまった盛岡近郊の村、そこを流れる北上川のほとりにこの歌を刻んだ碑がある。姫神山から切りだしたという花崗岩の大きな一枚岩に、やはり新聞活字体で刻まれたこの碑は一九二二年(大正十一)に建てられた。啄木の歌碑としてはいちばん古いものらしい。
 “やはらかに柳あをめる北上の〜”という一節には岩手生まれのぼくを思わずじんわりさせるほどの響きがある。北上川や城下町盛岡に柳の木はしっくりと溶けこんでふさわしいのである。
 銀座の柳を織りこんだ歌も啄木にはある。

  あさ風が電車のなかに吹き入れし
  柳のひと葉
  手にとりて見る

 窓を開けた電車のなかにも柳の葉は吹きこんだ。啄木はそれを嫌うより、むしろハイカラに感じたようだ。
 ただ、せっかくさわやかに歌いだしながら、なにか思い屈したような終わり方をしているのが気にかかる。手にとってみているのは柳の葉なのに、いつのまにかそれが消えてしまい、じっと手のひらだけをみつめている啄木のすがたをここに重ねて見出してしまう。

  はたらけど
  はたらけど猶わが生活[くらし]楽にならざり
  ぢつと手を見る

 そう自らを詠った、あの啄木の惨めなすがたをである。ふるさとから遠く隔たった憧れの東京、その大都市のまっただなかで生活苦に泣いた詩人啄木の若さが痛々しい。
 たしかに啄木はモダン日本の繁華を象徴した銀座の街を、希望を胸に闊歩しただろう。だが、底知れぬ挫折感にうちのめされつつ重い足をひきずり歩いたことも多かったにちがいない。
 彼が生まれたのは銀座の柳が植えられる前年、一八八六年(明治十九)の二月二十日のこと。東京朝日新聞社社員として志をとげぬまま病と貧窮のうちに二十七年の短い人生を終えたのは一九一二年(明治四十五)の四月十三日だった。その数ヶ月後に“明治”と名づけられた一時代が終わる。
 銀座の柳は啄木よりはるかに後年まで生き延びた。しかし、いまとなっては、啄木といい柳といい、銀座の繁栄にぬりこめられた陰画のひとつといっていいのかもしれない。


■ 鰹前線,北上中                         五月


 鰹前線――気象庁がいいだしたのか、マスコミ業界がつくりだした言葉なのか、桜前線のあとを追うように新聞などでこのごろよく目にする。
 鰹は太平洋を黒潮にのって北上し、四月に紀州沖、新緑の五月には関東に近づく。いよいよ初鰹の季節到来である。
 現代では外洋でとれた鰹が冷凍されて一年じゅう市場に出まわり、初鰹という旬の感覚も薄れている。とはいえ、やはり近海物の活きのいい鰹、その刺身や叩きの味は格別である。鮪よりもずっとうまい。すりおろしたニンニクを添えると、こたえられない。
 なかには“血合い”の生ぐささを嫌う人がいる。うちの子どもたちがそうだ。鮪の刺身は、ばくばく食べる。
 「おい、ちょっと待て」
 と止めにかかる言葉など一向に効きめがない。
 鰹の刺身には箸をださないから、ないときは仕方がないけれど、あれば必ず鮪と鰹を半々に買ってくることにしている。
 鰹の血合いの生ぐささは、筋肉に酸素を運搬するヘモグロビンなどが多量に含まれているせいだといわれる。ビタミンB12や鉄分も、たっぷり含有している。
 「栄養満点だし、鮪よりうまいぞ」
 子どもたちに、いつもそういってみる。それでも食べないから、これは親が独占する。
 血合いに関しては、おもしろい話がある。鰹は、泳ぎつづけていないと鰓[えら]から酸素をとりこめずに窒息して死ぬ。魚が溺れるのだ。窒息を防ぐためにひたすら泳ぎまわって(眠るときはどうしているのだろう……)、鰭[ひれ]のまわりを中心に筋肉が発達する。これが血合いになる。
 すりおろしたニンニクやショウガには、この血合いの生ぐささを消す効用がある。もちろん消臭うんぬん以前のこととして、鰹の刺身や叩きに添えて食べるとおいしいからこそ添えるのだが。

  目には青葉山郭公初松魚

 なんだかむずかしそうな漢字が並んでいる。書き直してみよう。

  目には青葉 山ほととぎす初鰹

 作者は江戸時代中期に活躍した俳人で、芭蕉とも仲のよかった山口素堂。作者の名は知らなくとも、この句を知らない人はいない。この季節になるとおのずと心に浮かんでくるのが癪にさわるほど、人口に膾炙している。
 しかし、知られているわりには“目に青葉”と誤って口ずさまれたり書かれたりすることが多いのは、どうしたことだろう。“目には青葉”は字余りだから、人びとの口や手のなかで揉まれているうちに省略されたのにちがいない。
 また、重心は “初鰹”にあるとしても、この句には“ほととぎす”と“鰹”と季語がふたつある。
 “青葉”も季語ではないかといいたいが、現在は季語として扱われているこの言葉も、山口素堂の活躍した当時は季語ではなかったらしい。
 だからそれはいいとしても、初句の字余りに加えて季語ふたつというのは、シロウトのぼくからみて、どうも俳句の約束事からはずれているような感じがしてしようがない。
 用字についていえば、はじめに掲げたむずかしい書き方では“ほととぎす”が郭公、鰹が松魚とある。郭公はともかく、松魚と書かれるとぼくにはちょっと読めない。この当て字は鰹を干した身が脂[やに]の多い松の質感に似ているところからついたものらしい。
 気にかかる点はいくつかある。しかし、そんなことには関係なく昔も今もひろく人びとに親しまれているのは、やはり名句の名句たるゆえんなのだろう。
 俗に“初物を食うと寿命が七十五日延びる”といって、江戸っ子の初物好きには念がいっている。なかでも初鰹を珍重する風潮には、この句の影響があずかって大きかったといわれる。
 有名になると、たちまち当てこすりの対象にされてしまう。こんな川柳はご存じだろうか。

  目も耳もたゞだが口は高くつき

 色鮮やかな青葉は目で見、ほととぎすの鳴き声は耳で聞くだけだから、お金はかからない。貧乏人にも楽しめる。なのに、口で初鰹を味わおうとすると、びっくりするほどの金額をはずまなければならない。
 「いっしょに並べられても困るんだよ、素堂さん――」
 と皮肉たっぷりのパロディーである。
 「いい気なもんだね。まあ、素堂さんも俳句に詠んでるぶんには安いものさ」
 というトゲも裏に隠されている。俳句よりも庶民の文芸として発達した川柳らしい発想だ。初鰹はたしかに大好きだが、大枚をはたこうとは思わないぼくには、うんうんとうなずきたくなるところがある。
 こんな川柳もある。

  聞いたかと問へば喰つたかと答へる

 これも“目には青葉山ほととぎす初鰹”という句をふまえている。しかし、揶揄ではない。ほととぎすの初音を「聞いたか!」という出会い頭のあいさつに、すかさず初鰹を「食ったか!」と応じる。単純だけれど、威勢のいい江戸っ子らしさに満ちあふれた応答だ。
 鰹は、とれて二日ほどたったころがうまい。一本釣りの漁師だって、とりたては食べないものだという話を聞く。
 いっぽう、鰹は傷みやすい魚である。保存技術が発達しないころは毒魚ともいわれ、生は敬遠された。三日が限度だといわれる。
 鰹で食中毒をおこす、これを酔うと称し、頭痛がして顔が真っ赤になるらしい。経験がないので真実のほどは闇の中なのだが、桜の樹皮をなめると治るとの言い伝えもある。

  あす来たら打[ぶ]てと桜の皮をなめ

 この川柳は、ひさしぶりに振り売りの魚屋から鰹の刺身を買って食べたら中毒してしまった亭主が、
 「明日あの魚売りのやつがまわってきたら、ぶんなぐってやれ」
 と桜の皮をなめなめ女房に毒づいている図である。

 日本人と鰹とのつきあいにも変遷がある。腐りやすいから昔は生で食べることは少なく、煮たり焼いたりした。さらに大部分を干して保存食や調味料として利用した。要するに鰹節である。
 “はじめに言葉ありき”ではなく、のちに鰹と表記されることになる魚そのものがまず存在した。つぎに、それを干して固めた加工品が出現した。その干し固めた加工品の普及から堅い魚というイメージが一般に定着した。カタイウオがカタウオと短くなり、さらにカツオと訛り、鰹という漢字が用いられるようになった――
 そんなふうに、ぼくは想像していた。しかし、あらためて考えてみると、とれたての生の鰹じたいがビンビンと鋼のように引き締まって堅い。そこから堅い魚という名がついたというのがほんとうかもしれない。識者の教えを乞いたいと思う。ちなみに書き添えておくなら、鰹は和製漢字である。

 ところで、生の鰹は下魚としてあまり歓迎されなかったという意外な事実は、鎌倉時代も末期の一三三〇年(元徳二)ごろに成立した兼好法師『徒然草』からも読みとることができる。
 その部分を意訳してみると、
 ――鎌倉の海に鰹という魚がいる。ちかごろでは庶民がしきりに食べているようだけれど、鎌倉の年寄りがいうには、
 「わしらの若いころには、りっぱな人の膳になど載ることのなかった魚じゃ。頭などは貧乏人でも食わずに捨てておったのにのう」
 世も末になると、こんなものまで上流社会に入ってくる。嘆かわしいことよ……
 こんな鰹がもてはやされるようになったのを示す戦国時代の逸話が残っている。
 一五三七年(天文六)、小田原で漁を見物していた北条氏綱の小舟に一尾の鰹が飛びこんだ。こじつけでカツオすなわち勝つ魚、戦さに勝つという名のめでたい魚を掌中にしたと氏綱は大喜びし、すぐさま兵を起こすや怒濤のごとく河越城の上杉朝定を打ち破り、武蔵の国を平定したというのだ。
 以来、武士は出陣の酒肴に旬の鰹をさかんに用いては気勢を挙げた。季節が違っては話にならないが、旬の魚は味がいいだけではなく、栄養価も高いから力[リキ]がつく。のちの徳川将軍家も代々、縁起物としてこれを賞味した。
 この風習が泰平の世を謳歌した町人のあいだに普及し、山口素堂の句の影響とあいまって、やがて熱狂的なまでの初鰹礼讃となったものらしい。
 値段は当然のようにはね上がる。前掲の“目も耳もたゞだが口は高くつき”という川柳に、それはあらわれている。もっと端的直截に詠んであられもないのは、芭蕉の門人だった榎本其角(姓は宝井ともいった)の次の句だろう。

  まな板に小判一枚初鰹

 熱狂ぶりはさらに沸騰する。ピークは一七八〇年代はじめごろだろう。田沼意次が側用人・老中として幕府の実権をにぎったのが一七六七年(明和四)。それから約二十年間、いわゆる田沼時代がつづく。初鰹礼讃の熱狂は、この田沼時代と軌をいつにしている。
 魚屋が売りにくるのを待ちきれず、漁場から初鰹を積んで日本橋の魚河岸をめざす押送り船を品川沖に小舟で待ちうけ、小判を何枚も投げこんでは活きのいい初鰹を手に入れる者まであらわれた。俗も、ここに極まれり――

  押送りたった七十五本積み

 押送りというのは櫓が片側八挺、計十六挺ある快速船だ。魚河岸に水揚げすると、すぐまた漁場にまいもどる運搬専用船で、この川柳は、その押送り船に初鰹が七十五本しか積んでいなかったと驚いている。
 この七十五という数字は、初物を食えば寿命が七十五日延びるという例の俗信からきていると浜田義一郎編の『江戸川柳辞典』(東京堂出版)に書いてあるが、数が少なくても十分に商売になるほど初鰹の値が高かったわけだ。
 堅苦しい封建制に風穴をあけたように活気に満ちた田沼時代も、金権・賄賂の腐敗のなかに終焉をむかえる。飢饉や災害も追い打ちをかけた。一七八六年(天明六)に意次が失脚すると、陸奥国白河藩(いまの福島県南部)の藩主だった松平定信が幕政の中枢にすわる。緊縮財政のもと、初鰹の狂騒に象徴された時代の様相は一転してゆく。
 しかし、それでも初鰹礼讃の風潮は、ピークを過ぎこそすれやむことはなかったというから、流行という俗中の俗というべき現象には恐ろしいパワーが潜んでいるらしい。
 世俗のたくましさは、つぎの狂歌にもあらわれている。

  白河の清き流れに魚住まず
    濁れる田沼いまは恋しき


■ 遅れた万太郎忌                         五月


  あぢさゐの色には遠し傘雨[さんう]の忌

 銀座の女流俳人として知られる鈴木真砂女の句。
 “傘雨の忌”は師匠にあたる久保田万太郎の祥月命日だ。五月六日がその日で、このころは万太郎が好んだ紫陽花が花をつけるにはまだ早い。
 傘雨といっても一般には馴染みが薄い。万太郎は句作のさいに雅号をほとんど使わず本名で通している。初期には暮雨と号した。のちに傘雨と称したことがあるのは事実だが、冗談半分に名乗ったまでのことという本人の言葉もあるようだ。それが戒名に織りこまれ、忌日の代名詞にまでなってしまった。万太郎も苦笑していることだろう。
 暮雨は先人の号が気に入って借用したもの。傘雨は、あるいは万太郎が好んだ増田龍雨という江戸派の宗匠の俳号に影響をうけているのかもしれない。
 暮雨・傘雨と雨づいているけれども、背景や道具立てとして雨を詠みこんだ句は万太郎に多い。しかし、とくに雨が好きだったのかといえば、そうでもなさそうである。
 一八八九年(明治二十二)十一月七日に東京・浅草で生まれた万太郎は、一九六三年(昭和三十八)の五月六日、数えの七十五歳で死んでいる。
 市ヶ谷加賀町の梅原龍三郎邸でおこなわれた明哲会という名の美食会に顔を出し、ふだんは口にするはずのなかった赤貝の鮨を食べた。それが、どうしたはずみか気管に詰まってしまって窒息、絶命した。死の当日も、八日の告別式も、新緑が小雨に濡れる日だったという。

 その祥月命日には遅れてしまったけれど、五月のうちに墓まいりをすませようと、いさぎよく晴れわたった初夏の街にぼくは飛びだした。
 目ざしたのは、まず湯島天神である。
 万太郎は敗戦の年の一九四五年(昭和二十)に空襲で三田綱町の借家を焼けだされている。“五月二十四日早暁、空襲、わが家焼亡”と前書きされた一句が『草の丈』(一九五二年・創元社)という句集に収められている。

  みじか夜の劫火の末にあけにけり

 それから万太郎は東中野での仮住まいを経て、十一月という敗戦後の混乱のなかを鎌倉材木座へ移っていったが、一九五五年(昭和三十)六月になって東京にもどっている。
 所番地は文京区の湯島天神町二丁目十番地。
 上野で山手線を降り、不忍池のほとりを歩いて十分もすれば湯島天神下に着く。強い日差しのなか、男坂の階段をのぼりきると、右手にすぐ女坂が寄りそっている。

  梅雨あけやさてをんな坂男坂

 “うつり来て、はや半月……”と前書きして万太郎が詠んだ女坂と男坂。そのふたつの坂に挟まれた三角地帯の一郭には、二年に満たない短いあいだではあったけれど万太郎の移り住んだ家が、いまも残っている。

  みじか夜や焼けぬせうがの惣二階

 この句には、“湯島天神町といふところ、震災にも戦災にも逢はず、古き東京のおもかげをとゞむ”と前書きがある。“せうが”というのは証拠の江戸なまりだという。“わが家焼亡”という悲痛の句でも使われていた“みじか夜”が季語で、短い夜、明けやすい夏の夜をいった。
 関東大震災や太平洋戦争の空襲を生き延び、戦後の地上げにも耐えぬいたらしい木造瓦葺き・惣二階建ての古い家は、丈高いビルやマンションの群れに囲繞され、ひっそりたたずんでいる。
 天神境内のベンチに腰をおろして汗を拭っていると、トントン、トカトントンと金槌を打つ音やらなにやら、しだいに騒々しくなってくる。まもなく始まる例大祭の準備のようだ。
 一服して腰をあげ、女坂を降りて狭い露地を玄関にまわってみた。表札には女性の名前がかかげられている。万太郎の、二番目の夫人だった人の名で、“わが家にあれば”と前置きしてこうも詠まれた人である。

  うとましや声高妻も梅雨寒も

 この“わが家”はまだ鎌倉の借家で、材木座で入った最初の洋館がGHQ(占領軍総司令部)に接収されたあとに構えた一戸である。
 ここで万太郎は、二十いくつも年若い、陽気で無邪気な女性を妻にむかえた。懇請して手に入れ、ひとときは幸福に酔いしれていた万太郎だった。が、しだいに肌が合わなくなってしまったものらしい。
 それにしても、女性の身にとってこう表現されてはたまったものではないだろう。すでに紹介した“梅雨あけやさてをんな坂男坂”という何気ない句も、あらためて見直すと決して矚目の句ではなかった。
 この句の重みは“さて”というひとことにある。“をんな坂”と“男坂”は“をんな”と“男”。永く垂れこめていた梅雨もあけた、“さて”――問題は“をんな”と“男”であると。
 湯島天神下に家を買って移り住んでからの新しい生活も永くはつづかなかった。二年ほど経って、最初の夫人とのあいだに生まれたひとり息子が肺結核で死ぬ。三十七歳だった。その初七日をすますと万太郎は、再婚の“声高妻”を家に置き去りにしたまま、赤坂天馬町の、生涯最後の女性のもとに隠れ棲む身となる。

  さみだれや門をかまへず直ぐ格子

 万太郎が飛び出した天神下の家は、この句そのままの在りようだから、あまり前に立ちどまっているのもはばかられる。すっと露地を通りぬけ、こんどは男坂をのぼって切り通しの坂に出た。

 切通坂へ出る湯島天神の門を潜ると、すぐ左手に石川啄木の歌碑が建っている。

  二晩おきに、
  夜の一時頃に切通の坂を上りしも――
  勤めなればかな。

 三行分かち書きで、句読点なども使った特徴ある啄木短歌。
 そういえば万太郎にも、分かち書きこそないけれど、途中で読点を打ったり固有名詞を括弧でくくったりした句がみられるのはおもしろい。前書きをじつに効果的につけ、そのなかには――(ダッシ)や……(三点リーダー)が、これもじつに巧みに用いられている。
 それはさておき、啄木は一九〇九年(明治四十二)六月から一九一一年(明治四十四)八月までの約二年間、本郷弓町の喜之床という理髪店に間借りしていた。現在の本郷二丁目にあった。
 本郷三丁目で市電に乗って上野の広小路に出、そこで乗り換えて、「銀座の柳」でもすでに触れたように京橋の滝山町にあった東京朝日新聞社に通ったのである。
 肺結核の病状が重くなるにつれて会社に出ることは少なくなっていったが、それまでは二晩おきに夜勤もあり、終電後にとぼとぼと歩いてこの切通坂をのぼることも多かったのだろう。
 万太郎は啄木忌の句を三句詠んでいる。“四月十三日”と題した二句のうちから一句をあげておこう。

  肚からの貧乏性や啄木忌

 湯島から本郷三丁目の交叉点へ向かうこの坂道は、春日通りと呼ばれている。途中、右手には通りの名の由来となった春日局の菩提寺である麟祥院がある。
 徳川三代将軍家光の乳母として大奥で権勢をふるっていた春日局が建立したという麟祥院には、カラタチの垣根で囲まれていたところから枳殻寺[からたちでら]の愛称がある。
 枳殻は臭橘とも書く。森鴎外は小説『雁』のなかで“臭橘寺”と表記し、夏目漱石は『三四郎』で“枳殻寺”、『野分』では“からたち寺”と書いている。
 春日通りからは少し引っこんでいるために目立たず、そのぶん落ちついた雰囲気のただよう感じのいい寺だ。
 鴎外には陰気に映ったらしい。『雁』(新潮文庫)から、ちょっと引用してみよう。
 “岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺の角を曲がって帰る。しかし仲町を右に折れて、無縁坂から帰ることもある。”
 無縁坂は切通坂のすぐ北隣りにあり、学生時代の鴎外が一時期、坂上の下宿屋にいた。松源や雁鍋というのは有名な料理屋。
 ぼくもおなかが空いてきたけれど、上野にはもどらず、このまま本郷に向けて春日通りの坂を登っていかなければならない。

  本郷は切通し上吹雪かな

 湯島天神下に移り住む以前の一九三六年(昭和十一)、万太郎四十七歳のおりの句。万太郎もこの切り通しの坂道を何度も登り降りしたにちがいないが、雪が降ると滑って危なっかしかっただろう。
 坂上の本郷三丁目の交叉点には、向かい角に化粧品や小間物の老舗“兼康”(かねやす)がある。この店も漱石の『三四郎』に“兼安”という表記で出ていて、野々宮君が美禰子のためにリボンを買っている。漱石の門下だった内田百閧ヘ、学生時代にこの店のまえで三十五銭入りの財布をスリにやられている。虚実とりまぜて、いわくつきの店である。
 有名な川柳にも詠み込まれている。

  本郷もかねやすまでは江戸の内

 どうも、いろいろ寄り道をしているあいだに紙幅が少なくなってしまった。肝心の万太郎の墓参というより、漫然とした文学散歩の記に終わってしまいそうな気配がただよってきた。まあ、ものはついでである。もう一ヶ所だけ寄り道をしたい。
 本郷三丁目の交叉点を春日通りから本郷通りに右折し、万太郎の墓がある喜福寺の手前、つまり大学の赤門を過ぎた斜向かいに、樋口一葉ゆかりの法真寺がある。
 本郷六丁目六番地にあたり、この隣りの五番地に樋口家が住んでいた。一葉の四歳から九歳までの五年間のことで、当時、一葉の父は東京府庁に勤める官吏だった。まだ没落するまえのことである。
 一八九五年(明治二十八)五月に雑誌「太陽」に発表された『ゆく雲』という短篇に出てくる“御梵刹[おてら]”は、この法真寺がモデルになっているといわれる。
 作品から表記を変えて引用してみよう。
 “隣りは何宗かの御梵刹さまにて寺内広々と桃・桜いろいろ植えわたしたれば、こなたの二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま濡れ仏にておわします御肩のあたり膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて前に供えし樒[しきみ]の枝につもれるもおかしく、下ゆく子守りが鉢巻の上へ、しばし宿貸せ春のゆくえと舞いくるも見ゆ、(中略)隣の寺の観音様、御手を膝に柔和の御相、これも笑めるが如く、(後略)”
 寺の宗旨は浄土宗という。腰衣観音に散りこぼれている花は、いうまでもなく桜。のちに一葉は、この家を“桜木の宿”と表現している。
 法真寺には一葉資料館が設置されている。この日は運の悪いことに休みだった。ご本尊を目のまえにしての欲張った寄り道に、ひょっとしたら万太郎の霊がヘソを曲げたのかもしれない。一瞬そう思った。万太郎には、そんなことをしかねない一面があったようだ。
 ただ、樋口一葉は、万太郎が少年時代からこよなく愛惜した作家だった。『十三夜』や『大つごもり』『にごりえ』そのほかの代表作を脚色してラジオドラマや舞台にのせ、青江舜二郎原作の『一葉伝』を脚色・演出しているほか、国学院や共立女子大などの教壇に立って学生に一葉を講義している。随筆に何度もとりあげていることはいうにおよばない。
 いくつか句にも詠んでいる。

  あらひたる障子立てかけ一葉忌

  石蹴リの子に道を聞き一葉忌

 おもしろい話がある。これは戸板康二の『万太郎俳句評釈』(一九九二年・富士見書房)という本に載っていた話だ。万太郎が、なにかの拍子に、こんなことを言ったそうである。
 「一葉は若くして死んだ。気の毒だが、七十、八十まで生きて、芸術院の総会に出てきたりしないで、よかった」
 一葉が生きながらえ、芸術院の会員に選ばれたとしても果たして推薦を受けいれたかどうかは疑問だ。万太郎は、五十八歳のときに芸術院会員を拝命している。
 さて、お目当ての万太郎の墓は、喜福寺の墓所のかたすみに先祖代々の墓と並んで建てられていた。
 台座の上に四角や丸、屋根型の黒御影を積み重ねた五輪の塔――いってみれば田楽のような印象をあたえる墓石には、細くてたよりなげな筆跡で“久保田万太郎之墓”と刻まれている。万太郎の自筆である。
 戒名は、筆跡とは対照的に、顕功院殿緑窓傘雨大居士と舌を噛みそうなほど仰々しい。作家に戒名ほど似合わないものはないという感慨をあらたにするのだが、どうだろう。
 傘雨忌には遅れたうえ、きょうは雨や傘とはまったく無縁な上天気。しかも陽気に誘われて寄り道ばかり……ぼくは、なんとなくお詫びするような気持ちで墓前にたたずんだ。
 しかし、とにかくこれで、やっと万太郎の墓に合掌することができたのである。一息いれると、ここちよい疲労感につつまれながら本郷通りを御茶ノ水へ向けて、ふたたび歩き出した。


■ 地に紫陽花,天に虹                       六月


 停滞前線という言葉がある。
 寒気団と暖気団の勢力が均衡し、その境いめが前線となって長いあいだ日本の上空で停滞するところからついたものだ。
 六月になると、この停滞前線が日本の上空に発生し、徐々に北上・東進を開始する。いわゆる梅雨前線である。
 梅雨前線がもたらす長雨は、乾いた夏に入るまえの恵みの雨だ。と同時に、多くの人にとっては憂鬱な雨ともなる。
 入梅は暦のうえで六月十一日前後。実際の関東地方の平均日でいえば六月九日。梅雨が明けるのは、関東で七月十八日。一ヶ月以上も湿った季節がつづく。
 立夏は早く、毎年五月六日ごろだ。この立夏を過ぎてしまえば暦のうえではもう夏のはずなのに、梅雨が明けて、ほんとうに夏らしい夏がやってくる。
 空[から]梅雨だといいな、と毎年のように思う。しかし水不足になっても困る。稲の育ちにも影響する。やはり、梅雨にはたっぷりと雨が降り、明ければカッと真夏の太陽が照りつける、メリハリの利いた空模様のほうがいいようだ。
 そろそろ梅雨か、と怪しい雲行きをうかがうころになると、ある日、気象庁が梅雨入りを宣言したとマスコミが報じる――
 なぜかそんな気がしていたが、しかし気象庁は“お知らせ”といって“宣言”とはいわないようだ。予測がむずかしいために宣言などという断定的な表現はできないものらしい。いったん“お知らせ”しておき、秋になってから修正するのである。
 ツユは、青かった梅の実が熟して黄色くなるころの長雨だから“梅雨”と書く。また、ものみな湿り気をおびて黴[かび]が生えやすくなるから“黴雨”とも書く。
 黴という字を見ていると、芥川龍之介を思いだす。黴ではないけれど、芥川がこんなことを書いていた。
 “羊羹と書くと何だか羊羹に毛の生えてゐる気がしてならぬ”
 このひそみにならえば、“黴雨”という字も身体のどこやらがもぞもぞとしてくるような表記ではある。もっとも、最近あまりお目にかかれなくなった。
 五月晴れという言葉がある。現在は新暦五月のどこまでも青く澄みわたった日本晴れを意味する言葉として使われるほうが多いという話も耳にする。けれども、本来は旧暦五月の梅雨のあいだの晴れ間をいう。
 同じように、五月雨は新緑五月に降るさわやかな雨ではなく、旧暦の五月を通して降る長雨、つまり梅雨である。
 五月雨は梅雨のことといっても、五月雨が降ってきたという言い方はあるのに、梅雨が降ってきたという使い方はしない。
 これは、五月雨が雨そのものを指すのに対し、梅雨は六月から七月にかけての長雨の時期を指しているからだろう。

  五月雨をあつめて早し最上川

  さみだれや大河を前に家二軒

 五月雨を詠んで著名なふたつの句は、前者が松尾芭蕉、後者が与謝蕪村の作。梅雨の鬱々としたイメージなど微塵も感じさせない。スケールの大きな壮快感を読むものにいだかせて、さすがと感じいるしかない。

  さみだれの空吹[ふき]おとせ大井川

  さみだれの大井越たるかしこさよ

 前者が芭蕉の句。梅雨空を吹き落とせと大井川に呼びかけて、やはり壮大なスケールを感じさせる。芭蕉最後の旅となったふるさと伊賀上野への途上、四泊五日の川留めにあってこの句を詠んだ。
 後者の蕪村の句は、なんのことやらよくわからない。静岡県の中部を流れて駿河湾に注ぐ大井川に、徳川幕府は江戸防衛のため渡し船や架橋を禁じた。増水すると川越えができなかった。“箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ〜”と馬子唄にうたわれた難所の大井川を、五月雨は難なく越えて降っている、という意味か。
 蕪村からは、つぎの句を引いておきたい。

  さみだれや名もなき川のおそろしき

 “名もなき川”とは小さな川という意味だろう。長雨による川の増水は、たとえ小さな川であっても怖ろしい。川留めがあった江戸時代ばかりでなく、河川工学の進んだといわれる現代でも変わりない。橋があっても流され、氾濫すれば人も家屋も濁流に呑みこまれる。
 そういう目で、あらためて前に挙げた二句“五月雨をあつめて早し最上川”“さみだれや大河を前に家二軒”を読み返してみると、そこには単に壮快感ばかりではなく、自然の力への畏怖、人のいとなみのはかなさ、いじらしさへの共感が感じられる。
 芭蕉の詠んだ最上川は、最近はずいぶんおとなしくなったらしい。かつては山梨・静岡のふたつの県にわたる富士川、熊本の球磨川とならぶ日本三大急流のひとつだった。
 蕪村の詠んだ“大河”は、どこの川だろう。とにかく、降りつづく五月雨を集めて膨脹し、その濁流をまえに、わずか二軒の小さな家が心細げにたたずんでいる情景を読みとって、ぼくは胸を打たれる。通説は違うらしい。そのへんは専門の解説書にまかせよう。

 梅雨という言葉ひとつから、人はさまざまな想いを引き起こされる。大河をまえにした小家の心細さとはあまりにかけはなれておかしいけれど、ぼくの場合は、まず紫陽花を連想してしまう。
 咲き遅れた藤の淡い紫、露草のくっきりとした青、ドクダミの白い花も梅雨に映える。ただ、この季節を象徴する花といえば、なんといっても紫陽花に指を屈するだろう。

  あぢさゐのいろ濃きうすき宿世[すくせ]かな

 久保田万太郎の句。紫陽花は彼が好んだ花でもあり、彼の生まれ育った浅草と紫陽花はよく似合う。
 紫陽花の花といっても、ほんとうは萼[がく]。いわゆる不実の花で、装飾花ともいう。白から淡い緑、青、紫、淡い紅色などと七色に変化するという。
 一房の花のなかでも、よくみると変化の度合いがちがっている。濃いのもあれば薄いのもある。その一瞬に、さまざまな人の生き方を感じとった万太郎はさすがだが、“宿世かな”とまとめあげられてしまっては、ちょっと抵抗がある。前世からの因縁なんて、やりきれなさを感じてしまうばかりだ。
 芥川龍之介にその句を“東京の生んだ歎かひの発句”(第一句集『道芝』序)と評された万太郎は、どうやら紫陽花の花に人の世のはかなさをみていたようだ。こんな句も詠んでいる。

  あぢさゐやなぜか悲しきこの命

 しかし、七色に変化する紫陽花は、妖花といって嫌う人がいるとは信じられないほどに美しい。雨のなかでひっそり咲くすがた、雨が上がって陽光を浴びてキラキラと輝くそのすがた――
 加賀千代女のつぎの句のほうが、ぼくは好きだ。

  紫陽花に雫あつめて朝日かな

 ぼくの連想はさらに飛躍する。紫陽花の葉っぱには必ずカタツムリが載っている。そして、ひさびさに晴れわたった天空には七色の虹が架かるのだ。
 まるで滝平二郎の切り絵か、「週刊新潮」の表紙でおなじみの谷内六郎の童画の世界である。自分でも気恥ずかしくなるけれど、そう考えると梅雨もまた楽しい。

 春のことになる。ことしは菜種梅雨が長かった。桜の時節に入っても雨が多く、花曇りや花冷えという言葉もよく聞かれた。
 そのあいま、三月三十日の夕刻に東京では雨上がりの陽に照らされて二重の虹が浮かびあがった。残念なことに、ぼくはこのめずらしい虹を見そこなってしまったのだ。
 二重の虹とは、一本の虹の光が反射し、すぐそばに副虹と呼ばれるもうひとつの虹があらわれる現象である。この目でひとつひとつ確かめようとしていつも失敗するけれど、虹は内側から紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色。副虹の色の配列は、主虹の反射だからその逆になるらしい。
 たまたま読んだ井伏鱒二の「虹のいろいろ」という文章に、こうあった。
 “今年の夏、諏訪湖の手前の高森で二重の虹を見た。あいにくと消えかけていて、げんなりしたような色であった。
 同じ高森で、去年の夏は目のさめるほど生彩のある素晴らしい虹を見た。「虹だ虹だ」「早く早く、二重の虹だ」と噪ぐ近所の子供たちの声が聞え、ところが虹を見ている私の胸は動悸をうたなかった。
 私はそれがもどかしかった。今、ここで胸をどきどきさせて置かないと、あとで損をしたような気持になるだろうと思った。”
 一九七一年(昭和四十六)七月に出版された『小黒坂の猪』という随筆集に収められているらしい。別のアンソロジーで読んだきりなので初出がわからない。井伏のいう“今年”が、いったいいつなのか、はっきりしない。けれども、二重の虹を井伏鱒二は二年つづけて見ているのだから、一生に一度か二度というような稀有の自然現象ではない。注意して空を見上げるものには、けっこうしばしば見られる現象なのだろう。
 ことし三月三十日に架かったという二重の虹。その日、部屋の南向きの窓から外をながめ、曇天にもかかわらず近くの高いビルの壁が西陽を受けて白く光り輝いているのを変な天気だなと思いながら、ぼくはその肝心の虹を見そこなってしまった。まさに“損をしたような気持”でしかたがない。

 ところで、この井伏鱒二を師とあおいだ太宰治の祥月命日が、梅雨真っ最中の六月十九日である。
 一九四八年(昭和二十三)の六月十九日も雨。十三日に失踪してから六日後、東京・三鷹市内の雨に濁った玉川上水で、愛人の山崎富栄としっかり抱きあった姿でみつかったという。
 しっかり抱きあった――というのは文学的レトリック。じっさいは紐で体をくくりつけてあったらしい。太宰の首には紐で絞められた跡もあったという。
 奇しくも十六日は満で太宰三十九歳の誕生日にあたる。
 奇しくもといえば、「朝日新聞」に連載される予定だった最後の小説『グッド・バイ』の原稿は第十三回で終わっている。そして十三日に失踪。そのうえこの年は、最初の短篇集『晩年』を書きあげた一九三五年(昭和十)から数えて十三年目にあたる。
 小説『野菊の墓』で知られる伊藤左千夫の短歌を太宰が書きつけた短冊が、山崎富栄の部屋に遺書とともに残されていた。この歌は辞世のつもりだったのかどうかわからないが、入水を暗示しているとも受けとれる。

  池水は濁りににごり藤波の
    影もうつらず雨降りしきる

 梅雨のうっとうしさが立ちこめたような短歌だ。太宰はそのまえに計四回だったかの自殺を企てた死に損ないである。五回目かで、やっと“成就”した。これも憂鬱な話だ。
 夫人に宛てた遺書のなかで“悪人です”と書かれた井伏鱒二は、つい最近の一九九三年(平成五)七月十日まで生きて、九十五歳の長寿をまっとうした。つねに若々しさを失わない人だったという印象がぼくにはある。
 その井伏は、太宰の情死について、“ものの弾みと云ったらどうだろう”とあっさり書いた。
 世俗に反抗した太宰のエネルギーは枯渇し、精神的に老いた。たとえ井伏のように二重の虹をみたとしても胸が高く動悸を打つことなく、そのことを口惜しがる素直な気持ちも失った。そのあげくの情死。
 太宰の痩せ細った命は梅雨の陰鬱さに負けてしまったのかもしれない――そんなことを考えながら、ぼくは梅雨が明けるのを待っている。


■ 酸っぱい桜桃                          六月


 初夏をいろどる果物のひとつにサクランボがある。
 黄色や紅[くれない]に輝く艶やかさ、形も小さくて愛らしい。口に含んでかるく歯をたてると、果肉がはじけ、甘く、ときにほのかな酸っぱさが口のなかいっぱいにひろがってゆく。梅雨のうっとうしさを一瞬に忘れさせ、やがて訪れる本格的な夏を予感させてくれる。繊細で傷みやすく、最盛期は六月半ばからのわずかひと月ほど。
 小学生のころ、めずらしくクラスの友だち数人が家に遊びにきたことがある。そのとき母親が、おやつとしてガラスの器に山盛りの奮発をしてくれたのが旬のサクランボだった。豊かさとは縁遠いウチの経済事情では普段あまり出てくることのない、ぜいたくなおやつだったはずだ。
 そのうち、みんなして口に残った種を二階の裏の窓から吹きとばして遊んだ。遠い記憶をまさぐってみても、だれが最初にやりだしたのかはボンヤリかすんでいる。おそらくぼくだったのだろう。
 小さな種は小雨のなかを飛んで細い路地に張りだしたトタン屋根に落ちる。何粒も雨樋に転がっては溜まる。そんなことが単純におもしろかった。悪ふざけをしているつもりなど、まったくなかった。
 友だちが帰ったあとで母親に叱られた。樋が詰まるということらしい。ハッと気がついて悄気[しよげ]かえるいっぽうで、ぼくは内心、樋が詰まろうとそれがなんだとささやかに反発していた。そろそろ反抗期に入りかけていたからだろう。
 ぼくのなかでは、そういう甘酸っぱい記憶とも、サクランボは鮮明に結びついている。

  さくらんぼ六月生れ讃ふべし

 轡田[くつわだ]進という人の作。
 ぼくも六月生まれだから、この句を読んで単純にうれしくなって閻魔帳に書きぬいたものらしい。句と名前だけで、出典も、作者がどういう人物かも書きつけていない。やはりぼくは単細胞、というより典型的な俗物なのである。讃うべき人生とは縁遠い。
 大の俗物嫌いだった太宰治も六月生まれだ。一九〇九年(明治四十二)の六月十九日に青森県北津軽郡金木村、現在の金木町で生まれている。
 そして一九四八年(昭和二十三)六月十九日、つまり記念すべき誕生日に東京・三鷹の玉川上水で情死体が発見されている。
 祥月命日の桜桃忌は十九日におこなわれているようだ。文学事典などには失踪した十三日が死亡の日付として記されている場合がある。
 満で三十九年のその短い生涯は果たして讃えられるべきものだったのかどうか、判断は人さまざまだろう。しかし、すぐれた多くの作品を遺したのだ、それだけで讃えられていい。むざむざと太宰の年齢を超えてしまったぼくなどは、そう思う。
 “子供より親が大事、と思いたい。”
 よく知られたこの一節で始まる『桜桃』という短篇小説は、つぎのような展開で終わっている。引用は新潮文庫版から。
 妻との言葉の行き違いから、いたたまれなくなって家を飛びだした小説家がいきつけの飲み屋に入る。すると、季節の桜桃が出される。
 “私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。”
 だが彼は大皿に盛られた桜桃をまずそうに食べては種を吐き、心のなかで虚勢のように、もう一度つぶやくのである――“子供より親が大事。”と。
 一九四八年五月、太宰が心中する直前に発表された作品である。一九六〇年代というぼくの小学生時代でもサクランボは高価でめったに口にすることのない果物だったから、敗戦の混乱からまだ日の浅い当時の桜桃は、流行作家になっていた太宰にとっても贅沢品だった。桜桃そのものも少なかっただろう。
 『浦島さん』という作品のなかにも桜桃は登場する。この短篇は、敗戦直後の一九四五年(昭和二十)十月に刊行された『お伽草子』に入っている。
 竜宮城に“海の桜桃”があるという。
 “これを食べると三百年間、老いる事が無いのです。”
 竜宮城に案内してくれた亀が説明すると、浦島はこう応じる。
 “私はどうも、老醜というものがきらいでね。死ぬのは、そんなにこわくもないけれど、どうも老醜だけは私の趣味に合わない。もっと、食べてみようかしら。”

 さて、太宰が桜桃と書き、轡田進はさくらんぼと書いているこの果物、ぼくは同じものとしてこの文章を書いてきた。
 しかし、果たして桜桃とサクランボとは、まったく同じものと考えてまちがいないのだろうか。ただ呼び方が違うだけなのだろうか。
 “さくらんぼ六月生れ讃ふべし”という句と太宰の桜桃にかかわる小説からふたつの単語をとりだし、まじまじ見ていると、その点が気になってくるのである。
 調べてみたら本来はちょっと違うニュアンスだったらしい。以下、簡単に報告しておきたい。
 サクランボは桜ん坊のつづまった呼び名で、要するに桜の実。
 ところが、ふつう並木として植えられるソメイヨシノなどの種類には食用になるほどの大きなサクランボは実らない。果物屋さんや八百屋さんの店頭に出まわるような果肉の豊かなサクランボが生る木はミザクラ(実桜)という。
 ミザクラには、中国原産のシナミザクラ(支那実桜)と西アジア原産のセイヨウミザクラ(西洋実桜)の二種がある。
 漢名で桜桃と呼ぶ場合は、もともとシナミザクラに生るサクランボを指したが、このサクランボは味が落ちるため店頭には出まわらず、いまでは農産物として栽培することもないらしい。
 日本には、明治の初頭になってセイヨウミザクラが移植されてひろまり、現在は、このセイヨウミザクラの実であるチェリーをサクランボもしくは桜桃という両様の名称で呼んでいるわけだ。
 佐藤錦というスイート・チェリーの一種が主流として知られている。おもな産地は山形県。近年、輸入が自由化されて豊富に出まわるようになった黒っぽいアメリカン・チェリーなども、セイヨウミザクラに生るスイート・チェリーの一品種である。
 いっぽう、チェリー酒やシロップ漬けに利用される酸っぱいサワー・チェリーもある。日本では缶詰などに加工されたもの以外あまりお目にかからない。
 太宰が好んだ桜桃は、いったいどんな種類だったのだろう。中国原産の桜桃か、それともセイヨウミザクラ系のチェリーか。
 どちらにせよ、現在のように甘味のまさったサクランボではなかったような気がする。むしろ酸っぱい桜桃だったにちがいない。

  太宰忌の桜桃食[は]みて一つ酸き

 作者は伊沢正江という人。これも句と名前を書きぬいてあるだけで、あとはわからない。
 サクランボは品種改良が現在ほど進んでいなかった戦前から敗戦後にかけては酸味の強いものが主流だったはずだ。品種改良の目的は主として売れゆきのよい、消費者の喜ぶ、甘味の強いサクランボを創りだす点にある。
 大衆受け、俗受けを狙っているわけだが、甘ったるいばかりでは太宰にまつわる桜桃のイメージとしては狂いが生じてしまう。その死に方こそいただけないにせよ、太宰は決して大衆に受け入れられることだけを意図した通俗的な作家ではなかった。
 小説『桜桃』の一節――
 “蔓[つる]を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見える”
 東京・三鷹市下連雀四丁目十八番地二号の禅林寺でおこなわれている桜桃忌には、この文章にちなんで太宰の墓にサクランボの首飾りがかけられる。墓前にもサクランボが供えられるという。ぼくは実際に桜桃忌の当日に出かけて現場をみた経験はない。
 太宰の表現は、引用した『桜桃』の一節にも色濃くあらわれているように、表面的にはいかにも甘ったるくみえる。だが、太宰文学の本質はちがうのではないか。
 学生時代に、ある教授が言った。
 「太宰など、そろそろ卒業したらどうかね」
 なるほど、たしかにそうだと思い、以来、できるものなら“卒業”したいと思いつづけてきた。“青春の文学”とも形容される太宰治の小説は、太宰の口吻をまねていえば、読んでいてときどき“鳥肌立つ”、いやになって本を放りだしたくなるときがある。たとえば『晩年』のなかのいくつかの作品。
 しかし、肉体年齢より精神年齢が二十もおさないとつねづね自分を思っているぼくは、いまだに太宰を卒業できないでいる。しかも、いい作品は限りなく心に沁みいってくる。たとえば『津軽』。
 ところで、桜桃忌の名付け親はだれだろう。
 亀井勝一郎は『無頼派の祈り』(一九七二年・審美社)のなかでこう書いている。
 “この命日を、今官一君は桜桃忌と名づけた。晩年の作「桜桃」にちなんだというよりは、季節の果実であること、また太宰が好んだことなど、あれこれ感慨をこめて、この名をつけたわけだ。いい名だと思う。芥川龍之介の命日を河童忌という。河童忌と桜桃忌と、大正、昭和の奇才を偲ぶ二つの名称が出来たわけである。”
 今官一は太宰と同じ青森県出身の作家。不勉強で、ぼくは作品を読んだことがない。
 亀井勝一郎は北海道函館から上京し、三鷹に住んだ。下連雀百十三(現在の三鷹市下連雀二丁目十四番地七号)の太宰とは近所づきあいをしており、墓のある禅林寺にも近い。
 亀井勝一郎が奇才として太宰と並べている芥川龍之介が三十六歳で自殺したのは、太宰が弘前高等学校に入学した年だった。愛読していた芥川の自決に太宰は大きな衝撃を受けている。それから二年後にみずから引き起こした自殺未遂事件は太宰最初の自殺未遂として記録されている。これには芥川の影響が大きかったようだ。
 のちに太宰が芥川を記念した賞をもらおうと、あさましいほどに画策した顛末は有名な話だ。有望な新人として公認された証しとしての賞が欲しいという希求に加え、太宰の場合はパビナールという鎮静剤の中毒にかかって精神が不安定な状態にあり、かつ賞金の五百円をそのパビナール購入の資金にあてたいという側面が強かった。
 第一回の芥川賞で次席となり、第二回も貰えなかった。遺書のつもりで書き溜めた作品に『晩年』と総タイトルをつけて出版したのが一九三六年(昭和十一)の六月。今度こそは、と念じた芥川賞だったけれど三たびこの年上半期の選に漏れる。
 そして井伏鱒二に説得され、パビナール中毒を治すため精神病院に入院。一九三九年(昭和十四)の一月に井伏の尽力で石原美知子と結婚し、東京府下三鷹村の小さな家に落ちついたのは、その年の九月だった。
 三鷹の禅林寺で太宰治の墓は、森林太郎と誌された墓と向きあっている。井伏鱒二は文学上でも生活のうえでも恩師として知られているけれど、太宰が鴎外こと森林太郎を崇敬したという事実はそれほど知られていない。
 森鴎外について太宰は、『花吹雪』という小説のなかで井伏鱒二を彷彿させる“黄村先生”の述懐としてこう特筆している。
 “明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鴎外、森林太郎博士であろうと思う。あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも凛乎たる気韻がありましたね。”
 黄村先生の言行を伝える“私”は太宰その人にほかならないと受けとっていいだろう。彼は散歩の道すじ禅林寺を訪れ、しばしば鴎外の墓のまえに立つ。
 “どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。”
 そんな疑問をいだきつつも、ひそかに“甘い空想”をめぐらすのである。
 “ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れない”
 しかし、と彼は思う。
 “私には、そんな資格が無い”
 “墓地の択[え]り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。”
 絶望感をもよおし、
 “私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。”
 『花吹雪』という作品は小説だから内容を事実そのものと受けとることができないのはいうまでもない。ただ、太宰の作品にはその初期から鴎外の名が散見され、つねに畏敬をもって扱われているのは事実である。太宰の遺骨が鴎外のそばに眠ることになったのは、遺族がそういう彼の心情をくみとったかららしい。
 ちなみに書き加えておくなら、一九二二年(大正十一)に没した鴎外の墓は、はじめ向島の弘福寺に建てられた。その一年後に向島は関東大震災でほぼ全滅する。そして弘福寺にいた木村宜豊[ぎほう]という禅師が三鷹禅林寺の住職になった。それとともに森家の墓所も禅林寺に移った、という経緯がある。
 鴎外忌は桜桃忌の翌月、七月九日である。そして、その翌日が井伏鱒二の祥月命日にあたる。鴎外六十歳、井伏は九十五歳で死んだ。ともに老醜というイメージからは遠い晩年を送った。
 太宰は老残を忌み嫌った。享年の三十九という歳は微妙な年齢である。いまなら中年だが、むかしは数えの四十歳を“初老”といった。“不惑”ともいう。不惑をまえに太宰は渦をまく惑いのなかに溺れたのか、それとも死を選ぶことにおいては迷いを感じなかったのか。
 太宰は梅雨のうっとうしさに根負けして死んだのかもしれない――と前稿「地に紫陽花、天に虹」の最後に書きつけた愚見を、いまさら撤回するつもりはない。ただ、みずからの老いを恐れて死を急いだのかもしれない、とだけはつけ加えておきたいと思う。
 老いとは、なによりも創作力の枯渇であり、精神的な衰えだったろう。太宰の死も、芥川の死と同様、やはり敗北以外のなにものでもなかっただろうが、たんに敗北と決めつけてばかりいてもしようがない。太宰が死線を越えて生き延びるにはなにが必要だったか、それをぼくは考えている。
 “桜桃と紫露草はひそかにおのれの生誕を飾るゆかりの花と果実である。”
 この太宰の口吻を借りていえば、桜桃は彼の敗北を飾る果実だといっていい。“飾る”とは、あざやかな色彩と酸味で惨敗の遣りきれなさを中和してくれているという意味にとってもいい。
 だが、梅雨の降りしきるさなかでの情死という表象が喚起する単純な遣りきれなさの奥に、底なしの遣りきれなさが黒々とよこたわっている。
 人生に仕掛けられた罠のような絶望から太宰ははいあがらなければならなかった。太宰のような俊才がその罠の存在を感知できなかったはずはなく、抜けでようとあがきつつ、ついに力尽きたのだ。
 そのあがきの過程で分泌された苦汁のような作品群のなかには、ぼくを戦慄させるものがある。新鮮な果実が内包した、ぞくりと身をすぼめる触感、色鮮やかな表皮に包みこまれた酸っぱい果肉――それが太宰の桜桃なのだ。


■ 三十光年の愛                          七月


  うち曇る空のいづこに星の恋

 杉田久女の詠句。
 久女は俳誌「ホトトギス」を主宰した高浜虚子に認められ、“足袋つぐやノラともならず教師妻”という句で知られる。“炎の女”とも呼ばれる。
 掲句は“星の恋”が季語で、七夕のこと。星祭りともいう。季は秋だが、新暦では夏。詠われている内容の説明は不要だろう。
 七夕は中国から伝来した五節句のひとつ。
 ・一月七日=人日[じんじつ]といって七草粥で健康を祝う日
 ・三月三日=上巳[じようし]といって女の子のお祝いの日
 ・五月五日=端午[たんご]といって男の子の祝日
 ・七月七日=七夕[しちせき]が星祭り
 ・九月九日=重陽[ちようよう]は菊の節句
 この五日が五節句。みな旧暦の行事だった。いまは新暦でおこなわれている。割ることができずに縁起がいいとされる数字が重なっている。といっても一月だけ重ならない。一月一日は別格だから、ずらしたのだろう。上巳の九月九日は縁起のよくない数字にみえるが、日本で“く”と読んで“苦”につながる九も、中国では易学の陰陽の陽をあらわして積極性・能動性を示すとされるらしい。
 七並びも縁起がいい。ただし、もとをただせば七夕は悲しい神話だった。
 織女は天帝の娘。織物が上手で、機織りに夢中になっているうちに娘盛りを過ぎてしまった。憐れに思った天帝は、牽牛を婿にむかえてやる。ところが、結婚すると織女は機織りそっちのけで牽牛との淫楽にふけってばかりいる。これを怒った天帝は天の川を挟んで東と西にふたりを引き離し、一年に一度、七月七日の夜にだけ会うことを許した、という。
 この中国神話が伝わった日本にも、また棚機[たなばた]の儀式があったらしい。だから中国渡来の行事が混ざり合わさり、七夕をタナバタと読むようになったのだといわれる。
 タナバタ(棚機)というのは棚つまり横板のついた織機。このタナバタを扱う女性をタナバタツメ(棚機津女)と呼んだ。古代には選ばれた女性が機を織りながら神を待つ儀式があった。
 タナバタツメに触れた『古事記』の一節がある。ドタバタ喜劇のようで、おもしろい。岩波文庫から原文を噛みくだいて紹介してみよう。
 ――太陽の女神であるアマテラスオオミカミ(天照大神)が、神聖な機織り小屋にやってきて、神に捧げる衣をタナバタツメに織らせていた。
 すると、そこへ弟神で乱暴者のスサノオノミコト(須佐之男命)がやってきた。
 スサノオノミコトは機織り小屋の屋根にのぼると、てっぺんに穴をあけ、まだら毛をした天馬の皮を尾のほうから逆さまに剥ぎ、その天馬を屋根の穴から投げこんだ。
 皮を剥がされた天馬は小屋のなかで大暴れし、あわてて逃げだそうとしたタナバタツメは、機織りの梭[ひ]に陰部[ほと]を衝いて死んでしまった――
 梭というのは織機の付属品のひとつ。横糸を通すさいにもちいる細長い舟のかたちをした器具で、両端が尖っている。この尖ったところで女陰をしたたかに衝いた。よりによって妙な部分を衝いたものだ。
 この件について、ひとくさりあっていいはずの『古事記』の記述は、即物的で実にそっけない。ひとこと、“死にき”で終わっている。
 そして、このスサノオノミコトの乱暴狼藉に大いに怒ったアマテラスオオミカミは、天の岩屋戸に閉じこもってしまった。そのため世界が闇に沈んだ、という例の有名な一節がつづく。
 やれやれ、活きのいい八百万の神々が闊歩する日本の国生みのころというのは、たいへんな時代だったようだ。
 この『古事記』を編纂したのが太安万侶[おおのやすまろ]。彼は『続日本紀』の記述から七二三年の旧暦七月七日に死んだとされていた。
 七夕の日とは奇遇である。そのうえ、西暦の七二三年といえば日本の年号で“養老”の七年目にあたる。養老七年七月七日、スリー・セブンで、死者には失礼だが、まことに縁起がいい。
 ところがこの太安万侶、長いあいだ実在を疑われていた。『古事記』も後代の偽書ではないかとする学説さえあった。その疑念を見事にひっくりかえす大発見がなされたのは、安万侶の死から数えて千二百五十七年後の一九七九年(昭和五十四)一月のこと。奈良市内の茶畑の土のなかから偶然にも彼の墓と墓誌が出てきたのである。
 その墓誌に刻まれていた死亡年月日は、七月の六日だった。七日でなかったのは残念だが、わずか一日の違いである。悠久の時の流れのなかではとるにたりない。死んで星になった安万侶も、墓誌発見のニュースに沸きたつ日本という地球上の小さな一郭を、静かにほほえみながら見おろしていたことだろう。

 中国神話の七夕説話では、織女星と牽牛星とが天の川を渡って旧暦七月七日に一年に一度のデートをする。
 織女星は和名が織姫星、ラテン名はベガ、琴座の首星。
 牽牛星は和名が彦星、ラテン名をアルタイルといい、鷲座の首星。
 ベガ、アルタイルと書くとハイカラな響きになる。織姫・彦星でも充分にロマンチックだが、しかし、艶消しな話をすれば、このふたつの恒星は十五光年ほど離れている。
 光速で十五年のへだたりだから、チカチカと光を送って片道十五年。たとえアルタイルが“愛している”と光通信でささやいても、“わたしも”というベガの返事がもどってくるのは三十年後である。
 片道十五光年、往復三十光年という距離は、日常的な感覚ではとても実感しがたい。一光年は約九兆四六〇〇億キロメートルだという。三十光年は約二八三兆八〇〇〇億キロメートル。たとえば、地球の一周を四万キロとして、はたしてその何倍であるかと考えれば気が遠くなる。
 いや、愛するふたりには気の遠くなるひまもない。十五光年のへだたりなんて、互いに歩みよれば七・五光年。古典力学では一夜にしては飛び越えられない距離でも、愛という神秘の力のまえにはなにほどでもない。
 七・五光年であろうが十五光年、三十光年であろうが、宇宙という無限の尺度のなかでは短い距離にすぎない。われわれの住む地球が浮かぶ銀河系でさえ直径は約十五万光年といわれる。ベガとアルタイルの距離の、ほんの一万倍だ。“星の恋”は、ちっぽけな人間の時空感覚や思惑などはるかに超越した広大な舞台でくりひろげられる壮大なロマンスであるとともに、宇宙の片隅でひめやかにささやかれる小さな恋でもある。
 そんな宇宙規模でのスケールの拡大や縮小にふけっていると、冒頭にかかげた“うち曇る空のいづこに星の恋”などというもどかしさも、あくまで人間的にすぎる感覚だと一蹴してしまいそうになる。地球の一郭が一年のある日、雲に覆われていようがいまいが、牽牛・織女は気にもとめずに宇宙で愛をささやききかわしている。
 とはいえ、やはり人間界にたちもどらなければならないぼくは、杉田久女の句をくちずさみつつ、ことしの七夕も雨にたたられそうだなどと雲行きを心配するのである。雲のない月の上で星祭りができるようになるのはいつのことか。
 まだ梅雨も明けないうちに七夕があるのは新暦の無理なところだ。仙台の七夕祭りのように月遅れのほうが、新暦よりはまだ理にかなっている。
 夏の観光地であるぼくの郷里でも、かつては夏祭りの一環として、いちばん繁華な商店街で七夕を祭った。やはり月遅れで、それでも気候が不安定な土地柄のせいか、妙に雨にたたられたという記憶がある。
 太い笹竹につけた短冊や色紙そのほかの飾りつけは、昔はみんな紙でできていた。雨に濡れるとだらりとしぼみ、すぐに切れた。それでなくとも、そぞろ歩きの見物人に引っぱられる。通りは、さまざまな色の紙屑で埋まった。
 それでも当節のようなビニール製よりは子供心にも哀愁が感じられ、はるかによかったという記憶がある。上京してすぐ、阿佐ヶ谷だったか、中央線沿線の七夕を見物に出かけたことがある。ビニール製の飾りつけばかりで心底がっかりした。キラキラと一見きれいではあっても味気ないのだ。
 七夕の街をひとまわりして家に帰ると素麺が出た。七夕に素麺はつきものだった。暑い夏のさかりに食べる素麺はうまい。お中元によく素麺を贈るのも、季節にあった食べもので、保存がきくうえに、細く長くという縁起かつぎもある。
 七夕とは、その細くて白い麺と織り糸との連想によって結ばれているのだろうと単純に思っていたら、マラリア除けのまじないの名残りだという説もあるらしいと知って驚いた。
 大日本除蟲菊中央研究所の島村敏夫という人が紹介している説なのだが、マラリアと素麺と七夕がどこでどうつながるのかまでは書いてくれていない。ともかく、マラリアはハマダラ蚊によって媒介されるという事実が発見されるまでは正体不明の死病だった。そのマラリア、日本でいう瘧[おこり]を防いでくれると信じられたとすれば、素麺は、たしかに縁起ものにちがいない。
 食べものと七夕のかかわりでいえば、ところてんも欠かすことはできない。
 
  一尺の滝も涼しや心太

 と小林一茶も記している。“心太”と書いて“ところてん”と読むのはおもしろい。七夕と書いて“たなばた”と読むのと同じく当て字で、“心天”と書いても通じる。
 与謝蕪村の句もいい。

  ところてん逆しまに銀河三千尺

 蕪村は、“ところてんをすすりこむ気分は逆さまになって銀河三千尺を吸いこむように爽快だ”と詠いあげた。いっぽう前掲の一茶は四角い筒からところてんが突きだされてくる瞬間をとらえて“一尺の滝”と形容し、その清涼感を詠んでいる。
 歌の出来としては、やはり軍配は蕪村にあげたい。ところてんと気宇壮大な“銀河三千尺”とをつなげた着想はすばらしい。なにより“逆しまに”の一語が利いている。七夕の季節になるとおのずと心に浮かんでくる“定番”の句である。
 話がとぶようだが、夏の定番といえば、カルピスを忘れることはできない。“初恋の味”というキャッチフレーズとともに季節の飲みものとして定着して久しいこの乳酸飲料は、一九一九年(大正八)の七月七日を期して発売されたという。
 現在は水で割った缶入りも出ている。この缶や罎の包装紙に印刷されている水玉模様は、天の川をイメージしたものらしい。乳酸からミルキーウエイ(銀河)へという連想の飛躍もあるのだろうけれど、銀河をはさんだ星の恋をイメージして売り出されたカルピス、八十年もたつというのに、一年に一度の逢瀬をとげる織姫と彦星の初恋?のように、ういういしさを失わない。
 初恋の味こそ至上の味というわけか、梵語(サンスクリット、古代インド語)で“至上の味”を意味するサルピスという言葉にひっかけてカルピスと命名されたらしい。
 カルはカルシウムからきている。発売当初のポスターをみると“滋強飲料”とうたってある。いまでいう健康飲料だ。
 子どものころ、毎年夏になると、お中元にカルピスがとどいた。化粧箱をあけると、二本の罎が並んでいた。ふつうのカルピスと、グレープ味もしくはオレンジ味どちらかとのセットである。さっそく罎の包み紙を剥いて氷をいれたコップに注ぎ、水で割ってかきまわす。その手間がかかるところも待ち遠しくてよかった。
 甘酸っぱいあの味は、いまだに忘れられないけれど、さて贈り主はだれだったろう。


■ 芥川龍之介と鰻                         七月


 関東で梅雨明けの平均日は七月十八日だといわれる。梅雨が明ければ大暑。毎年七月の二十三日前後にあたる。いよいよ夏本番だ。
 芥川龍之介に“破調”と前書きした句がある。

  兎も片耳垂るる大暑かな

 『追想 芥川龍之介』(中公文庫)にあった文夫人の、
 「この字足らずがねえ」
 という懐かしさと微苦笑とのないまぜになった口吻を心に浮かべないわけにはいかない。“破調”とは、この初句の字足らずをさしているのだろう。
 しかし、兎も思わず耳を垂れ、うなだれてしまう、生きとし生けるものすべての調子が狂ってしまうほどの暑さをいっていると受けとって、受けとれないこともない。
 一九二七年(昭和二)の七月も、東京は梅雨明けからひどい暑さだったようだ。内田百閧ェ『春雪記』(福武文庫)に収録されている「面影橋」というエッセイのなかで書いている。
 “今年は大変な暑さで、七月の二十日を過ぎてからは、寒暖計は毎日三十四五度に昇っている。こう暑くては何も出来ない。仕事をしなければならぬと思っても、頭がぼうとして手につかない。ついふらふらと梯子段の中程まで来てしまう。
 梯子段で日ざかりを過ごしている何日目かに電話が掛かって来た。だれが掛けてくれたのか、どうしても思い出せない。
 「芥川さんがなくなられました。自殺です」”
 このとき百閧ヘ早稲田の下宿屋にいた。開けひろげた玄関につづく風通しのいい階段に腰を下ろし、涼んでいたところだった。
 芥川の自殺は二十四日、日曜日の未明。ときに芥川三十六歳。
 記録によれば前日の最高気温三十六度――まえに「地に紫陽花、天に虹」でも太宰の心中にまつわる数字の暗合にふれた。ここにもひとつの暗合といえばいえるものを感じるといえば牽強付会の戯言になるが、とにかくこの日は暑かったようだ。
 芥川の自裁の原因については当時からさまざまに取り沙汰された。いわく芸術的な行きづまり、いわく労働者階級とその文学の台頭に対する敗北感、いわく生活力の欠乏……
 葬儀のさいに友人総代として弔辞を読んだのは菊池寛だった。開高健の編集した『友よ、さらば――弔辞大全』(新潮文庫)にその全文が載っている。短いので引用しておこう。
 “芥川龍之介君よ
 君が自ら択[えら]み自ら決したる死について、我等何をか云はんや ただ我等は君が死面に平和なる微光の漂へるを見て甚だ安心したり 友よ安らかに眠れ! 君が夫人賢なれば よく遺児を養ふに堪ゆるべく 我等亦[また]微力を致して君が眠りのいやが上に安らかならん事に努むべし ただ悲しきは 君去りて我等が身辺とみに蕭条たるをいかんせん”
 菊池寛は一九三五年(昭和十)に芥川賞を設立して知己の文学的生涯を記念した。
 そのまえの一九三二年(昭和七)には河童忌で席上吟を遺している。

  年毎に二十四日のあつさ哉

 この句は内田百閧フ「河童忌」という随筆に出ている。「河童忌」は河出文庫の『芥川龍之介雑記帖』に入っていて手軽に読むことができる。
 そのなかで百閧ヘ芥川の死んだ原因としておもしろい説を書きつけている。
 “あんまり暑いので、腹を立てて死んだのだらうと私は考へた。”
 この引用文は“芥川君の死因については、種種の複雑な想像が行はれたが、さう云ふ色色の原因の上に”という断わり書きにつづいて記されている。
 あんまり暑いので、腹を立てて死んだのだろう――太宰治の情死を梅雨のうっとうしさに負けたのかもしれない、などと考えるぼくには、そういわれてなんとなく腑に落ちる感じがある。
 百閧ヘ芥川より三つ年上である。漱石門下の同志だ。また、海軍機関学校の嘱託教官だった芥川に百閧ヘ同じ嘱託教官の職を推輓してもらっているという縁もある。芥川は英語、百閧ヘドイツ語の文官で、最後に二人が会ったのは自殺の二日前だった。
 同じく芥川の三つ年上の友人に久保田万太郎がいる。芥川は万太郎の俳句を称揚し、「正岡子規以後、高浜虚子と河東碧梧桐を除いては万太郎だ」と人に語っていたという。万太郎の第一句集『道芝』に序文を寄せてその句を“東京の生んだ歎かひの発句”と評したのは自殺する二ヶ月ほどまえだった。
 翌一九二八年(昭和三)七月二十四日の一周忌に万太郎は、こんな句を詠んでいる。

  芥川龍之介仏[ぶつ]大暑かな

 一九一四年(大正三)十月から芥川が住んだ田端は現在北区に属し、当時は北豊島郡滝野川町のうち。河童忌はおなじ町内にあった芥川ゆかりの懐石料理店“天然自笑軒”でおこなわれていた。この河童忌と暑さとは、どうしても切り離せないものだったらしい。
 河童忌の名は芥川晩年の代表作のひとつに数えられている小説『河童』に由来する。この小説はそれほどの傑作とはぼくには思えないけれど、芥川が何枚も描いた河童の絵は、じつにいい。
 生誕百年のとき――一九九二年(平成四)に、神奈川近代文学館で芥川展が開かれた。横浜の“海の見える丘公園”に建つ瀟洒な文学館まで出かけた甲斐は充分にあった。
 展示品のなかで、いちばん印象が深かったのは河童の絵である。とりわけ蒲[がま]の穂を肩にして振り返った構図の河童の顔は、愛嬌あるようにも見えながら、全体に凄みを帯び、見るものに強く迫ってくる不思議な力に満ちていた。
 しかし河童は暑さに弱い。

 河童忌が、たまたま土用の丑の日にあたる年がある。土用の丑といえば鰻である。
 鰻? 鰻と芥川がなんの関係があるのか、脱線もほどほどにしてくれ――という声も聞こえてきそうだ。しばらく我慢して鰻の話につきあっていただきたい。
 子どもの時分に家で鰻のかわりにハモの蒲焼きを食べさせられた記憶がある。鰻よりは安かったからなのだろうが、うまいと思ったためしはなかった。
 故郷は岩手である。いま手持ちの魚類事典をみると、ハモは日本の中部以南に分布すると書いてある。それでは鰻の代用に供されたハモは三陸沿岸産ではなく、はるか南の海でとれたものだったのだろうか。
 鰻は北海道から沖縄まで日本全国でとれる。日本人なら概して鰻、とくにその蒲焼きが好きだ。山口県のある地域(たしか徳地町のあたりだったか)では八百年も昔の伝承にしたがって代々鰻を食べずに現在にいたっているという話を聞いた覚えがある。なにかの禁忌に基づいているのだろう。そういう例外を除けば、日本人は神代の昔から鰻を食べつづけてきたといっていい。
 そして江戸時代半ばにいたり、とくに土用の丑の日に鰻を食べるという習慣が生まれたようだ。

  土用丑のろのろされぬ蒲焼屋

 という川柳がある。ふだんは客の注文を受けてからおもむろに裂きにかかる鰻屋も、この日ばかりは殺到する客にウシのようにはのろのろなどしていられないのである。
 平賀源内が夏涸れの鰻屋に頼まれて“本日土用丑の日”と大書した看板を店先にかかげたところ、客があふれるようにやってきた。それ以来、この日に夏バテ解消を目して鰻を食べる習慣がひろまったという話は、よく知られている。
 ただ、なぜ丑の日なのか――これが考えてみるとよくわからない。
 丑の“う”と鰻の“う”とをかけた駄洒落コピーの先駆けだったという説がある。また蘭学者にして文人、その絢爛たる奇才を江湖にうたわれた源内の書いた看板だから評判に評判を呼んだという説もある。
 鰻の栄養価の高さは物知りの源内のみならず江戸の庶民だって生活の知恵として承知していただろう。しかし、とくに暑いさかりの土用の丑の日を選んで鰻を食べるという習慣はなかったようだ。
 広告を頼まれた源内は近づく大暑をまえにして考えた。大暑に前後するように土用の丑の日がある。
 「丑の“う”と鰻の“う”か!」
 ひらめいた源内は、“本日土用丑の日”というコピーとともに、大きく“う”と染めぬいた暖簾を店頭にかかげた。
 それを見た庶民も、江戸っ子の単純さといえば言葉は悪いが、
 「そうか、ウナギか!」
 とばかりに押しかけた――
 暑さの盛りに熱い番茶を飲むと、すっきりする。ぼくは夏バテ解消に中華料理屋で、冷やし中華ではなく、すりおろしたニンニクをたっぷり入れた熱いラーメンを食べて汗をかく。店に入るまえは暑かった風が店を出るとじつに心地よく、体がシャンとする。
 同じように、真っ赤に熾った炭火を見ながら、その熱のこもった鰻屋で蒲焼きを食べるという酔狂さが、鉄火な江戸っ子の気性を刺激したのかもしれない。そう、ぼくは考える。
 鰻が夏バテに効くことは古来よく知られていた。『万葉集』巻十六にある大伴家持の和歌が、しばしば引きあいに出される。

  石麻呂に吾物申す夏痩せに
    良しといふものぞ武奈伎漁り食[め]せ

 万葉仮名の“武奈伎”は“むなぎ”で鰻をあらわす古語。胸のところが黄色いので“胸黄”、それがなまってウナギになったという説がある。
 大伴家持の歌には“痩せたる人を嗤咲[あざわら]ふ歌二首”と前書きがあって、じつはもう一首のほうがおもしろい。

  痩[や]す痩すも生けらばあらむをはたやはた
    武奈伎を漁[と]ると川に流るな

 「石麻呂さんよ、夏痩せに効くという鰻でもとって食べたほうがいいんじゃないかい?」
 と歌いかけておきながら、すぐに、
 「たとえ痩せ細っても生きているに越したことはない。鰻をとろうとして川に流され、貴重な命を落としなさんな」
 そうからかっているのだ。考えれてみれば、人の悪い歌だ。
 鰻を一日だけ食べたって夏負けに目に見えるほどの効果があるとも思えない。ただ、良質のタンパク質とビタミンAに富んで滋養強壮にいいというのは医学的事実だ。

 さて、そろそろ芥川龍之介の話に軌道を修正しなければいけない。
 暑さに負けて自殺したという“芥川夏バテ説”を立てた内田百閨Aなにを思ったか、晩年に二十七日間ぶっとおしで鰻の蒲焼きを食べた経験があるという。
 これはドイツ文学者の高橋義孝が「“食べ方通人”百關謳カ」という短いエッセイのなかで触れていたエピソード。『叱言たわごと独り言』(新潮文庫)という随筆集に入っている。
 食いしんぼうで『御馳走帖』という著書もある百閧ヘ八十三歳まで生きた。この挿話が晩年のものであることは同書中公文庫版の解説で平山三郎氏も証言している。
 “晩年、鰻にコッて、一ヶ月のうち二十八日とか毎日註文した時期がある。その時期に、先生のうちのお膳に坐って、つづけざまに三回ほど御馳走になったことがある。”
 平山という人は百閧フ弟子筋にあたるから、高橋義孝の言とあわせて事実と受けとってまちがいない。
 しかし あまりに極端だと現在では逆に栄養のとりすぎで成人病(いまは生活習慣病というらしい)が心配になる。百閧ルどではなく、二、三日置きにでも食膳に載せたら夏バテにはたしかに効きそうだ。なにしろ生命力が強く、切っても動きまわっている鰻である。
 暑さがつづくと、どうしても食欲が減退する。あっさりとした食事になりがちだ。冷や奴にトマト、きゅうりなんかを肴にビールを飲めばいいやなどと、ぼくもつい思ってしまう。
 きゅうりは河童の好物だが、猿の生肝も大好物だ。ちゃんと栄養のバランスをとっている。
 芥川もきゅうりは好きだった。大の好物は鰤[ぶり]の照り焼き、それから半熟たまご。しかし、心身が衰弱してからは粥ばかり食べていたといわれる。
 猿の生肝とはいわない、脂ののった鰻でも日ごろから適度に食べて酷暑にそなえようとするほどの俗気が芥川にあったら、あるいは死なずにすんだかもしれない――
 冗談ではなく、半分本気で、そんな俗っぽい考えが頭をよぎってしようがないのである。


■ 夏の風物詩                           八月


  朝顔に釣瓶とられて貰ひ水

 朝、井戸に水を汲みにいくと釣瓶に朝顔の蔓が巻きついている。むしりとるのも忍びないので、隣りの井戸に水をもらいにいったというのである。
 加賀千代の代表作と伝えられる、あまりにも有名な句だ。解釈をくわえるのは蛇足だったかもしれない。
 千代は江戸時代中期の女流俳人。一七〇三年(元禄十六)、日本海に面した加賀松任[まつとう]に生まれた。いまの石川県松任市である。

  初雁やそのあとからもあとからも

 これが七歳の秋はじめて詠んだとされる作。早くから天賦の才が巷間にささやかれていた。

  稲妻の裾をぬらすや水の上

 十七歳の夏に芭蕉の門弟である各務支考[かがみしこう]が千代を訪ねると、この句を示され、その才女ぶりに驚かされたという逸話もある。
 五十二歳のときに出家して尼になり、一七七五年(安永四)に七十三歳で死んだ。
 千代尼塚のある郷里の聖興寺には自筆で“朝顔や釣瓶とられて貰ひ水”と記された軸が遺されているそうだ。初句が“朝顔に”として巷間に流布しているが、もとは“朝顔や”だったのだろうか。“朝顔や”ではどう解釈していいのかもぼくにはわからない。
 どちらにせよ、俳句の世界では通俗的な句とされ、それほど高い評価は与えられていないようだ。しかし、その俗っぽさゆえにあまねく知られるようになったのか、だれにも知られるほどの佳句だから逆に通俗的とけなされるにいたったのか、門外漢にはよくわからないところがある。
 なかなか味わいのある句じゃないか――そう感じるぼくなど、さしずめ俗物そのものにちがいない。
 開き直って、あいもかわらぬ俗っぽいイメージをくりひろげることとしよう。
 夏の花といえば朝顔である。カッと照りつける真夏の昼下がり、打ち水をした路地の縁台に浴衣で涼みながら西瓜にかぶりつく。かたわらの鉢の、しぼみかけた朝顔をながめつつ、その儚さに哀れを覚える――絵に描いたような下町情緒だ。
 下町情緒といえば、久保田万太郎が“入谷のむかしをおもふ(二句)”と前置きして、

  あさがほをみにしのゝめの人通り

  朝顔をみていまかへる俥かな

 と詠んだ東京・入谷の朝顔市はいまも盛んである。
 七月六日から八日までの三日間、“恐れ入谷の鬼子母神”という洒落句で知られる真源寺の境内とその周辺には、多くの露店が立ってにぎわいをみせる。東京の夏の風物詩のひとつだ。
 ちなみに書きつけておけば、この寺の住所は台東区下谷一丁目で、入谷一丁目ではない。
 朝顔市の帰りにJR山手線の鶯谷駅から歩いて五分ほどのところにある豆富料理の老舗“笹乃雪”に立ち寄る人も多い。
 ここの“あんかけ豆富”は、なかなかうまい。あんかけというと寒い季節のほうが合いそうだけれど、夏もいい。笹乃雪という店名は、この絹ごしに葛餡をかけた豆富料理の名からきている。
 “豆富”というのは誤字ではない。笹乃雪では“豆富”と看板や品書きに書いているので、そのひそみにならった。なるほど、“富”としたほうがトウフの豊かな舌触りにふさわしい。
 清潔強迫症の泉鏡花などは豆腐の“腐”の字を嫌って“豆府”と書いた。万太郎はこれを、鏡花が愛用した刻み煙草の水府からきているのではないかと推察している。真相はどうだろう。
 府という漢字には宝物や文書などを収納する蔵という意味がある。だから、大豆の栄養や旨みをたっぷり蓄えたトウフのフにこの字を借用しても、あながち意味のない当て字とはいいきれない妙味がただよっている。
 笹乃雪にほど近い鶯横丁に住んでいた正岡子規も、ここの豆富が好きだった。俳句や短歌に、さまざまに詠みこんでいる。

  蕣[あさがお]に朝商ひす篠[ささ]の雪

 この句を子規直筆で刻んだ碑が笹乃雪の店頭にある。

  根岸名物芋坂団子売りきれ申候の笹乃雪

 と歌われているもうひとつの根岸名物“芋坂団子”つまり羽二重団子の店も、鶯谷の隣り日暮里駅近くにあり、大きな看板がホームから見える。
 朝顔市から笹乃雪、さらに羽二重団子というのは、いい散歩コースだ。夏目漱石も『吾輩は猫である』で苦沙弥先生の書生である多々良三平君に、
 “(散歩に)いきましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。”
 といわせている。
 平賀源内の鰻の看板の例もあったが、子規の句や歌にしろ漱石の文章にしろ、へたな宣伝よりよほど効果的だ。
 ぼくも漱石に促されるように先日ひとりでぶらりと歩いてみた。醤油と餡のひらべったいのが二本ひと皿になっている串団子は、たしかにうまい。
 ……どうも、すぐに花より団子の話になって意地きたない。朝顔に話をもどそう。
 『万葉集』に山上憶良の秋の七草の歌がある。

  萩の花 尾花 葛花 瞿麦[なでしこ]の花
    女郎花また藤袴 朝貌の花

 「七草をただ並べただけで『万葉集』に収録されたのだな」
 というのが、この歌を知ったときの正直な感慨だった。
 つぎにぼくが感じたのは“秋の”七草に朝貌(朝顔)が入っている不思議さである。
 万葉時代に朝顔といえば、いまの桔梗をさしたという説がある。だから、この歌だけで、いま朝顔と呼んでいる花を秋の花だとはいえない。それでも、歳時記を繰ってみれば、たしかに秋の部に入っている。これは、ちょっと意外だった。
 秋――暦のうえで立秋は毎年八月八日前後である。
 ぼくの生まれ育った東北の夏は短い。海に入れるのは七月末から八月半ばまでの三週間ほど。海辺の子どもにとって夏とはこの泳げる期間をさす。
 ある日、浜辺でふと秋風を感じて、身も心もきゅっと締めつけられるような感覚に襲われる。ああ、夏が終わる、という切なさにつつまれる。月遅れのお盆には土用波が立ち、クラゲが漂いはじめる。水温もぐんと下がる。焚き火をたかないと寒くて泳げなくなる。よく通った海水浴場は国立公園内にあったから、浜辺で焚き火もできなかったが……。
 短い夏には凝縮された季節感があふれていた。朝顔は七月の末になると咲きほこっていたような気がする。
 西瓜も歳時記では秋の部に入っている。熟して本来の甘さになるのは旧のお盆過ぎ、新暦では少なくとも八月の末まで畑で寝かせておいたほうがいいらしいが、深緑に黒く沈んだ縞模様、真っぷたつに切ればみずみずしく赤い果肉が目のまえいっぱいにひろがる西瓜は、ぼくの心象のなかではまさに真夏そのもの。これが秋では、どうもイメージの展開に支障をきたしてしまう。
 ひろく流布している俳諧歳時記というのは、それが編まれた場所つまり文化の中心地の季節感を昇華させたものだろう。南北に長い日本列島をカバーするには無理がある。その土地にはその土地の歳時記があっていい。
 朝顔も西瓜も歳時記では秋のものとしても、いまの現実はしかし、それどころではない。朝顔は入谷の市に出されるものはその時期に合わせて温室栽培される。西瓜なども促成栽培で早め早めにとつくり急ぎ、五月六日前後にくる立夏をまえにして店頭に出まわっている。
 ほんとうに旬が曖昧になってしまった。季節感が失われて残念だというより、生まれ育ったふるさとで育まれた季節感を無意識に軸にしていると、日本の中心的文化の結晶としてある歳時記や、現実に生活のなかでめぐりあう擬似的な“旬”とのはざまで、ときどき戸惑ってしまうのが困る。
 この一文に冠したタイトルも、「“夏”の風物詩」と含みをもたせたかたちに変えなければならないかと迷っている。


■ 蚊――このうるさきもの                     八月


  夏の夜は蚊をきずにして五百両

 これは芭蕉門下、榎本其角の句。蘇軾「春夜詩」の有名な一節“春宵一刻値千金”をふまえ、夏の夜は蚊がうるさくてかなわないから千金の半額だ、としゃれた。
 蚊さえいなければという思いは、其角を遠くさかのぼった平安時代中期の『枕草子』でも切実に表白されている。
 “眠たしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名のりて顔のほど飛びありく。羽声さへ、その身のあるほどにこそ、いとにくけれ”
 うん、わかるわかるという感じだ。清少納言のこのボヤキは、さらにさかのぼり人類史が始まって以来、営々とくりかえされてきたものなのだろう。
 むしろ、文明が発達して人間が繊細かつ軟弱になり、生活にも優雅さと呼べば呼べるような要素があらわれ、衛生観念が増してゆくにしたがって、そのなかに無遠慮かつ大胆不敵に侵入してくる小さな害虫に対する憎しみは、いっそうつのってきたのではないだろうか。
 蝿もまた家のなかに侵入して楽しいはずの夕餉の団欒を台無しにする害虫のひとつである。
 私事だが、つれあいの田舎は漁村で、蝿が多い。夏など食事中は、つねに蝿を手で払いながら食べなければならない。
 そんな環境で育った人間を蝿の少ない東京においてみるとおもしろい。蝿には慣れているはず、一匹や二匹が家のなかを飛びまわったところで気にもとめないだろう、とふつうなら考える。ところが、実際はまったく逆。たとえ一匹でも蝿が入りこんでくると目をつりあげて追いまわす。
 田舎にいたころは、いやだいやだと思いながらも、その数の多さに諦めをつけていたのかもしれない。東京のいまの住まいなら圧倒的に数が少ない。簡単に撃退できそうに思う。だから行動に移る。だが、実際には蠅一匹でもそうそう簡単には追い払えない。そこでイライラがつのる。
 蝿に対する反応も環境が違えば異なってくるのだ。蚊に対しても事情は同じだろう。

  世の中に蚊ほどうるさきものはなし
    ぶんぶというて夜も寝られず

 たしか日本史の教科書などにも載っていたはず。ブンブン飛びまわる蚊のわずらわしさに仮託し、文武を奨励する松平定信の寛政改革を皮肉るのが眼目の狂歌だから、ここでとりあげるのは筋違いかもしれない。しかし寄り道は、ぼくの性分。ご勘弁を願いたい。
 この狂歌の作者と目された蜀山人こと大田南畝は、本名を覃[たん]といい、直次郎と通称した下級の幕臣だった。その大田直次郎は、
 「幕臣である自分が、おそれ多くもお上の政治をそしる歌などつくるはずもない、これは巷間の偽作である」
 と自作説を否定している。
 しかし、だれもそんな言葉を真に受けはしない。大田直次郎も充分に承知のうえで、宮仕えとしての建前を前面に押し立てているような気がする。
 幕府にとって下級官吏である大田直次郎など、とるにたりない存在にすぎない。ところが、狂歌師蜀山人は一匹の蚊のごとき“害虫”として意識される。それこそ“うるさきもの”にほかならない。
 だから彼はさんざんまわりから燻された。つまり、上からの有形無形の圧力や同僚たちの忠告がましい批判があって、やがて表向きは筆を断つことになる。

 最初にかかげた其角の句に、蚊は夏の夜の“きず”とあった。『枕草子』の一節には「にくきもの」と題があった。蜀山人は“うるさきもの”といった。もっと端的に表現すれば、蚊は人間の天敵である。
 この天敵を駆除するには、手で叩きつぶすのが最も原始的かつ最も快感をともなう方法だ。しかし、これがけっこうヒマと集中力とを要する。蚊も、おいそれと叩きつぶされてくれるほど、お人好し?ではない。
 夜に寝転がって本を読んでいると、本の裏側にそえた手の指がかゆい。
 ――やられた!
 と思って、あたりをうかがう。すでに敵の姿はみえない。本に夢中になって羽音に気づかなかったのか。その油断を自責しつつ、虫刺されの薬を塗る。
 子どものころ、蚊に刺されると“ムヒ”という薬を塗った。池田模範堂という製薬会社の製品だ。このムヒという名が無比から来ていると気づいたのは、迂闊にもおとなになってからだった。
 “強力ムヒ”には、ずいぶんお世話になった。
 最近もっぱら愛用しているのは小林製薬の“アンメルツ”という製品。この名称はどこからきているのか知らない。能書きには肩こり・筋肉痛などをうたっており、虫刺されに効くとは書いていない。それでも、この塗り薬は虫刺されにじつによく効くのである。
 さて、アンメルツを塗り終えて本にもどる。ところが蚊の襲来が気になって、なかなか内容にとけこめない。しばらくすると、今度はかすかにプ〜ンという羽音が聞こえてくる。静かに本を閉じ、敵の姿を確認する作業にすべての神経を集中する。
 ――敵機発見!
 慌ててはいけない。ゆっくり身を起こし、確実に叩きつぶすべく身構える。ところが、運動神経のにぶいぼくは、たいてい空を叩いて敵の姿を見失ってしまう。そんな徒労を二、三度くりかえしたあげく、
 ――そうだ、あれだ!
 と気づいてとりだすのが蚊取り線香。火をつけて蚊遣り豚に入れ、やれやれとばかりに読書にもどるのである。
 この蚊取り線香ができるまでは、木の屑や杉の葉っぱ、蓬[よもぎ]などを焚く蚊遣りが中心だったようだ。もちろんぼくは体験がない。以下は本から得た知識である。
 蚊遣りとは、読んで字のごとく蚊を遣る、つまり部屋から追いはらい、家のなかから追いだすのが主目的である。
 蚊いぶし、蚊ふすべともいい、煙にまかれて失神したり、あるいはショックで思わずあの世にいってしまう蚊もいたにはちがいない。それでも積極的に蚊を誅殺することを目的とした蚊取り線香とは根本的に働きが異なるという感じがする。

  世の中をあくたにくゆる蚊遣火の
    思ひむせびて過ぐすころかな

 平安時代に源俊頼がこう詠ったように、蚊遣りはぼうぼうと煙を立てた。だから、縁側で焚くことが多かった。それでも家じゅう煙ってしまう。人間さまのほうも燻しに燻され、むせにむせて、どうしようもないという難点があった。
 江戸時代になって平賀源内がマアストカートルなる道具を発明している。
 四角の木箱に歯車やハンドルがついている。ハンドルを回すと蚊がとれる、回すと蚊ァとる、マアストカートル……
 冗談のような話だけれど、源内が蚊取り機を考案したのは事実。
 必要は発明の母という。蚊遣り火にかわる新たな手段は江戸時代にも切実に求められていた。そこに源内が流行の先端をゆくオランダ渡りの技術を駆使して新蚊取り機をつくった。飛ぶように売れた――と、もしそうなっていたら、日本の蚊取り事情も変わっていたことだろう。
 残念ながら源内考案のマアストカートルは、まったく売れなかった。蚊取り機本来の能力を発揮しなかったのだろう。だから以後も日本人は、蚊と、その蚊をやっつけるはずの蚊遣りの煙に苦しめられなければならなかった。
 文明開化の世となり、新時代にふさわしい天敵退治の方法が求められた。不幸にして近代科学の先輩だった欧米諸国に、そんな文明の利器は存在しなかった。蚊に苦しめられていた日本の人民は、大日本帝国憲法の発布の翌年まで待たなければならなかった。
 一八九〇年(明治二十三)のこと、その後“金鳥の夏、日本の夏”のキャッチコピーで知られる大日本除蟲菊という会社が、蚊取り線香を製品化したのである。これは現代でも日本が世界に誇ることのできる数少ないオリジナル商品のひとつといっていい。
 除虫菊は白花虫避菊(シロバナムシヨケギク)とも呼ぶ。この花にピレトリンという強力な殺虫成分が含まれている。人間など哺乳類には影響しない。蚊には強い即効性を示すといっても、花を置いておくだけでは効果はない。花を乾燥させて粉末にし、燃焼させなければだめらしい。
 除虫菊を使った最初の製品は粉末状で、“蚊遣り粉[こ]”と呼んでいたようだ。内田百閧ェ「蚊遣火」(福武文庫『新方丈記』所収)という文章のなかに、子ども時分の思い出として書いている。
 “明治三十年前後であったと思う。当時の蚊遣りは紙袋に這入った粉であって、線香の形になり次に渦巻になったのは大分後の事である。暗くなりかけた横町や露地の隅から蚊遣粉をいぶす青い煙が流れるのを見て、子供心にえたいの知れない哀愁を感じた。”
 “明治三十年”は一八九七年、十歳前後の記憶だろう。百閧ェ生まれ育ったのは岡山である。
 太平洋戦争の敗戦まぎわには東京で空襲に遭い焼けだされている。ちょうど蚊の季節である。そのときは物資がなにもない。当然のごとく蚊取り線香もなかった。松の小枝を折って青松葉を焚いた。たいした効き目もなくて、
 “蚊も目がいたいと思った位の事だったかも知れない。”
 と書いている。
 蚊遣り粉については久保田万太郎も、敗戦直後にこんな句を詠んでいる。

  蚊やり粉のしめりてもえず盆の月

 蚊遣り粉のつぎの段階が、百閧ェ書いているように細い棒状の線香になる。つなぎに布海苔を混ぜ、同時に染料として青竹の粉を混ぜて練り固め、線香にする。
 これは、もちが悪く、三十分もすれば消えてしまった。蚊が多いと、夜中に何度も起きて継ぎ足さなければならなかったという。
 その不便を解消する渦巻型が考案されたのは、百閧フ記憶とはずれがあるが一八九五年(明治二十八)のこと。渦巻きの全長は約七十五センチメートルもあり、六、七時間は優にもつ。まさに卓抜なアイディアである。着想したのは創業者の賢夫人だったといわれている。
 以来、蚊取り線香といえば円い渦巻型と相場は決まったようなもの。そう思っていたら、オーストラリアなどには四角く渦を巻いたモスキート・コイルもあるらしい。
 これを日本の秋田県で目撃したという話が、椎名誠の編著『蚊学ノ書』(夏目書房)という本に、実物の写真入りで紹介されている。見ると、四角の曲がり角のあたりで火が消えてしまいそうな危うさを感じさせられる。火をつけたあと、思わずじっと見入ってしまいそうである。性能については報告されていないものの、世界に冠たるメイド・イン・ジャパンよりは劣るにちがいない。
 ほかにも、煙が出ず匂いもあまり強くないスプレー式の殺虫剤を振りまいたり、電気マット式や、ただ置いておけばいい水溶性のもの、蚊の嫌いな波長の音を出して撃退する超音波式などといったぐあいに、憎っくき天敵をやっつける方式は多様化している。人類の英知と蚊との飽くことを知らぬ戦いがくりひろげられている観がある。
 ぼくは野外、いわゆるアウトドアでは虫避けスプレーを手足に振りかけたりモスキート・オイルを塗ったりするほか、携帯式の金属容器に蚊取り線香をいれて腰からぶらさげていくことがある。
 家のなかでは、もっぱら蚊取り線香を愛用している。匂いも好きだし、あの深緑の色には内田百閧ナはないけれど“えたいの知れない哀愁”さえ感じる。夜の闇に浮かぶ小さな火の色には風情もある。
 原料として除虫菊は、もう使われていない。一九五三年頃にアレスリンという殺虫成分が化学合成されている。除虫菊の栽培はしだいにすたれ、国内では商業栽培されていないそうである。
 容器は金網の蓋がついた金属製のものが安全でいい。
ただし、“蚊遣り豚”も捨てがたい。
 この蚊遣り豚は、ヌーボーとした表情で果たしていつの時代から日本の夏をいろどってきたものだろう。
 そう思って調べてみると、その出生は秘密のベールの奥深くにつつまれ、どうも判然としない。
 一説によれば、東京・台東区の今戸が発祥の地だともいわれる。素焼きの今戸焼の産地として知られ、織田信長や豊臣秀吉の活躍した天正年間(一五七三〜九二)のころから瓦を焼いていたから、蚊遣り豚も雑器のひとつとしてつくっていたのではないかといわれているが、いまだに定説はないらしい。

 ところで、“蚊の日”という記念日があるのをご存じだろうか。八月二十日である。
 一八九七年(明治三十)のこの日、イギリスの学者ロナルド・ロスはマラリアがハマダラカによって媒介される事実を発見した。一九〇二年になってノーベル医学・生理学賞を受賞し、その発見の日を記念して“蚊の日”は制定された。
 じつのところ、そんな記念日があろうとは、まったく知らなかった。まえに紹介した『蚊学ノ書』に、この“蚊の日”についての短い記事が載っている。教えられるところの多い本で、タイトルもいい。
 “ブンガクノショ”と読むのだろう、タイトルからしてすでに奇書である――と感心していたら、文庫に収録されたさいの奥付では蚊学に“かがく”と月並みなルビがふってある。少し釈然としなかった。
 この本から“蚊の目玉スープ”なる中華料理の話を紹介して、この稿の締めくくりとしよう。
 人間の天敵の蚊にもまた天敵が存在する。トンボ、カエル、クモ、ツバメ、コウモリなどがそうだ。“蚊食い鳥”の異名をもつのは、鳥類のツバメではなく、哺乳類のコウモリである。
 このコウモリ、夏の夜をひらひら飛びまわりながら蚊をしこたま飲みこむ。蚊の目玉というのは消化されずに糞にまじって排出される。その糞を集めては洗い、集めては洗って蚊の目玉だけを選り分ける。そして、スープに浮かべて飲む。これが蚊の目玉スープ。
 本当だろうか?
 本当だとしたら、さすがは四千年の伝統を誇る国の食文化と感じいるしかない。実際にスープをまえにしても、やはり腕組みをしたまま感じいっているしか術はなさそうだが……


■ 子規と漱石,秋ふたつ                      九月


 初秋を代表する味覚のひとつに梨がある。残暑に渇いた喉をうるおすには恰好の果物だ。

  梨むくや甘き雫の刃を垂るゝ

 一八六七年(慶応三)の旧暦九月十七日、新暦では十月十四日に四国松山で生まれ、一九〇二年(明治三十五)九月十九日、肺結核と脊椎カリエスのために東京・根岸で数え三十六歳の生涯を閉じた正岡子規の句である。
 旬を得た果肉のさわやかな甘味、芳香が口いっぱいに満ちひろがるように、みずみずしい。
 子規にとって果物は、たんに好物という以上の存在だった。日記体の随筆『松蘿玉液』(岩波文庫)に子規は書いている。
 “われこの夏頃よりわけて菓物を貪り物書かんとすれば必ずこれを食う。書きさして倦めばまたこれを食う。食えば則ち心すずしく気勇む。気勇めば則ち想湧き筆飛ぶ。吾れ力を菓物に借ること多し。”
 一八九六年(明治二十九)十二月二十八日付の「菓物」と題した文章の一節。子規は、かつて水菓子とも呼ばれた果物を“菓物”と書いている。この“菓物”が病魔にとりつかれた子規にとっては生き延びるためのエネルギー源だった。
 死の前年に書き起こされた病床録『仰臥漫録』(岩波文庫)にも、しきりに梨そのほかの果物を食べた事実が記録されている。

  行く我にとゞまる汝[なれ]に秋二つ

 “漱石に別る”と前書きされた子規の句。
 漱石も子規と同じ一八六七年に生まれている。本名夏目金之助。子規の本名は常規[つねのり]。その交遊は、ふたりが第一高等中学の本科に進んだ翌年、一八八九年(明治二十二)に始まっている。
 ここに“漱石”誕生にまつわる逸話がある。
 一八八八年(明治二十一)の七月から九月にかけて正岡は、郷里松山に帰省することなく、向島の月光楼で過ごした。月光楼というのは正岡が勝手につけた雅称で、長命寺境内にある桜餅屋の二階の一室だった。
 “長命寺の桜餅”で知られるこの店については、すでに冒頭の一文「咲いた桜になぜ駒つなぐ」で紹介し、後出「風狂の雪見」でも触れることになる。
 その長命寺に、かつて“おろくさん”という年頃の娘さんがいて、正岡はこの娘さんにひめやかな慕情をいだいたらしい。
 おかげで墨堤沿いの風情にみちた景観は、さらに詩的感興を増すこととなり、いまだ世に出ない二十歳の青年正岡は漢文・漢詩・短歌・俳句・謡曲・論文・擬古文小説という七種の文学スタイルを借りて心情を吐露する。
 正岡は推敲に推敲を重ね、翌八九年に入って、ようやくそれらを手書きの文集『無何有洲 七草集』にまとめる。
 “無何有洲”は“むかうしま”と読む。向島をさしているけれども、もともと無何有とは『荘子』逍遥遊篇にある言葉で、自然ありのままの理想郷を意味している。若き正岡は、自然に満ちあふれ、おろくさんという魅力的な女性の住む向島を、この世の楽土とみなしたのだ。
 正岡が向島に関心を示したのは早く、十五歳でつくった最も初期の短歌に、すでにこう詠っている。

  隅田川堤の桜さくころよ
    花のにしきをきて帰るらん

 伝統的な情緒によりかかった平凡な歌にすぎないけれど、このころから正岡のなかに、向島という文芸の楽土が意識されていたことがうかがわれる。
 それから五年後に実際に向島に滞在してつくった文集は友人のあいだに回覧され、やがて夏目の手もとにまわる。一読した夏目は、その感想を文集の末尾に漢文でしたためる。漢文だから署名には雅号を使わなければいけないと一考したあげく、はじめて漱石と記す。
 この雅号は『蒙求』にある枕石漱流を漱石枕流と言い誤ってかたくなに訂正しなかったという男の故事から拝借したものだと夏目はどこかで書いていたはずだ。
ただ、たまたま正岡も“漱石”を号のひとつとして使っていたところから、正岡が夏目に譲ったのだという説もあるらしい。調べてみればおもしろそうな話題ではあるけれど、いまは残念ながらその時間がない。

 とにかく、ここに夏目漱石が誕生した。
 そして、正岡が子規と名乗ることになる要因も、向島仮寓中のこの一八八八年夏に生じている。数日をさいて鎌倉に旅行した正岡は、台風に見舞われ、よせばいいのに暴風雨をついて歩きまわった。そして疲労と寒さのなかで、はじめて胸から血を吐く。
 翌八九年五月九日、正岡はふたたび喀血し、肺病の診断がくだされる。翌十日、

  卯の花の散るまで鳴くか子規

 などホトトギスの句を五十句ほどつくった正岡は、以後、子規を号とするようになる。子規の規は本名常規の一字でもある。
 子規と漱石――近代文学に重きをなすふたつの名は、こうして生まれた。
 漱石という号が頑固者の夏目にぴったりなのはいうまでもないけれど、子規もまた肺結核の文学者に悲しいまでにふさわしい号だった。ホトトギスは鳴くときに口中の紅色が鮮やかにあらわれ、鳴き声も血を吐いて苦しんでいるかのように聞きなされるという。
 ちなみに、漱石はこのとき見舞いの手紙を子規に送り、その末尾に、

  帰ろふと泣かずに笑へ時鳥

 ほか一句を記している。これが漱石の最も古い句とされ、以後おおいに句作しては子規の批正をあおぐことになる。
 漱石が子規の高弟である高浜虚子の主宰する俳誌「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を発表し、小説家としての華々しいデビューを遂げるのは一九〇五年(明治三十八)のこと。一八八九年からそれまでのあいだ、漱石は俳人だったといってもいい。

 一八九五年(明治二十八)四月、子規は陸羯南[くがかつなん]の主宰する新聞「日本」の従軍記者として日清戦争におもむく。滞在一ヶ月、実際の戦闘現場にこそ際会しなかったものの、その無理がたたって帰路の船中で激しく喀血し、神戸に上陸。生死の境いをさまよったのち、八月末に松山へ帰省する。
 折しも松山中学には漱石が英語の教師として赴任していた。子規はその下宿――漱石が“愚陀仏庵”と名づけた下宿へころがりこんで秋の二ヶ月ほどをともに過ごす。身体の弱っていた子規が一階、漱石が二階だった。
 その愚陀仏庵を辞して上京するさいに子規の詠んだのが、冒頭にかかげた“行く我にとゞまる汝に秋二つ”という句なのである。
 ところで、漱石にも梨を詠みこんだ句があるだろうと探したら、一句だけみつかった。子規に批評を乞うために送った句稿のなかにある。

  堅き梨に鈍き刃物を添てけり

 偶然に道具立ての梨と刃物は子規の句“梨むくや甘き雫の刃を垂るゝ”と一致している。しかし並べてみると、その感銘は遠く子規におよばない。
 梨ではないが、一九〇八年(明治四十一)九月から「朝日新聞」に連載した『三四郎』のなかには、こんな一節がある。
 日露戦争後の九月、三四郎が大学へ入るために福岡から上京する汽車のなかで、ある男と隣りあう。水蜜桃を買って“無闇に食べ”ていた男は、三四郎にもすすめながら、こんなことをいいだすのである。
 “子規は果物が大変好きだった。且ついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などは到底[とても]子規の真似は出来ない。――三四郎は笑って聞いていた。けれども子規の話だけには興味がある様な気がした。”
 三四郎が“もう少し子規の事でも話そうか”と思っていると、男はたちまち豚の話に転じてしまうのだが、この男が広田先生である。
 このとき、すでに子規はこの世に存在しない。

  三千の俳句を閲[けみ]し柿二つ

  柿くふも今年ばかりと思ひけり

 子規の柿好きは有名な話である。いま挙げたほかにも、あまねく知られた“柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺”の句がある。“御仏に供へあまりの柿十五”という句もある。渋みの残った柿こそがうまいのだと詠った短歌さえある。

  柿の実のあまきもありぬ柿の実の
    渋きもありぬ渋きぞうまき

 『三四郎』は小説だが、酒樽に詰めて渋を抜いた樽柿を十六個も食ったという話は、子規の晩年を描いた高浜虚子の長篇小説『柿二つ』に徴してもほぼ事実だったようだ。その健啖ぶりには驚くほかない。
 漱石は“正岡の食い意地”とくちさがない。けれど、子規の生命を支えたものの重要なひとつに果物があり、その健啖ぶりがあり、さらにまた咀嚼の丹念さがあった。
 一八九六年(明治二十九)から死の年一九〇二年(明治三十五)までの五年間というもの、子規はほとんど病床に横たわり、病苦にのたうちまわった。芭蕉が旅に生きて旅に死んだのと、あまりに対照的である。
 病勢の悪化につれて背中や尻が腐り、穴があく。膿みが出る。歯茎も膿み、それを何度も何度も指で押しだしながら、なお梨の芯まで噛み砕いては汁を吸う。その凄まじさは、志なかばにして尽きようとする生への執念だったのだろう。
 志なかば? 
 だが近代俳句の創始、短歌革新といった子規の文学活動や一個の人間としての生き方には、つねに旬の果物のもつ充実があった。子規自身が一個の果実だった。腐った肉体のうちに、みずみずしく張りきった精神が最後の最後まで躍動していた。
 そのみずみずしい精神は作品として永遠に遺っている。
 “梨むくや甘き雫の刃を垂るゝ”という一見なにげない句からさえ、その事実は充分にうかがうことが可能だろう。


■ 糸瓜忌[へちまき]                       九月


 はじめに、だれもが知っているにちがいない句をあげてみよう。

  柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

  鶏頭の十四五本もありぬべし

 つぎも、ひろく知られた短歌。

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければ
    たゝみの上にとゞかざりけり

 作者は正岡子規。彼は一九〇二年(明治三十五)九月十九日、肺結核と脊椎カリエス(腰部脊髄炎)によって満三十五歳にわずかに満たない短い一生を終えた。翌月十月の十四日が誕生日だった。
 その忌日にはいくつか呼び方があって、素直に子規忌という名があり、ほかに糸瓜忌や獺祭忌[だつさいき]とも呼ばれる。
 当日の墓参こそできなかったけれど、数日後の秋雨のなか、子規の墓のある寺をはじめて訪ねてみた。
 場所は都内北区田端四丁目十八番地四号、大龍寺という真言宗の寺である。山号を和光山、院号を興源院という。
 JR山手線の田端駅を駒込寄りの改札口から出、ゆっくり歩いて十五分ほど。閑静な住宅地の一郭に大龍寺はある。道みち“ワンルーム・マンション建設反対!”、“田端文士村の環境を壊すな!”などと書かれた立て看板がいくつか目についた。
 芥川龍之介や室生犀星、菊池寛、堀辰雄らが住んで、のちに田端文士村と呼ばれたこの地にも、いまは人家が密集している。かつての田園的な面影を日々失いつづけているのである。
 当時の様子は、近藤富枝の『田端文士村』(中公文庫)という本に詳しく描かれている。この本を読んでみると、田端という地は現在からは信じられないほど牧歌的であり、同時に多くの陶芸家・美術家や文士たちが住みついてかもしだす芸術的な雰囲気に満ちていたようだ。
 芥川もしばしば訪れたという大龍寺の墓地のかたすみには、雨に濡れて微光を帯びた墓石がたたずみ、“子規居士之墓”と簡素に刻まれている。子規が入社した日本新聞社の社主で主筆をつとめた陸羯南[くがかつなん]の手跡だという。

  子規墓参今年おくれし時雨かな

 これは高浜虚子の句。子規の忌日に墓参を欠かしたことのない虚子だったけれども、病気には勝てず、一九五八年(昭和三十三)には十一月に入ってから大龍寺を訪れている。このときも雨が降っていた。

 一八九二年(明治二十五)になって子規は、本郷区駒込から根岸に引っ越している。陸羯南の家の隣りだった。“羯南氏住居に隣れば”と前置きして一句を詠んだのは、その翌年のこと。

  芭蕉破れて書読む君の声近し

 この下谷区上根岸八十八番地の家からすぐ近い八十二番地に移ったのは、そのまた翌年の一八九四年(明治二十七)のことだった。再建されたものではあるけれど、同じところにいまも子規庵として残っている。
 羯南の新聞「日本」に子規は、“獺祭書屋[だつさいしよおく]主人”の筆名で、一八九二年(明治二十五)六月二十六日から「獺祭書屋俳話」を連載した。
 文学史的には、これが俳句革新運動の第一声とされているから、根岸を発祥の地とする近代俳句は、すでに百年を超える歴史を有することになる。
 俳句という言葉を生みだしたのは子規である。それまで俳句は発句[ほつく]と呼ばれた。また、和歌を短歌といいかえたのも子規だった。
 きわめて大雑把な言い方になるが、和歌の上五・七・五と下七・七とを詠みあう連歌から滑稽を主とした俳諧連歌が生まれ、俳諧連歌から五・七・五の発句が独立した。
 発句は、松尾芭蕉にいたって詩の形式として定着したものの、芭蕉亡きあとは与謝蕪村や小林一茶などの個性的で突出したわずかな存在を除いて、マンネリズムや低俗化、俳壇の職業的宗匠たちによる営利を優先した結社の運営などのために、芸術的には低迷におちいっていた。
 近代に入ってこの低迷を打ち破ったのが子規である。
 子規が既製俳句を批判するさいに多用した評語として有名なのは、“月次[つきなみ]調”という言葉だろう。月次とは月例のことで、月並とも書く。月に一度、惰性的にくりかえされてきた俳句結社の会合をさしたけれども、子規が評語としてしきりに使ってからは、まさに陳腐で新鮮さのない状態をあらわす言葉として、ひろく用いられるようになる。
 近代俳句百年を過ぎたこんにち、全国の結社の数は千二百とも千三百ともいわれる。俳句界は隆盛を誇っているようだ。俳句人口が多ければ日々産みだされる俳句の数もまたおびただしいものになるにちがいない。その多産にともなって質の高い句が増えていくのなら、これに優ることはない。だが、実際はどうなのだろう。

 さて、子規である。
 獺祭書屋主人というペンネームには説明が必要かもしれない。獺祭の獺は、訓読みすればカワウソ。

  獺の祭見て来よ瀬田のおく

 これは芭蕉の句。瀬田は琵琶湖から流れでる瀬田川のほとりに位置する地名で、現在の滋賀県大津市のうち。
 カワウソも江戸時代には全国各地に棲息していたのだろう。いまや絶滅の危機に瀕して高知県以外ではみられなくなったといわれ、特別天然記念物に指定されている。
 その高知ではカワウソといえば河童を意味したと『日本史のなかの動物事典』(一九九二年・東京堂出版)には書かれている。河童の正体はカワウソだったというのも、おもしろい話だ。
 カワウソは捕まえた魚を食べるまえに身のまわりに並べる習性をもつとされる。そのすがたを、あたかも神に供物をささげる祭儀にみたててできた言葉が獺祭。転じて、詩文を草するさいに多くの参考書を机の上や身のまわりに広げることをも意味するようになったらしい。
 ここから子規は自分の住まいを獺祭書屋と名づけ、筆名にも流用した。のちに、だれが名づけたかはわからないけれど忌日が獺祭忌とも呼ばれるようになる。

  うち晴れし淋しさみずや獺祭忌

 久保田万太郎の句で、“人、大龍寺のかへりなりとて来る”と前書きされている。万太郎はこの句をつくった一九二四年(大正十三)当時、大龍寺のある田端からほど近い日暮里渡辺町に住んでいた。現在の荒川区西日暮里三丁目・四丁目にあたる。
 当時はまだ山手線の西日暮里駅はなく、田端から上野方面行きの電車に乗るとつぎが日暮里で、そのつぎが鶯谷駅になる。

 あいかわらず降りつづく秋雨のなか、大龍寺に墓参した足を子規庵に向けた。鶯谷駅から歩いて十分弱、財団法人子規庵保存会が管理する建物は、現在の住居表示で台東区根岸二丁目五番地十一号にある。
 一九二三年(大正十二)九月一日に起きた関東大震災と第二次世界大戦中の空襲でかつての住まいは焼失し、子規の日記や原稿を収納していた土蔵だけが残ったという。住まいは戦後ほぼもとのままに再建されたものの、土蔵の壁面は補強したトタン板で表面をおおわれたまま白壁に復元されてはいない。
 公開は水曜のみで、観覧料が三百円。『子規庵の歩み』(一九八七年一月二十一日発行・B4判・表裏二ページ)という簡単なパンフレットをもらい、“六尺”の“病牀”にあぐらをかいて庭や雨空を眺めながら係のおばさんのていねいな説明を聞いた。ほかに四枚ひと組の写真版絵はがき(五百円)も用意されている。
 根岸という地名は、上野の山の根もと、音無川の岸辺に位置するところから名づけられたといわれる。
 一八三六年(天保七)に刊行された『江戸名所図会』に、
 “呉竹の根岸の里は上野の山陰にして、幽趣あるが故にや都下の遊人多くはここに隠棲す”
 と紹介されるような風雅のおもむきに満ちていたらしい。
 子規が住んだころも人家はまばらだった。南に面した二十坪ほどの庭の向こうには上野の森が望まれた。

  緑立つ庭の小松の梢より上野の杉に鳶の居る見ゆ

 最寄りの鶯谷駅ができたのは子規の死後、一九一二年(明治四十五)になってからだが、家のまえの細い道を鶯横丁といって、実際にこのあたりでは鶯のさえずりがよく聞かれたという。
 ところがである。いまや鶯谷駅北口一帯にはラブホテルが櫛比林立し、そのあいだを縫って子規庵に向かうには女性ならずとも思わず顔を赤らめるほど。“根岸の里の侘び住まい”どころの話ではない。
 ただ、子規庵の草深い庭に立って目をつぶれば、それなりの感慨がおのずから湧いてくる。鶏頭の花が咲き、軒下の棚には糸瓜も数本ぶらさがっている。
 子規は病牀に横たわったままの永い年月、この庭をみつめながら『仰臥漫録』や『墨汁一滴』、『病牀六尺』(三冊とも岩波文庫に収録されている)など多くの日記や随筆、俳句や短歌を産みだした。
 病苦のどん底で書き遺した糸瓜の句がある。

  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

  痰一斗糸瓜の水も間にあはず

  をととひの糸瓜の水も取らざりき

 いわゆる絶筆三句である。糸瓜忌の名は、ここに由来する。子規忌、獺祭忌よりも糸瓜忌という名が子規の祥月命日には最もふさわしいと感じられるのは、この三句の印象が強いためである。
 糸瓜は蔓を切って水を採り、咳止めや痰切りとして薬用されたという。しかし子規にはそれも不要になった。糸瓜の句を詠んだ翌日、子規は永遠の眠りにつく。
 降りつづく雨のなか、子規庵でみた糸瓜の淡い緑が、いまも鮮やかにぼくの目に焼きついている。

  子規庵にぶらりとおわす糸瓜かな   仁


■ 月下の栗を穿つ                         十月


  夜ル窃[ひそか]ニ虫は月下の栗を穿[うが]ツ

 松尾芭蕉が一六八〇年(延宝八)に詠んだ句で、このとき三十七歳。平仮名・片仮名混じりは原文のまま。“後名月”という前書きがついている。
 後[のち]の名月とは陰暦九月十三日の月、つまり十三夜を意味する。陰暦八月十五日の十五夜に対して後といったもの。たんに“後の月”ともいう。
 一説に一六四四年(正保一)の十五夜に生まれたとされる芭蕉は、月見がことのほか好きだった。
 月雪花という言葉がある。花鳥風月と同じく四季折々の自然美をあげた言葉として知られる。その日本的伝統美を俳諧という表現形式のなかで革新したのが芭蕉だった。いっぽうで彼は伝統の核心をしっかりと踏まえていた。芭蕉に花や雪の句が多いのはいうまでもなく、それと並んで、

  名月や池をめぐりて夜もすがら

  名月や門[かど]にさしくる潮頭[しおがしら]

 など深川芭蕉庵での詠吟をはじめとする、名月を詠みこんだ多くの句が知られている。みずから月見のうたげをしばしば催してもいる。
 しかし、冒頭に掲げた“夜ル窃ニ虫は月下の栗を穿ツ”という句は、伝統的でありきたりな月見の句などではない。
 秋の夜の静謐のさなか、冴えわたる月の光のもとで小さな虫がだれに知られるともなく栗の実をむしばむ幻想的なシーン――
 虫は、もちろん実のなかに潜んで姿がみえない。幻想的でありながら、ひじょうに印象の鮮明な姿をしているのは、この句が写生ではなく想像の句だからこそかもしれない。シュールレアリスムの、遠い先駆とさえいってもいい。
 そして、月下に栗の実をうがつ虫には、苦吟する芭蕉の孤独な姿が投影されている。
 ――と書いてきてぼくはいま、“推敲”という成語を思い浮かべている。
 賈島[かとう]という唐の詩人が驢馬に乗って外出中に詩をつくりながら、“僧は推す月下の門”という一句を“僧は敲[たた]く月下の門”にしたほうがいいかどうか悩んだという故事に由来する推敲である。
 驢馬のうえで“推すか敲くか”と思案に没頭していた賈島は、政府の高官であり著名な文学者でもあった韓愈の行列に割りこんでしまい、韓愈のまえにひきたてられる。賈島が事情を話して詫びると、韓愈は賈島の非礼をとがめもせずに、“推す”より“敲く”のほうがいいと助言し、ふたりはこれが縁で無二の詩友となったといわれる。
 ここに、すでに“月下”という文字があり、苦吟に通じる“推敲”という熟語がある。芭蕉の“夜ル窃ニ虫は月下の栗を穿つ”という句は、ひょっとすると、この“月下推敲”を下敷きにしているのではないか――
 この点は芭蕉研究者のあいだではすでに指摘されていることがらかどうか、ぼくは知らない。あるいは門外漢ならではの“遅すぎた発見”にしかすぎないかもしれない。しかし、たとえこの句に本歌取りに似た翻案・移植があったとしても芭蕉の独創性は揺るがないし、ぼくが得た最初の新鮮な感銘も薄れることはないだろう。

 日本の伝統的文化の個々について少しでも調べてみると、中国文化の影響の深さ大きさに、いまさらながら驚かされる。仲秋の名月もまた中国から伝来した行事だった。
 それに対して“後の月”、十三夜は日本独特の行事だといわれる。
 ほかに陰暦十月十日の十日夜[とおかんや]の月見というのがあり、これも日本固有のものらしい。しかし現在、十日夜の行事を守っている日本人の数は、それほど多くはないにちがいない。
 十日夜とまぎらわしいものに十夜がある。これは陰暦十月六日から十五日までの十昼夜にわたって念仏を唱える浄土宗の法要だから、月見とはもともと関係がない。
 ただ、十月十日を特に“お十夜”と称し、月見のうたげを開く人はいるようだ。信仰とは関係がなく、また十日夜と混同されてもいるのだろう。
 久保田万太郎にも、つぎの句がある。

  お十夜に穂の間にあひし芒かな

 十五夜は芋名月といって、上新粉でつくった月見団子に、芋は芋でも里芋の子をそえる。
 それに対して、十三夜には栗名月あるいは豆名月の異称があり、団子とともに旬の栗や枝豆を供える。
 では十日夜にはなにを供えるのかというと、米である。そういわれれば、十月十日の十と十をずらして重ねてみると米という字に似る。これは偶然だろうか。
 月見の行事は、それぞれ季節の幸と結びついている。農事は月齢と深くかかわりあっていたから、月や農業の神に収穫を感謝し、翌年の豊作を祈る農耕民族としての心情がこめられていた。
 神頼みではないけれど、風流にみえる芭蕉の草庵生活は、門人や支持者の援助に頼るところが大きかった。四季折々の幸をはじめとする日常の差し入れがなければ、とうてい成り立つものではなかっただろう。職業としての俳諧宗匠という社会的立場を捨てた結果である。
 そんな草庵生活を彷彿させるのは、

  めでたき人のかずにも入[いら]む老のくれ

 という一六八五年(貞享二)歳末の吟にそえられた前書きである。
 “貰うて喰らひ、乞うて喰らひ、やをら飢[かつ]えも死なず年の暮れければ”
 ――ときに芭蕉四十二歳。当時は四十歳で初老とよばれた。
 月を詠みこんだ句を探すと、十日夜のことを詠んだのかと思わせる句がみつかる。

  米[よね]くるゝ友を今霄の月の客

 一六九一年(元禄四)、四十八歳のときの作。
 “十五夜”と前書きされているから、残念ながら十日夜ではなかったが、兼好法師『徒然草』第百十七段に“よき友”の第一としてあげられている“物くるる友”と思いあわせ、風狂の裏によこたわる現実がうかがい知れるようで興味ぶかい。
 と同時に、伝統的な花鳥風月の世界に遊ぶ和歌などの既製の文学形式では表現しきれない、俳句独自の興趣にひたることもできるのである。

 十三夜といえば、永井龍男と樋口一葉をも思いおこす。妙な取りあわせに感じられるかもしれないが、じつは永井龍男がこんな句をつくっているのである。

  一葉といふ名は若し十三夜

 一八九六年(明治二十九)に肺結核のため数え二十四歳の若さでこの世を去った樋口一葉は、その前年に短篇小説『十三夜』を発表している。
 永井龍男は十三夜の澄みきった秋の夜空に冴えわたる“後の月”に、一葉のあまりに短く、あまりに鮮やかな生涯を偲んでいるのである。
 小説『十三夜』とは、こんなストーリーだった。
 ある高級官吏にみそめられて嫁いだ貧しい家の娘が、男の子が生まれてからの夫のうって変わった仕打ちに堪えかね、実家にもどってくる。
 両親に離縁状をとってくれと娘は涙ながらに訴えるものの、父親に意見され、子どものためにもう一度死んだつもりで夫に仕えようと、人力車に乗って帰ってゆく。
 おりしも夜空には十三夜の月がかかっている。
 そのあとに、たまたま乗った人力車の車夫が初恋の相手とわかって……という小説の山場がくるのだが、一葉の美しくとぎすまされた文章、十三夜の名月という叙情的な書き割りのうちに、封建的な身分差別や性差別、結婚制度の矛盾をうがつ静かな異議申し立てが脈打っている。
 ストーリーから離れていえば、娘の母親が月見を“旧弊”とみなしている点に興味をひかれる。突然に帰ってきた娘に、まだ事情を知らされない母親は、こう話しかけているのだ。
 “今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれどお月見の真似事に団子をこしらえてお月様にお供え”し、“お前も好物なれば多少なりとも”弟に“持たせて上げようと思うたれど……十五夜にあげなんだから片月見になっても悪し、喰べさせたいと思うばかりで上げる事が出来なんだに、今夜来て呉れるとは夢のような……”
 封建的な遺風が生活のいたるところにこびりついて人びとを苦しめているにもかかわらず、いっぽうで、旧習を排斥しようとする性急な開化の風潮は、月見のような庶民の素朴な行事にまでおよんでいたという事実がうかがい知れる。
 ついでに十五夜と十三夜のいっぽうの月見をしないのを“片月見”といって忌みきらったという、現在ではほとんど忘れ去られているだろう事実も、この引用からは知ることができる。

 ここで芭蕉に話をもどすなら、「芭蕉庵十三夜」という俳文のなかに、つぎの一句がある。

  木曾の痩もまだなをらぬに後の月

 この年(一六八八・元禄一)、十五夜の望月は“田毎の月”でも知られる更級[さらしな]で賞した。更級は更科とも書く。信州、現在の長野県中央部である。
 芭蕉はこの旅の疲れもほとんど癒えないままに、十三夜の観月会を江戸深川の芭蕉庵で催しているのである。集まった門弟や友人のなかには“目には青葉山郭公初松魚”で知られる山口素堂などの顔もあった。
 この後の月のうたげを無理を押して芭蕉が開いたのは、彼もまた片月見を嫌ったからだろう。さらに、そこには風狂に生きる男の意地のようなものさえ感じられる、といったらいいすぎだろうか。
 しかし、もし意地を捨てたなら“夜ル窃ニ月下の栗を穿つ”孤高の俳聖は生まれなかったにちがいない。
 有名な“月見の献立”を書いたのは一六九四年(元禄七)の十五夜である。郷里伊賀上野の無名庵で門人たちと月見のうたげをおこなったさいに、芭蕉みずから記した献立表が遺っており、それを見ると山の幸がふんだんに採り入れられている。
 九月に入って郷里をたち江戸に向かった芭蕉は、途中の大坂で病を得、この年の後の月には観月会を開くことができなかった。
 十月八日には“病中吟”と題して一句を詠んでいる。

  旅に病[やん]で夢は枯野をかけ廻[めぐ]る

 病の床にあえぐ芭蕉の脳裏には、風のように枯れ野をかけめぐるイメージばかりが映っている。停滞を嫌った、淀んで腐ることを知らない芭蕉の心は、あらたな旅立ちを夢に描いているのである。
 十日夜には一期を悟って兄への遺書を自筆し、十二日の夕刻、死去する。数え五十一歳だった。


■ 毒のない河豚                          十月


 先日、といってももうだいぶ経つ。季節には早いが九月の末に河豚を食べた。
 義弟の結婚式に出席するため高知県の小さな漁村にいった。無事に式も終わり、数日のんびりして明日は東京にもどるという日の晩に、義弟が手ずから養殖の河豚を調理し、もてなしてくれたのだ。
 新婚さんのためにぴかぴかに改装された離れの食堂に、つれあいともども招待された。
 まずは乾杯!
 しかし問題は、目のまえにでんと置かれた河豚の鍋である。
 「養殖の河豚に毒はないちゃ」
 そういわれても、小心者の身としてはなかなか手が出せるものではない。
 義弟は父親と一緒にリアス式の穏やかな湾内で養殖業をいとなんでいる。鯛やハマチ、シマアジなどを手がけ、いまは主に河豚だが、手がけて日はまだ浅い。
 もちろん河豚調理師の免状をもっているわけでもない。
 「まえにも刺身にして食べた。大丈夫、だいじょうぶ」
 こちらの反応を楽しんでいる……気のせいか、そんな気配がうかがえないこともない。
 養殖ものには毒がないというのも、じつは初耳だった。
 ビールばかり飲んでいるうちに、鍋はふつふつと煮えたってくる。器に大根おろしと汁を入れ、七味唐辛子をたっぷりかける。まずは豆腐や野菜から。
 つれあいは、すでに河豚の肉をつつきはじめている。
 「もっと煮たてたほうがいい」
 といっていた義父も、おもむろに河豚をつつきだす。
 ――いまのところ異変はない。
 ぼくは、またビールを飲み干す。みんなの様子をうかがいながら、観念して恐るおそる河豚の白い肉のかたまりを器にとる。ぷりぷりとして骨からすぐに離れる。
 ひとくち――
 うまい!
 歯ごたえがあり、淡白で上品な味が口いっぱいにひろがる。ひと切れ食べたあとは、思わず箸がのびる。
 喉もと過ぎれば熱さ忘れるとはこのことだろう、最初のひとかたまりが喉を通り過ぎたあとは、もう毒のことなどほとんど念頭から消えかけている。
 そのうちに、なんと肝が箸の先にぶらさがったではないか。いくらなんでも肝までは……
 「肝臓って、いちばん毒があるんだよね」
 なにげなさをよそおいつつ、つぶやいてみる。
 「だいじょうぶ、肝がいちばんうまいちや」
 と義弟はにっこり。
 肝に毒があったなら、すでに汁のなかに溶けだしているはず。その汁もたっぷりとすすったあとだ。ええい、ままよ――
 「う〜ん!」
 思わず声が出る。かすかな苦みと、やわらかな甘み。舌の上でとろけるような感触が広がる。
 結婚式のことや近所の噂、新婚さんのおのろけに話の花が咲き、アルコールもまわってほどよい気分になったころ、突然ぼくの舌がもつれた。
 みな一瞬にして沈黙し、ぼくの顔をうちまもる。
 「……い、いやあ、ちょ、ちょっと酔った」
 もともと吃りの気があるのだ。

 東京にもどってから少し調べてみた。
 河豚を食べる習慣があるのは日本・朝鮮半島・中国など。ただし中国では現在、法律で禁止され、一ヶ所だけ公認の河豚料理店があるという。世界のほかの国・地域では“魔魚”と恐れられ、食用に供することはまずないらしい。
 以下、魔魚たるゆえんを列挙する。

 ・猛烈な毒がある
 ・口は小さいが、分厚い唇の裏にある四本の頑丈な歯で指や網を噛み切る
 ・その歯でキリキリと歯ぎしりするやいなや、海中でも釣りあげられてからでも、おなかを毬のように大きく膨らませてしまう
 ・魚には瞼[まぶた]がないのが普通だが、河豚には特殊な瞼があってパッチリと目をつむる

 魔魚たるゆえんの第一は、いうまでもなくその毒だ。
 名をテトロドトキシンという。マフグ科の学名テトラオドンと、毒素を意味するトキシンとの合成語である。目や皮、とくに肝臓や卵巣に多く含まれ、青酸カリの十倍以上の毒性がある。種類によっては一尾で三十人以上の成人を死にいたらしめるほどの猛毒をもつという。
 中毒症状は四期に分かれる。

 ・食べて三十分ほどで手が痺れ、舌がもつれる
 ・胸が苦しくなって胃のなかのものをもどし、立てなくなる
 ・呼吸が困難になる
 ・意識がにぶり、呼吸が止まる

 解毒剤は、ない。
 毒にあたったら救急車をすぐに呼び、周囲の人も患者につぎのような救急療法を試みる必要がある。もっとも、気休めにすぎないかもしれないが。

 ・胃のなかに残っているものをすべて吐き出させる
 ・人工呼吸や呼吸中枢興奮剤・強心剤などで呼吸障害を防ぐ
 ・利尿剤で尿とともに毒を排出させる

 テトロドトキシンは熱に強いから、いくら煮たててもだめだ。義父が「もう少し煮たててからのほうが……」などといっていたのは、やはり毒を恐れていたからだったのかどうか確かめるのを忘れたが、もしそうだとしたら無意味な忠告にすぎなかった。
 天然もののシロウト料理は絶対に禁物である。河豚調理師の免状をもつ専門家にまかせるしか手はない。
 もうひとつの重要問題、“養殖の河豚には毒がない”という点についてだが、これはあくまで“大筋において”という留保つきでいってまちがいではないようだ。
 なぜか?
 天然の河豚から先に説明する。まず有毒プランクトンを耐毒性のあるヒトデや貝が食べ、体内に毒を蓄積する。毒に弱い生物は、そのヒトデや貝を食べるのを避ける。ところが河豚は好んでこれを餌にし、これまた体内に毒をひたすら蓄積し、かつ濃縮する。そういう食物連鎖の果てに天然の河豚は毒魚となるにいたる。
 いっぽう、養殖の河豚はといえば、養殖用の網で囲われ、人間が与える毒性のない飼料で育ち、食物連鎖という自然のシステムから切り離される。それゆえに毒をもたない。
 ただし、である。ここからが留保をつけた理由になる。養殖用の囲いの底が海の底そのものを利用するような構造になっていると話は違ってくる。耐毒性のあるヒトデや貝が海底にいる。
 さらには、海中に浮かんでいる養殖網でも自然に破れたり、魔魚と呼ばれる理由にあげられていた鋭い歯で噛み切られて破れ、そこから天然の河豚がまぎれこむケースがないともいいきれない。いや、その恐れは多分にあると考えたほうがいい。とすれば、養殖といっても決して無毒の河豚ばかりとはいえなくなってくるのは理の当然である。
 クワバラ、クワバラ……
 やはり河豚は専門店で食べるのが、いちばん心ゆくまで味わえるという妥当な結論に落ちつく。
 心ゆくまでといっても、もちろん頭の痛いのは、いつでも財布の中身なのだが。


■ お酉さまと樋口一葉                      十一月


 立冬は毎年十一月八日前後にやってくる。冬来たりなば春遠からじと、気の早い人は、そろそろ新春を待ちわびるような落ちつかなさを感じるのだろう。
 江戸時代前期・中期の俳人で芭蕉門下の異端児といわれる榎本(宝井)其角は、こう詠んでいる。

  春をまつことのはじめや酉の市

 酉の市は“お酉さま”とも呼ばれる。浅草の鷲[おおとり]神社に立つ市はよく知られているが、“おおとり”を“大取り”にかけて縁起をかついだ商売繁盛の祭りであり、かつては大鳥と表記した。
 十一月の酉の日におこなわれているけれど、以前は旧暦の霜月だから、いまよりも時期的に寒さは厳しい。
 木枯らしが吹きはじめるようになって、お酉さまの声を聞く。あとに煤払いや歳の市、掛け買いの支払いやら取り立てやらなにやら、どんづまりの大晦日に向かってあわただしい日々がひかえていることに気づく。
 それらがみな済んで、やっと初春をむかえられたとしたら、季節の移り変わりに敏感で生活と年中行事とが深く結びついていた江戸時代の人びとにとって、“春をまつことのはじめや酉の市”という其角の句は、よほど身近に感じられるものだったにちがいない。
 この酉の市の前夜を土地の人は“宵酉”と呼ぶという旨の前書きを付し、“浅草の詩人”ともいわれた当地生まれの久保田万太郎はこう詠んでいる。

  宵酉の廓の雨となりにけり

 鷲神社は廓、吉原遊廓にほど近い。
 宵酉につづく最初の酉の日を“初酉”といい、“二の酉”とつづく。“三の酉”まである年もある。
 ほんとうかどうかは詳らかにしないが、こんな話を聞いたおぼえがある。
 大阪出身の武田麟太郎が『一の酉』という小説を発表した。当時の流行作家だった麟太郎がタイトルにかかげた言葉はひとり歩きを始め、いつのまにやら初酉を一の酉と呼ぶ人が増えてしまった。大阪ではいざ知らず、それまで東京っ子はだれも一の酉なんていわなかった、と。
 『一の酉』という短篇を読んでみると、本文中では“初酉”という言葉はあるのに、“一の酉”はない。つまり“一の酉”はタイトルだけにしか使われていない。
 これについては武田麟太郎自身に『「一の酉」の「おしげ」』と題した短い文章がある。麟太郎が好んだタイプの女として自作の主人公“おしげ”をあげているのがこの短文の眼目だが、なかにこんな付けたりがある。
 “ちなみに一の酉と云ふ言葉はないのだ、初酉と云ふべきだが、それでは標題のニウアンスを失ふ”
 初酉ではタイトルとしてのニュアンスを失うという意味はよくわからない。けれども、麟太郎自身が意識的に初酉を一の酉といいかえたことは、これではっきりした。
 樋口一葉の研究で知られる作家の和田芳恵も、講談社『日本近代文学大事典』の武田麟太郎の項目のなかで書いている。
 “「銀座八丁」も武田の造語だが、「一の酉」も「初酉」を新しくいいかえたものである。”
 とすれば、やはりぼくの聞いた風説は確かな話で、かつては一の酉という言い方はしなかった、武田麟太郎が一の酉という言葉を新造したという二点はそのまま受けとってよさそうである。
 ただ、ひとつだけ気になることがある。
 麟太郎の『一の酉』は一九三五年(昭和十)に発表された。ところがそのまえに、東京っ子の永井荷風が小説『すみだ川』のなかで一の酉という言葉を使っているという事実である。
 “お糸が手紙を寄越したのは一の酉の前時分であった。”
 わずかこの一ヶ所にすぎないけれども、作品の時代背景は一九〇二年(明治三十五)ごろに設定され、小説自体は一九〇九年(明治四十二)に発表されている。
 武田麟太郎の『一の酉』に先だつこと二十六年もまえだから、麟太郎の造語云々というのは、あるいは信憑性にとぼしい話かもわからない、と一応の留保はつけておきたい。

 信憑性にとぼしいといえば、もっとわからない話がある。いわく、“三の酉まである年は不景気だ”、いわく“三の酉の年は火災が多い”――
 ためしに小学館の『故事・俗信・ことわざ大辞典』をのぞいてみた。すると、ただこのことわざが掲げられてあるだけで、そう言われるゆえんにはひとことも触れていない。
 余談になるが、この大事典には“酉の水”という言葉が収録されていて、“盗人仲間の隠語”で酒をいうと説明されている。
 なるほど、サンズイに酉で酒か――などと思いつつ見ていくと、酉の市のことを古くは“酉の町”といったとも書いてある。
 『江戸名所図会』には“まちは祭の略語なり”とある。この説明にしたがうと、酉の祭りといったのが酉のまちと訛り、酉の町という字があてられたと考えられる。
 ただ、市という字は“まち”とも読むはずだから単純に酉の市を“とりのまち”と読んでおかしくない。市は町に通じるのである。
 火事の多さについて『江戸名所図会』には“俗説”とあるだけでとりつく島もない。
 火事はともかく、チマタにはじつに長いあいだ木枯らしのような不景気風がふきまくり、ボディーブローのごとく生活にジワリジワリと響いてくる。三の酉まであると、はたして年の瀬を無事に乗りきることができるものやらどうやら心配になってくる。
 そんな時世だからこそなのだろう、縁起物の熊手を買って幸運を掻きこもうと思う人が多くなり、酉の市はますます喧噪をきわめるわけである。
 当日のその人出を考えるとぼくは、出かけようとしても尻ごみせざるをえない。人に酔うのだ。
 “大勢の人に押されて、揉まれて、踏まれて蹴られて、帽子は飛ぶ、下駄は失くなる、着物は裂ける、羽織は脱げる。おまけに紙入は掏られる、溝へ落ちる”
 これは『半七捕物帳』や『修禅寺物語』でおなじみの岡本綺堂が『風俗明治東京物語』(河出文庫)に収めた「酉の祭」という一文で描写している、すさまじいばかりの有りさまである。
 “実にありとあらゆる苦しみをし尽くした上、まず生命に別状のないのを取得にして、「今日の酉は賑やかだったぜ」と、手柄顔に吹聴しているのが東京人の特色である。”
 綺堂は芝に生まれた東京っ子だから、“手柄顔に吹聴している”のは、どうも綺堂その人であるような得意げな口吻が伝わってくる。
 やはり、これではとても酉の市には出かけられない――
 そう考えたぼくは、お酉さまのまえに浅草の鷲神社を訪ねてみることにした。台東区千束三丁目にあり、一帯はむかしの地名でいうと下谷区龍泉寺町になる。
 龍泉寺町といえば、ぼくとしては鷲神社よりも樋口一葉を思い浮かべないわけにはいかない。一葉の代表作である『たけくらべ』は、この龍泉寺町や吉原界隈を背景に、おとなへ成長しようとする多感な時期の子どもたちを描いた名作だった。
 “……大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき”
 と冒頭にあるその大音寺は、鷲神社の斜向かい筋にひっそりとたたずんでいる。
 鷲神社のほうはといえば、建物も境内もコンクリートで固められ、樹木も少なく、あたりに殺伐の気をただよわしている。商売繁盛の神さまに風情などむしろ不要、というわけでもないのだろうけれど、なにかうらさびしい。
 むしろここは、たとえどんなに混雑しようと酉の市のときに来てこそ、その雑踏・狂騒のうちに一種の風情がかもしだされる特殊な場所なのかもしれない。
 樋口一葉も万太郎や荷風、綺堂と同じく東京生まれである。
 一葉の父則義は、いまの山梨県塩山市に生まれた。農民の子だったが、幕末に江戸に出て八丁堀の同心の株を買い、幕府直参になるまでに出世する。維新後は新政府に仕える官吏となり、東京府庁に勤めて内幸町一丁目一番地にあった府庁官舎に住んでいた。一葉は、そこで産声をあげた。一八七二年(明治五)の旧暦三月二十五日のことである。
 父則義が仕えた新政府は、ちょうどこの年の十二月三日に暦法を太陽暦へと切り替えている。一葉の誕生日を新暦に換算すれば五月二日にあたる。
 官吏を辞めて事業に失敗した父が死んだのは一八八九年(明治二十二)。一葉が数えて十八歳のときで、残された母と妹との生活は戸主を相続した一葉の肩にのしかかってゆく。
 そのうえ家を存続させるために婿をむかえなければならない立場になる。しかし、困窮の坂を下りはじめた樋口家に、わざわざ婿入りする有意の男もいなかった。
 着物の洗い張りや針仕事などの手内職では経済的にしだいに零落していくばかりである。一葉は小説を書いて売る職業作家・売文家の道を志すが、それもなかなかうまくはいかない。
 “糊口的文学”――と一葉は日記に書きとめている。口を糊するための文学、生活の糧を得るため意にそまない小説を生産する売文業にしたがうことを一葉はいさぎよしとしなかった。
 出版社・編集者からの原稿依頼は、もちろん嬉しい。だが、注文は創作の内容に立ちいってくる。多くの読者にうける、通俗を狙った小説を、という注文には応じられなかった。
 才能を別にすれば、このへんが一葉のすごさをあらわす一面だろう。書いたものが金になればいいとばかり念じているぼくのような俗物には、ひたすら耳の痛い話だ。
 一葉の一家が龍泉寺町三百六十八番地、現在の竜泉三丁目十五番地二号に引っ越してきたのは、一八九三年(明治二十六)の七月のこと。それから十ヶ月ほどの短い期間ではあったが、“間口二間、奥行六間斗[ばかり]”のこの小さな家で小間物や駄菓子などを商う店を開いている。
 “店は六畳にて五畳と三畳の座敷あり。向きも南と北にして都合わるからず見ゆ。三円の敷金にて月一円五十銭といふに、いさゝかなれども庭もあり。其家のにはあらねど、うらに木立どものいと多かるもよし。”
 『塵之中[ちりのなか]』と名づけた日記に一葉は記している。借家を探して歩きまわった日である。
 この年十一月八日の日記にはこうある。
 “今日は初酉也とて、例[いつも]の通り市どもたつ。日ぐれ前、少し人の出はげしかるべき頃より、雨ふり出づ。周章狼狽といふの外なし。おもはぬ儲[もうけ]は、馬車、人力、飲食店、かさやなど也。”
 二十日、“二の酉のにぎはひは、此近年おぼえぬ景気”だったらしく、熊手、粟餅の一種の黄金餅[かねもち]、大がしらをはじめとする縁起ものを売る店で売り切れにならないところはなく、十二時をまわると露店さえ少なくなった。“廓内[なか]のにぎわひ推して知るべし”と一葉は書いている。
 酉の市の立つ日は一葉の荒物兼駄菓子屋も少しは忙しかった。しかし商いの神さまのお膝元にもかかわらず、結局は武士の商法の域を超えることはなかったのだろう。妹も老いた母も、一分一厘というわずかな利を重ねなければ成り立たない小商いに疲れていた。
 翌年には店を畳み、本郷の丸山福山町四番地、現在の住居表示でいえば文京区西片一丁目十七番地十七号に移り住む。ここで龍泉寺町の見聞をもとに書きつづった作品が、一葉の名を不朽にした『たけくらべ』だった。
 雑誌「文学界」に一八九五年(明治二十八)から一年間にわたって断続的に発表されたこの小説のタイトルは、『伊勢物語』第二十三段にあるふたつの歌からとられているらしい。

  筒井つの井筒にかけしまろがたけ
    過ぎにけらしな妹[いも]見ざるまに

  くらべこしふりわけ髪も肩過ぎぬ
    君ならずして誰かあぐべき
 
 男が幼なじみの女に、“むかし井筒で計ったわたしの背丈も、あなたと会わないでいるうちに井筒よりも高くなってしまった”と歌を贈った。井筒とは井戸の囲いのことである。
 すると女は、“あなたとその長さを比べてきた振り分け髪も肩より長くなってしまいました。あなたでなくて、だれがこの髪を結いあげましょう”と返す。
 振り分け髪を結いあげるのは女性の成人の儀式で、結婚を前提としていた。だから、“あなたでなくて、だれがこの髪を結いあげましょう”というのは、女が男と結婚したいという意志をほのめかしたことにほかならない。
 男と女は希望どおり、めでたく結婚する。ところがその後、家計の苦しさに端を発したあれやこれやがあって、女は路傍で朽ち果てるという哀れな末路をたどる。
 『たけくらべ』に登場する大黒屋の美登利と龍華寺の信如との幼く淡い恋は、大人たちの打算のために最初から実りようがなかった。親の跡を継ぐために墨染めの衣を着る身となる信如と、姉の跡を継いで娼妓になるしか選択の道のない美登利。
 小説のクライマックスは三の酉にあたる。
 “此年三の酉までありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑わひすさまじ”い日、初潮をむかえて髷を島田に結った美登利は思う。
 “成る事ならば薄暗き部屋のうちに誰れとて言葉をかけもせず我が顔ながむる者なしに一人気まゝの朝夕を経たや。さらば此様の憂き事ありとも人目つゝましからずば斯[か]く迄物は思ふまじ。何時までも何時までも人形と紙雛[あね]様とを相手に飯事[ままごと]ばかりして居たらばさぞかし嬉しき事ならんを、えゝ厭々、大人に成るは厭な事”
 そのはかない初恋を雅俗折衷体のなかに見事に定着した樋口一葉は、封建的な家制度の重圧や貧困、他人を傷つけ、みずからの人間性をも破壊する度を超した打算、みにくい功利主義を激しく憎んでいた。
 たしかに自分も金銭を得ようと必死にあがいた。しかしそれは女三人の一家を困窮から救うための当然の営為だった。その労苦に一葉はついに耐えることができなかった。過労にさらされた身体を結核がむしばんでいく。

 満たされない思いをいだきながらそうそうに鷲神社をあとにしたぼくは、その足で一葉の住まいのあったところを訪ねた。いま、台東区竜泉三丁目十八番地四号に位置する旧居跡には歩道に碑が建っているばかりだが、その近くに一葉記念館や一葉公園がある。
 記念館は、いつ来ても心のやすらぎを覚える。広くはないけれど、人が少なく静かだ。ゆっくり展示品を眺めるともなく眺めながら、浅草駅から歩きづめの足を休めた。

  一葉忌ある年酉にあたりけり

 久保田万太郎には、こんな句もある。“欲深さま”とも呼ばれるお酉さまは、ことしもおおいに賑わうにちがいない。その喧噪もしかし、ここまでは届かないような気がする。
 一葉忌は十一月二十三日。勤労感謝の日になっているのはなんとも皮肉のようだけれど、日本最初の職業女流作家とも形容される樋口一葉は、貧窮と過労と勤労のすえに一八九六年(明治二十九)のこの日、肺結核で死んだ。享年は数えの二十五歳、満で二十四歳。独身だった。恋愛は経験してもプラトニックの域を越えることはなかったかもしれない。
 死の数日まえに、滋賀県彦根中学に赴任していた「文学界」同人の馬場孤蝶が丸山福山町の家に一葉を見舞った。
 「この歳の暮れにまた帰ってきますから、そのときお目にかかりましょう」
 すると一葉は、呻くような苦しげな声で途切れとぎれに言ったという。
 「その時分には、なにに私はなっていましょう。石にでもなっていましょうか」
 墓は杉並区和泉の本願寺にある。


■ 七五三と三五七                        十一月


 “七五三”と書いてシチ・ゴ・サンと読む。
 「あたりまえだ、馬鹿にするな」と人はだれしも怒るだろう。
 では、“七五三縄”はなんと読むか。
 そう聞かれて即答できる人は、あまり多くないかもしれない。これは“しめなわ”と読む。
 “しめなわ”とは、ある目的をもって一定の場所を区切り、そこを占めるために張り渡す縄だから“占め縄”と書いたほうがよさそうなものだが、漢字ではふつう“注連縄”と書く。
 あまりみかけないけれど、“標縄”とも書く。
 さらに、左捻りの縄に七本・五本・三本の藁を垂れさげるところから“七五三縄”などという当て字も使われるのである。
 なぜ七本・五本・三本なのかといえば、これらの奇数は割りきれないから縁起がいい、という一点に尽きるらしい。

 逸話をひとつ紹介したい。
 一八四三年(天保十四)の旧暦一月十四日、新暦では二月十二日のこと、江戸は一ツ橋門外にあった上野国(現在の群馬県)安中藩邸に、ひとりの男の子が生まれた。女の子ばかり何人もつづいたあとの待望の男児だったので、お祖父さんは、思わず「しめた!」と叫んだ。
 しかも翌十五日、縁起をかついだお祖父さんは、そのまま赤ちゃんに“七五三太[しめた]”と命名してしまったという。
 まだお正月の注連縄が張ってあるうちに生まれたからという命名説もあるが、この子がだれあろう、のち京都に同志社英学校、現在の同志社大学を創立することになる新島襄である。
 新島は鎖国令下の幕末に国禁をおかしてアメリカに渡り、滞在すること十年。帰国したのが一八七四年(明治七)十一月二十六日。
 翌一八七五年一月、三十三歳を期して、渡米の船中や在米中の愛称だったジョーにちなみ名を襄と改めている。
 同志社を創立したのが、この年の十一月二十九日。死んだのは一八九〇年(明治二十三)二月二十三日だから、キリスト教精神に基づく良心主義教育を広めるという事業途上での死だった。享年四十八。

 十一月十五日は七五三である。
 七五三のお祝いをシメのお祝いと読む人はいないだろう。
 ところが、浮世絵師四世広重を名のった菊池貴一郎の『絵本江戸風俗往来』(一九六五年・平凡社東洋文庫)をのぞいてみて驚いた。この本に七五三の項目があって、編者の鈴木棠三[とうぞう]が興味ぶかい解説をつけている。
 “七五三の祝を、しめの祝と呼んだとの説があるが、その用例を見ない。”
 “用例を見ない”とはいえ、シメの祝いと呼んだ人もいないことはなかったようだ。
 いまは満年齢でおこなわれるけれども、かつては数えで男三歳と五歳、女三歳と七歳の祝いの日だった。三歳になって髪を伸ばしはじめる髪置き、五歳のときに袴をはく袴着、七歳で紐つきの着物にかえて帯を締める紐解きの儀式など、いくつか古来の通過儀礼がまとめられて七五三の儀になったといわれる。
 この七五三の儀式も、七五三縄と同じ数字の縁起かつぎに基づいているような気がするのだが、なぜ十一月十五日におこなうのだろうか。
 その起源については諸説ある。この日は陰陽道で鬼宿[きしゆく]といって万事に吉の日だから、また霜月祭という稲の収穫祭にあたるからなどといわれる。
 ぼくの俗耳にいちばんしっくり響くのは以上のどちらでもない。なぜ十一月かはさておき、なぜ十五日かというなら、七・五・三を足すと十五になるからという説……
 元服の十五歳という数字も案外こんなたわいもない数字の縁起かつぎから出ているのではないだろうか。
 冗談はほどほどにしよう、旧暦の十一月十五日に七五三の祝いをするようになったのは、あまり古い時代ではない。それも武家社会の風習に過ぎなかった。
 有力な起源説のひとつに、三代将軍徳川家光が、わが子徳松の五歳の祝いを慶安三年(一六五〇年)のこの日におこなったからという説がある。
 この徳松というのは、のちに生類憐れみの令で犬公方の悪名を馳せる五代将軍綱吉である。
 祝いの儀がどんな内容だったかはよくわからない。
 『絵本江戸風俗往来』にも、
 “将軍家より諸大名衆、或いは高家[こうけ]の方々に至りては、旧式の御家法の次第ありて、この編つくす限りにはあらず。”
 と詳しくは書かれていない。
 では、ふつうの武士階級ではどうだったか。新渡戸稲造の『武士道』(岩波文庫)のなかに、こんな一節がある。
 “武士の少年は幼年のときからこれ(刀)を用いることを学んだ。五歳のとき武士の服装一式を着けて碁盤の上に立たせられ、これまで玩[もてあそ]んでいた玩具の小刀の代わりに真物[ほんもの]の刀を腰に挿すことにより初めて武士の資格を認められるのは、彼にとりて重要なる機会だった。”
 碁盤の上に立つのは勝負に勝つようにという意味があるようだ。
 『絵本江戸風俗往来』は武士階級の当日の出で立ちについて、こう描写している。
 “旗本衆の幼君は麻上下に振り袖の衣紋を整え、馬上に打ち立ちたる姿は愛すべく、馬前に立つ馬丁は浅黄地に白く主人の印染め抜きし法被に、同色の股引・白足袋をはき、(中略)馬脇に扈従する二人の侍も、今日を晴れと袴の股立ち高く取りたる様いよいよ勇ましく、当代江戸の風俗を示して名物というべし。”
 “馬上に打ち立ち”というのは言葉どおりなのだろうかという気がしないでもないが、これも勝負に勝つようにという意味がこめられているのかもしれない。
 同書によれば、町家にいたっては男子・女子ともに粋と優美をつくした着飾りようで、乳母や守り、使用人、出入りの職人までうちそろって氏神へ参詣したものだという。
 『絵本江戸風俗往来』は一八五〇年前後から、ということは江戸時代の後期も幕末にさしかかるころの江戸の風俗を伝えているのだから、このころには七五三という言葉ができていたと考えていいのだろう。
 しかし、たとえば山本健吉の『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫)などに徴しても、季語としての七五三という言葉はみあたらない。
 七五三と呼ぶようになったのは“明治以後のこと”とする『故事名言・由来・ことわざ総解説』(自由国民社)のような説さえある。明治になってからでも、たとえば夏目漱石がこの言葉を使ったという例はみつけることができない。
 そういったことなどを勘案すると、この言葉と儀式が一般庶民のあいだにまで浸透しはじめたのは、あまり古い話ではない。さかのぼっても、せいぜい維新の騒動が一段落ついたころと考えたほうがいいようだ。
 盛んになったのは一九一〇年代以後とされる。
 太平洋戦争後は、とくに商魂旺盛なデパートなどの宣伝にあおられ、親も見栄をはって子どもを飾るようになったようだ。悪しき風潮である。
 富安風生の句にいわく――

  行きずりのよそのよき子の七五三

 現在は、十五日にこだわる人は少なく、前後の土曜・日曜などに宮参りをしているようだ。子どもに晴れ着を着せ、お母さんも負けずに着飾り、お父さんは普段着という一行をよく目にする。
 シャナリシャナリと形容できればまだいいほうで、晴れ着を着慣れず、なんとない気恥ずかしさも手伝ってか、ゾロリゾロリという感じで歩いているのはみっともない。
 ともかく一行は近くの神社に詣で、これまでの無事を感謝し、今後の無病息災を祈る。神主さんにお祓いをしてもらう家族もあるが、記念写真やビデオを撮るだけですませてもいい、というのが現行のオーソドックスなスタイルだろう。
 ふと考えてみると、ぼくには七五三を祝ってもらった記憶がない。かたわらにいる女性に聞くと、彼女もそうらしい。そのふたりのあいだに子どもが産まれ、いまや三歳の女の子と五歳の男の子である。身近にふたりも七五三関係者がいるわけだ。

 ところで、七五三ではなく、三五七説というのをご存じだろうか。結婚してから三年目・五年目・七年目が夫婦の危機に瀕する年だというのである。
 三・五・七という年数は子どもの慶賀すべき成長の節目である。と同時にといおうか、反比例してといおうか、夫婦のあいだにとっては芳しからぬ年数らしい。
 考えてみると結婚して三年もたてばイマジネーションで精いっぱい膨らましてきた互いの感情が現実によって地にひきずりおろされる。アバタもエクボの欠点も互いに鼻につきはじめる。
 五年もたつと泥沼のような倦怠感が忍び寄る。
 七年目ともなれば、男・女にかかわりなくどんな堅物でも浮気のひとつやふたつは経験済み、といってはもちろん言い過ぎになるけれど、「七年目の浮気」などというタイトルの映画もあった。
 子どもの成長にも一段落がつき、家庭内別居や浮気・不倫の果ての離婚という選択肢も含め、自分の人生や家庭の在り方の再設計を模索しはじめるというのが多くの夫婦ではないだろうか。
 とすれば、七五三の年というのは、夫婦がそれぞれみずからの気持ちを引き締めるべき節目の年と受けとったほうがいいかもしれない。


■ 危うきに遊ぶ                         十二月


  雪のふぐ豈[あに]一命を惜しまんや

 よく知られた川柳だ。江戸っ子はいかにも勇ましい。
 ことわざには“河豚は食いたし命は惜しし”とあって、こちらはじれったい。

  河豚知らず四十九年のひが事よ

 と嘆いている俳句もある。江戸時代なかば、蕪村に師事した黒柳召波という俳人の句で、毒が怖いばかりに五十になんなんとする歳まで河豚を口にせず、その味を知らなかった、なんと愚かなことだったか、というのだ。
 つぎの小林一茶の句もこれと同工異曲だが、坦々としているぶん、含蓄に富んでいるような気がする。

  五十にてふくとの味を知る夜かな

 “ふくと”が河豚をさす。
 河豚をめぐっての悲喜こもごも――これは、ひとつの文化といっていい。その奥深さの一端に触れてみたいというのが、ふたたび河豚をとりあげるゆえんである。
 まえに書いた「毒のない河豚」でも、この文章でもそうだけれど、“河豚”と書いて“フグ”と読ませている。和名は“フク”と濁らず、古くは“布久”と漢字をあてたようだ。関東以北でフグと濁るのは、近世に江戸を中心として盛んに食べられるようになってからだといわれる。
 “フクベ(布久閉)”ともいい、これは怒ってふくれた形がウリ科のフクベ、つまり瓢箪にも似ているところからの命名だといわれる。
 一茶の句にあるように“フクト”ともいい、濁って“フグト”、語尾が伸びて“フクトウ”などともいう。トやトウというのは、魚をさして“おトト”という幼児語に由来するものだろうか。この場合は“河豚魚”と漢字をあてる。
 ほかにもフグをあらわすのに“鰒”や“〓”(魚偏に屯。パソコン辞書に漢字なし)と書いたりする。
 いまは河豚と書くのが一般的な漢字表記だろう。
 そう思って机の上にたまたま載っていた三省堂の『新明解国語辞典』(第四版)を引いてみた。すると、意外にも見出し語に“〓”(魚偏に台)という漢字がかかげられている。正直にいうと、この漢字はいままで見た記憶がない。
 語義の説明は飛ばして『新明解国語辞典』から用字法の引用をつづけたいと思うのだけれど、パソコンではスムーズに漢字が出てくるかどうか。あえて試みれば――
 “古くは「〓」(魚偏に侯)「☆」とも書いた。江戸時代以降は、「鰒」「河豚」”
 記号で代用した「☆」には、ややこしい説明になるが魚偏に頤の旁をつけた漢字が入る。この臣に似た字はオトガイ・アゴと読み、頤の古字である。「〓」(魚偏に侯)と「☆」は、手持ちの数種の漢和辞典を総あたりにあたり、これ以上大きな漢和辞書はわが家にないという大修館書店『廣漢和辞典』にいたって、はじめて発見できた。
 悪戦苦闘のすえにこれらの漢字を確認した感慨は、
 「う〜ん、やはり河豚は奥が深い!」
 しかし普通、たとえば『岩波国語辞典』などがあっさり河豚という漢字しかかかげていないのに対し、なぜ『新明解国語辞典』は一般人がまずお目にかかったこともないような難解な漢字をかかげているのだろう?
 たしか『新解さんの謎』といったタイトルの本も出まわっているはずだけれど(後註――赤瀬川原平著、文藝春秋刊)、これまた新たな謎の出現である。『新明解』も奥が深いというべきだろう。
 つづいて『新明解』に、“江戸時代以降は、「鰒」「河豚」”と書いたとある。“鰒”は、ふっくらとふくれた魚の意。では一般的な表記と思われる“河豚”は、なぜ河の豚と書くのか。
 この河豚という用字は中国から伝来したという。中国で豚の字が示すのは、日本で猪と表記しているイノシシのこと。だから、河豚と書くのは野生のイノシシを家畜化した豚のように美味だからだ、とされる。怒ると豚のようにまるまるふくれるから、あるいは敵に出会うとブーブー鳴いて威嚇するからともいわれるが、豚のように美味だからという説を、ぼくはとりたい。
 つぎに“河豚”の“河”の字について。日本でフグは海でとれる。ところが中国大陸では黄河で多くとれる。そこで、河の字が使われたらしい。
 黄河は全長約五四六〇キロにおよぶ。正式には長江と呼ばれる揚子江は全長約六三〇〇キロ。黄河は揚子江につぐ中国第二の大河で、江河といえば揚子江と黄河をさす。
 河豚はフグ。
 では江豚はいるか。
江豚もいる。しゃれではないが、イルカだ。揚子江には淡水産のイルカが棲息し、これを江豚と表記する。
 日本でイルカは“海豚”と書く。なんともややこしい。
 複雑な話は嫌いだからこれ以上深入りはしない。ただ気になるのはイルカにも豚の字が用いられている点である。河豚もうまいのだから江豚・海豚も当然うまいはずだ。
 あの愛らしいイルカを食べるなんて言語道断な話だと思われるだろう。しかし、考えてみればイルカはクジラの仲間で、かつては盛んにイルカ漁がおこなわれていた。商業捕鯨が規制された現在でも、鯨肉として売られているもののなかに、このイルカの肉がまじっているという話はしばしば耳にする。
 閑話休題、

  鉄砲をおそれて一人茶づけめし

 という川柳がある。ここでいう“鉄砲”が河豚の謂いで、みんながうまそうに河豚鍋でも囲んでいるのに、ひとり毒あたりを恐れてお茶漬けをかきこんでいる場面をとりあげている。
 鉄砲の弾にあたる、命を落とす。河豚の毒にあたる、これも命取り。そんな単純な連想からついた河豚の異称の鉄砲は“テツ”と略され、河豚鍋を“テッチリ”、刺身を“テッサ”などと割烹で呼ぶ。
 鉄砲の弾が体にあたることを“命中”という。医療が発達していない昔は、ほとんどの場合、致命傷となって命を落とした。的にあたれば“的中”である。この“中”は“アタル”と訓読みする。だから“中毒”とは、まさに毒にあたることだ。いま漢字を使うと毒に“当たる”と書く人が圧倒的に多いけれど、毒に“中たる”と書くのが本来の用字かもしれない。
 おもしろいことに、千葉県の銚子地方では河豚を“トミ”と呼ぶという。これは富籤、つまり宝くじのことだ。あたるあたるといわれながら滅多にあたりはしないという含意らしい。
 べつに銚子あたりに昔から毒のない河豚が数多く棲息していたわけではない。有毒の河豚も目や皮や内臓――とくに肝臓や卵巣など毒のある部位をていねいにとりのぞき、無毒の肉や白子(精巣)をよく水洗いして適切に調理すれば、そうそうあたるものではないという意味だ。
 しかし、河豚と総称される魚には種類も多いから注意を要する。日本近海産で二十七種から三十種。世界中では、およそ百種ともいわれる。その種類によって毒のある部位や、毒の強弱が違ったりするからコトは面倒で、まず種類の特定が必要になる。外国産魚介類の輸入や外国船からの洋上買い取りが多いこんにち、河豚の鑑別にはかつて以上の専門的な目が必須とされている。
 たとえば鯖河豚という一種がある。これは無毒。ところがいっぽう、毒鯖河豚という種類もあり、こちらはふつうの河豚には毒がないとされる肉にも猛毒がある。無毒の鯖河豚とはまったく逆に危険きわまりない。ベトナムから台湾にかけての東シナ海に棲息し、外見上、鯖河豚と見分けをつけるのはむずかしい。
 図鑑でこの二種が並んでいるのをみたら“容易に見分けられる”などと書いてある。ところが、どんなにまじまじと見ても実にソックリで、素人目には見分けることなどできはしない。
 要は、鑑別も調理も専門家に一任し、ぼくらは美味を満喫するに徹すること。
 しかし専門家に任せても事故は起きる。そんな不幸な例のひとつに、歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎の中毒死がある。
 食通として聞こえた人だったらしいが、一九七五年(昭和五十)一月十六日、贔屓の人たちと京都の料亭で河豚を食べて死んだ。一九〇六年(明治三十九)生まれだから享年六十九。
 日ごろの口癖が、
 「おれは江戸っ子だ。江戸っ子にゃ、河豚の毒もかないっこねえ」
 食べるも遊ぶも芸のこやし。この日も「河豚の毒なんか」とうそぶきながら食べたものにちがいない、四人前の肝をである。危うきに遊んだ、という感が深い。
 芭蕉にも河豚の句がいくつかある。そのなかの三句を並べてみよう。最初の句は芭蕉作と誤り伝えられた無名氏の吟だとの野暮な説があるけれども、ここではあえて無視する。そのほうがおもしろい。
 はじめのうちこそ、

  ふく汁や鯛もあるのに無分別

 などと分別を説いていた芭蕉。ところが、

  あら何ともなや昨日は過ぎてふくと汁

 と、ひとたび味をしめ、毒への恐怖が薄れてしまえば、あとはもう――

  ふく汁や阿呆になりとならばなれ

 俳聖芭蕉も、けっきょく河豚の虜になった。河豚にあたって死にこそしなかったものの“阿呆”になった。
 その三昧境には、“雪のふぐ豈一命を惜しまんや”という危うい一線が常に存在していたのである。


■ 風狂の雪見                          十二月


  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 雪だよりを聞く季節になると、きまって三好達治の「雪」という短詩を思いだす。子どものころ、教科書で出会って以来、心のなかに住みついてしまった。
 いま、手元にある岩波文庫の『三好達治詩集』で調べてみると、一九三〇年(昭和五)十二月に第一書房から出版された処女詩集『測量船』に収められている。
 深沈とした冬の夜、子どもたちがみな深い眠りにおちいる地上に小止みなく舞いおりては降りつんでゆく雪――。
 雪を、あるいは雪国をうたって、これほど鮮やかなイメージを喚起する詩も少ない。
 三好達治は大阪の生まれだが、この詩の印象から雪国出身の人という思いこみをいだいていた時期があった。
 ぼくの生まれ育った東北岩手には雪国のイメージも強い。ただ、内陸や山間部と異なり、太平洋に面する地域で雪は少ない。雪より北風が厳しく、おとなも子どもも寒風にほっぺたを真っかにしていた。それでもたまに三〇センチ、五〇センチの積雪にみまわれることはある。
 小学二、三年のころだったか。クリスマスに近いある夜、不思議な静けさに外をうかがうと、いつのまにやら空いっぱいに牡丹雪が舞い、地上は真っ白になっている。
 ただでさえ田舎町の冬の夜は更けるのが早い。雪の降りつむなか、人通りは絶え、車も走っていない。親の目を盗んで家を抜けだしたぼくは、路上でひとり雪とたわむれた。
 そのあいだにも、みるみる雪は積もってゆく。深雪に身を投げだし、ふと見上げると、街灯に照らしだされた空間を埋めつくすかのように、真っ白な雪が際限もなくあらわれては落ちてくる。無限という感覚を身をもって感じたのは、このときが生まれてはじめてだった。
 牡丹雪は積もるのは早いけれど時をかけて降りつづけることは少ないから、深夜には降りやんだのだろう。そのときぼくはすでに屋根の下で“太郎”や“次郎”とともに深い眠りに落ちていたはずである。

 先日、ひさびさに向島の長命寺を訪ねた。春に桜餅を求めていった老舗“やまもと”は、若き正岡子規が一夏を過ごした月光楼のあったところ。すぐ裏手に長命寺はあり、その境内には芭蕉の雪見の句を刻んだ石碑が建っている。
いってみると、打ち捨てられたように、なかば近くまで、雪ではなく土に埋もれている。

  いざさらば雪見にころぶ所迄

 花見や月見の名所として知られる向島一帯は、雪見の名所でもあったという。豪雪地に住む人たちからは「なにを呑気な」とおこられそうな話ではあるけれど、雪の少ない江戸では、わざわざ雪見をしゃれこむ風流な人間も少なくはなかったのである。
 ただし断わっておけば、この句は一六八七年(貞享四)の旧暦十二月、名古屋で詠んだもの。その句碑が向島にある理由は知らない。芭蕉は向島に何度も雪見におもむいたはずだから、その縁で句碑が建てられたのかもしれない。
 そういう事情はさておき、雪見にころぶ句をつくったとき芭蕉翁四十四歳。人生五十年といわれた時代なら、四十を過ぎればすでに老境に入っていたといってさしつかえない。花見、月見ならばともかく、真冬の隅田川の凍てつく川風に吹きさらされながら雪野原を転げまわる歳でもあるまいに、と人はいうだろう。
 たとえば、こんな川柳がある。

  この雪に馬鹿ものどもの夢の跡

 いうまでもなく、芭蕉の“夏草や兵[つわもの]どもが夢の跡”を踏まえたパロディーだ。痛烈ではあるけれど、まったく皮相な一面も露呈している。その底の浅さは川柳の限界であるとともに、いっぽうで、だれもが愉しめる単純なおもしろさを生みだしているといってもいい。

  ころぶ人を笑うてころぶ雪見かな

 これは川柳ではなく、加賀千代女の俳句。“朝顔につるべとられて貰ひ水”の句で知られる千代女は江戸中期に活躍した女流俳人で、一時期、芭蕉と並ぶほどの人気さえ博したといわれる。しかし、その人気は、あくまでも一般受けをする句をつくったからにすぎず、芭蕉と比較すれば、はるかに通俗的な俳人だったという評価がくだされているようだ。
 “ころぶ人を笑うてころぶ雪見かな”という句もまた高い評価は受けていない。たしかに、途中までは芭蕉をひやかしたような趣きが感じられ、“この雪に馬鹿ものどもの夢の跡”などの川柳とほとんど変わるところはないようにも受けとれる。
 ただ、“ころぶ人”を笑った自分もまた雪のなかで転んでいるという状況を詠っている点は見逃せない。自分も雪見にでかけている。そして、ひとが転ぶのを見ては笑い、自分も転んではまた笑う。そういう童心にかえった雪見の愉しさ。そんな心境と情景をうたって客観的な俳諧味をおびた佳句になっている。川柳にはみられなかった深みが感じられるとぼくは思うのだが、どうだろう。
 俳聖芭蕉には、つぎのような句もある。

  初雪やさいわひ庵にまかりある

 隅田川と小名木川とが交わるほとり、深川の芭蕉庵で詠んだもので、ときに四十三歳。こんな意味の前書きがついている。
 “わが草庵から初雪の景色をみたいものと思い、用事で外出していても空が曇ってくると、急いで帰ってくることが幾度となくあった。そのたびに裏切られていたが、師走の十八日、たまたま草庵にいたときに初雪が降ってきたのでうれしくなって――”
 現代のように、ぬくぬくと暖かい部屋から窓ガラス越しに雪を愛でようというのではない。火の気もとぼしい粗末なつくりの庵で、戸障子をあけはなって隅田川に降りしきる初雪を愉しもうというのだ。しかも俗事をなげうって、というのだから風流もきわまっている。
 “風狂的な生活態度の句”と『芭蕉三百句』(河出文庫)のなかで山本健吉は書いている。解説するまでもない常套語なのか、“風狂”という言葉の説明はない。辞書をみると、風流のきわみ、風雅に徹することと説明されているものの、これでも俗物のぼくには実のところよくわからない。
 が、社会に在る人としてやらなければならない俗事のなにもかもを打ち捨て、たとえば芭蕉のように雪見に興じる――そういう童心にかえった無邪気さの謂いと受けとれば、あまり的はずれではないかもしれない。
 もちろん童心や無邪気といっても幼児そのままの単純な童心、赤ん坊のような金無垢の無邪気ではありえないだろう。風流や酔狂という、軽く、自己陶酔のにおいを発する嫌みな姿勢とも次元を異にする。
 まわりの人間たちの目や一般常識、習慣、生活上の雑用、食うための仕事、成し遂げた立身、果たされざる栄達などといった人生のモロモロ、あれやこれやを通過し、さまざまな曲折を経、味わいつくしたうえでの境地だ。
 芭蕉は風狂の人である。
 風狂とは芭蕉みずからが目指した芸術家としての理想の在り方であり、俗物を名乗るぼくなどには及びもつかない境地なのだが、いっぽうで、俗物であればこそ風狂という未知の世界に憧れをいだいてしまうという矛盾もありうるのだ。
 “俗”の反対語は“聖”になるか。芭蕉は風狂の人であるとともに“俳聖”とも呼ばれる。しかし、聖とはなにか、風狂とはなにかと考えはじめると非常にむずかしい。いや、そのまえに、そもそも俗とはなんなのか。
 ここで、俗物と、その対極に位置するだろう風狂の特質について思いつくままに列挙し、混乱した頭のなかを少しでも整理しておこうと思う。
●俗物
 偽善的で見栄っ張り、世間体を気にする。
 名声に憧れる。
 ときに流行を鼻で笑ったりするが、じつは流行が気になってしかたがない。
 隙あらばつけこもう、いい目をみようとあたりをうかがう卑しさ、助平根性に満ちている。
 身過ぎ世過ぎに汲々とし、自分の立身出世・栄達のために経済力のある者、権力の強い者、立場や地位が高い者に阿諛し追従し、逆に力が弱く地位の低い者に対しては居丈高に威張りちらす狡猾さを有する。
 体制的であり、その体制のさまざまなしがらみに拘束されているから本質的に不自由人である。
 ――こう並べてみると、これはまさにぼくの自画像ではないか!
●風狂
 まず自分を主とし、世間体や一般常識を従とする。
 社会の規範に縛られることが少ないから本質的に自由である。
 自由の代償として世俗的な実利を捨てなければならない。
 つまり脱俗・出世間である。
 逆に体制側の人間からは単なる世捨て人にみなされる。
 その自由性のもっているエネルギーがさらなる自由を希求すれば、どうなるか。
 ひとつは、政治的な方向に進み、革命運動の真の闘士になる可能性がある。ただし、政治をも一般的生活や世間常識の一部とみなすなら、この道は閉ざされる。
 もうひとつは、芸術的な道に進み、既製の芸術を打破するすぐれた芸術家になる可能性がある。もちろん才能と努力とがあっての話だが……

 芭蕉は宗匠という職業的立場を捨てて草庵に隠遁した。それはすべて俳諧という芸術にわが身を捧げるためだった。生活のための芸術ではなく、芸術のために生活することで、芸術上の革命者になった。生活という実事を軽く見はしなかったけれど、芸術という虚事を優先し、虚事のために実事があって実事のために虚事があるのではないと考えた。
 その姿勢は決して風流・風雅を気どる安易なポーズではありえない。ポーズとしての風流・風雅はわずかに既製の芸術を補完するだけである。
 芭蕉が目指したのは単なる風流・風雅を抜けだした芸術家としての理想郷であり、その風狂の境地でさえ、安住するならば創造的エネルギーが失われるという原則を知っていたのである。つねに現状に埋没せず、精神の緊張状態を維持しようとする強い意志と果敢な行動性をもち、同時に孤独に堪える精神、透徹した観察眼、豊かな感受性と鋭い表現力をもっていた。
 芭蕉の雪見の風狂性には、あえて理屈をつけるとすればそんな裏づけがあったのだとぼくは推測するけれども、その当否はともかく、やはり風狂という境地は単なる憧れだけでは近づくことのできない聖域であるようだ。ヘタに近づけばヤケドする。自分の首を絞めかねない。川柳子もいっているではないか。

  雪見には馬鹿と気のつく所まで

 雪見にでかけ、途中で寒さに凍えて、
 「風流を気どったおれが馬鹿だった」
 と憮然として引きかえすのが俗物である。とても雪野原で転げまわって遊ぶ稚気など、もちえない。
 俗物のぼくは引きかえす。しかし、一度どこかで立ちどまって雪原を振りかえるだろう。立ちどまらせるのは風狂に対する憧憬である。風狂は、俗の彼岸にある。憧憬だけでは接近することはできない。そこに近づくには行動しかない。引きかえすのも行動だが、はるかにやさしい。どちらの行動を選択すべきか。
 その決断をまえに、ぼくは途方に暮れる。
 寒さに震えて立ち尽くしながら、雪の降り積む屋根の下で眠る“太郎”や“次郎”の幸福な眠りを懐かしんでいる。


■ 乱と治の門松                          一月


 新たな年をむかえる準備で師走は忙しい。
 書き入れ時でもある。クリスマスが終わるやいなや、デパートや商店街などではさっそく大きな門松を立てて派手に店頭を飾りつけ、客を呼びこむ。歳末商戦たけなわである。
 一般の家庭では鉄筋のマンションやアパート住まいが多くなり、お年寄りのいない核家族が増えたために門松をはじめとする松飾りを省略する家庭も多いいっぽう、いまだに門松を立てるのが昔からの恒例になっている家もある。
 そういう家では、どんなに遅くとも三十日までに飾り終えなければならない。江戸時代には二十八日が定日だったらしい。門松というのは新しい年の歳神をむかえる神聖な依りしろなのだから、どんづまりの大晦日になって飾るのではあわただしすぎ、歳神も寄りつかなくなってしまう。
 この門松にも材料や形式、飾る場所など、地方によっていろいろと違いがあるようだ。
 東京あたりの家庭では細い竹と松でつくった一対の松飾りを買って門や玄関にくくりつける。
 わが家では一対の――といいたいけれど、小さな、ミニチュアのような門松をひとつだけ、近くの神楽坂に出ていた臨時の露店で買い求め、玄関ドアのかたわらに据えた。ご愛敬である。

  松立てて空ほのぼのと明る門

 これは一八六七年(慶応三)旧暦一月五日、松の内に生まれた夏目漱石の句。いまからもう九十年以上もまえの例になってしまうけれど、牛込区早稲田南町の漱石の家でも、簡素な正月を過ごすといいながら門松は飾っていた。一九〇九年(明治四十二)に雑誌の新年号に載った「私のお正月」という談話がある。
 “私の家庭には老人もなく、別にやかましく云うものもなく、私が祖先のようになって居ますから、無理に古きを追わねばならぬと云う事もありませんから、平素の生活が簡易である如く、正月も矢張り簡単で、頗る気楽であります。ですから、元旦だからとて、皆が手をついて、おめでとうというでもなく、只だ、屠蘇を飲み、雑煮を食って、新春を祝う位なものです。門松を立て注連[しめ]は玄関に飾るが、家の内には吊らさない。年賀の客は、多く若い人で、四角張った人は来ないから、別に来客に対する饗応とて、待ち受けの儀式もご馳走もない。そして、私は、廻礼もせず、賀状も出しません。又、遠方に遊ぶと云うでもありませんから、極[ごく]安閑[ひま]な正月をするのです。”
 長い引用になったけれど、これが掲載された談話のうち「気楽な正月」と小題された一節の全文。まさに天下泰平としかいいようのない正月をむかえた文豪の姿が彷彿される。

 ところで、漱石山房の門前を飾った門松とは、どんな門松だったのだろう。
 デパートや商店街、ビルや、ちょっとした屋敷などで据えつけるのは、三本の太い青竹のまわりに緑の松をそえて根もとを割木で巻き、その上から俵を巻いて荒縄で締めた堂々たる門松である。
 この大きな門松には、竹の先を三本とも斜めに切り落とされたものが多い。関東より南ではどうか知らないが、少なくとも関東以北ではそうで、漱石の門松も大きさはともかく、おそらく同じかたちをしていたにちがいない。
 それにしても、なぜ竹の先が斜めに切り落とされているのか。長いあいだ不思議に思っていた。
 まえに「七五三と三五七」の章でも紹介した菊池貴一郎の『絵本江戸風俗往来』(一九六五年・平凡社東洋文庫)という本には、「将軍家吉例門松御飾り」という興味ぶかい話が紹介されている。
 ぼくなりに砕いて紹介しておきたい。
 一五七二年(元亀三)十二月に遠州――いまの静岡県西部にある三方ヶ原の戦いで、徳川家康が武田信玄に敗れ浜松の居城へ逃げこんだ。
 武田勢は、なぜか勢いに乗って浜松城を攻め落とすことなく、近くに陣取ったまま新年をむかえた。
 このとき武田側から使者が新年の挨拶にひとつの句をもってきたという。おおらかな話だ。

  松枯れて竹たぐひなきあした哉

 松は徳川家の本姓である松平をさし、竹は武田をさしている。松平家は滅んで武田家のみが栄えゆく、よき年の始めであることよ、という意味だ。
 徳川方の智将酒井忠次は、この句に少しだけ手を加えて信玄のもとに送り返した。

  松枯れで武田首なきあした哉

 松は枯れずに武田信玄の首がとぶ、なんともめでたい元朝であることよ、と。
  まつかれて たけたぐひなき あしたかな
  まつかれで たけだくびなき あしたかな
 仮名で並べて書くとよくわかる。酒井忠次の返した句は、たんに濁点を加え、あるいは濁点の位置を変えただけのこと。澄むと濁るじゃ大違い、である。
 この機知に富んだ対応に、こんな智将がいるのでは迂闊に城攻めはできないと考えたのかどうか、やがて信玄は兵を引く。あげくに、そのあと病死してしまうのである。
 かたや、家康の武運はそれから開けて天下をとるにいたる。戦乱おさまり、江戸城のすべての門には毎年、先(首)を切り落とした三本の竹でこしらえた縁起のよい門松が飾られるようになったという。
 歴史をいろどるエピソードのひとつとして、おもしろい話だ。この徳川将軍家の風習が、やがて町民のあいだにひろまったのだろう。これでぼくの長年の疑問が氷解し、じつにうれしい。
 ただ、できすぎの感もぬぐいきれない。案の定、『絵本江戸風俗往来』の本文に添えられた解説を読み進むと、これはフィクションにすぎないと知らされてがっかりする。
 いま紹介した竹の先を切り落とした門松の由来譚は一五七三年(元亀四)の話。それ以前に、猪苗代兼載という連歌師が松田という侍のもとで “雪ふりて松たぐひなし朝[あした]哉”という句を詠んだら、書記役が“松だくびなき”と誤って書いてしまった。ふしぎなことに、そのあと松田という侍は実際に首無しになったという。
 この話は『多聞院日記』一五四一年(天文十)の記事に出ているそうで、“こういう話が東照公の軍記に採り入れられて、さもまことらしく語られたものではなかろうか”と編者の鈴木棠三[とうぞう]は解説しているのだ。
 『日本年中行事辞典』(角川書店)も鈴木棠三の手になる本だ。門松の項にあたってみると、“松枯れて竹たぐひなき旦[あした]かな”という句はすでに『多聞院日記』に室町時代後期の連歌師の柴屋軒宗長がつくった句として出ており、この由来譚はまったく信じがたい話だと否定されている。
 当の歌を詠んだという連歌師はちがっているが、家康にまつわる由来譚が否定されている事実にちがいはない。とすると、はたして竹の先が切り落とされた門松の由来はなんだろう――振り出しに舞いもどって、ぼくは頭をかかえこんでしまうのである。
 ただ、こういうことは言えるのではないか。つまり、史実の真偽にかかわらず、徳川家ではこの由来譚を喜んで受けいれ、年々代々にわたって竹の首を切り落としためでたい門松を麗々と飾りつづけたと――

 歴史には戦乱に明け暮れる年もあれば、駘蕩たる日々もある。江戸前期の俳人である斎藤徳元は、こう詠んでいる。

  春立つやにほんめでたき門の松

 立春は新暦だと二月四日前後になるが、旧暦では元日に前後して訪れる。第二句の“にほん”には“二本”の門松と“日本”とが掛けてある。信玄の首を斬りおとした竹という乱世の象徴は、門松に生まれかわって泰平日本の表徴と化した。
 しかし、さしもの徳川幕府も、わが世の春をとこしなえに謳歌しつづけることはできなかった。戊辰の役が起こったのは、一八六八年(慶応四)の旧暦一月三日のこと。大坂にいた将軍慶喜も江戸の庶民も、正月どころではなかっただろう。
 新たな乱世である。

 先日、久しぶりに永井荷風の『摘録 断腸亭日乗』(岩波文庫)をひっくりかえって読み直していた。すると、一九四一年(昭和十六)十二月三十日のところに、こんな句をみつけた。
 断わるまでもないが、この月の八日に太平洋戦争という大きな乱世が始まっている。

  門松も世をはばかりし小枝かな

 荷風が門松を立てたとは思えない。目に映った街の門松を詠んだのだろう。
 日中戦争から太平洋戦争へと日本は奈落の底へ向かって、ひたすら墜ちていく。世間の一部にまだささやかな門松を飾るだけの余地があったにせよ、生活必需品は統制されている。大晦日には恒例の、電車の終夜運転が突然中止された。除夜の鐘さえ鳴らなかった、と荷風の筆は坦々と伝える。
 明けて一九四二年(昭和十七)の元旦、特別郵便扱いの廃止もあって郵便受けに年賀状が一枚しかない。荷風は書く。
 “これまた戦乱のためなるか。恐るべし恐るべし”。
 その戦乱のなか、庶民はひたすら悪政に流され、迎合し、戦場や銃後で死んでいった。
 “人民の従順驚くべし悲しむべし”――

 以下、一九四五年(昭和二十)の東京大空襲へとつづく記事は『断腸亭日乗』の圧巻である。門松の話題からは離れてしまうけれど、あえて引用をつづけたい。表記を変えて読みやすくしたところがある点をお断わりしておく。
 一九四五年元日、“この夜空襲なし”。
 同年三月九日、“天気快晴。夜空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す”。
 “偏奇館”は荷風の住まいで、ペンキ塗りの洋館。麻布区市兵衛町一丁目六番地、現在の港区六本木一丁目六番地五号にあって、関東大震災には生き残ったものの空襲で焼けてしまった。
 “余は風の方向と火の手とを見計り、逃ぐべき路の方角をもやや知ることを得たれば、麻布の地を去るに臨み、二十六年住み馴れし偏奇館の焼け倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び(中略)歩み戻りぬ。(中略)
 余は五、六歩横町に進み入りしが、洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃え上がり黒煙風に巻き吹きつけきたるに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定めること能わず。ただ、火炎の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上、少なからぬ蔵書の一時に燃えるがためと知られたり。”
 冥土の旅の一里塚である門松は、軍国日本の滅亡への一里塚でもあった。


■ 去年今年[こぞことし]                     一月


  陽だまりの老いのふたりや去年今年

 季は新年。詠み人知らず、もしくはだれの句か忘れたと空とぼけたいような駄句。作者は吉田仁――。
 正月三日のうららかな陽光に誘われて飯田橋の外濠公園をぶらぶら散歩したとき、ふと浮かんできた。類句がありそうな凡作ではあるけれど、愛着がないこともない。
 陽のあたるベンチにご老人のカップルが腰を下ろしている。夫婦なのかもしれない。お濠を眺めながら、男の横顔からわずかな口の動きが暖かな光に浮かび上がっている。しわの深く刻まれた表情もやわらかい。
 近づいても話し声は聞こえてこない。ただ口が動いているだけというのもおかしいが、ふたりの周囲には暖かな沈黙がある。
 公園の舗道を行きつくしてもどってみると、同じ姿、同じ表情のままじっとしている。陽だまりのなか、そこにはたしかな存在感があった。去年もおととしも、ふたりは穏やかにベンチで光を浴びていたのかもしれない。そんな柄にもない思いをめぐらしてしまうほどの一種の雰囲気があった。

  去年今年貫く棒の如きもの

 高浜虚子のよく知られた句で、この句によって“去年今年”という季語が定着したといわれる。去年と今年とを貫いている“棒の如きもの”とはいったいなんであるか、解釈は人によってさまざまに異なるだろう。
 同じ季語を使った例でいえば、

  命継ぐ深息しては去年今年

 という石田波郷の句がある。ともに、身のひきしまるような感を受ける。
 年末年始は、どこにも出かけずに、わが家で過ごすことがほとんどだ。この民族大移動の時期に、あえて出かけるにはおよばない。帰省しないのは、わざわざ寒さに凍てつく東北へ帰る気がしないのである。わが家でのんびり本でも読んでいるほうがいい。去年今年貫く棒のごとき日常――
 わが家などといっても一軒家ではない。長屋に毛の生えたような中古[ちゆうぶる]で、要するにウサギ小屋だ。それでも“カサビエンナ”つまり“ウィーンの家”などともっともらしい名のつくところはご愛敬。
 ドアのまえに一対の門松を立てるスペースもなければ注連飾りを打ちつけられる木の柱もない。おもちゃのように小さな門松をひとつだけ立てたことは前に書いたけれど、それでも充分にお正月らしい感じがただよったのには驚いてしまった。
 諸国の掃き溜めの首都東京は盆と正月三ヶ日に落ち着き、静けさをとりもどす。人が多く、緑が少なく、異臭がただよい、物価が高い、そういう劣悪な環境のなかにいてホッと一息つくような時間が流れるのが盆と正月三ヶ日といっていい。
 元旦に届く年賀状は、正月らしさを味わわせてくれる数少ないもののひとつである。虚礼という声も聞こえる。ぼく自身、年賀状を書くことはほとんどない。かわりに、つれあいがせっせと書いている。それでも自分に宛てられた年賀状を手にするとうれしい。この矛盾――
 “去年今年貫く棒の如きもの”の句が添えられている年賀状をもらった。“陽だまりの老いのふたりや去年今年”という自作は、その影響で頭に浮かんだのだろう。

 ここで、ちょっと歴史をひもといてみよう。
 現在の年賀状のシステムが生まれたのは一八九九年(明治三十二)のことだという。この年、正式には年賀特別郵便という制度が敷かれた。十二月十五日から二十八日のあいだに投函すれば、元旦にまとめて配達してくれる、日本独特のものである。
 もっとも、当初は特定郵便局のみで、全国津々浦々の郵便局にこのシステムがゆきわたったのは一九〇五年(明治三十八)のこと。普及に六年かかっている。
 その後、太平洋戦争で一時廃止され、一九四八年(昭和二十三)に復活した。
 また、この制度によって年末に賀状を書く習慣が一般化した。それまでは正月二日の書き初めの日に書き、松の内に出すのがふつうだった。
 いまでもそういう習慣を守っている人は少数ながらいないことはない。だいたい、まだ大晦日もむかえていないうちに“明けまして云々”とはおもはゆい、という感覚がぼくにも残っている。
 一九四九年(昭和二十四)には、お年玉つき年賀葉書が発行されている。これが爆発的に売れ、現在ではほとんどの人がこの官製年賀葉書を使うようになった。
 おかげで封書の賀状など、いつのまにやら年賀特別郵便の指定からはずされてしまったのである。
 官製の年賀葉書に筆書きのものは、たまに受けとる機会もある。達筆すぎて読めなかったりすると、われながら情けなくもおかしい。巻紙に墨痕あざやかな賀状など、書いたことはもちろん、もらったこともない。
 このごろは印刷されたものが圧倒的で、なかでもワープロで印字され、写真や絵までいっしょに印刷された年賀状が増えているのが目につく。ひとことでも自筆で書かれてあればうれしいが、そうでないと、なんとなく物足りない。
 お年玉つき年賀葉書がこれほど普及するまえは、純白の奉書紙という楮[こうぞ]の木からつくった上質の和紙に、筆で文面をしたため、これも純白の奉書の封筒に麗々と表書きして出すのがていねいな賀状とされたという。
 “今はもう書く人も、もらう人もあるまいから、煩をいとわずその文句を引いてみる”と前置きして、エッセイストの山本夏彦が書いている。
 “――改暦の御祝儀、千里同風目出度く申納め候。先ずもって皆々様御健勝にて御越年遊ばされ、目出度く存じ奉り候。私方も打揃い無事加年仕り候間、憚りながら御安心下され度く候。(中略)先ずは年頭の御祝詞申上げ度くかくの如くに御座候。恐惶謹言”
 中公文庫版『編集兼発行人』から引用した。
 文庫版だから表記が新仮名に変えられているのかもしれない。原文は、もともとは旧仮名遣いだったろう。もちろん活字ではなく、流れるような達筆で書かれていただろうから、ぼくにはまず読みとることもむずかしいだろう。
 “改暦の御祝儀、千里同風目出度く云々”というのは決まり文句だ。というより、全文がほとんど決まり文句の連続だから内容を読みとれなくても一向にかまわないようなものだが、もしいまこんな賀状を受けとったら、目を白黒させて、お屠蘇気分も吹っ飛んでしまう。
 このごろは年賀状までEメールですます人も多くなった。
 賀状ひとつにも隔世の感があるものだ。
 時を超えて貫く棒のごときものと隔世の感をあたえるもの、不易と流行、そのあいだでぼくは、またひとつ歳を重ねる。


■ 不忍池の河豚                          二月


 二月九日は“ふくの日”だという。平仮名で書かれるとまぎらわしいが、服ではない、河豚である。
 関西以南では、関東のように河豚を“ふぐ”と濁っては読まない。“ふく”と呼ぶ。二・九は“ふく”と読める。そこで二月九日を“ふくの日”と決めた。そう決めたのは本場山口県の下関ふく連盟。一九八〇年(昭和五十五)のことらしい。
 二・九は“にく”とも読めるから“肉の日”という記念日があるかもしれない。
 へたな語呂合わせにすぎない――そういってしまえば、それまでである。ただ、二月は河豚のうまい冬季の、いちばん最後のころであるのもたしかだ。
 “河豚の季節は彼岸から彼岸まで”
 といわれる。秋の彼岸から春の彼岸まで、だいたい九月下旬から三月下旬までである。
 “菜種河豚は食うな”
 そういう言い伝えもある。菜の花の咲く三月下旬にもなると産卵期に入って毒性が増してくるためらしい。いわゆる菜種梅雨から本番の梅雨のころまでが河豚の産卵期で、夏以降は毒も薄らいでくる。
 しかし、夏場の河豚というのは、どうもぞっとしない。

  秋風を障子に切りて河豚の膳

 食いしん坊の内田百閧ヘ一九三七年(昭和十二)の十月に、こんな句を詠んでいる。
 かつて「毒のない河豚」という一文に書いたように、九月の末に河豚を食べた経験のあるぼくだけれど、秋もまだ遠慮したい。
 河豚は、なんといっても冬場にかぎる。しんしんと雪が降っていれば、もっといい。

  雪のふぐ豈[あに]一命を惜しまんや

 これは、まえにも紹介した江戸の川柳。いなせな江戸っ子の姿が彷彿とする。川柳子はいっぽうで、

  雪の晩ふぐだんべいと藪医起き

 とも諷している。
 深夜、ヤブ医の戸をドンドンとたたく者がある。
 「雪の晩だ、さだめし河豚にでもあたったのだろう。やれやれ」
 と寝床から身を起こす。
 戸をたたくほうも、
 「このさいだ、ヤブでもしかたない」
 と、あわてて駆けつけたものだろう。
 むかしは河豚の毒にあたって死ぬ人が多かった。
 山崎幹夫の『毒の話』(中公新書)というおもしろい本によると、河豚の中毒患者は一八八六年(明治十九)から一九七九年(昭和五十四)までの九十四年間に一万二千六百人を数える。そのうち死者は六千九百二十五人で、死亡率は五四・九六パーセント。食中毒事故による死亡例の、じつに八〇パーセントを占めたという。
 これは厚生省食品衛生課の調査の数字だから、この統計に漏れている事故も当然あるはずだ。
 河豚中毒の事故が減ってきたのは、一九四九年(昭和二十四)に東京都が“ふぐ取扱業取締条令”を制定してから日本中に河豚調理師の試験・免許制度が普及し、一九八三年(昭和五十八)には“フグの衛生確保について”という厚生省通知によって河豚行政を全国的に統一したからであると『毒の話』に書かれている。
 それでもシロウトが釣った河豚を料理して中毒事故を起こす例は絶えない。
 うまい河豚をご馳走すると誘われても、こういう膳にはくれぐれも箸を出してはいけない。いや、そもそもこういう席につらなってもいけないのである。なぜなら、その場にいれば必ず箸を出さざるをえなくなる。
 かくいうぼくが、漁師とはいえ無免許の義弟がさばいた河豚料理をたらふく食べた顛末については、すでにご報告したとおり。いま思い返しても冷や汗が噴き出てくる。

 さて、上野の不忍池に河豚がいる――といったら驚くだろう。濁った池のなかほどにある弁天さまの本堂に向かって左手に、“ふぐ供養碑”が建っているのだ。
 弁財天は長寿や福徳の神さまだから、その福に掛けたしゃれなのかもしれない。
 台座の上に、まるまるとしてユーモラスな石の河豚がちょこなんと鎮座し、かたわらの副碑に建立主旨が彫ってある。
 “天与の玉饌として天分を果した幾千万の御霊に満腔の感謝を捧げ云々”
 “玉饌”は、すばらしいご馳走。“御霊”とは、いうまでもなく河豚の霊であって、あえなく中毒死をとげた人間さまの霊ではない。
 それにしても、満々とおなかをふくらました河豚に“満腔の感謝を捧げ”とは、いいえて妙だ。この碑文の作者は、まじめいっぽうの堅物か、あるいは逆にユーモアのセンスに満ちあふれた人物にちがいない。
 碑は東京ふぐ料理連盟が一九六五年(昭和四十)に建立した。
 二月九日を“ふくの日”と決めた下関ふく連盟は“ふぐ”と濁らなかったが、東京ふぐ料理連盟には濁点がついて、関西以南とのちがいを端的にあらわしている。
 東京ふぐ料理連盟は一九三〇年(昭和五)に結成され、戦後、東京都の衛生局に協力し、河豚調理師の試験制度を整えた。事務所は雑踏する築地魚河岸のなかにある。
 供養碑の撰文で判然としない箇所を確認するために、はじめて連盟の事務所を訪ねてみた。ところが、すでに昼近く。時間が悪かった。
 魚河岸は朝が早い。正午をまわろうというころには、残っていた事務のおばさんも、さっさと帰り支度をすませてしまう。急いで事務所にあった記録から碑の文章を書き写させてもらうことまではできたけれど、残念ながらゆっくり話を聞く余裕がない。朝の早い人は気も早いのだ。
 すぐ横には河豚除毒場があったが、こちらもすでに作業は終わっていて、みることもできなかった。

 河豚の毒が怖いという人は多い。怖いから食べる機会を積極的にはもたなかったけれど、いちど食べてはみたい、という知人は周囲にたくさんいる。怖さをおさえて食べてみた結果おいしくなかった、毒云々よりも河豚そのものが嫌いだという人には、めぐり会ったためしがない。
 ところが、浅草生まれの江戸っ子・久保田万太郎は、人から誘われたのだろうか、“せつかくの志には候へど……”と前置きしてこんな句を詠んでいるのである。

  すつぽんもふぐもきらひで年の暮

 すっぽんはぼくも嫌い、というより、まず食べてみようと思ったこともないからいいのだが、万太郎が河豚嫌いというのは、ちょっと困る。
 たとえば鰭酒にかるく酔いつつ読むにふさわしい味わい深い俳句をものしている作家だから、ぼくは好きなのだ。それが河豚嫌いとあっては話にならない。嗜好のちがいはどうしようもないと分別すべきなのだろうか。
 ためしに万太郎の好物をあげてみよう。
 あんかけ、冷や奴、湯豆腐、なまり豆腐、卵豆腐といった豆腐料理。
 卯の花、納豆、はんぺん、葱汁、芋の煮ころがし、野菜の煮物、茄子の辛子醤油、枝豆、炒り卵、茶碗蒸し、煮こごりなど。
 貝類、ただし火を通したもの。
 蕎麦はいうまでもなく、鰻も好き。どじょうや白魚の鍋物。
 お酒は熱あつの燗。
 それから、洋食類では豚カツを食べ歩くのが趣味だったらしい。シチューやカレーライスも家で手ずからつくって食べるほど好きだった。
 嫌いなものは、雲丹の塩辛、このわた、すっぽんや河豚のごとき仰々しいもの。
 玉[ぎよく]や海苔巻きならどうにか口にしたけれど、酢や醤油でしめたネタでも鮨はだめ。
 まして、刺身のような火を通さないものは、まるっきり受けつけなかったようだ。
 それが、なんのはずみか赤貝の鮨を食べ、気管支に詰まらせて窒息するという不慮の死を遂げなければならなかったのだから、運命は皮肉としかいいようがない。
 ところで、すっぽんも河豚も嫌い――そう突っぱねた万太郎の句をわざわざ掲げたのには別に理由がある。
 不忍池の弁財天にもうでて“ふぐ供養碑”のまえに立ったぼくは、この万太郎の句を思い浮かべて、思わずニヤリとしてしまったのだ。
 ふぐ供養碑と轡[くつわ]を並べるように建っているのは、なんとスッポン感謝之塔なる碑だったのである。


■ 永遠に失われた日                        二月


 二月が短いのはうれしい。平年で二十八日、閏年で二十九日。二月に三十日や三十一日なんていう日がなくて、ほんとによかった。はやく三月になれ、春になれ、と思う。
 立春は毎年二月の四日前後にはおとずれる。暦のうえでは春なのだ。日溜まりには梅も咲きはじめている。“如月[きさらぎ]”とは別に“梅見月”という古い呼び名もある。梅に鶯、そんな絵に描いたような早春の季節をむかえようとしている。

  鶯の身を逆[さかさま]に初音かな

 これは榎本其角の句。さかんに春の到来を告げてさえずっているうちに枝に逆さまにぶらさがり、それでもなおさえずりつづける鶯を詠んでいる。
 鶯の初音というのはしかし、はっきりいって聞くにたえない。それでも、一生けんめい練習に励んでいるすがたを想像すると微笑ましい。
 想像するしかないのは、野生の鶯がさえずっているのを実際にぼくはみた経験がないからだ。声に聞くばかりである。ましてや身を逆さまにしてさえずっているすがたなど……

 榎本其角、のちに宝井と姓を改めるこの俳人は一六六一年(寛文一)七月に生まれ、江戸時代前期から中期にかけて活躍した。いま紹介した句のほかに、まえにつぎのような諸句をとりあげたことがあったのをご記憶の読者もいるだろう。いずれも代表作ではない。

  まな板に小判一枚初鰹

  夏の夜は蚊をきずにして五百両

  春をまつことのはじめや酉の市

 この其角が没したのは、一七〇七年(宝永四)二月三十日のことである。
 二月三十日? そんな日があるわけはない――と思われるかもしれない。しかし、旧暦時代には二月に三十日があって、なんの不思議もなかった。
 現在の新暦では、二月は二十八日まで。四年に一度の閏年だけ、一日増えて二十九日になる。この二月以外の小の月は三十日まで。四・六・九・十一月の四ヶ月だから、二月を合わせて五ヶ月が小の月、残り七ヶ月が三十一日までの大の月である。
 小学生のころ、母親に“西向く士[さむらい]小の月”と教えられた。拳をにぎり、その指の凸凹で大・小を知る方法も教えられた。どちらも簡単に覚えられる方法だった。
 ところが、かつての旧暦では月の大・小を前もって覚えるのはむずかしかった。三十日までの大の月と、二十九日までの小の月の配列が毎年異なっていたからだ。

  大庭をしろくはく霜師走かな

 其角に、こんな句がある。とても“伊達の其角”と呼ばれた人の作とは思えない。大きな庭一面を筆で刷いたように白く霜がおおっている、ああ、とうとう十二月になったのだなという、あまりにありきたりな感慨を詠んだ凡作といっていい。
 しかし、単純にそう決めつけてしまっては其角が浮かばれない。こんな句をつくった裏には、ある事情があった。
 つぎのような前書きがついている。
 “大小の吟 元禄十丁丑年”
 “大小”とは月の大・小で、元禄十年(一六九七年)丁丑の年の大の月、小の月を吟じわけた句という意味である。
 では、“大庭をしろくはく霜師走かな”という句を読解してみよう。
 “大庭を”の大は、大の月の意。庭の“に”は二。以下、“しろくはく”が四・六・八・九、“霜”が霜月十一月をあらわしている。“師走”はいうまでもなく十二月。
 つまり元禄十年は二・四・六・八・九・十一・十二月の七ヶ月が大の月だというわけである。実際は大の月しか詠みこんでいない。それでも小の月は、残りの一・三・五・七・十月の五ヶ月とわかる。
 大の月は三十日、小の月は二十九日。三十日×七ヶ月+二十九日×五ヶ月=三百五十五日。元禄十年とは、そんな年だった。
 ところで、年表で確かめてみると、意外にもこの年には閏二月があった。其角の大小吟に閏二月は詠みこまれていない。さすがの其角も、五・七・五の限られた字数のなかに、そこまで織りこむのは無理だったのだろう。
 しかし、そう思いこんでいたぼくのほうが未熟だったようだ。其角の大小吟を、もう一度よく見てみる。すると、“大庭を”の“大”と“に”は簡単にわかったが、あとの“わを”のあたりが怪しい。ここに、まだなにかが隠されていないか――
 もしこれを“二に輪を”と読み解くなら、二月を輪で囲む、つまり閏二月をあらわしていると受けとることができる。
 閏月についてはあとで触れたいが、とにかく、そう推測を逞しくしたぼくは、ハタと膝を打っていた。其角さん、あなたは偉かった! そして、少しは元禄十年という年が身近に感じられるような気がしてしまったのである。
 もちろん、其角ははるか後世の人間のためにこの句をつくったわけではない。元禄九年のすえに来年の暦を手にして、来る年の月の大・小を庶民に伝え、なおかつ覚えやすいようにとひねりだした、なかば実用の句なのである。
 このような句は“大小句”と呼ばれた。毎年毎月いちいち暦をみて確認しなければならなかった旧暦時代には重宝したにちがいない。言葉遊びの要素も強いから、興に乗って工夫をこらした大小句をつくっては得々と披露した俳人も多かったようだ。
 大・小を図案化した暦もさかんにつくられた。これは矢野憲一の『大小暦を読み解く――江戸の機知とユーモア』(二〇〇〇年・大修館書店)という本に詳しい。興味のある方は参照していただきたい。二百点におよぶ図版は眺めているだけでも楽しい。
 ただ残念なのは、せっかく其角の大小吟も紹介されていながら詳しい解説がなく、ぼくの想像が正しいのかどうかが解決しなかったことである。
 閏月について、もう少しふれてみたい。
 平年を三百五十四日と定めている旧暦では、十二ヶ月ばかりの年がつづくと実際の季節としだいにズレが生じてくる。だから、三十二、三ヶ月に一度のわりでひと月ふやし、十三ヶ月ある年をつくった。
 といっても、十三月という月を設けたのではない。ある月を二度くりかえし、これを閏月と呼んだ。
 たとえば、其角の大小句に詠まれた元禄十年には通常の二月のあとにひと月ふやし、これを閏二月と呼んだ。
 ただ、閏月はいつも二月のあとに設けると決まっていたわけではなかったから大変だった。
 新暦は平年三百六十五日。閏月はなく、二月に閏日が設けられて三百六十六日となる閏年がある。平年の二月は二十八日まで。ただし、西暦が四で割りきれる年は閏日として一日増やし、二十九日間になる。
 西暦が四で割りきれるのは四年に一度。四年に一度といえばオリンピック。このオリンピックの開催される年が二月に閏日がある閏年にあたっている。
 最近の例をあげるなら、一九九六年と二〇〇〇年がそうだ。とくにシドニー・オリンピックの二〇〇〇年は、記念すべき年といっていい。二〇世紀最後の年であるとともに、二〇世紀最後の閏年でもある。
 そればかりではない。
 じつは、閏年には西暦が四で割りきれても、同時に百で割りきれるなら閏年にしないという例外規定があり、この規定に従えば二〇〇〇年は通常の二十八日まで。ところが、もうひとつ、さらに四百でも割りきれるなら閏年とするという例外中の例外を設けた規定があり、これによって二〇〇〇年は閏年になる。つまり四百年に一度のめずらしい年にあたっているのだ。

 其角からは離れてしまうようだが、この際だからもう少し暦について触れておこう。
 現在ぼくたちが使っている暦は太陽暦で、新暦とも呼ばれる。新暦に対する旧暦は太陰太陽暦という。太陰は月をあらわす。月の運行による満ち欠けの周期的な変化を規準として定めた太陰暦に、太陽暦の要素をとりいれ、合理的にしたものが太陰太陽暦と呼ばれている。
 面倒なので以下、太陰太陽暦を旧暦、太陽暦を新暦と表記しよう。
 日本で新暦は一八七二年(明治五)の旧暦十一月九日に採用が決定された。実施は翌月の三日のこと。維新政府は旧暦の明治五年十二月三日をもって新暦の明治六年一月一日としたのである。
 この本でとりあげた人物のなかでは樋口一葉と岡本綺堂が、この歴史的な改暦の年に生まれている。
 維新の開国以来、改暦の必要はしばしば唱えられていた。暦法が諸外国とちがっていては、わずらわしくてしようがない。そのうえ、日本はやはり遅れた国だという印象を強めてしまう。
 庶民も、そういう実情は知っていた。ところが、実際の改暦決定にいたる作業は政府上層部で極秘裏におこなわれ、突然に新暦への切り換えが告知された。日本人の多くは戸惑った。
 それはそうだろう。中国から入ってきた旧暦は一八七二年まで延々と使われつづけてきたのだから。
 年末という切り換え時期も悪かった。
 来る年の旧暦のカレンダーもすでにおおかた刷り上がっていただろう。予定されていた来年の行事はすべてひと月くりあがり、それまでの時間が短縮されることになった。師走は二日間しかなくなり、旧暦十二月三日から三十一日のあいだに予定されていた行事もすべておこなえなくなった。
 それでも、混乱はありながら改暦の流れを押しとどめるような大きな反撥はなく、思いのほかすんなりと実行に移されたようにみえる。
 “なにごとも御一新の世の中、これが文明開化さ”というわけだろう。
 一時の混乱は、たしかに収まった。しかし、ひとつだけ、ひょっとしたら改暦まえにはだれも考えなかったかもしれない問題が残ることになった。
 新暦の採用によって月の大・小は固定され、そのぶん煩雑さは解決した。同時に二月だけが二十八日間に短縮された。例外はあっても四年に一度、閏年に二十九日はやってくる。
 そして――二月三十日という日だけは、ふたたびめぐりくる機会が永遠に失われてしまった。

 さて、ここで其角のことを思いだしていただきたい。
 くどいようだが、彼は旧暦二月三十日に死んだ。
 いや、二十九日だったという説もある。旧暦時代にも二月が小の月にあたって三十日の存在しない年があったから、そういう年は一日くりあげて二十九日に回向していたのが二説に分かれた理由だろうと勝手にぼくは推測しているけれど、それはさておく。
 新暦が採用され、真新しいカレンダーをながめながら其角の魂は仰天して思わずつぶやいたかもしれない。
 「わしの命日をどうしてくれる……」
 没年の一七〇七年(宝永四)から数えて百六十五年めの春に味わった悲運である。
 其角ばかりではない。改暦されるまでの旧暦二月三十日に死んだあまたの人間の魂を鎮める祥月命日を、いったいどうするか。
 ・閏年は一日くりあげて二十九日とし、平年は二日くりあげて二十八日とする
 ・三月一日にくりのべる
 ・新暦に換算する
 選択肢はいくつかある。
 しかし、関係者も頭を悩まし、鶯の初音に春の訪れをことほいでばかりもいられない日々を過ごしたかもしれない……あ、いけない。二月のカレンダーを眺めているうちに妄想に耽ってしまった。暦の知識もないのに要らぬおせっかいを、と其角に怒られそうだ。


■ ボタ餅あれこれ                         三月


  毎年よ彼岸の入りに寒いのは

 正岡子規の句――というより、母親のなにげなくつぶやいた言葉が句になっているのをおもしろく聞いた子規が、そのままを書き留めておいたのである。
 彼岸は春分・秋分の日を中日とする前後七日間、三月二十一日ごろと九月二十三日ごろをまんなかにした各一週間を指している。
 子規の母親が“寒い”といったのは、春の彼岸の入りのほうだ。
 彼岸といえばボタ餅である。

  病牀に日毎餅食ふ彼岸かな

 子規の一九〇一年(明治三十四)春の句。重い結核で病牀に縛りつけられていた子規が健啖家だったという話は、すでに書いた。彼岸のころの彼は、毎日いくつもの餅を腹につめこんでいたようだ。ここでいう“餅”とは、もちろんボタ餅のことである。
 自家製のボタ餅を隣り近所や親しい知り合いに配るという習慣は、いまではあまりみられなくなってしまった。

  ぼた餅の来べき空なり初時雨

 小林一茶のこの句は、よく知られている。“初時雨”とあるから秋の彼岸のこと。
 友人からボタ餅をもらった子規は『仰臥漫録』という日記体の随筆のなかに、こう記している。
 “此方よりは菓子屋に誂[あつら]えし牡丹餅をやる。菓子屋に誂えるは宜[よろ]しからぬことなり。されど衛生的にいわば病人の内で拵[こしら]えたるより誂えたる方宜しきか。何にせよ牡丹餅をやりて牡丹餅をもらう、彼岸のとりやりは馬鹿なことなり”
 引用は岩波文庫版から。一九〇一年九月二十四日の日付だから、これも秋の彼岸のことになる。この文章には、つぎの句が添えられている。

  お萩くばる彼岸の使[つかひ]行き逢ひぬ

 気になることがふたつある。
 文章のなかでは“牡丹餅”と表記している。ところが、俳句になると“お萩”に変わっている。ボタ餅と書くのはぼくの書き癖で、子規は牡丹餅と書き慣れているのだろう。だから、それはいい。ところで、なぜ、お萩に変えたのだろう――そういう疑問が、まず生じる。
 “お萩くばる”は字余りで据わりが悪い。むしろ“牡丹餅くばる”としたほうが、さらにもう一字増えても七・七・五となって据わりはよくなる。しかも本文との平仄[ひようそく]も合ったのではないか、と愚考する。
 牡丹餅をお萩といいかえた子規は、牡丹餅とお萩とを同じもの考えているわけだ。しかし、ボタ餅とお萩とはほんとうに同じものなのだろうか、というのが第二の疑問である。
 調べてみると、これがじつに諸説ふんぷんとしている。ぼくにボタ餅についての知識がないせいもあるが、参考資料にあたればあたるほど、それぞれの説明が微妙に、あるときは相反するごとき違いをみせて錯綜する。そこで、諸説を参考にしながら、なるべく単純に、ぼくなりの結論を書いておきたい。
 ボタ餅とお萩は同じものである。
 語源を探れば、牡丹餅はもともと“ぼた餅”で、ボテッ、もしくはボタッとした感じをあらわす印象表現だろう。春に降る、湿って大きなかたまりとなった雪をボタ雪といい、牡丹雪と表記して美化するように、牡丹という字をあとからもってきたのである。
 お萩のもとは“萩の餅”で、これも見ようによってはボタ餅が萩の花のように見えたという印象表現なのだろう。
 この場合、一般庶民は素朴にボタ餅と言ったが、ボタモチという語感を嫌った育ちのいい女性たちや和菓子屋さんなどはしきりにオハギ、オハギと言ったにちがいない。そういう推測も成り立つ。萩の花との連想や、女房ことば風に“御”を冠したところに上品な響きが生じてはいる。
 このへんの機微をうがった一句をかかげておこう。作者の春重という人については不勉強にして知るところがない。

  萩の花ぼた餅の名ぞみぐるし野[や]

 また、春は牡丹餅と呼び、秋にはお萩と呼びわけることもある。たしかに秋の呼び名としてはお萩のほうがふさわしい。牡丹は夏の花だが、寒牡丹の印象が強いから、まあ、春の彼岸にはふさわしいといえるかもしれない。
 製法には若干の違いがあり、それが呼び名に反映している場合もある。土台になる餅は、蒸したモチ米やウルチ米を搗いたり擂ったりしたのちにまるめる。このとき、ふたつの方法がとられる。
 ・臼ですっかりつぶしてから団子にする
 ・すり鉢で半分ほどつぶしてから団子にする
 これは地方や家庭によって違ったり、そのときの事情で違ったりする。とにかく、どちらかの方法で餅をつくり、これに餡をからめる。甘く煮た小豆をつぶして包んだり、黄粉をまぶしたりするわけだが、この違いによって、牡丹にみえたり萩の花にみえたりするのである云々。

 しかし、どうやらこれは、しろうとには決着をつけかねる古来の大問題のようで、ぼくも頭が痛い。
 面倒なウンチクはともかく、お茶受けにもっと単純素朴でおもしろい話はないのだろうか。
 こんなのはどうだろう。金田一春彦は『ことばの歳時記』(新潮文庫)という本のなかで、おおよそ次のような民話を紹介している。
 ――ある山深い村でのこと。
 夜になって、ひとりの旅人がやってきた。
 さいわい年老いた夫婦の厚意で一夜の宿を得ることができた。
 ところが、その老夫婦が炉端でひそひそと話す声を聞くと、気の弱い旅人は泡をくって逃げだした。
 ひそひそ話とは、
 「手打ちにすべえか」
 「うんにゃ、半殺しにすべえ」
 無事に逃げ帰ったあと、その顛末を友だちに話した。すると、それは手打ち蕎麦にしようかボタ餅でもてなそうかという相談だったのだろうと教えられて、早とちりをいたく後悔した。
 ボタ餅の製法の違いのなかに、モチ米・ウルチ米を蒸して半分ほどにつぶす方法があった。これを“半殺し”という。
 ちなみに、すっかりつぶしてしまうのは“皆殺し”だ。

 先日、ぶらりと葛飾柴又の帝釈天を歩いた。蓬餅[よもぎもち]を餡でくるめた草団子が名物のひとつになっている。これもボタ餅の一種にちがいない。
 “わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します――”
 ご存じ『男はつらいよ』、寅さんが旅の空からふらりと舞い戻ってくる“おいちゃん”(叔父さん)夫婦のうちが団子屋さんだった。
 一九六九年(昭和四十四)八月の第一作公開から寅さん役の渥美清が死んだ一九九六年(平成八)八月四日までのあいだに、松竹映画『男はつらいよ』は四十八作を数える。山田洋次の脚本・監督(第三作・第四作は脚本のみ)になる世界最多のヒットシリーズ・ムービーとして『ギネスブック』にも記録されている。
 団子屋の“とらや”が、途中から“くるまや”と屋号をかえていたのにお気づきだろう。
 京成金町線の柴又駅から帝釈天にいたる参道を歩いてみると、“とらや”の看板をかかげた店が存在する。これは推測にすぎないけれど、どうやら映画にあやかってつけられた名前のような感じがある。その宣伝になるのをはばかって映画のほうで屋号をかえたものかもしれない。
 セットのモデルになったのは亀屋という店らしい。こちらはとっくにビルに建てかえられ、かつての面影は消えている。
 かわりに草団子をあきなって百余年という老舗の高木屋に入ってみた。古いつくりの落ちついた店構えだ。壁には、ここを訪れた『男はつらいよ』歴代の出演者たちが額入りの写真となって、ずらりと並んでいる。ロケのさいに撮影スタッフや俳優が休憩所として利用したのだろう。
 草団子と焼いた醤油団子を頼んでから、腰かけてゆっくり写真を眺めたり、おもての参道をゆきかう人たちを暖簾越しに見るともなく見ていると、寅さんがひょいと顔を出しそうな気がしてくる。
 “フーテン”という言葉もいまとなっては懐かしい響きになった。思えば寅さんの“フーテン”には“風狂”と通じるところがある。旅から旅へとさすらいのテキヤ人生を送った寅さん、その寅さんの人生を倦むことなく演じつづけた渥美清という俳優もまた風狂の人だったのかもしれないな――
 そんなこんなをぼんやり考えているうちに、皿にのった団子が出てくる。店の奥から持ってきてくれたのは、妹のさくらさんならぬウバザクラだった。
 これは失礼――
 いやいや、“ウバザクラ”とはけっして礼を失した言葉ではない。急いで辞書を開いていただきたい。たとえば『広辞苑』(新村出編・第四版)に、“姥桜”は“娘盛りが過ぎてもなお美しさが残っている年増。女盛りの年増”と説明してある。
 “女盛りの年増”という、じつに艶っぽい存在なのである。
 しかも姥桜は、もともと別名をヒガンザクラとかウバヒガンという桜の木の一種である。ちょうど春の彼岸のころに咲く種類だから、この一文に登場していただく年輩の女性を呼ぶにはふさわしい呼称なのである。
 とはいえ、やはり『広辞苑』的解釈とは異なる現実もあるだろう。“お世辞にも若いとは言えないが、年増(トシマ)となら、かろうじて言える女性”という金田一京助の『新明解国語辞典』(第四版・山田忠雄主幹)のような微妙な解釈もある。
 芭蕉は、こう詠んでいる。

  姥桜さくや老後の思ひ出[いで]

 姥桜が咲いている、これは老後の思い出にひと花咲かせようとして咲いているのだろうか、という意味に解釈してまちがいはないだろう。微妙なところだが,ウバザクラといえば、やはり老いのほうに重心が傾いてしまわざるをえない。
 江戸時代の半ばでさえそうなのだから、現在ではウバザクラと呼ばれて喜ぶ女性など皆無なのだろう。ここは単純素朴に“おばちゃん”と言い換えておいたほうが無難のようだ。
 渋茶をすすりながら、しばしの下町情緒にひたる。
 「このへんではお彼岸に、ヨモギを搗きこんだ草団子も配りましたよ」
 とは、このおばちゃんに聞いた話である。
 蓬には“餅草”の異名もある。どこでとったのかなどと野暮なことは聞くまい。近くの江戸川の土手や河川敷には一面に生えていたはずだ。
 帝釈天に手を合わせたあとは、予定に入れていなかった矢切の渡しに乗るべく江戸川に足を向けた。
 木が一本も生えていない土手に登ると、吹きっさらしの風が体にぶつかってくる。かつては桜並木で、四月になれば桜吹雪がみごとだったらしい。寅さんのナレーションが思い出される。
 “さまざまのこと思い出す桜かな――昔の人は味のあることを言ったものでございます。満開の桜を眺めておりますと私のような愚かな者でも、さまざまなことを思い出すのでございます。”
 芭蕉の句を引用するところなど寅さんも学がある。この句は、ぼくも前に紹介したので懐かしい。寅さんの言葉をつづけよう。
 “思い起こせば十六の春、これが見納めになるかと悲しくて悲しくて涙をこぼしながら歩いた江戸川の土手は、一面の桜吹雪でございました。そうなんでございます。今では一本も残っておりませんが、私がガキの時分、江戸川堤は桜の名所だったのでございます。毎年春になると、両親に連れられ、妹のさくらの手をひいて、花見見物に出かけるときの、あのワクワクするような楽しい気持ちを、今でもまざまざと思い出します。”
 寅さんが二十年ぶりに柴又に帰ってきたときのことも思い浮かべてしまう。柴又駅からではなかった。江戸川を渡し船に乗って寅さんは帰ってきたのだ。
 その渡し船は、まだ春先で冬季の休業が明けていないのか残念ながら運航していない。
 川向こうは千葉県の松戸市矢切になる。ここを舞台に、ふたつ年上の民子と政夫との初恋物語『野菊の墓』(一九〇六年四月・俳書堂)を書いた伊藤左千夫は、“毎年よ彼岸の入りに寒いのは”という母親の言葉を書きとめた正岡子規の門下だった。向こう岸に渡らなくては、その文学碑もみられない。
 けれど、それもいい。片手にお土産の草団子をぶらさげ、片手をポケットに突っこむと、寒風に吹かれながら土手を川上に向かって歩いた。
 「寒い寒いったって、どうせ彼岸までよ!」 
 そううそぶきつつ、しばしぼくは“フーテンの寅”を気どった。


■ 弥生に辞す                           三月


 三月は終わりの月である。
 新暦では、長かった冬が、やっと去ってゆく月。陰暦では三春のうちの季春(晩春)で、春の終わり。
 なにかが終わる、あるいは、なにかを終えるということには感慨がともなう。その感慨は、しばしば言葉となってあらわれる。
 “辞す”という言葉には堅苦しい響きがあるけれど、もともとは素朴な感慨を表現したいという意識が根底にあるはずだ。“辞”には“ことば”の意味があり、文章のことをもさす。“辞す”は“断わる”こと、“辞める”こと。あらためて挨拶を述べ、いとまごいをすることで、辞去や辞別という熟語がある。
 同じ用法には聞き慣れない辞塵などという言葉もあって、これは俗塵を去って隠遁すること。
 辞職や辞表という、宮仕えの人にとっては重い意味をもつ用法もある。
 幸か不幸か、いままで辞職・辞表などとは縁が遠かったけれど長引く不況下で明日はどうなる身かわからない、一寸先は闇――こんな感慨を実感としていだいている人も多いのではないだろうか。
 勤め人ばかりではない。自営業者でもフリーランスでも、経済生活上の不安は同じだ。むしろ自分で仕事をもっている人間のほうが、自由という名の不安定さを身にしみて感じているかもしれない。
 仕事ばかりではない。いくら平均寿命が延びたとはいえ、だれにも、この世そのものから辞すときが必ずいつかやってくる。隠遁を意味した辞塵にも、転じて“死ぬ”という意味がある。要するに、この世のすべての生き物に関係のある言葉、それが“辞す”なのだ。

 辞世というものがある。前もって、あるいは、いまわのきわに遺す、この世を去るについての挨拶の歌や句や言葉だ。
 この辞世には若いころからなんとない憧れがあった。
 ひとつ自分も気の利いた辞世を遺して死にたいものだ、さて他人はどんな辞世を遺しているのだろう――
 そう思って古今の名辞世とされる文言を集めた本を開いてみると、あまり上出来のものはない。それが正直な感想である。
 人間、できるなら土壇場でジタバタしたくない。みっともない最期は人目にさらしたくないのが本心だから、辞世も知名人になればなるほど前もって準備しておくのかもしれない。それにしては深刻すぎたり怨みがましいものが多い。どうしたことだろう。
 かつて学問や文芸、経済や政治活動などさまざまな分野で業績をあげる才能に恵まれ、世にひろく知られた人物でさえそうなのだ。自分のような凡夫には、それを凌駕するのはいわずもがな、気の利いた辞世など遺せるはずはないと、まったく絶望的になってしまう。

 好きな辞世のひとつに、幕末の侠客だった新門辰五郎(一八〇〇〜一八七五)の歌がある。ぼくのこの一連の文章にもふさわしい。

  思ひおく まぐろの刺身 はつがつを
    ふつくり○○に どぶろくの味

 歌中の○○には、まじめな読者にはばかりの多い単語が入る。適当な文字を想像していただきたい。
 思いが残ると歌いだして一見うらみがましいようだが、その執心の対象となっているものの意外さが辞世としてはおもしろく、逆に大往生を感じさせている。
 在原業平(八二五〜八八〇)の辞世と伝えられる歌も、ある意味で捨てがたい。これは多くの人が知っているだろう。

  つひに行く道とはかねて聞きしかど
    昨日今日とは思はざりしを

 『古今和歌集』に収められたこの歌の前書きは、“やまひして弱くなりにける時、詠める”。
 『伊勢物語』の最終段(百二十五段)は、“むかし、男、わずらひて、心地死ぬべくおぼえければ”という前文と、この歌だけで成り立っている。
 はっきりいって平凡である。あの好色一代男のイメージでも語りつがれた貴公子業平にして、この程度の辞世しか発することができなかったのかと落胆の念にもとらわれる。
 しかし逆に、その坦々とした慨嘆を正直に吐露して、どんなに波瀾に富んだ生涯を送った人間であれ、最期の感懐とは案外こんな平凡なところに落ちつくのがほんとうかもしれない、そう思わせる真実味があるともいえよう。たとえこの辞世が業平伝説を締めくくるフィクションだったとしても、である。

 “人、天地の間に生きるは白駒[はつく]の郤[げき]を過ぎるがごとく、忽然[こつぜん]たるのみ。”
 これは辞世ではない。『荘子』にある言葉だ。
 荘子は紀元前三六五年に生まれ紀元前二九〇年に死んだ。七十五歳という、当時としては長寿を得た人にしてこの言がある。
 念のためと思って、この言葉をある辞書にあたってみた。すると、隙間という意味の“郤”という字を、却という字の異字体である“卻”に誤っている。
 「著名な辞書に誤植発見!」
 そう小躍りしたのもつかのま、すぐに興奮は冷める。あの世への旅立ちという人生上の大問題を云々しているまえでは、じつに些細な、くだらない発見にすぎなかった。
 まさしく“人、天地の間に生きるは白駒の郤を過ぎるがごとく、忽然たるのみ”なのだ。小事も大事もひっくるめて、白馬が板壁の隙間の向こうがわを一瞬のうちに駆けぬけてゆくように、時は過ぎてゆく。つまらない誤植などにかかわりあっているヒマはなかった。
 その荘子は、どんな言葉を遺して死んだのだろう。弟子たちが盛大に葬式をあげ、立派な墓をつくろうとしていることを知った荘子は病床で告げたという。
 「遺骸は山野に捨てよ。天地を棺桶とし、日月星辰を霊前の供物とせよ」
 現代では亡骸を自然のなかに放置することはできない。だから、
 「焼いたら遺った灰や骨を海や山に撒いてくれ。墓もいらない」
 ぼくの遺言には荘子をまねてそう記しておきたい。

 ここで、この本にとりあげた主な人物たちの辞世を一覧してみたい。俳句・短歌・言葉と、かたちはさまざまである。
 山上憶良(六六〇〜七三三)、七十四歳で病死。
  ――士[おのこ]やも空しかるべき万代[よろずよ]に
      語り継ぐべき名は立てずして
 与謝蕪村(一七一六〜一七八三)、六十八歳で病死。
  ――白梅に明くる夜ばかりとなりにけり
 柄井川柳(一七一八〜一七九〇)、享年七十三。川ばたの柳に川柳の発展を託して辞世とした。
  ――木枯らしや跡で芽をふけ川柳[かわやなぎ]
 小林一茶(一七六三〜一八二七)は六十五歳で中風に倒れた。産湯の盥[たらい]から死体を拭く湯灌の盥までの生涯を詠いこんだ辞世の句は偽作ともされる。
  ――盥から盥へうつるちんぷんかんぷん
 新島襄(一八四三〜一八九〇)、四十八歳のときキリスト者・教育者としての事業を中途に腹膜炎のため倒れた。
  ――天を怨まず、人を咎めず
 樋口一葉(一八七二〜一八九六)は数えの二十五歳という若さで、長兄と同じ結核に倒れた。その前書きと辞世句。
  ――身はもと江湖の一扁舟、みずから一葉となのって、芦の葉のあやうきをしるといえども、波静かにしては釣魚自然のたのしみをわするるあたわず。よしや海龍王のいかりにふれて、狂うらん、たちまち、それも何かは、
    さりとはの浮世は三分[ぶ]五里霧中
 正岡子規(一八六七〜一九〇二)の“絶筆三句”から一句。
  ――糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
 夏目漱石(一八六七〜一九一六)は胃潰瘍のため四十九歳で死んだ。死の床で苦しみながら着ているものの胸をはだけて言ったという。
  ――水をかけてくれ、死ぬと困るから。
 野村胡堂(一八八二〜一九六三)が肺炎のため八十歳で病死するまぎわに発した言葉。
  ――思い残すことはない。満足だ。
 石川啄木(一八八六〜一九一二)には辞世の歌はないようだが、死の二日前に病床を見舞った友人若山牧水に語ったという言葉が悲痛で印象ぶかい。
  ――若山君、僕はまだ助かる命を金のないために自ら殺すのだ。見たまえ、そこにある薬がこの二、三日来断えているが、この薬を買う金さえあったら僕はいますぐ元気を恢復するのだ。
 森鴎外(一八六二〜一九二二)は萎縮腎のため六十歳で死んだ。“死は一切を打ち切る重大事件なり。いかなる官憲威力といえども、これに反抗することを得ずと信ず。余は石見人森林太郎として死せんと欲す云々”という堂々たる遺書を筆記させたのが死の三日まえ。ところが、絶命する直前になって、ひとことつぶやいたらしい。いろいろな意味に受けとれる。
  ――馬鹿ばかしい。
 内田百閨i一八八九〜一九七一)は八十一歳で老衰死を遂げた。死の床で夫人に告げた言葉。
  ――なにがあっても取り乱しちゃいけないよ。
 久保田万太郎(一八八九〜一九六三)には辞世の句も最期の言葉もない。急性窒息死という不慮の死因のためだが、その五ヶ月まえに最愛の人に先立たれて孤独な時を過ごすうちに生まれた絶唱をかかげておく。
  ――湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
 芥川龍之介(一八九二〜一九二七)が自殺にさいして色紙にしたためた旧作“自嘲”の句。なにかに打ちひしがれたような重苦しさがただよっている。
  ――水洟[みずばな]や鼻の先だけ暮れ残る
 太宰治(一九〇九〜一九四八)が情死をまえにして短冊に書きつけたのは伊藤左千夫の短歌だった。辞世かどうかは不明だが。
  ――池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる

 そして時代は前後するが、最後に芭蕉(一六四四〜一六九四)の“病中吟”。
  ――旅に病[やん]で夢は枯野をかけ廻[めぐ]る

 藤堂藩の伊賀上野に生まれ、十九歳ごろから藤堂良忠に仕えた松尾忠右衛門宗房は、二十三歳のときに良忠が病死し弟が跡を継いだので居づらくなり、みずから藤堂家を辞した。
 失業した宗房は、家督を継いだ兄のもとで部屋住みの身となる。その悶々とした生活から抜けだすべく、武士を廃業して江戸に移り、俳諧の道をつきすすむ決意を固める。ときに二十九歳。
 この宗房が、のちの俳聖芭蕉である。
 それから十七年後、芭蕉は東北・北陸への長い旅に発つ。

  草の戸も住み替る代[よ]ぞひなの家

 『おくのほそ道』に出てくる最初の句として知られる。
 旅立ちをまえに、芭蕉は路銀を捻出するため隅田川畔の草庵を人に売った。その人には小さな女の子がいた。だから、この草庵にもお雛さまが飾られることがあるかもしれないと芭蕉は想像しているのだろう。
 そう受けとれば一面ほほえましい。
 しかし、育ちざかりの少女のお雛さまが飾られるかもしれない草庵とは、ほんとうなら旅からもどった自分が帰るべきはずのところ。それを売りはらってしまった。道祖神の招きに誘われるように出発しようとする芭蕉は、路銀とひきかえに家を失ったのだ。
 しかも、立ち去ろうとする自分は、すでに老境にある。その対照のなかで、白駒が郤を過ぎるがごとき人生忽然の感に襲われたにちがいない。
 “草の戸も住み替る代ぞひなの家”は旅立ちの歌、江戸・深川を辞する句だが、そういう場面で人生忽然の感のような厄介な想念にとらわれてしまったなら愕然として底なしの感傷におちいっても不思議ではない。だが、芭蕉には愕然などという顎がはずれたような締まりのなさも、甘いセンチメンタリズムのにおいも、まったくない。
 “月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり”
 旅に生き、旅に死ぬことを願った芭蕉にして、はじめて発しえた名言だ。たとえそこに老いと迫りくる死の影とがダブってみえるとしても、いや、逆に老いと死の影とがひたひたと近づいてくる足音がはっきり聞こえるからこそ芭蕉は、一切の感傷を排して旅路につくのである。
 芭蕉は風狂の人である。ぼくはすでにそう書いた。風流というぬるま湯のような趣向を超え、屹立する厳しい一境地である風狂に生きようとする人間に必要とされる資質のひとつ――それは、冷静さである。透徹した精神といいかえてもいい。
 奥羽・北陸への旅立ちは“弥生も末の七日”だった。一六八九年(元禄二)のことで、旧暦三月二十七日である。新暦の三月はまだ寒さがきついが、芭蕉が旅立った日は太陽暦の五月十六日にあたる。
 弥生は“いやおい”の転、若草がすくすくと生長するさまを指している。若い芽は雪の下からでも伸びてくる。旧暦弥生になればもう、刈っても刈っても伸びてきて生い茂る。
 要するに、四十六歳の芭蕉は陽気が暖かく安定するのを待って北への旅路についた。そこには慎重な配慮、周到な計画があった。
 現状を辞して出発した『おくのほそ道』への旅、数々の名句はその結果生まれた。

  いきいきと三月生まる雲の奥

 これは新暦の三月、現代の俳人飯田龍太の句である。
 三月は終わりの月――そう冒頭に書いた。けれども、ほんとうは四月以上に新鮮な月だ。心臓がバクバクするほどに――
 なにかが終わらなければ、なにかを終えなければ、なにも始まらない。終わりのうちに、新たな芽生えがある。死さえ新たな芽生え、大いなる旅立ちなのかもしれない。
                                〈了〉


■ あとがき


 歳時記には大雑把にいって二種類ある。
 ・俳句の季語を分類して解説を加え、例句をかかげた俳諧歳時記
 ・折々の自然や世事を記した歳時記風エッセイ
 この『俗物歳時記』は、もちろん後者に属する。
 「俗物」とは筆者のこと。ぼくは自分を、とてつもない俗物だと認識している。
 本来、歳時記風のエッセイをものしようとするほどの人間なら風流人と称していいだろう。つまり、俳句や和歌をはじめとする伝統的な文学についての造詣が深く、季節のうつろい、自然のいとなみ、そのなかでの人間の在りようの洞察にすぐれているか、もしくは一家言をもつ人間であるはずだ。
 ぼくは――といえば、風雅の世界からはほど遠い俗物にすぎない。いままで真面目に俳諧歳時記をひもといた覚えもなく、俳句や和歌に親しんだ経験にもとぼしい。四季四時の変化にとくに敏感だったとも思えない。
 そういう俗物が俳諧歳時記を片手に季節の行事や旬の味にとりくみ、ときに文学散歩のまねごとをする、資料の森をおぼつかない足取りで探索する。そんな、いってみれば無謀な行為の跡を書きつづってみたのが、ここにまとめた一連の文章である。

 無謀なといえば、この本の構想は「マネジメント21」(日本能率協会マネジメントセンター発行)という月刊誌に連載した文章が核になっている。「旬風駘蕩」と題していたが、とにかく雑誌の性格とは縁もゆかりもない内容で、当時編集長を務めていた肥本英輔氏の大きな度量、編集担当の伊田欣司さんのこまやかな配慮がなければ生まれることなく続くことのない企画だった。
 連載が終わり、しばらく放っておいたのをひっぱりだして読み返してみた。すると、どうも自分の文章ではない。表面上は雑誌連載という枠のなかでうまくまとめているようだけれども、異例の企画という緊張感もあったためか、きれいごとに終始している。それが不満となって全面的に手を入れた。書き下ろして差し替えた文章もあり、表題も『俗物歳時記』と改めた。
 文章に手を加えることによって、かえってほころびが広がったところもあるだろう。俗物たる自分自身の内実の表現としては、よりふさわしくなったと思ういっぽうで、それは俗物が風流の世界に身をおいてみるという矛盾がきたした破綻だろうし、なにより物書きとしての才能のなさのあらわれと自覚している。
 軽薄、知ったかぶり、一知半解、賢しらな気取り、曲解曲言、牽強付会、無知蒙昧などと、自己批判の評言はいくらでも浮かんでくる。けれども、それはもはやどうしようもない。
 この一書を世に送りだそうとするのは、やはり無謀である。厚顔にして無恥な暴挙である。しかし、それをあえてするのもまた俗物の一属性であると開き直っている。
 もし俗物が書いた歳時記風エッセイとしての稀少価値が生まれるなら、そして、醜態ぶりを楽しんでくださる読者がひとりでもいれば、著者としてこれにまさる喜びはない。

  二〇〇三年一月一日                 吉田 仁


■ 初出一覧


1. 咲いた桜になぜ駒つなぐ
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年4月号
2. 銀座の柳
    「市ヶ谷発」第20号・1993年5月1日発行
3. 鰹前線,北上中
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年5月号
4. 遅れた万太郎忌     
    「市ヶ谷発」第21号・1993年6月1日発行
5. 地に紫陽花,天に虹
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年6月号
6. 酸っぱい桜桃
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1994年6月号
7. 三十光年の愛
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1995年7月号
8. 芥川龍之介と鰻
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年7月号
9. 夏の風物詩
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年8月号
10. 蚊――このうるさきもの
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年8月号
11. 子規と漱石,秋ふたつ
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年9月号
12. 糸瓜忌[へちまき]
   「市ヶ谷通信」第2号・1991年10月20日発行
13. 月下の栗を穿つ
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年10月号
14. 毒のない河豚
    「市ヶ谷通信」第3号・1991年11月23日発行
15. お酉さまと樋口一葉
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年11月号
16. 七五三と三五七
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1993年11月号
17. 危うきに遊ぶ
    「市ヶ谷通信」第4号・1991年12月22日発行
18. 風狂の雪見
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1992年12月号
19. 乱と治の門松
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1993年1月号
20. 去年今年[こぞことし]  
    「市ヶ谷発」第5号・1992年1月23日発行
21. 不忍池の河豚
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1993年2月号
22. 永遠に失われた日
    書き下ろし
23. ボタ餅あれこれ
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1993年3月号
24. 弥生に辞す
    日本能率協会マネジメントセンター「マネジメント21」1995年3月号