三陸宮古なんだりかんだり
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雀  
雀 その2
ジュウシマツ
オオワシと大鷲
はまゆり
春来る鬼
志乃多旅館
イギリス商船漂着事件
磯鶏衆のパラオ漂流記
宮古駅の氷柱

宮古湾の歴史的海図










■ 雀

 
 家に雀が飛びこんできた。
 小学生のころの話だ。
 開け放していた裏口から入ってきたらしい。
 妙に人馴れした雀だった。
 どこかで飼っていたのが逃げだしたのかもしれない。
 人の肩や腕に止まる。
 てのひらにパンくずを載せるとついばむ。
 てのひらでそっと包んでも逃げようとしない。
 家で飼いたい――
 そう思ったとたん、雀は、ぱっと裏口から飛びだした。
 裏のアウェーコのどんづまりに長屋の共同便所があった。
 その上の物干しのほうへ飛んでゆく。
 ぎしぎし鳴る木造の階段を物干しに上がった。
 雀は斜向かいの家の2階の開いた窓に飛びこんだ。
 なかに人がいた。
 家から逃げだした雀だということを話した。
 その人が捕まえてくれた。
 窓と物干しとは少し距離があった。
 捕まえてくれた人は、窓から身を乗りだし、こちらへぽんとほうるようにして雀を放した。
 馴れた雀だから、そうすれば飛んでいって手に止まると思ったのだろう。
 雀は身をひるがえして遠くへ飛んでいったまま戻ってこなかった。
 こんどは幾久屋町の宮古教会の通りで起きた話だ。
 教会の並びに竹籠かなにかをつくっている店がある。
 そのまえを歩いていた。
 さかんに雀が空で鳴く。
 雀の群れを見上げた。
 一羽ぐらい落ちてこないかな――
 ふと、そう思ったときだ。
 飛んできた群れの一羽が、建物の壁にぶつかった。
 そのまますとんと地に落ちた。
 えっ!?
 と思いながら慌てて捕まえようとした。
 落ちた雀はセギにぴょんと飛びこんだ。
 そうして板蓋の下に入って見えなくなった。
 急いでひざまずいて、蓋の下をのぞきこんだ。
 しばらく探したけれど、雀は、ついに見つからなかった。
 狐につままれたような気がした。
 なんども壁を見上げ、セギを見た。
 ぼぉーっとしばらくたたずみ、やっぱりなんだかぼぉーっとしたまま歩きだす。
 いつのまにか雀の群れも通りからいなくなっていた。
 
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■ 雀 その2
 
 むかしは町なかに雀がいっぱいいた。
 宮古小学校の裏の小沢(こざわ)から山口にかけての田んぼ。
 南町の田んぼ。
 いまの長町から千徳方面の田んぼ。
 まわりに田んぼがいっぱいあった。
 秋のとりいれのころには、田んぼの周囲に稲を干すハザが建ち並んだ。
 雀は、そのまわりをうるさいぐらいに飛びまわった。
 宮町のカトリック教会、小百合幼稚園の南がわに空き地があった。
 土盛りがしてあり、雑草が生い茂っていた。
 そこに雀がよくたかった。
 空き地の東がわには防火用水の池があった。
 そのかたわらの家の屋根にも雀が群がっていた。
 家というより倉庫、物置のような建物だったかもしれない。
 ただ、トタン屋根が多いなかで、そこは瓦ぶきだった。
 瓦がめくれたり、割れたりしていた。
 板壁もところどころ破れていた。
 そんななかに枯れ草や藁でつくった雀の巣があった。
 巣が下に落ちていたりもした。
 屋根にのぼってヒナをとるという話をよく聞いた。
 じぶんでやったことはない。
 じぶんでやったのはパチンコだ。
 駄菓子屋で柄が金属製のパチンコを売っていた。
 三つまたの木の枝を探してきて、じぶんでつくろうとしたけれど、うまくできなくて結局買った。
 標的が雀だった。
 飛んでいる雀、枝かなにかに止まっている雀を狙って小石の弾を撃った。
 命中したことは多分いちどもない。
 禁止されていたカスミ網を使って、おとなはとっている、という噂もよく聞いた。
 大量にとって焼き鳥屋に売るんだそうだ。
 雀を食うなんて可哀そうな話だと思った。
 考えてみたら自分もパチンコで撃ち落そうとしていたのだから五十歩百歩だった。
 
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■ ジュウシマツ

 
 手乗り文鳥を一時期飼っていた。
 ピーコと名づけて可愛がった。
 多分すぐに死んだのだったと思う。
 そのあと飼ったのはジュウシマツだった。
 宮小の5、6年生のころだ。
 通学路の扇橋通りにある石垣さんから、つがいを買った。
 いまは通りの東がわにペットショップがあり、向かいに釣具の店がある。
 むかしは西がわの一軒だけだった。
 そこで釣道具も小鳥類も売っていた。
 巣箱は父がつくってくれた。
 古い小さな食器戸棚を改造した。
 ハイチョウ(蠅帳)という、こまかな金網を張った戸棚だった。
 上の部分の棚板を渡すところに木の枝を渡し、買ってきたワラ製の巣をとりつける。
 底板を抜く。
 下に一段の引き出しがあった。
 新聞紙を敷いて、瀬戸物の餌入れ・水入れを置く。
 餌ガラやフンがそこにたまる。
 ときどき新聞紙をとりかえる。
 世話はじぶんでやった。
 ところが、ジュウシマツというのは人に馴れることがないから、世話をしていてもあまり面白くない。
 それに、よく殖(ふ)えるのには困った。
 小さな巣にぎゅう詰めに入って寝る。
 卵が踏みつぶされる。
 か弱いヒナはたちまち死ぬ。
 最初はいちいち庭に埋めて手を合わせていた。
 そのうち面倒になった。
 新聞紙にくるんでゴミ箱に捨てるようになった。
 成長すると売った。
 石垣さんに菓子箱に入れて持ちこむ。
 なにがしかの値段でひきとってくれた。
 中学生になったらクラブ活動が忙しくて面倒をみきれなくなった。
 餌や水はとりかえても巣や箱はフンで汚れっぱなし。
 不衛生がたたったのか、どんどん死んでいく。
 だんだんいやになってきて全部を庭に放した。
 10羽くらいだった。
 なぜ石垣さんに持ちこまなかったのかはわからない。
 
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■ オオワシと大鷲

 
 宮古でオオワシが見られるらしい。
 海岸や閉伊川ぞいにすがたを見せるという。
 オオワシは翼を広げると2・5メートルにもなる。
 くちばしや脚のさきが黄色くて、羽根の肩のあたりや腿、尾羽が白い。
 飛翔するすがたは雄大で、神々しいと表現する人もいる。
 とにかく感動的な鳥らしい。
 国の天然記念物で、レッドデータブックの危急種に指定されている。
 危急種というのは、絶滅種・絶滅危惧種についで絶滅する恐れのある種をさす。
 シベリアやサハリンで繁殖し、日本には真冬に渡ってくる。
 以前、浄土ヶ浜で大きな鳥を見かけた。
 季節がちがうからオオワシではない。
 奥浄土ヶ浜に、印象的な一本松がある。
 一本松のたつ岩の、すぐ北がわの岩には、これも印象的な枯れ木が一本たっている。
 その枝に、その大きな鳥は止まる。
 枯れ木も、倒れもせずによくもっていると思う。
 ちょうど大きな鳥が止まっているのに気づいてカメラを構えたことがある。
 ファインダーのなかに枯れ木をとらえた。
 鳥のすがたはない。
 とっくに飛びたったあとだった。
 悠然と、けれども、ものすごいスピードで、臼木山のほうに向かって飛び去った。
 とてもカメラで追う余裕はなかった。
 あの鳥を大鷲だと思っている。
 ただ、そう言うと、オオワシとまぎらわしい。
 鳥のことは、あまり知らない。
 鷲と鷹のちがいもよくわからない。
 漠然と鷲は鷹よりも大きいものと思っている。
 その鷲のなかでも大きいのが大鷲だ。
 いつか、あの白い巨岩の枯れ木に羽根を休めるすがたを写真に撮りたい。
 こんどの冬には、オオワシも、ぜひ見にいきたい。
 オオワシの舞う宮古の豊かな自然に身をひたしたいと思う。
 
 オオワシそのほかの素晴らしい写真の数かずはこちら
 
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■ はまゆり

 
 中学生のときだ。
 浄土ヶ浜で泳いだ。
 遊歩道を帰った。
 ふと、まえを行くひとりの女の子に気づいた。
 透明なビニールバッグを片手にぶらさげている。
 白いシャツからのぞいた腕、短いスカートからのびた細い足が、こんがり日に焼けている。
 短い髪がふわふわ揺れている。
 ときどき立ち止まって、遊歩道の下の岩に寄せるさざなみをのぞきこんでいる。
 磯蟹でも探しているのだろうか。
 ゆっくり歩いても追いついてしまった。
 すれ違いながら横顔をみた。
 女の子が首をかしげて目があった。
 知らない顔だった。
 ふたつくらい自分よりおさなくみえた。
 目をそらして追い越した。
 少し行ってふりかえった。
 女の子は遠くをみながら歩いている。
 トンネルを抜けて少し行った。
 女の子もトンネルを抜けただろう。
 そう思って、またふりかえった。
 姿がみえない。
 しばらく立ち止まっていた。
 トンネルから出てこないので引きかえしてみた。
 向こうがわにもいなかった。
 かたわらの岩の上に咲く、一輪のはまゆりが目にとまった。
 さっきは気がつかなかった。
 女の子はやはりやってこない。
 はまゆりが風に揺れた。
 なぜこんなところに咲いているんだろう。
 のばせば手がとどく。
 だれかに摘まれてしまう。
 そう思ったけれど、どうしようもない。
 夕暮れの気配がせまってきた。
 小石浜から石段を上がり、置いておいた自転車に乗って帰った。
 翌日、また自転車をこいで行った。
 きのうのはまゆりは、みつからなかった。
 なんとなく、あの女の子は、はまゆりだったんじゃないかと思った。
 
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■ 春来る鬼

 
 先日、須知徳平(すち・とくへい)という作家が亡くなった。
 この作家の作品で読んだのは「春来る鬼」という中篇小説だけだ。
 「春来る鬼」は宮古と縁がある。
 内容にふれるまえに須知徳平の略歴を記す。
 生まれは盛岡。
 盛岡中学校、国学院大学専門部を出て岩手県庁につとめ、そのあと県内や北海道の中学・高校教諭となる。
 1958年(昭和33)文芸誌「北の文学」第4号に須川伸介の名で「南部牛方節」を発表。
 62年(昭和37)「ミルナの座敷」で講談社児童文学賞を受賞。
 63年(昭和38)「春来る鬼」で第1回吉川英治賞を受賞。
 80年(昭和55)再刊「北の文学」第1号から三好京三らと編集委員をつとめる。
 89年(昭和64・平成1)「春来る鬼」が映画化される。
 この間、盛岡大学の教授をつとめる。
 2009年(平成21)3月17日、心不全のため東京都内の病院で死去、享年87。
 代表作「春来る鬼」の舞台は、三陸の、ある岬の浜。
 そこに、北の浜から小舟に乗ってかけおちした若い男と女が流れつく。
 “さぶろうし”と“ゆの”といった。
 ふたりは岬の浜に受けいれられるために、さまざまな試しを課せられる。
 試しが終わろうする春先、岬の浜に疫病が蔓延する。
 頭屋と呼ばれる村の長も病に倒れる。
 さぶろうしは試しを乗り越えるうちに頭屋をはじめとする村びとたちに認められて、頭屋を継ぐものとなる。
 「春来る鬼」は、そんな話だ。
 調べてみると、1989年の映画化には、俳優の小林旭がメガホンをとっている。
 まえの年に陸前高田や重茂(おもえ)でロケが行なわれたらしい。
 小説に舞台が重茂半島だと特定させる言葉はない。
 宮古ロケの話も人に聞いたことがない。
 もし知っている人がいたら教えてほしいと思う。
 
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■ 志乃多旅館

 
 志乃多(しのだ)旅館がなくなった。
 この7月初旬に建物が解体された。
 跡地は駐車場になるらしい。
 住所は大通3丁目だが、大通りに面してはいない。
 一本南側の通りで、旧国際劇場の西向かいの角地だ。
 志乃多旅館(旅館志乃多というのが正式らしい)の西側には、かつて魚菜市場があった。
 そこから緑町、五月町と魚菜市場は移転した。
 もとの魚菜市場は、八幡通り、つまり今の大通りから八幡沖踏切に伸びる道に面していた。
 道を挟んだ向かい側一帯に、宮古駅の敷地まで、同じ形をした木造・一戸建ての住宅が建ち並んでいた。
 志乃多旅館からそのあたりにかけてを、篠田町(しのだちょう)と呼んだ。
 「宮古市史年表」を見ると、1960年(昭和35)10月22日に、“魚菜市場、篠田町に完成、五十店”とある。
 さかのぼって、1931年(昭和6)の項に、“この年、篠田町設定”とある。
 篠田町という名は、地主が自分でつけたものらしい。
 地主は篠田米吉(よねきち)といった。
 篠田米吉は実業家で町会議員だった。
 鉄道の枕木を扱って成功した人物だ。
 宮古生まれの人間ではなく、富山あたりからやってきて、どうも、はじめは閉伊川で材木の筏流しから始めたようだ。
 それが、船材、枕木の売買と手を広げて当時の宮古・鍬ヶ崎を代表するような実業家になり、議員になった。
 儲けた金で、みずから篠田町と名づけることになる一帯の土地を買い占めた。
 いわば立志伝中の人物だ。
 一面、一代で財をなした者にありがちな、さまざまに噂されるような逸話も多かった人だったらしい。
 旅館の志乃多は篠田を好字におきかえたもので、篠田米吉の所有だった。
 太平洋戦争後に、はじめは錦館という名で開業した。
 鬼山親芳さんの『宮古の映画館物語』の口絵に、国際劇場を撮った写真が載っている。
 錦館の門柱と、看板らしきものも写っている。
 看板には、「錦館」の名のほかに、「秋田郷土料理きりたんぽ鍋」という文字がある。
 これを見ると、はじめは料亭だったのかもしれない。
 錦館から旅館志乃多に、いつ変わったのかは不明だ。
                    2010.7.16
 
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■ イギリス商船漂着事件

 
 いまから130年まえ、1881年(明治14)のことだ。
 一隻の帆船が、重茂(おもえ)に漂着した。
 イギリス商船のホルワルド・ホー号だった。
 ホー号は、神戸からアメリカへ向けて出航し、三陸沖で暴風にあった。
 帆を吹き飛ばされ、転覆寸前で重茂魚港の沖あいに漂着し、座礁した。
 漁をしていた重茂の村びとに助けを求めた。
 重茂の村びとたちは、ウェード船長以下、乗員26人を民家に収容し、積み荷もすべて運びあげた。
 作業が終わると船は沈没した。
 重茂村で4日ほど手厚い看護・もてなしを受けた乗員は、鍬ヶ崎に移された。
 重茂村でと同じように、民家に分宿し、手厚い看護やもてなしを受けながら、横浜へ行く船を待った。
 2週間後、住ノ江丸で横浜に移った。
 ところが、横浜の英字新聞が、とんでもない記事を載せた。
 ホー号が重茂に漂着するや、「土人が群集して略奪をなし、しょせん防御もままならないので、なすにまかせた」と――
 イギリス領事が、ときの外務卿・井上馨(かおる)に強く抗議した。
 外務省は、あわてて調査に乗りだした。
 重茂に来て事情を聴取した。
 もちろん、いくら調べても、略奪などという事実は現われてこない。
 けっきょく、英字新聞の根も葉もない誤報にすぎなかった。
 重茂村の人びとは後味の悪い思いをした。
 この顛末は「英国商船難破一件報告書」という文書になって岩手県公文書庫に残っている。
 参考文献に、岩手日報社『岩手の歴史 なぜ?どうして?』収録の「ホルワルド・ホー号漂着が、なぜ大事件に」がある。
 
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■ 磯鶏衆のパラオ漂流記

 
 江戸時代のことだ。
 1820年(文政3)11月26日、神社丸という船が、大槌の港から江戸へ向けて出帆した。
 神社丸は650石積み・12反帆。
 江戸の盛岡藩蔵屋敷へ届けるイワシ粕・魚油・カツオ節やダイズ・米などを積んでいた。
 乗り組んでいたのは12人。
 水夫は磯鶏(そけい)村の人たちだった。
 12月12日、房総沖にさしかかった。
 猛烈な嵐にあった。
 帆柱を切り捨てた船は、漂流を始める。
 翌年1月21日になって、南洋パラオに漂着した。
 座礁した船から小舟を下ろして上陸しようとした。
 が、波をかぶって水舟になる。
 仕方なく、海に飛びこみ、泳いだ。
 溺れたのか、2人が行方不明になった。
 上陸した10人は原住民と出会った。
 丸はだか同然で、形相がすさまじい。
 手には槍や斧を持っている。
 ここは鬼ヶ島かと思って観念した。
 ところが、向こうも警戒して近づかない。
 しばらく互いに探りあっている。
 そのうち、遠くから手振り身振りで漂流者であることを伝え、保護を求める。
 どうにか通じ、分かれて民家に収容された彼らは、食事を与えられて、やっと人心地をとりもどす。
 寝るときは会所のような大きな建物に集められた。
 それから彼らは、漁や畑仕事を手伝いながら、4年間をパラオ島で暮らす。
 その間、2人が死んだ。
 パラオと10年に一度の通商があったシャムの船が、やってきた。
 8人は、乗せてもらって、シャムへ渡る。
 シャムというのは、いまのタイだ。
 そして清国(中国)へ渡る。
 さらに念願の日本行きの船に乗る。
 この船も嵐にあう。
 こんどは幸い日本に漂着し、長崎の奉行所へ送還される。
 この間に1人が死んで7人に減った。
 長崎で踏み絵を踏まされ、取り調べを受けた。
 その後、2人が死んだ。
 7年ぶりに、生きて、ふるさと磯鶏の土を踏むことができたのは、5人だった。
 
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■ 宮古駅の氷柱

 
 8月6日の朝、宮古駅へ行った。
 駅周辺の写真を撮っていた。
 すると、駅員さんらしき人が二人がかりで大きな黒いバッグのようなものを運んでくる。
 なんだろう?
 待合室の真ん中には、大きな鉢のような、木製の台が置かれている。
 その上に、バッグのなかのものを据えつけようとしている。
 近づいてみたら、氷柱だった。
 どうやら、恒例になっている氷柱サービスの、今シーズンの初日だったらしい。
 しかし、なにやら手こずっている。
 台の上に氷柱を固定する金属製の枠がある。
 その幅が、氷柱の底部より、ちょっとばかり狭かったようだ。
 ドライバーを持ってきて枠のボルトを緩め、枠を広げた。
 無事に設置されたところへ、カメラをかついだ報道陣がやってきた。
 5〜6人はいただろうか。
 三脚に写真機を載せたり、ビデオカメラのテストをしたりしている。
 やがて、そばのベンチに座っていた小さな女の子二人に、声をかける。
「氷柱に、触ってみて!」
 女の子たちが、両のてのひらを広げて触る。
 冷たさに歓声をあげる。
 そのようすをカメラに収める。
 女の子たちに感想を聞き、駅長さんらしき人に取材する。
 偶然とはいえ、その一部始終を最初から見ていた自分も、りっぱな?報道陣のひとりだった。
 ちゃんと写真を撮り、サイトのトップに掲げて報道したのだから。
 氷柱には、きれいな造花が入っている。
 もちろん毎日とりかえる。
 10年ほど前から、帰省者や観光客の多い真夏に毎年設置して、涼を呼んでいる。
                    2010.8.8
 
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■ 宮古湾の歴史的海図
 
 宮古湾の歴史的な海図を発見した。
 といっても、ウエッブ上でのことだけれど……
 国立公文書館のサイトがある。
 そのなかにデジタルアーカイブというコンテンツがあって、公文書館所蔵の貴重な文書や図面、写真などを見ることができる。
 地域別の検索欄で東北>岩手とたどっていく。
 すると、そこに、「陸中国宮古港」という海図が収録されている。
 宮古港というより、重茂〔おもえ〕半島から姉ヶ崎あたりまでをカバーした宮古湾の全体図だ。
 明治4年7月という記載がある。
 明治4年というと1871年だから、いまから140年前のことになる。
 これは測量した年月、あるいは原図が描かれた年月なのだろう。
 発行は、翌1872年(明治5)のことらしい。
 発行元は「大日本海軍水路局」。
 実際に測量にあたったのは、柳楢悦(やなぎ・ならよし)海軍少佐をはじめとする測量艦・春日(かすが)の一行だった。
 この「陸中国宮古港」の海図は、1879年(明治12)になって、『大日本海岸実測図』という、それまで発行された海図をまとめた一冊に収録された。
 目次には「日本海軍水路局実測図」とある。
 その目次に従うと、日本全図の次に収録されている海図の最初は「陸中国釜石港」、次が「根室国野附錨地」、3番目が「陸中国宮古港」になる。
 一枚一枚の海図は、この順序で発行されたらしい。
 ただ、実際に測量あるいは原図が描かれたのは、野附錨地(北海道野付湾)が明治4年の4月、宮古が7月、釜石8月の順になる。
 これは、測量隊が、イギリスの測量艦シルビア号とともに北海道各地を測量しての帰途に、日本人だけで北から順に測量していったからだ。
 だから、測量の順でいえば、日本人だけの手でなされた近代海図制作の第1号は、野付湾ということになる。
 宮古湾は残念ながら第2号。
 発行順で第1号の釜石港には、港を一望する石応寺・釜石大観音前の広場に、「海図第1号」を記念する石碑が建てられた。
 1994年(平成6)のことだ。
 宮古湾の図も、日本初にこそならなかったものの、宮古の人たちにもっと知られていい貴重な海図なのではないかと思う。
 
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