三陸宮古なんだりかんだり
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第 3 部  100話 + 投稿3話 + 資料4
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山口川橋尽くし
山口川問題
山口川橋尽くし その2
かまど返しのワゴーさん
陸中海岸国立公園の夜明け
大正時代の宮古ガイドブック
新世紀の宮古八景
歌集「ふるさとの海」
剛台とわれは名づけき
クロコシジロウミツバメの歌
【投稿】 よく見ますよ、クロコシジロ * 青年漁師
「宮古の映画館物語」
ぼくの宮古シネマ・グラフィティ
【資料】 SCREEN――宮古で観た映画一覧
駒井雅三氏と鬼山親芳さん
【資料】「ふるさとの海」復刻 * 鬼山親芳
吉田タキノさん
仁王の夜遊び
長根寺の尾玉さま
尾玉さまはヘイサラパサラ!?
玉王山長根寺
【投稿】尾玉さまを科学する * けむぼー
ウニ漁の口開け
宮古一中の校歌
宮古一中の校歌 その2
【資料】NSP天野滋さんの訃報
     メンバーのメッセージ
山口川散策
鍬ヶ崎道をたどって
重茂まで歩く・・・
重茂の焼きウニ
緑の黄な粉
焼きウニ1万個盗難
焼きウニ騒動余話
宮古病院跡地
さんまゆうパック
沢のつく地名
水がうまい!
狐の仕返し
石臼の話
腹帯ノ淵
閉伊川伝説
アガザッコ
焼きまつも
“元祖” 焼きまつも
【投稿】まづぼだーべ。 * JAN OCCO
真崎の岩ツヅミ ――宮古の昔話1
駒止めの桜 ――宮古の昔話2
トクサ畑で ――宮古の昔話3
「都桑案内」と関口全平
藤原上町の牧場と射撃場
ラサ専用線
デエゴ泥棒 ――宮古の昔話4
カツギの辰 ――宮古の昔話5
海の六地蔵 ――宮古の昔話6
巡礼と鮭 ――宮古の昔話7
ニーロンとアズミ ――宮古の昔話8
味噌汁女房 ――宮古の昔話9
牛方とヒトヅメ ――宮古の昔話10
牛方と青鬼 ――宮古の昔話11
ヌガボー ――宮古の昔話12
ヌガボーとリンゴバナ ――宮古の昔話13
捨てられたヌガボー ――宮古の昔話14
サケの又兵衛 ――宮古の昔話15
絵入り追分道標
三つの絵入り道標
ケーソン  photo by shiratori
ケーソン余話
竜神崎
山の神
元朝参り
八幡さま
黒森さまのお酒
資料本田竹広さんの訃報・追悼記事集
本田さんの死
伝聞 本田竹広
みやごのごっつお
“奇跡の鉄道”岩泉線
漂流から生まれた縁
毛ガニの旬
毛ガニまつりの記事
しょっぱい塩鮭
寒干鮭
宮古の写真集
黒森山のイタコ石
津波と船幽霊
黄色い米粒
スネコタンパコ ――宮古の昔話16
ポリライス
白鬚伝説
横山伝説
宮古ゆかりの書画家、駒井常爾
仰げば尊し
宮小の卒業記念品と並木
切れぎれの記憶 宮小篇1
切れぎれの記憶 宮小篇2
切れぎれの記憶 宮小篇3
油せんべい
中村屋せんべい店
中村屋のある通り
オシンザン
便所のことなど
先割れスプーン
買い食いの味、パンの耳
ぼくらの永田商店
駄菓子・駄玩具
火の見櫓のカラスの巣
コーロコロコロ
 以上「三陸宮古なんだりかんだり」第3部100話
 第1部〜第3部 計300話   第4部へつづく








■ 山口川橋尽くし

 
 宮古出身のけむぼーさんのホームページに「みやごの写真(今昔編)」というコンテンツがある。
 ほぼ同じポジションから撮った現在と昔の風景写真が並べられていておもしろい。
 そのなかに山口小学校を写したものがある。
 二枚の写真のアングルはちょっとずれていて、昔の写真には山口川と山小前の橋も写っている。
 ふと思った――あの橋は、なんという名前だろう。
 何度かたたずんでは川を見おろし、黒森山を眺めたことのある橋だ。
 名前を気にかけたことはなかった。
 急いで手持ちの地図を見た。
 名前は書かれていない。
 教えてもらおうと思って掲示板に書き込んだら、けむぼーさんも知らなかった。
 かわりに、宮古に住んでいる弟さんに手配して調べてもらっているという返信があった。
 すぐに橋の名前は判明した。
 鴨崎橋だった。
 鴨崎橋ばかりではなく、山口川に架かっているほかの橋の名も、メモ帳と鉛筆を持ってジョギングしながら調べてくれたという。
 気まぐれな疑問のために人を走らせてしまったと恐縮したが、せっかくだから調べてもらった橋の名をここに記しておきたい。
 北から、寄生木橋(中屋石油黒森給油所前)、田の神橋(コープ西町前)、泉橋(泉公園〜泉町)、鴨崎橋(山小前)、新開橋(西公園〜鴨崎)、そして山口橋(旧街道)の6つだ。
 旧街道というのは横町通りから舘合町を抜けて旧国道106号につながる閉伊街道筋。
 その南の第二幹線筋には一字橋がある。
 以下、南へあげていくと、末広通りへ接続する旧国道106号に架かる橋は不明。
 その南が山田線の鉄橋で、これも名前は不明。
 市立図書館前にある橋も不明。
 新しい国道106号に架かるのは八幡橋で、これは以前帰省したときに確認した。
 鉄橋もふくめて11の橋が山口川に架かっていることになる。
 川幅が狭いために意識することは少ないけれど、どの橋も生活上なくてはならない重要な存在。
 なのに、名前は案外知らない。
 こんど帰省したら不明の橋の名も調べてみたい。
 
【後記】
 山口公民館前も橋のような気がするが名前はなかった。
 その南、寄生木橋の手前に神田橋があった。
 だから、南へ順にあげると神田橋・寄生木橋・田の神橋・泉橋・鴨崎橋・新開橋・山口橋・一字橋・一石橋、鉄道橋の山口川橋梁のつぎが八幡上の橋・八幡橋となり、鉄橋も含めて12の橋がある。
 このあとの「山口川散策」でも橋について書いているので参照してください。
 ⇒ 山口川散策
 
 ⇒ けむぼー温泉
 
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■ 山口川問題

 
 まえから疑問に思いながら、いまだに解決のついていない事がらに、山口川名称問題というのがある。
 山口川は横山八幡宮の裏手で閉伊川に注ぐ。
 地図を見ても、この、むかし山口川放水路と呼ばれていた流れのほうに山口川の名がついている。
 山口川の本流は、山口小学校のまえの鴨崎橋の下流で東へ分かれる細い流れのほうだった。
 この旧本流は、いったいなんと呼んだらいいのだろう。
 そんな疑問は市役所の河川課にでも問い合わせれば解決すると思いながら、なかなかできない。
 ひょっとしたら、役所でも答えられず、タライ回しにされた挙句ウヤムヤに終わるのではないかという不安がよぎる。
 つまり、旧本流には名前がついていないんじゃないか、という疑念がある。
 その疑念が事実として明るみになっても困るなという気持ちもある。
 ここは穏便に曖昧に勝手に“旧山口川”とか“山口川のもとの本流”とか単に“山口川”とかケース・バイ・ケースで呼び分けておいたほうがいいかもしれない。
 この旧山口川にも橋があるが、扇橋と大勝橋しか知らない。
 扇橋は末広通りの山清商店(酒屋)のわきから宮古小学校へ向かう通りに架かっている。
 ほとりには和裁洋裁用品や鞄などを扱う磯野商店があり、以前は扇橋旅館が近くにあった。
 磯野商店では中学時代に制服の首につけるカラーというものを買った。
 扇橋旅館には同学年の男の子がいて小学生のときガレージの卓球台で遊んだ。
 大勝橋は末広町の東端から黒田町を通って横町へ向かう通りに架かっている。
 近くには北銀(北日本相互銀行)や長谷川製材所があった。
 製材所に入りこんで材木の山に登って遊んだ。
 旧山口川は大勝橋から東の黒田町のはずれ、公衆トイレのところで暗渠に入る。
 あの暗渠のなかはいったいどうなっているのだろうと鉄柵越しに覗きこんでみたことがある。
 川自体が昔は今よりはるかに汚くて、おぞましい想像に身がすくんだ。
 そのおぞましさに憑りつかれたのか、山口川暗渠問題は、子供心に永いあいだ暗い影のように巣食っていた。
 
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■ 山口川橋尽くし その2

 
 いまの中央通りができるまえは、山口川が空の下を流れていた。
 その両岸には道があり、商店や仕舞た屋(しもたや)が軒を並べていた。
 両岸をつないで、いくつも橋が架かっていた。
 山根英郎さんの「湾頭の譜」に、その橋の名が記録されている。
 幾久屋橋・田町橋・高橋・仲瀬橋・夫婦橋の5つだ。
 もう少し詳しく「湾頭の譜」から紹介してみよう。西から東へあげてゆく。
 @幾久屋橋=岩田自転車店やパリー写真館の交差点のところで黒田町と幾久屋町を結んでいた。
 A田町橋=スーパーマルフジの交差点のところで新町と田町を結んでいた。
 B高橋=当時の主要道の本町と向町の通りを結んでいた。
 C仲瀬橋=丸石家具店の前から仲瀬の伊藤牛乳店のところへ架けられていた。
 D夫婦橋=旅館の昭和館の前から市役所、昔の公会堂へ架けられていた。
 山口川の蓋かけ工事によって橋はみななくなったが、高橋(たかばし)の名は交差点の名としていまも使われている。
 ただ、この高橋、それから夫婦橋というのは名前の由来がわからない。
 幾久屋橋・田町橋・仲瀬橋は地名・町名からとられている。
 仲瀬(なかせ・なかぜ)というのは山口川の南岸で、伊藤牛乳店から市役所あたりまでを呼んだらしい。
 むかし、閉伊川と山口川が合流するあたりにあった中洲の名残りなのだろう。
 山口川の北岸は片桁と書いてカタゲタ・カダゲダ・カダギダなどと呼ばれたと別の資料で読んだ覚えがある。
 「湾頭の譜」から紹介したなかに出てきた店の名は橋があった当時ではなく、この文章が書かれた時点で現存していたものだ。
 文末に〈55・10〉とあるのは昭和55年のことだろう。
 昭和55年は1980年だから、いまから25年前の文章ということになる。
 25年たったいま、岩田自転車店は移転して健在だが、パリー写真館はあるかどうか。
 伊藤牛乳はなくなってしまった。
 
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■ かまど返しのワゴーさん

 
 山口川はむかし庵屋(あんや)川ともよばれていた。
 江戸時代の文政・天保(1818〜1844)のころ、山口川のほとりにひとりの俳人が庵を建てて住んでいたことに由来する。
 俳人の名は岩間北溟(いわま・ほくめい)。
 小島俊一さんの「陸中海岸風土記」には、おおよそ以下のように書かれている。
 ――岩間北溟は1779年(安永8)宮古・本町の富豪えびす屋の長男に生まれた。
 草花を好み、小鳥を可愛がる少年だった。
 長ずるにしたがい詩歌・俳諧・書画に心を寄せた。
 30歳のとき江戸や京に遊学し、有名無名の文人を訪ねては交わりを結んだ。
 47歳のときに帰郷し、宮古俳諧の第一人者になった。
 ある年、山口川のほとり、いま黒田町の松本旅館近くに庵を建てた。
 梅の古木をそのまま床柱にし、窓には壁も塗らず戸障子も立てず、風も光も音も自在に通った。
 西の窓からは雪の早池峰、秋には月光が楽しめた。
  元旦や先づ早池峰の袴立(はかまだち)
  鐘の外に音なし雪の朝ぼらけ
  片隅は蔦(つた)の縄なり庵(いお)の蚊帳
  名月は天下一なり草の庵
  月一つ何にもいらぬ庵哉(かな)
  わが庵や月見の客は萩すすき
 家業を忘れて句作三昧にふける。
 人生の達人の心意気を愛蔵のふくべに“人生の楽事は酒にあり”と記す。
 ついに家運は傾き、蔵も売ってしまうが、淡々たるもの。
  蔵売りて向うの竹の見ゆるかな
  つゆほどの家ひとつ有(あり)はなすみれ
 宮古風にいえば、かまど返しのワゴーさん、道楽息子だった。
 1837年(天保8)12月、59歳で死去。
 大樗庵北溟先生之墓と刻まれた墓碑が常安寺にある。
 愛蔵のふくべは横町の藤島家に伝わる。
 以上が引用。
 俳句がとてもいい。
 松本旅館というのは、いまは岩見神経内科医院になっている。
 
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■ 陸中海岸国立公園の夜明け

 
 東京の新宿御苑にでかけた。
 新宿駅から歩いて10分ほど、新宿門の脇に新宿御苑インフォメーションセンターという施設がある。
 環境省の管轄で、新宿御苑や国立公園などに関する情報を流したり、自然保護活動などを啓蒙したりするところらしい。
 ここで陸中海岸国立公園指定50周年を記念した写真展が5月10日から22日まで開かれているというので覗いてみた。
 平日ということもあって入場者はまばらだったが、30坪くらいの広さの会場には50点ほど写真が掲げられ、陸中海岸国立公園や関係する市町村のパンフレットが置かれ、ポスターも貼られている。
 奥のワイドスクリーンのモニターでは10分ほどのビデオが繰り返し映しだされている。
 冒頭は浄土ヶ浜の夜明けのシーンだった。
 見ていると、やはり浄土ヶ浜がなければ陸中海岸国立公園もないという印象を強くする。
 会場の中央には陸中海岸国立公園の夜明けを導いた宮古の故駒井雅三(まさぞう)氏の撮った写真が掲げられていた。
 「駒井雅三氏と陸中海岸国立公園」と題した文章や駒井氏自身の「陸中海岸のことども」と題した文章、それに「陸中海岸国立公園誕生余話」という文章もパネルにして展示してあった。
 宮古でも50周年記念行事のスタートとして、5月3日から8日まで駒井雅三回顧展が“シートピアなあど”を会場に開かれたという。
 国立公園指定に尽力しただけではなく、写真を撮り、短歌を詠み、校歌などの作詞をし、新聞や雑誌を出しと、宮古の文化をリードしてきた人の素顔が紹介されたらしい。
 歌集「ふるさとの海」も復刻されたという。
 夜明けではなく夕暮れの景だが、なかにこんな歌がある。
  断崖の涯なく続き 蒼茫と 暮れゆく海よ うみねこの声
 
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■ 大正時代の宮古ガイドブック

 
 Mさんという匿名の方からメールをいただいた。
 「都桑案内」という本のコピーを見る機会があったという。
 「都桑案内」は大正時代に出版された宮古・鍬ヶ崎のガイドブックで、宮古でもまず手に入らない幻の書だ。
 Mさんは、こんなふうに書いていた。
 浜千鳥のイラストのなかに“都桑案内”の文字が2列に書きこまれ振り仮名がふってある。
 浜千鳥のイラストの外に「一名 宮古、鍬ヶ崎案内」と括弧書きされている。
 編者は関口花涯。
 次ページに写真も載っているが紹介文はなく、どんな人物かはわからない。
 48ページに「新宮古八景 佐藤東山」とあって短歌が並んでいるが、7首しかない。
 佐藤東山も作者なのか選者なのかわからない。
 @黒森暮雪
  消え残る雪まだ白し黒森の祖父祖母の髪寒うして
 A保久田落雁
  年々にかりねの宿と馴れや来し保久田に落ちる雁の一つら
 B横山秋月
  世を護る神のみいつは横山の秋の夜にこそ月に著(し)るけれ
 C尾崎帰帆
  真帆片帆うち連れ帰る舟みへて閉伊の岬は絵となりにけり
 D藤原晴嵐
  打ち寄する波かとぞ聞く藤原の松の梢にわたるあらしを
 E宮古橋夕照
  早池峰添えて行かふ人みへてみやこのはしの夕栄えにけり
 F鍬ヶ崎夜雨
  しとしとと降り来る雨に灯の洩れて夢や楽しき春の夜の街
 49ページには「新選 宮古八景」がある。
 「嶺雨 上舘全霊」の名があり、七文字四行の漢詩で八景が書かれている。
 表題だけを書き写した。
 @宮古橋新晴 A旧都島新潮 B鍬ヶ崎春夜 C測候所暮雪
 D築地通帰漁 E浄土浜秋月 F水産高桜花 G潮吹巌晩汐
 奥付には“発行日:大正七年十月二十三日/発行所:小成書店/印刷所:花坂活版印刷所/定価:金参拾五銭”とある。以上
 幻の「都桑案内」の実物を、いつか自分の目で見たいものだ。
 
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■ 新世紀の宮古八景

 
 東京の新宿御苑で開かれた陸中海岸国立公園指定50周年記念写真展の会場に置かれていたパンフレットをいくつかもらってきた。
 宮古市の商工観光課が発行したパンフレットのなかには“新宮古八景”のページがあり、短歌と写真が載っている。
 宮古観光協会が市内の名所を公募して新宮古八景を選定した、写真と短歌は新八景を題材としたコンクールの入賞作品であると説明書きがある。
 観光協会のホームページに写真は載っているが、短歌は紹介されていなかったなと思い、念のため、もういちどホームページを覗いてみた。
 よく探したらあった。
 写真とは別のページに掲載されていたのが見落とした原因のようだ。
 どうせ写真と短歌を載せるなら、いっしょにしたらどうだろう。
 それはともかく、ここでは短歌を紹介しておきたい。
 表題のつぎに作者名を掲げる。
 
@潮吹穴  三田地信一        (三田地の地はママ)
 人恋ふる熱き想ひのたぎるごと清しき空に潮噴き上ぐる
A日出島  舘洞津久夫
 日出島の太古の海の証しなるアンモナイトは語り継がるる
B浄土ヶ浜  稲垣貞男
 水清き浄土ヶ浜に波寄れば水底の石ゆらめきて見ゆ
C臼木山   富谷英雄
 青春の思い出がある臼木山サクラの下で描いた未来図
D月山   佐々木チエ
 月山に水平線を見はるかし子に語りしは若き日の夢
E津軽石川  森田昌蔵
 大洋を遥かに帰り遡上する鮭に定めの命を見つむ
Fとどヶ崎  川目孝子
 螺旋階段眼くらみて上りたりとどヶ崎灯台海に浮くごと
G十二神山  北口博志
 尋め行けば太古のままに木々は立ちまほろばの神住まひましける
 
 “尋め”は“尋ね”の誤植ではなく“とめ”と読む。
 コンクールの日付はパンフレットにも書かれていない。
 汐路さんという人の情報では、新世紀と市制60周年という節目の年を記念したもので、2001年(平成13)1月のことだという。
 
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■ 歌集「ふるさとの海」

 
 陸中海岸が国立公園に指定されて50年たった今年(2005年)は、指定獲得運動に奔走した駒井雅三氏の没後20年にあたる。
 その駒井雅三氏の第一歌集「ふるさとの海」が節目の年を記念して5月2日に文化印刷から復刻され、手もとに届いた。
 初版の発行は1979年(昭和54)4月29日。
 もう26年がたつ。
 全篇が三陸の海にまつわる歌ばかりという稀有な歌集ということもあって、いちどは読んでみたいと思い、それとなく探してはいたが、手に入らなかった。
 子息の駒井剛機さんが書いた編集後記を読むと、手もとにも2冊しかなく、市立図書館では破損してしまったのか以前あった蔵書が見つからなかった、没後20年と国立公園指定50年というタイミングを得て復刻した、という。
 「あとがき」や略年譜を見ると、この「ふるさとの海」初版を出したとき、駒井雅三氏は72歳。
 少年時代から短歌をつくりはじめた人としては遅い第一歌集だった。
 歌集が届いた日、1933年(昭和8)の三陸大津波に始まり1978年(昭和53)の日ソ漁業交渉に終わる1300首余の短歌群に急いで目を通した。
 ひとりの個性的な男の生き方に圧倒される思いが残った。
 しかも、繰り返すなら、そのすべてが海のにおいのする歌だ。
 駒井雅三氏が生涯にわたって三陸の海に寄せた愛情、海に託した情熱にうちのめされた。
 磯鶏陣屋崎に友人たちの手によって最初の歌碑が建ったのは1955年(昭和30)だったという。
 歌集が出るはるか以前に歌碑が建立されるのも珍しい。
 歌人としてはもちろんのこと、人柄や言行の愛される人でなければ生じえない光景といっていいだろう。
 
  断崖の涯なく続き 蒼茫と 暮れゆく海よ うみねこの声
 
 歌碑に刻まれたこの歌に並んで、歌集には次のような歌がある。
 
  歌碑(うたぶみ)の石に刻まれ建ちければ
              わが生きざまの なおざりならず
 
 なおざりならぬ生と、なおざりならぬ三陸の海とが、ときには苦く、ときには温かく交響した歌の数々――
 「ふるさとの海」におさめられた歌群を敢えてひとことで言えば、そう表現できると思う。
 
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■ 剛台とわれは名づけき

 
 剛台(つよしだい)という名の展望台が浄土ヶ浜の北部にある。
 第3駐車場から歩いてすぐのところで、眼下には蛸の浜の海が広がり、砂島(さごじま)や日出島が遠望できる。
 この剛台という名が妙にひっかかっていた。
 どう考えても自然に生まれた地名ではない。
 地域の人たちの便宜によってつけられたのでもなく、なんらかの配慮のもとに意識的につけられたような気がしてならなかった。
 いわれとなる伝説でもあるのだろうかと探ってみたこともあったがわからなかった。
 駒井雅三氏の歌集「ふるさとの海」を読んで驚いた。
 はっきり言って唖然とした。
 そして思わず笑ってしまった。
 1958年(昭和33)の歌のなかに「国園の鬼田村博士を憶う」という一連の歌がある。
 
  剛台とわれは名づけき 裏浄土 蛸の浜眼下の ここの高処を
  陸中の国立公園生ませたもう 博士の御名とゞめしよ 剛台
  田村剛博士の御名とゞめおき 忘れべけんや 陸中の海
  陸中海岸生みの親ともみまほしく 剛台とは わが名づけたる
 
 陸中海岸は1955年(昭和30)5月2日に国立公園に指定された。
 その3年後、指定運動に尽力した駒井氏は、田村剛博士という“国園の鬼”の名を浄土ヶ浜の展望台に冠し、その努力を忘れまい、自分こそその名付けの親だ、と高らかに告げる歌を詠んだ。
 そうか、そういうことだったのかという疑問が氷解した嬉しさとともに、そこにある爽やかなものを感じてならなかった。
 陸中海岸国立公園の指定に奔走した駒井雅三・田村剛という二人の汗や喜びが伝わってくる。
 うらやましいほどの邪気のなささえ――
 東京大学の林学博士で、陸中海岸だけではなく日本の自然公園の設立と保護に大きな働きをして“国立公園の父”とまでよばれるという田村剛博士については、ほとんど知識がない。
 いまはただ駒井雅三氏の歌に博士の面影を偲ぶばかりだ。
 
  痩身に眼鏡の博士 杖もたれ 御足すこし 不自由なりき
  国立公園鬼と呼ばれし炯眼のやわに笑まえり えぞはまゆりに
  崖を覆う 浜菊乱れ咲きたるを まなこ細めて見つる 博士は
 
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■ クロコシジロウミツバメの歌

 
 国の天然記念物に指定されているクロコシジロウミツバメについて前にこの「宮古なんだりかんだり」に書いたあと、何人か宮古の人間に訊いてみた。
 実物を見たことがあるという人はいなかった。
 ある人からは、こんなメールをもらった。
 ――“亡き父が隠居所に建てた日出島海岸の風光明媚なところに老母と住んで、もう25年になります。
 その間クロコシジロウミツバメを一度も見たことがありません。
 私にとっては「まぼろしの鳥」です。
 気がつかないだけかもしれません。
 蝶のようにひらひら飛ぶツバメと教えられ、そのイメージで探すのですが……。
 探鳥会にでも参加すれば見ることができるかもしれませんね。”
 町なかに住んでいたぼくに見た記憶がなくて当然だったようだ。
 夜に、しかも海上を飛んでいるから陸(おか)の人間には見られないのだという話も聞いた。
 そもそも、絶滅危惧種に指定されているほどの珍鳥だから数が少ないという事情もあるのだろう。
 ある資料によると釜石市の三貫島でも多くて100つがい程度しか棲息していないと推定されているらしい。
 日出島には1960年代半ばに2万5000つがいがいるとされたが、1973年(昭和48)に3930つがい、1994年(平成6)には800つがいと激減している。
 駒井雅三「ふるさとの海」に、この鳥を詠んだ歌がおさめられている。
 あとの2首をのぞいて1948年(昭和23)に詠まれた歌だ。
 
 けものめく巣をいとなめり地の中に くろこしじろは昼を潜みて
 矢竹むら生いて繁れる地の中に くろこしじろは巣をいとなめり
 ぐつぐつの鳥と漁師らいつよりか名づけて呼べりくろこしじろを
 夜の鳥はクツクツ鳴きて航灯に まよいきたれり 海わたる夜は
 みにくくて臭き鳥ゆえ夜を飛びて 昼は孤島の地の中に住め
 地の中に潜みて夜を飛ぶ鳥は 人に知られず 族たもちたる
 地の中にひそみて昼はけものめく くろこしゞろは夜を飛びかう
 くろこしじろ海のつばめは日出島の土の中より巣立ちしらんか
 
 ひょっとしたらこれは、クロコシジロウミツバメを詠んだ日本初の、ということは世界初の、唯一無二の短歌群かもしれない。
 
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よく見ますよ
、クロコシジロ   青年漁師 * 投稿
 
 この鳥って、夜行性だから明るいときに見ることってほとんどないんじゃないでしょうか。
 秋・冬くらいによく見ます。
 鮭漁の期間だと、夜中に黒い鳥が飛んでいます。
 光に向かってくるような習性があるんでしょうか。
 よく魚市場の明かりに向かって飛んできて、車にひかれて死んでるのがいます。
 狭いところに入っていきます。
 いちど家の庭の道具置き場でゴソゴソ音がしたので、おっかなびっくりで行ってみると、隅っこのほうにむりくり入ろうとしてました。
 臭いんですよね。
 やばつくて(汚くて)菌がつくかと怖かったです。
 汚くて臭いので触りたくないです。
 弱った鳥のような感じです。
 カラスのようにあんなに黒くはないです。
 日出島には無数の巣穴がありますっけよ。
 写真撮ったのがあります。
 斜面に巣が作られていたんですけど、斜面が崩れてきてました。
 見ているときに石や砂が落ちてきました。
 許可があって島に上がった人から聞いたんですけど、斜面じゃなく、上にも巣の穴がいっぱいあるそうです。
 高山植物らしき珍しい植物もあるそうです。
 道がちょこっと整備してあって、ヒモが張ってあって片側歩行できるそうです。
 蛇が多いそうです、マムシが。
 
 *青年漁師さんから、クロコシジロウミツバメや営巣地の日出島についての貴重な報告を「みやこ伝言板」にいただいたので転載する。
 文章は2回の伝言をつなげるために少しだけ手を加えた。(J)
 
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■「宮古の映画館物語」

 
 「宮古の映画館物語」を読んだ。
 著者は鬼山親芳(きやま・ちかよし)さん。
 鍬ヶ崎に生まれ育った毎日新聞の記者で、岩手版でよく名前を目にする。
 “わが古里のニュー・シネマ・パラダイス”とサブタイトルがある。
 カバーや巻頭の口絵には、古い宮古の映画館の写真があしらってある。
 宮古館・第一常盤座・国際・東映・第二常盤座・太洋――
 写真はないけれど、ほかにリラホールという映画館があったと本文に出てくる。
 いまはその7館すべてが存在しない。
 「宮古の映画館物語」は、宮古に映画館が生まれてから消え去るまでの興行としての映画史を、丹念な取材によって浮かび上がらせた力作だ。
 届いた日に一気に読んでしまった。
 宮古の映画館――活動写真の常設館の歴史は旧舘、いまの愛宕にあった常盤座に始まるという。
 1917年(大正6)ごろのことだ。
 第二常盤座が1933年(昭和8)8月18日に開館し、愛宕の常盤座には第一がついた。
 全盛期に7館あった映画館は娯楽の多様化で相次いで閉館し、最後の国際の灯が消えたのは1991年(平成3)6月21日。
 宮古の映画館は75年の歴史に幕を閉じた。
 本を読み終えて、まったく個人的な問題に頭を抱えた。
 ぼくが宮古で意識的に映画を見たのは1968年(昭和43)ごろから1973年(昭和48)までの5〜6年のことにすぎない。
 映画ファンというには遠く、人並みに興味があったといえる程度だった。
 なじみが深い映画館は宮古館・国際、ついで第二常盤座。
 第一常盤座は入った記憶が曖昧だ。
 鍬ヶ崎に太洋があったと知ったのは最近のこと。
 東映とリラホールも記憶がない。
 リラホールは末広町で、服部時計店の横から大通に抜ける路地の途中にあったらしい。
 東映は和見町で、宮ビルのあったところ。
 開業はともに1956年(昭和31)。
 閉館の年ははっきりしないが10年は営業していたようだ。
 自分の少年時代と重なり、住んでいた地域もそれほど離れていない。
 なのに記憶がないのはなぜだろう。
 自分の興味や意思にしたがって映画を観始めた時期と微妙にずれがあるからなのだろうか。
 
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■ ぼくの宮古シネマ・グラフィティ

 
 ――私がなけなしの金をはたいてまで映画館に通うのは
   そこにささやかな私自身の青春の姿を見いだし、
   私自身の経験だけでは得ることのできない
   多くの青春の素晴らしさと虚しさとを味わうためである。
   青春の思い出の一記録とす
 一冊の古ぼけた大学ノートがある。
 「SCREEN」とタイトルされ、bPとある。
 2冊目はない。
 表紙をめくると、1968年1月から1979年2月までの足かけ12年にわたって観た映画の日付・映画館・タイトルと五つ星による評価が誌されている。
 あとのほうのデータには監督や主演の名前、簡単な感想が添えられているものもある。
 1968年(昭和43)1月から1979年(昭和54)2月までというと、中学1年の冬から大学在学中におよぶ。
 このうち1973年(昭和48)までが宮古で映画を観た期間にあたる。
 思春期から青春期にはいったそのまっただなかで、ぼくも人並みに映画と出逢った。
 ひさしぶりにこのノートを見て、洋画ばかりなのに苦笑した。
 それでもチャンバラ映画や戦争映画、怪傑ハリマオ、まぼろし探偵?や月光仮面に七色仮面、ゴジラやモスラ、海底軍艦や黒四ダムをテーマにした邦画などを観た記憶がかすかに残っている。
 洋画でも駅馬車や黄色いリボン、リオ・グランデの砦などの西部劇、ケネディ大統領が魚雷艇の艇長だったという戦争物、ダンボ、ピノキオ、ピーターパン、シンドバットの冒険などのディズニー物、ターザン、キングコング、禁じられた遊び、ベンハー、十戒などを観たはずだ。
 それらは、このノートに記録する以前のことなのだろう。
 なにか大事な映画をいくつも忘れているような気がする。
 ひとつ思い出したのはディズニーのファンタジアだ。
 宮古で観た映画のなかでトップクラスの映画だった。
 映画教室で観たのだろうか。
 ついでに宮古で観た映画のトップテンは――
 冒険者たち、白い恋人たち、個人教授、ウエスト・サイド物語、イージー・ライダー、明日に向って撃て!、サウンド・オブ・ミュージック、俺たちに明日はない、小さな恋のメロディ、卒業、ロミオ&ジュリエット、そしてファンタジア……
 甲乙つけがたく、10本を超えてしまった。
 
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◇ 資料 SCREEN――宮古で観た映画一覧

 
 
年月日   劇場    タイトル         評価

1968年
 1月12日 宮古館   冒険者たち        ☆☆☆☆☆
            007は2度死ぬ         ☆
 5月21日 宮古館   グランプリ          ☆☆☆
            (併映作不明)
 9月16日 宮古館   新・夕日のガンマン        ☆
            サイレンサー待伏部隊
 11月3日 宮古館   猿の惑星           ☆☆☆
            (併映作不明)
1969年
 5月8日 宮古館   太陽をつかもう
            コマンド戦略
            ナチス第三帝国の興亡       ☆
 5月25日 国際    バーバレラ
            ボディ・ガード
            黄金の罠             ☆
 6月13日 国際    白い恋人たち        ☆☆☆☆
            あの胸にもう一度
 8月6日 第二常盤座 華麗なる殺人           ☆
            オー!!             ☆☆
            ロメオとジュリエット *1954年版 ☆
 8月28日 国際    若草の萌えるころ      ☆☆☆☆
            恋人
 11月8日 宮古館   オリバー           ☆☆☆
            いつも心に太陽を        ☆☆
 11月26日 国際    個人教授         ☆☆☆☆☆
            雨あがりの天使
 12月12日 国際    勇気ある追跡         ☆☆☆
            明日よさらば           ☆
 12月19日 宮古館   パリのめぐり逢い         ☆
            ハマー・ヘッド
 12月24日 第二常盤座 ハムレット            ☆
            17才
1970年
 1月9日 第二常盤座 太陽が知っている         ☆
            先生               ☆
 1月24日 宮古館   スター              ☆
            セメントの女
            恐竜グワンジ           ☆
 2月7日 国際    失われた男            ☆
            盗みのプロ部隊          ☆
            アフリカ大空輸
 2月22日 宮古館   太陽を盗め
            豹(ジャガー)
            大泥棒              ☆
 3月14日 国際    太陽のオリンピア  *映画教室  ☆
 3月15日 宮古館   マッケンナの黄金         ☆
            ネモ船長と海底都市        ☆
 3月24日 第二常盤座 ブーベの恋人           ☆
            2人だけの夜明け
 4月7日 宮古館   アルフレッド大王         ☆
            サファリ大追跡          ☆
 4月27日 宮古館   ウエスト・サイド物語    ☆☆☆☆
            恋人たちの場所         ☆☆
 5月9日 国際    慕情の人            ☆☆
            ティファニーで朝食を      ☆☆
 5月11日 宮古館   イージー・ライダー    ☆☆☆☆☆
            夕陽の対決            ☆
            女奴隷の復讐
 6月29日 宮古館   卒業           ☆☆☆☆☆
            ジェフ              ☆
 7月24日 宮古館   真夜中のカーボーイ     ☆☆☆☆
            空軍大戦略            ☆
 7月29日 宮古館   チキチキ・バンバン      ☆☆☆
            若草物語
 8月16日 宮古館   マイ・フェア・レディー     ☆☆
            デンジャー            ☆
 8月25日 国際    ローズマリーの赤ちゃん    ☆☆☆
            さすらいの青春       ☆☆☆☆
            モンブランは招く
 9月12日 国際    もしも           ☆☆☆☆
            影の軍隊            ☆☆
            ダイヤモンド強奪作戦
 10月13日 宮古館   モスキート爆撃隊
            鷲と鷹
            ザ・セックス・オブ・ヂ・エンジェルス
 10月24日 宮古館   ハロー・ドーリー        ☆☆
            うたかたの恋           ☆
            経験               ☆
 10月31日 宮古館   明日に向って撃て!    ☆☆☆☆☆
            シシリアン            ☆
 11月13日 宮古館   暗くなるまでこの恋を      ☆☆
            約束               ☆
 11月20日 第二常盤座 雨の訪問者          ☆☆☆
            ガラスの部屋          ☆☆
 11月24日 国際    さらば夏の日          ☆☆
            華麗なる週末        ☆☆☆☆
 12月1日 宮古館   地獄に堕ちた勇者ども       ☆
            欲情の島
 12月5日 国際    大空港           ☆☆☆☆
            スタントマン
 12月18日 国際    ナタリーの朝          ☆☆
            クリスマス・ツリー       ☆☆
 12月27日 宮古館   去年の夏           ☆☆☆
            クレオパトラ          ☆☆
1971年
 1月2日 宮古館   女王陛下の007         ☆
            大脱走            ☆☆☆
 1月22日 宮古館   サウンド・オブ・ミュージック
                         ☆☆☆☆☆
            夜明けの舗道
 2月2日 宮古館   ファニーガール         ☆☆
            さらば恋の日
 2月18日 宮古館   アレジメント           ☆
            かわいい女
            地下組織
 2月23日 第二常盤座 キャンディ         ☆☆☆☆
            夜の刑事
 3月18日 国際    ローマの休日        ☆☆☆☆
            カトマンズの恋人       ☆☆☆
 3月24日 (盛岡)  ジェフ              ☆
            マードックの(拳?)銃
 3月31日 宮古館   チップス先生さようなら  ☆☆☆☆☆
            チコと鮫            ☆☆
 4月17日 宮古館   男と女             ☆☆
            俺たちに明日はない    ☆☆☆☆☆
            ブリット            ☆☆
 4月24日 宮古館   マッシュ           ☆☆☆
            続・猿の惑星          ☆☆
 5月1日 国際    シェーン           ☆☆☆
            ボルサリーノ        ☆☆☆☆
 7月17日 国際    仁義               ☆
            リオ・ロボ           ☆☆
 7月31日 第二常盤座 悲しみのトリスターナ       ☆
            我が青春のフロレンス      ☆☆
 8月6日 宮古館   いちご白書        ☆☆☆☆☆
            アリスのレストラン       ☆☆
 8月11日 宮古館   トラ・トラ・トラ        ☆☆
            アドベンチャー          ☆
 8月21日 国際    哀愁のパリ           ☆☆
            夜の訪問者           ☆☆
 9月8日 国際    続・夕日のガンマン        ☆
            戦略大作戦            ☆
 9月11日 盛岡SY内丸 小さな恋のメロディ    ☆☆☆☆☆
            純愛日記           ☆☆☆
 12月11日 宮古館   エルビス・オン・ステージ   ☆☆☆
            きんぽうげ           ☆☆
 12月18日 国際    クリスマス・キャロル     ☆☆☆
            まごころを君に        ☆☆☆
 12月29日 宮古館   ソルジャー・ブルー      ☆☆☆
            C・C・ライダー        ☆☆
1972年
 1月6日 宮古館   小さな恋のメロディ    ☆☆☆☆☆
            純愛日記           ☆☆☆
 1月9日 国際    荒野の7人         ☆☆☆☆
            マッケンジー大脱走       ☆☆
 ?月?日 国際    ウィラード          ☆☆☆
            栄光のルマン        ☆☆☆☆
 3月8日 国際    雨のエトランゼ        ☆☆☆
            別れの朝           ☆☆☆
 4月9日 国際    ベニスの愛          ☆☆☆
            豊かなるめざめ         ☆☆
 4月22日 国際    小さな巨人         ☆☆☆☆
            アンドロメダ         ☆☆☆
 5月5日 宮古館   Let it Be        ☆☆☆☆☆
            課外教授            ☆☆
 5月6日 国際    ある愛の詩          ☆☆☆
            ロバと王女          ☆☆☆
 7月24日 国際    雨のパスポート
            悲しみの終わる時
 7月28日 宮古館   卒業           ☆☆☆☆☆
            哀しみのおわるとき (ママ)
 8月5日 第二常盤座 白鳥の歌なんか聞えない
            忍ぶ川
 9月10日 国際    レッド・サン
            100万ドルの血斗
 11月14日 国際    フレンチ・コネクション   ☆☆☆☆
            ブラック・エース
1973年
 1月10日 国際    ロミオ&ジュリエット   ☆☆☆☆☆
            フレンズ            ☆☆

以下、東京

 
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■ 駒井雅三氏と鬼山親芳さん

 
 5月31日付の毎日新聞岩手版に“ふるさとの海:宮古の文人・駒井雅三の処女歌集、二男・剛機さんの手で復刻”と題した記事が載っている。
 記事を書いたのは鬼山親芳さんだ。
 「宮古なんだりかんだり」でとりあげたばかりの「ふるさとの海」と「宮古の映画館物語」の著者との組み合わせに、ここ数日この2冊を机のうえに並べて眺めている身としては「おぉっ!」と声を発したくなった。
 しかし宮古を核にして二人がむすびつくのは自然なことだ。
 「宮古の映画館物語」に駒井氏も出てくる。
 幸い、どちらの本にも巻末に著者略歴が載っているので、簡単に横顔を素描してみたい。
 駒井雅三氏は1907年(明治40)2月11日に新町で生まれた。
 宮古水産高校の前身の岩手県立水産学校を卒業して家業の酢屋を手伝うかたわら、未耕社という文学グループをつくって同人誌を発行したり、写真研究所を開いて芸術写真や報道写真を撮っている。
 岩泉の龍泉洞の全貌を初めて世に紹介し、1933年(昭和8)の三陸大津波をまさに現地から報道した。
 そのさいに詠んだ短歌は改造社「新万葉集」に収録されている。
 観光協会を設立して陸中海岸国立公園指定運動を興す。
 国際映画劇場の創立にかかわる。
 文化印刷を興し、「陸中タイムス」「月刊みやこわが町」を創刊。
 いっぽうで歌集「ふるさとの海」「ふるさとの山」「透析患者の歌」、自伝小説「岩水時代」上下2巻を著すなど幅広い活動の末、1985年(昭和60)6月5日に逝去。享年79。
 鬼山親芳さんは1942年(昭和17)鍬ヶ崎に生まれた。
 明治大学を卒業し、映画の友社などを経て毎日新聞に入社。
 秋田・長野支局から東京本社勤務、福島支局次長・船橋支局長を経て現在嘱託として釜石通信部に在籍し、日々記事を発信しつづけている。
 そのかたわら作家として活躍し、「宮古の映画館物語」のほか、地方出版社の現状・課題をリポートした「魂を耕す」(共著)やノンフィクション「択捉沖の海に――第75神漁丸最後の航海」などの著作があり、今後の活動から目が離せない。
 
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◇ 資料 
ふるさとの海:宮古の文人・駒井雅三の処女歌集、
     二男・剛機さんの手で復刻     【鬼山親芳】
        2005年5月31日付「毎日新聞」岩手版より
 
§愛する三陸の海詠んだ1300首
     陸中海岸国立公園実現への思いも
 
 宮古が生んだ文人、駒井雅三(本名・正三、1907〜85)の処女歌集「ふるさとの海」が、二男で印刷会社役員、剛機さん(62)=宮古市泉町=の手で復刻された。三陸の海を愛し、詠み、撮影し続けた熱い思いが三十一文字(みそひともじ)に込められている。
 
 1300首収録の「ふるさとの海」は雅三が72歳の時に発行された。復刻は残部がなくなり、宮古市立図書館の所蔵本も傷みがひどくなったため。剛機さんが撮影した北山崎の写真に「断崖の涯(はて)なく続き 蒼茫と 暮れゆく海よ うみねこの声」の雅三の歌を重ねて装丁。雅三が撮った海の写真23点も掲載した。
 
沈没しわずかに波の間にみえしブリッジに漁夫らすがりしという
 
 乗組員17人が死んだ宮古のイカ釣り船の遭難を詠んだものだ。
 
病む妻をおきていでつも島越の海荒れつげば帰るすべなき
 
 妻とは啄木と交友があった歌人、小田島孤舟の二女けい子のこと。
 
三陸の国立公園に夢かけつ観光百選にいのち燃やせり
 
 観光百選とは毎日新聞が50年に行った全国投票によるコンクール。雅三が中心となって応募し陸中海岸国立公園誕生につながった。当時の同新聞盛岡支局長や記者らを詠んだ歌など18首も載っている。
 
 剛機さんは「国立公園指定から50年、没後20年の節目に少しは親孝行できたと思う」と感慨深げ。A5判、193ページ、1500円。問い合わせは文化印刷(電話0193・62・4578)。
 
 *以上、資料として全文を転載させていただきました。
  著者ならびに毎日新聞社の許可はとっておりません。
  差し障りある場合は、お手数ですがご連絡ください。
                      (Jin)
 
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■ 吉田タキノさん

 
 鍬ヶ崎・山根町に住む作家の吉田タキノさんをとりあげた鬼山親芳さんの記事が最近、毎日新聞の岩手版に載った(5月22日)。
 宮古市立図書館に問い合わせ、蔵書一覧表も手に入れた。
 これらの資料をもとに、この郷土の作家と作品――おもに宮古地方にかかわる作品を簡単に紹介したい。
 タキノさんは1917年(大正6)鍬ヶ崎に生まれた。
 生家は海産物加工業で、中国に干しアワビなどを輸出していたが、小学生のときに両親を亡くした。
 県立宮古高等女学校を卒業。
 23歳で上京し、付き添い看護婦などの派出婦として働くかたわら、小説を書きはじめた。
 戦時中に雑誌「日通文学」に医療ミスを扱った小説「光のように風のように」を連載。
 1962年(昭和37)理論社から出版して高い評価を受け、中部日本放送からラジオ・ドラマとして放送された。
 同じ年、子ども時代に遊んだ浄土ヶ浜や蛸の浜での思い出を方言をまじえて書いた児童小説「はまべの歌」(理論社)を出版。
 以後おもに童話を書き、紙芝居の原作をふくめて著作は40冊を数える。
 1972年(昭和47)に出版した「また来た万六」は百数十年前に起きた弘化・嘉永の三閉伊一揆と、指導者のひとりだった万六じいさまの一生を描いた民話。
 タキノという名は、この万六(切牛の弥五兵衛)の二女タキから、父の藤太郎がつけた。
 藤太郎は万六の孫、タキノさんは万六の曾孫にあたる。
 そのほか、宮古地方にかかわる作品をあげると――
 閉伊街道に伝わる民話を題材にした作品集「みだくなし長者」、無学ながら学問の大切さを知っていた母の思い出をつづった「かかさん 本をよむべしね」、自伝的小説「兄と妹たち」、海で漁師の父を亡くした少女が強く生きていこうとするすがたを描いた児童小説「海のかあちゃん」、逆さイチョウを題材にした創作民話「神歌とさかさいちょう」、津軽石川と鮭などの伝説もとに創作した「ふるさとのむかしばなし」などなど。
 2004年(平成16)5月、生まれ故郷に戻った。
 いま米寿の88歳。
 あと10年は書きつづけたいという。
 
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■ 仁王の夜遊び

 
 おもしろい本を読んだ。
 「陸中綺談 仁王の夜遊び」だ。
 著者は禿山人。
 表紙や奥付にはそう書かれている。
 序文を読むと、禿山人とは駒井雅三のことらしい。
 「仁王の夜遊び」「長根寺の尾玉様物語」という2本の中篇が収められ、1997年(平成9)12月10日に宮古の文化印刷から出ている。
 はじめの「仁王の夜遊び」とは、こんな話だ。
 長根の玉王山長根寺に一対の仁王像があった。
 1942年(昭和17)の火災で焼けて今はない。
 境内の隅に、しばらくのあいだ黒焦げの残骸をさらしていた。
 もともと黒森山の鎮護寺である赤竜寺にあった仁王像で、江戸時代の明和年間(1764〜1772)に住職がいなくなり、おいおい廃寺となったので、寺宝とともに山を越えて長根寺に移された。
 この仁王像は、運慶の作とも左甚五郎の作ともいわれるほどの名作だった。
 両足を踏ん張って四方を睨みつけている。
 金剛力にみちあふれ、いつ動き出してもおかしくなかった。
 黒森山では権現さまに近づく悪魔を追い払う役をつとめていた。
 長根寺は縁結びの願掛けにくる参詣者が多い。
 女が多く、仁王たちは退屈しのぎのおしゃべりの間に女たちの品定めもしていた。
 ありあまる力をもてあました仁王たちは、しばしば深夜に出歩くようになった。
 夜這いである。
 夜中には、あちこちで男と女がむつみあっている。
 仁王たちもそれぞれ目的を達し、やがてなじみの女もできた。
 そのうち、一体の仁王が通っている川向こうは花輪村の女がみごもった。
 夜遊びに歩きまわっていることもばれた。
 仁王たちは、出歩けないようにカスガイでしっかり堂に固定されてしまった。
 仁王の子をみごもった女は、一貫五百目もある大きな男の子を産んだ。
 長根寺の和尚が雷助と名づけた。
 どんどん成長し、南部領内で並ぶもののない相撲取りになった。
 いっぽう仁王たちは近代になって火事に遭い、逃げ出せないまま焼けてしまった。
 ――綺談の名のとおり事実と伝説がないまぜになり、艶話の要素もあって「仁王の夜遊び」は、おとなの読み物に仕上がっている。
 
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■ 長根寺の尾玉さま

 
 禿山人(駒井雅三)の「陸中綺談 仁王の夜遊び」に収められているもう一篇の「長根寺の尾玉様物語」は、こんな話だ。
 長根の西沢というところに徳兵ヱという男がいた。
 女房をおハツといった。
 ふたりとも一所懸命に働く正直者だった。
 一頭のオナゴ牛を持っていた。
 田んぼを耕したり、荷駄を運んだりする、これも働きもののベゴっこで、花と名づけていた。
 あるとき、徳兵ヱは頼まれて盛岡まで、花に荷をつけて運んだ。
 閉伊街道を梁川まで来て宿をとった夜、花は徳兵ヱの仲間のつれていた五郎という牛の仔をみごもった。
 花の腹は大きくなった。
 田を鋤いているときに産気づき、その場で仔を産み落とした。
 花の産んだ仔は、握りこぶしほどの大きさの真っ黒い毛につつまれた一個の玉だった。
 徳兵ヱもおハツも驚いて、長根の山の庵寺に生きた毛の玉をもちこんだ。
 この界隈でいちばんの物知り和尚にも正体はわからなかった。
 それでも、こう言った。
 「徳兵ヱ、おハツ、おまえたちは正直で働き者だ。
 牛も可愛がる。
 仏さまの慈悲がおまえたちの牛の腹に宿り、毛玉に化身して光臨なされたのじゃ」
 噂はたちまち広がり、牛が玉をなした奇跡で豊作・大漁の世の中がくると村人たちは信じこんだ。
 長根の和尚は牛の毛玉を尾玉尊と名づけ、村人たちの合力をえて堂を建て、ねんごろに祀った。
 ご利益はすぐにあらわれた。
 閉伊川にどんどん鱒がのぼるようになった。
 ヤマセも薄らぎ、ケガツ(飢渇)の不安も遠ざかった。
 山口村にトメという信心深い娘がいた。
 長根のお堂普請に毎日山を越えてやってきた。
 尾玉さまが安置されると、ひそかに願掛けをした。
 たったひとりの家族の父の腰が立たなくなっていたのだ。
 トメは、あるときそっと尾玉さまを胸元に入れて持ちだした。
 尾玉さまもトメの柔肌の上で喜んでいた。
 家に帰って父親の腰にあてがうと、足腰を霊気がつらぬき、立ち上がれるようになった。
 尾玉さまの霊験はたしかなものだった。
 長根寺も立派になった。
 火事に遭っても見事に再建され、尾玉さまはいまでも本堂に安置されている。
 
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■ 尾玉さまはヘイサラパサラ!?

 
 尾玉さまは牛の腹から生まれた、と禿山人(駒井雅三)の「長根寺の尾玉様物語」にはあった。
 田を耕しているときに牛の尾をつたって土のなかから顕現したという説もある。
 御玉さまとも書かれ、牛玉さまとも呼ばれる。
 小島俊一「陸中海岸風土記」には、こんなふうに書かれている。
 ――動物質で鶏卵の形をし、全体に毛がある。
 正体は牛の肝汁のなかに出る結石で、何万頭にひとつ出るか出ないかという珍重品。
 ポルトガル語の転訛でヘイサラパサラとも呼ばれる鎮静の特効薬。
 尾玉尊の縁日には玉の発光の色彩でその年の豊凶を占うので、近在から参詣者が多かった。
 尾玉堂は大火にも焼けず今に残る云々。
 長根寺の祭礼は旧暦3月21日。
 尾玉さまは丑の年に一般に公開される。
 霊験については、藩政時代に不治の病にかかった南部家の姫君を治したという話も伝えられる。
 ヘイサラパサラは小学館の国語大辞典に出ている。
 由緒正しい言葉なのだろう。
 やはり語源はポルトガル語で“石を意味する pedra と結石を意味する bezoar を重ねた語からか”とある。
 ポルトガル語を知らないので、これに関してはなんとも言えない。
 意味は“馬・牛・羊・鹿などの腹中から出る石。獣類の腸内に生じる結石。解毒剤に用いた。鮓荅(さとう)。馬の玉。また、病気をなおす呪文としても言う”とある。
 ヘイサラパサラに薬効はあるようだが、呪文となると眉につばをつけたくなる。
 聞くところによると、蒙古人が雨乞いに用いたという説まであるという。
 ヘイサラパサラの正体は結石らしい。
 ただ、尾玉さまの正体が「陸中海岸風土記」にあるようにヘイサラパサラであるかどうか。
 ヘイサラパサラという響きからは、思わずケサランパサランを連想してしまった。
 おしろいを食べて生長する白い綿毛状のふしぎな生き物で、むかし花輪のほうにケサランパサランを飼っている家があるという噂を聞いた。
 あれはどうなっただろう。
 尾玉さまといい、ケサランパサランといい、宮古にはまだまだふしぎなものが存在しているようだ。
 
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■ 玉王山長根寺

 
 尾玉さまを祀る長根寺は長根〔ながね〕1丁目2番7号にあり、古い住居表示では千徳に属する。
 旧国道106号から北へ、丘陵の裾に沿って走る道から参道をのぼる。
 丘陵沿いの道は古い街道筋だ。
 千徳と宮古を繋ぎ、北西の山あいに入ると近内や岩船に通じる。
 真言宗智山派。
 山号は尾玉さまに由来するのだろう、玉王山〔ぎょくおうざん〕という。
 本尊は不動明王で、通称は長根のお不動さま。
 東北三十六不動尊霊場の第20番札所にもなっている。
 起源は古く、807年(大同2)に坂上田村麻呂が閉伊地方の蝦夷を討つためにやってきた時代までさかのぼるらしい。
 田村麻呂は小山田に薬師如来、黒森に観音、長根に弥陀仏を祀り、三所一体の霊場としたという。
 田村麻呂うんぬんはともかく、古い寺であることにまちがいはない。
 長根は古代から開けていた。
 近内川や閉伊川の恵みを受け、湾入した海にも近かった。
 山の頂上から南斜面にかけて遺跡が広がり、奈良時代の古墳群が発掘されている。
 閉伊氏が宮古一帯を治めたときは長根をふくむ千徳が本拠地だった。
 江戸時代には南部家臣の桜庭氏が支配した。
 桜庭氏の墓所は長根寺にある。
 江戸時代の1771年(明和8)に宮古を訪れた近江の青灯下祇川〔せいとうげ・ぎせん〕という俳人は幻住庵祇川ともいい、長根寺に滞在して住職の老杉閣祐義や宮古の俳人たちを指導した。
 祇川の3回忌には門人らが〈山ひとつみな名残をし花の時〉の句を刻んだ碑を寺内に建て、老杉閣の墓碑には〈病みながら口はまめなり時雨の日〉と辞世の句が刻まれているという。
 1942年(昭和17)1月、火災にあい古文書などを焼失した。
 仁王像も焼けた。
 阿弥陀如来坐像や応永の木像、三十三観音曼荼羅画など、わずかな文化財が残った。
 参道にある幻住庵祇川反古塚は1979年(昭和54)に市の文化財に指定されている。
 反古塚しか見たことはないけれど、こんど訪ねたらほかの文化財も見てみたい。
 でも、いちばん興味があるのは尾玉さま、かな。
 
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尾玉さまを科学する
   けむぼー * 投稿
 
 長根寺の尾玉さまの話、興味深く読みました。
 “花の産んだ仔は、握りこぶしほどの大きさの真っ黒い毛につつまれた一個の玉”
 これは、牛ではたまにあるのですが、先天性の奇形のひとつで、「無形無心体」だと思います。
 一卵性双子の片割れがうまく発育せず、牛の形にならないで、毛の生えた肉球状になって分娩されるようです。
 獣医産科学から写真を借りたので、お見せします。
牛の無形無心体
 ちょっと気持ち悪いかもしれませんが、それなりにご利益がありそうです……
 写真は白黒なのでホルスタインの尾玉様ですね!
 大きさは12〜13センチってところでしょうか。
 ちょうど握りこぶし大です。
 産気づいて娩出されたというところがポイントかもしれません。
 無形無心体は、基本的に毛と皮膚と皮下組織などで、内臓器官は形成されていないと思います。
 内臓組織がなければ、そのまま乾燥してしまって、長らく保存されることはあるかもしれません。
 それから、「毛球」というのも牛や馬ではときどきあります。
 嘗めた自分の毛が胃や腸内で毛玉になって、それにカルシウムやリンやマグネシウムなどのミネラル分が沈着して石のようになったものです。
 すごく軽くてきれいですよ。
 僕が見た毛球は、全体にツヤツヤしたコバルト色をして、ところどころに毛がはみだしているようなものでした。
 この毛球が発見されるのは家畜が腸閉塞とかで死んだときが多いようです。
 
 *けむぼーさんから伝言板に、こんな書き込みと写真をいただいた。
 けむぼーさんは北海道の牧場で仕事をしている。
 牛の専門家かもしれない。
 “尾玉さまは無形無心体”という説は、科学的な、信頼性のある説と受けとめていいようだ。(じん)
 
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■ ウニ漁の口開け

 
 宮古でやっとウニ漁が解禁したようだ。
 「岩手日報 Web News」の記事によると、6月23日に今シーズン初めての口開けがあった。
 日出島漁港では朝5時に操業を開始し、8時過ぎから殻むき作業にとりかかった。
 身入りがよくて数も多く、いい口開け日和だったという。
 去年は例年より早く4月下旬に第1回の口開けがあった。
 ふつうは5月からだ。
 今年は、ずいぶん遅れていた。
 海の状況がよほど悪かったのだろう。
 宮古漁業協同組合では今季、8月10日までに20回以内の口開けを予定しているという。
 資源保護や価格調整などのため、口開け日数のほか、操業時間、漁獲量などを漁協ごとに決めているらしい。
 2001年(平成13)の話だが、田村一平さんの「三陸の海から」(岩手日日新聞社)という本に、山田湾漁協の掲示板に貼られた口開け通知の内容が書かれている。
 “ウニの口開け 四月二十六日、午前五時から午前七時三十分まで。漁具 鏡、二本かぎ、えみし用突手。殻長五センチ以下のウニは採捕してはならない。一正組合員最高一籠とする。”
 これに違反すると密漁になってしまう。
 鏡というのは箱眼鏡のこと。
 えみし用突手というのはよくわからない。
 “えみし”は蝦夷で、エゾバフンウニをとる特殊な竿のことだろうか。
 漁獲量は1回の口開けで、サッパ一隻一籠。
 籠のサイズは、宮古発のウェッブ・サイト「平運丸 青年漁師の店」に出ていた。
 45×80×高さ25センチで、あまり大きくはない。
 ウニ漁の様子も写真入りで詳しく紹介されている。
 操業時間前に自分のねらう漁場に着いて待機する。
 時間がくると、左手で船外機のハンドル・アームを操作しながら、口でくわえた箱眼鏡をのぞいて海底のウニを探し、右手に持った網竿でとる。
 身の詰まったいいウニは海藻の林の陰に隠れている。
 海藻に網がからまってとりにくいときは2本の爪がついたフォークのようなカギ竿ですくいあげる。
 凪でなければ難しい漁だ。
 
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■ 宮古一中の校歌

 
 母校、宮古市立第一中学校の校歌が思い出せなくて困っていた。
 宮古小学校や宮古高校の校歌はよく口をついて出る。
 ところが一中の校歌は“西空はるか早池峰は”という出だししか浮かばない。
 卒業アルバムや生徒手帳などの資料も手もとにいっさいない。
 学校のホームページもない。
 「宮古なんだりかんだり」でとりあげる機会はないかなと諦めていた。
 「月刊みやこわが町」の最新号(2005年6月号)を見ていたら、駒井雅三さんの「作詞物語」が掲載されている。
 1977年(昭和52)6月号に発表したものの再録だという。
 歌詞も載っている。
 詞を読んでもメロディが浮かんでこないのは情けないけれど、忘れないうちにメモしておきたい。
 作詞は駒井雅三、作曲は岩手大学教授の千葉了道。
 1958年(昭和33)9月6日に制定されたという。
 
 宮古市立第一中学校校歌
 
 一、西空はるか 早池峰は
   聖の如く 無言にて
   清き流れの 宮古川
   岸辺のいらか 輝きて
   理想の校舎 そびえたり
 二、八幡丘に 百鳥の
   さえずり四季の 花匂う
   はつらつ若き 一千の
   心高鳴り 身は躍る
   我が学舎〔まなびや〕に 光あり
 三、潮鳴り遠く また近く
   海鳥群れて 鳴き交わす
   陸中の海 夢多く
   学びの庭の 広くして
   知識の林 緑なり
 
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■ 宮古一中の校歌 その2

 
 母校、宮古市立第一中学校――その校歌のメロディが思い出せないと書いたら、うららさんが階名で記したメールを送ってくれた。
 なるほど、こういう手があったかと思った。
 音感があればそのまま歌える。
 音感がなくても、縦笛やハーモニカ、なにかひとつ手もとに楽器があればメロディを奏でられる。
 試しにギターで爪弾いてみたら一発でわかり、忘れていた母校の校歌を何十年ぶりかで歌うことができた。
  に し ぞーら はるかー はやちねー はー
  ミファソード シラソー ララソドレ ミー
    ひ じ りーの ごとくー むごんにー てー
    ミファソード シラレー ソミミシレ ドー
  きよきながれのー みやこがわー
  シシシシシシシー ラララララー  
    きしべのいらかー かがやきてー
    ソソソソソラシー ミミミミミー
  り そ うーの こうしゃー そびえたー りー
  ミファソード シラ レ ー ソミミシレ ドー
 前にもふれたように、一中の校歌は、作詞が駒井雅三で、作曲は千葉了道だが、この作曲者についてはなにも知らなかった。
 ちょっと調べてわかった簡単な経歴を書きとめておきたい。
 指揮者・作曲家として知られる千葉了道は、陸前高田市の小友町に生まれた。
 生年月日は未詳。
 1935年(昭和10)岩手師範学校を卒業し、1943年(昭和18)母校の教職につく。
 1949年(昭和24)岩手師範は岩手大学となり、その学芸学部音楽科教授・名誉教授をつとめ、かたわら全日本合唱連盟の理事などの重職もつとめる。
 県内各地の市民歌・町歌や校歌など多数を作曲し、駒井雅三とのコンビでは、宮古一中のほか、1951年(昭和26)に田老第一中学校の校歌なども作曲している。
 1988年(昭和63)9月13日死去。
 證明寺の墓地に眠る――
 證明寺は陸前高田市にあるのだろうと思うが確認できなかった。
 
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◇ 資料 NSPリーダー天野滋さんの訃報
     メンバー平賀和人さん・中村貴之さんのメッセージ
 
【1】ファンの皆さまへ 平成17年7月4日
 訃報
 ファンの皆さまには伏せておりましたが、NSPリーダー天野滋は、かねてより大腸癌にて療養中のところ、平成17年7月1日午後7時8分、脳内出血の為、急逝いたしました。
 渋谷公会堂コンサートのリベンジに向けて、治療に専念していた矢先の急な出来事であり、メンバー、スタッフ一同、今だに信じられないという気持ちでいっぱいです。
 なお、葬儀は、天野の希望に基づき、7月3日近親者のみにて執り行いました。
 誠に残念な報告となってしまいましたが、ここに謹んでお知らせいたします。
 大変申し訳ございませんが、事務所等への直接のお問合せはご遠慮下さい。
 NSP official website トップページ2005年7月4日付
 
【2】永遠の「さようなら」 NSP天野さん死去
 岩手県一関市出身で叙情派のフォークソンググループ「NSP」のリーダー・天野滋さんが1日、52歳の若さで亡くなった。大腸がんを患い、最近は視力も極度に悪くなっていたが、3月までライブを続けていた。東北の同世代の関係者たちは、口々にその早過ぎる死を悼んでいる。
 以前から親交が深かったシンガー・ソングライターでプロデューサーのあんべ光俊さん(51)=釜石市出身、仙台市在住=は、病気のことを知らされていたという。3月12日には、最後のライブ会場となった東京・渋谷公会堂に駆け付けた。
 「彼はライブの最後に『今は目が悪いが、必ず元気になって戻ってくる』と聴衆に言っていた。漫画『あしたのジョー』のように、ステージで燃え尽きたかったのだろうか」と心中を推し量る。
 あんべさんは早稲田大の学生だったころ、ラジオの深夜放送でNSPのデビュー曲「さようなら」を聴いた。「いい曲だった。自分も後に同じ世界に進んだが、天野さんらはいつも目標の1つだった」と思い起こす。
 「体調を崩したのは知っていた。それにしても早過ぎる」と語るのは、一関高専時代からの友人で団体役員の佐藤一則さん(52)=一関市=。同学年で共に遊び、勉強もした間柄だった。
 「彼らの歌は青春だった。ようやく自分を振り返ることができる年齢になり、2002年のNSP復活も喜んでいたのに」と残念がる。
 元オフコースのドラマーで秋田市在住の大間ジローさん(51)は、天野さんの音楽を「アナログ精神の良さを失わず、どこか懐かしさが漂っていた」と評価。「音楽界にとって重要な人物を失った」と悔やんだ。
   「河北新報」2005年7月4日(月)付
 
【3】NSPリーダー 天野滋さん死去
 1970年代に全国的に活躍した本県出身フォークトリオ・NSPのリーダー天野滋(あまの・しげる)さんが1日午後7時8分、脳内出血のため東京都内の病院で死去した。52歳。一関市出身。葬儀は近親者で済ませた。昨年初めに大腸がんであることが分かり、療養を続けていた。
 一関高専の同級生3人で結成した「NSP(ニュー・サディスティック・ピンク)」は、天野さん作詞作曲の「夕暮れ時はさびしそう」が大ヒットするなど、70年代を代表する叙情派フォークグループとして活躍した。
 解散後、天野さんはレーベルを立ち上げ、プロデュース活動を行っていたが、2002年にNSPを再結成した。東京や大阪での復活コンサートは、往年のファンの人気を呼び即日完売。今年2月に発表した19年ぶりの新曲が遺作となった。
   「岩手日報」2005年7月5日(火)付
 
【4】平賀和人さんのメッセージ 7月7日(木)
 7月1日17時過ぎ、佳代子夫人の電話で会社を飛び出た。
 18時30分過ぎ、病院に駆けつけた時はもうすでに意識はなかった。
 でも声をかけるしかない。「天野! 楽しかったな、最高だったな、天野!!」
 心臓が確かに反応した。天野はいつでもどこでも粋なやつだ。傍にいることがわかれば
 それでいい……。
 2004年2月上旬、病院の担当医に「早ければ6ヶ月、長くても2年……以内です」と宣告された天野も、何故だかわからないが行きがかり上、立会人となってしまって隣にいた僕もただただ「え〜!?」「おお〜!!」まるで狩人のように歌い上げたり吠えたりしながらお互い見合って笑顔さえ出ていたと思う、とても深刻なお話だというのにね。そう云えば天野が1986年だったかハワイで挙式した時も気がついたら何故だか立会人として隣にいたなあ(笑)、それも自費で(大爆)。
 命に限りがあることを宣告された天野が自分自身のために選んだもの、それは治療よりもコンサート・ツアーだった。ファンの皆さんにはとってもラッキーなことでしたね。彼は今までに感じたこともないような希望と絶望の狭間で歌うような場面もたびたびあったかもしれないけど、とにかくコンサート中は水を得た魚のように気持ちが跳ねていたな。昨年のコンサート・ツアー、本編最後に必ず歌う「さようなら」の前の挨拶では「これからはどれだけ生きるかというよりは、どう生きるかがテーマです」「皆さんも一日一日を大切に」と照れながら言っていたのを憶えているかな。遠回しだったけど彼なりの言葉で各会場の皆さんにお別れのメッセージを送っていましたね。ステージから伝えたい……それが彼の望みでしたから。今年3月12日の渋公はその集大成みたいなものでした。サッカーに例えるなら、ドリブルで相手DFを交わして体勢をくずしながらもシュートしたけど惜しくも枠を外した。でもいいシュートだったろう、次は絶対に入れるよ! というようなコンサートだったでしょうか(笑)。
 悔いのない人生などないと思っています。そんな中、天野は限られた時間を上手に使って楽しく厳しく生き抜いたなと思います。命を削って完成させた19年振りの新作「Radio days」を筆頭にこの3年間で数多くの作品を残すことが出来ました。これからはあなた方が守ってくださいね。僕は今こう思っています。「戻りたいところに戻れたNSPは期限付きだった」と。でも有難いことに、これでNSPは一生解散せずにすんだんだよね、天野のお陰でね(笑)。もう一緒にステージに立ってコンサートが出来なくなってしまったことはとても寂しいけど、当たり前のように会って当たり前のように話しながら飲んで喰うことが出来ないことの方が何か変だな、いづいな。
 2005年7月3日午後、深く眠った天野の顔が笑ってる……天野、何がそんなにおかしい!? 渋公のリベンジに成功したのか!? それとも飲みながら気の効いたジョークで僕らをまた笑わせているのか!? それとも……こんなに泣いてる僕らが滑稽か? 何を夢見ているのか企てているのか知らないけど天野、時間だとさ。起きなくていいぞ、びっくりするから。ほら、お気に入りの渋公のステージ衣装と帽子持ってけ!! いい曲いっぱい作っとけよ。100歳コンサートは向こうでやろう!! なあ、天野。
 
【5】中村貴之さんのメッセージ 7月9日(土)
 七夕の夜、天野宅。初七日を賑やかに過ごした。
 どうやら天野は、いろんな人のところを回っているようだ。
 平賀と二人で「俺達はきっと最後だよな……査定に時間がかかってるのかも」と笑った。
 BBSにたくさんのメッセージが寄せられていることを報告しつつお線香をあげ、合掌。
 「どうだ? みんなが何を話しているか気になるだろう? なぁ天野」
 昨年元旦のメールのやり取り。
 「いい年にしような」「楽しくやろうぜ!」そんな感じだったと思う。
 返信の際に何気なく「俺が作った美味しい雑煮があるぞ〜! 食いたいだろ〜?」と書いたら、思いがけず、「食べに行っても良〜い?」と返事が来た。
 まさか、元旦から来るわけもないと思いながら気楽にジョークとして書いたのに。思いがけない反応に慌ててしまった(笑)。
 1時間後、彼はちょっとはにかんだような顔で「うぃ〜っす」と現れた。
 雑煮を食べ、「むちゃくちゃ具沢山だよなぁ! 一関は殆ど具が入ってないんだよ」 と美味いんだけどイメージが違うんだよな……と言いたげな顔でせっせと箸を運んでいた。
 いろんな話をする中で、ボソッと「オレ、ちゃんと病院行くからさぁ」って言ってたよな。
 思えばこの頃が、一番不安に苛まれていた時期だったと思う。
 それから2時間ほど居て、夏帆にお年玉を差し出し「パパに取られんなよ〜!」と最後っ屁をかまし、帰っていった。復活後、最初で最後の我が家への訪問だった。
 正月が明け、検査に行った天野から電話が入った。
 「やばいんだよ……大腸癌だったよ。これから事務所に来てくれる?」
 アトラストに集合した僕らに天野が言う。
 「先生に詳しく聞いてきた。2月の2週ぐらいに手術すれば、ギリギリだけどツアーに間に合うからさ!」
 「無理だよ、中止にして治療に専念しようよ!」こんなやり取りだったと思う。
 一瞬間を置いて天野が言った。
 「だって、俺にとって最後のツアーになるかもしんね〜じゃん。俺はやるよ!」
 返す言葉がなかった……。
 2月12日(だったと思う)手術の直前、ストレッチャーの上の天野と「生還しろよ!」と握手をした後、平賀と二人何故だか「天野ばんざ〜い! ばんざ〜い!」と大声で両手を振り上げたっけ。
 7時間にも及ぶ大手術の後、彼は約束通り生還した。
 麻酔が覚めて声を掛けた時、天野が最初に発した言葉は「今何時?」だった。
 疑り深いんだよ……。ちゃんと予定通り手術が行われたのか確認したかったんだよな?
 それから懸命に体力を取り戻し、4月3日……彼は予定通りツアー初日の盛岡のステージに。
 すごいよ天野! 何とかの一念岩をも通すってヤツかい?
 そうして、1年半にも及ぶ病との闘いを彼は全うした。
 決して弱音を吐く事もなく、どんな時にも未来を見つめて……。お疲れ! 天野!
 そういえば天野、次にお見舞いに行く時にネタが欲しいなんて思って、俺……髭伸ばしてたんだぜ!
 4日間で結構伸びて……「これで、髭・S・Pだな!」なんてつまんないジョークを言おうと思ってたのに……見せたかったよ。
 それからさ、夏帆の書いた手紙もう読んだか? 俺には何を書いたか教えてくれないんだよ。
 毎年お年玉を貰って、すっかりあいつはお前に篭絡されてたからな〜。
 後でこっそり教えに来てくれよ!
 そう正月でも良いよ。今度は具の少ない貧相な雑煮作って待ってるよ!
 戻りたい場所に戻り、戻したい縁(えにし)を戻し、満足したような笑顔であいつは逝きました。
 いろんな事、みんなに隠してたわけじゃないんだよ。本当は笑顔で報告したかったと思うよ。
 ただ、タイミングを逸しただけ……。
                    7月9日 中村貴之
 
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■ 山口川散策

 
 国道106号に架かる八幡橋から山口川沿いにぶらぶら歩いた。
 八幡橋は山口川の河口寄り、昔のノデ山の裏手に架かる。
 1971年(昭和46)3月に完成したという。
 山口川の左岸・東側を北上してすぐに市立図書館前の橋がある。
 銘板を見ると“八幡上の橋”とある。
 完成は1984年(昭和59)2月のことらしい。
 右手にはカトリック教会の鐘楼が見える。
 JR山田線の舘合踏切があって、その左に鉄道橋がある。
 橋桁に“山口川橋りょう”と白いペンキで書かれている。
 味気ないけれど、これが正式名称なのだろう。
 架橋年月はペンキが剥げて読みとれなかった。
 旧国道106号の橋には探しても銘板らしきものがない。
 名称も架けられた年月もわからない。
 こういうのは困る。
 (後記 あとで一石橋と判明)
 つぎが一字橋。
 近くの舘合山の頂上にある一石一字経塚にちなんだのだろう。
 1962年(昭和37)8月の竣工。
 旧街道筋に架かる山口橋には銘板がない。
 たもとの魚屋さんで聞いたら、おかみさんが「この橋ねぇ……」と苦笑した。
 昭文社の都市地図「宮古市」には名前が出ている。
 架橋年月はわからない。
 ここから上流の橋の名は、以前、けむぼーさんの弟さんに調べてもらい、「山口川橋尽くし」に書きとめておいた。
 今回は竣工年月を補足したい。
 新開橋は1981年(昭和56)2月。
 鴨崎橋は記載なし、見落としたのかもしれない。
 泉橋は1973年(昭和48)3月。
 田ノ神橋、1970年(昭和45)3月。
 寄生木橋、1971年(昭和46)3月。
 (後記 寄生木橋の北の神田橋は未調査)
 山口公民館までさかのぼって摂待方水〔ほうすい〕という人の歌碑があるのに初めて気づいた。
 1996年(平成8)4月建立とある比較的最近できた碑だ。
  爆音の轟き過ぎし山口の若葉木原にひかりみなぎる
 黒御影に刻まれているのは戦時中の歌だ。
 この山口の歌人については、いつか改めて書いてみたい。
 
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■ 鍬ヶ崎道をたどって

 
 市役所前に中央公民館がある。
 向かって左横に急勾配の坂道がついている。
 建物を巻いて裏手につづく道は東へ向かう。
 民家があるところは舗装されている。
 民家が消えると土の細い山道になる。
 途中に、柔剣道の道場なのか、練成館という建物がある。
 そこから少しして舗装された車道に出る。
 右に行けば愛宕小学校方面へくだる。
 左は中里へつづく道だ。
 この坂道の頂上あたりを八紘台と呼ぶらしい。
 第2次大戦中に八紘一宇という言葉があった。
 大東亜共栄圏の名のもとに日本が盟主となってアジアを支配しようとする侵略政策の宣伝に使われた。
 八紘台とは、この八紘一宇に由来するのだろう。
 ここにサイレンが設置され、戦争末期には空襲警報を鳴らしたという。
 左の中里方面へ歩く。
 さらに高台へ出られそうな道があった。
 朽ち崩れた門があり、登ってゆくと民家がある。
 どうやら人の住んでいるような気配がする。
 車道へ引き返し、中里へ向かう。
 愛宕中学校の跡地はすっかり更地になり、なぜか正門だけがポツンと残っている。
 正門の前に地蔵堂がある。
 すぐ横の脇道は墓地を抜けて常安寺へくだる鬱蒼とした山道だ。
 格子戸からお堂のなかを覗くと延命地蔵と書いてある。
 この地蔵の首が山道を転げ落ちて沢で水を飲んでいたという伝説があるらしい。
 首の転がった坂道は常安寺への道か日影町へくだる道か――
 そんなことを思いつつ日影町に沿う坂道をたどった。
 国道45号とぶつかる右手が梅翁寺。
 国道を越えると測候所で、宮古湾が一望できる。
 測候所のわきに熊野町方面へくだるきつい坂道がある。
 泣き坂というのはこれだろうか。
 北から西へ向かい、いったん鍬ヶ崎から離れるかたちになる。
 途中、右手に鍬ヶ崎小学校を見おろし、学校の西に出る。
 この道を東にくだる。
 銭湯の不動園があり、鍬小の正門が見え、デイリーヤマザキの看板を掲げた鯛屋商店がある。
 バス停の鍬ヶ崎下町、前須賀を過ぎると鍬ヶ崎の港だ。
 坂ばかりのこの道は宮古から鍬ヶ崎へいたる、いわば鍬ヶ崎道のひとつだったろう。
 日陰が多いので夏の散策にもちょうどいい。
 
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■ 重茂まで歩く…

 
 千徳から重茂まで歩いてみようと思った。
 閉伊川の土手の上を東へ向かう。
 左岸の河川敷はすべて畑で、ナスやトマトやトウモロコシほかもろもろの作物が実っている。
 堤防と山田線の土手のあいだも、かつてはみんな田んぼだった。
 国道106号の八幡橋を渡り、横山八幡宮の境内を抜けて再び閉伊川の土手に出、小山田橋を渡る。
 ここからしばらくは車道に沿って進む。
 小山田トンネル880メートルはいやな感じだ。
 タオルで口を覆い、足早に通り抜ける。
 八木沢川に沿って磯鶏〔そけい〕の工場地帯を抜け、神林の木材港で海を眺めてほっと一息つく。
 警察署の横から国道45号を南下。
 宮商前の坂を登りきると藤の川が見えてくる。
 赤松の木がそびえる坂の下の光景が懐かしい。
 レストランまるみつで早めの昼食をとり、藤の川の浜におりた。
 泳いでいる人はいない。
 だいいち人がほとんどいない。
 水もまだ冷たい。
 高浜漁港の先にイカ最中のモナカ屋がある。
 陸中銘菓という看板を出している。
 モナカ屋を過ぎてからは、ずっと堤防上を歩く。
 梅雨は明けていないけれど、いい天気だ。
 日陰がなく、むしろ強い陽射しが恨めしい。
 宮古湾温泉マースあたりの浜辺で、リクライニングチェアに寝そべって体を焼いている人が遠くに見えた。
 津軽石川の川原をさかのぼってみる。
 河口にそびえる津波対策の巨大な水門を潜り、稲荷橋も過ぎてから川っぷちに腰をおろす。
 少し足が痛みだしていた。
 右膝の裏の筋肉が張っている。
 重茂半島に入って白浜までは歩きたいが、この足では無理かもしれない、とにかく赤前の運動公園まで行って様子をみよう――
 そう思って稲荷橋を渡った。
 津軽石川の右岸、河口の右側がすぐ運動公園だ。
 湾沿いには薄赤みをおびた砂の赤前浜が延びている。
 ここにも人がいない。
 自然石を組んで海に突きだした突堤の尖端に座り、湾奥から太平洋を見遥かし、しばし自然を独り占めする快感に浸った。
 が、足の痛みがひどくなってきた。
 運動公園の木陰の芝生で大の字になってひと寝入りしたあと、白浜行きは諦め、国道45号に戻って川帳場の停留所から県北バスに乗った。
 あっけなく宮古駅に着いた。
 バスの窓から眺めた途中の光景はなにも印象に残っていない。
 
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■ 重茂の焼きウニ

 
 宮古から焼きウニを買ってきた。
 お馴染みのアワビの殻に盛られた、ずしりと重い80グラム。
 ビニールのパッケージにはとどヶ崎灯台の写真が掲げられ、重茂産と銘打ってある。
 高級珍味とも印刷されている。
 税込み1780円。
 高級である。
 珍味とは思わないけれど、言うまでもなくうまい。
 箸ですくって口に含むと懐かしい味が舌に広がる。
 宮古以外では口にしない味だ。
 つぎに醤油をたらし、ご飯にのせて食べる。
 こういう単純な食べ方が好きだ。
 食べながら包装用の袋を見てみる。
 いろいろ書いてある。
 袋からとりだし、貝のままレンジまたは蒸し器に数分入れて温め醤油などで味つけしてお召し上がりください――温めてもうまいだろう。
 酢の物、茶碗蒸しなどの料理にもいい――なるほど。
 “まろやかさを炊き込む”ウニご飯の作り方(4人前)も載っている。
 A 米3カップ・焼きウニ1ケ80グラム・刻み海苔適量
 B 塩小さじ1・醤油大さじ2・砂糖小さじ2・酒大さじ1
 1 米をといで水につけ、炊く30分前にザルにあけておく
 2 1にBと水3カップを加えて炊く
 3 焼きウニをほぐす
 4 2が炊き上がったら3を入れ十分蒸らす
 5 器に4を盛り、刻み海苔を散らす
 う〜ん、いい香りがただよってきそうだ。
 なんてったって日本一の宮古は重茂産を使ったウニご飯だからなぁ、たまりません……
 発売元が重茂漁業協同組合。
 製造所の所在地や製造者の個人名も書いてある。
 北田富雄さんという人らしい。
 賞味期限が平成18年12月31日――
 えっ! そんなにもつの?
 いまは平成17年7月。
 重茂産のウニは防腐剤などの添加物はいっさい使用していない自然食品。
 それでもマイナス18度C以下で冷凍すれば1年半はだいじょうぶということらしい。
 もっとも焼きウニであれ生ウニであれ目の前にあればすぐに食べつくしてしまう。
 保存する気など起こしたためしはない。
 
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■ 緑の黄な粉

 
 宮古でパック入りのゴマ餅を買った。
 5個入り消費税抜きで300円。
 250円ならいいのになぁと思いながらも、うまいうまいと食べた。
 摺りゴマがたっぷりついている。
 黄な粉餅やクルミ餅も食べたかったけれど売り切れだった。
 子どものころは黄な粉餅をよく食べた。
 正月はもちろん、気が向けば年じゅう食べたような気がする。
 家でつくるにしてもクルミ餅やゴマ餅より簡単だったせいかもしれない。
 クルミやゴマのタレはなかなか売っていないけれど、黄な粉は売っている。
 お土産にも新里産の黄な粉を買ってきた。
 ビニール袋に貼られたカラーのラベルには新里ふるさと物産センター・叶V里産業開発公社の名があり、所在地の表記はまだ下閉伊郡新里村大字茂市のまま。
 小さなシールには宮古産とあり、所在地も宮古市茂市になっている。
 180グラム298円。
 賞味期限は2006年5月10日。
 原材料は青畑豆で、品名が“青きな粉”。
 なるほど、青きな粉か――
 子どものころ、青いというか、薄緑色をした黄な粉しか知らなかった。
 緑色なのに黄な粉とは変だなと思った覚えがある。
 上京して甘味喫茶に入り黄な粉餅を頼んだ。
 出てきたのは茶色いコナにくるまれた物体でギョッとした。
 いま思えば笑い話だが、茶色い黄な粉との出会いはちょっとしたカルチャーショックだった。
 緑の黄な粉というのは、ひょっとしたら東北独特の産物なのかもしれない。
 四国出身の人間に訊いてみると、緑の黄な粉など見たことがない、黄な粉とは茶色いものに決まっている、と言う。
 新里産の青きな粉の原料として書かれていた青畑豆というのを調べてみた。
 アオバタマメと読み、大豆の一種。
 ふつうの大豆とは品種が違うらしく、東北地方の特産になっている。
 盛岡に出たとき、宮古へのお土産として買ってくる菓子の定番は南部煎餅・豆銀糖・からめ餅だった。
 この豆銀糖が緑の黄な粉と同じ色だから青畑豆を原料にしているのかもしれない。
 宮古から戻り、さっそく緑の黄な粉餅をつくって食べた。
 青きな粉に砂糖をまぜ、ちょっぴり塩を効かせる。
 焼いて湯をくぐらせた切り餅にまぶす。
 久しぶりの緑の黄な粉餅はうまかった。
 
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■ 焼きウニ1万個盗難

 
 久しぶりに重茂産の焼きウニを食べたばかり、「なんだりかんだり」に文章を書いた直後だっただけに目をむいた。
 7月29日付の岩手日報「焼きウニ1万個盗難 宮古の重茂漁協」という記事だ。
 朝日新聞夕刊19面にも「焼きウニ1万個盗難 岩手の漁協で 1300万円相当」という記事が出た。
 全国版、しかも太い罫で囲まれ、かなり目立つ。
 盗難された数の多さにニュース・バリューがあったのだろうか。
 ウェッブ版 asahi.com には社会面の事件・事故欄に出ていた。
 ――岩手県宮古市重茂の重茂漁協(伊藤隆一組合長)が、販売前の焼きウニ約1万個(時価1300万円相当)が冷蔵施設から盗まれたと岩手県警宮古署に被害届を出していたことが29日わかった。
 同署は窃盗事件として捜査している。
 調べによると、盗まれたのは同漁協が所有する冷蔵庫で保管していた焼きウニ1万6000個のうち1万個。
 6000個は無事だった。
 従業員が23日午前11時ごろ盗難に気づいた。
 22日午後1時ごろに点検した際には異常はなかったという。
 焼きウニは、アワビの殻にウニを盛りつけ、あぶった上で袋詰めしたもの。
 三陸地方の郷土料理で、宴会などで改めて火であぶって食べる。
 相場は1個1300円ほどだという。
 以上が asahi.com からの引用。
 紙の朝日新聞の記事には“三陸地方の郷土料理で、”という部分がない。
 朝日より岩手日報の記事のほうが詳しい。
 日報によると被害にあったのは海洋冷食工場。
 重茂漁港から約1.5キロ山沿いにあり、周囲に民家はない。
 午前8時から午後5時まではパート20〜30人と男性職員5〜6人がいてワカメの袋詰め作業などをしていた。
 イクラやワカメ・塩ウニなどの冷蔵庫には被害がなく、鍵などが壊された形跡もなかった。
 被害届けを出したのは25日。
 漁協は組合員に被害報告とお詫びの文書を出した云々
 1万個の焼きウニ、今頃どこでどうしているやら……
 
▽重茂産 焼きウニの袋 表・裏
 写真に撮るより食い気が先走り中身はとっくになし。。。
重茂産 焼きウニ 袋 表
重茂産 焼きウニ 袋 裏
 
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■ 焼きウニ騒動余話

 
 焼きウニ1万個盗難の容疑者は報道のあった翌日にあっさり捕まった。
 元パート従業員で、知り合いの冷凍庫に隠した1万個のうち8500個は押収された。
 残り1500個はどうしたのか調査中らしいが、その後の報道はない。
 数が数だから陰にはプロの窃盗団でも暗躍したのじゃないかと想像した。
 冷凍設備を自前で持ち、あるいは冷凍船にでも運び込み、ほとぼりが冷めるのを待って売りさばく大がかりなギャングだ。
 捕まえてみると、どうやら単独犯で、生活費めあてのコソ泥にすぎなかった。
 錠などが壊されていなかったから内部の事情に詳しい人間がやったにちがいないという予想はあった。
 それにしても、平和な重茂地区の人たちにはとんだ騒動だった。
 いっぽう焼きウニには大いに光があたった。
 事件は全国に新聞報道された。
 テレビでも流されたらしい。
 三陸宮古の特産品、郷土料理の焼きウニとはどんなものか、大量に盗まれるほどうまいものなのか、と注目を集めた。
 逆に言うと、全国的には焼きウニがあまり知られていないという事実が明らかになった。
 宮古の人間なら生まれたときから見ている。
 季節になれば珍しくもない。
 冷凍すれば1年半は保存がきくようだから、魚屋さんや土産物屋には年じゅう出回っているといっていい。
 事件が報道されて重茂漁協には問い合わせが殺到したらしい。
 注文も多く、きっかけがきっかけだけに漁協では困惑したという。
 きっかけはどうあれ、重茂の焼きウニが全国に知れわたってよかった。
 その半面、あまり有名ブランド化し、高価になっても困るなという思いもある。
 事件を通してわかったことのひとつは旬の焼きウニ80グラムの相場だ。
 1万個で時価総額1000万円相当という報道も一部にあった。
 多くは1万個1300万円、1個1300円としていた。
 事件の直前、電車に乗りこむまえに土産物屋で急いで買った同じ重茂産焼きウニの値段は税込み1780円。
 ちょっと高かったかな?
 
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■ 宮古病院跡地

 
 駅前の宮古病院跡地には、どうやら郵便局が建つらしい。
 ちょっと前の岩手日報に記事が出ていた。
 その記事によると、長いあいだ広い空地のままに放置されている栄町の岩手県立宮古病院跡地というのは、日本郵政公社の所有になっている。
 面積は3557平方メートル。
 3.3で割って換算すると、1078坪になる。
 ここに懐かしい宮古病院があったのは1992年(平成4)5月までのこと。
 宮古病院は崎鍬ヶ崎へ移転していった。
 指折り数えてみると、その後じつに13年間も空地になっているわけだ。
 その間の2003年(平成15)3月には、郵政公社になるまえの郵政事業庁というところが保久田にある宮古郵便局を移転・新築する計画を立て、宮古病院跡地を岩手県医療局から7億2560万円で買い取った。
 その計画を、いよいよ実施に移す段になったらしい。
 着工は今年度(2005年度)内で、来年(2006年)秋の完成をめざす予定という。
 新しい局舎は、いまの局舎の1.5倍規模のものができるらしい。
 長いあいだ空地になっているのを目にするたびに、市が買い取って公園をつくってほしいと思っていた。
 宮古の中心市街地には広い公園がなく緑が少ない。
 宮古病院の跡地こそ、市民や旅人の憩いの場、イベントの場、災害時の避難場所となるような公園にふさわしいんじゃないかと前から思っていた。
 それだけに郵便局が建つと知って残念な気がする。
 いま民営化が衆議院選挙の争点になっている渦中の郵政公社だけれど、建設計画が動きだしたのなら早晩郵便局は建つだろう。
 どうせなら建造物として風情のある局舎を建ててほしいものだ。
 シートピアなあどのような、急造のバラックみたいな建物だけはやめてもらいたい。
 あまった敷地をコンクリートで固めて駐車場だけにするような愚劣なことも勘弁してほしい。
 樹木を植え、公園のなかに郵便局があるような趣きにしてほしい。
 そろそろ官公庁は公共施設を建設するさいに市民の意見をとりいれる姿勢を、もっとみせてもいいころじゃないかと思う。
 
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■ さんまゆうパック

 
 宮古の魚市場に8月12日、今シーズン初のサンマが20トン水揚げされた。
 去年より5日早かった。
 色丹島あたりのロシア領海で獲れたサンマで、高値を期待し、30時間以上かけて宮古に入港したそうだ。
 30センチを超える大型サイズが多く、入札では1キロあたり200円から250円の値をつけた。
 初水揚げのニュースを聞くと10月に魚群が宮古沖に下ってくる最盛期に向けていよいよサンマのシーズンが始まったなという感じで毎年胸が躍る。
 今年は出漁調整するほどの豊漁がつづいている。
 8月30日には宮古郵便局で“さんまゆうパック”の出発式というのがあった。
 さんまゆうパック――秋刀魚の郵便小包。
 出発式というのは8月中旬から申し込みを受けつけていた分を全国へ向けて発送しはじめたということらしい。
 この日は1300パックを発送。
 今年度の目標は1万5000パックだという。
 新鮮で脂ののった宮古港水揚げの大型サンマが1パックあたり5匹から20匹入り、価格は郵送料込みで1480円から6300円。
 どんどん申し込みが舞いこんでほしいものだ。
 宮古郵便局でこの“さんまゆうパック”をいつからやっているのかと思ったら、今年で16年目になるらしい。
 来年秋までには新しい局舎が栄町の宮古病院跡地に建設されるそうだから、ひょっとしたら保久田からの発送は今季が最後になる。
 この「宮古なんだりかんだり」で保久田の宮古郵便局にふれるのも、これが最後になるかもしれない。
 いい機会だから手持ちのデータを書きつけておこう。
 所在地は保久田3番8号、普通郵便局、職員71人、1日平均利用者数1000人、敷地面積1669平方メートル、建物は建設から37年経過しているという。
 データは岩手日報から仕入れた。
 37年前というと1968年(昭和43)に完成した計算になる。
 宮古市史年表には出ていない。
 第2幹線を通るたびに目に入ってくる、宮古では大きな建物だ。
 かなり老朽化しているのはたしかで、そろそろ建て替えの時期ではあるのだろう。
 
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■ 沢のつく地名

 
 沢というのは山あいの谷川や湧き水が豊かな土地を言う。
 宮古にはナニナニ沢という地名が多いような気がする。
 大きなところでは小沢(こざわ)や長沢、八木沢、神田沢、大沢などの町名・大字名がある。
 小字では沢田の常安寺のあるところを打手ヶ沢(うってがさわ)という。
 浄土ヶ浜のかつてのボート乗り場があったあたりは水取沢(みずとりざわ)というらしい。
 近内には遠足で行った蜂ヶ沢(ばちがさわ)がある。
 津軽石中学校のあたりは千の沢という。
 山根町には鉄砲沢があると、鍬ヶ崎上町に住むテルミンさんが教えてくれた。
 坂の入り口にポンプ式の井戸があり、しょっぱい水が出たと。
 洗い場があり、近所の人が米をといだり洗濯したり、ときには染めた布を晒している人もあったという。
 日立浜町のヘフナーさんは鉄砲沢をテッポウザァと発音する。
 防波堤をつくるケーソン・ヤードの向かいを奥に入って山のほうに家があるところで、本家がテッポウザァにあるという。
 鉄砲水でも出たのだろうかと思ったら違った。
 昔からあそこの土地は鉄砲屋のものだったからだという。
 そのヘフナーさんの家のあたりは、ネエノサワと呼ぶらしい。
 日立浜のバス停の向かいを奥のほうへ入っていったところだ。
 これには、どんないわれがあるのかわからない。
 津軽石川にそそぐ支流に根井沢という川がある。
 流域の土地も上根井沢とか根井沢と呼ばれている。
 鍬ヶ崎のネエノサワも、あるいは根井ノ沢などと書くのかもしれない。
 鍬ヶ崎といえば、宮古唯一の地酒の千両男山をつくっている菱屋酒造が下町(しもまち)にある。
 あのあたりは日影の沢とも呼ばれた。
 酒造りに使っている水は菱屋の持ち山、鍬ヶ崎の杉山に湧く清水だという話を聞いた覚えがある。
 鍬ヶ崎の上町には道又沢がある。
 道又医院のあたりだ。
 小字や俗称・通称を丹念に探せば、沢のつく地名というのは、もっとたくさんあるにちがいない。
 
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■ 水がうまい!

 
 小沢(こざわ)の急な坂の上のほうに“長寿の水”という湧水があるそうだ。
 けむぼーさんのホームページ「けむぼー温泉」の「みやごの写真集 今時編」に出ていた。
 見ると、りっぱな水瓶というか貯水槽があって蛇口もついている。
 柄杓も、かたわらの木にかけてある。
 ――お年寄りたちは柄杓で喉を潤し、自分が持って帰れる量をペットボトルに入れると、また汗を拭き拭き坂を下っていきました。
 けむぼーさんはそう書いている。
 このあたりには“小沢前の鉱泉”というのもあった。
 冷たい湧水を沸かして入る冷泉で、宿泊もできたらしい。
 いわゆる湯治場だ。
 残念ながら、そういう施設はいまはない。
 小沢の湧水は、背後の黒森山のほうから地下を通ってきた清水なのだろう。
 黒森神社境内の薬師堂のまえにも“薬師の水”と呼ばれる名水がある。
 樹齢7000年とも推定される祖母(おば)杉あたりを水源とするといわれ、ここも市内から水を汲みにのぼってくる人が多い。
 黒森山の頂上へつづく山道には“長寿の渓水”というのもある。
 名前を書いた立て札と、渓水が流れ出ている塩ビのパイプがあるだけだが、てのひらに受けて飲むと、これがじつにうまいのだ。
 深沢水神の石碑も山道に建っている。
 そばの立て札にはこう書かれている。
 “神威の黒森山頂近くから流れ出る水は、深沢の渓谷を下り田畑を潤し井戸水に利用されて来ました。
 よってこの水に感謝し、ここに深沢水神塔を建立して祀る。”
 2000年(平成12)3月に黒森神社の氏子総代会や有志が建てたらしい。
 宮古は水道の水もうまい。
 上京して最初に帰省したとき、家でひと口水を飲んで「水がうまい」と口走った。
 おやじに「なにを年寄りくさいことを」と言われたが、東京の水道水のまずさにはほとほと参っていた。
 慣れるまでは沸かさないと飲めなかった。
 あまり言う人がいないので声を大にして言いたい。
 宮古の水はうまい!
 その水を使った料理もうまい!
 
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■ 狐の仕返し

 
 小沢前の鉱泉で思い出した。
 和井内の鉱泉を舞台にした話が「遠野物語拾遺」のなかにある。
 この本は遠野の佐々木喜善が集めた話を柳田国男がまとめたもので、もとは1921年(大正10)11月13日の「岩手毎日新聞」に出ていた記事だそうだ。
 ――小国の先の和井内という部落の奥に鉱泉の湧くところがあって、石館忠吉という67歳になる老人が湯守をしていた。
 ある夜中、戸を叩くものがあるので起きて出てみると、大の男が6人、手に手に猟銃を持ち、筒口を向けている。
 「300円出せ。出さないと命を取る」
 そう言って脅すので、驚いて持ち合わせの35円68銭入りの財布を差し出した。
 「こればかりでは足りない。ぜひとも300円、ないと言うなら撃ち殺す」
 男たちは今にも引き金を引こうとする。
 「人殺し!」
 忠吉爺さんは一声叫ぶと、夢中で和井内の部落までこけつまろびつ走ってきた。
 それは大変だと村の人たちは、駐在巡査も消防手も青年団員もひとつになって多人数で駆けつけた。
 湯守小屋に、すでに6人の強盗のすがたはなかった。
 ふしぎなことには先刻、忠吉爺さんが渡したはずの財布が床の上にそのまま落ちている。
 これはおかしいと小屋のなかを見回すと、蓄えてあった魚類や飯がさんざんに食い散らされ、そこら一面、狐の足跡だらけだった。
 「さては爺さん、化かされたな」
 一同大笑いになって引きあげた。
 忠吉爺さんは4、5日前、近所の狐穴を生松葉でいぶして一頭の狐を捕り、皮を剥いで売った。
 さだめし、その一族が仕返しにきたものだろうと村ではもっぱらの噂だったという。
 
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■ 石臼の話

 
 「遠野物語」のなかに宮古の名が出てくる話がある。
 ただ名前が出てくるだけで、内容はふしぎな石臼にまつわる話だけれど、意訳して紹介しておきたい。
 ――遠野の町なかに、いまは池ノ端という家がある。
 その先代の主人が宮古へ行って帰る途中、閉伊川の原台(はらだい)ノ淵というあたりを通ったときのことだ。
 ひとりの若い女がいて、一封の手紙を主人に託した。
 「遠野の町の後ろの物見山の中腹に、沼があります。
 手を叩くと宛名の人が出てきますから、どうぞ渡してください」
 先代の主人は請け合いはしたが、道みち気になって、はてどうしたものかと思案に暮れていた。
 と、ひとりの旅の僧に行き会った。
 主人は僧にことのしだいを話した。
 旅の僧は手紙を開いて読むと、
 「これを持ってゆけば、おまえの身に大きな災いがあるだろうから、書き換えてあげよう」
 そう言って手紙を書いてくれた。
 この手紙を持って物見山の沼へ行き、教えられたように手を叩いたところ、若い女が出てきた。
 手紙を受けとると女は、「お礼です」と言って小さな小さな石臼をくれた。
 それは米を一粒いれて回せば下から黄金が出てくる石臼だった。
 この宝物の力で家は少しずつ裕福になった。
 ところが、あるとき欲の深い妻が一度にたくさんの米をつかみいれた。
 すると、石臼はしきりにみずから回り、ついに朝ごとに主人が石臼に供えていた水の溜まった小さな窪みに滑り落ちて見えなくなってしまった。
 その水溜まりは、のちに小さな池になり、いまも家のかたわらにある。
 家の名を池ノ端というのも、そのためだ。
 
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■ 腹帯ノ淵

 
 石臼の話に出てきた、閉伊川の原台ノ淵というのは、腹帯(はらたい)ノ淵のことかもしれない。
 腹帯は、新里地区の大字で、閉伊川に沿っている。
 角川書店の日本地名大辞典をみると、地名の由来には大淵を表わすハッタラというアイヌ語によるという説があると書かれている。
 また、佐々木四郎高綱という源氏の武将の一族郎党がこの地に滞在したおり、佐々木なにがしの妻がみごもり着帯の慶事をおこなったためという言い伝えもあるらしい。
 着帯の慶事というのは、妊娠5ヵ月目の吉日に妊婦が腹帯(はらおび)を締める祝いごとをいう。
 地名由来説話ではないけれど、「遠野物語拾遺」にはおおむねこんな話が載っている。
 ――閉伊川の流域に、腹帯ノ淵というところがある。
 むかし、この淵の近所の家で一度に3人もの急病人ができた。
 どこからかひとりの老婆があらわれて言った。
 「病人が出たのは、2、3日前に、庭先で小蛇を殺したからだ」
 家人も心当たりがあるので詳しくわけを聞いた。
 「その小蛇は淵の3代目の主がこの家の3番目の娘を嫁に欲しくて遣わした使者だから、その娘はどうしても水のものに取られる」
 娘はこれを聞くと驚いて病気になった。
 一方ふしぎなことに家族の者は3人とも病気が治った。
 娘のほうは約束事だったとみえて、医者の薬も効きめがなく、とうとう死んでしまった。
 どうせ淵の主のところへ嫁に行くものならばと、家の人たちは夜のうちに娘の死骸をひそかに淵のかたわらに埋め、いつわりの棺で葬式を済ませた。
 一日置いて淵のかたわらへ行ってみると、もう娘のしかばねはそこになかった。
 そのことがあってからは、娘の死んだ日には、たとえ3粒でも雨が降ると伝えられ、村の者も遠慮して、この日は子どもにも水浴びなどさせないという。
 
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■ 閉伊川伝説

 
 閉伊川の流れには淵多く、恐ろしき伝説少なからず――
 そう前置きして「遠野物語」はつぎのような話を挙げている。
 ――小国川との落ち合いに近いところに、川井という村がある。
 その村の長者の奉公人、淵の上にある山で木を伐っていて、斧を水のなかに落としてしまった。
 主人のものなので淵に入って探していると、水の底に入ってゆくにしたがって物音が聞こえてくる。
 なんだろうとふしぎに思って探ると、岩の陰に家がある。
 奥のほうには美しい娘がいて、機(はた)を織っている。その機の脚に斧が立てかけてあった。
 「斧を返してくれ」
 男が言うと娘が振り返った。
 その顔を見れば、2、3年前に死んだ、主人の娘だった。
 「斧は返します。
 でも、わたしがここにいたということを人に言ってはなりません。
 そのお礼に、おまえの身上がよくなり、奉公をしなくてもすむようにしてあげましょう」
 そのためかどうかはわからないが、男はそれから胴引きなどという博打にふしぎに勝ちつづけて金が貯まり、ほどなく奉公をやめ、中ぐらいの農民になった。
 そうこうするうち、この男、娘の言ったことを忘れてしまった。
 ある日、同じ淵のあたりを過ぎて町へ行く道すがら、ふと娘のことを思い出し、連れ立った者に、以前にこんなことがあったと話してしまった。
 やがて、噂は近郷に伝わった。
 そのころから男の家産はふたたび傾き、また昔の主人に奉公して暮らすようになった。
 家の主人はなにを思ったか、その淵に、桶にいくつとなく熱湯を運んで注ぎいれたりしたけれど、なんの甲斐もなかったという。
 
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■ アガザッコ

 
 手もとに届いた「月刊みやこわが町」の最新号(2005年9月号)を眺めていたら、「らくがき町」という読者投稿欄に「アガザッコの思い出」という文章がでているのが目にとまった。
 思わず妙な感覚にとらわれた。
 アガザッコ!? なんだか懐かしい、しかし、なんのことだっけ?
 投稿した人は1946年(昭和21)生まれで、高校2年まで光岸地で育ったという。
 以下、そのおおよそを転記しておきたい。
 ――アガザッコというのは夏保峠をさし、子どもの頃、光岸地の連中はだれでもアガザッコ、もしくはアカザッコと呼んでいた。
 語源はわからない。
 冬になるとこの山の谷あいは凍りついて、ソリ滑りにはもってこいの場所だった。
 滑り止めに長靴にワラ縄を縛って、えっちらおっちら登った。
 秋には木に漁具の古ロープを巻きつけてターザンごっこをした。
 お昼になると八紘台のサイレンが鳴った。
 アガザッコの頂上には、鍬ヶ崎・忠魂碑(大杉神社)・善林寺(光岸地)・愛宕(旧舘)方面への分岐点があった。
 付近にはお墓もあった。
 愛宕への道は本照寺の坂道に合流していた。
 本照寺とは呼ばずにホッケ寺と呼んでいた。
 この坂道も冬になると竹スキーで滑ったものだった云々
 この投稿に「らくがき町」の町長さんは、こう応じている。
 ――愛宕付近は昭和40年代の国道45号線工事、中里団地造成などで昔の面影がガラリと変わった。
 旧地蔵堂があった夏保峠は国道開削の切り通しになった。
 さてアガザッコ。
 アガは赤土のこと、ザッコは崩れやすい斜面の意味があるザクトレが変化したもの。
 したがってアガザッコは赤土の急斜面という意味と考えられるが、これはあくまで個人的意見として参考にしてほしい云々。
 
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■ 焼きまつも

 
 久しぶりにまつも(松藻)を食べた。
 宮古の焼きまつもだ。
 この夏はとにかく蒸し暑くて味噌汁を敬遠していた。
 それがこの2、3日ぐっと涼しくなり、朝から味噌汁を食べている。
 きょうは袋の口を切って焼きまつもをちぎり、ぱっと味噌汁にはなした。
 ぷーんといい香りが広がり、食欲も刺激される。
 磯の香、まつものすがすがしい匂いに包まれる。
 焼きまつもというと宮古の川原田商店が知られている。
 これは山口商店の製品だ。
 盛岡の駅ビルに入っている山口屋で仕入れた。
 2枚入りで630円だったか。
 グラム数は書いていない。
 袋のなかに栞が入っている。
 まつもを味わいながら横目で読んでみたら、こんなふうに書いてあった。
 ――三陸名産 風味 焼まつも
 このマツモは褐藻類ナガマツモ科の海藻。
 外海に面した岩に自然にはえるもので、全形がマツの新芽を思わせることからマツモと呼ばれ、方言でマツボとなったといわれる。
 このマツモは海藻の中でも磯の香が高く、どの海藻よりカルシュウムが多く含まれていて栄養価が高く評価されている。
 お召し上がり方
◎既に焙ってありますのですぐ召し上がれます。
◎お味噌汁に:お椀の中にちぎって散らすと、磯の香も高く素朴な風味です。
◎二杯酢、三杯酢に:一度熱湯を通すと松の緑も新鮮に色冴えかえり、酢の物は爽やかな潮騒の風味です。
 材料:酢、味噌、洋からし、生姜又は紫蘇の葉。
◎ふりかけ、お茶漬けに:磯の香が高いので、サラッと、お茶漬けは風味満点です。
◎うどん、きそば又は清汁(すましじる)に入れて風雅です。
製造元 海産物専門店 山口商店  代表者 山口正
 本店 岩手県宮古市末広町7−30
       電話(0193)62−2626
 魚菜市場店 電話(0193)62−2006
 盛岡駅フェザン店 電話(019)654−7814
 仙台駅エスパル店 電話(022)716−2060
 
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■“元祖”焼きまつも

 
 まつもが好きで、宮古にいるときはよく食べた。
 干したまつもを食べる直前に網に載せてかるく焼く。
 ぱちぱちはぜ、ちょっと気を抜くと焦がしてしまう。
 いつのまにか焼きまつもが出回るようになった。
 その“元祖”が宮古の川原田商店らしい。
 もう1年前になるが、2004年(平成16)9月15日の岩手日報に記事が出ていた。
 かいつまんで紹介しよう。
 ――手にとりてけふこそ見つれ岩手の海おふる松藻の千代の緑を
 “汽笛一声新橋を”で始まる鉄道唱歌の作詞者・大和田建樹は、まつもをこう歌に詠んでいる。
 明治時代のことで、当時は保存技術が不十分なため、冬場に沿岸地方で食べられるだけだった。
 いつでもどこでも食べられるように加工法を考案して売り出したのが川原田商店だった。
 1949年(昭和24)に川原田俊之さんが鮮魚出荷業として創業。
 その後、漁師さんから20センチ四方に形を整えた干しまつもを仕入れ、炭火で焼いて売りはじめた。(年月日は書かれていない)
 ところが乾燥まつもは湿っけやすい。
 火入れを繰り返すと風味が落ちる。
 冬場に採取したまつもを梅雨どきを越しては保存できなかった。
 炭火を利用して遠火であぶって焼きまつもにするにも、1枚焼き上げるのに30分と時間がかかった。
 試行錯誤を重ねたすえ、電気を用い、遠赤外線で焼いて、1枚3分ほどできれいに焼きまつもを仕上げる技術を考案した。
 大阪からローラー付きの機械も導入した。
 製品は好評を博し、開発した技術は同業者に広まって、宮古のまつもは“三陸まつも”として全国に知られるようになった。
 まつもは千葉県より北の太平洋沿岸の岩場に生育し、時化の多い冬の荒波がおさまるわずかな合間に収穫されるが、
 「2月ごろ、浄土ヶ浜の周辺でとったものが最高」
 と川原田さんは言う。
 川原田商店は宮古市和見町3番7号にある。
 電話は0193−62−3304。
 
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まづぼだーべ。   JAN OCCO * 投稿
 
 まつも――
 観光土産用のパッケージには「まつも」とあるが、宮古の人、特に海側の人は「まづぼ」と呼ぶ。
 三陸を中心に磯場に生育する貴重な海草だ。
 春先に獲れる生まづぼを味噌汁や吸い物に放すと、ぱっと鮮やかな緑色に、さながら小さな松の小枝を散らしたように広がる。
 松藻――なるほど、いいネーミングである。
 図鑑的にはマツセノリというらしい。
 椀に放すのもいいが、ざるに取り、熱湯を通したものを三杯酢で食べるのもまたいい。
 香りがいい、ぬらぬらざらざらの歯ざわりがいい。
 春には生ものがたくさん出ているが、海苔状に焼いたものや、それをさらに小分けしてパッケージしたものが1年を通じて手に入る。
 まづぼのカロチン含有量は海苔のほぼ10倍。
 生活習慣病予防やガン予防にも効果大とのこと。
 宮古のまづぼ漁は4月から6月。
 漁師が、口開け(漁の許可された日)に、サッパ(小さな漁船)で獲る。
 たくさん獲れるものではないので、都会の魚屋やスーパーでは、ほとんど見あたらない。
 一般的にはまったく無名の不思議食材であり、また知る人ぞ知る高級食材なのだ。
 ものの本によると、料亭や高級割烹では出てくるらしいが、縁がない。
 ああ、まづぼのおつけが食べたいなあ。
 「今日のおつけはなんだーや?」
 「まづぼととーふ」
 おつけは御付、もっと丁寧になると御御御付。
 うちの親父は言ってたなあ。
 「まづぼの御御御付は、いづばんだあ」
 
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■ 真崎の岩ツヅミ
 ――宮古の昔話1
 
 昔むかし、真崎の岩穴に三人の親子が追っ手からのがれて隠れ住んでいました。
 武士の正清と、娘のおつる、その妹のおたまです。
 あたりは大きな岩あり、切りたつ崖あり、深い海ありで、隠れ住むにはうってつけのところでした。
 そのうえふしぎな岩ツヅミ(鼓)がありました。
 岩ツヅミは、よそからやって来た見知らぬ人がどんなに忍び足で歩いても、ぽーんぽーんと大きな音を立てました。
 音が聞こえると三人は洞穴の奥深くに身を潜めました。
 おかげでだれにも邪魔されず、静かに暮らしていたのです。
 ある日、岬の上で姉のおつるが、ひとりの若者と出会いました。
 おつるは若者に恋をしました。
 ところが、夜に若者を自分の住む洞窟までみちびこうとすると、あの岩ツヅミが鳴りだします。
 おつるは困りました。
 思いあまって自分の小さな剣(つるぎ)を岩ツヅミに突きたてました。
 すると、硬い岩ツヅミがすっと破れてしまったのです。
 ある夜のこと、ふいに大勢の追っ手が忍び寄せてきました。
 破れた岩ツヅミはうんともすんとも鳴りません。
 おつるが恋に落ちた若者は追っ手の手先だったのです。
 正清は驚きました。
 いきなりあらわれた追っ手の軍勢を相手に戦いました。
 それでもすぐに取り囲まれ、殺されてしまいました。
 おつる、おたまも、父のあとを追って死んでしまいました。
 親子三人が悲しい最期をとげた日、清水が湧く須賀に、男ものの小袖一枚と、若い女ものの小袖二枚が、深まる秋の北風にひらひらとはためいていました。
 それからは、だれ言うとなく、ここをキタ小袖と呼ぶようになりました。
 そして、おつるが死んだところをツルギノ岩、おたまの死に場所を玉ゴシと呼ぶようになったそうです。
 
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■ 駒止めの桜
 ――宮古の昔話2
 
 昔むかし、鍬ヶ崎に高島屋という廓(くるわ)がありました。ここに、リセ(利世)というオシャラクがいました。
 リセには吉兵衛という恋人がありました。
 吉兵衛は千石船の船頭でしたから、陸(おか)で暮らしている男のように、いつも逢瀬を楽しむわけにはいきません。
 年に一度か二度も会えればいいほうだったのです。
 ある年のこと、暮れには必ず顔を出すと言っていた吉兵衛が姿をみせません。
 年が明けても、なんの音沙汰もありませんでした。
 リセは港のほうばかり眺め暮らしていましたが、傷心のあまり胸をわずらい、床についてしまいました。
 高島屋の主人は、リセを家に帰しました。
 田老の樫内(かしない)にある実家で養生していたリセの病は重くなるいっぽうで、うわごとに、しきりと吉兵衛の名を呼びます。
 吉兵衛が鍬ヶ崎に姿をみせたのは、その年の春、ちょうど桜の花の咲きほこるころでした。
 リセの抱え主からことのしだいを聞いた吉兵衛は、馬を駆って田老へと急ぎました。
 樫内に入り、ある坂を登りつめて下り坂にさしかかったところ、一本の桜の木のそばで馬が歩みを止めてしまいました。
 吉兵衛がいくら鞭をくれても、こうべをたれて激しくたたらを踏むばかりで一歩も先へは動こうとしません。
 しかたなく吉兵衛は馬をおりました。
 すると、近くの家から白髪まじりの老女が出てきました。
 老女は男をじっと見つめ、こう呼びかけました。
 「もしや、吉兵衛さんか……」
 老女はリセの母親だったのです。
 男が「そうだ」と告げると、老母は泣きくずれました。
 そして馬のかたわらにある桜の木のかげを指さしました。
 小さな墓がありました。
 リセの墓でした。
 桜の木は、それからだれ言うとなく駒止めの桜と呼ばれるようになりました。
 長いあいだ、春には可憐な花をつけてリセの霊を慰めていましたが、あるとき山火事にあぶられて枯れてしまったのだそうです。
 
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■ トクサ畑で
 ――宮古の昔話3
 
 昔むかし、一軒のツノ屋があった。
 ツノ屋は、スルメを釣るツノを売った。
 ツノは餌の代わり、針の代わりだ。
 ツノをつけた糸を海におろす。
 すると、餌だと思ってスルメが抱きつく。
 そこをすかさず釣り上げる。
 ツノは動物の角を磨いてつくる。
 磨くのにトクサを使った。
 ツノ屋の裏に、広いトクサ畑があった。
 ある晩のこと。
 下働きの男が夜ふけに目をさました。
 ――ミシッ、ミシッ
 と足音がする。
 縁側を見たら、大男が背中をまるめて歩いている。
 「泥棒!」
 寝ていたツノ屋の人たちは飛び起きた。
 大男はトクサ畑へ逃げこんだ。
 騒ぎに気づいた隣り近所の人たちも集まって、みんなでトクサ畑を取りかこんだ。
 そうして、石ころや棒っきれを手当たりしだい畑へ投げつけた。
 泥棒は広い畑のなかを逃げまわる。
 そうこうしているうち、あたりが白みはじめた。
 みんな、目をこらして畑を見た。
 泥棒のすがたが見当たらない。
 畑に入って探した。
 トクサを掻き分けてみたが影も形もない。
 「おがすうな。
 畑から逃げだぁはずはねえ」
 首をかしげながら、そう話し合っていたときだ。
 下働きの男の足もとで蚊の鳴くような声がする。
 「痛でぇ〜、痛でぇ〜。
 踏んづげんなぁ〜、踏んづげんなぁ〜」
 足もとを見ると、親指ほどの小さな男が草履に踏まれている。
 ひょいとつまみあげた。
 どうも、泥棒に入った大男のようだ。
 「ありゃ、なんだべ。
 こんな小さぐなって!」
 みんなびっくりした。
 泥棒は小さくなった体をますます縮めて震えていた。
 トクサ畑のなかを一晩じゅう逃げまわって、さすがの大男も磨り減ってしまったのだった。
 
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■「都桑案内」と関口全平

 
 「都桑案内」とは前に「大正時代の宮古ガイドブック」や宮古八景について書いたなかで紹介した宮古・鍬ヶ崎のガイドブックだ。
 都桑はトソウと読み、宮古と鍬ヶ崎をしゃれて表現したもの。
 関口花涯という人の編著になり、1918年(大正7)10月23日に小成書店から刊行された。
 印刷は花坂活版印刷所、定価35銭。
 大正期の宮古・鍬ヶ崎のようすがよくわかるように工夫された観光ガイドの先駆なのだけれど、残念なことに入手は不可能。
 市立図書館にも保存されておらず、メールでその存在を教えてくれた人もコピーを見ただけという幻の書なのだ。
 手もとに届いたばかりの「月刊みやこわが町」2005年10月号を見ると、この冊子が特集として取り上げられている。
 特集は「都桑案内を読み解く」というタイトル。
 さっそく記事を読んだ。
 思ったとおり観光名所・産業・交通・人物・伝説・信仰・生活から遊郭の話題に及んで多面的に宮古・鍬ヶ崎を紹介した貴重な冊子だったらしく、ますます興味が湧いてくる。
 岩手県立図書館に1冊保存されているらしい。
 編著者の関口花涯の遺族のところには残っていないのだろうか。
 あるいは小成書店や花坂印刷にはどうだろう。
 小成書店あたりが復刻版を出せば、宮古の文化史に残る貴重な事業になるにちがいない。
 関口花涯の遺族――と書いたけれど、そもそもこの人物についてはあまり解明されていないようだ。
 花涯は雅号で、本名は全平、あとは旧舘に住んでいた人ということぐらいしかわかっていない。
 旧舘、いまの愛宕で関口というと、本照寺の住職さんが思い浮かぶ。
 しかし、もし本照寺の縁者なら花涯こと関口全平の実像はもっと知られていていいだろう。
 全平というと、字こそ違うものの同時代に小説「寄生木」原作者の小笠原善平がいる。
 1911年(明治44)に「宮古新聞」を創刊した露堂こと小国善平もいる。
 当時ゼンペイという名が一種の流行りだったのかどうかはさておき、奇しくも同じ響きの名をもつこの3人からは同じ匂いが感じられてしようがない。
 もっと関口全平の正体を知りたいものだ。
 
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■ 藤原上町の牧場と射撃場

 
 藤原上町に住んでいた高校時代の友人がいる。
 いまは市内の別の場所に住んでいる。
 最近インターネットを始めたらしくメールが来るようになった。
 独特の文章でわかりにくいのだが、そのなかから、ぼくの知らなかったことなどを抜き出して繋げてみた。
 ――おれの生まれた家は藤原上町の高台に今もあるよ。
 むかし裏の山の上には伊藤牧場があった。
 牧場には宮古産カウボーイが牛を連れて草を食みにきたもんだ。
 通り道を糞だらけにしながらね。
 出たてのナマフンというのは、とても臭いんだ。
 生家は、その牛の通り道に沿っている。
 朝夕の2回だったような気がするな。
 朝に牧童が牧場に連れてきて、夕方に連れて帰る。
 20頭ぐらいはいたかなぁ。
 2頭並列で通るので道はふさがる。
 手助けの犬もいた。
 列を乱す牛にはワンワン吠えてね。
 あいつらが来たときには怖くて、みんなはねあがったよ。
 生家の上の左の山がこの牧場で、右の山道を登ったところには射撃場があった。
 オギュウ射撃場と呼んでいた。
 尾牛と書いたかな。
 ほんとうの名前かどうか、字もあっているかどうかわからない。
 皿を飛ばしてライフルで撃つんだ。
 割れないで飛んでいった皿を集めてくると小遣いが貰えた。
 マタギの人や趣味だけの人、いろんな人がいた。
 オギュウさんという人がいちばん上手で、知らずにそこをオギュウさんの山と言っていた。
 うちのすぐ脇にはラサのSLも走っていた。
 宮古で最後まで走ってたんだよ、たぶん。
 C10とかC11とかいう蒸気機関車だった。
 ラサの専用線を走って藤原と小山田を連絡していた。
 トンネルは異次元への出入口だったな。
 一瞬にして小山田に行ったり藤原に戻ったりして子どもごころに面白いと思ったよ。
 
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■ ラサ専用線

 
 むかし、藤原にはラサの私設鉄道が通っていた。
 ラサの引込線とよんでいたが、ラサ工業葛{古工場専用線というのが正式らしい。
 小山田1丁目のラサ構内から藤原上町を通り、藤原3丁目にある国鉄山田線の切替ポイントまで約3キロを走った。
 貨車を牽引していた蒸気機関車はC108号機が主役。
 予備機としてC11256、その後継としてC11247号機があったらしい。
 C108といえば、のちに宮古市に譲渡され、観光SLしおかぜ号として臨港線を走った。
 さらに大井川鉄道に譲渡され、いまも現役で走っている。
 2機のC11型については、まったく知らなかった。
 調べてわかったことを簡単に書きとめておこう。
 C11256は、1944年(昭和19)日本車輌製。
 1968年(昭和43)にラサから会津若松機関区へ譲渡され、1972年(昭和47)に廃車。
 C11247号機は、1943年(昭和18)日立製。
 1968年にC11256とコンバートするようなかたちで会津若松機関区からラサ工業へ譲渡され、1976年(昭和51)に引退。
 市内の小学校で保存しようという話がでたものの、実現せずに解体されたという。
 SLのあとをうけてDD16型の5201号機というディーゼル機関車も使われ、このDD5201を最後に専用線は廃線になったようだ。
 小山田のラサ構内と藤原上町との境には短いトンネルがあった。
 藤原小学校の裏手を通り、伊藤牧場のあった山の裾を走った。
 国鉄との切替ポイントは藤原比古神社の下あたりになる。
 ポイントを過ぎたところで国鉄の機関車の引いてきた貨車をうけとったラサ機は、後ろから貨車を押すかたちで戻り、藤原〜小山田トンネルのあたりで貨車の突き放し作業を繰り返した。
 国鉄の機関車も、ラサ機が引いてきた貨車をうけとると閉伊川の鉄橋を渡って宮古駅に向かい、八幡沖踏切のあたりで貨車の突き放しを繰り返した。
 この作業のあいだじゅう遮断機をおろしていた八幡沖踏切は開かずの踏切と化した。
 よくボー然と作業をながめていたものだ。
 専用線がいつ廃止されたのかはわからない。
 宮古市史年表によると、1986年(昭和61)4月に国鉄の合理化によって宮古駅の貨物駅が廃止されている。
 そのころ専用線も役目を終えたのだろう。
 
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■ デエゴ泥棒
 ――宮古の昔話4
 
 田老の青砂里(あおざり)に、ひとりのおばあさんがいました。
 三王岩の見える浜辺で小さな畑をたがやし、デエゴ(大根)の種をまいて大切に育てていました。
 秋が終わり、寒い北風が吹くころになりました。
 デエゴも大きくなりました。
 ――そろそろ採って売りさいぐべ。
 おばあさんはある朝、モッコをかついで畑にやってきました。
 すると、大事なデエゴが何本も引き抜かれ、丹精こめた畑が荒らされているではありませんか。
 ――憎たらすぅ泥棒はだれだぁべ。
 つぎの日の朝早くから、おばあさんは、かたわらの藪の陰に隠れて畑を見張っていました。
 やがて、磯のほうから、なにものかがあらわれました。
 大きなタコでした。
 驚いたおばあさんは、それでもじっと大ダコのようすをうかがっていました。
 大ダコは、おばあさんの畑に入りこみ、長い長い腕でデエゴを引き抜くと、その長い長い腕にかかえたまま、小おどりするように海へ戻っていきました。
 おばあさんは大あわてで村へ帰り、みんなに話しました。
 ところが誰も信じようとはしません。
 「ばばあ、呆げだぁが?」
 「ほんとだでば! だれがいっしょに来て、見でけどがんせ」
 おばあさんが言いはるので、つぎの日、家の者や近所の人たちが藪の陰からおばあさんの畑のようすをうかがうことになりました。
 すると、やはり海から大ダコがあらわれ、デエゴを引き抜き、長い長い腕にかかえたまま、海へと帰っていきました。
 この話は、すぐに村じゅうに広まりました。
 それからというもの、田老のあたりでは、漁師たちがタコ釣りの餌にデエゴを使うようになったのだそうです。
 
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■ カツギの辰
 ――宮古の昔話5
 
 むかし、田老の水沢に辰(たつ)というカツギがいました。
 カツギというのは海に潜って貝や海藻をとるアマ(海士)のことです。
 辰はカツギの名人で、“カツギの辰”といえば、このあたりで知らないものはないほどでした。
 ある夏のこと、宮古の代官所から、お達しがありました。
 「盛岡の殿さまに差し上げる5寸のアワビを200枚、明後日までに届けよ」というのです。
 そもそも無理な話でした。
 いちど潜れば5枚はとる辰でさえ、5寸もの大物は、1回1枚がやっとです。
 それを200枚もとるには、少なくとも200回は潜らなければなりません。
 しかも、ちょうど時化あがりで、海は波が高いときでした。
 とくに大物のいるトドヶ崎は、潮の流れが速く、潜るのは危険でした。
 さすがのカツギたちも怖気づきました。
 けれども、盛岡の殿さまの命令ですから潜らないわけにはいきません。
 仲間とともに辰は黙って海に入りました。
 田老カツギ、カツギの辰の名にかけて、辰は潜りに潜りました。
 自分では何回潜り、何枚とったかわかりません。
 とにかく、「もうよし」と声がかかるまでは潜り続けなければなりません。
 そのうち、やっと「あと1枚だ!」という声がかかりました。
 辰は力をふりしぼって最後の1枚を舟に上げました。
 「やった!」
 舟からは大きな歓声が上がりました。
 そのときでした。
 棒で頭を殴られたような強い痛みを覚えた辰は気を失いました。
 そして波に呑まれる寸前、あやうく仲間の手で舟に助けあげられました。
 命をかけた辰たちのカツギによって、アワビは無事に代官所に納められました。
 けれども、やっと正気に戻った辰の耳には、なんの音も聞こえません。
 鼓膜がすっかり破れてしまい、懐かしいさざなみの音さえ、ついに辰は聞くことがなかったそうです。
 
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■ 海の六地蔵
 ――宮古の昔話6
 
 田老の樫内浜(かしないはま)に、伊勢という船頭がいました。
 冬のある日のこと、日よりを見た伊勢はタラ漁を休もうとしました。
 「いまは穏やかだぁども、もうすぐ荒れだすべぇ」
 すると女房は伊勢をなじりました。
 「こんなに天気のいい日に休むのすか?」
 「よ〜すはぁ、そんなに言うんだらやってみっか」
 なじられた伊勢は、船方を集めて船を出してしまいました。
 陸(おか)を離れるにつれて、閉伊崎から西風が吹きだし、雪さえ吹きすさんできました。
 そのうち荒波に櫓や櫂もきかなくなり、船は波にもてあそばれるばかり。
 こうなっては港に戻ることもできず、もう運を天にまかせて祈るしかありません。
 ――伊勢は意識をとりもどしました。
 見知らぬ男たちが、伊勢の顔をのぞきこんでいました。
 漂流して凍え死にそうなところを助けられたこと、ほかの6人は死んでしまったことを男たちから聞かされました。
 命を助けられた伊勢でしたが、助けた男たちは人買いでした。
 体が回復すると伊勢は売りとばされ、ふるさとから遠い相模は三浦三崎の大きな鍛冶屋で、朝早くから夜遅くまで働かされました。
 そうして、いつしか13年もの歳月が流れました。
 ある日、お寺の鐘の吊り手を直している伊勢に和尚さんが話しかけました。
 言葉が違うので、なにかわけがありそうだと感じた和尚さんは、伊勢に身の上を尋ねました。
 いっぽう、ふるさとの樫内では、伊勢たちが遭難した日を命日とさだめて菩提をとむらっていました。
 ある年の祥月命日に、ふしぎな縁で旅の僧から伊勢が生きていると知らされた息子は、すぐに父を引き取りに旅立ちました。
 生きてふたたび戻れようとは思いもしなかったふるさとに伊勢は帰り着きました。
 ほどなくして伊勢は、海で死んだ6人の仲間の霊を慰めるため、6体のお地蔵さまを建てて祀りました。
 6体のお地蔵さまは、海の六地蔵として、海の見える丘にいまもひっそり建っています。
 
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■ 巡礼と鮭
 ――宮古の昔話7
 
 田老の北のほう、沼ノ浜というところに小川が流れ、そのかたわらに一軒の家がありました。
 春まだ浅い、底冷えのきびしい日のことでした。
 ひとりのみすぼらしいなりをした巡礼がたずねてきて、一夜の宿を求めました。
 おばあさんは、こころよく巡礼を家に上げ、もてなしました。
 朝が明けると巡礼は、
 「秋になるといいことがあるから、これを小川に沈めなさい」
 と言って小石を手渡し、田老のほうへと立ち去りました。
 おばあさんは、言われたとおり、小川に小石を沈めました。
 すると、その年の秋になって、それまで小川にすがたをみせることのなかった鮭が、どんどんどんどんのぼってきました。
 細い小川が煮えくり返るような騒ぎでした。
 村人たちも総出で、たくさんの鮭をとりました。
 毎日毎日、鮭の身やはらこをおなかいっぱい食べました。
 おいしくて、毎日食べても飽きることはありません。
 醤油漬けにしたり、塩引きにしたり、干物にしたりと、寒く長い冬に備え、売ってはお金に換え、物に換え、なに不足のない年の瀬や正月を迎えました。
 新しい年の春もまだ浅いころ、前の年と同じように巡礼がおばあさんの家にやってきて一夜の宿を乞いました。
 ところが、そのとき、おばあさんは用事で、どこかへでかけていました。
 留守をしていた下働きの男が、巡礼のみすぼらしさに呆れて追い返してしまったことを、おばあさんはあとになって知りました。
 「なんつぅごどした!」
 下働きの男は叱られ、しゅんとなりました。
 それから数日後、宮古の湾の奥にそそぐ、ある川のほとりの家に巡礼は草鞋(わらじ)を脱いだそうだという話を、おばあさんは人づてに聞きました。
 その年の秋、沼ノ浜の小川に鮭はのぼってこなかったそうです。
 
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■ ニーロンとアズミ
 ――宮古の昔話8
 
 遠い遠い昔のことです。
 屏風のように切りたつ山のふもとに、ワックツという奥深くて大きな洞窟がありました。
 そこに、ウレイラというエミシの一族が住んでいました。
 ウレイラの長(おさ)には、ニーロンという娘がいました。
 秋の終わりには夫を選ぶ年になっていました。
 その秋も間近いころ、ウレイラの穏やかな暮らしが破られます。
 タムラマロに追われたホルケウの一族が逃げてきたのです。
 タムラマロは遠い国からやってきて、エミシを支配しようとする武将でした。
 ホルケウはワックツのそばに砦を築きます。
 ウレイラは騒然となりました。
 ワックツで静かに暮らしていればタムラマロも手を出しません。
 ウレイラはホルケウとともにタムラマロと戦う道を選びませんでした。
 逆にホルケウに出ていってくれるように頼みました。
 ホルケウはなかなか出ていこうとはしません。
 そんななかでした、ニーロンがアズミと出会ったのは。
 アズミはホルケウの長の息子です。
 出会ったふたりは、たがいに一目で好きになりました。
 そのうちタムラマロの軍勢がやってきます。
 ホルケウは戦い、すぐに追い詰められました。
 いよいよ最後というときは、山に火を放って逃げだすことにしていました。
 炎はワックツをも襲います。
 アズミは、ニーロンに知らせようとしました。
 けれど、火のまわりは速く、アズミは炎に行く手を塞がれます。
 後ろからも火が迫り、引き返すこともできません。
 そうしてニーロンの名をよびながらアズミは湖に身を投げます。
 火に気づいたニーロンもアズミを探しまわりました。
 アズミの姿はどこにもありません。
 アズミの名をよびつづけるニーロンのすがたも、炎と煙に巻かれ、やがて消えてしまいました。
 ウレイラやホルケウの一族がその後どうなったかは知るよしもありません。
 それでも、この話が伝わっているのは、きっとウレイラの里びとが洞窟の奥深くに身をひそめて生きのびたからにちがいない、ということです。
 
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■ 味噌汁女房
 ――宮古の昔話9
 
 昔むかし、正直で心やさしい漁師がいました。
 日よりのいい日にはいつも海へ出て魚をとり、とれすぎた魚は海へ返していました。
 ある日の夕暮れどき、ひとりの若い女がたずねてきました。
 そして「家に置いてください」と言います。
 漁師はびっくりし、「貧乏なんで食わせられねぇ」と何度も断わりました。
 女は聞きいれません。
 しかたなく漁師は女を家に入れました。
 気立てのいい女で、働き者の女房になりました。
 ことに、うまい味噌汁をつくって漁師を喜ばせました。
 「どうやったら、こんなにうんめえ汁がでぎんだ?」
 漁師は何度も聞きましたが、女房は笑うばかりで教えてくれません。
 あるとき、漁師は浜仕事へ出るふりをし、こっそり女房のようすをうかがいました。
 台所へ立った女房は、やがて擂鉢に味噌を入れると、着物の裾をまくって自分の尻で味噌を擂りはじめました。
 夕飯どきになって膳のまえに座った漁師でしたが、汁に箸をつける気にはなれません。
 「どうしました?」と尋ねる女房に、「黙ってっぺえど思ったあども……」と覗き見していたことを話しました。
 女房の顔色が、さっと変わりました。
 しばらくうつむいていた女房は、戸棚の奥からきれいな手箱をとりだして言いました。
 「わたしは、おまえさんに海へ返してもらった魚です。
 いっしょに暮らしたくて人間の姿になってきましたが、味噌を擂る姿を見られては海へ戻らなければなりません。
 お別れに、この手箱を置いていきます」
 言い終わるや女房は外へとびだしました。
 漁師はあわててあとを追いました。
 ふしぎなことに追っても追っても追いつけません。
 満月の夜でした。
 波打ち際にある岩の上に、すっと立った女房の顔には、涙が光っていました。
 駆けよる漁師を振りかえって一瞬みつめた女房は、ひらりと月光に身をひるがえすと、魚の姿になって海へ消えていきました。
 女房が残した手箱には宝物がたくさん入っていました。
 それでも漁師は、日よりのいい日はいつも海へ出て魚をとり、つましく暮らしたそうです。
 
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■ 牛方とヒトヅメ
 ――宮古の昔話10
 
 昔むかしのことでした。
 ひとりの若い牛方が、海べの村から山向こうの町めざして出かけました。
 ベゴっこの背にはユワス(鰯)の荷がいくつもついています。
 日も暮れてきたので、大きな木の下にむしろを敷いて野宿することにしました。
 夕飯にユワスを食べようとして焚き火で焼きました。
 すると、どすんどすん足音が近づいてきます。
 なんだあべ?
 そう思っていると、闇のなかから真っ赤な一つ目を光らした大男のヒトヅメがヌッとあらわれました。
 そして、焚き火のそばにどっかり座りこみ、ちょうどいい具合に焼けたユワスを、むしゃむしゃ食べはじめました。
 ユワスを平らげると、赤い一つ目で牛方をにらみつけます。
 「もっとけろ。
 けんねぇば、おめえを食うが」
 牛方は、牛の背からユワスの荷を降ろして、みんなやりました。
 すると、ヒトヅメはユワスを生のままたちまち平らげます。
 「もっとけろ。
 けんねぇば、おめえを食うが」
 こんどは木につないでおいたベゴっこをやりました。
 すると、そのベゴっこも平らげてしまいます。
 「もっとけろ。
 けんねぇば、おめえを食うが」
 牛方は逃げだそうとしました。
 「なにが食うもんを探してくっけえ」
 ヒトヅメは、牛方が逃げないよう腰に長い縄をつけました。
 そして、焚き火のそばに寝転びながら、ときどき引っぱっては牛方がいるかどうか確かめました。
 川原まで行った牛方は、石に縄をくくりつけました。
 ヒトヅメが縄を引っぱりました。
 じゃぶじゃぶ音がします。
 石が川のなかで転がっていたのです。
 ヒトヅメは牛方が川の魚を獲っているのだと思いました。
 そして、魚ではものたりねえ、戻ってきたら今度こそ牛方を食っちまうべえと、よだれを呑みこんでいました。
 そのあいだに牛方は、ずんずん山の向こうへ逃げてしまいましたとさ。
 
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■ 牛方と青鬼
 ――宮古の昔話11
 
 若い牛方が一つ目の化けものから逃げて山の奥へいきました。
 すると、森のなかにぽつんと家の明かりが見えます。
 「おら、ヒトヅメがら逃げできた。
 助けでけろ」
 そう叫びながら、戸をドンドン叩きました。
 少しだけ開けた戸のあいだから娘っこが顔を出しました。
 娘っこは声をひそめて言いました。
 「ここは青鬼のすみかだっけぇ、はやぐ逃げだほうがえぇ」
 娘っこは海べの村から青鬼にさらわれてきたのです。
 逃げだして捕まると食われてしまうので、逃げることもできずにいたのです。
 牛方は迷いました。
 けれども、なにやらドスドス大きな足音が近づいてきます。
 とにかく家に入れてもらいました。
 娘っこは急いで宝のつづらのなかに牛方を隠しました。
 すぐに青鬼が家に帰ってきました。
 そして鼻をひくひくうごめかせながら嗅ぎまわります。
 「なんだが人くせえ、人くせえ」
 けれども、娘っこのほかに誰もみつかりません。
 青鬼は、部屋の奥にある蓮華の花を見にいきました。
 それは人がひとりいると一つ花を咲かせ、ふたりいると二つ花を咲かせるふしぎな花でした。
 「二つ花が咲いでんが。
 なんでだ?」
 青鬼が言うので、娘っこは答えました。
 「おらの腹んながさワラスがでぎだんだ。
 ワラスの分も咲いだんだべ」
 青鬼は大喜び。
 「それはめでてえ、それはめでてえ」
 そう言いながら座りこんで酒をがぶがぶ飲みはじめます。
 そのうち、ぐでんぐでんに酔っぱらい、ぐうぐう大きないびきをかきだしました。
 娘っこは牛方をつづらから出すと、ぐっすり寝込んだ青鬼のかたわらの刀をとって牛方に渡しました。
 牛方は刀で青鬼の首を斬り落としました。
 そうして宝のつづらをかつぎ、娘っこの手をとって逃げました。
 海辺の村へ帰りついたふたりは、夫婦になって仲よく暮らしましたとさ。
 
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■ ヌガボー
 ――宮古の昔話12
 
 うーんと昔のことです。
 ヌガボーという名の女の子がいました。
 おかあが亡くなったので、出稼ぎに出ていたおどっつぁんが帰ってきて、新しいかあさんを貰いました。
 新しいかあさんはリンゴバナという女の子を連れていました。
 「これで、あどの心配はねえ」と言っておどっつぁんは、また松前(北海道)へ出稼ぎに行きました。
 おどっつぁんがいなくなると、新しいかあさんはヌガボーを邪険にしはじめました。
 宮古のお祭りの日、新しいかあさんはヌガボーに仕事を言いつけ、リンゴバナとふたりだけで町へ出かけました。
 「おまえ、この稗(ひえ)を洗って蒸かして干して、よなげどげよ」
 よなげるというのは唐臼でひいて、きれいに殻をとることです。
 言われたとおりにしないとおっかないので、ヌガボーは懸命に働きました。
 ところが、「洗うどぎはこれで水を汲め」といって渡されたのは目のあらい笊(ざる)でした。
 これではいくら汲んでも水は溜まりません。
 門口に来たお坊さんがヌガボーを見て声をかけました。
 「おまえ、仕事しながら、なに泣いでる?」
 ヌガボーがわけを話すと、お坊さんは目のつんだ衣の裾を切って笊のなかに敷いてくれました。
 おかげでヌガボーは水を汲んで稗を洗うことができました。
 こんどは蒸かして、蒸かし終わると天気のいい外にムシロを敷いて干しました。
 そしたら雀たちがやってきて、干していた稗をついばみはじめました。
 ピルク ポリカリポリカリ チンクルチンクル
 すると、カッチャがヒューッとはじけ飛んで、実っこばかりが残りました。
 カッチャというのは殻のことです。
 ピルク ポリカリポリカリ チンクルチンクル
 カッチャがヒューッ
 雀たちはヌガボーを手助けに来てくれたのです。
 おかげでヌガボーは唐臼でよなげなくてよくなりました。
 ヌガボーはムシロから殻のとれた稗を集めると桶に入れました。
 そうして、お祭りを見に宮古町さ駆けてゆきました。
 
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■ ヌガボーとリンゴバナ
 ――宮古の昔話13
 
 宮古の町でお祭りのあった次の日のことです。
 「家の氏神さまのお祭りがあっから、ヌガボーもリンゴバナも、かあさんと来るように」
 と長者どんの家からお使いがありました。
 ヌガボーはいつものボロの着物で、リンゴバナはかあさんが作ってくれた新しい着物を着ていっしょに出かけました。
 「よぐ来た、よぐ来た」
 長者どんは上機嫌で座敷へ上げました。
 そうして、ヌガボーとリンゴバナに、
 「畳の上に敷いた引き綿のうえを上手に歩ったら、ご褒美をあげっつぉ」
 と言います。
 ヌガボーは、
 「おら、歩げねー」
 と言いました。
 リンゴバナは、
 「そんならおらがやる」
 と言って歩きましたが、体じゅうに引き綿がくっついて、上手に歩けません。
 長者どんがヌガボーにもやらせてみると、足の裏にも着物にもくっつけないで上手に歩きました。
 長者どんは感心してヌガボーを褒めました。
 庭には雀たちが飛んできて、座敷のようすをながめていました。
 長者どんは、こんどは雀が止まっている木を指さし、
 「あの枝を雀っこがついだまま折っかいで床の間の花瓶にさしたら、ご褒美をやっつぉ」
 と言います。
 「おらがやる」
 と言ってリンゴバナが馳せていったら、庭の雀たちは飛んでいき、リンゴバナが座敷に入るとまた戻ってきました。
 「おら、でぎねー」
 と言うヌガボーに長者どんが、
 「いいがらやってみろ」
 とやらせたら、雀は逃げないで枝についたままでした。
 ヌガボーは長者どんからたくさんの褒美を貰いました。
 かあさんは、リンゴバナを連れて、長者どんの家からさっさと帰ってしまいました。
 わが子のリンゴバナは失敗ばかり、ヌガボーはどうしたわけか上手にしとげて褒められるので、ゴセが焼けてゴセが焼けて、しかたがありません。
 そうして、
 「ヌガボーが、いんなぐなればいいんだぁが」
 とリンゴバナに言いました。
 
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■ 捨てられたヌガボー
 ――宮古の昔話14
 
 かあさんがリンゴバナに言いました。
 「明日の朝、みんなが起ぎださねぇうぢに、この箱を山さ埋めでくっけぇ、おめぇ、黙ってろよ」
 箱のなかにはヌガボーが入っていました。
 リンゴバナは、なんぼうなんでもヌガボーを山さ捨てるのはあんまりだと思い、箱に穴を開け、そこから花の種をたくさん入れると、ささやきました。
 「穴がら種っこを落どすてっとがん」
 朝早く、かあさんは箱を背負って、どんどん山の奥に入り、箱を埋めてきました。
 「ヌガボーは松前さ行ったでば」
 と近所の人には言いました。
 その松前から、春になって、おどっつぁんが帰ってきました。
 「お土産もってきたが、ヌガボーも出でこぉ」
 おどっつぁんが呼んでもヌガボーは出てきません。
 「ヌガボー、どうすた?」
 と聞くと、かあさんは、
 「どごさが行ぐって出はってったぁでば」と言いました。
 リンゴバナは、ほんとうのことを話しました。
 おどっつぁんはヌガボーを探して山のなかへ入ってゆきました。
 道みち点々と、見たことのない、きれいな花が咲いていました。
 リンゴバナが箱に入れた種が芽を出して育っていたのです。
 その花が、こんもりかたまって咲いているところがありました。
 おどっつぁんが掘ってみると、箱が出てきて、なかにヌガボーがいました。
 ヌガボーは、すやすや眠っているようにも見えました。
 「おれが悪がった。
 新しいかあさんを貰ったばっかりに。
 ヌガボー、ほに可哀そうだったぁが」
 死んだと思ったヌガボーが、目を覚ましました。
 おどっつぁんは大喜びでヌガボーを連れて家に帰りました。
 「おれが悪がった。
 リンゴバナべぇりめんこがって、ヌガボーにひでぇごどをした。
 許してけどがんせぇ」
 かあさんは両手を合わせ、拝むようにして謝りました。
 「リンゴバナのおかげだぁでば、生ぎでんのは。
 かあさんも、なんも恨むようなことはねぇでば」
 ヌガボーは花のように笑いました。
 それから、かあさんはいいかあさんになって、親子四ったり、仲良く暮らしましたとさ。
 
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■ サケの又兵衛
 ――宮古の昔話15
 
 昔むかし、まだ盛岡に南部の殿さまがいた時代のことです。
 海からヤマセが吹いて、寒い夏がつづきました。
 田んぼにお米ができず、畑にも野菜がなりません。
 ケガヅ(飢渇)といって、食べるものがなく、たくさんの人が死んでゆきました。
 そんなとき、津軽石川にはサケがたくさんのぼってきました。
 でも、津軽石川のサケはだれもが自由にとることはできません。
 川のなかにはサケ留めという木の柵がつくられ、海から自分の生まれたふるさとの川に戻ってきたサケは、ほとんどが留めから先へ行けません。
 サケも留めも、盛岡の殿さまのものでした。
 どうにか留めをすりぬけて上流にのぼったサケだけを、村びとはとることが許されていたのでした。
 ところがその年、藩の役人は、サケが留めをこえてゆけないようにしてしまいました。
 「おらがどうには、死ねっつうのか」
 村びとたちは川原に集まり、大騒ぎになりました。
 そこへ、ひとりの見知らぬさむらいがやってきました。
 後藤又兵衛と名のりました。
 「この川もサケも村びとのもの。おまえたちの宝だ」
 そう言うと、だれも手を出すことができなかったサケ留めの木をひっこぬき、サケが自由にさかのぼってゆけるようにしました。
 あわてた宮古の代官所の役人は又兵衛をつかまえ、盛岡の殿さまに事のしだいを報告しました。
 殿さまは、又兵衛を逆さ張りつけの刑にするよう命じました。
 「又兵衛、死ぬまえになにか望みはあるか」
 代官が聞くと、又兵衛は答えました。
 「津軽石の川原で死にたい」
 又兵衛の願いはかなえられました。
 霜月十一月も末の寒い朝、津軽石川のそばで逆さに張りつけになって殺され、川原の穴に埋められたのでした。
 あとで村人たちはひそかに又兵衛の遺体を掘りだし、お稲荷さまの境内に葬りました。
 そうして目印に五輪の塔を建て、ねんごろに供養したということです。
 
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■ 絵入り追分道標

 
 おこちゃんからメールで写真が何枚か送られてきた。
 宮古へ帰省して撮りまくった一部で、そのなかに〈絵入り追分道標〉とタイトルされた一枚がある。
 惜しむらくはピンボケで、道標の絵や文字、かたわらに建っている案内の標柱らしきものの字が読めない。
 ぼくも詳しくは知らない。
 いい機会だと思って調べてみた。
 宮古市指定文化財のはずだが、市のホームページにはなにも書かれていない。
 ネットで検索してみても出ていない。
 手持ちの文献をいろいろあさったら、いくつか短い記事をみつけた。
 とりあえず、それらをとりまぜて紹介してみたい。
 絵入り追分道標――江戸時代、街道の分岐しているオイワケに建てられたミチシルベ。
 文字を読めない人が迷わないように、単純な絵でも行き先を示しているところから〈絵入り〉と呼ばれる。
 絵入りの道標は、全国で陸中海岸の古道に3基が確認されるだけという非常に珍しいものらしい。
 くだんの宮古の絵入り追分道標というのは、田代川上流の繋沢にある。
 繋沢は繋ヶ沢とも書き、バス停の亀岳小学校前からは田代川の上流に歩いて10分ほどのところだ。
 建立は1855年(安政2)。
 石は丸みのある川石。
 鎌の絵が左上に描かれ、その下に〈左ハやまミち〉とある。
 鎌は草刈用で、左は村人が通る山道だということを示す。
 刀の絵が右上に描かれ、その下に〈右ハい王いつミ〉とある。
 刀は護身用の道中差しで、旅人や公用人を示す。
 王はワと読み、〈い王いつミ〉は岩泉のこと。
 つまり隣り町の岩泉へ用のある人は右へ行きなさいということを表わしている。
 岩泉といえば、宮古市史年表の1961年(昭和36)9月7日に、
 〈絵いり追分道標、岩泉より田代の原位置に再建〉
 とあるのを見つけた。
 誰かが田代から持ちだして龍泉洞の前に飾っておいた。
 それを元の位置に建てなおしたという経緯があったらしい。
 無事に宮古へもどった絵入り追分道標は、史跡として市の文化財に指定された。
 1979年(昭和54)7月24日のことだ。
 
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■ 三つの絵入り道標

 
 絵入り道標は陸中海岸に3基残っている。
 ひとつは宮古の田代は繋沢にある――と前項に紹介した。
 では、あとのふたつはどこにあるのか。
 ひとつは、山田町の細浦。
 もうひとつは、岩泉町の田茂宿。
 ついでだから、この山田と岩泉の絵入り道標も紹介しておこう。
 なにしろ全国で3つしかみつかっていない貴重なものなのだから。
 山田町の細浦にある絵入り道標は、高さ54センチ・幅25センチ・厚さ16センチ、御影石製、建てられた年代は不明。
 大きな槌が右上に、その下に〈右ハ大槌〉と彫られている。
 舟を漕ぐ人の姿が左上、その下に〈左ハ舟越〉と刻まれている。
 現在は下をコンクリートで固められ、鉄格子のケージで囲まれている。
 宮古の絵入り追分道標が岩泉へ持ち去られたといういきさつもあり、貴重な文化財を保護するためのやむをえない措置だという。
 岩泉町の田茂宿にある絵入り道標は、高さ60センチ・幅20センチ・厚さ10センチの方形に近い花崗岩製、建てられた年代は不明。
 刀の絵が右上に、その下に〈右ハ岩泉〉の文字。
 草刈鎌の絵が左上に、その下に〈左ハ山道〉の文字。
 田代の繋沢につづく旧街道筋にあって、イラストも同じだ。
 データは、おもに小島俊一さんの「陸中海岸風土記」に拠った。
 ユニークな絵入り道標のもとは指で方向をさし示したものとも書かれている。
 これは全国にあり、1895年(明治28)になってからだが田野畑村にも指の絵が描かれた牛馬塔が建てられたという。
 紹介した3基の絵入り道標は、指以外のイラストを使っている点で希少価値が認められているようだ。
 いまはEメールやインターネット上の掲示板などに絵文字があふれている。
 うまく使えばコミュニケーションを円滑にする重宝な手段だ。
 江戸期の絵入り道標も、文字の読めない人だけでなく、長い道中この絵を目にした旅人に、なにか心温まるものを感じさせたのではないだろうか。
 
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■ ケーソン

 
 ケーソン――といっても鮭鱒ではない。
 英語の caisson。
 港や防波堤などの一部として海に沈めるコンクリート製のハコ。
 潜函(せんかん)や函塊(かんかい)ともよばれている。
 12月1日と2日に鍬ヶ崎で、このケーソンの進水式があった。
 ヘフナーさんが「みやごのごっつお」サイトのふるさと掲示板や「青年漁師の店」の海日記に写真を載せていた。
 shiratoriさんもブログ「マスター写真館」に掲げていた。
 岩手日報でも報道された。
 ケーソンは進水時の大きさで長さ10×幅14.5×高さ9.8メートルあり、重さは750トンだという。
 ちょっとしたビル並みだ。
 宮古港の北の奥、港町にあるケーソンヤードで製作されている。
 海へのびたレール上の作業台でつくり、自然の法則にしたがって台ごと斜路を滑らせて進水させる。
 スリップ方式とか斜路方式といって、宮古と小樽にあるだけの珍しい方法らしい。
 新造船のように進水のとき、お祝いと見学会をかねた式をする。
 shiratori さんが参加したら記念のタオルや紅白の大福をくれたらしい。
 また見にいきたいと書いていたが大福につられたわけではなさそうだ。
 巨大なコンクリート塊の進水は一見二見の価値がある。
 今回進水したケーソンは25号と26号。
 宮古港のケーソンヤードでは一度に2個ずつ製造する。
 進水したケーソンは完成途上で、なかが空洞になっているから海に浮く。
 それを防波堤の構築現場まで船で引ぱっていって設置する。
 いまつくっているのは、竜神崎地区防波堤というらしい。
 竜神崎から南へのびて赤灯台の建っているのは宮古港防波堤。
 その東沖に1994年(平成6)から400メートルの新しい防波堤をつくっている。
 ケーソン1個の長さが10メートルだから、26号が設置されると260メートルになる。
 船で引っぱっていったケーソンは、すでに設置してあるケーソンに並べて海底の土台の上に据える。
 そのあとコンクリを注入して沈め、固定する――まるで見てきたようだが想像だ。
 とにかく、海上でいろいろな工事をほどこされたケーソン1個は高さ15.2メートル、重さ960トンもの、さらに巨大なコンクリートのかたまりになるのだそうだ。
 
▼ shiratori さん撮影  マスター写真館 より許可を得て転載しました
 
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■ ケーソン余話

 
 宮古にいたとき、ケーソンを日本語では潜函と呼ぶと覚えた。
 山根英郎さんの「湾頭の譜」には“宮古港工事事務所の建物”に“宮古港函塊製作ヤードという真新しい表札が掲げられて”いるとある。
 1982年(昭和57)に書かれた文章だ。
 進水見学会に参加した shiratori さんによると、現場ではケーソンを箱船と呼んでいたらしい。
 函塊というのはあまり聞いた覚えがないし、ピンと来ない。
 箱船も初耳だったが、これにはナルホドとうなずけるところがある。
 shiratori さんはほかにも、祝という焼き印が押されて進水記念に配られた紅白の大福は、こばけん餅店製だったと教えてくれた。
 黒森町の参道沿いにある餅屋さんだ。
 変わった店名で、ご主人の愛称だろうかと考えたことがある。
 記念のタオルには大坂建設という社名と、竜神崎ケーソン進水25、26函目という文字が印刷されていたそうだ。
 鉄筋コンクリート製ケーソンの内側は6つに区切られ、そのなかに据付け現場で注入されるのはコンクリではなく砂や水だという。
 調べてみると、大坂建設というのはケーソン製作を請け負っている会社で宮町にある。
 発注者は国土交通省の釜石港湾事務所。
 この宮古港事務所が磯鶏(そけい)にある。
 電話は0193-62-2911。
 進水見学会の日取りなどは、ここに連絡すればわかるはずだ。
 ケーソンの準備が整っても、当日の海や天候の状況しだいで延期される。
 日よりがあやしいときは確認したほうがよさそうだ。
 ところで、宮古港ケーソンヤードは、いつできたのだろう。
 ネット検索の最中、2004年(平成16)1月6日付で釜石港湾事務所がだした進水見学会の記者発表資料なるものを見つけた。
 そこに“宮古港のケーソンヤードは、昭和5年に当時の最高技術をもって建造され”云々とある。
 宮古市史年表で1930年(昭和5)を見ると、4月1日に宮古築港工事着手とあるのみでケーソンヤードについては書かれていない。
 ただ、港の部品をつくる施設がケーソンヤードだから、このとき真っ先に設置されたと考えても間違いなさそうだ。
 
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■ 竜神崎

 
 竜神崎は日立浜町にある。
 宮古港の東部をかたちづくる鍬ヶ崎半島、その南端に竜神崎は位置している。
 標高86メートルの臼木山の裾にあたる。
 浄土ヶ浜行きの県北バスに乗ると角力浜の停留所からすぐだ。
 高台には竜神崎展望台があり、宮古湾を一望できる。
 浄土ヶ浜の入口になる東の舘ヶ崎(たてがさき)展望台をへて奥浄土ヶ浜まで遊歩道がつづく。
 竜神崎の波に洗われる岩礁に小さな社(やしろ)が建っている。
 赤い太鼓橋を岩礁に渡ると、社殿と赤い鳥居が海を向いている。
 鳥居には“龍神”と書かれた扁額がかかっている。
 竜ではなく龍の字が使われている。
 社は白木造り。
 材は欅(けやき)らしい。
 なにも塗られていない木肌が海風を受けている。
 小体(こてい)に、細部をしっかり造りこんだ社だ。
 社も鳥居も重茂(おもえ)半島の奥にそびえる十二神山を向いている。
 いわれはわからない。
 竜神も十二神も仏法の守護神だからだろうと漠然と思ってみたりする。
 竜神さまは海の神。
 豊漁と海の安全を見守っている。
 八大龍王の碑も並んで建っている。
 魚の霊を慰める魚霊塔もそばにある。
 竜神さまは港の守護神でもある。
 宮古港の入口の北端にあたり、南の港口は出崎埠頭だ。
 その南へ向かって、竜神さまの横から防波堤が延びている。
 宮古にいたころは竜神崎の防波堤と呼んでいた。
 いま海上保安庁がつくった図を見ると、宮古港防波堤と書かれている。
 防波堤は付け根の部分が切れて陸地と離れ、小さな魚船なら通れるようになっている。
 むかしは橋があって渡れたという。
 南へ延びた防波堤は途中から屈曲して南東に延び、先端に赤灯台がある。
 赤灯台は、宮古港防波堤灯台と呼ぶらしい。
 屈曲部までの255メートルは1930年(昭和5)の着工、1937年(昭和12)にできたという。
 案外古い。
 屈曲部から先の153メートルは、いつ完成したのか調べてもわからなかった。
 竜神さまの例祭は旧3月15日だという。
 いったいどんな祭りなのだろう。
 
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■ 山の神

 
 宮古は港町だが、西を向いて立つと山ばかりだ。
 正面には遠く早池峰につづく峰々。
 南は小山田から山田へいたる低い山並み。
 地名にも山がつく。
 北もあまり高くはないが小沢や山口の山々が迫り、はるかに延々つづいている。
 東は太平洋といっても月山や十二神山を擁する重茂半島が視界をさえぎっている。
 早い話、見渡すかぎり山ばかりと言っていい。
 山並みというか、山の波だ。
 その波間に町がしがみついている。
 それでも西には県都の盛岡がある。
 閉伊川沿いに細く険しい山道を越えてゆけば繁華な土地がある。
 南からは日が射して、山の向こうに暖かな土地が広がっていそうな感じを覚える。
 北は、その先になにがあるかわからない。
 とくに冬は、暗く、寒く、この世の果てまで雪深い山がつづいていそうだ。
 もしモーコというような怖いものが棲むとしたら、それは北の山の奥だろうと、子供心に漠然と考えていた。
 山の神というものが存在するらしい。
 おもに樵や炭焼きやマタギなど生活の資を山にあおぐ人たち、山人(やんもうど)が祀る。
 12月12日は山の神の年越しで、米の粉でつくったスットギを供える。
 山の神はこの日、立ち木を一本一本数えてまわる。
 山のなかでうろうろしていると人も木に数え込まれ、木にされてしまう。
 山の神は女かというと、宮古あたりでは男だ。
 藁で編んだ蓑(みの)をまとい、髭をたくわえた大男だという。
 「遠野物語」にも何度か出てくる。
 そのひとつにこうある。
 ――正月15日の小正月、遠野では宵の口に“福の神”といって子供たち4、5人で袋を持ち、
 “明けのほうから福の神が舞い込んだ”
 と唱えながら人の家をまわって餅をもらう習慣がある。
 宵を過ぎると、この晩にかぎり村びとは決して外へ出ない。
 小正月の夜半過ぎは山の神が外で遊ぶと言われているからだ。
 おまさという12、3歳の女の子が、どうしたわけか一人で福の神に出歩いて遅くなった。
 帰りの寂しい道で大男とすれ違った。
 顔をうかがうと真っ赤で、目は光っていた。
 おまさは袋を捨てて家へ逃げ帰り、そのまま病の床に伏せってしまった。
 
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■ 元朝参り

 
 元朝参りと言って話の通じない宮古の人間はいない。
 ところが、ほかの土地では通じたためしがない。
 そんなときは得意げに説明してあげることにしている。
 ――元朝参りとは初詣のことである。
 ただし、元日の昼や2日に初詣をしても元朝参りとは言わない。
 元朝だから、あくまで元旦、つまり元日の朝でなければならないのである、と。
 ふつうは紅白歌合戦が終わるころに出かける。
 毎年必ず出かけるという人も多い。
 寒がりは、雪が降っていたり風が強かったりすると、つい出そびれてしまう。
 ぼくは行くときはもっぱら八幡さまへ行った。
 八幡さまは宮古にいくつかあるが、町なかだと横山八幡宮だ。
 人によっては常安寺に除夜の鐘をつきに行ったり、その足で八幡さまへまわり、さらに黒森神社にのぼったりする。
 明け方は、初日の出を拝みに海へ行く。
 ふだんは静かな八幡さまの境内も正月三ヶ日と9月のお祭りには人波で埋まる。
 百何段ある石段を、白い息をはきながら黙々とのぼる。
 どんな神さまが祀られ、どんなご利益があるか知らない人も、賽銭を上げ、大きな鈴をジャランジャラン鳴らし、手を合わせる。
 祭神を調べてみたら、品牟陀和気命(ほんだわけのみこと)、豊受姫命(とようけひめのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおかみ)の三柱だという。
 日ごろ不信心で神さまのことはよくわからない。
 それでも手を合わせるときばかりは、なんとなくご利益がありそうな気がする。
 交通・旅行・航海の安全、厄祓い、大漁、無病息災などに霊験あらたかだという。
 いままで無病ということはないが、交通事故などに遭ったことはないから、これはきっと八幡さまのご利益にちがいない。
 ことしも宮古の八幡さまへは元朝参りができなかった。
 かわりにホームページに参拝して祈った。
 ――この一年がいい年でありますように!
 
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■ 八幡さま

 
 八幡さまというのは、いったいなんだろう?
 八幡さまは全国にあり、市内にもいくつかある。
 よその八幡さまはともかく、横山八幡宮とはいったいどんな神社なのだろう?
 八幡さまは八幡神であり、八幡神が祀られている宮のことだ。
 八幡神は、もともと豊前国、いまの大分県宇佐地方で信仰されていた農業神で、いわば一地方の神さまにすぎなかった。
 それが、781年に朝廷から仏教保護・護国の神として大菩薩という号を贈られて以後、勢力が強まった。
 781年というのは桓武天皇が即位した年で、このときから鎌倉に源頼朝が政権を確立する1185年までが平安時代。
 その平安時代の末期に台頭した源氏の氏神が八幡神だった。
 武神・軍神としての性格が強まった八幡神は、源氏の隆盛とともに全国に広まった。
 鎌倉時代、宮古の横山には砦が築かれていた。
 この砦は閉伊氏にかかわるものだろう。
 1190年ごろに源氏系の佐々木頼基を名のる武士が関東から宮城県唐桑町の尾崎あたりへ船でやってきて上陸し、釜石・山田を経て、黒田の庄とか閉伊村と呼ばれていた宮古まできた。
そして閉伊一帯を支配し、閉伊頼基と名のった。
 横山八幡宮の創建は、社伝によれば閉伊氏の登場よりはるかに古い680年(白鳳9)のことだという。
 横山になんらかの信仰母体が存在し、そこへ閉伊氏が八幡神を勧請したのだろう。
 閉伊氏についで宮古を支配したのは南部氏の家臣だから、横山八幡宮も南部氏との結びつきを強める。
 近代になって、1871年(明治4)に維新政府は新たに全国の神社を格付けし、横山八幡宮は郷社になった。
 市内ナンバーワンの神社という格付けだ。
 敗戦後の1946年(昭和21)にこの社格は廃止されたが、いまでも旧郷社という表現で残っている。
 
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■ 黒森さまのお酒

 
黒森神楽 新着情報より
 ネットサーフィンをしていると、ときどき思いがけない発見に驚くことがある。
 「黒森神楽が地酒に 宮古の商店が発売」という岩手日報の記事もそのひとつだ。
 2004年(平成16)1月1日付の古い記事で、なぜかいままで見落としていたらしい。
 ただ、正攻法で岩手日報のウェブサイトにアクセスして探しても、この記事はみつからない。
 ファイルはアップロードされているがリンクが切られている。
 Google などの検索窓に“地酒 黒森神楽”と打ち込んで検索すれば、ファイルが抹消されないかぎり、最初にこの記事がヒットするはずだ。
 しかし、いろいろ宮古のことは調べてきたのに「黒森神楽」などという地酒があるとは知らなかった。
 宮古に住んでいて知らない人もあるかもしれない。
 かいつまんで記事から紹介しておこう。
 ――醸造は、鍬ヶ崎下町にある菱屋酒造店。
 販売は、山口3丁目の山口ショッピングセンター。
 売り出されたのは純米酒「黒森神楽」と上撰「黒森大権現」の2種で、それぞれ1.8リットルと720ミリリットル瓶がある。
 黒森神社の氏子総代で黒森神楽保存会の会員という山口ショッピングセンター店主が、黒森さまのお酒が欲しいという10年来の願いを実現させた。
 ラベルには黒森神楽の代表的な舞「山の神」や「恵比寿舞」の写真があしらわれている。
 お膝元の田の神郵便局で“ゆうパック”を扱っている云々
 記事には発売時期がはっきり書かれていないけれど、2003年(平成15)の末ごろだろうか。
 なにしろ2年前の記事だから宮古の地酒「黒森神楽」「黒森大権現」はすでに“幻の銘酒”になっているおそれもある。
 そう思って、関連する情報を探した。
 すると、ご本尊の黒森神楽のホームページに記事とポスターが掲げられていた。
 記事に日付はない。
 ポスターの写真もちょっとピンボケで、こまかい文字が読みとれない。
 ただ、ゆうパックを平成17年11月1日から平成18年2月28日まで受けつけていると大きく書かれている。
 黒森さまのお酒は健在のようだ。
 
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◇ 資料 本田竹広さんの訃報
・追悼記事集
 
【1】ジャズピアニスト、本田竹広さん死去
          朝日新聞asahi.comおくやみ欄
          2006年1月13日20時02分
 本田竹広さん(ほんだ・たけひろ=ジャズピアニスト)が12日、心不全で死去、60歳。通夜は18日午後6時、葬儀は19日午前10時から東京都杉並区梅里1の2の27の堀ノ内斎場で。喪主は長男政直さん。
 岩手県宮古市生まれ。78年に「ネイティブ・サン」を結成。97年に脳内出血で左半身が不随になったが、リハビリ施設で見つけたピアノで練習を続けて復帰。週3回の透析治療を受けながら幅広い演奏活動を続けた。
 
【2】訃報:本田竹広さん60歳=ピアニスト
            毎日新聞訃報欄1月13日19時22分
本田竹広さん
 日本のジャズフュージョン音楽家の草分けで、脳内出血による半身まひというハンディを乗り越えて活動を続けたピアニストの本田竹広(ほんだ・たけひろ)さんが12日、急性心不全で死去した。60歳。葬儀は19日午前10時、東京都杉並区梅里1の2の27の堀ノ内斎場。自宅は東京都中野区若宮2の50の15。喪主は長男政直(まさなお)さん。
 岩手県宮古市生まれ。12歳で音楽家を志して上京、国立音大3年時にジャズピアニストとして活動を始めた。73年に渡辺貞夫カルテットに加わり、78年にはフュージョンのトップグループ「ネイティブ・サン」を結成。明るく生気に満ちたジャズは、新しい時代の音楽として人気を集めた。
 90年代後半に脳内出血の後遺症で左半身まひとなるが、克服しライブ活動などを再開。今月11日も新グループでライブを行い、今年5月にはCDの発表が予定されていた。妻はボーカリストのチコ本田さん、二男はドラム奏者の珠也さん。
 
【3】本田竹広さん=ジャズ・ピアニスト
          読売新聞おくやみ欄1月13日22時58分
 ジャズ・ピアニストで作曲家の本田竹広(ほんだ・たけひろ)さんが12日、急性心不全で死去した。60歳。告別式は19日午前10時、東京都杉並区梅里1の2の27の堀ノ内斎場。自宅は中野区若宮2の50の15。喪主は長男、政直氏。
 1970年代から80年代にかけて、渡辺貞夫カルテットやフュージョン・バンド「ネイティブ・サン」などで活躍した。2度の脳こうそくで左手がまひしながら、リハビリを重ね、2004年末には童謡・唱歌を集めたアルバム「ふるさと」を出した。
 
【4】本田竹広氏急死 ジャズピアノで活躍
                     岩手日報1月14日
【東京支社】宮古市出身で日本を代表するジャズピアニストとして活躍していた本田竹広(ほんだ・たけひろ)氏が12日午後6時半ごろ、急性心不全のため東京都中野区の自宅で死去した。60歳。通夜は18日午後6時から、葬儀・告別式は19日午前10時から、いずれも東京都杉並区梅里1ノ2ノ27、堀ノ内斎場で。喪主は長男政直(まさなお)氏。
 幼少時からクラシックピアノを学び、国立音大在学中にジャズに転向。1973年渡辺貞夫カルテットに参加、78年にはフュージョングループ「ネイティブ・サン」を結成して幅広いジャンルで活躍した。1995年、97年と二度の脳内出血による左半身まひから復活、人工透析をしながら演奏活動を続けた。
 2002年に宮古市で開かれた第1回宮古ジャズ祭に出演するなど県内でもたびたび公演。04年には亡父作曲の宮古高校校歌などを収録したCD「ふるさと」で新境地を開いた。
 昨年7月に東京・紀尾井ホールでクラシックを含むリサイタルに挑戦したが、直後に心臓肥大で約2カ月入院。年末から演奏を再開し11日夜に都内でライブを行い、13日午前、自宅のベッドで亡くなっているのを家族が見つけた。
 
【5】本田さん死去 古里・宮古でも惜しむ声
                      岩手日報1月14日
 東京都内の自宅で12日、亡くなったジャズピアニスト本田竹広さん(60)の訃報は13日夜、出身地の宮古市にも伝わった。古里をこよなく愛した本田さん。白い雪に包まれた宮古の街は、悲しみに包まれた。
 本田さんが宮古に帰省した際、必ず立ち寄っていた同市大通りのジャズ喫茶「the S」。訃報を聞いた市民らが1人、2人と集まり、生前の演奏曲に耳を傾けた。
 ライブコンサート「JAZZ in 浄土ケ浜」を通じて親交が深かった市内のビデオ制作会社社長沢口功さん(55)は「『かあちゃんをよろしく』と泣きながら頼まれたことがあった。古里、父、母を愛した男だった」と天を仰いだ。
 故人がよく即興でひいていたという店内のピアノには、愛飲していたラム酒が置かれた。自身が作曲したサーモン・ハーフマラソンのテーマ曲や亡父作曲の宮古高校歌も流れた。
 同市西町のピアノ教室主宰、中村悦子さん(65)はこのピアノで「荒城の月」を追悼演奏。「亡くなる2日前に電話があり、3月に帰ってくるのを楽しみにしていたのに」と声を詰まらせた。
 30年来のつきあいがある陸前高田市の全国太鼓フェスティバル顧問河野和義さん(61)は「のどから絞り出すような声で『俺だー』と電話をかけて来る気がしてならない」と肩を落とした。
 本田さんは亡くなる前日に母親陽子さん(85)=同市小沢=に電話をかけ、体調を気遣った。陽子さんは「できることなら上京し、顔をなでてあげたい。希望を持って旅立ったのがせめてもの救い」と語った。
【写真(略)=「ふるさと」をテーマにしたコンサートを終え、花束を手にする本田竹広さん=2004年12月、宮古市民文化会館】
 
【6】急逝の本田竹広さん 東京で告別式
                     岩手日報1月14日
【東京支社】12日に60歳で急逝した宮古市出身のジャズピアニスト、本田竹広さんの葬儀・告別式は19日、東京都内の葬儀場で行われ、本田さんのピアノを慕う約300人が別れを惜しんだ。
 峰厚介さん、日野皓正さんら音楽家仲間、ジャズ関係者、ファンが参列。峰さんとファンクラブ事務局長の尾崎正志さんが弔辞を読んだ。昨年の紀尾井ホールリサイタル実現に奔走した尾崎さんは「本田さんは命懸けの演奏をしてくれた。感謝しています」と涙をこらえた。
 「これからは、はるかなる光の国で大好きな大好きなピアノを奏で続けてください」―高齢のため上京を見合わせた母陽子さん(85)が書いた手紙も披露され、ひつぎに納められた。最後に参列者全員で本田さん作曲の「セイブ・アワー・ソウル」を歌い、出棺を見送った。
 
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■ 本田さんの死

 
 おとといの夜、宮高の先輩Nさんから電話が入った。
 夜なかにNさんから電話がきたことはないので妙な感じがした。
 「本田さんが亡くなったらしい。
 宮古から連絡があった。
 ただ、本田さんの公式サイトの掲示板を見ても、なにかあったようだとしかわからない。
 ネットでは確認できないけど、なにか知ってる?」
 半信半疑でネット上の情報を探した。
 asahi.com の訃報欄に出ているのがみつかった。
 Nさんの電話のちょっと前、1月13日20時02分の日時のある記事だった。
 “本田竹広さん(ほんだ・たけひろ=ジャズピアニスト)が12日、心不全で死去、60歳。通夜は――”
 あぁ、と思った。
 ほんとうに死んだのか、と。
 そのあと毎日新聞のサイトで訃報記事を見た。
 記事を載せた時間をみると毎日のほうが朝日より早かった。
 遅れて読売にも出た。
 公式サイトの掲示板に、関係者やファンの驚きの声、悲しみの言葉がつづられてゆく。
 本田さんの死を少しずつ確認してゆく作業はつらかった。
 パソコンの電源を切り、CDプレイヤーのスイッチを入れた。
 プレイヤーには本田さんのアルバムが入っている。
 「My Piano My life 05」――
 クラシックの殿堂といわれる紀尾井ホールでのライブ盤だ。
 去年の暮れに発表されてから眠るときに毎晩かけている。
 本田さんのおとうさんが大好きだったという冒頭の「月光」を聴きながら、これが生前最後のアルバムになったと思った。
 ベートーベンの「月光」第1楽章のあとにオリジナルが何曲かつづき、最後は「故郷〜父の歌〔宮古高校校歌〕」で終わる。
 そういえば、1年ちょっと前、宮高校歌の作曲は宮高音楽部とこの「宮古なんだりかんだり」に書いたとき、読んですぐに「宮高校歌の作曲者は、本田竹広のおとうさんの本田幸八だ」と教えてくれたのはNさんだった。
 そのNさんから本田さんの死の第一報を聞くことになったのも奇遇だった。
 じつのところ、本田さんの死に、まだ途惑っている。
 生きてるんじゃないか――
 CDから流れてくる本田さんの演奏にじっと耳を澄ましていると、そう思ってしまう。           (2006.1.15)
 
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■ 伝聞 本田竹広

 
 本田竹広――
 ジャズピアニストとして知られはじめたときの名は竹彦だった。それが竹曠になり、竹広と変わった。
 本名は昂〔たかし〕。
 生家は新町〔あらまち〕にあった。
 父は宮古高校の校歌を作曲した音楽教師本田幸八、母の名は陽子さん。
 小さいときは“たかしちゃん”と呼ばれていた。
 ここにいたかと思えばあちらへと、神出鬼没に動きまわるヤンチャ坊主だった。
 「おれが小学校に入る前にさ、宮古の映画館で初めて見たターザン映画、これが忘れられなくってね。
 バックに流れる音楽のリズムがさ、すごく印象に残ってる」
 愛宕小学校を終えると音楽家をめざして母親と上京。
 宮古に住んだのは12年。
 帰省すると、いつも宮古弁で話した。
 浄土ヶ浜が大好きだった。
 浄土ヶ浜をモチーフにした「浄土」というオリジナルがあり、アルバム・タイトルになっている。
 「宮古さ あべ!」という曲もある。
 2001年の12月、宮古にいた。
 「宮古がこんなに寒いとは思ってもみなかった。
 小さい頃の想い出しか残っていないおれには、けっこう寒かった。
 でも寒い浄土ヶ浜で東の空に朝焼けを見たとき、あらためて自然の偉大さに感動してしまった。
 自然そのものが神さまだなあ――
 つくづくそう感じさせられた、久しぶりの浄土ヶ浜だった」
 おかあさんは宮古の小沢〔こざわ〕にいる。
 85歳。
 2006年1月12日の午後12時15分ごろ、60歳になった本田さんはおかあさんに電話をかけ、大きな声で報告した。
 「新たな心境で、新しいトリオで、ジャズのスタンダードに挑戦するよ。
 3月に録音、5月6日にコンサートを開く。
 そのあと宮古へ帰るよ。
 久しぶりに浄土ヶ浜や旧友を訪ね、ゆっくりしたい」
 急性心不全で息をひきとったのは、その日の午後6時ごろ。
 自宅のピアノのそばに倒れている本田さんをみつけたのは、二男でジャズドラマーの珠也〔たまや〕さん(1969年11月25日生)だった。
 本田さんは、予定より一足早く宮古へ帰った。
 いまごろ、寒気に澄んだ浄土ヶ浜で遊んでいるような気がする。
 
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■ みやごのごっつお

 
 「みやごのごっつお市場」から初荷が届いた。
 1月12日が初出荷。
 インターネットで注文し、出荷の翌日にはクール宅急便で新鮮な宮古のごちそうが手もとに届くのだから、いい世の中だ。
 「みやごのごっつお市場」がネット上に開店したのはこの元日、2006年1月1日。
 宮古をテーマにした情報サイト「みやごのごっつお」を運営しているおこちゃん・きっちゃんという二人を中心に宮古スタッフを加え、こんどは宮古のおいしいものだけを厳選して提供するショップをネット上に開いてしまった。
 店、いや市場の創業である。
 その行動力には感服するしかない。
 本格営業は4月かららしい。
 いまは旬のうまいものを詰めこんだセットを6種ほど扱っている。
 セットの種類や中身は旬にあわせて臨機応変。
 もうすぐ、あらかじめ厳選されたなかから好みの商品を自由に選べるようにもなるらしい。
 初荷には、最初だからと奮発して、いちばんバラエティに富んだ「宮古の旬の魚介と特選名物A」セットを注文した。
 届いた発泡スチロールを開けた。
 懐かしい宮古の産物、宮古の幸が出てくる出てくる。
 まるで宝箱だ。
 重茂の焼き雲丹、剥き生牡蠣、殻つき帆立、ドンコ切り身、山内魚店の干物は柳かれい、烏賊一夜干し、新巻、鈴徳魚店の茹で蛸、とんぶぶ農場の自然卵、ハニー食品の宮古ラーメン、田中菓子舗の田老かりんとう、それに干し椎茸のドンコ、大根ドブ漬け、牛蒡巻き――
 サイトでの商品説明にはなかった三浦商店の擂り胡麻も入っている。
 これは嬉しいおまけ、サプライズだ。
 バラエティがありすぎて、ひょっとしたら商品を書きもらしたかもしれない。
 説明書が入っているので、あとで確認してみよう。
 そうそう、もうひとつおまけに紙に包まれた炭まで何個か入っている。
 これは干物の消臭用らしい。
 ふつうそこまでしないって。
 しかし干物のかまりも懐かしい。
 いや、干物を包んでいる紙の緑色さえ懐かしい。
 当分みやごのごっつお三昧が続くが――さて、なにから味わおうか。
 
みやごのごっつお市場
 http://ichiba.miyako.gochisou.info/
 
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■“奇跡の鉄道”岩泉線

 
 2月6日は岩泉線が全通した記念日だ。
 1972年(昭和47)のこの日、二升石(にしょういし)駅と岩泉駅が開業し、茂市(もいち)と岩泉のあいだ38.4キロが結ばれた。
 岩泉からさらに沿岸の小本まで延びるはずだったこの路線は小本線と呼ばれていたが、計画は変更され、名称も岩泉線と変わった。
 山田線分岐駅の茂市から岩手刈屋・中里・岩手和井内・押角(おしかど)の5駅は宮古市にある。
 境の押角峠は標高530メートル。
 その先、岩手大川・浅内・二升石・岩泉の5駅が岩泉町だ。
 鉄道が敷かれる遥か以前に馬で峠を越えて二升石小学校へ赴任した山峡(やまかい)の歌人西塔幸子は詠んでいる。
  九十九(つづら)折る山路を越えて乗る馬の
           ゆきなづみつつ日は暮れにけり
 「岩泉線 鉄道情景への旅」(岐阜新聞社)という写真集を去年の末に横浜在住の船坂晃弘さんというカメラマンが出版した。
 船坂さんは横浜から5年のあいだ岩泉線に通い続けた。
 岩泉線や沿線のなにが一人のカメラマンの心を捉えたのだろう。
 それは“息を呑むような美しい自然と、時の流れからこぼれ落ちたかのような山里の情景”だと言う。
 ロマンチックに聞こえる言葉の裏で、“希薄な人口密度、そして峻険な地形。純粋な旅客鉄道を運営してゆくにはあまりに過酷すぎる”現実を見据えている。
 重畳と山が連なり、その裾を縫って走る単線鉄道。
 山陰で陽が射さず、険しい山道を冬は雪がはばむ。
 絶好の撮影ポイントを確保するのはむずかしい。
 運転本数が少なく撮影できる瞬間も限られる。
 写し撮られているのは車輌だけではない。
 木造の駅舎、駅前の雑貨屋、狭い土地に開かれた田畑、稲を干すハサ、駅員や沿線に住む人びとの表情、暮らし、山背・紅葉・雪など四季折々の自然。
 岩泉線は赤字ローカル線として廃止対象にリストアップされ、代替道路の未整備のため、かろうじて廃止をまぬかれた。
 それは奇跡だったと船坂さんは書いている。
 最近、併走する国道340号の整備が着々と進み、岩泉線の命脈はふたたび絶たれようとしているようだ。
 “奇跡の鉄道”が生き延びる手立てはあるだろうか。
                       (2006.2.6)
 
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■ 漂流から生まれた縁

 
 ことしも2月8日に多良間村の小中学生8人が宮古市を訪れ、崎山小学校・中学校の生徒たちと交流したというニュースがあった。
 宮古市役所に行くと、前庭に白い珊瑚礁と首里城の唐破風を模した朱塗りの説明板があって目を引く。
 標柱には正面に“姉妹市村締結記念之碑”、側面には“珊瑚礁 沖縄県多良間村産”とある。
 説明を読むと、安政6年に宮古の商船が多良間島に漂着し、島民の手厚い保護を受けて全員が無事に帰還した史実にもとづき、両市村の友好と親善をさらに深め、ともに繁栄することを念願して平成8年2月6日に姉妹市村を締結したというふうに書かれている。
 手持ちの資料で、もう少し詳しい経緯を見てみよう。
 みちのく宮古は下町(しもまち)の善兵衛が所有する廻船善宝丸が、江戸交易の帰途、いまの神奈川県浦賀沖で嵐に遭遇して漂流を始めたのは1858年(安政5)の11月ごろ。
 それから75日後の翌年1月、善宝丸は沖縄の多良間島に漂着し、衰弱した乗員7人は島民の介護によって命をとりとめ帰郷した。
 この史実が宮古市の郷土史家によって発見されたのは1974年(昭和49)のことだった。
 市は1976年11月26日、多良間村に報恩之碑を建立し、あわせて児童生徒の交流学習などを始めた。
 1996年(平成8)2月6日には交流が始まって20年を機に姉妹市村を締結し、翌97年6月に姉妹市村締結記念之碑を市役所前に建立した、という。
 その後の調査で、善宝丸は30〜40トン級、季節風や海流にもてあそばれた漂流の総距離は浦賀から多良間までの6倍、約1万キロ以上におよぶらしいこともわかった。
 生還は奇跡だった。
 多良間村は宮古諸島の宮古島と石垣島のあいだにあり、多良間島と水納島からなる。
 亜熱帯気候で、年平均気温23度。
 サトウキビ・葉タバコや野菜栽培をはじめとした農業と製糖・畜産が盛ん。
 みちのく宮古では、この冬、立春を過ぎて春のドカ雪がつづいた。
 多良間から来た生徒たちは、めずらしい大雪に喜び、雪合戦に夢中だったという。
 宮古市からも子どもたちが多良間村を訪れるが、毎年この交流のニュースを見聞きするたびに、人の縁のふしぎさというようなものを思わずにはいられない。
 
多良間村 http://www.vill.tarama.okinawa.jp/
 
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■ 毛ガニの旬

 
 宮古から毛ガニが届いた。
 ことしも日立浜の青年漁師さんに頼んで、その日獲ったばかりの新鮮な毛ガニを直送してもらった。
 発泡スチロールには大ぶりの毛ガニ2杯、やや小ぶりなオマケ数杯がずっぱり詰まっている。
 さっそく大鍋で炊いた。
 炊きたての蟹味噌はこたえられない。
 まず2杯の味噌を味わい、それからおもむろに脚を割った。
 毛ガニの漁期は12月1日から3月末までで2月が最盛期。
 いままさに旬。
 報道などを見ると漁獲量も前シーズンより良好のようだ。
 2月19日には観光協会主催の“宮古毛ガニまつり”が開かれる。
 ことしで4回め。
 会場は去年と同じく魚市場の特設会場。
 なんといっても宮古産毛ガニが浜値で手に入るのが魅力のイベントだが、午前と午後それぞれ先着100人に毛ガニ汁が無料で振る舞われたり、一本釣りや輪投げで毛ガニをとる催しもある。
 毛ガニ以外にもホタテ・牡蠣の殻剥き体験や海産物セットが当たる抽選会、海産物の格安販売、陸中各地の海産物を使った弁当“海弁”の即売会があったりと、なかなか企画が多彩だ。
 回を追うごとに来場者が増え、宮古の冬をいろどる観光イベントとして定着しつつあるのもうなずける。
 観光協会によると第1回は6000人、第2回9000人、去年の第3回には1万5000人の来場者があったという。
 この調子だと、ことしは2万以上の人たちが県内外から訪れるかもしれない。
 人がたくさん来るのはもちろん大歓迎。
 ただ心配なのは毛ガニの確保だ。
 去年、販売用に用意した4000匹はたちまち売り切れた。
 来場1万5000人に4000匹では、どうにも足りなかった。
 毛ガニは1週間くらい前から仲買人が集めるらしい。
 漁協や漁師さんの協力がないと充分な確保はおぼつかないだろうし、そもそも漁は自然相手、不安定で厳しい天候や海況に大きく左右される。
 まつり前1週間の天候次第で数がそろわない場合も出てくるだろう。
 豊富に毛ガニがあってこその“宮古毛ガニまつり”――
 舞台裏の苦労もしのばれるが、ことしも多くの人が訪れ、喜んで帰ってくれるようにと願うばかりだ。     (2006.2.12)
 
⇒ 三陸宮古発・青年漁師の店  宮古観光協会  キリン・エリアガイド
 
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■ 毛ガニまつりの記事

 
 2月19日に臨港通・出崎埠頭の魚市場特設会場で開催された第4回宮古毛ガニまつりのようすを伝えるニュースが出揃った。
 岩手日報、朝日・毎日・読売3紙の県版と岩手放送IBCニュースエコー、テレビ岩手ニュースプラス1など、それぞれウェッブサイトで記事をチェックしてみた。
 毛ガニまつりの目玉企画になっている浜値販売を中心に、報道の要点を以下に抜きだしてみたい。
 午前と午後に1回ずつ、計2回、毛ガニが浜値で販売された。
 人数限定で、それぞれ先着100人、計200人。
 浜値価格は1杯500円。
 これは市場価格の半値以下だという。
 ひとり2杯限定。
 200人に2杯ずつだから、浜値販売に用意された毛ガニは400杯。
 毛ガニの大きさ・重量は不明。
 浜値販売コーナーのほかに出店があり、そこでは市価の2割引きで売られた。
 一本釣りや輪投げで毛ガニをゲットするなどのコーナーを含め、このまつりのために用意された毛ガニは約1万杯。
 対して、来場者数は約1万1500人。
 この数字をみると、やはり毛ガニが少ないという印象を受ける。
 毛ガニの浜値販売を目当てにくる人が多いだろうから、わずか400杯では不満が大きかったのではないだろうか。
 前にも書いたように、毛ガニの準備は、まつりまでの数日間、漁や水揚げ状態がどうだったかによって左右される。
 不漁なら十分な用意のしようがない。
 まつり当日は日曜で市場は休み。
 土曜も休み。
 となると、2日前の金曜までの水揚げは果たしてどうだったのか。
 毛ガニまつりの記事は、まつり当日のことだけを、事実の間違いなく簡潔に伝えればすむ。
 細かい点をつつけば、そんな簡単なことさえ実はむずかしいと思うが、とはいえ、もう少し背景にまで踏み込んだ深みのある内容がほしい。
 これが毛ガニまつりについて報道各社の記事を読んでみての偽りない感想だった。
 
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■ しょっぱい塩鮭

 
 晩のおかずは塩鮭にした。
 冷凍庫に保存しておいた切り身をとりだし、水につけて解凍――
 年末に届いた新巻の、最後の切り身だ。
 宮古の産ではなく久慈産だが、同じ岩手の新巻である。
 毎年このお歳暮が届くと嬉しい。
 年末年始にかぎらず、子どものときから食べ慣れた新巻がないと物足りなくもある。
 魚のなかでいちばん多く食べてきた鮭。
 なかでも新巻にはお世話になった。
 長年お世話になっておいて今さら言うのもなんだが、きょうはあえて苦言を呈したい。
 ちょっとしょっぱすぎないか、と……
 子どものときは、あまり感じなかった。
 しょっぱい塩鮭をおかずに、ばくばく飯を食った。
 塩鮭を一口、ご飯を一口、おつゆを飲んで、また塩鮭を一口。
 塩鮭はしょっぱくて当たり前。
 しょっぱくない塩鮭なんて矛盾だが、最近、塩鮭を食べるたびに塩辛さが気になりだした。
 切り身半分をあますことさえある。
 子ども時分には考えられない事態だ。
 水につけて塩抜きし、塩分といっしょにコクも抜けてしまった塩鮭を口に運びながら考える。
 最初から薄塩の塩鮭はつくれないものだろうか。
 塩鮭といっても2種類ある。
 ひとつはスーパーで切り身の塩鮭として売られているもの。
 これは生の切り身を塩水に浸しただけの、新巻ではない塩鮭だ。
 ラベルに甘塩・低塩などと書かれている。
 ぼくが言っているのは本来の塩鮭、新巻鮭のことだ。
 たっぷり塩をすりこみ、寒風にさらして干した鮭。
 厳しい北国の自然のなかで生まれ、えんえんと食べ続けられてきた新巻である。
 最近聞いた話では、新巻の生産量は年を追うごとに落ちてきているという。
 鮭が獲れないのではなく、新巻にしてもあまり売れないから、手間ひまかけてつくるのを控える業者が増えているらしい。
 食物を保存するために考えだされた塩漬けという知恵は、冷凍技術が進歩し、冷凍庫が普及した現在では、その意義が薄れている。
 しかも昔とは違って薄味が好まれ、塩分の摂りすぎを気にする人は確実に増えている。
 しょっぱい新巻の行く末は、果たしてどうなるのか。
 
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■ 寒干鮭

 
 新巻を調べてネット上をさまよっていたら、宮古の“寒干鮭(かんぼしさけ)”というのに出くわした。
 新巻のかわりに寒干鮭を名のることで差別化をしようとしているようだ。
 製造・販売は“水産宮古を考える会”。
 若手水産加工業者の研究グループらしい。
 所書きは臨港通5番10号になっている。
 製品は3種類。
 寒干鮭一本が消費税込みで3000円から5000円。
 切身2切れパックが500円。
 ほかに1000円のトバスティックがある。
 ――寒干鮭は昔から宮古地方で作られてきた伝統的な食べ物の代表です。
 冷蔵庫のなかった昔は、鮭を塩漬けした後、天日干しすることによって保存食としてきました。
 本商品は、現代の嗜好に合うよう減塩しています。
 天日干しのうまさが魅力の逸品です。
 昔の何もなかった時代は、冬のあいだ塩漬けした後、天日干しした寒干鮭を軒先に荒縄でつるしておき、下から切って食べていました。
 盛岡の殿様にもワラでくるんで献上していたとか。
 11月後半から2月頃の寒風が吹くときに天日に干して作りますが、宮古の気候が一番良いといわれています云々
 商品説明には、こんなふうに書かれている。
 製造工程も簡単に紹介している。
 原料はブナ鮭である。
 エラ・ワタ取り。塩漬け。1週間ほど重石をして重ねる。上下を返す。2日間、流水で塩を流す。表革を洗い流す。荒縄をエラに通して吊るす。1週間から10日間、天日寒風干し。切身の場合は、このあと筒切りしてパック。
 “エラ・ワタ取り”というのはエラも切りとるのだろうか。
 塩はどれくらい使うのだろう。
 “表革を洗い流す”というのは表側? 腹のなかは洗わない?
 疑問点はいくつかあるものの、2日かけて流水で塩を抜いていることがわかる。
 商品説明でも“減塩”をうたっている。
 ただ、寒干鮭という商品名からは“減塩”というポイントがはっきりとは伝わってこない。
 その点が惜しい。
 
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■ 宮古の写真集

 
 「北部陸中海岸紀行 1948〜1975年」というタイトルの写真集が刊行された。
 朝日新聞の岩手版に記事が載った日、書かれていた問い合わせ先に電話をした。
 出版したのは宮古在住の吉田幸一さん。
 小部数の私家版で、おもに宮古の写真を載せているというので入手方法を尋ねると、手もとには家族の分しかなく、小成書店に置いてあるという。
 書店に電話をかけ直し、宅配便で送ってもらった。
 2006年(平成18)2月20日発行、消費税込み3150円、縦182×横257ミリのB5判。
 カバー表は岩場に荒波が砕ける大沢海岸での昆布拾い、カバー裏は田野畑村の北山崎。
 1ページに写真1枚で、約30年にわたる全68枚のモノクローム写真がおさめられている。
 裏浄土の断崖、藤原や磯鶏の須賀と松原、昆布干しの家族、木造サッパ、黄金浜の岩場、砂浜に立てられた海苔棚、埋立工事の始まった藤原海岸、松月海岸、熊野神社の祭り、船渡御、蛸ノ浜でウニの殻剥きをする一家、サンマ船の出港と水揚げ、マグロが並ぶ魚市場、岸壁を埋める干鰯、白浜の昆布洗い、閉伊川の渡し、川岸で焚き火にあたる褌姿の子供たち、小山田の仮橋と川舟、小山田橋開通式、雪のラサ社宅、共同井戸で洗濯する少女たち、八木沢の田園、中谷地の田んぼでフナを捕る少年、横町の新山遊園地、それに山田町や田野畑・普代村の海浜風景など宮古以外の写真も数枚ある。
 みな懐かしい。
 すでに失われてしまった光景が多い。
 あっと思った一枚があった。
 小沢の道を赤ん坊がよちよち歩いている。
 後ろに乳母車と母親らしき人影がある。
 宮古小学校の裏の田んぼ道だろうか。
 なにげないスナップショットに強く引きつけられた理由はわからない。
 写真とは不思議なものだ。
 吉田幸一さんは1931年(昭和6)生まれ。
 電報電話局に勤務し、1987年(昭和62)に退社。
 若いときから写真の魅力にとりつかれ、自宅に暗室がある。
 75歳になった記念に初めての写真集を出した。
 これからも宮古を中心に陸中海岸を撮りつづけるという。
 モノクロ写真68枚に定着された光景――
 それはひとりの人間の折々の記憶であり、宮古の風景と人びとの暮らしの貴重な記録だ。
 
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■ 黒森山のイタコ石

 
 黒森神社をめざして勾配のきつい参道を登ると、道がふた手に分かれる。
 道を右にとった先に古黒森と呼ばれる古い社殿があったという。
 分岐した道のかたわらには、柱に屋根を載せただけの小さな御堂がある。
 御堂には、60センチほどの背丈の石が祀られ、柱にイタコ石としるした板が掲げられている。
 イタコは、死んだ者の口寄せをしたり、オシラサマのある家々をまわって祭りをしたりする女だ。
 あるいは瞽女(ごぜ)ともよばれる旅の女芸人で、多くは盲目である。
 黒森は、そのむかし、女の登ることの許されない御山だった。
 江戸時代の慶安3年(1650年)のことだ。
 ある日、どこからか、ひとりのイタコが山口村にやってきた。
 なにか期するところがあったものか禁制の御山に登ろうとした。
 ふもとから鬱蒼として険しい山路を、細い杖を頼りに一歩一歩とイタコは登っていった。
 峠にでると、銭を一つ一つ道に置き、その上を踏んで女は、なおも登ってゆく。
 銭を置いて渡るのを銭橋(ぜにばし)といい、こうすれば神の怒りにふれることはないとでもされていたのだろう。
 ところが、いつまでたってもイタコは山から下りてこなかった。
 心配した村びとが探しにいってみた。
 すると、峠の山道に、ぽつんと揃えたように草履(ぞうり)だけが残っている。
 女の姿は、どこにもなかった。
 やはり黒森さまの怒りにふれたのだろう、大蛇に呑まれでもしたのだろうと村びとは憐れみ、草履のあったかたわらに一尺八寸ほどの石を建てて祀った。
 石は、イタコ石とも結界石とも呼ばれた。
 のちに黒森神社は新しい社殿に遷(うつ)った。
 イタコ石も新しい参道の脇に移された。
 それからまたのちの世になって、石は屋根をかけた祠(ほこら)の下に祀られることになった。
 なにか刻まれていたのだろうが、文字は長いあいだの雨や風に流れ、イタコ石のいわれだけが伝わっている。
 
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■ 津波と船幽霊

 
 明治の大津波のときの話だ。
 その日の朝、重茂村荒巻の漁師4人が乗り組んで船を出した。
 なんとなく天候が穏やかでなかったので胸騒ぎがした。
 こんなときは船幽霊が出るかもしれないと思った。
 4人の漁師は3里半、約14キロほど沖合いで、鮪〔まぐろ〕をとっていた。
 夜の8時ごろになって、陸地のほうから百雷の落下したような怪音がとどろいた。
 それから間もなく、船は3度にわたって大きな波を浴びた。
 どうにか転覆をまぬがれると、その後はなんの異状もなかった。
 明け方近く、船をめぐらして浜に帰ろうとした。
 潮騒のなかから、なにやら声がする。
 波の上で誰かが助けを求める声に聞こえた。
 これはきっと船幽霊にちがいないと、4人は一言の答えも返さなかった。
 船幽霊に返事をすれば自分も海に引きずりこまれる、という古老の話を信じていたからである。
 重茂村の助役(村長補佐)に山崎松次郎という人がいた。
 山崎助役は、このときの津波にさらわれ、沖合いまで流された。
 水練がたくみだったのも幸いし、奇跡的に生きたまま海上を漂っていた。
 夜が白みはじめたころ、1艘の船が来るのを見つけた。
 4人が乗った船である。
 「おーい、助けろー」
 山崎助役は声のかぎりに救いを求めた。
 ところが、船の漁師たちは気づきながら一向に近づいてこない。
 「俺だぁー、助役の、山崎だぁー」
 大声で何度も叫んだ。
 漁師たちはやっと船を漕ぎ寄せると山崎助役を救いあげた。
 ――この話は1896年(明治29)7月29日発行の「風俗画報」臨時増刊号「大海嘯被害録」に載っている。
 明治三陸大津波が起きたのは、そのひと月前の6月15日。
 重茂村姉吉で波高18・9メートルを記録し、村の死者は496、負傷者33、家屋流出103。
 半島の狭い入江に点在する集落は全滅に近かった。
 
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■ 黄色い米粒

 
 shiratori さんのブログ「マスター写真館2」に、向町の二分団の写真があった。
 消防車が夜のパトロールに出動しようとするところを写したものだった。
 ぼくの目は写真のテーマとは別のところに向いた。
 写真の端っこに、分団の向かいにある米屋さん、三浦米穀店の看板が写っていた。
 “パールライス”という文字が、そこにあった。
 懐かしいなと思った。
 宮古の実家で食べていた米には、黄色い米粒がまじっていた。
 炊けば普通の白米と同じ色なのだが、その黄色い米粒は、なにやら栄養豊富なものなのだと母親に聞かされていた。
 どんな栄養があるのだったか記憶にない。
 黄色い米粒の色は鮮明に覚えている。
 その米をパールライスと呼んでいた。
 上京してからは、ああいう黄色い粒のまじった米を買ったことがない。
 パールライスという名前も忘れていた。
 写真の看板を見て、いまでもあるのだなと思った。
 インターネットで調べてみた。
 パールライスという名は検索でいくつもヒットする。
 なのに、それがどんなものなのかという説明には出会えない。
 調べているうちに、パールライスはぼくの知っている黄色い粒のまじった米と違うような気がしてきた。
 黄色い米というのはある。
 胚芽を残して精米すると胚芽の部分が黄色く見える。
 最近、トリノ冬季オリンピックで金メダルに輝いたスケートの荒川静香選手をCMに起用して有名になった金芽米というのは、胚芽の根もとを残して精白した米だ。
 ビタミン強化米というのもある。
 いろいろなビタミン類を米粒に沁みこませ、さらに表面をビタミンや鉄分をふくむ膜でコーティングしたものだそうだ。
 黄色い米粒というのは、このビタミン強化米のことだったのかもしれない。
 ただ、やはりパールライスとは結びつかない。
 黄色い米粒とパールライスとを結びつけてしまったのは、ぼくの記憶の混線なのかもしれないと不安になる。
 黄色い米粒の話をしながら母はその名を言った。
 パールライスでないとしたら、それはどんな名前だったのだろう。
 
 *マスター写真館2 http://ijinkan2.exblog.jp/
 
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■ スネコタンパコ
 ――宮古の昔話16
 
 昔むかし、子どものいないじいさまとばあさまがおりました。
 神棚に手を合わせて毎日お祈りしました。
 「どんな子でもかまわねぇ、ひとり授けてくださんせ」
 ある日のこと、ばあさまのスネに大きな腫れものができて、そこから親指ほどの小さな小さな子どもが生まれました。
 じいさまとばあさまは大喜び、スネコタンパコと名づけて大切に育てました。
 でも、いつまでたっても大きくなりません。
 ある日スネコタンパコは言いました。
 「おっとぉ、おっかぁ、おら嫁っこを探しに行ぐっけ、馬とコウセン(香煎)をくださんせ」
 ふたりはびっくりしました。
 それでも言うとおり用意してやりました。
 スネコタンパコは馬の耳のなかに入って出発しました。
 大きな村の長者どんの屋敷にくると、馬をおりて頼みました。
 「どんな隅っこでもいいっけ、泊めてくださんせ」
 長者どんは小さなスネコタンパコを珍しがって家に上げました。
 屋敷には女ばかり3人の子どもがおりました。
 その夜なか、スネコタンパコは起きだして末娘の部屋へ忍びこみ、眠りこけた娘の口のまわりに、そっとコウセンをつけました。
 翌朝、長者どんはスネコタンパコの声で目を覚ましました。
 「おらの大事なコウセンを、バッツコ(末娘)さんに食われだ」
 そういって泣いているのです。
 見ると、たしかに末娘の口のまわりにコウセンがついています。
 長者どんは言いました。
 「人さまのものに手をつける悪い娘は、ぼんだしてしまうべぇ」
 スネコタンパコは追いだされた末娘を追って外へ出ました。
 そして馬のしっぽにぶらさがると尻を蹴とばしました。
 馬は跳びはね、スネコタンパコは地面に叩きつけられました。
 すると、親指ほどの小さな小さなスネコタンパコの体がみるみる大きくなり、りっぱな若者になりました。
 スネコタンパコは長者どんの末娘を馬に乗せて自分の家に連れ帰り、じいさまばあさまと4人、仲よく暮らしましたとさ。
 
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■ ポリライス

 
 「黄色い米粒」を書いたあと気になって調べてみたら、黄色い米はやはりパールライスではなかった。
 ポリライスといったらしい。
 パールライスというのはJA(農業協同組合)グループが扱っている米全体につけられた愛称で、製品名や品種名ではないようだ。
 ポリライスは、♪タケダタケダタケダ〜という連呼CMで知られる武田薬品工業の登録商標。
 インターネットで見つけたホーロー引き看板の写真には“ビタミン強化白米ポリライス POLY-RICE”とあった。
 POLY はビタミンの複合体という意味だろうか。
 敗戦まもなく食糧難からくる栄養不足をおぎなうため厚生省がビタミン剤やビタミン強化食品の生産をメーカーに奨励した。
 これに応じるかたちで武田薬品は1952年(昭和27)に脚気などの予防に必要なビタミンB1を吸収しやすく工夫した錠剤を開発した。
 製品名はアリナミン。
 ポリライスは、1955年に発売された。
 ビタミンB1を米粒に沁みこませ、B2で表面をおおった。
 黄色はB2の色で、目や皮膚・粘膜を正常に保つ働きがある。
 着色して白米と区別するという目的もあった。
 白米10キロに、50グラムくらいを混ぜたらしい。
 武田薬品は1957年11月に食品部門を分離し、武田食品工業を設立した。
 ポリライスの加工・販売も武田食品に移った。
 武田食品になって開発された製品にプラッシーがある。
 オレンジ果汁10パーセントの飲料水にビタミンCをプラスしたもので、プラスCからプラッシーと名づけられた。
 1958年4月にポリライスと並んで米屋さんの店頭におかれた。
 1992年にいったん生産を中止し、健康ブームのなか1998年に復活したという。
 ほかにも1960年に調味料いの一番、1991年にはC1000タケダなどを売り出している。
 ポリライスを発展させた製品が新玄で、6種類のビタミンと鉄分やカルシウムを加えたもの。
 1980年に武田薬品がつくり、武田食品が販売した。
 その後、新玄サプリ米と名前を変えたようだ。
 ポリライスは、新玄の登場とともに姿を消したとも、いまでも売られているとも聞くが、その消息はよくわからなかった。
 
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■ 白鬚伝説

 
 八幡さまの建つ宮町〔みやまち〕の丘を横山という。
 いつの世とも知れない遠い昔のことだ。
 区界〔くざかい〕の兜明神岳から流れだして宮古の海にそそぐ閉伊川に、大きな洪水が起きた。
 そのとき、早池峰あたりから小さな山がひとつ流れだし、宮古の浅瀬にひっかかった。
 西から東に流れる閉伊川に南北に横たわったものだから、横山と呼ばれるようになった。
 そのころ、いまの宮古の町なかは、ほとんどが海か湿地だった。
 いまは土手にさえぎられ、川は横山の南裾をおとなしく流れている。
 昔むかし横山は川の中洲にあって、南にも北にも滔々と水が流れていた。
 あるときのことだ。
 閉伊川筋の村むらに、白鬚〔しらひげ〕をたくわえた見知らぬ翁〔おきな〕があらわれた。
 白鬚の翁は、洪水になるから早く逃げなさいと知らせて回った。
 村びとたちの多くは、老いぼれのたわごととたかをくくった。
 ところが、まもなく大洪水が起きた。
 白鬚の翁の言葉を信じて逃げたわずかな者は生き残り、信じなかった者が大勢死んだ。
 翁は一葉の扁舟に乗り、白鬚をなびかせながら閉伊の激流のなかを流れ去った。
 そのときから閉伊川の洪水は、白鬚水と呼ばれるようになった。
 上流で大雨が降ると、激流が岩を噛んで白波が逆巻く。
 その白波を見て、ふと白鬚の翁の伝説を思い出し、恐怖にかられる川沿いの住人はいまなお多い。
 戦後、アイオン台風のときの豪雨は閉伊川をみたし、横山にぶつかって山口川を逆流した。
 あふれた水は宮古の町を襲った。
 伝説の白鬚の翁は、町なかにもいつあらわれるかわからない。
 
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■ 横山伝説

 
 閉伊川の上流から漂ってきた横山――
 その横山八幡宮には伝説がいろいろ残っている。
 八幡さまの創建は白鳳9年(西暦680年)のことらしい。
 和銅年間(708〜715年)には、都で歌人として知られた猿丸太夫が天皇の怒りにふれ、はるばるこの地に流された。
 横山の宮守となり、その住居を猿丸屋敷といった。
  奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ秋は悲しき
 猿丸太夫は、百人一首にもあるこの歌を横山で詠んだ。
 寛弘3年(1006年)のこと、阿波の鳴門が突然鳴動し、怒濤逆巻く天変地異が起きた。
 時の帝は諸国におふれを出して鎮めようとした。
 横山の禰宜〔ねぎ〕も日夜祈祷し、一首の神歌を得た。
  山畠に作りあらしのえのこ草 阿波の鳴門は誰かいふらむ
 さっそく鳴門におもむいて詠じると、たちまち怒濤が止んで静かな海に戻った。
 帝はおおいに喜び、禰宜をそばに呼んで故郷のようすを尋ねた。
 禰宜は一首の歌でこたえた。
  我が国に年経し宮の古ければ 御幣の串の立つところなし
 帝は感じいり、〈宮の古ければ〉から都と同訓の宮古という地名を与えた。
 以来この閉伊の湊を宮古と呼ぶようになった。
 禰宜は喜んで阿波から帰り、道みちついていた杖を横山のふもとに差した。
 すると、杖が生き返って〈逆さイチョウ〉になった。
 正治元年(1199年)のこと、源義経が平泉を逃れて横山八幡宮に参籠し、大般若経100巻を奉納した。
 家臣の鈴木三郎家重は、老齢のためにこの地にとどまり、近内〔ちかない〕に住んで八幡宮の宮守になった。
 以来、例大祭には近内から神幸祭の行列に供をするのが慣例になった云々
 こういった伝説は想像を刺激して楽しいものだ。
 
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■ 宮古ゆかりの書画家、駒井常爾

 
 駒井常爾(こまい・じょうじ)という人物がいた。
 江戸時代中期から後期の書家・画家・儒学者で、インターネット上にある「物故書画家人名辞典」に載っている。
 この昔の書画家が宮古にゆかりの深い人だったことを偶然に知った。
 少し詳しい履歴が滋賀県の高島市立安曇川(あどがわ)図書館のサイトにある先人紹介というページに紹介されていたのである。
 宮古の郷土史家などには旧知の人物かもしれないが、ぼくは初めて知った。
 ほかに資料もないので、ここに引用しておきたい。
 駒井常爾――常爾は雅号で、通称を治右ヱ門という。
 1742年(寛保2)京都に生まれ、幼名を金蔵といった。
 先祖は現在の滋賀県高島市安曇川町北船木の駒井正見家の出で、常爾の父貞和のころには京都の寺町に居を構えていた。
 1766年(明和3)父が逝去し、鳥辺山に墓を建てた。
 その後、同郷の先輩で親類の伊香権兵衛を頼って宮古に移り住み、酒造と質屋を営んだ。
 伊香権兵衛は屋号を近権といった。
 駒井常爾は軌道にのった家業を番頭にまかせると、書画をたしなんだ。
 年のなかばを京都に過ごし、高僧の慈雲や南宋画の祖である池大雅らとも交流があった。
 書は常爾、画は南山居士の名を用い、掛け軸などが残っている。
 横山八幡宮にある“山畠に作りあらしのゑのこ草あはのなるとはたれかいふらむ”という神歌を刻んだ碑は、常爾の建立になる。
 晩年は鍬ヶ崎で酒造業を営んだ。
 屋号を近治といい、下酒屋と呼ばれ、明治年代まで続いたが、常爾は1814年(文化11)12月25日に73歳でこの世を去っている。
 宮古や盛岡、宮城県築館町に子孫がおり、1914年(大正3)には安曇川の駒井正見家で百回忌法要が営まれた。
 以上がおおよその引用。
 近権・近治・下酒屋などは、どう読むのかわからない。
 伊香家というのは宮古の旧家のひとつだと聞いた覚えがある。
 駒井というと、新町で酢屋を営んでいた駒井雅三の実家を思い浮かべてしまうが、なにか繋がりがあればおもしろい。
 
滋賀県高島市立安曇川図書館   http://www.library.adogawa.shiga.jp/ 先人紹介ページ
物故書画家人名辞典
http://www.soubi.jp/syoga-meibo/index.shtml
 
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■ 仰げば尊し

 
 ことしも卒業シーズンが過ぎた。
 ぼくらのころは、卒業式に必ず「仰げば尊し」を歌った。
 「蛍の光」とともに別れの歌の定番といってよかった。
 最近は歌わないようだ。
 仰げば尊し、わが師の恩――
 何気なく小学校から高校までの先生を思いうかべてみた。
 名前を思いだせない先生がいる。
 名前どころか顔さえ浮かんでこない先生もいる。
 ひどい話だ。
 仰げば尊しどころではない、仰げば遠しだ。
 あわてて、いや、こんどは落ちついて一人ひとり担任の先生の名前と顔を思いうかべてみた。
 小学1年のときは伊香先生(女)、2年が赤沼先生(男)、3年で再び伊香先生、4年は中村先生(男)といったか、5年は菊池先生(男)、6年が蟇目先生(女)。
 伊香先生は美人で二度習ったのでよく覚えている。
 中学生になったら、ご伴侶が担任になったので驚いた。
 赤沼先生は赤っぽいセーターをよく着ていたような印象がある。
 4年の先生は名前がおぼつかない。
 縁の太い眼鏡をかけた四角い顔の先生だったと思う。
 菊池先生は情熱家だった。
 いちど旧校舎の玄関で土足を見とがめられたことがある。
 目が合ってうつむくと、なにも言わず静かに立ち去った。
 あれは校歌にある〈無言の教訓(おしえ)〉だった。
 蟇目先生は、めりはりのきいた顔立ちと性格で、卒業式のきりっとした羽織袴すがたが印象に残っている。
 担任以外は、ほとんど記憶にない。
 校長先生も覚えていない。
 図書室の女先生の顔を、かすかに覚えている。
 読書感想文で賞をもらうため盛岡へ行ったとき引率してくれた。
 帰りの汽車のなか、なにか事情があって近ぢか学校を辞めるという話を聞いた。
 小使いさんと当時呼んでいた用務員さんの顔も、ぼんやり覚えている。
 よく割れたガラスを入れ替えたり花壇の世話をしたりしていた。
 池のある中庭や校舎の東側あたりで畑を耕していたような光景も浮かぶが、これは記憶違いかもしれない。
 
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■ 宮小の卒業記念品と並木

 
 「みやごのごっつお」サイトの「ふるさと掲示板」に、宮古小学校の卒業記念品の写真が出ていた。
 校章が浮き出した、まるくて茶色い鋳鉄製のメダルだ。
 文鎮にも使えそうに見えた。
 裏には横2段で“卒業記念”の文字と“1966”という年号が刻まれていた。
 このメダルを姉弟3人で持っているという人も写真を載せた。
 はっきりとは見えなかったけれど、3枚のうち2枚の年号はどうにか1966、1967と読める。
 ぼくも同じころ宮古小学校を卒業した。
 その日は晴れていた。
 中学用に買った詰襟の学生服を着て式に出た。
 母親が同伴した。
 卒業証書の入ったこげ茶色の紙筒を持って、まだ新しいプールの脇で担任の蟇目先生と別れの挨拶を交わした。
 そんな記憶が残っている。
 ところが、鋳鉄製のメダルを記念にもらったという記憶はまったくないから、掲示板を見て驚いた。
 記憶がないくらいだから現物は手もとにない。
 失くしたのか、どこかに仕舞いこんで忘れているのか、引っ越しのさいにでも捨てられたのか……
 別の話だが、ちょっと前には、こんなことがあった。
 宮古小学校のグラウンドの南端には、イチョウの大木が十数本並んでいた。
 背が高く、幹が太く、それはみごとな並木だった。
 秋には落ち葉が隣接した家々の屋根にも降り積もり、校庭の掃除も大変だったが、宮小のシンボルとして幼い心に誇りに思っていた。
 イチョウの並木――ぼくはそう思い込んでいた。
 ところが、ある人に、あれはポプラの並木だったと言われて愕然とした。
 光にきらきら煌き、風にざわざわ揺れ、懸命に竹ぼうきで掃いた葉っぱは、イチョウの葉ではなかっただろうか……
 しばらくそんな思いが去来した。
 ほかにも二、三の人から、あれはポプラだったと聞き、やっと心のなかで自分の間違った思い込みを訂正した。
 物忘れ、思い込み――自分の記憶のいい加減さに自分でほとほと呆れている。
 
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■ 切れぎれの記憶 宮小篇1

 
 八幡通りにあった家から宮古小学校までは一本道だった。
 末広通り、二幹線、横町通りを渡っていった。
 八分団、その裏に駄菓子屋、山清酒屋の倉庫、太田レストラン、山清、磯野商店、扇橋旅館、石垣釣具屋、伊藤魚屋などが途中にあった。
 佐藤旅館と木村商店のある横町通りの四つ角を渡ってすぐの西口から学校の敷地に入った。
 西口の脇には防火用の溜め池と柳の木があった。
 溜め池は埋められた。
 柳の木は、たしか暴風で折れた。
 敷地の北にあった本校舎は円の字型をしていた。
 円の頭が東で廊下。
 西に渡り廊下が平行して教室のある棟を結んだ。
 教室棟は北側と中央の短い棟が平屋、南側が2階建ての本棟。
 ほかに体育館と2階建ての旧校舎が東の山ぎわに並んでいた。
 旧校舎をコロで移動して発破で山を削り、プールができたのが5年のとき。
 6年のときには3階建ての逆ピラミッド校舎ができ、旧校舎は解体された。
 旧校舎がもとの位置にあったころは正門から入って旧校舎・体育館と山のあいだを通り、小沢〔こざわ〕に抜けられた。
 体育館の北東裏の山腹には何軒か民家があった。
 正門の内側にも西側に何軒か民家が並んでいた。
 そこの子どもだったら学校に住んでいるようなものだから楽チンでいいなと思ったものだ。
 1年生の教室は本校舎の北側の棟だった。
 4年のときは本校舎の真ん中の短い棟の、音楽室と給食室に挟まれた教室。
 5年のときは旧校舎の2階。
 6年の途中から逆ピラミッド校舎の2階に移った。
 2年と3年のときの教室がどこだったか思い出せない。
 図書室は本校舎の本棟2階中央にあった。
 5、6年生になってよく出入りするようになり、「海底二万里」や「十五少年漂流記」「月世界旅行」といった子供向けにやさしく書かれたジュール・ヴェルヌの全集を読みふけった。
 なにがきっかけで読むようになったのかはわからない。
 ドリトル先生というシリーズを、しきりに借りだして読んでいる男の生徒の記憶があるから、それに対抗してのことだったかもしれない。
 
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■ 切れぎれの記憶 宮小篇2

 
 宮古小学校のグラウンド西側には出入口が2ヵ所あった。
 家に近いのが南寄りの出入口だった。
 遠い北寄りの出入口から敷地に入ると、右手に柵で囲まれた一郭があり、百葉箱と二宮金次郎の像が立っていた。
 金次郎はコンクリート製で、場所は替わったけれど今でもある。
 鼻が欠けているのは当時からだったかどうかわからない。
 左手には小校庭があり、いつだったか西側に小鳥とウサギの金網小屋ができた。
 その北寄りにブランコ、本棟側に滑り台と砂場があった。
 北棟のそばに三角錐の回旋塔ができたのは卒業後だと思う。
 本校庭の遊具は、南側のポプラ並木の前に並んでいた。
 東から低い鉄棒、雲梯、高い鉄棒、懸垂棒などがあった。
 木造の講堂が体育館に建てかわったのは入学する1、2年前だった。
 敷地が校庭より高く、コンクリートのテラスが木造旧校舎へつづく通路になり、校庭まで階段状になって下っていた。
 入学前だと思う、旧校舎の南側に模型の蒸気機関車が置かれていた。
 模型といっても実際に走り、子どもがまたがって乗れるような大きさだった。
 いま考えると、なぜあんなものが?と不思議なのだけれど、これは記憶違いではない。
 不思議といえば、低い鉄棒と雲梯のあいだにコンクリートの立方体が建っていたような気がする。
 正体不明の構造物だった。
 川上という同じ学年の男の子がいた。学校のそばに住んでいた。
 野球がうまく、放課後このコンクリに一人で軟球を投げていた。
 キャッチボールの相手をしたことがある。
 速くて重い球だった。
 中学生になって野球部に入り、エースになった。
 と書いていたら同学年生の顔や名前がいくつか浮かんできた。
 ドッジボールがうまかった在原トオル、卓球をした沢田義広・天野礼?(男)、秀才の山根聡・田中秀(ひでき?)、近所だった上野文夫、ラサの社宅にいた真杉淳、それに木村康、長塚哲、伊藤忠、豊島隆、和山鉄郎、平田敦子、阿部朝子、小笠原温子、堀合友子、清川則子、坂下?子……
 順不同、敬称略、字が合っているかどうかもおぼつかない。
 
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■ 切れぎれの記憶 宮小篇3

 
 宮古小学校には鼓笛隊があった。
 どこの小学校にでもあったものなのかどうかは知らない。
 活躍するのは運動会のときぐらいのものだった。
 鼓笛隊に加えられたのは4年生になってからだったろうか。
 その他大勢の縦笛組だった。
 指揮者には、毎年、背が高くてスタイルのいい女の子が選ばれていたような印象がある。
 バトントワリングもあった。
 小太鼓がカッコよくて、あるとき担任の先生にやらせてくれと申し出たことがある。
 たしか小太鼓の余分がないという理由でその希望は叶わなかった。
 親に頼んだら、小太鼓は音がうるさいという理由で買ってもらえなかった。
 しかたなくスティックだけ買い、一人で木の机やマットを叩いて練習した。
 いつしか飽きてやめてしまったのは外で遊びまわっているほうがよかったからだ。
 合唱団にも入れられた。
 5年からか、6年のときだけだったかは忘れた。
 担当の先生も記憶にない。
 歌は好きだった。
 うまくはなかった。
 それでも休み時間にはしきりに流行歌をうなっていた。
 案外そんなことが合唱団に入れられた理由だったかもしれない。
 歌謡曲では美川憲一「柳ヶ瀬ブルース」や布施明「霧の摩周湖」などがヒットしていた。
 城卓矢の「骨まで愛して」を歌いすぎて職員室に呼び出しをくらったという話は前にも書いた。
 音楽室で放課後に合唱団の練習をした。
 先生が来るまでテラスで“だるまさんが転んだ”をして遊んでいたのが印象に残っている。
 「おお牧場は緑」という曲をよく練習した。
 “月なきみそらに煌く光”という歌詞も記憶にある。
 タイトルが思い出せなくて調べたら、「星の界(よ)」という難解な歌だった。
 コンクールに出た記憶もある。
 会場は忘れた。
 あまりいい結果ではなかった。
 ピアノを弾いた女の子が自分のミスのせいだといって泣いていた姿がよみがえってくる。
 
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■ 油せんべい

 
 宮古で一時期しきりに食べていたのに、あるときを境にぱたりと食べなくなり、いまになってときどき思い出しては食べたくなるものがある。
 いわば幻の、ふるさとの味。
 そのひとつに油せんべいがある。
 油せんべいを知っている宮古の人も少ないかもしれない。
 油せんべいが正式な商品名かどうかもおぼつかない。
 7センチ四方ほどの四角形をした、厚さ1ミリちょっとの揚げ煎餅だ。
 もう少しこまかくいうと――
 黒胡麻の粒が練りこんである。
 胡麻油だろうか、油で揚げてあるので真四角な形がいびつになっている。
 こんがりした揚げ加減と黒胡麻とがあいまって、色もあまりよくない。
 それが、香ばしくて、かりかりとして、うまかった。
 うちでは四角いブリキの1斗缶に入って台所に置いてあった。
 小学生のころだった。
 それから長いあいだ食べたことも見かけたこともない。
 どこで売っていたのかさえ覚えていない。
 ただ、いろいろ考えると、どうも中村屋だったような気がする。
 黒田町と新町の境をなす通りにある、昔ながらの古風な店構えの煎餅屋さんだ。
 あの界隈に住んでいたこともあって、子どものころ煎餅屋さんといえば烏賊煎餅の菅田と、この中村屋しか知らなかった。
 けむぼーさんのサイトのイラスト作品集「宮古の店こ屋さん」に中村屋の絵が掲げられた。
 掲示板に油せんべいのことを書き込んだら、知っているという。
 けむぼーさんは、こう書いていた。
 〈油せんべい、覚えています。
 最近食べたことはないけれど、黒ゴマの香ばしさと、カリントのような少し硬めの、油で揚げた甘いせんべい生地のハーモニーが実においしかった……
 また食べたいですね。
 私も中村屋せんべい店さんだと思います。〉
 知っている人がいて嬉しくなった。
 油せんべいをつくっていたのは、やはり中村屋かもしれないと意を強くもした。
 機会があったら中村屋を訪ねて確かめてみようと思う。
 
 ⇒ けむぼーイラスト作品集「宮古の店こ屋さん」
 
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■ 中村屋せんべい店

 
 懐かしい油せんべいの製造・販売元かもしれないと推定した中村屋せんべい店をインターネットで検索すると、いくつか出てくる。
 所書きは新町4番10号。
 新町と黒田町との境の通りだ。
 1933年(昭和8)の創業らしい。
 以来、伝統の手焼き製法を守っているという。
 小麦粉は北上産。
 南部小麦といわれる種類なのだろうか。
 製品には、いかせんべい・鮭せんべい・さくらせんべい・南部せんべい・あけがらすせんべい・しょうがせんべい・たまごせんべいなどが紹介されている。
 残念ながら、油せんべいの名はない。
 いかせんべい・南部せんべいは定番だ。
 あけがらすせんべいというのは、すりつぶした黒胡麻をまぶし、風味たっぷりで甘めの煎餅。
 さくらせんべいは、桜の花の形をした、ほどよい甘さの煎餅。
 その上品さが受けて市の特産〈21の逸品〉に選ばれている。
 2005年(平成17)に地場産品の普及・向上のため産業祭りを催したさいに公募した〈市民が選ぶ新宮古市特産品コンクール〉の認定品だ。
 中村屋はぼくの記憶のなかでは古風で地味な、時間のとまったおもむきの老舗だが、おっ、やってるな、という感じがする。
 鮭せんべいは冬季限定。
 鮭の身をこまかいチップ状にして乾燥し、生地にまぜて焼きあげたもの。
 南部せんべいの一種だ。
 けむぼーさんがイラスト作品集「宮古の店こ屋さん」に載せた中村屋せんべい店の添え書きには、鮭チップスというのがあった。
 知らないので〈鮭チップスというのも煎餅ですか?〉と掲示板に書きこんだら、写真を載せてくれた。
 跳びはねたような鮭を模した煎餅で、形がおもしろい。
 これは売れるんじゃないかな、と感じた。
 〈鮭の中骨を生地に練りこんで焼いたようです〉とけむぼーさんは書いている。
 宮古の煎餅というと烏賊の形をした烏賊せんべいが真っ先にあげられるけれど、鮭せんべいや鮭の形をした鮭チップスも宮古ならではの煎餅。
 宮古名物として、もっと広く知られればいいなと思う。
 
 ⇒ けむぼーオリジナル掲示板
 
 ⇒ 市民が選ぶ新宮古市特産品コンクール認定品一覧
 
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■ 中村屋のある通り

 
 通りに名前がないのは不便だ。
 新町と黒田町との接する通りを、みんなはなんと呼んでいるのだろう。
 東西に延びる横町通りと中央通りとを南北に結ぶ、いわゆる肋骨道、枝道――
 この道に面した中村屋せんべい店について書いたばかりなので、ここでは〈中村屋のある通り〉と呼んでおこう。
 (あとで知ったが、黒田通りと呼ぶらしい)
 この中村屋のある通りが中央通りと接続する西の角地に、公衆トイレがある。
 その下で旧山口川が暗渠に入っている。
 東の角地には岩田自転車屋があった。
 うちの自転車は、みなここのお世話になった。
 いまは大通一丁目のほうへ移っている。
 北に向かって歩くと、岩田自転車屋の並びに貸し本屋があった。
 足繁く通ったのに名前を忘れてしまった。
 その向かいあたりに坂富畳店がある。
 二幹線と交差する四つ辻の南西角地には、箱善米屋が健在だ。
 南東角地にはむかし、駄菓子屋があったような気がする。
 道を渡って、いま寿歯科という医院がある北西角地には、農業機械を扱う店があったと思う。
 昔むかしには判こ屋があった。
 横町の通りに向かって、なだらかな登り坂になっている。
 右手(東)に中村屋せんべい店がある。
 その北隣りは太鼓屋だった。
 いまは空き地になっている。
 さらに行くと西並びに路地が二本ある。
 まっすぐ西に折れる路地は行き止まり。
 南西方向に斜めに折れ、二幹線に戻る路地の中ほどには、父母が初めて建てる家を請け負ってくれた大工さんが住んでいた。
 いまもいるかもしれない。
 横町通りと接続する西角地には公衆トイレがあった。
 通りの両端に公衆トイレがあったのは、人通りの多い通りを結ぶ重要な肋骨道だったからだろう。
 中村屋のある通りが尽きて横町通りを渡ると、民家のあいだに路地がつづいている。
 この路地にも思い出が残っている。
 
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■ オシンザン

 
 中村屋せんべい店が面している道、つまり黒田町と新町の境をなす黒田通りは北端を横町通りに接している。
 その先(北)は民家のあいだを狭い路地が延びている。
 路地を入ると、昔、左側の民家の庭は生垣で囲まれていた。
 なんという木なのか、赤くて小さな甘い実がなった。
 板壁の倉庫のような建物に突きあたり、左へ曲がったところの山ぎわに、ほんの一時期、母の兄夫婦が住んでいた。
 山荘のおもむきもある閑静なたたずまいで、字〔あざな〕なのかどうか、この辺をタカチ(高地)と呼んでいた。
 オシンザンの真下にあたり、畑のあいだや急な山肌を神社まで登ってゆけた。
 オシンザンというのは神社の名で、あたり一帯の山をも指した。
 ただ、不思議なことに、オシンザンと思っていた山の中腹に、シンザン神社というのはない。
 あるのは石崎神社と羽黒神社だ。
 オシンザンを漢字でどう書くのかもわからない。
 御新山、御神山、あるいは御深山――
 オシンザンへ登るには、ふつう、もう少し東の路地から入る。
 路地の両側には民家がつづいている。
 奥のほうに小学時代と中学時代の先生の家があった。
 奥さんが宮小の先生、ご主人が一中の先生だった。
 ネット上のゼンリン地図で見ると、路地の奥まったあたりに深山荘という文字がある。
 アパートだろう。
 もしこれがオシンザンを忠実に反映した命名なら、オシンザンは御深山と書くことになる。
 深山荘のあたりは、広場というか、遊園地になっていた。
 砂場、木製のブランコ、シーソーなどの遊具が西側にあった。
 北西の隅から石段が山へ延び、登って左へ折れたさきに神社が建っていた。
 オシンザン一帯は、いい遊び場だった。
 どんな字を書くかなどと考えることもなく、ひたすら遊びまわっていた。
 
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■ 便所のことなど

 
 横町の公衆トイレのことはかすかに覚えている。
 トイレとは呼ばず、便所と言っていた。
 臭くて汚かった。
 大便所もあったかどうか記憶にない。
 あの公衆便所はいつなくなったのだろう。
 中央通りの公衆便所は、きれいな土蔵の外観に変わっている。
 旧山口川に垂れ流していたなどということはないだろうけれど、子どものときは、そんなふうに感じていた。
 宮古に公衆便所は少なかった。
 横町と中央通りの公衆便所以外に利用できたのは、宮古駅と県北バスの待合所の便所ぐらいだった。
 立ち小便をする姿を町なかでもよく見かけた。
 手ごろなセキ(ドブ)も多かった。
 男ばかりでなく、女でも、おばあちゃんたちはセキや木の電柱の陰などで、平気で?立ちしょんをしていた。
 さすがに大便は道端でできない。
 小学生のとき下校途中によく便意を催した。
 我慢して歩きながら、通学路に公衆便所があればと思った。
 学校の便所には入りたくなかった。
 床が腐り、糞壺に落ちそうな個室もあった。
 意地の悪い生徒に「ウンコたれったぁが!」と囃される怖れもある。
 慌てて家に帰り、便所に駆け込んだ。
 当時、うちは借家の長屋で、便所は共同だった。
 裏の細い通路の角にあり、通路に沿ってドブが流れていた。
 便所はもちろん木造。
 屋根の上に共同の物干し場があった。
 掃除はまあまあ行き届いていた。
 小便所ひとつ、大便所ふたつ。
 大便所にはスリッパがあり、履き物を外側に脱いで上がった。
 誰か入っていればすぐわかった。
 間仕切り板の上部が小さく四角に切りとられ、裸電球がついていた。
 曇りガラスの小窓もあり、開けると木の塀越しに東隣りの旅館の庭が見えた。
 竹で編んだ平たい籠に便所紙が入っていた。
 新聞紙を切ったものが置いてあった時期もある。
 手で揉んで使った。
 新聞紙のあとは灰色のぼこぼこした塵紙で、白い柔らかな紙になるのは後のこと。
 夜は行きたくなかった。
 冬は身を切るように寒い。
 夏は蛆が湧いた。
 湧いたというより、沸いた。
 糞尿が煮えくり返った。
 
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■ 先割れスプーン

 
 先割れスプーンを持っている。
 むかし学校の給食で自分が実際に使っていた先割れスプーン。
 本物である。
 上京するとき、便利なので手荷物に加えた。
 持っているだけでなく、いまも使っている。
 いったい何年使っているだろう。
 そう思って振り返ると、使い始めた時期をはっきり覚えていない。
 宮古小学校の時代だろうか。
 中学に進んでからだろうか。
 “犬食い”になるというので当時から不評だった。
 使わない学校が増えているらしい。
 そのうち本物は貴重品になる。
 学校給食のもう一つの象徴だった、べこべこのアルマイトの食器も記念に貰っておけばよかったと後悔している。
 当時の給食は、あまりうまいものではなかった――などと贅沢を言うとバチがあたる。
 共稼ぎで一日じゅう働いていた母親は、毎日弁当をつくらずに済んで、どんなに助かったかしれない。
 給食を残してはいけなかった。
 脱脂粉乳は、アルマイトの器を持ちあげて鼻をつまむ思いで飲みこんだ。
 ココア味は好きだった。
 汁物は、よくいえば具沢山、悪くいえばごちゃごちゃしたゴッタ煮。
 なにが入っているかわからない。
 これはいったいなんの肉だろうと首をかしげることも多かった。
 ひっつみもよく出た。
 よく粉が練れていなくて中がぼそぼそしているときがあった。
 カレーも粉っぽかったがうまかった。
 コッペパンにつけ、器をさらって食べた。
 ひっつみがカレーに入っていることもあった。
 小さなビニール袋入りのイチゴジャム、銀紙に包まれた四角いマーガリンやチョコバター?なども好きだった。
 いらないという人からは遠慮なく貰った。
 コッペパンは、食べないと腹がもたないので、よく食べた。
 宮小のときは昼休みや放課後、給食室に余りを貰いにいったりした。
 ときどき中庭の池の鯉に投げてやった。
 休んだ人の分はジャムやマーガリンなどといっしょに紙袋に入れて近所の子が帰りに届けた。
 このコッペパン、つくっていたのは日進堂だったろうか。
 
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■ 買い食いの味、パンの耳

 
 子どものころ、よく買い食いをした。
 自分の少ない小遣いから買う食べ物は、うちで与えられるおやつとは別の味がした。
 宮町にあった肉屋のコロッケ・串カツ、道路沿いに建っていた屋台風の店のお焼き、女学校踏切のわきの大判焼き、国際通りの大判焼き・おでん、大通のミヤコ饅頭などなど。
 これはおもに一中や宮高の時代だ。
 宮小のときは校門わきにあった永田商店や、どうしても名前が浮かんでこないけれど、旧八分団裏の駄菓子屋で買い食いをした。
 駄菓子もさまざまで目移りした。
 わずかな小遣いから捻出するのだから選ぶときは真剣だった。
 よく思い出すのが餡こ玉だ。
 大玉と小玉があった。
 小玉は直径15ミリぐらい、大玉は3センチぐらい。
 表面に水溶き砂糖が薄く塗られ、白く固まっていた。
 あまり甘くなくて、小玉なら何個でも食べられそうな気がした。
 水羊羹もあった。
 まるくて、ちょっと黄色っぽいゴムにくるまれていた。
 1ヵ所噛み切ると、くるりとゴムがめくれ、ぷるんとつやつやの中身が出てきた。
 これも、くどい甘さではなかった。
 パン屋でパンの耳も買った。
 白い紙袋に詰めて売られていて、食いでがあった。
 二幹線の西野屋はカステラやケーキ類の耳や屑が多く入っていたせいか、ちょっと高めだった気がする。
 宮小の近く、横町の通りを常安寺のほうへ行った南並びに、どこかのパン屋の工場があった。
 日進堂の工場だったかもしれない。
 値段は忘れたが駄菓子を買う感覚でパンの耳が買えた。
 紙袋を抱え、歩きながら食べ、校庭や空き地で食べた。
 紙袋を開けるまで中にどんな耳が入っているかわからないスリルがあった。
 菓子パンの屑が多いときはアタリ、少ないとスカ。
 サンドイッチをつくった残りなのだろう、食パンの耳だけというのもあった。
 これは、うちへ持ち帰って砂糖をつけて食べた。
 母親に油でカリカリに揚げてもらい、砂糖をまぶして食べるのもおいしかった。
 
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■ ぼくらの永田商店

 
 宮古小学校の正門わきに、永田商店があった。
 校章が刻まれた門柱の西側で、東側には消防の三分団がある。
 永田商店は宮小の生徒ご用達の店だった。
 豊富な品揃えに惹かれて学区の違う生徒も遠征してきていたようだ。
 店を閉じてしまったのは、いつごろだろう。
 建物はいまも残っている。(2006年4月現在)
 宮小の生徒数は去年が256人だったという。
 1年から6年までの全生徒数だ。
 そういう断り書きをつけたくなるほど数が減った。
 ぼくが通っていたころは2000人いた。
 校歌に“子等は二千を遠く越し”と歌っている。
 2番の歌詞だ。
 二千という数は原詞を書きかえたのだろう。
 土井晩翠が作詞した当時そんなにいたとは思えない。
 1837年(昭和12)ごろのことだ。
 “数は二十に及ばざる子等を初めて教えたる”と歌いだすから、明治の創立当初は20人ぐらいだった。
 それが100倍に増え、8分の1ほどに減った。
 子ども相手の商売は子どもの数に左右される。
 いつから店があったかわからないけれど、校門のわきでささやかな商売を営んでいた永田商店も生徒数の増減に盛衰をともにしたのかもしれない。
 記憶の深みから懐かしい永田商店を掘りおこしてみよう。
 間口はせいぜい1間半。
 奥行きも同じくらいの小さな店だった。
 正面は木の枠に透明なガラスがはめられた引き戸。
 開けて入ると土間の中央に盤台があった。
 駄菓子や駄玩具などが無数に置かれていた。
 天井からも商品がぶら下がっていた。
 左側に文房具の入ったガラスケースがあったような気がする。
 奥の、向かって左半分に帳面類が並び、右半分から側面の棚には貸し本が並んでいた。
 出入口を入って右手にアイス類の冷凍庫があった。
 裏が住まいで、おじさんかおばさんが店の左隅から出てきた……
 その顔や姿を思い出そうとして、どうしても浮かんでこない。
 店内の様子も間違って覚えているかもしれない。
 あんなに馴染んだ店なのに、中学へ進んで以来、足を踏み入れたことはなかった。
 ぼくの永田商店は、遠い記憶の彼方にかすんでしまった。
 
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■ 駄菓子・駄玩具

 
 宮古小学校の生徒ご用達の店、永田商店。
 そこには帳面や下敷き、消しゴム、竹製の物差し、三角定規、分度器などの文房具も置いてあった。
 けれど、子どもの目は、もっぱら駄菓子や駄玩具に向けられた。
 ぼくが小学生のとき、どんな駄菓子・駄玩具を買っていたか。
 思い出せるだけ並べてみよう。
 時代はだいたい1960年代半ばである。
 まずは駄玩具系――
 そんなことばがあるかどうかわからない。
 それでも駄菓子があるのだから駄玩具と呼んでもいい。
 子どもがお小遣いで買えるような安いおもちゃ類のことだ。
 舐めって腕や帳面に転写する写し絵、漫画の登場人物のシール、ワッペン、ビー玉、円や四角のバッタ、コマ、凧、日光写真、砂鉄をとるU字型や棒型の磁石、厚紙製のグライダー、竹ひご飛行機、パチンコ、水鉄砲、銀弾ピストル、撃鉄で火薬を鳴らす拳銃、花火はおもに2B弾、リリアン、夜光塗料を塗った人形、ゴムボール、ゴム製の蛇、ローソクで走るポンポン蒸気、知恵の輪、魚をとる手網、捕虫網、虫籠、建て前は文具の匂いつき消しゴムなどなど。
 つぎは駄菓子系――
 のしいか、いかげそ、麩菓子の黒棒、麦チョコ、おこし、アンコ玉、水羊羹、飴玉は特に黒玉、橙色の円いタコ煎餅、食べるラムネに飲むラムネ、小袋入りの甘納豆、オレンジ色した丸い風船ガム、ストローに入った色つきの硬い寒天、試験管のような透明容器に入った色つき軟らか寒天、ビニールに入ったジュース棒、金貨銀貨型したチョコレート、野球の硬球を模したチョコボール、閉じた傘型チョコ、煙草に似せたシガレットガム、即席汁粉、おまけの入ったグリコキャラメル、赤と白のさいころキャラメル、薄荷パイプ、味のついた紙などなど。
 舐めりクジをはじめ駄玩具・駄菓子を景品に籤もいろいろ。
 当たりはまれでスカばかり。
 もったいなくて熱中できなかった。
 こうして並べてみると宮古ならではというものはない。
 みな中央から来たか、地方の製造会社が都会の子どもの流行をうけて作ったものばかり。
 戦後ベビーブームと高度経済成長で駄菓子・駄玩具も花盛りの時を迎え、そのなかにぼくらの永田商店もあった。
 
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■ 火の見櫓のカラスの巣

 
 もとの八分団の火の見櫓にカラスが巣をかけた。
 ちょっと前から知ってはいたけれど、最近けむぼーさんのサイトの掲示板に写真が載って感慨を新たにした。
 カラスはすごいなと。
 写真は、けむぼーさんの息子さんが撮った。
 火の見櫓のてっぺんまで登って撮ったものがあった。
 息子さんもすごい、よく登った。
 半鐘の円(まる)い屋根の下にかかった巣の材料は針金である。
 クリーニング屋さんのハンガーが多いようだ。
 洗濯バサミがついているのもある。
 鉄筋・円屋根のモダンな住まい――
 眺めていると、ふと詩のようなことばが浮かんできた。
 仮に「カラスの巣」とタイトルをつけてメモ帳に書きつけた。
   旧八幡通りの旧八分団の 火の見櫓のてっぺんの
   半鐘 円屋根 針金の 巣づくりしたのはカラスです
   八幡山から引っ越して 町のカラスになったのに
   見上げてみればいつも留守
   かあかあカラスからからカラ巣
 カラスの語源は知らないけれど、空(から)の巣ではないかという思いがよぎる。
 昼間は忙しく出かけていて巣に戻ることはない。
 大きなカラの巣ばかりが人里で目立つ。
 旧八幡通りは、いまの大通り。
 旧八分団は大通りの北の並びで、3丁目のバス停の前だった。
 住所でいえば大通4丁目3番10号になる。
 いまは一本南の道の大通3丁目5番26号に移っている。
 古い建物は残り、化粧直しして大衆酒場の養老乃滝になった。
 この店には入ったことがある。
 その後 Farmers' Factry というケーキ類のフランチャイズ・チェーン店に変わったが閉店したようだ。
 火の見櫓は変わらずに建っている。
 小学生のころ途中まで登ってみたことがある。
 鉄骨をよじ登って高い位置にある梯子にとりついた。
 てっぺんの火の見台の底には押し上げ式の鉄扉があったような気がする。
 よくホースが干してあった。
 てっぺんの手すりから何本も垂れ下がっていた。(2006.4.15)
 
 ⇒ けむぼー温泉の写真貼り付け用けむぼーど
 
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■ コーロコロコロ

 
 前に掲げた「カラスの巣」ではカラスが八幡山から引っ越してきたことにしてしまった。
 小山田から来たのかもしれないし、舘合の一石さんや山口の黒森さま、あるいは常安寺の裏山かもしれない。
 それでも宮古のカラスといえば八幡山を連想してしまう。
 八幡さまの森にはカラスが多かった。
 ふもとの逆さイチョウにもいた。
 校庭の生徒めがけて急降下し、しきりに脅かす一羽を学校が猟友会の人に頼んで退治してもらった。
 八幡さまの裏は、山口川の河口あたりにカラスがたむろしていて子供心にちょっと不気味な感じを与えるところでもあった。
 宮古のカラスにまつわる話をいくつか書こう。
 コーロコロという小正月の風習が宮古にあるという。
 1月15日の夜か翌朝、子どもたちがコーロコロコロとカラスの声をまねて呼びながら、賽の目に切った餅や水木団子の餅をまく。
 食べものをやるから田畑を荒らすなよ、という願いをこめて。
 水木団子は、小さく丸めて赤・緑・黄などに染めた餅をミズキの枝に差して飾り、五穀豊穣を願う縁起もの。
 こんな歌もある。
  水木団子差ぁせ 正月が来たが
  あしたは団子餅 カラスも喜ぶ
  コーロ コロコロ
  カァラスカラス 小豆餅けっけぇ
  飛んでこう 飛んでこう
 子どもの痛いところをさすりながら「痛いの痛いの、飛んでけぇ!」と唱えるまじないごとがある。
 宮古ではこう言ったらしい。
  いんぼうとうれ からぐまんぜい
  ハッタギ跳ねっと カラスが喜ぶ
  いでぇどごいでぇどご 向げぇ山さ飛んでげぇ
 “いんぼうとうれ からぐまんぜい”は意味がわからない。
 ハッタギはバッタ。
 向げぇ山の代表は月山だ。
 ついでに――
 菅公学生服の菱型をしたホウロウ看板を宮古の町でも見かけた。
 菅公が菅原道真だとは知らなかった。
 真っ黒い学生服だからカラスのカン公かと永いあいだ思いこんでいた。                    (2006.4.16)
 
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