三陸宮古なんだりかんだり
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第 1 部
100話 + 投稿4話
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ふるさと・オン・ウェブ
ふるさと宮古
インターネットで帰郷
八幡沖
カトリック幼稚園
カラミ
ノデ山・ノド山
記憶喪失?
ミヤチョウ!?
2つの宮古
3つの宮古とその語源
宮古弁の訳詩
宮古弁訳「あがとんぼ」の原詩
ウミネコとカモメ
宮古八景
まぼろしの宮古八景
臼木青嵐
千徳民衆駅
緑に埋もれた千徳城址
千徳城哀話
岩船の山の奥
山奥のソンチョ
本州最東端訪問証明書
父を送る
常安寺の坂
浄土ヶ浜道で遭難しかけた話
浄土ヶ浜の穴
潮吹穴
ホラ吹き穴
むかしの小山田橋
八幡河原の繰り舟
宮古の正しいお盆
2B弾
八幡通り
宮高の歴史
即席ラーメン記念日
宮古版きょうはなんの日?
宮古のウニ
港町ブルース
八幡沖の“いか最中” 投稿 * うらら
旧山口川を散歩する
山口川をさかのぼる
山口の慈眼寺
開かずの寄生木記念館
「寄生木」あらすじ
舘合の一石さん
経塚の碑の案内板
山口−舘合−横山
舘間(合)山
宮古公園地
私家版「寄生木のふるさと」
宮古の町は海だった
オランダ島と女郎島
女郎島の名は消えた
映画教室
浄土ヶ浜の、中の浜キャンプ場
崎山の、中の浜キャンプ場
閉伊の語源
念仏峠と山姥
佐羽根のやまんば
亀岳中学校が消える
馬場の機織り滝
義経の草履
おがんぶづ
学校の下の骨
石割り白樺
むかしの遠足
雄又峠
ボンネット・トラック 投稿 * M改めJAN
お念仏さん
いだこさん
トウキビ
大判焼き・小判焼き
コロッケ・串カツ
宮小
一中
宮高時代
ミントン・ハウス
不思議な地名
市内転々
新町
啄木の宮古寄港
啄木の日記から
むかしの鍬ヶ崎
消えた砂浜
磯鶏村小学校
女啄木−西塔幸子
チョウセンアカシジミ 投稿 * うらら
日出島
クロコシジロウミツバメ
山田煎餅
いか煎餅
ラサの煙突
鍬ヶ崎の“遺跡”消滅
田老鉱山
うみねこパン
日立浜の青年漁師
漁師ことば
スンナ、モウガナ
角力浜の謎
角力浜−父の夢の場所 投稿 * うらら
鍬ヶ崎
干拓地没収事件
「沢内風土記」の著者

 
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■ ふるさと・オン・ウェブ

 
 「インターネットは情報の宝庫だ!」
 この事実を実感したのは生まれ故郷を調べているときだった。
 ふるさと宮古――岩手県宮古市を離れて、ほぼ30年がたつ。
 その間あまり帰省していない。
 だからこそなのか、宮古がこのごろむやみに懐かしい。
 懐かしくても身のまわりには宮古をしのぶよすがになるものがない。
 参考文献はわずかしか持っていない。
 図書館や本屋に行って新たにコツコツ宮古関係の本を捜しだすのも手間ひまがかかる。
 そう思っていたとき閃いた。
 「インターネットという手があるじゃないか!」
 ――しかし、じつをいえば、あまり期待していなかった。
 宮古に関するコンテンツ、つまり宮古についての内容や情報を含んでいるホームページは少ないだろう、あってもたいしたものじゃないだろうと。
 ところが、実際に Google などのサーチエンジンに〈宮古市〉と打ちこんで検索してみると、かなりの数のホームページがヒットする。
 市役所などの公的ホームページや「知る知る宮古」という物知りガイド、観光協会、タウン誌「月刊みやこわが町」といった各種のメディアのホームページに加えて、宮古発の商店や個人のサイトも多い。
 個人のサイトでは宮古以外の地域に住んでいる宮古出身者が発信しているものもある。
 そのほかに掲示板も、言葉だけのや画像を主にしたものなど、いろいろある。
 地図サイトも利用価値が高い。
 これらをこまめに巡り歩けば知りたいと思っていたことの多くがわかる。
 ぼくの宮古はウェッブ上にあったと思わず小躍りしたくなった。
 以来、宮古にかかわるウェッブ・サイトを訪ねる日々がつづいている。
 〈ふるさと・オン・ウェッブ〉な日々が――
 
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■ ふるさと宮古

 
 岩手県宮古市――
 陸中海岸国立公園を代表する、浄土ヶ浜のある町。
 変化に富んだ景勝をみせるリアス海岸。
 その三陸海岸のほぼ中央に位置する、本州最東端の町。
 東には、荒々しい太平洋と月山がそびえる重茂〔おもえ〕半島にいだかれて、波静かな宮古湾が広がる。
 西には北上山地が層々とつらなり、最高峰の早池峰を望む。
 その早池峰に源を発した母なる閉伊川の滔々とした流れが西から東へ市街をつらぬいて太平洋へ至る。
 南部鼻曲がり鮭の本場として知られる津軽石川は南から宮古湾にそそぐ。
 海・山・川の自然がすぐそばにあり、その幸に恵まれている。
 県都の盛岡とはJR山田線と国道106号で結ばれている。
 所要時間は2時間ちょっとだ。
 JR山田線は釜石市へ延び、さらに三陸鉄道南リアス線は大船渡市の盛〔さかり〕駅まで南下する。
 北の青森県八戸市とは三陸鉄道北リアス線で久慈市へ、その先はJR八戸線で結ばれる。
 浜街道の国道45号は三陸沿岸を南北に縦断している。
 宮古市のホームページを見た。
 花はハマギク、木はアカマツ、鳥はウミネコ、魚はサケが市のシンボル。
 2003年(平成15)の最高気温が33・1度、最低気温はマイナス9度、年平均気温10度。
 梅雨は肌寒いくらいに冷えることもあり、夏は涼しく、冬は雪が少ない。
 面積は339平方キロメートル、人口5万3834人。
 2005年(平成17)6月6日に、隣接する下閉伊郡の田老町や新里村と合併する計画が進行中だ。
 実現すれば面積696・76平方キロメートル、人口は6万3223人に増えるという。
 この宮古に生まれ、18歳まで住んだ。
 たまに帰省することはあっても上京したままUターンすることなく関東に住み着いてしまった。
 帰って宮古に住みたいと思う。
 当面移り住むことはないだろうとも思う。
 揺れる思いのなかで望郷の念は深まってゆく。
 
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■ インターネットで帰郷

 
 東北自動車道や東北新幹線の開通は、関東と岩手との時間・距離を縮めた。
 それでも、自分の場合にかぎっていえば、生まれ故郷へ足を運ぶ頻度が高くなったわけではなかった。
 上京して年々遠くなるばかりだった宮古が急に近くなったのは、インターネットのおかげだ。
 1年半ほどまえ、自分のホームページをつくりたくてパソコンを買い換えた。
 同時に、いろいろなサイトを巡り歩いた。
 ネットサーフィンは漫然とやっていると行き詰まる。
 こんなコンテンツ(内容)を見たいという目的意識がないと長くは続かない。
 ぼくの意識に、〈宮古〉というテーマが自然に浮かんできた。
 集中的に生まれ故郷にかかわるホームページを巡った。
 そして、新聞やテレビ、ラジオのニュースよりも、量的に、はるかに多く宮古の情報がネット上にあることに気づいた。
 いままで知らなかった多くの事実を知る手段をものにしたうえ、あえていえば、ふるさとに帰ったような気分を味わえる。
 ヴァーチャル・リアリティとはこれなのかと思った。
 最近のふるさとの動きを知るとともに、それ以上に、かつて住んでいた時代の記憶が猛烈によみがえってきた。
 手持ちの資料とそれらをつきあわせて年表や事典をつくり、自分のホームページのコンテンツにした。
 そのうち、ネット上にある情報は、一般的なこと、いま現在のことについてはともかく、過去にさかのぼったり、少し突っこんで調べようとすると壁にぶつかってしまうことにも気づいた。
 やはり、基本的な資料が必要だ。
 インターネットはこの資料探しにも力を発揮した。
 けれど、インターネットという情報の宝庫、便利な道具が教えてくれたいちばん大切なことは、情報だけではだめだということだった。
 実際に宮古の大地を踏みしめ、宮古の空気を吸い、宮古の人に会うことが必要なんだと気づかされたのだ。
 
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■ 八幡沖

 
 八幡沖〔はちまんおき〕というところで、ぼくは生まれたことになっている。
 戸籍抄本に、そう記載されているからだ。
 〈宮古市宮古第六地割字〔あざ〕八幡沖四拾八番地の壱で出生〉と。
 戸籍抄本を見て「へ〜」とうなった。
 八幡沖とは、いったいどこだろう。
 住居表示の変更で八幡沖という地名はなくなっている。
 手持ちの資料やインターネットで探しても、八幡沖が現在のどこにあたるか、さっぱりわからない。
 さて困った。
 八幡沖の八幡は横山八幡宮と考えて間違いない。
 沖とはなにか。
 海の上だった?
 まさか!
 辞書を引くと、海や湖に限らず、陸地でも、高台から見て平坦で広い低地を沖と呼ぶと書いてある。
 すると、八幡山から見晴らして、閉伊川の北、旧山口川の南、つまり2本の川のあいだに広がる一帯を八幡沖と呼んだのだろう。
 八幡さまの山下一帯は八幡前と呼ばれた。
 その八幡前と、昔から町名が変わっていない向町〔むかいまち〕を除けば、末広町、大通〔おおどおり〕1丁目から4丁目、南町〔みなみまち〕にかけての一帯にあたる。
 そのなかの大通りは、かつて八幡通りと呼ばれた。
 八幡沖とは八幡通りに沿った地域にちがいない。
 近くに八幡沖の名が1ヵ所残っている。
 大通3丁目と南町の境、山田線にある八幡沖踏切だ。
 いよいよ八幡沖のイメージが浮かび上がってきたところで母親に問い合わせてみた。
 すると、おまえの生まれたのは黒田町だと言う。
 黒田町も古い町名で、しかも旧山口川の北だ。
 ぼくが思い描いた八幡沖の輪郭からははずれている。
 出生届は父親が出したはずだからおやじに聞けばいい。
 そう思ったけれど、肝腎のおやじさんはすでに耄碌している。
 古い記憶を呼び覚ますことは、もうない。
 
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■ カトリック幼稚園

 
 横山八幡宮が建つ八幡山の東麓に広がる一帯は古い町で、かつて八幡前と呼ばれた。
 1965年(昭和40)に新しい住居表示が実施されて宮町〔みやまち〕1丁目・2丁目になった。
 さらに国道106号のバイパスが開通して新しい町並みができ、山口川から西に宮町3丁目・4丁目という住居表示が1971年(昭和46)になって実施された。
 八幡山の北につらなっていたノデ山は、バイパスを通すためにばっさり削られてしまった。
 いい遊び場だった。
 母校の宮高(県立宮古高等学校)と一中(宮古市立第一中学校)は宮町2丁目にある。
 6年間通った懐かしい景色も、やはりバイパスの開通と区画整理でおもむきがすっかり変わった。
 それ以前にも小百合〔さゆり〕幼稚園に1年間通った。
 宮町1丁目にあり、カトリック教会に併設されている。
 小百合幼稚園と呼ぶより、カトリック幼稚園と呼んでいた。
 通園には、八幡通りを西へ歩き、宮古駅の前を通って、国鉄の官舎と線路に挟まれた小道を抜けた。
 女学校踏切を渡ると購買部のある道から教会脇の路地に入った。
 教会や幼稚園の敷地は生垣で囲まれ、その外側に板を組んだ垣根があったような気がする。
 板の頭は三角になっていた。
 東側に門があった。
 門を入ると、右手に生垣で囲まれた鐘楼があり、礼拝堂がある。
 左手には細長い池のある花壇が延びていて、その先に園長先生の住まいがあった。
 シュミドリン神父というドイツ人のような名前の園長先生はスイスから来たひとだった。
 詰め襟の黒い長衣を着て、胸に十字架をさげていた。
 教室は西側にあり、北側に職員棟があった。
 担任はカネコ・キン子先生という不思議な名前だったような記憶が残っている。
 これはなにかの勘違いかもしれない。
 
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■ カラミ

 
 ノデ山の下に、かつてラサの社宅が整然と建っていた。
 八幡さまの北につらなっていた丘陵の東にあたる。
 ラサといっても通じない宮古人が増えたことだろう。
 小山田にあったラサ工業――
 大煙突が象徴するように、かつて宮古の繁栄の一翼をになう大きな存在だった。
 ノデ山下の社宅は、そのラサの重役クラスの人たちが入るところだったらしい。
 小学生時代に、ひとりの転校生と仲良くなった。
 たしか馬杉ジュン君といった。
 1年か2年くらいで、またどこかへ転校していったのだと思う。
 気がついたら、いなくなっていた。
 彼がこの社宅に住んでいて、ときどき遊びに行った。
 上品なおかあさんが盆に載せて、おやつを出してくれた。
 必ずジュースやミルクがついていた。
 ミニチュアカーやGIジョー、レゴ・ブロックといったおもちゃを、たくさん持っていた。
 建物自体は、それほどぜいたくな造りではなかったと思う。
 ただ、広くて落ちついた雰囲気に満ちていた。
 塀や生垣に囲まれた芝生の広い庭があった。
 門から玄関口までのあいだには白い砂利が敷かれていた。
 その白い砂利と対をなすように、黒く光る粗い砂が、まわりの道のところどころに敷かれていた。
 この黒い砂は、カラミとか焼き粉〔こ〕といって、鉱石を製錬したあとに残るカスだという。
 製錬所から運んできたものなのだろう、ぬかるみ対策にはうってつけだった。
 ノデ山下以外にも、ラサの社宅のある付近の道や空き地などで、よく見かけた。
 五月町のほうにもラサの社宅はあった。
 いまの町なかは舗装が行きとどき、ラサの製錬所はない。
 カラミを見かけることも、もうなくなった。
 
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■ ノデ山・ノド山

 
 かつて八幡山の北側に小高い丘が連なっていた。
 ゴルフ練習用のネットがあったときもあった。
 たまにデートのカップルらしい姿もみかけた。
 子どものかっこうの遊び場だった。
 秘密基地ごっこ、崖すべり、かくれんぼ、冬はソリや竹スキー、雪合戦……
 国道106号のバイパスを通すために削られてしまったこの丘を、ノデヤマと呼んでいた。
 漢字では野出山か野手山とでも書くのだろうと思っていた。
 最近、ノデ山のある宮町〔みやまち〕生まれの先輩と宮古の話をした。
 たまたまノデ山の話題になったら、
 「ノデ山ではなく、ノド山だよ。
 能登半島の能登と書く」
 と言って譲らない。
 ウ〜ンとうなってしまった。
 地元の人間の言葉だから無視はできない。
 しかし、ノデ山と呼んでいた宮古人も多いのじゃないかと思う。
 そのあと先輩と会う機会があったとき、宮町1丁目・2丁目の町内会が出した「みやまち」という小冊子を借してくれた。
 なかにノド山の名の由来譚が出ているので要点を紹介しておく。
 ――1882年(明治15)ごろ、ひとりの若者が旅をして宮古に流れ着いた。
 体が不自由で、どうやら兵役を逃れてきたらしい。
 新町〔あらまち〕で米屋をいとなむ伊東という古い家に来て、「働かせてほしい」と言う。
 そこで、八幡山に連なる丘の畑で農作業をさせた。
 若者は太田吉松と名のったけれど、石川県の能登から来たというのでノトさんと呼ばれた。
 やがて、ノトさんが働いていた畑のある丘もノト山、訛ってノド山と呼ばれるようになった、と。
 ノデ山というのは、このノド山がさらに訛ったものだったのだろうか。
 
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■ 記憶喪失?

 
 中学3年のときだった。
 昼の休み時間に学校の廊下で、同級生に突然うしろから肩へかつぎあげられて落ち、後頭部を強く打って意識を失った。
 いつのまにか保健室にかつぎこまれていた。
 意識を回復したとき、とくに異状はなかったので、そのまま家に帰った。
 親にも報告しなかった。
 しかし、どうやらこのとき、記憶の一部をガッポリと失ったような気がする。
 どうもそれ以前のことが、よく思い出せないのだ。
 物覚えも悪くなった。
 いや、これは生まれつき……
 一中(宮古第一中学校)の古びた木造の校舎で、廊下ももちろん木造だったから、頭を打っても鉄筋コンクリートよりはましだった。
 この校舎は本校舎と呼んでいたような覚えがある。
 1年のときは本校舎の北側、八幡さまの参道側のブロック校舎の2階。
 ブロック校舎というのはコンクリートブロックを積み上げてつくった校舎という意味なのだろう。
 2年のときは本校舎の南側、校庭側の木造新校舎の2階だった。
 南校舎と呼んでいただろうか。
 3年の教室は中央の本校舎で、東の階段をのぼった2階の、すぐ左手だったと思う。
 階段の右手にも教室がひとつあったような気がする。
 このへんの記憶もオボロゲだ。
 自分ながら驚くのは、3年のときの担任の教師や級友の、顔も名前も思い出せないことだ。
 だれにかつぎあげられたのかも記憶に残っていない。
 校歌さえ忘れている。
 思い出せなくても、日常生活のうえで別に困ることはない。
 ただ、宮古が懐かしくなり、改めていろいろ調べてみようとしているいま、自分自身の昔が思い出せないというのは歯がゆくて仕方がない。
 隔靴掻痒というのだろうか。
 たとえば記憶をたぐりよせる網の目の真ん中が、すっぽり抜けている感じだ。
 卒業アルバムでもあればいいのだが持っていない。
 最近聞いた話では、どうやら当時の一中に卒業アルバムはなかったらしい。
 
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■ ミヤチョウ!?

 
 分厚い地名辞典が手もとにある。
 角川書店の「日本地名大辞典3 岩手県」だ。
 以前、これの地名編で宮町を調べたら、みつからない。
 おかしいなと思ってパラパラめくってみた。
 すると、読みが〈みやまち〉ではなく、その前のほうのページに、なんと〈みやちょう〉となって出ている。
 権威あるはずの大辞典がこんな間違いを犯している、宮町は〈みやまち〉である、と憤慨した。
 先日、宮町1丁目・2丁目町内会が1991年(平成3)に出した小冊子を手にする機会があった。
 タイトルは「みやまち」だ。
 目を通してみた。
 「町内のあゆみ」という年表に、1977年(昭和52)2月14日、市長に対して町名変更を陳情した、という妙な記事がある。
 いや、町名や漢字の変更ではなくて、〈みやちょう〉を〈みやまち〉に読み方を変えてくれという陳情だった。
 あとのほうには「〈みやまち〉という名称こそふさわしい」という文章も載っている。
 これを読むと――
 1965年(昭和40)に八幡前に住居表示が実施されて宮町1丁目・2丁目となった。
 このとき、市の例規集に振り仮名はなかった。
 市民・住民は〈みやまち〉と読み、そう呼んだ。
 ところが市のほうでは、いつのまにやら〈みやちょう〉としてしまった。
 そこで読み方の変更を陳情する破目になった、ということらしい。
 町の人たちの心情は果たして市に通じたのだろうか?
 陳情は1977年のことだった。
 1985年(昭和60)発行の地名大辞典には〈みやちょう〉の読みで出ている。
 これを勘案してみると、どうも陳情は成功しなかったのではないだろうか。
 
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■ 2つの宮古

 
 宮古市のほかにも宮古という地名がある。
 沖縄県の宮古が、すぐに思い浮かぶ。
 宮古群島があり、そのなかに宮古島がある。
 行政上は沖縄県宮古支庁で、平良(ひらら)市と宮古郡の城辺(ぐすくべ)町・伊良部(いらぶ)町・下地(しもじ)町・上野(うえの)村・多良間(たらま)村が属している。
 この1市3町2村が2005年(平成17)6月2日に合併し、新たに宮古市が誕生するというニュースが伝えられた。
 ただし、2004年7月31日の時点では、多良間村が加わるかどうか、まだ決まっていないようだし、合併計画自体、実現するのかどうかは先のことでわからない。
 宮古市という名称の先輩である岩手の宮古市では、市民のあいだにちょっと動揺が走ったようだ。
 宮古関係のBBS(掲示板)などにさまざまな反応が書き込まれていた。
 宮古郡の多良間村とわが町宮古とのあいだには、古くからつながりがある。
 江戸時代、みちのく宮古に下町善兵衛という豪商がいた。
 その所有する商船善宝丸が江戸交易の帰りに台風にあい、76日ものあいだ漂流して1859年(安政6)1月に多良間島へ漂着した。
 多良間の島民は2ヵ月にわたって水夫たちを手厚く介護し、宮古島へ送り届け、全員が奥州宮古に帰郷することができた。
 この史実を宮古の郷土史家が発見したのは1974年(昭和49)のことだという。
 宮古市は1976年11月に多良間村に報恩の碑を建立し、小中学生の交流学習が始まった。
 1996年(平成8)2月には、交流20年を機に姉妹市村を締結し、それを記念する碑を翌97年6月に市役所前に建立した。
 遠い昔のひとつの出来事によって、遠い北の宮古市と南の多良間村とが結びつく。
 その多良間村が新たに生まれる沖縄県宮古市を構成する一員となるかもしれない――
 これも不思議な縁というものだろう。
 
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■ 3つの宮古とその語源

 
 わが町宮古と沖縄県の宮古のほかに、もうひとつ宮古を名のる地域がある。
 3つめの宮古だ。
 福島県の北西部、耶麻郡山都町(やまとまち)の宮古地区。
 山都町のホームページなどを見ると、山あいに開けた集落で、〈宮古蕎麦〉を全国ブランドとして売り込みつつあるようだ。
 大字・小字を含めれば、全国にはまだ宮古という地名があるにちがいない。
 宮古の語源を調べてみた。
 福島県山都町の宮古の語源はわからなかった。
 沖縄の宮古は、「元史」温州府誌の1317年に〈密牙古〉と出てくるのが最も古い例だという。
 「元史」は中国の紀伝体の歴史書。
 密牙古はミャーク、ミヤコと読む。
 ミャークは方言で、この世を意味する。
 宮古という字のもとは〈宮処〉で、都のように豊かなところという意味が込められているという。
 わが町宮古の語源には、いくつか説がある。
 1 閉伊地方の文化・経済の中心地である都→宮古
 2 租税として昆布を納めた屯倉〔みやけ〕があったところからミヤケ→ミヤコ→宮古
 3 横山八幡宮を祀るミヤ(宮)コ(処)→宮古
 ちなみに、旧郷社の横山八幡宮に伝わる話を掲げておこう。
 1006年(寛弘3)に横山の神官が神歌によって阿波の鳴戸の激浪を鎮めた。
 その功績によって時の天皇から都と同訓の宮古と名のることを許された、という。
 古い話はともかく、宮古という名前には深い愛着がある。
 沖縄でも山都町でも変わりはない。
 どこかひとつの地域が宮古の名を独占することはできない。
 沖縄に宮古市が誕生するのをいいきっかけに、3つの宮古は姉妹地域の縁組を結んだらどうだろう。
 一歩進めて、宮古サミットを順繰りに催し、協力して宮古の名前を全国に売りこんでもいい。
 
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■ 宮古弁の訳詩

 
 ある人に自作の詩を宮古弁に訳してくれるよう頼まれた。
 ほぼ直訳で、つぎのような詩になった。
 むりやり宮古弁的な訛りに置き換えたような箇所もある。
 宮古弁ではなんというのだろうと考えてわからず、そのままにしたところもある。
 おかしいところは教えてください。
 
   あがとんぼ
 
 あがとんぼを煎ずで飲むど風邪ぇ引がねぇ――
 だれにおせえられたもんだぁが
 崩れだコンクリートの壁っこのある焼げあどで
 いっぺえ捕ったのを おべえでんが
 
 ガラスだりブリギだりの欠げらぁ掘っくりけえすては
 小銭っこ稼えでだったおらがどう
 あの日 空地(あぎづ)っつぅ空地には
 あがとんぼが いっぺぇいだったもんだ
 
 つやめいだおっぽ
 きらめぐはねっこ
 むしった肉は
 おにやんまば喜ごばせで
 
 おどおを焼ぎ おがあを焼いだ炎が
 けえってきたったような夕焼げだったぁ
 
 ふぐろさ詰めだもんだあが
 かごさ入れだもんだあが
 いっぺえ捕ったあがとんぼ
 どうすたったぁが
 おべえではいんねぇどもさ
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■ 宮古弁訳「あがとんぼ」の原詩

 
 宮古弁に訳した「あがとんぼ」の原詩の作者は、ホームページの「宮古弁小辞典」などを見てメールをくださった未知の方だ。
 方言による詩集を作りたいという。
 プライベートなことはなにもわからない。
 ネット上で知り合った人とは、そういうことがよく起こる。
 
   あかとんぼ       大橋晴夫

  あかとんぼを煎じて飲むと
  かぜをひかない――
  くずれおちた
  コンクリートの壁のあるやけあとで
  だれに教えられたのか
  捕みあさったのを覚えている
 
  ガラスやブリキの破片を掘り返しては
  あめ代をかせいでいた僕ら
  あの日あき地というあき地には
  あかとんぼだけが豊富だった
 
  つやのあるしっぽ
  きらめくはね
  むしりとったにくは
  おにやんまをよろこばせ
  父をやき母をやいた炎が
  還ってきたゆうやけ
 
  ふくろにつめたろうか
  それともかごにいれたろうか
  捕みあさったあかとんぼの始末を
  覚えてはいない
 
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■ ウミネコとカモメ

 
 ウミネコは閉伊川の河口や岸壁に行けば、いつでも見られる。
 名前のとおり、「ミャー、ミャーォ」と猫のように鳴く。
 しかし目の前に飛んできたやつが、うまい具合に「ミャー、ミャーォ」と鳴いてくれるとは限らない。
 カモメといっしょに群れていることが多く、ウミネコだと思ってもそれはカモメかもしれない。
 カモメはどう鳴くか。
 アー、アー、クワァー、クワァー、キャー、キャー……
 このウミネコとカモメの鳴き声、実際に聴いてみると文字で見るほどには明瞭に聴き分けられないような気がするが、どうだろう?
 鳴き声で聴き分けられないとすれば、外見で見分けるしかない。
 ウミネコとカモメの外見上の違いは、ひょっとしたら、宮古の人間でもあまりはっきりは知らないかもしれない。
 自分自身、こんど調べてみるまでは知らなかった。
 羽根の色で見分ける方法がある。
 ウミネコは Black-tailed Gull というのが英語名で、尾羽の全体が黒い。
 翼の先端部も黒い。
 カモメは黒くない。
 くちばしの模様で見分ける。
 ウミネコは先端に黒と赤の斑点がある。
 カモメは下のくちばしに赤い斑点がある
 大きさで見分ける。
 ウミネコの成鳥は長さが45センチほど。
 カモメは60センチほど。
 ウミネコのほうが小さい。
 脚の色で見分ける。
 黄色がウミネコ、ピンクがカモメ。
 さあ、これだけ違いを覚えれば簡単に見分けられるぞ、ウミネコでもなんでも飛んでこい!……
 ちなみに、カモメ科の鳥は世界に47種ほどいて、そのうち日本で繁殖するのはウミネコとオオセグロカモメだけとのこと。
 宮古でカモメといえば、オオセグロカモメ(大背黒鴎)をさす場合が多いのだろう。
 最近になって、くちばしと脚がオレンジ色で、ひとまわり小さいユリカモメの姿もよく見かけるようになったと聞く。
 ユリカモメの別名はミヤコドリ(都鳥)。
 宮古にいるなら、宮古鳥だろうか。
 
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■ 宮古八景

 
 八景は、すぐれた景色を八つまとめてあげたもの。
 中国の瀟湘(しょうしょう)八景が起源とされる。
 日本では、近江八景・金沢八景などが知られている。
 宮古にも八景がある。
 宮古八景と新宮古八景との2つだ。
 古い宮古八景のほうをインターネットで調べると、わずかに横山八幡宮のホームページが引っかかってくるだけだった。
 ――横山八幡宮は、和歌を詠む絶景の場所でもあり、「宮古八景」の一つと数えられ、短歌や漢詩など文学作品が多く残されている。
 横山八幡宮のホームページには、こう書いてある。
 ほかの七景については、まったく触れられていない。
 ただ、なんの説明もなく、高橋子績という人の次のような漢詩が掲げられている。
 読み下してみたが自信はない。

 横山秋月        横山秋月
 自富神風与秀奇     おのずと富む神風と秀奇
 雲晴湖水放光時     雲晴れ湖水光を放つとき
 重峯撃出一輪月     重峰一輪の月を撃ち出し
 秋色江山錦繍披     秋色に江山
                錦繍を披(ひら)く
 宝暦十庚辰年代秋    宝暦10年(1760年)
                庚辰の秋

 高橋子績は江戸時代の宮古の漢学者で、代官所の下役をつとめていた。
 あるとき和賀郡の沢内村に左遷され、「沢内風土記」を書いた。
 「宮古八景詩稿並小序」という著作もあるらしい。
 横山八幡宮のホームページに載っていたのはその一部かもしれないが、よくわからない。
 まぼろしの宮古八景だ。
 新しい宮古八景のほうは、すぐわかる。
 1 浄土ヶ浜  2 日出島  3 津軽石川
 4 とどヶ崎  5 臼木山  6 潮吹穴
 7 月山    8 十二神山
 この8ヵ所で、選定したのは宮古観光協会。
 いつ選定したのかはわからない。
 協会のホームページを見ても、ほかのホームページで調べても書かれていない。
 
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■ まぼろしの宮古八景

 
 山根英郎さんという方が宮古八景に触れている文章を見つけた。
 何気なく古い「月刊みやこわが町」をめくっていたときだった。
 別のことをテーマにした文章から一部分を引用するのは気が引けるが、貴重な一節なので要旨を引用させていただきたい。
 ――江戸時代半ばの1771年(明和8)に、村井勘兵衛住顕という盛岡鍛冶町の歌人が宮古を訪れた。
 そのとき宮古の文人たちと歓談し、近江八景にあやかって宮古八景をつくった。
 1 横山秋月  2 常安晩鐘  3 藤原夕照
 4 黒田落雁  5 黒崎帰帆  6 鍬ヶ崎夜雨
 7 臼木青嵐  8 黒森暮雪
 それぞれに短歌が一首そえられた。
 横山秋月には、
  秋の夜のひかりはおくの宮古にも
      めぐみ隔てぬよこやまの月
 山根さんが宮古八景に触れた一節の要点は以上で、ほかの短歌が紹介されていないのが残念だ。
 前項「宮古八景」で紹介した高橋子績は、この場にいたのかどうかわからない。
 横山秋月は符合している。
 明和8年というのは、高橋子績の漢詩「横山秋月」の末尾にあった宝暦10年より11年ほどあとのこと。
 宮古八景というのは、古くから、いろいろな人が考え出していたのかもしれない。
 常安晩鐘は常安寺の晩鐘。
 黒崎は重茂半島北端の閉伊崎だろう。
 閉伊崎の尖端には黒崎神社が祀られている。
 ふと気づいた。
 浄土ヶ浜がない。
 かわりに臼木山がある。
 浄土ヶ浜は臼木山の青嵐という情趣のうちにとけこんで見える。
 八景は絵になる情趣をよびおこす言葉とセットになっている。
 時の流れのなかで失われてしまった情趣もある。
 黒崎に帆掛け船の姿はなく、藤原も大きく様変わりした。
 けれど、ほとんどの情趣は当時のままに思い浮かべることができる。
 どの景も捨てがたい。
 「まぼろしの宮古八景」というタイトルをつけたけれど、新しい宮古八景とともに、もっともっと知られていいと感じている。
 
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■ 臼木青嵐

 
 「まぼろしの宮古八景」で紹介したなかに、臼木青嵐(うすきせいらん)という一景がある。
 初夏の臼木山が青葉若葉につつまれ、きらきらと爽やかな海風が吹きわたっている情景が目に浮かぶ。
 臼木山といえば桜の名所だが、当時はまだ桜の木がなかったようだ。
 宮古市史年表を探すと、1922年(大正11)5月7日、“臼木山に佐野鍬ヶ崎町長案で桜八百本植樹”とある。
 ところで、「この青嵐は、晴嵐なのではないか?」と拙稿を読んでくださった方お二人から指摘されてしまった。
 「えっ!?」と驚きながら、引用したもとの文章を確認してみた。
 まちがいなく青嵐になっている。
 「よかった!」と、ひと安堵。
 こんどは、宮古八景という発想のもとになった近江八景や瀟湘八景を調べてみた。
 すると、こちらでは晴嵐が使われている。
 辞書で、青嵐と晴嵐の違いを確認してみた。
 青嵐は、初夏の青葉のころに吹くさわやかな風。
 もともと日本で〈あおあらし〉と読んでいたのが、漢語風に〈せいらん〉とも読まれるようになったようだ。
 晴嵐は、夏の晴れた日に山に立つ霞のようなものとある。
 これは中国から渡ってきた漢語だ。
 臼木晴嵐もいい情景だが、個人的な趣味からいえば臼木青嵐のほうが好きだ。
 青嵐と晴嵐――音がおなじで、字も似ている。
 まぎらわしいけれど、意味が違い、情趣も異なる。
 近江八景や瀟湘八景が晴嵐だから、宮古八景の青嵐は、ひょっとしたら間違いか誤植かもしれないという気にもなってくる。
 江戸期の雅人たちが宮古八景を選んだときの用字は、はたしてどちらだったのだろう。
 残念なことに、宮古八景についての資料が手もとにひとつしかない。
 いまは、引用した資料のままに青嵐としておこう。
 
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■ 千徳民衆駅

 
 JR山田線で宮古から西の盛岡方面へ向かうと、最初の駅が千徳駅だ。
 1934年(昭和9)11月6日に開業し、1982年(昭和57)から無人駅になった。
 小さな、なんの変哲もない、いなかの駅――
 ところが、これがけっこうおもしろい駅なのだ。
 駅舎の入口に〈千徳民衆駅〉と横書きに墨で記された木の額を掲げている。
 日付は〈昭和五八年六月吉日〉とあるから、1983年だ。
 揮毫は当時の市長だった千田真一さん。
 民衆駅とは、いったいなんだろう? 
 駅舎の入口に向かって左手に、もうひとつ別のドアがある。
 夏にはツタにびっしり覆われて見落としかねない。
 じつはこれ、〈駅馬車〉という名の喫茶店の入口なのだ。
 駅が無人化されたとき、切符を売ったり改札したりという駅業務の一部を、この地区の人たちが請け負った。
 ついでに収益も得ようと、駅舎で喫茶店の経営を始めた。
 これが〈民衆駅〉の由来らしい。
 いまは駅の業務は行なわず、喫茶店経営のみになった。
 番地は、上鼻2丁目7番1号。
 上鼻という地名もおもしろい。
 カンパナ kanpana と読む。
 調べれば、なにか謂われがありそうだ。
 〈千徳の由来〉という看板は出ている。
 〈千徳はその昔、中村という地名でした。
 ある年、この一帯が大干ばつに見舞われ大変困っていました。
 それを見かねた殿様がお城の近くに泉を見つけて人々を救いました。
 それにちなんで泉徳と呼ぶようになり、今の千徳に至っております。〉
 駅の前は歩いてすぐ国道106号に出る。
 その間わずか20メートルほどしかない。
 駅前広場だと思っていたら、これがれっきとした公道だった。
 岩手県道201号、千徳停車場線という名がある。
 残念ながら、日本最短の県道ではなかった。
 最短は広島県道221号の上下停車場線。
 全長7メートルだという。
 
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■ 緑に埋もれた千徳城址

 
 千徳駅のあるのは上鼻〔かんぱな〕。
 中心地の千徳町は千徳駅よりもっと東、宮古に近い位置にある。
 バス停でいうと、宮古駅前から旧国道106号を西へ向かって下千徳・千徳とつづく。
 下千徳の先で、旧国道から斜め右へと分かれ、古い閉伊街道が集落のなかを貫いている。
 街道のなかほどの右手、民家と民家のあいだの細い路地に折れて入っていくと、正面の奥に赤い木の鳥居がある。
 掲額に八幡宮と記され、ジグザグにつづく狭く急な石段が山の上へと通じている。
 例年より厳しい暑さの夏(2004年)のことだった。
 汗を拭き拭き、息をととのえながら石段を登った。
 山の中腹に、千徳八幡宮はある。
 境内は、樹木が鬱蒼として見晴らしが悪く、風も通じない。
 八幡宮の建物自体は、どうということもない、ありふれた小さな社殿だ。
 ただ、ここはかつて館〔たて〕八幡宮とも呼ばれていた。
 館とは城館のことだ。
 千徳氏の拠る千徳城の、南を守る砦が八幡宮のあたりにあり、さらに北側の一段高い山の上に主郭があったといわれる。
 主郭跡へ登ろうとしたが、整備された道はなかった。
 細い山道は緑の海に埋まってしまったか捜しても見つからない。
 諦めて写真を何枚か撮ると、足もとに気をつけながら石段を下った。
 山が鳴いているかのように蝉の声が耳に響く。
 膝が笑いそうになる。
 道みち、もう少し整備されていたならという思いがよぎった。
 宮古の歴史のなかで、中世から近世への変わり目に重要な役割をになった史跡のはずだから。
 あとになって千徳城址には別のアプローチがあると聞いた。
 それならそれで、案内板ぐらいあったらと思う。
 
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■ 千徳城哀話

 
 室町時代というから1336年から1573年ごろのことだ。
 千徳に覇をとなえる豪族があって、千徳氏を名のった。
 千徳地域はいうにおよばず、山口・黒田から鍬ヶ崎にいたる閉伊川の北がわ一帯を支配下におき、河北閉伊氏とよばれた。
 閉伊川の南には河南閉伊氏とよばれた田鎖氏がいて、ともに〈閉伊四十八郷の侍大将〉と目されるまでに成長した。
 世は戦国期になり、本能寺で明智光秀に襲われて自害した織田信長のあとを継いで、豊臣秀吉が台頭する。
 秀吉が関白になったのが1585年(天正13)。
 その支配の手は1590年(天正18)になって奥州に及んだ。
 翌1591年(天正19)、秀吉の奥州支配に対して九戸政実〔まさざね〕が乱を起こす。
 九戸城は、いまの二戸市にあった。
 このとき豊臣方にくみしたのが南部信直だ。
 信直は、いまの青森県三戸町にいて、三戸南部氏とよばれた。
 南部藩の初代藩主となり、のち盛岡に移る。
 南部信直は、叛旗をひるがえした九戸政実をうちとるため、千徳城主の実富〔さねとみ〕に出陣を求める。
 実富は、これを拒否し、逆に九戸氏に味方して、九戸城に近い一戸城に入城する。
 南部・豊臣の連合軍が一戸城を襲い、実富は抵抗むなしく討ち死にする。
 翌1592年(文禄1)、千徳城主を受け継いでいた孫三郎は田鎖氏とともに秀吉の命をうけ、はるばるいまの佐賀県に向けて出陣する。
 朝鮮出兵の名目で、遠いみちのくから狩り出されたのだ。
 そのあげく、出陣の途上か九州へ渡ってからか、孫三郎は異郷の地で南部氏の手によって謀殺されてしまう。
 さらに信直の軍勢が城主と主力軍のいない千徳城を攻撃する。
 遺児の次郎善勝と一族郎党は炎につつまれた千徳城と運命をともにして果てる――
 千徳城にまつわるそんな哀話が、いくつかの史料によって伝えられている。
 
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■ 岩船の山の奥

 
 タクシーで岩船に向かった。
 2003年(平成15)の秋のことだ。
 目的地の位置は、はっきりしない。
 二十何年か前に古ぼけたジープで連れられていったことがあるだけで、道を覚えていない。
 ただ岩船の奥、バス停の終点のずっと先の、民家もない山のなかだったと覚えている。
 目的地の名は〈芸術の村〉。
 主(ぬし)は自称ソンチョさん。
 むかしは喫茶店のマスターだった。
 山奥に村をつくりたいと夢を語り、山林の一画を借りた。
 深い木立ちを切りひらいて整地し、バンガローや音楽堂、風呂、テントを張るスペースをつくる。
 敷地内を流れている小川に水車を設けて発電もしたい。
 世界中から旅人を迎え入れたい――
 てっきりその夢は挫折したものと思っていた。
 それが思い違いだと知ったのは、インターネットで偶然に村のホームページを発見したときだった。
 行ってみようと思った。
 ホームページに出ている地図は漠然としすぎている。
 2ヵ所に書いてある住所もくいちがっている。
 電話はない。
 伝言板は記事が古く、ソンチョさんの書き込みはない。
 ホームページは友人が製作し、運営しているらしい。
 タクシーの運転手さんに聞いても、はっきりとはわからないと口ごもる。
 山の奥まで入りたくないような感じにも受けとれる。
 とにかく、行けるところまで、という約束でタクシーに乗った。
 バスの終点を過ぎ、近内(ちかない)川に沿って細い道を登り、地図にあったとおぼしい小さな橋のたもとで降りた。
 橋を渡るとデコボコの山道がつづく。
 しばらく歩いてゆくと繁みのなかで黒い物体が動く。
 熊!?
 牛だった。
 鉄線の囲いらしきものがある。
 山道を浅い流れが横切り、飛び石が置いてある。
 その少し先に、村はあった。
 
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■ 山奥のソンチョ

 
 岩船の山の奥にある〈芸術の村〉のことは、村のホームページに詳しい。
 興味のある方は、それを見てもらったほうが早い。
 ぼくはただ、村を訪ねて心に浮かんだ一連の言葉を書き留める。
 これはあくまでイメージ――創作だ。
 
   山奥のソンチョ
 
  黄葉に埋まった山奥に
  ソンチョはひとり住んでいる
  妻もない子供もないが
  犬一匹に猫二匹
  カスミを食っては生きられないので
  畑を耕し木の実を採る
  ソンチョは勤勉な農夫である
  電気も電話もないけれど
  小さなトラックを持っている
  月に四、五日町へ出る
  金食い虫のトラックに乗って
  古い家を壊しにゆく
  山のような廃材から
  目ぼしいものを持ち帰る
  廃材は息を吹き返し
  ソンチョの家になる
  家具になる
  みんなを泊める小屋になる
  風呂になる
  ソンチョは立派な大工である
  満天に星がまたたく夜には山奥で
  ソンチョはひとり宇宙の声を聴く
  ソンチョはひそかに宇宙と交歓する
 
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■ 本州最東端訪問証明書

 
 宮古市は本州最東端に位置する町だ。
 重茂(おもえ)半島の太平洋に突きだした〈とどヶ崎〉が先端で、東経142度4分34秒。
 とどヶ崎灯台が建ち、自然石に〈本州最東端の地〉というプレートを打ちこんだ碑は1968年(昭和43)につくられたという。
 〈本州最東端訪問証明書〉を宮古駅や浄土ヶ浜の観光案内所などで売っている。
 古いものは持っている。
 1992年(平成4)、三陸・海の博覧会が開催された年だ。
 これの新しいのが欲しくて、先日宮古へ帰ったおり、とどヶ崎に行きもしないのに駅の観光案内所で買った。
 1枚税込み100円。
 社団法人宮古観光協会の発行。
 182×257ミリの大きさで、半分に折るようになっている。
 とどヶ崎灯台や浄土ヶ浜の写真をあしらい、市内の簡単な観光地図を載せている。
 東・西・南・北の本州最端の地を表わした図も載っている。
 どうせなら、日本本土と、島を含めた最東端も紹介してほしかった。
 調べてみると、日本本土の最東端は、納沙布岬。
 北海道根室市の根室半島東端で、東経145度49分17秒。
 島を含めた日本全土の最東端は、南鳥島。
 東京都小笠原村に属し、東経153度59分12秒。
 最東端にもいろいろある。
 とどヶ崎は本州の最東端だ。
 そのとどヶ崎の位置を再確認しようと、昭文社の「宮古市」という一枚刷りの都市地図を広げてみた。
 出ていない。
 2万2000分の1という縮尺による制限もあるのだろうけれど、市域の全部は載っていない。
 東西南北の端っこが、みんな断ち落とされている。
 とどヶ崎は市の東端で、しかも南端に近い。
 端っこも――いやこの場合は端っここそ大切なのに、とがっかりしてしまった。
 
【注】とどヶ崎の“とど”は魚偏に毛と書く。パソコンで出ない。
 
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■ 父を送る

 
 先日、宮古で永いあいだ入退院を繰り返していた父が死んだ。
 79歳だった。
 直接の死因は肺炎だという。
 長患いで衰弱していた。
 食事は咽喉を通らず、口からは水分も摂れない。
 点滴で生きていた。
 骨と皮ばかりになっていた。
 痰がつまって看護師さんに吸引してもらわないと窒息する。
 その痰が肺に回って急性肺炎を起こしたのだろう。
 危篤の報に急いで宮古へ帰った。
 どうにか持ち直し、意識を回復した。
 当分は小康状態がつづくだろうというので、いったん自分の家へ戻った。
 その間に逝った。
 2004年(平成16)7月27日火曜。
 時刻は午後7時55分だったという。
 つぎの日の朝、父の棺は家に帰った。
 通夜に駆けつけた。
 通夜といっても仏式ではない、無宗教だ。
 翌朝、霊柩車が来た。
 黒塗りではなく、白のワンボックス。
 後ろのドアを引き上げ、棺をレールに載せて滑らせ、ガチャリと固定した。
 車は千徳町から旧国道106号を東へ、常安寺の火葬場に向かう。
 舘合(たてあい)の交差点から左に入って旧街道筋を行くのだろうと思っていると、車はそのまま直進した。
 栄町の出逢い橋の通りと交わる新しい道を左折し、旧街道筋にぶつかって右折する。
 懐かしい横町(よこまち)の通りだ。
 昔はこの近所に住んでいた。
 火葬場には炉が2つあり、向かって左の炉で焼いた。
 焼き終わるまで待合所にいた。
 例年にない厳しい暑さがつづき、真っ青に晴れわたった空に煙突から黒い煙が上がり、白い煙に変わり、やがて消えた。
 1時間半ほどかかった。
 骨壷を家に持ち帰り、みなで会食をした。
 家族や縁者、ごく近しい人だけが集まった素朴な別れだった。
 宮古の町にはさるすべりの花が目立った。
 棺を置いた部屋から見えるうちの庭のさるすべりも、淡いピンクの花をつけていた。
  さるすべり父のよすがの木となりぬ
 
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■ 常安寺の坂

 
 常安寺の坂(さが)ぁ
 登ってきたがえ
 久しぶりだったぁ
 何十年ぶりだべが
 歩ぐにはきづう坂だった
 こえぇ坂だった
 
 その坂をす
 車がいっぺぇ
 上ったり降りだりしでだったぁ
 夏だっけぇ墓参りだべがど思って
 焼ぎ場に居だ人に聞いでみだっけば
 いやぁ抜げ道だがす
 佐原のほうへ――
 って言ってだったぁ
 
 昔(むがす)は土のでこぼこ道で
 まわりは木ど草ど墓石べぇりで
 ひっそりしてだったもんだぁが
 ほに変わったがねんす――
 
 常安寺の坂ぁ
 こわがった
 汗ぬぐって真っ青な空
 あおいで見だっけば
 煙が上がってだった
 焼ぎ場の煙突から
 もぐもぐ もぐもぐど
 煙が上がってだった
 
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■ 浄土ヶ浜道で遭難しかけた話

 
 常安寺の墓地のあいだのきつい坂を登る。
 日の出町と日影町のあいだの道を下ってゆけば国道45号に出る。
 国道45号を愛宕方面へしばらく下ってゆくと、左に、浄土ヶ浜へいたる道がつながっている。
 浄土ヶ浜の名は、常安寺7世の霊鏡が1683年(天和3)ごろ、「さながら極楽浄土のようだ」というので名づけたといわれる。
 霊鏡和尚がたどった道はわからない。
 が、だいたい同じような道筋だったにちがいない。
 この道を歩いてみた。
 宮古ではめずらしい連日の猛暑だった。
 しかも運悪くこの夏いちばん暑い日。
 常安寺の坂を登りきるまでは、だいじょうぶだった。
 浄土ヶ浜道に入ってから、眩暈がし、朦朧としてきた。
 車では短い距離も徒歩では長い。
 路上に木陰は少ない。
 雲ひとつない。
 陽射しが照りつけ、アスファルトの熱気が身を包む。
 ボトルの水は切れ、風もない。
 景色を楽しむ余裕など、とっくに消えていた。
 行き倒れになるかもしれない、つぎの車が来たら助けてもらおうとまで考えて、うなだれていた顔を上げた――
 道の先に赤い自動販売機が見えた。
 その向かい側には休憩所らしきものもある。
 ほっとした。
 ほとんど這うようにしてたどり着き、まず精力剤を1本買って飲む。
 健康飲料を3本買う。
 冷たいボトルを首筋・頭・胸に当てながら日陰に腰をおろして息を整える。
 落ち着いて見まわすと、休憩所らしく見えたのはトイレだった。
 冬山でなくとも遭難する。
 夏の整備された観光道路の上で遭難しかけた。
 あやうくオダブツとなって、浄土ヶ浜道を常安寺の火葬場へと逆戻りするところだった。
 笑い話のようだが、ほんとの話。
 
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■ 浄土ヶ浜の穴

 
 浄土ヶ浜は観光の穴場。
 別の意味でも穴場だ。
 日立浜町から浄土ヶ浜の坂を登ると、ターミナルビルがある。
 東側の下に小石浜があり、遊覧船の発着所がある。
 その近くに穴がひとつある。
 八戸穴(はちのへあな)だ。
 八戸穴は観光客には知られていない。
 宮古の人間でも、あまり知らないかもしれない。
 海上にぽっかり口を開いた洞窟だから、ボートで、あるいは泳いでいくしかない。
 言い伝えでは、青森県の八戸まで潮の道がつづいている、八戸側には閉伊穴(宮古穴)があるという。
 信じられない話だ。
 しかし、そういう穴は絶対に存在しないと言い切れないところにおもしろさがある。
 「ひょっとしたら……」という気になる。
 浄土ヶ浜には、まだ穴がある。
 小石浜から北の奥に位置する奥浄土ヶ浜まで600メートルほど遊歩道がのびている。
 その間に2つの穴がある。
 隧道、トンネルだ。
 2つとも十数メートル。すぐに潜り抜けられ、たいしたことはない。
 ちょっと凄いのは、奥浄土ヶ浜のレストハウスやあずま屋を過ぎ、もう先にはなにもなさそうな、どんづまりにある隧道だ。
 隣りの蛸の浜へ通じている。
 200メートル近くはあるだろうか。
 長く、狭く、壁もでこぼこ。
 「これぞ隧道!」という感じがする。
 この穴も観光客にはあまり知られていないだろう。
 最後にもうひとつ。
 戦時中の防空壕がある。
 残念ながら、いまは閉鎖されている。
 むかしは開いていて少しだけ足を踏み入れてみたことがある。
 真っ暗で、すぐに引き返した。
 危険はないはずだから、太平洋戦争の時代をものがたる遺産として整備し、開放したらどうなのだろう。
 さらに北側には有名な潮吹穴もある。
 ただ、この穴は浄土ヶ浜のうちには入らないから、ここでは深入りしない。
 
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■ 潮吹穴

 
 潮吹穴は1939年(昭和14)9月7日に、国の天然記念物に指定されている。
 浄土ヶ浜の北、姉ヶ崎の南の崎山海岸にある。
 浄土ヶ浜から出ている遊覧船の島めぐりコースに入っている。
 宮古観光協会が選定した〈新宮古八景〉にも選ばれている。
 南東に、クロコシジロウミツバメという海鳥の繁殖地として、これも国の天然記念物に指定されている日出島を望む。
 潮吹穴のある一帯は黒っぽい岩盤の斜面で、そのまま海に落ち込んでいる。
 ある資料によると、波打ち際から10メートルほど離れ、平均海面からの高さは5メートル。
 穴の深さは2.5メートル、平均幅30センチだそうだ。
 なぜ潮を噴き上げるのか。
 穴の下が空洞になっていて、海に通じているからだ。
 波が打ち寄せると、その空洞に海水がどっと注ぎ込み、圧縮された海水が穴から噴出する。
 噴出する海水の高さは、波の状態によって、ずいぶん差がある。
 干潮で穏やかだと、ほとんど噴かない。
 満潮の穏やかなときで6メートルから15メートル。
 荒れていると30メートル以上に達する。
 地質学的にいうと、一帯の地質は中生代白亜紀の礫岩だという。
 そのなかに波打ち際から陸地に向けて1本の割れ目が走っている。
 この割れ目に沿って波による海食作用が進んだ結果、海水面付近では下の部分が深くえぐられて空洞ができた。
 さらに割れ目の一部が上下からうがたれて貫通し、穴が開いたという。
 潮吹穴と呼ばれるものは日本各地にあるようだが、ほかのところで実際に見たことはない。
 宮古の潮吹穴は日本一らしい。
 宮古に来たなら、とにかく見にいかなければ話にならない。
 6メートル噴き上げるか30メートルか、あるいはあまり噴かないか――
 それは神のみぞ知る。
 
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■ ホラ吹き穴

 
 「なぁに、てぇすたごだぁねえ」
 潮吹穴というと、宮古のたいがいの人間は、そう言う。
 しかし、考えてみれば、国は意味もなく天然記念物に指定などしない。
 宮古の潮吹穴が潮を吹く規模は日本一なのだ。
 国の天然記念物に指定されているということは、国がそれを保証しているということだ。
 なんにでも欠点はある。
 潮吹穴の唯一の欠点は、海が静かだと、あまり潮を吹かないことだ。
 日よりに誘われて見物にでかけても勢いよく潮を吹き上げていないことがある。
 現地の案内板には、〈吹かない日も多く、ホラ吹き穴と呼ぶ人もいます〉と書かれている。
 こんな噂話を聞いたことがある。
 もちろん面白半分の話スッコ、作り話にすぎないだろう。
 ――昔むかし、潮吹穴は、いまの何倍も高く潮を吹き上げていた。
 まわりの村では頭を抱えた。
 潮をかぶって畑の作物があまり実らないからだ。
 どうにかして潮を吹かないようにできないものか?
 そう考えた村の人たちは、穴に石を放り込んでみた。
 小さい石だと潮といっしょに吹き上げられてしまう。
 吹き上げられないよう、しだいに大きな石を運んで投げ入れた。
 穴の下の洞〔ほら〕が大きいのか、効き目がない。
 それでも大きな石、大きな石と探しだしては運び、どんどんどんどん放り込んだ。
 そのうち、とうとう穏やかな海の日には潮を吹かなくなった。
 穴からは風の音がひゅうひゅうごうごう聞こえるばかり。
 日本一の潮吹きを見ようと遠くからやってきた人たちは、がっかりして、〈ホラ吹き穴〉と呼ぶようになった。
 
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■ むかしの小山田橋

 
 小山田橋は、一中(宮古市立第一中学校)グラウンドの東沿いの通りから、八幡土手を越えて閉伊川に架かる橋だ。
 1978年(昭和53)11月29日に鉄筋の永久橋として開通した。
 この橋を歩いて渡っても別におもしろくはない。
 車がうるさいだけだ――
 こんなことを言うと、妙なやつだと思われるだろう。
 ただ橋を渡るだけの行為を楽しむ人は少ない。
 橋は対岸に目的とする場所・もの・人が存在するから渡る。
 必要があって渡る。
 ところが、ただ渡るだけで楽しい橋というものがあった。
 むかしの小山田橋がそうだ。
 かつては木造だった。
 鋼線を束ねた太いロープに木の柱を組み、板を渡した板橋。
 呼び方として正しいのどうかはともかく、吊り橋と呼んでいた。
 車は通れない。
 たまにカブ――ホンダのスーパーカブが通ることはあった。
 ふつうは人と自転車しか通らず、すれ違うのもやっとだった。
 人が走っただけで大きく揺れたから、ユラユラ橋とも呼んだ。
 台風で増水すると流された。
 小学生や中学生のころ、この橋によく行った。
 揺らして遊んでいると、おとなに怒られた。
 橋板に腰をかけて足をぶらぶらさせ、吸い込まれそうな流れや遠くの景色を見ているだけでもよかった。
 橋で遊び飽きれば、葦原に分け入ってヒバリの巣を探したり、岸辺の魚を追った。
 対岸でも遊んだ。
 広い河原、淵や小さな流れがあった。
 頭上にはラサの製錬所の大煙突がそびえている。
 本流の底は、えぐれて深いので入れない。
 小さな流れにはカツカやカワエビがいて、流れに浸かって素手ですくった。
 タモ(手網)が欲しかった。
 遊び疲れて橋を戻る。
 走る、ジャンプする。
 タイミングが悪いとバランスを崩し、川に落っこちそうになる。
 あんなにおもしろい橋とめぐりあうことは、もうないだろう。
 
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■ 八幡河原の繰り舟

 
 小山田橋が永久橋になる前は、板橋だった。
 その板橋ができる前は、渡し舟が人を運んだ。
 1958年(昭和33)ごろまでのことらしい。
 渡し舟といっても、八幡河原の渡しは、ふつうイメージするような船頭さんが艪を漕ぐ渡し舟ではなかった。
 舟に乗っている人が川に張り渡したロープを手繰って対岸に渡るものだった。
 それで、繰り舟と呼ばれたらしい。
 この繰り舟というものは見た記憶がなければ、もちろん乗った覚えもない。
 手持ちの百科事典にも出ていない。
 インターネットで調べてみると、繰り舟という言葉が出ていないことはないけれど、要領を得ない。
 絵なら見たことがある。
 ただ、こまかいところまでは、よくわからなかった。
 細長い川舟よりは安定性のある、幅の広いさっぱのような形をしていた。
 さっぱは磯漁などで使われる底の平たい小舟のことだ。
 渡し方は、ただ両岸に張り渡したロープを引っぱるだけという単純な構造ではなかっただろう。
 八幡土手のあたりの閉伊川は、流れが緩やかなようでも流芯はけっこう速くて強い。
 舟が流されないような工夫が凝らしてあったはずだ。
 まず両岸をつないで太いロープを張り渡す。
 これに輪っかをかませて別の短いロープをつなぎ、一端を舟につなぐ。
 そうすれば水の勢いが強くなっても舟は流されない。
 さらに、もう1本の手繰り綱を引き寄せて舟を進ませ、対岸へ着ける――
 こんな感じだろうか?
 簡単なようで、ほんとうのところは実際に見た人、乗った人、操った人の話を聞いてみなければわからない。
 どこかに繰り舟の詳しい記録が残っていないだろうか。
 
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■ 宮古の正しいお盆

 
 宮古のお盆は月遅れ。
 まず、8月1日の夜、玄関前の路上で松の根を焚く。
 これを松明かし、マヅアガスという。
 盆月に入った合図だ。
 7日は七日盆。
 墓を掃除し、七日火の松明かしをする。
 お盆本番の初日13日には、菩提寺へ行ってロウソクから迎え火を提灯に受け、家の仏壇にともす。
 玄関前で松明かし。
 14日、お供えを持って墓参り。
 墓でも松を焚く。
 15日も松明かし。
 16日、お盆本番の最終日として送り火を焚く。
 しかし、まだお盆は終わらない。
 20日に二十日盆、松明かし。
 31日は晦日盆。
 いよいよ盆の月も終わりだというので、最後の松明かし。
 松明かしをするときは必ずバケツに水を汲んでそばにおく。
 これが宮古の伝統的なお盆のやり方である。
 いまは簡単に13日から16日までをお盆とする家も多い。
 宮古のお盆で忘れてならないものがある。
 子どもにとっては、お盆どきの一番の関心事――花火だ。
 松明かしの日には、おとなでも花火をする。
 子どもは必ずしなければならない。
 宮古のお盆の鉄則だ。
 線香花火にネズミ花火、ヘビ・噴き上げ・ロケット・爆竹、それはもう、ありとあらゆる花火をする。
 いちばん多くやったのは2B弾という爆竹だ。
 マッチ箱の横で先端を擦って、あるいは火にかざして点火し路上に投げる、空中に放り上げる、かがり火に突っ込む、人の足もとに投げつける。
 導火線のついたダイナマイトというのもあった。
 赤いパラフィン紙の包みを開くと、12本?ひと組で、導火線がつながって出てくる。
 一本ずつバラして使うところを、つながったまま点火すると、連続して爆発する。
 2Bより、はるかに強烈かつ危険だった。
 8回もある松明かしの日はババン、ババババッと実に騒々しい。
 焚き火と花火の青白い煙が町をつつむなか、宮古のお盆の夜は正しく更けてゆく。
 
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■ 2B弾

 
 宮古のお盆に花火はつきもの。
 いや、子どものころ、お盆は花火をするためにあった。
 夏休みに入るまえにはすでに近所の駄菓子屋に花火が並ぶ。
 お盆が近づくと、お盆用品を売る街の商店にも花火が並ぶ。
 花火と松の薪は、いろんなところで売っていたような気がする。
 日本各地で夏には盛大に花火が打ち上げられる。
 だから、お盆に花火をして、なんの不思議もない。
 ただ、宮古を出て関東に住んでみると、とくにお盆に花火をするという風習はないようだ。
 少なくとも、宮古のように、お盆のあいだじゅう爆竹が鳴り響いているという現象はない。
 ひょっとすると、あのお盆の花火の騒々しさというものは、宮古地方独特のものなのかもしれない、と思うようになった。
 爆竹の代表が2B弾で、2Bと略した。
 1円で2本買えたような気がする。
 はっきりした記憶ではないけれど、とにかく子どもが気軽に買える値段だった。
 朝っぱらから2B弾をポケットに町を駆けまわる。
 空き地の土の山に穴を明け、マッチ箱の横で擦って突っこみ、鈍い音とともに土が舞い上がるのを見て喜ぶ。
 水に投げこんでも水中でボコッと爆発した。
 カエルの口に突っこんだり、ヤンマにくくりつけたりする悪ガキもいた。
 蛾の死骸を吹き飛ばすこともやった。
 夏の夜は、町なかでも、街灯のまわりに、大きな蛾が、やたらと飛びまわっていた。
 家のまえの空き地――ほんとは旅館の駐車場だったけれど、子どもには遊び場だった。
 もちろん舗装なんかされていない。
 そこでバンバン鳴らしていると、旅館のオヤジさんや番頭さんに怒鳴られ、はては追いまわされた。
 いま考えれば旅館にとっては迷惑な話だ。
 宿泊客もさぞうるさかったことだろう。
 とりわけ、お盆に爆竹を鳴らす風習のない土地から来た観光客は、なにごとかと目をまるくしたにちがいない。
 あとで調べてみたら、2B弾は1966年(昭和41)9月15日に製造中止になったそうだ。
 
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■ 八幡通り

 
 宮古駅前から東へのびる通りを、むかしは八幡通りと呼んだ。
 いまの大通にあたる。
 八幡通りから大通に住居表示が変わったのは1965年(昭和40)のことだという。
 ここに小学校6年の途中まで住んでいた。
 八幡通り界隈が自分の小世界だった。
 八幡さまの参道でもないのに八幡通りとよぶのを子供心に奇妙に感じていた。
 大衆酒場養老乃滝(2004年閉店=後注)になっている建物は、八分団だった。
 向かって左側に火の見櫓がいまも残っている。
 右側のわきに路地があり、そこを抜けて宮小へ通った。
 裏に駄菓子屋があった。
 屋号は忘れたけれど、おやじさんの顔は覚えている。
 八分団から駅へ向かう道沿いに、山田屋旅館の本館、宮古タクシー、佐々由(魚屋)が並ぶ。
 逆方向に上野製麺所や煙草屋などがあり、角の床屋を左に曲がれば映画館の第二常盤座。
 曲がらずに行けば右手に食料品の鈴木商店、その先を右に折れると大判焼きの店や映画館の国際があった。
 八分団の対面の角地には防火用の溜め池があった。
 埋め立てられて空き地になり、駐車場になり、いま飲み屋の入った建物になっている。
 横の道路の地下に代わりの防火用貯水槽がつくられた。
 地下貯水槽のところから南へ山田線の線路に向かう道沿いの東側には、判この大江堂や松田靴屋、修理工場の東海自動車。
 西側には旅館の晃生館、日用雑貨の千葉商店、三好食堂、小西煮豆屋、名前は忘れたが旅館などが並び、国鉄の官舎のつづく一画があった。
 八幡沖踏切の手前の左側に魚菜市場があって賑わった。
 いまは駐車場になっている。
 その向かいに小林餅店がある。
 大きく東にカーブして踏切を越えれば、閉伊川の土手まで一面に田んぼが広がっていた。
 いまの南町だ。
 田んぼと鉄道の操車場に挟まれた寂しい道が西へのびていた。
 この道は、宮高(宮古高等学校)や一中(第一中学校)、八幡さまのある宮町へつづく。
 八幡通りという名前は、位置的にいえば、この寂しい道にこそふさわしかったのではないかと、いまも不思議に思う。
 
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■ 宮高の歴史

 
 自分の母校である宮高の歴史というものを考えてみたことがなかった。
 公式ホームページを覗くと沿革が載っている。
 宮高は高等女学校として創立されたらしい。
 場所は書いていないが、いまの一中のところだ。
 現在地に移転した日付もホームページには書かれていなかった。
 不明な点は残るものの、ほかの資料で補った沿革を、ひとまず書きとめておきたい。
1923年(大12)3月23日 宮古町立宮古実科高等女学校            として創立
1929年(昭4)8月15日 県立宮古高等女学校となる
1943年(昭18)4月1日 県立宮古中学校(旧制)創立
1948年(昭23)4月1日 県立宮古中学校が
            県立宮古第一高等学校となる
1948年(昭23)4月1日 県立宮古高等女学校が
            県立宮古第二高等学校となる
1949年(昭24)4月1日 県立第一・第二高等学校が合            併し県立宮古高等学校となる
1950年(昭25)9月4日 校歌を制定
1963年(昭38)4月1日 家庭科・商業科が
            宮古商業高等学校として独立
1978年(昭53)3月31日 田老分校が宮古北高等学校と            して独立
1997年(平9)10月1日 校舎大規模改修工事が終了
1999年(平11)2月5日 校舎大規模改修第2期工事が            終了
2002年(平14)4月1日 全日制課程を
            21学級・定員840名に改訂
2003年(平15)11月1日 創立80周年記念式典を行なう
 
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■ 即席ラーメン記念日

 
 8月25日は即席ラーメン記念日だという。
 1958年(昭和33)のこの日、世界初の即席ラーメン〈チキンラーメン〉を発売したのを記念し、製造・販売元の日清食品が制定したらしい。
 即席ラーメンの誕生日だ。
 ほぼ同時代に育ったから即席ラーメンの記念日と聞くと感慨がある。
 高校時代など、近くの商店で昼休みに即席ラーメンを買ってはお湯・丼・箸を貸してもらい、よく食べたものだ。
 この即席ということばは、すぐにインスタントということばに取って代わられた。
 その分、ある一定の時代を感じさせることばだ。
 インスタントラーメンというと〈ロケットラーメン〉を思い出す。
 野球帽をかぶった男の子がロケットにまたがった図柄が袋に描かれていた。
 お湯を注ぐだけの〈チキンラーメン〉とは違い、鍋で煮るタイプだった。
 宮古以外で見かけたことはないから、あるいはローカルな製品だったのかもしれない。
 即席ラーメン記念日にかぎらず、世の中には記念日がたくさんある。
 憲法記念日、気象記念日、敗戦記念日、学校給食記念日、それにサラダ記念日なんてのもある。
 なになにの日というのも無数にある。
 霧笛の日、嫌煙運動の日、温泉の日、水の日、蚊の日、果てはコナモン(粉物)の日……
 ふと考えた――宮古独自の記念日、宮古版なになにの日というのはあるのだろうか。
 宮古市の魚に制定されている鮭の日はどうだろう。
 11月11日だ。
 十一月十一日と書けばわかりやすいが、鮭という漢字のツクリの圭が十一が重なって見えるところからこの日に制定された。
 ただ、制定したのはサーモンランドを宣言した宮古市の関係筋ではなく、新潟県村上市の鮭の日制定委員会らしい。
 考えても、ほかに浮かんでこない。
 宮古に記念日はないのか。
 いや、いろいろあって、行事も行なわれているにちがいない。
 自分が知らないだけなのだろう。
 知らないのをいいことに、勝手に認定・制定してみてもおもしろいかもしれない。
 
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■ 宮古版きょうはなんの日?

 
 宮古の記念日をいくつか考えてみた。
 勝手に名づけ、“制定”したものが多い。
 ほかにも3月23日の宮古高校など学校・団体の創立日がある。
 宮古港開港日は調べても日付がわからなかった。
 じっくり考えれば、おもしろい記念日がもっと出てきそうだ。
 
 1月3日 鮭の日――1973年(昭和48)から、この日に津軽石川で鮭まつりが行なわれている。
 2月11日 宮古市誕生の日――1941年(昭和16)のこの日、宮古町が山口・千徳・磯鶏の3村を合併して市となった。
 3月3日 三陸地震津波の日――1933年(昭和8)、三陸沖で大地震が発生して大津波が襲来、大きな犠牲が出た。
 3月12日 超我の日――1944年(昭和19)山田線で列車転覆事故が発生。同僚を救おうとした機関士を讃え、のちに“超我の碑”建立。
 4月5日 浄土ヶ浜の日――1954年(昭和29)岩手県指定名勝の第1号に選ばれた。
 4月6日 啄木寄港の日――1908年(明治41)石川啄木が宮古港に上陸し、鍬ヶ崎を訪れた。
 5月2日 陸中海岸国立公園の日――1955年(昭和30)に誕生。
 5月6日 宮古港海戦の日――1869年(明治2)の旧暦では3月25日、日本最初の近代海戦が宮古港で繰り広げられた。
 8月9日〜10日 宮古空襲記念日(非戦の日)――1945年(昭和20)米軍艦載機による空襲を受け死傷者が出た。
 9月20日 寄生木忌(やどりぎき)――1908年(明治41)「小説 寄生木」の原作者・小笠原善平が死去、28歳、山口出身。
 10月8日(旧暦9月2日) 鞭牛忌(べんぎゅうき)――1782年(天明2)に死去、73歳。新里に生まれ、閉伊街道の開削・補修に半生を捧げた。
 11月6日 山田線開通の日――1934年(昭和9)宮古駅が開業した。
 
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■ 宮古のウニ

 
 中学生か高校生のころ、浄土ヶ浜の浅い海に潜ってウニを1〜2個採った。
 大きくはなかったけれど、浜の平べったい白い石に載せ、同じく平べったい白い石で割り、指で身をすくって食べた。
 うまかったな、あれは。
 ウニの身というのは卵巣で、白い卵が混じっていることがある。
 毒があるといわれていて必ず指でよけた。
 しかしちょっと待てよ。
 ウニは漁業権がなければ採れないんじゃないか?
 当時はほとんど念頭になかったけれど、これは密漁だった。
 密漁はいけない!
 採りたての生がうまいのはもちろんのことで、ウニの時期に帰省すると必ず生ウニ丼を食べる。
 塩ウニを熱々のご飯に載せて食べる味も捨てがたい。
 アワビの殻に盛って蒸し焼きにした焼きウニも大好物だ。
 ウニを練りこんだ雲丹(うんたん)ラーメンも宮古にある。
 これは比較的新しくできた名物で、まだ食べる機会がない。
 宮古の北にある久慈のほうの名物になっているウニ汁の〈いちご煮〉も食べたことがない。
 ウニは宮古あたりの方言ではカゼと呼ぶ。
 三陸にはキタムラサキウニ、エゾバフンウニがいて、キタムラサキウニはクロカゼ、エゾバフンウニはボウズカゼとも呼ばれる。
 ウニは海藻を食べて育つ。
 三陸の入り組んだリアス海岸に育つワカメは天下一品だ。
 水がきれいなうえ、黒潮・親潮に乗って栄養分が流れこみ、豊かに海藻が育つ。
 その海藻を食べて育ったウニの味が悪いはずがない。
 なかでも重茂(おもえ)半島の外海で採れるウニは絶品とされる。
 ウニの口開け(解禁)は、早ければ4月半ばごろから。
 例年は5月から始まり、8月の半ばまで。
 当然旬も、この漁期と重なる。
 春から夏の三陸の味覚だ。
 それ以外の季節、生のウニには手を出さないほうが無難かもしれない。
 
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■ 港町ブルース

 
 小学生のとき、「骨まで愛して」事件というのを引き起こしたことがある。
 城卓也の歌ったこの歌を休み時間にさかんに歌った。
 とくに、〈ホォネまで〜 ホォネまで〜 骨まで愛して 欲しい〜のよ〜〉という部分を、歌い方をまねながら繰り返し歌っていた。
 職員室に呼び出しをくって注意された。
 美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」、内山田洋とクールファイブ「長崎は今日も雨だった」、鶴岡雅義と東京ロマンチカの「小樽のひとよ」、森進一「襟裳岬」なども、よく歌った。
 いわゆる御当地ソングだ。
 こうしてあげてみると、あとで演歌を馬鹿にするようになった自分も、けっこう演歌に浸かっていた時期があったんだなと意外に思う。
 森進一が演歌歌手のなかでいちばん好きだった。
 「襟裳岬」「おふくろさん」など、いまだに知らず知らず、くちずさんでいる。
 「港町ブルース」もそうだ。
 やはり御当地ソングのひとつで、大ヒットした。
 調べてみると、1969年(昭和44)に発売されている。
 2番の歌詞のなかに、たった一度だけ、宮古の名が出てくる。
 〈流す涙で割る酒は だました男の味がする あなたの影をひきずりながら みぃなと〜 宮古 釜石〜 気仙沼〜〉
 この〈みぃなと〜 宮古 釜石〜 気仙沼〜〉のところを、森進一独特の低くかすれた声とコブシをまね、さらに強調して学校の休み時間などに歌った。
 中学3年のころだった。
 今度は職員室に呼び出しをくらわずにすんだ。
 その後、宮古を歌いこんだヒット曲は、ついに現われなかった。
 大きな工場もあり、商業・農業も盛ん。
 陸中海岸国立公園の中心に位置する町として観光業も目立った宮古。
 町場に住んでいたぼくが、それでも宮古という町はやはり港町、漁港の町なんだなということを強く意識したのは、この「港町ブルース」に出会ったときだった。
 
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八幡沖の“いか最中”
   うらら * 投稿1
 
 大通りが八幡通りと呼ばれていた頃、小西煮豆屋さんの先の角を右に曲がって2〜3軒目に、いかの形をした最中を売っていた小さなお店があったこと、jinさん覚えていますか?
 “阿部のいか最中”というお店で、当時お店には最中しか置いていなかったように覚えています。
 最中は一つ一つ白い和紙の袋に包まれ、ガラスのケースに入ってバラ売りされていました。
 餡は小豆餡、白餡、青のりの入った磯餡の3種類。
 皮は、香ばしい、いかの味がしました。
 以前「おこちゃんのごっつお」のBBSで宮古の銘菓が話題になったあと、ひょっこりその存在を思い出しました。
 そういえば昔おやつに食べた“いか最中”はどうしたのだろう?
 話題にもなっていないし、もう今は無くなってしまったのかな、と……
 早速翌日、歌舞伎座向いの、いわて銀河プラザへ。
 菅田のいか煎餅は置いてありますが、やはり“阿部のいか最中”はありません。
 う〜ん、宮古の人に聞いてみるしかないかな、と思っていた2日後、私の元に荷物が届き、開けてビックリ。
 送られてきたのは、そう、探していた“いか最中”だったのです!
 「何か宮古のものを食べさせたいと思って送ったんだーよー」という友人のお母さんからの贈り物でした。
 不思議、不思議。
 どうして私の探しているものがわかったの?
 友人もお母さんも、BBSのことや私が探していたことなど、もちろん知りません。
 何十年ぶりかの“いか最中”は昔と変わらない懐かしい味で、おいしかったです。
 大好きな磯餡をたくさん食べました。
 現在“阿部のいか最中”は大通りから高浜に移転して営業しています。
 
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■ 旧山口川を散歩する

 
 旧山口川は、山口小学校のある鴨崎町と西町との接点で本流と分かれて東へ流れ、中央通りで暗渠に入る。
 その間を歩いてみた。
 もともとはこちらのほうが山口川の本流だった。
南へ下って八幡さま(横山八幡宮)の裏手で閉伊川に注ぐ流れは放水路だった。
 旧山口川の流れは、いま正式にはなんと呼ばれているのか知らない。
 仮に旧山口川と呼んでおく。
 分岐点から旧山口川沿いに東へ下ってゆくと、右に銭湯の旭湯があり、左に看護学院がある。
 その先の西公園の角で南にカキッと折れ、和見町を通る。
 このへんは直線的で、川というより、ただの側溝だ。
 和見町から第二幹線に出ようとする手前で東に大きく曲線を描く。
 第二幹線を越えると川沿いの道は細い路地になり、川も民家のあいだを抜けてゆく。
 生活の匂いが深まる。
 駅前通りが西町のほうへのびる通りを越えると、川は末広町の裏を流れる。
 花の木通りを横切り、パン・菓子の西野屋の裏から宮古保育園の前を通る。
 柵ができて、以前のようには保育園の庭に入れなくなっているのが寂しい。
 扇橋から先も末広町の裏を流れ、やがて中央通りにいたる。
 土蔵の外観を模した公衆トイレから先は暗渠に入る。
 川と交差する扇橋通りの側溝には蓋がされている。
 数十年前は大部分がむきだしで、けっこう幅があった。
 側溝をセギ(堰)と呼んだ。
 宮古小学校のずっと先のほうから流れて、川に落ちた。
 このセギにもドジョウがいた。
 道から降りてドジョウを探した。
 旧山口川には降りなかった。
 とにかく汚く、どぶ臭かった。
 護岸も高かった。
 旧山口川は数十年前と大きく変わった。
 欄干があり花壇があり、流れが清らかになった。
 ごみや水垢が少なくなり、どぶ臭さも消えた。
 これならブラリと散歩してみようという気になれる。
 
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■ 山口川をさかのぼる

 
 山口小学校のまえから川沿いに道をさかのぼった。
 山小のプールの脇あたりは水門があって川の水が澱んでいる。
 それが、さかのぼるにつれ、どんどんきれいになってゆく。
 途中、西のほうから小さな流れが合流する。
 この流れに沿って行けば遠足で行った覚えのある蜂ヶ沢(ばづがさわ)に着くはずだ。
 茶色に塗られた山口公民館のまえで、山口川は、いったん道路の下に隠れる。
 その先でふたたび現われた流れは、透明度をぐんと増す。
 きらきらとした清流に目を奪われながら、しばらく歩く。
 一本の松の木と、〈曹洞宗慈眼寺〉と彫られた背の高い石柱が現われる。
 そこから山口川を離れて右に進むと、すぐに山口保育所が見える。
 右手に寄生木記念館があり、その先に慈眼寺がある。
 寄生木記念館は、徳冨蘆花の長篇小説「寄生木」の原作者・小笠原善平の遺品や資料を展示するため、菩提寺の慈眼寺のそばに建てられた。
 旧制盛岡中学の図書庫だったという建物は周囲の緑にとけこんでいる。
 記念館は閉まっていた。
 慈眼寺のまえに人がいたので聞いてみた。
 「管理は市の教育委員会なので寺では開けられない」
 と言う。
 あきらめて山の墓地へ登った。
 鍬ヶ崎や重茂(おもえ)半島、太平洋が遠く望める場所があるかもしれない。
 墓地は途中で切れた。
 道もない。
 木々や下草が繁茂し、掻き分けて進むのは無理だった。
 振り返ると眼下に山口の町並みがある。
 舘合の丘陵や八幡さま(横山八幡宮)の森の向こうに製錬所の大煙突も見える。
 小笠原善平が生きていた時代にラサ工業の煙突はあるはずもないけれど、善平も、この墓地に登って町並みや遠くにかすむ山々を見たのだ――
 そう思うと少し感慨が湧いた。
 しばらくたたずんでから急な山道を下った。
 
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■ 山口の慈眼寺

 
 慈眼寺を素直にジガンジと読んでいたら、正しくはジゲンジだという。
 漢字の読みはむずかしい。
 山号を如意山というから、意のままに読んでいいのかもしれないが……
 開創は元亀年間、つまり1570年から1573年のあいだ。
 武田信玄や織田信長・羽柴秀吉などが活躍していた戦国時代だ。
 曹洞宗で、本尊は釈迦如来。
 場所の字(あざな)を橋場(はしば)という。
 鎌倉時代(1185〜1333)の末期には山口の集落ができていたらしい。
 同じころに黒森神社ができ、黒森山への登山口の意味で山口という地名がついたといわれる。
 位置的にいえば、山口の町並みの北の後背に慈眼寺があり、そのさらに後背に黒森山がそびえている。
 慈眼寺の境内に、“山口小学校の由来”と彫られた石碑がある。
 1984年(昭和59)10月吉日に建立されたらしい。
 碑文を読む人も少ないだろうから、大意を書き写しておきたい。
 むかしは慈眼寺で寺子屋が開かれていた。
 1872年(明治5)に学制が頒布されてからは、宮古尋常小学校へ子どもたちは通った。
 30年後の1902年(明治35)慈眼寺を仮校舎として山口小学校が創立された。
 1909年(明治42)いまの山口公民館の裏側に本校舎が新築され、独立した。
 1953年(昭和28)現在地の鴨崎町に移転――
 宮古尋常小学校というのは最初、沢田の常安寺に仮校舎が設けられて創立されたらしい。
 小説「寄生木」の原作者・小笠原善平は1886年(明19)に数えの6歳で小学校に入っている。
 宮古尋常小学校ではなかった。
 宮古鍬ヶ崎組合立小学校といい、愛宕にあって山口村の家から半里、約2キロの道のりだったという。
 わざわざ遠くまで行った理由はわからない。
 
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■ 開かずの寄生木記念館

 
 寄生木記念館は山口1丁目5−44、慈眼寺の門前に1969年(昭和44)6月5日に建てられた。
 〈寄生木〉は徳冨蘆花の長篇小説「寄生木」のこと。
 この作品の原作者が小笠原善平。
 山口村に生まれ、慈眼寺に眠っている。
 善平は乃木希典〔のぎ・まれすけ〕将軍の書生となり、その援助を受けて陸軍中尉になった。
 自分は乃木将軍という大樹を頼って成長した寄生木だ。
 恩人の乃木将軍のことを書き残したい。
 寄生木として生きた自分の足跡も残して死にたい――
 そう考えて膨大な手記をつづり、「寄生木」と名づけて徳冨蘆花に小説化を託し、自殺した。
 記念館の建物は盛岡赤十字病院の書庫を譲り受けた。
 赤十字病院の書庫になるまえは、旧制盛岡中学の図書庫だった。
 石川啄木が、歌集「一握の砂」のなかで、こう歌っている。
  学校の図書庫〔としょぐら〕の裏の秋の草
  黄なる花咲きし
  今も名知らず
 土蔵風の白壁が落ち着いた雰囲気をかもしている。
 なかには善平の原稿をはじめとした資料・遺品、いいなづけの勝子や蘆花の手紙、自殺に使ったピストルなどを展示しているらしい。
 らしいというのは、じつは記念館の内部をまだ見たことがないからだ。
 二度訪ねた。
 二度とも扉は閉まっていた。
 一度目は行きあたりばったりだったから仕方がない。
 二度目は夏季に常時開館していると聞いて出かけた。
 7月末の月曜だったが、開いていなかった。
 どうやら開館しているのは8月のみ。
 月曜・火曜が休み、祝日の翌日も休館。
 ほかの月は教育委員会の生涯学習課に連絡して開けてもらう。
 管理していない慈眼寺に頼んでも、扉は決して開かない。
 
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■「寄生木」あらすじ

 
 宮古の文学「寄生木」が東京の警醒社書店から出版されたのは1909年(明治42)のこと。
 版を重ねたけれど、いまはまず手に入らない。
 岩波文庫版全3冊も絶版になって久しい。
 読んでみたいのに読めないから、簡単なあらすじを知りたい、という人が多い。
 この連載の通常の文字数内に収まるように、長篇の内容をごく短くまとめてみよう。
 ――「寄生木」原作者の小笠原善平は作中名を篠原良平という。
 1881年(明治14)6月5日、山口村に篠原良助の次男として生まれた。
 父は山口村の村長になるが、公金横領で訴えられ、未決監に6年入獄して無罪をかちとる。
 良平は家出して父が入獄していた仙台へ行く。
 たまたま第2師団長として赴任していた大木将軍(乃木希典陸軍中将)を訪ねて、その書生になる。
 大木将軍の意を受けた良平と同姓の篠原中佐が後見人となる。
 良平が陸軍中央幼年学校に3番の優秀な成績で入学すると、篠原中佐は娘の夏子をいいなづけとしたいとほのめかす。
 良平はさまざまな事情で成績が低下し、婚約話はうやむやとなる。
 ただ、学費を受けとるため月に一度は篠原家に行ったので交際はつづいた。
 士官学校を卒業した良平は、北海道の旭川師団に配属される。
 少尉として日露戦争に出征し、中尉に昇進。
 凱旋後、夏子と会って陸軍大学に入ったら結婚する約束をし、篠原家もこれを黙認する。
 陸軍大学予備試験には合格したが、軍務日数や不足や若さを理由に入学延期となる。
 夏子との婚約は、またもこじれる。
 良平は病気がこうじて軍を休職。
 郷里山口村へ帰って静養中の1908年(明治41)9月20日に自殺する。
 28歳だった。
 
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■ 舘合の一石さん

 
 一石(いっせき)さんを見にいった。
 舘合町の旧街道筋から登ってゆくと、時計とは逆回りに山を巻くように道がついている。
 標高は50メートルほどだろうか。
 公園になっていて、頂上に一石さんが鎮座している。
 そばに鎮火の神さま稲荷大明神の赤い祠(ほこら)と鳥居がある。
 園内の遊歩道をぐるっと回ってみた。
 一郭にトイレやベンチがある。
 ふつうの公園のような遊戯施設は見当たらない。
 人影もない。
 一石さん保存のために整備された史跡公園の趣きだ。
 施設はないかわり桜の木が多い。
 少し樹木が繁りすぎて、せっかくの眺望がさえぎられている。
 一石さんは、一石一字経塚、経塚の碑とも呼ばれる。
 大きな花崗岩の自然石で、碑の上部に円が彫られている。
 その下にある文字は摩滅して一部しか読めない。
 横に案内板があった。
 帰って調べ直した。
 〈五部大経 一石一字 雲公成之 永和第二〉と4行に刻まれ、経文を一字ずつ書き写した石が埋められている。
 永和2年(1376年)に碑を建立した雲公については不明。
 建立年のわかる経塚としては日本で2番めに古い。
 ちなみに最古の一石一字塚は大分県にあり、1339年(暦応2)の日付だという。
 また一石さまは、いしぶみの書としても岩手県随一と認められ、1975年(昭和50)に県の史跡文化財に指定されている。
 岩手県教育委員会のホームページを覗いてみた。
 文化財指定時の所在地が、山口第1地割字和見29となっている。
 現在の住居表示では、舘合町29−6。
 1975年ごろには和見の一石さんと呼ばれていたのだろうか。
 
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■ 経塚の碑の案内板

 
 一石さんの横に、市の教育委員会が建てた大きな案内板がある。
 参考までに原文のまま書き写しておく。
 間違いも原文のまま。
              *
経塚の碑
  高さ 二、六四メートル
  巾  一、八五メートル
  厚さ 〇、二二メートル
碑の中央に直径五十五センチの日輪が刻まれ その下に四行に「五部大経・一石一字・雲公成之・永和第二」と大書きされています。
この碑は今から五九九年前の永和三年(西歴一三七六年)に雲公という人が建てた碑といわれています
経塚というのは、有難い経文を後世に残すとともに庶民の幸福と国の平和を祈願するため、経文の一字ずつを小石一つ一つに書き、それを埋めて築いた塚のことです。
文化五年(西歴一八〇八年)江戸の有名な文人菊池五山が宮古に来た折この碑を見て「江戸から二千里も離れた奥羽の果てにこんな立派な中国の流を汲んだ字が残されているとは知らなかった」としばし感嘆したと伝えられ、それ以来広く世に知られるようになりました。
字といい、大きさといい今残っている経塚のうちで全国的に見てもかなり古く最も価値あるものとされています。
   種   別  史跡
   所 在 地  宮古市大字山口第一地割字和見二九番の一
   指定年月日  昭和五十年三月四日 県指定
   建   立  昭和五十年十一月九日
            宮古市教育委員会

 案内文にある菊池五山というのは、江戸時代後期の漢詩人。
 高松藩、いまの香川県高松市の出身で、幕末の江戸詩壇で指導的な立場にあった人だという。
 菊池寛という有名な作家は、この五山の子孫にあたる。
 
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■ 山口−舘合−横山

 
 舘合近隣公園の頂上、生い繁った木々の間から市内を一望する。
 東に市街地と宮古湾や重茂(おもえ)半島が見える。
 北は山口から黒森、南には八幡さま(横山八幡宮)の森が見え、山口−舘合−横山は一線上に並ぶ。
 舘合山と横山の線上には市立図書館がある。
 いまは宮町3丁目、かつて図書館のあたりまでは舘合と呼ばれた。
 沢田にある宮古山常安寺は、はじめ、この市立図書館のあたりにあったという。
 寺伝によれば、1580年(天正8)に和見の舘間(たてま)に創建された。
 1611年(慶長16)の大津波によって山口から舘間にかけての集落とともに流され、1625年(寛永2)現在地に再建されたという。
 当時、舘合は舘間と呼ばれ、和見の一部だった。
 和見の語源はワ=湾、ミ=水で、湾曲した水辺の意味だという。
 いまの市街地一帯は閉伊川や山口川の流れこむ河口で、和見は湾岸にあたっていた。
 室町時代(1336〜1573年)にさかのぼると、千徳氏が黒田に湊を開いている。
 舘合や山口が津波で流されても不思議はない。
 千徳氏は、はじめ閉伊氏を名乗り、河北閉伊氏と呼ばれた。
 閉伊川の北岸一帯を支配し、舘合に山城を築いた。
 やがて千徳に本拠を移し、舘合は千徳城の出城となる。
 横山にも千徳氏の館(たて)があり、舘合という地名のもとの舘間とは、横山館と山口館の間にあたる地の意だという説がある。
 山口館には、小説「寄生木」の原作者小笠原善平の先祖がいた。
 小笠原氏は千徳氏に従った村地頭だったといわれ、その出自をたどれば信州(長野県)から流れてきた武士だったという。
 
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■ 舘間(合)山

 
 小説「寄生木」には、本篇のあとに徳冨蘆花がつけた「後の巻」という付録があり、原作者の小笠原善平が蘆花にあてて書きながら送らなかった手紙の断片が載っている。
 病気のために陸軍をやめる決心をかため、山口村へ療養に帰った1908年(明治41)6月ごろの手紙だ。
 そのなかに舘間山というのが出てきて、〈たてあいやま〉とルビが振られている。
 舘間山は当時、小笠原家が所有し、前の年の1907年(明治40)冬に父の喜代助から善平に譲られたものだという。
 もとは宮古公園地と呼ばれていたらしい。
 これは一石さん(一石一字経塚)のある舘合近隣公園の前身なのだろう。
 手紙には善平が石に腰かけて鳥の声を聞くというくだりもある。
 一石さんのことには触れられていないが、善平が腰かけた石は、ひょっとしたら一石さん本体だったかもしれないなどと想像してしまう。
 古い石碑などが倒れたまま放置されている例は、よくある。
 一石さんの履歴を記した資料は目にしたことがないから、当時の保存や管理の状態などはわからない。
 倒れたままに永く放置されていた時期があった可能性もないわけではない。
 その2年前、1906年(明治39)4月に善平は日露戦争から凱旋して宮古に帰省した。
 このときのことを書いた「寄生木」の一節には、こういうくだりがある。
 ――八幡山と谷一重の山は父の所有だ。
 宮古の有力家は父の承認をうけて、年々この山を崩して閉伊川の堤防を築いているのだ云々
 八幡山は横山といって南北に長く、西から東へ流れる閉伊川に突き出すように横たわっている。
 八幡山の北にはバイパスが通る前、ノデ山があった。
 そのさらに北にはボソ山という山の残骸があった。
 鉄道や旧国道が山を削った切り通しにつくられ、削られた山は舘合山へとつづく
 こう考えると、舘間(合)山から横山へと延びる、かつての山並みが、目に浮かんでくるようだ。
 
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■ 宮古公園地

 
 前項で紹介した善平の手紙を引用したい。
 改行のない古い候文を現代風に意訳し、仮名を実名にした。
 宮古公園地というのは、いまの舘合近隣公園のこと。
 ――きのう午後、いばらを分けて宮古公園地に登りました。
 体が弱っているため数十分かかってしまいました。
 (徳冨蘆花の注:舘間山〔たてあいやま〕、もと宮古公園地、のち小笠原家の所有となり、昨年の冬に帰省したさい、父喜代助が善平に与えた山)
 眺望がよく、東を眺めると、富める家も誇れる家も、宮古全市をことごとく眼下に見ることができ、閉伊の岬、宮古湾、藤原の松原は遥かに見えます。
 南は八幡の古い松が昔のままに繁り、北は水田を経て黒森に対しています。
 西は雪のまだ消えない早池峰が見えるはずですが、樹木が立ち繁って、立ってもかがんでも見ることができません。
 ほんとうに残念です。
 青葉若葉は嬉しいものとばかり思っていましたが、時には憾みの種になるもののようです。
 頂きは三反何畝ほどの広さとか。
 石の上に腰かけていると鶯がたくさん鳴きます。
 そのほか名を知らない鳥も歌います。
 嘘のような話ですが、ほととぎすも鳴いています。
 なかでも気に入ったのは、東斜面に老いた松が藤の花に絡まれてそびえていることです。
 つたない筆では表わすことができません。
 そのうち写真でも撮ったら、お送りしようと思います。
 小生は、この宮古公園地をあなたにお目にかけたいと思います。
 (以下、散逸)
 
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■ 私家版「寄生木のふるさと」

 
 「寄生木のふるさと」という小冊子のコピーを送っていただいた。
 著者は川原田尚城(なおじょう)さん。
 ご子息の晋さんのあとがきによると1973年(昭和48)に亡くなられている。
 コピーを送ってくださったのは晋さんの弟さん、修さんだ。
 A4判・約50ページの私家版で、2002年(平成14)に再版。
 初版の発行年月日の記載はない。
 はじめ宮古市役所内で発行する石村清忠さん編集の週刊新聞「庁内PR」紙に1960年(昭和35)3月から翌年5月まで連載された。
 タイトルどおり、「寄生木」原作者の小笠原善平が生まれ育った山口のことを中心としながら、小説の内容に触れている。
 川原田尚城さんも山口の人で、この本には貴重な証言がちりばめられている。
 善平の生家は屋号を花保(はなぼ)といった。
 一帯の小字(こあざ)の名を久保といい、その久保の突端にあったので端(はな)久保、それが転訛して花保になったのではないかと川原田さんは推測している。
 川原田さんの家は舘(たて)。
 小笠原善平の妹が嫁いだ一段高い上隣りの家は同じ小笠原姓で洞(ほら)と呼ばれたという。
 善平がピストル自殺したのは、この家だった。
 マキあるいはマギと呼ばれる同族のあいだでは、地名や地形的な特徴などによって、それぞれの家を呼び分ける習慣が根づいている。
 御壇(おだん)という小笠原一門の先祖が眠る墓所についても触れられている。
 墓を見ると小笠原姓ではなく北舘となっている。
 これは藩政時代に盛岡藩主の南部氏によって小笠原姓を名乗ることを禁じられたからで、維新を迎えて旧に復したのだと川原田さんは書いている。
 小笠原姓を禁じられた理由はわからない。
 北舘というのは北にある城館という意味なのだろう。
 地頭だった小笠原氏の山口館は、横山−舘合から見て北の要衝にあたっていた。
 
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■ 宮古の町は海だった

 
 小説「寄生木」に、おおよそつぎのような話が書かれている。
 ――伝説によれば、いまの宮古町あたりはだいたい海だった。
 宮古町の中央に七戻(ななもどり)という地名がある。
 山一重向こうの鍬ヶ崎は、古くからの遊女町。
 「行けや鍬ヶ崎 戻れや宮古 ここは思案の七戻り」
 と俗にも歌う七戻は、もと波打ち際。
 ある日、波が高いために旅人が七たび戻ったあとと言い伝えられている。
 坦々たる大道に沖という地名もある。
 宮古から西へ2キロ、馬士(まご)が鼻歌で行く長根(ながね)付近ではむかし、黒鯛を釣ったという。
 宮古から西北へ2キロ、山に寄った山口の里にも昔むかし海嘯(つなみ)の紀念に植えたという一本柳の地名がある。
 要するに、蝦夷の時代には、宮古付近は海底だった。
 盛岡の東にそびえる兜神岳のふもとから峡谷をうがって東へ東へと流れる閉伊川が太平洋の波濤と押しあって洲をつくり、洲が草原になり、田になり、畑になり、黒田(ほぐだ)の村になり、ついにこんにちの宮古町になるまでには、短からぬ歳月が流れた。
 この長い月日のあいだに、海は少しずつ東に退き、最後まで踏みとどまった蝦夷も隠花植物のごとく北に逃れた。
 土の下に昔は隠れ、土の上は大和民族の舞台になり、やや久しく生存競争の劇を演じるうちに、善平の祖先が現われる幕となった云々
 七戻というのは、いまの築地1丁目から愛宕1丁目にかけて、愛宕神社のあるあたりの俗称のようだ。
 もとは波打ち際で、波が高いために旅人が七たび戻ったあとと言われると小笠原善平は書いているが、宮古から鍬ヶ崎の遊郭に遊びに行こうかどうしようかとカネもない若者が迷って行きつ戻りつしたところでもあるのだろう。
 黒田を〈ほぐだ〉と読ませているのも興味深い。
 いま黒田町(くろたまち)と保久田(ほくだ)という町が隣り合っている。
 稲を植えるまえに鋤き起こして黒々した田をクロタというが、方言でホグダといい、保久田はその当て字なのかもしれない。
 
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■ オランダ島と女郎島

 
 鍬ヶ崎のおしゃらく(芸者)と、おとなり下閉伊郡の山田町にまつわる話――
 美しい山田湾のまんなかに、ふたつの島がぽっかりと浮かんでいる。
 大島と小島だ。
 1643年(寛永20)6月10日のこと、湾内に一隻の外国船が入ってきた。
 オランダの商船で、名をブレスケンス号という。
 嵐にあい、水や食料を求めて避難してきたのだった。
 大島のそばに停泊したブレスケンス号に代官所の役人が小舟で近づいた。
 すると、突然ブレスケンス号は轟音を発して人びとを仰天させた。
 歓迎の号砲だった。
 商船とはいえ大砲を装備していた。
 おっかなびっくり船に上がった代官は、求めに応じて水や食料の補給を許した。
 その一方で藩に知らせる使者を走らせた。
 使者にたった与左衛門は、山田から盛岡までの128キロを一昼夜で走り抜き、藩主から〈隼一昼夜〉の異名をもらった。
 盛岡藩は早馬を飛ばして幕府の指示を仰いだ。
 諸藩の勝手な通商やキリシタンの侵入を恐れて鎖国政策をとっていた幕府は、乗組員の捕縛を命じた。
 代官は鍬ヶ崎の遊郭から、おしゃらくたちを呼び寄せた。
 そして歓迎の宴を開くからといって船長らを小島に招いた。
 ボートでやってきた船長らは、おしゃらくの歌や踊りに喜び、酒に酔い、その隙をつかれて縄をかけられてしまった。
 異変に気づいたブレスケンス号は、大砲を撃ち鳴らしながら湾外へと去っていった。
 船長らは江戸へ送られ、取り調べのうえ避難や補給が目的だった事実が明らかになると、オランダへ帰ることが許された。
 のち、大島はオランダ島と呼ばれた。
 鍬ヶ崎のおしゃらくたちがもてなしの宴を開いた小島は、女郎島と呼ばれるようになった、という。
 
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■女郎島の名は消えた

 
 オランダ島・女郎島の話を山田町のホームページで見ると、女郎島の名は出てこない。
 鍬ヶ崎のおしゃらくの話もない。
 大島をオランダ島と書いた地図はあっても、小島を女郎島と記した地図はない。
 女郎島の名は消えてしまったようだ。
 ブレスケンス号事件と最近の動きを調べ直してみた。
 オランダ商船ブレスケンス号が水や食料を求めて山田湾に来航したのは1643年(寛永20)6月10日のこと。
 山田の人たちは温かくもてなし、翌11日にブレスケンス号は出帆した。
 ところが、7月28日になって再び入港した。
 こんどは盛岡藩の指示で翌日、宴会の場を小島に設けて歓迎し、油断に乗じてコルネス・スハープ船長ら10人を逮捕し、江戸に送った。
 給水目的とわかって釈放されたのは9ヵ月後だという。
 1964年(昭和39)大島をオランダ島に改称すると町議会で決定された。
 1993年(平成5)7月28日、オランダ船着船350周年記念の説明板と“ブレスケンス号着船の地”の標柱を建て、翌日、記念式典を開催。
 2000年5月13日、オランダ・ザイスト市と友好都市となる。
 2002年、山田湾漁協の所有だった島を町が2100万円で買収。
 7月〜8月に海水浴場が開かれ、県北自動車の渡し船が運航される。
 オランダ島(大島)は無人島で、面積2万6945平方メートル、一周1キロ。
 タブノ木の自生地としても知られる、白砂青松の美しい島――
 こうして見ると、女郎島の名は、小島に代わって公式に採用されるには響きが悪かった。
 正史に載らない一挿話として歴史の波のかげに消えたのだろう。
 
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■ 映画教室

 
 宮小時代の思い出のひとつに、映画鑑賞授業がある。
 たしか映画教室と言っていたと思う。
 授業の一環として映画を見にいった。
 2列縦隊で、隣りの子と手をつないで町の映画館まで歩いていった。
 はじめて見たのは安寿と厨子王のアニメーションだった。
 映画館はどこだったろう?
 東映という映画館が近くにあったらしいけれど、これはまったく記憶にない。
 調べてみると、「安寿と厨子王丸」という映画が1961年(昭和36)に封切られている。
 東映映画だ。
 だから、この記憶にない映画館で見たのかもしれない。
 1961年というと、ちょうど小学1年のときだ。
 父を殺された安寿・厨子王の姉弟と母が都をめざして逃げる。
 途中、悪い男に騙されて母親は佐渡へ流され、安寿と厨子王は人買いに売られる。
 ある日、安寿は厨子王を逃し、池に身を投げて死ぬ。
 都へ逃げのびた厨子王は、偉い人に育てられて成長する。
 そして佐渡へ渡り、年老いて盲目になった母親を捜しだす――
 そんな筋だった。
 涙で見た。
 「チコと鮫」という海洋映画も映画教室で見た。
 調べると、スペイン映画・ヘラルド配給で、1962年に公開されている。
 南洋の島に住むチコという少年が、珊瑚礁の入り江に迷い込んだ人食い鮫の子と仲良くなり、遊んだり餌を与えたりして過ごす。
 その後、成長したチコと鮫が再び海で出会い――
 後半は覚えていない。
 とにかく透明な海と白い砂浜が印象的な映画だった。
 不思議なことに、そのあと映画教室の記憶がまったくない。
 これは記憶に残る映画を見せてもらえなかったということだろうか。
 それとも映画教室という授業そのものがなくなってしまったのだろうか。
 
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■ 浄土ヶ浜の、中の浜キャンプ場

 
 浄土ヶ浜に中の浜キャンプ場があった。
 いまターミナルビルのあるところから階段を降りてゆくと、観光船発着所のある小石浜を通り、トンネルを抜ける。
 ボート乗り場のある浜があり、休憩所や土産物屋さんの入っているマリンハウスもある。
 そこがむかし、中の浜キャンプ場だった。
 小学生の夏休みに、1年上のとなりのタッコちゃんとふたり、小さいけれど重い三角テントをかついで泊まりに行った。
 いまと同じ位置にトイレがあり、前に水場があり、コンクリート製の武骨なテーブルとベンチがいくつか据えてあった。
 浜はコンクリートで埋められてはいなかった。
 朝、日の出とともに起きて、まだ冷たい海で泳いだ。
 早朝の海のなかは驚くほど澄みわたって、小魚やウミウシやヒトデがいた。
 ウニもいっぱいいた。
 このときのタッコちゃんが、のちにフォークグループNSPの一員となってデビューした。
 「あせ」「さようなら」「夕暮れ時はさびしそう」と立て続けにヒットさせた。
 一時期グループでの活動を停止していたが、2〜3年前から再びCDを出したりコンサートツアーに駆け回ったりとバリバリ活動しはじめた。
 「ライトミュージック」という古い雑誌の臨時増刊号を持っている。
 「NSP」と題され、〈これ一冊でNSPのすべてがOK!〉とコピーがあり、全篇NSPの記事と楽譜と写真で埋まっている。
 「想い出の写真集 中村貴之の巻」には、中学2年のときに同級生とキャンプ場で撮ったという写真が載っている。
 このキャンプ場が浄土ヶ浜にあった中の浜キャンプ場だった。
 同級生というのも、みな見かけたことのある顔ぶれで懐かしい。
 浄土ヶ浜の中の浜キャンプ場は、知らないあいだに廃止になっていた。
 調べてみると、1964年(昭和39)3月9日に閉鎖されたという。
 ずいぶん昔で、意外な感じがする。
 かわりに北の崎山に同じ名前のキャンプ場ができた。
 同じ名前というのも妙だけれど、もともとこちらも中の浜といったのだろう。
 
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■ 崎山の、中の浜キャンプ場

 
 いま中の浜キャンプ場というと、崎山にある中の浜キャンプ場をさす。
 ここにも泊まりに行ったことがある。
 ただ、当時、崎山のキャンプ場を中の浜キャンプ場と呼んでいたかどうか、はっきりした記憶がない。
 高校3年の夏休みだった。
 こんどはひとりで出かけた。
 バスで行った。
 いわゆるアウトドア派ではなく、キャンプなどほとんどしたことがなかった。
 当時アウトドアということばもなかった。
 父が鮎釣りに行くときに使っていたテントが家の物置にあった。
 受験勉強をするわけでもなくぶらぶらしていた気まぐれで、発作的にそのテントを引っぱりだしたのだろう。
 キャンプをしていてもたいして面白いわけではなかった。
 キャンプ場の騒々しさは肌に合わなかった。
 歩いてとなりの女遊戸(おなっぺ)海岸へ行って泳いだ。
 きれいな海だった。
 キャンプをするなら誰もいないようなところへ出かけたいと、その海を見ながら思った。
 大学に入って帰省した夏に、ミントン・ハウスというジャズ喫茶のマスターに声をかけられてアルバイトをしたことがある。
 ボーイやカウンターをやってくれというのではなかった。
 崎山の中の浜キャンプ場に野菜を売りに行くからついてこいという。
 小型トラックに宮町の青物市場で仕入れた野菜や果物を満載して出かけた。
 途中のトンネルのなかでパンクした。
 マスターがタイヤを取り替えるあいだ、ずっとライトを振って、後ろから来る車に合図をした。
 キャンプ場の出入口にトラックを停めた。
 ほとんど売れなかった。
 陽の暮れるころ砂浜へ行った。
 マスターは焚き火をし、やってくるキャンパーに声をかけた。
 自分は海を見ていた。
 売れ残った野菜や果物は店の裏の倉庫で山になった。
 マスターの奥さんがその前で溜め息をついた。
 
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■ 閉伊の語源

 
 宮古市を西から東につらぬく流れを閉伊川という。
 重茂(おもえ)半島の北端を閉伊崎と呼ぶ。
 近隣の田老町・新里村・岩泉町・山田町・川井村・田野畑村・普代村は下閉伊郡に属している。
 (後記――田老町と新里村は2005年6月6日に宮古市と合併して下閉伊郡を離れる)
 宮古も1941年(昭和16)に山口・千徳・磯鶏の三村と合併して市制を敷くまでは下閉伊郡宮古町だった。
 大槌町・宮守村は上閉伊郡。
 宮古と盛岡を結ぶ国道106号は、かつて閉伊街道とも呼ばれた。
 この〈閉伊〉とはなんだろう?
 調べてみると、閉伊のもとは閉で、さかのぼると閇という字を使ったらしい。
 「続日本紀」という古い官製歴史書の霊亀元年10月29日の条に、こんな記事がある。
 ――蝦夷(えみし)のスガノキミ・コマヒルらが、次のように奈良朝廷に申し出て、許しを得た。
 「先祖代々にわたって昆布を献上しておりますが、国府は遠くてたいへんです。
 閇(へい)村に役所を建てていただき、公民として末永く貢ぎ物を納めたいものと思います」
 この閇村というのが閉伊地方を表わす広域名称のもとで、閇村は宮古のことともされる。
 霊亀元年は西暦715年。
 そんな昔から宮古地方の昆布は貢ぎ物、つまり租税として納められていたらしい。
 ちなみに、これは昆布に関する最も古い記録とされる。
 閇という漢字は閉と同じで、閉じられた、これ以上先はないどん詰まりという意味なのだろう。
 三方を山に、前面を太平洋の荒海に囲まれ、何本も川が流れこむ。
 内陸や沿岸の集落と結ぶ細く険しい道は災害でしばしば寸断される。
 主要な産物は昔から昆布。
 〈閉伊〉という地名には宮古地方の厳しい一面が反映していたようだ。
 
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■ 念仏峠と山姥

 
 小笠原善平原作の長篇小説「寄生木〔やどりぎ〕」に、山姥〔やまうば〕の一挿話が書かれている。
 ちょっと文章を変えて引用する。
 ――宮古の大昔は蝦夷の地で、往来が不便なだけに蝦夷が最もおそくまで踏みとどまっていた。
 山口から北へ8キロあまり、佐羽根の近くには蝦夷舘〔えぞだて〕、蝦夷森という地名が残っている。
 その付近に念仏峠がある。
 谷向こうの岩窟に、口が耳まで裂けた山姥が住んでいて、旅人は念仏をとなえながら足早に通ったので、この名ができた。
 あまり古いことではない。
 大和民族がさかんに南から入りこんで跋扈(ばっこ)したのちにも、少しの蝦夷は敗者として隔離されて残っただろう。
 念仏峠の山姥なども、口ばたに入れ墨をした最後の蝦夷婆などではなかったか云々。
 同じような話が、田代にある亀岳〔きがく〕中学校のホームページに載っている。
 これも文章を少し変えて引用する。
 ――田代川の下流、佐羽根というところに鍋倉山があり、その中腹に洞窟がある。
 かつて、そこには〈やまんば〉が住んでいた。
 やまんばは、洞窟の前を通る人をひとり残らず食ってしまう。
 そこで、佐羽根の人たちは、やまんばの洞窟の前を通らないですむように山道をつくった。
 それでも近くを通るのは恐ろしい。
 田老から来る商人などは念仏をとなえながら通った。
 いつしか山道は、念仏峠と呼ばれるようになったという。
 以上が引用。
 念仏峠も鍋倉山も、手持ちの地名事典にはない。
 鍋倉という地名は、一般的には頂上が平らで周りが岩壁になって落ち込んでいるところをさすという。
 鍋を伏せたような感じなのだろう。
 地図を見ると、鍋倉山は出ている。
 三陸鉄道北リアス線の佐羽根駅の東方で、崎山や田老との境になっている。
 標高は248メートル。
 道は見えないが、この稜線のどこかに山姥が住む岩窟や念仏峠があったものだろう。
 
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■ 佐羽根のやまんば

 
 亀岳中学校のホームページにある「佐羽根やまんば物語」には、続いて、だいたいこんな話が書かれている。
 ――佐羽根の鍋倉山に、やまんばが住んでいた。
 やまんばは、洞窟の奥にある一輪の紫の花を、とても大切にしていた。
 それは、やまんばの命そのものだった。
 ある日、田代にある舘〔たで〕の八幡さまのお祭りで、一人のおじいさんが賭け矢に熱中していた。
 夜になった。
 おばあさんが提灯を持って迎えにきた。
 「おがすうな」
 いままで迎えにきたことなどなかった。
 おじいさんは首をかしげかしげ、いっしょに帰った。
 不思議なことに、おばあさんは提灯を持っているのに、おじいさんの後ろばかり歩く。
 「前を歩げ」
 おじいさんが何べん言っても、返事ばかりで前を歩こうとしない。
 一本橋まで来た。
 いつもならそろりそろりと渡るおばあさんが、きょうはすいすい渡りはじめた。
 おじいさんは、これは偽物だと気づいて矢を射た。
 おばあさんの偽物は真っ逆さまに川へ落ちた。
 急いで家に帰ったおじいさんは、本物のおばあさんといっしょに、家じゅうをかたく戸締まりした。
 しばらくして、やまんばがやってきた。
 「ばさま、じさま出せ!
 ばさま、じさま出せ!」
 一晩じゅう戸をたたきながらうめいていたやまんばの声が、日の昇るころに、ぱたりとやんだ。
 戸を開けたおじいさんとおばあさんは、戸の外にやまんばの死骸をみつけた。
 やまんばの洞窟にあった一輪の紫の花も、そのころ、ほろりと散ったという。
 
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■ 亀岳中学校が消える

 
 田代の中里にある亀岳(きがく)中学校が、2005年(平成17)4月、第一中学校へ統合されるという。
 現在の生徒数は12人。
 1年4人、2年5人、3年3人だ。
 来年3月には3年生の3人が卒業する。
 廃校にならずに、4月に亀岳小学校から、いま6年生の4人が上がってきたとしても、13人の小規模校だ。
 亀岳中学校は、1947年(昭和22)4月に第一中学校の亀岳分室として創設された。
 翌年4月に一中から独立して亀岳中学校となり、小学校との併設校になった。
 57年の歴史を持っている。
 これは亀岳中学校のホームページで得た知識だ。
 行ったことがなくとも、このホームページを見ると学校の今や昔がよくわかる。
 田代がどういう土地かということも、よく伝わってくる。
 標高1000メートルを越える峠ノ神山や亀ヶ森(亀岳山)が西にそびえ、そこを源流とする田代川が東へ流れる。
 豊かな自然のなかに鳥や動物たちが息づき、澄んだ空気に満天の星が輝く。
 さまざまな伝説・言い伝えがリアリティを持ち、田代神楽や剣舞などの伝承される民俗芸能の里だ。
 その一方で、過疎に加えて少子化が進んで廃校を余儀なくされ、子どもたちが遠い市街地の学校まで通わなければならなくなるという現実がある。
 中学校がなくなると、ホームページも消える。
 田代にともっていた灯、世界に開いていた窓が、ひとつ消えてしまう。
 そんな感じがする。
 センチメンタルになっていてもしようがない。
 亀岳の子どもたちは活発だ。
 ホームページには生徒会で決めたというスローガンが掲げられている。
 いわく、――有終の美!
 校舎は小学校の校舎として残る。
 
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■ 馬場の機織り滝

 
 亀岳(きがく)中学校のホームページに「田代の七不思議」という話が載っている。
 前に紹介した「佐羽根やまんば物語」はそのなかに入っている。
 残った何本かの話も自分なりのかたちで紹介していきたい。
 興味を覚えた方は、亀岳中学校のホームページを見てほしい。
 ホームページのアドレスを記しておく。
 http://www.rnac.ne.jp/~kigaku/
 ただ、来年(2005年)3月の廃校とともに、このアドレスも使われなくなるだろう。
 
――田代は田代川に沿った山里だ。
 馬場〔ばんば〕というところには馬場ノ滝がある。
 その少し上流に馬場ノ滝より小さな滝がある。
 幅2・5メートル、高さは1・5メートルほど。
 この小さな滝へ行くには、急な坂道を登ったり降りたり、草むらをかきわけたりして歩くしかない。
 道を探すのも、ひと苦労だ。
 まわりには木がたくさん生えている。
 昼でも暗く、深さ2メートルほどの滝壺のなかは真っ暗。
 以前は、いまの2倍も3倍も水が落ちていた。
 いま岩が見えているところにも水が流れていた。
 高さよりも幅が広くて、まるで機〔はた〕で白い布を織っているように見えた。
 水の落ちる音が機を織るようにも聞こえた。
 昔むかし馬場に機織りの好きなひとりの年若い女が住んでいた。
 ある日、女はこの滝壺に身を投げて死んでしまった。
 それから機を織る音が滝から聞こえるようになった。
 ぱたん しゅー ぱたん しゅー……
 どういう理由で女が滝壺に身を投げたのかは、だれにもわからなかった。
 いつしか村の人たちは、この滝を機織り滝と呼ぶようになった。
 
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■ 義経の草履

 
 田代の中里から西へ、車で50分、さらに歩いて1時間半ほど入った山のなかに、小さなほこらがある。
 ほこらのなかの石には亀岳山大明神と刻まれている。
 その石の下に、金属でできた草履(ぞうり)がある。
 長さ20センチから25センチ、幅10センチほど。
 これが義経の履いていたといわれる草履だ。
 義経とは、平泉から逃れてきた源義経のことだという。
 亀岳山大明神と刻まれた石の左右に、蛇と獅子の石像が一対ずつ置かれている。
 そのまわりには、金属でできた剣がたくさんある。
 ほこらの前には賽銭箱のような入れ物が置かれ、なかにはむかしのお金も入っている。
 ほこらへ行く途中に、もうひとつ別のほこらがある。
 そのほこらにお供えものをして、それから草履のあるほこらへ行く。
 すると、戻ってきたときにはもう、お供えものがなくなっているそうだ。
 旧暦の4月23日には亀ヶ森神社のお祭りがあって、たくさんの人が参詣に訪れる。
 なぜこの日にお祭りが行なわれるようになったかはわからない――
 これは義経北行伝説のひとつだ。
 宮古にもいろいろ伝説があるが、この亀岳山大明神の話は知らなかった。
 徳冨蘆花の小説「寄生木」には、こんな話がある。
 原作者の小笠原善平の祖母は、山口から北方3里の佐羽根から嫁いできた。
 旧暦4月になると生まれ育ったところの熊野さまへお参りにゆく。
 その道中に善平がついていったとき、祖母は語った。
 「もう石僧主(いしぼっち)に来たなア。
 この石を見なさろ。
 むかし源氏の義経さまが蝦夷さ隠れるどぎ、武蔵坊弁慶が負ぶってきて建でだ石ちうこんだ。
 義経さまもこご通ったんべがなア。
 ……来年は氏神さまのときにも来られんめえよ。
 歩けなかんべえもの」
 石僧主は石坊主か。
 とにかく、山口から佐羽根にゆく道にイシボッチと呼ばれる石があり、それは義経の家来の弁慶が、どこからか背負ってきて建てた石だという伝説があったらしい。
 
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■ おがんぶづ

 
 ――田代の吾妻に館八幡宮がある。
 昔むかし、そこには田代城という城館があった。
 城館には、はちまん太郎と、おがみが住んでいた。
 おがみというのは、おかみさん、奥さんのことだ。
 はちまん太郎というのは源義経のことだといわれている。
 あるとき、はちまん太郎が言った。
 「戦さに行く」
 はちまん太郎は戦さにでかけた。
 おがみは、はちまん太郎が戦さに勝つようにと念じて、川の淵へ身を捧げた。
 そのとき、どうしたわけか、一羽のにわとりを胸に抱いていた。
 はちまん太郎は、どんどんどんどん勝ち進んだ。
 とうとう津軽の海を越えて蝦夷(北海道)まで行った。
 そんな噂が伝わってきたけれど、その後のはちまん太郎のことはわからない。
 田代では不思議なことが起こっていた。
 おがみが身を投げた淵はとても深いんだが、そのまんなかに笠をかぶったような石ができた。
 それは、おがみだと言われた。
 不思議なことは、まだ起こった。
 夜、川沿いの道を通ると、にわとりの鳴き声が聞こえるようになった。
 いつしか村の人たちは、おがみが身を投げた淵を〈おがんぶづ〉と呼ぶようになった、という。
 〈おがんぶづ〉とは〈おがみの淵〉という意味。
 これも、源義経にまつわる、あまり知られていない話だ。
 田代館の跡は吾妻集落の東にある。
 田代氏の本姓は佐々木。
 佐々木源氏系とされて義経と関わりがなくもない。
 閉伊氏の一族だが、南部氏の家臣桜庭氏が千徳の河北閉伊氏を討ったときには桜庭側に味方をしたといわれる。
 
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■ 学校の下の骨

 
 亀岳小中学校の下には骨が埋まっている――
 そんな噂が田代にはある。
 噂の内容は2種類に分けられる。
  1 体育館の下に人の骨が埋まっている
  2 牛や馬の骨が埋まっている
 亀岳小中学校は併設校だ。
 学校のある場所には、むかし、墓地があった。
 校舎を新しく建てるとき反対する人もいた。
 多数決で建てることに決まった、という。
 中学校の廊下あたりまで山だったそうだ。
 いまの校舎を建てるときにその山を削った。
 すると、たくさんの馬の骨が出てきた。
 このあたりはむかし、〈そま捨て場〉だったからだという。
 そこからは、たくさんの缶詰も出てきたそうだ。
 日本が戦争をしていたころ、学校の川向こうに兵隊の演習場があった。
 その兵隊たちが山に隠していったのではないか、ということだ。
 これは亀岳中学校のホームページの「田代の七不思議」に出ていた話。
 〈そま捨て場〉というのがよくわからなかった。
 手もとにある三省堂の「大辞林」や小学館の「国語大辞典」には出ていない。
 「広辞苑」に、こうある。
 ――(東北・関東地方で) 斃〔たお〕れた馬。
 その棄て場を、そま出し・そま棄て場という。
 また、死馬。馬肉。
 田代でも馬を見かけることは少なくなっただろう。
 〈そま〉とか〈そま捨て場〉という言葉は、いまでも通じるのだろうか。
 子どものころ町なかでよく見かけた馬のなかには、田代から雄又峠を下ってきた馬もいたにちがいない。
 
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■ 石割り白樺

 
 盛岡には石割り桜がある。
 田代には石割り白樺がある。
 これは伝説ではなく、ほんとの話だ。
 盛岡の石割り桜は、ビルのあいだにある。
 田代の石割り白樺は、自然のまんなかに生きている。
 亀ヶ森の一本桜ほどには知られていない。
 けれど、知る人ぞ知る田代の名木だ。
 道路際の小高いところにあって、車で行くと、知らずに通り過ぎてしまう。
 亀岳中学校のホームページには、こんなふうに書かれている。
 ――石割り白樺は、中学校から亀ヶ森方面に車で50分ほど行った道路っぱたの、少し高いところにある。
 亀ヶ森の頂上から見ると東方にあたる。
 500メートルほど手前の道路っぱたには白樺の林がある。
 石割り白樺のまわりにはなにもない。
 石割り白樺1本だけだ。
 大きな石が2つに割れ、その割れ目から白樺が生えている。
 木の高さは約4メートル。
 石の直径は約1メートル。
 白樺は、どうやって大きな石を割ったのだろう。
 そのわけを、理科の巣内先生に聞いてみた。
 先生は、こう話してくれた。
 ――まず、なんらかの理由で大きな石にひびが入った。
 風に飛ばされた土が、ひびに入り込んだ。
 そこに白樺の種が風に乗ってきた。
 つぎの年、白樺の種が芽生え、根を伸ばした。
 根から出る酸で、石がほんの少しずつ溶けていった。
 さらに根が太くなり、ひびが広くなった。
 それが何十年も繰り返されるうちに、大きな石がまっぷたつに割れた。
 白樺はさらに大きくなった。
 
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■ むかしの遠足

 
 むかしの遠足は、ただ歩くだけの遠足が多かった。
 いまの遠足のように目的地に行って遊んでくるというものではなかったそうだ。
 亀岳中学校の遠足のコースには、だいたい、三つあった。
 一つ――
 学校から南へ行って、雄又峠〔おまたとうげ〕からぐるりと箱石・明塚・小峠・八川を通り、また学校に戻ってくるコースだ。
 「こえー、こえー」
 疲れた、疲れた。
 そう言いながら歩いたそうだ。
 二つ――
 学校から田代川沿いに東へ行き、佐羽根〔さばね〕を通って、松月〔まっつき〕海岸まで歩くコース。
 むかし、山に囲まれた田代の子どもたちは、海を見ることが、あまりなかった。
 このときばかりは思う存分に楽しんできたそうだ。 
 三つ――
 学校から西へ芦原平〔あしばたい〕まで行き、そこから北ノ又・亀ヶ沢を通って亀ヶ森まで登るコース。
 帰りは下り坂が急で、行きよりもはやく着いたそうだ。
 おまけ――
 遠足のコースではないけれど、よく遊びに行ったのは、繋ヶ沢の上にあった芝生のところだ。
 そこは少しだけ広くなっていた。
 いっぱい遊びまわれたそうだ。
 
 ちょっと注釈を加えると、亀岳中学校の所在地は大字〔おおあざ〕田代第16地割字中里。
 雄又峠は雄又の坂とも呼ばれ、田代と宮古との境をなす。
 この峠からの展望は美しく、とくに宮古の夜景をみる名所といわれる。
 箱石・明塚・小峠・八川は田代の東に接する大字崎山のうち。
 佐羽根には三陸鉄道北リアス線の駅が1972年(昭和47)にできた。
 松月は太平洋に面して、いまも人工物のない貴重な自然海岸。
 亀ヶ森は下閉伊郡岩泉町との境で、標高1112メートル。
 見晴らしのいい牧地や一本桜、石割白樺などがある。
 
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■ 雄又峠

 
 田代から宮古へ行く道というのは、むかしは1本か2本しかなかったという。
 山道で、ふたりが並んで、やっと通れるくらいの細さだった。
 歩いて宮古まで3時間かかった。
 南にある雄又峠(おまたとうげ)というのは、田代に3台しかなかった車の通った跡が道路になったのだそうだ。
 その3台の車というのは、田頭林業と中里林業と皆川林業のトラックだった。
 歩いて宮古へ行った人たちは、そのトラックの荷台に乗っかって帰ってきた。
 その当時は、トラックで雄又峠を通っても1時間半くらいかかったそうだ。
 いまは雄又峠も舗装され、宮古へは車で20分もあれば着いてしまう――
 
 以上で亀岳中学校のホームページを参照した一連の話を終える。
 市の北西部、田代地区と市街地のあいだに位置する雄又峠の標高は410メートル。
 材木屋さんのトラックというのは、鼻の長い、いわゆるボンネット・トラックだ。
 みんな濃い緑色の塗装をしていた。
 材木を荷台いっぱいに積んで、でこぼこ道を、がたがたと走っていた。
 宮古の町なかでもよく見かけた。
 そういえば、むかしは町なかにも材木屋さんが多かった。
 敷地が広く、太くて長い材木の山がいくつもあって、いい遊び場になっていた。
 そういう材木屋が近所に3軒はあった。
 材木の山に登って遊んでいても、注意されたり、追い出されたりしたということはない。
 鷹揚というか、のんびりしていたものだった。
 
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ボンネット・トラック
   M改めJAN * 投稿2
 
 四輪駆動あるいは六輪駆動のボンネット・トラックは、材木屋というより、山から木を切り出してくる××林業というようなところで主に使われていました。
 私のうちも昭和55年(1980年)まで材木屋(ぜーもぐや)、すなわち製材所でした。
 昭和40年(1965年)ぐらいを境に普通のノーマルなトラックになりました。
 というのは、近隣の山の木は××林業さんから丸太のまま仕入れるからです。
 切り出した丸太を積んでオフロードの林道を走るには、どうしてもへビーデューティーなトラックが不可欠でした。
 途中からは外材が多くなり、製材所ではあの手のいかついトラックは不要になったのです。
 ボンネット・トラックの多くは、いすゞ製でした。
 当時の山間を走るバスやトラックは、ほとんどが同じような顔をしていましたね。
 この夏、帰省したとき、蜂ヶ沢で見かけたトラックは、すごかった。まさに40年ぐらい前の六輪駆動のいすゞ。
 ほんとうにクルマを愛している人が大切に乗っているトラック、という気がしました。
         *
 この文章は、ハンドルネーム〈M改めJAN〉さんからホームページの伝言板にいただいた投稿。
 これを読み、前掲の「雄又峠」と題した文章では、××林業という名の業種と材木屋(製材所)さんとをごっちゃにしていたことに気づかされた。
 ほかにも貴重な証言を含んでいるので転載させてもらった。                   (j)
 
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■ お念仏さん

 
 ぼくのホームページの伝言板に宮古の祭りの話が載った。
 返信を書き込んだ。
 続いて何人かの人が返信を書き込んでくれた。
 話は意外な方向に進んで、〈いだこさん〉や〈お念仏さん〉の話題になった。
 いだこさんは、いたこ、巫女のこと。
 下北半島の恐山のいたこが有名だ。
 お念仏さんというのは初耳だった。
 人が死ぬと、お坊さんとは別に女の人がやってきて、念仏や経をとなえ、拝んでくれる――
 お念仏さんは、そういう存在であるらしい。
 お弔いが出たうちの人が呼ぶ場合もないことはない。
 しかし、ほとんどの場合、突然訪ねてきて仏前に座り、念仏をとなえだす。
 家の人は当惑する。
 その当惑をよそに、1時間も2時間も念仏をあげている。
 「お念仏さんだぁが」
 焼香に来た人が、そう教えてくれる。
 長い時間ありがたい念仏をとなえてもらって、ただ帰すわけにもいかない。
 礼を言い、とりとめのない話をする、膳を出す、心づけを包む。
 葬式が何日にもわたると毎日やってくる。
 ひとりより、3人、5人と集団で来ることが多い。
 外見は、ふつうのおばさん・おばあさん。
 地味な目立たない服装をしている。
 これは、念仏や読経を練習する会がいろいろなところにあって、お弔いが出ると、寺から連絡がいったり、亡くなった人の親戚や友達、近所の人など近しい人のだれかが連絡するのだという。
 実際にお念仏さんが念仏をとなえている場に同席した経験はない。
 しかしそう聞けば、なるほどと妙に納得してしまう。
 そういう存在もあるのだろうなと。
 宮古の土俗的な慣習・伝統の奥深さというようなものを感じさせられる話だった。
 
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■ いだこさん

 
 恐山で知られるいたこが宮古にもいる。
 いだこ、いだごと訛って呼ばれることが多い。
 神降ろしや湯立ての占い、死者の口寄せなどをするプロで、巫女や神子と書いたりする。
 袴に蚊帳のようなグリーンの上衣を着けていたり、紫の袴に白い上衣、白の頭巾だったりと見た人によってさまざまだ。
 とにかく、異形の者という雰囲気を強烈に漂わせているものらしい。
 たけのこ族のような衣裳と表現する人もいる。
 ご祝儀は、お気持ちだけ……
 少し調べてみたら、いだこさんはいろいろなことをするようだ。
 小正月の1月15日に、おしらさまを祀る家に地域の女たちが集まり、いだこさんを呼んで託宜を聞き、会食する慣わしがある。
 これを、おしらさま遊ばせという。
 春祈祷といって、2月ごろの良い日を選んで家にいたこさんを招き、その年の無病息災を祈祷してもらう。
 新築や井戸掘りのさいの地鎮祭、船をつくるときの舟霊祓い、病人の祈祷、憑きもの落とし、葬式の跡清め、祭りへの参列、すでに書いた神降ろしや仏降ろし、神社での湯立ちの神事などなど。
 市内に山野目・扇田・松浦、田老に西野、岩泉にも愛野・小成・浅沼などという家系のいだこさんがいる。
 〈いだこや〉という屋号で呼ばれる場合もある。
 川島秀一さんという人の書いた「漁撈伝承」(法政大学出版局)には津軽石のいたこのことが書かれている。
 ――宮古市津軽石に中島ハツという神子がいる。
 1910年(明治43)の生まれだ。
 お船霊の祭文を伝承しているが、彼女はこの祭文のことを、エビス直しと呼んでいる。
 エビス直しとは、漁師の言葉で、今まで漁が続いていたのが突然とぎれたときなどに、神子のところへ行ってお祓いをしてもらい、回復をはかることを指している。
 以上が「漁撈伝承」にあった大筋。
 いたこと聞くと、なにやらおどろおどろしいけれど、お念仏さまと同じように、宮古の文化の奥深さを感じさせる存在である。
 
▽                    目次へ ホームへ
 

■ トウキビ

 
 きょう、この秋はじめてトウモロコシを食べた。
 ふと思った、宮古ではよく食べたなぁと。
 トウモロコシと言うよりは、トウキビ、トウキビと呼んでいた気がする。
 生を自分のうちで茹でるような面倒はあまりしなかった。
 末広町などの商店の店先で、皮にくるまれたまま、ふさふさの毛がついたままのやつを大釜で茹でて売っていた。
 買うと新聞紙に包んでくれた。
 おやつに食べた。
 運動会や遠足のときも、稲荷寿司やおにぎりや梨や栗などとともに定番だった。
 皮を剥いて毛をむしり、そのままかぶりつく。
 口のまわりが汚れるのも気にせず、むしゃむしゃ食べる。
 これがうまい。
 ご飯にかけてもうまい。
 まず1列か2列を歯で起こして食べ、あとを手でほぐして器に入れる。
 醤油をかるくかける。
 匙ですくって、ほかほかのご飯にかけて食べる。
 いまは生を買ってくる。
 親戚から送られてくることもある。
 1本2本茹でるのはやはり面倒で、電子レンジでチン!
 粒立ってムチムチした食感のトウキビが簡単に食べられる。
 あぁ、鮮やかに黄色いトウキビ、白黒だんだら粒のトウキビ……
 う〜ん、これは宮古ではとか、昔はとかいう問題じゃなくて、ただ単に自分がトウキビ好きだというだけかもしれない。
 ドンとかドン屋といって、ポップコーンをつくってくれる屋台がリヤカーで町なかを回ってくることもあった。
 そういえば、真夏に浄土ヶ浜の売店などでよくトウモロコシを焼きながら売っているけれど、あれは昔の宮古にはなかった。
 
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■ 大判焼き・小判焼き

 
 国際という映画館のまえから北へのびる道沿いの東側に、大判焼きの店があった。
 地図でみると大通2丁目4番あたりだ。
 鉄板の丸い型に溶いた小麦粉を流し込み、小豆餡を入れて焼いた素朴な菓子で、ガラス戸のなかでおじさんが、ときどき千枚通しを使って引っくり返していた。
 1個15円だったような気がする。
 おでんもあった。
 店内にはデコラの安っぽいテーブルと椅子があり、奥にはコの字型に座席があった。
 しみのついた古い雑誌や新聞が無雑作に置いてあった。
 屋号は覚えていない。
 その近く、大通りに面した3丁目1番28号あたりに、饅頭を焼いて売る店が、あとになってできた。
 みやこ饅頭という名前だった。
 はっきり言って、あまりうまくなかった。
 大判焼きの店は、宮町の女学校踏切の近くにもあった。
 いまの出逢い橋の宮町側たもとあたりの西側だ。
 店の名前は覚えていない。
 おでんもやっていた。
 宮高時代、学校帰りに入った。
 味は国際近くの店のほうが好きだった。
 お焼きというのもあった。
 宮古一中の近くの民家の軒先というか庭先というか、常設の屋台が据えられていた。
 立って焼きながら売るスペースだけで、座って食べられるようにはなっていなかった。
 大判焼きより小さくて、小判焼きとも呼んだ。
 1970年ごろまで3個で10円だったような気がする。
 大判焼きより割安だった。
 焼きたてを紙袋に入れてくれた。
 冬は手がぬくまり、紙袋をてのひらで包むようにして歩きながら食べた。
 
 *八幡前に住んでいた先輩の話によると、お焼き・小
  判焼きは、“緒方さんの栗焼き”といったそうだ。
  国際近くの店は“甘太郎”と呼んだという。
 
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■ コロッケ・串カツ

 
 母親が店を切りまわして一日じゅう働いていたため、夕食に手の込んだ料理が出てくることは、まずなかった。
 食卓には近くの商店から買ってくる惣菜が並んだ。
 コロッケは、その既製品メニューのなかの主要な一品だった。
 朝はパンで、トーストにサンドしてよく食べた。
 給食にもしきりに出た。
 おやつにも食べた。
 八幡通りに住んでいた小学生のころ、となりに揚げたてのコロッケを売る店ができた。
 家に持ち帰らずに買ったその場で熱々を立ち食いするのがうまかった。
 一中・宮高の近くの女学校通りに面した肉屋でも、コロッケと串カツの揚げたてを売っていた。
 学校帰りに買い食い・立ち食いをした。
 熱々に醤油をドボドボかけて食った。
 串カツは、これが食べはじめだった。
 大きな玉ねぎのスライスと、小さくて脂身の多い肉片が、ギトギトの油で揚げられていた。
 食べ終わると串を天井に投げつける。
 油ジミだらけの天井に何本も串が刺さっていた。
 自分が投げても刺さったためしはなかった。
 肉屋の名前は、たしか畠山精肉店といった。
 串カツはともかく、むかしはほんとうにコロッケをよく食べた。
 大むかしに“今日もコロッケ、明日もコロッケ〜”という歌が流行った。
 自分の子ども時代にもそんな感じがあった。
 好物だからボヤキなど出るはずもなかった。
 
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■ 宮小

 
 宮小――宮古小学校は、時の流れのなかで大きく変わった。
 それでも逆ピラミッド校舎とプールがまだ残っている。
 木造の校舎にはコンクリートのテラスがついていた。
 というか、コンクリートの高い土台の上に校舎が載っていた。
 もとは田んぼだったのだろう、水はけが悪くて雨が降ると校庭は海になった。
 テラスは〈だるまさんが転んだ〉をして遊ぶ格好の場所だった。
 テラスの下には手入れの行き届いた花壇があった。
 たしか5年から6年にかけて合唱団に入れられた。
 音楽室からは中庭が見えた。
 池があり、大きな鯉がいて、給食のパンをちぎってやった。
 ぼくの年代は木造旧校舎に入った最後の、逆ピラミッド新校舎に入った最初の学年だったと思う。
 プールもそのころにできた。
 工事は旧校舎をコロで移動することから始まった。
 旧校舎が使えないあいだ体育館をベニヤ板で仕切って教室代わりに使っていた。
 裏山を発破で崩し、飛んできた大石で旧校舎の屋根に穴があいた。
 古い木造校舎の雑巾掛けはたいへんだった。
 ささくれでつっかえつっかえしたあげく、そのささくれが手に刺さった。
 校庭には垣根以外に囲いはなく、どこからでも自由に入れた。
 横切って近道するおとなも多かった。
 ドッヂボールが盛んだった。
 昼の休み以外に放課後にもドッヂボールをした。
 三角乗りで自転車に乗る練習をしたのも校庭だった。
 日曜も学校とその周辺が主な遊び場だった。
 大雨が降って海になった校庭の泥土を掘っては溜まった水を流すという、いま考えれば不思議な遊びもした。
 泥んこ遊びだ。
 公孫樹の大木が何本も立ち並び、秋には夕陽に燃え立った。
 (後記――これは記憶違いで、公孫樹ではなく正しくはポプラだった)
 陽がとっぷり暮れかかるころ、帰りをうながすように蝙蝠がひらひらと舞い飛んだ。
 白いハンカチに石を包んで投げ上げると蝙蝠がつられて落ちてきた。
 
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■ 一中

 
 宮古市立宮古第一中学校(後記 正しくは宮古市立第一中学校)――
 しかし、第一中学校などとは呼ばない。
 一中もしくは宮古一中と呼ぶ。
 二中もある。
 三中はなく、河南・愛中(愛宕中学校)などとはクラブ活動などで交流があったが、愛中は廃校になってしまった。
 一中は文武両道、勉強とスポーツの両立を目標に掲げていた。
 1年と3年のときは、八幡さまの参道を通って正門から入った。
 参道沿いや敷地の東沿いの道には桜並木がつづき、東門があった。
 2年のときは、この東門から入った。
 校庭の西側、八幡さまの麓も桜並木だった。
 桜の木のそばに、市の天然記念物に指定されている逆さイチョウがある。
 校庭は開放されていて、入ろうと思えばいつでも、いろんなところから入れた。
 2年のとき、十勝沖地震があった。
 ガラスが割れるほどの強い揺れに、クラスじゅう総立ちになった。
 悲鳴をあげる級友もいた。
 八幡さまに全員が避難した。
 2年生は逆さイチョウのところから八幡さまへ登る細い道を行った。
 閉伊川の水が河口に引き、やがて逆流して押し寄せてくるのが山の上から見えた。
 幸いに津波の被害はなかった。
 そのときの担任は英語の佐藤先生。
 1年のときは体育の伊香先生で、3年は2年から続いて佐藤先生だったと思う。
 3年間テニス部に所属した。
 軟式テニスで、硬式はなかった。
 閉伊川の土手でランニング・柔軟体操・腹筋・腕立て伏せ・うさぎ跳び・素振りをした。
 八幡さまへ登る山道を何度も駆けあがり駆けおりた。
 100段ある急な石段も駆けあがった。
 50人以上も入った新人は、このハードトレーニングに恐れをなして1週間で半分に減り、夏休みまでにまた半分に減った。
 練習のあとの水道の水はうまかった。
 きつい練習はどうにかこなしたが、テニス自体はあまり上達しなかった。
 部活に明け暮れて、ほとんど勉強もしなかったから、けっきょく文武不両立に終わった。
 
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■ 宮高時代

 
 宮小、一中と進んで宮高――岩手県立宮古高等学校へ進学するというのは規定のコースのようなものだった。
 水高――宮古水産高校にはなんとない憧れがあった。
 ただ、体力もなく、まともに泳げもせず、水産業にかかわりのない家に育った自分には別の世界だと思っていた。
 持ち上がりのような感じで入った宮高にはなじめなかった。
 退学を考え、担任の先生に説得されて思いとどまった。
 英語の菅原先生だった。
 転勤だったか辞めたのだったか、とにかくその年度で宮高からいなくなった。
 飲んべえで、お別れにクラスでお酒を贈った。
 2年になってクラスになじんだ。
 高浜や、隣り町の山田方面から通学してくる生徒も多かった。
 男も女も和気あいあいとして、親しい友人もできた。
 担任の教師の人柄もあったかもしれない。
 3年になって一時、写真部に所属。
 併行して級友とボール同好会というのをでっちあげ、サッカーやラグビーなどのボール遊びをやったが、これは自然消滅した。
 卒業アルバム制作委員もやった。
 オリンピア(体育祭)のとき片目を眼底出血していて競技には参加せず、眼帯をした片目で写真を撮ってまわった。
 その写真を卒業アルバムにいっぱい入れた。
 制作請負は新町の城内写真館。
 2年と3年の担任は英語の相山先生だった。
 やはり飲んべえで、授業に遅刻するは、宿酔で呂律がまわらずに授業を途中で切り上げて自習になるは、そんなことがしょっちゅうだった。
 西町の借家に一人住まいで、なんどか遊びに行った。
 教師らしいところのない、ありのままの男、ありのままの人間という感じがし、学校の勉強以外のなにかを自然に感じとらせてもらった気がする。
 ある年の1月3日にドンという2・3年次の級友が本町の八兵衛会館で結婚式を挙げた。
 その席で久しぶりに先生に会った。
 正月でもあり、めでたい式だから当然だが、相変わらず酔っ払っていた。
 
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■ ミントン・ハウス

 
 築地1丁目1番地あたり、市役所の右斜向いにミントン・ハウスというジャズ喫茶があった。
 Kさんというマスターがやっていた。
 狭い店で、金魚屋を兼業していた。
 1971年(昭和46)頃に開業した。
 上京して数年たった夏に帰省したらなくなっていた。
 1978年(昭和53)頃だったと思う。
 高校2年のとき級友のヤマに連れられていった。
 それまでとくにジャズが好きなわけではなかったが、けっこう入りびたった。
 ヤマと、もうひとりドンという級友といっしょのこともあった。
 「行って見んとん」
 ――だれかが駄洒落をとばした。
 学校が終わると、末広町、中央通りを歩いて、まっすぐミントンに行く。
 もちろん制服のままだ。
 コーヒー代は弁当代を浮かしてつくった。
 カウンターで一杯のコーヒーをすすりながらジャズの響きに身をまかせる。
 いやなこと、悩みは、みんな忘れた。
 ジャズの知識はなかった。
 レコード・ジャケットは見る。
 解説(ライナー・ノーツと言っていた)は読んでもウロ覚えていど。
 ミントン・ハウスというのはニューヨークのハーレムにあったジャズ・バーだというぐらいのことは知っていた。
 客はあまり入ってこなかった。
 よく行っていたのは夕方前だ。
 マスターは言っていた。
 「夜に来(く)んだぁ」
 客がいないのをいいことに、自分のレコードを持ち込んでかけてもらった。
 覚えているのは「浅川マキの世界」。
 にが笑いしながらレコードに針を落とすと、マスターは小さなドアをくぐって金魚屋のほうへ姿を消した。
 
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■ 不思議な地名

 
 小学校の4年のころだった。
 自転車で国道106号を西へ、盛岡方面へずっと漕いでいった。
 ちょっとした冒険気分だった。
 自転車は子ども用ではなく、母親がうちの店で使っていた婦人用だった。
 子ども用の自転車は買ってもらわなかった。
 当時、自転車といえば、三角フレームで荷台の大きなタイプがまだ多かった。
 酒屋さんや新聞屋さんが使うような、がっしりした黒い実用自転車だ。
 それに対して、三角フレームでなく、多少華奢で軽い婦人用自転車が出回りはじめていた。
 当時は国道も、ところどころ舗装されていたが、未舗装のほうが多かった。
 106号線は、舘合から西へ坂を下った県北バスのあたりが舗装工事の真っ最中で、ローラー車がさかんに動き回っていた。
 その先は、ほとんど粗い土のデコボコ道だった。
 近内口を過ぎ、千徳を越え、花輪橋を横目に見て、ずっと漕いだ。
 かなり遠くまで来たと思ったころ、ふと標識が目に入った。
 花原市と書いてある。
 ――宮古の近くに、こんな市が!?
 まったく知らない地名に驚いた。
 急に不安になり、あわてて埃っぽい道を引き返した。
 ハナハラシと読んだのだ。
 ケバライチという地名は、耳から聞いて知っていた。
 不思議な響きがした。
 ただ、それを花原市と書き、どのへんにあるかということは、このときまだ知らなかった。
 
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■ 市内転々

 
 父は盛岡に生まれた人だった。
 母は山田に生まれた。
 戦後、盛岡で出会って結婚し、兄が生まれた。
 盛岡で修業して一人前の職人になった父は、山田に初めての店を持った。
 1年後に宮古に移り、黒田町に店を開いた。
 その年、ぼくが生まれた。
 4人家族で宮古に生まれたのは、ぼくひとりだ。
 黒田町の家のことは、記憶の底に沈んでいる。
 それでも、いくつか淡い記憶のかけらは浮いてくる。
 店を兼ねた家は四辻の角地にあった。
 向かい角の米屋、近くの煎餅屋は、いまもある。
 中央通りに出る道筋に貸し本屋があった。
 坂の上の御深山(おしんざん)の真下に、母方の叔父夫婦が短いあいだ住んでいた。
 小さな庭のある日当たりのいい家だった。
 なんの仕事をしていたかは知らない。
 すぐに盛岡に引っ越して小さな本屋を開いた。
 ほかに宮古に親戚はいない。
 うちは黒田町から新町に移った。
 それから、八幡通りに引っ越した。
 このときまで家はみな借家で、八幡通りの家は長屋の一郭だった。
 八幡通りは住居表示の変更で大通りになった。
 店を大通りに開いたまま、千徳町に家を建てて引っ越した。
 小学6年のときだ。
 学校へは車やバスで通った。
 バス停のすぐそばだった。
 中学・高校時代をこの家で過ごし、ぼくは上京した。
 その数年後、父と母は千徳町の奥に家を建てて引っ越した。
 病がちの父を抱え、職人さんを使って店を切りまわしていた母も、歳と不況の波に堪えず店を閉じた。
 父はこの千徳の自分の家で死んだ。
 
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■ 新町

 
 新町は西に黒田町、東に本町、北に横町があり、横町に向かってなだらかな上り坂になっている。
 中央通りを挟んだ南は、田町と呼んでいた。
 いまの向町だ。
 黒田町から新町に移ったのは1956年(昭和31)のことで、それから3年ぐらいしかいなかった。
 店を兼ねた家は木造2階建ての民家だった。
 外壁は板壁、やはり木の雨戸がついていて、それほど粗末な造りではなかった。
 店を開くには、いい場所だったのだろう。
 並びにクマヘエと呼んだ老舗の熊谷薬局があり、蔵造りの建物はいまも残っている。
 床屋もあった。
 中央通りと交わる角には箒やザルや塩を売る店があって、カドリンと呼ばれたらしい。
 その向かい角が洋菓子のコーセー堂で、漢字では光正堂とか光星堂と書いたような気がする。
 店頭には不二家のペコちゃんの大きな人形が置かれていた。
 並びに生豆屋や肉屋、酒屋の倉庫、煙草屋、東北銀行などがあった。
 第二幹線から北の横町寄りでは、角の沢田屋旅館と中沢書店ぐらいしか覚えていない。
 この書店でゴム動力の飛行機を買ってつくった。
 竹ヒゴをニューム管でつないだフレームに紙を張る模型飛行機で、宮古小学校の校庭に行って飛ばした。
 二幹線を東の本町へ行った角にも模型屋があり、たしか幾久屋といったと思う。
 仲のいい友達がひとりいた。
 町内の子で、酒屋の倉庫に入り込んで遊んだりした。
 その子の家には裏に土蔵があって、黒い重々しい鉄扉がついていた。
 悪いことをすると入れられるのだと思った。
 新町には古くからの家が多く、白壁の蔵のある家も多かった。
 
 *不二家のペコちゃんは、1950年(昭和25)に
  店頭人形として生まれたという。
  ペコは牛のベコに由来。
  舌をぺろりと出し、身長1メートル、永遠の6歳。
 
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■ 啄木の宮古寄港

 
 石川啄木が宮古を訪れたのは、1908年(明治41)4月6日のことだった。
 渋民村を追われて北海道に新天地を求めた啄木は、函館をはじめ札幌・小樽・釧路などの新聞社を転々と渡り歩いた。
 啄木の伝記を読むと、北海道放浪とか漂泊という言葉がしきりに使われている。
 宮古出身の新聞人である小国露堂と知り合って思想的に影響を受けたというのもこの頃だ。
 北海道放浪をきりあげて上京し、創作活動に専念することを期した啄木は、1908年4月3日に釧路新聞社を辞め、釧路港から酒田川丸に乗船した。
 宮古経由・函館行き、安田船舶の蒸気船で、349トン。
 啄木が乗った二等船客の船賃は3円75銭。
 石炭の積み込みが遅れ、酒田川丸が出港したのは5日午前7時30分だった。
 翌6日の午後2時過ぎに宮古へ入港した。
 宮古停泊は約6時間。
 その間に啄木は、鍬ヶ崎の医師の道又金吾を訪ねている。
 旧知の間柄というわけではなく、初対面だった。
 菊池武治という盛岡出身の新聞記者仲間が書いてくれた紹介状を先に届け、そのあと訪ねていった。
 ご馳走になったり、盛岡中学の恩師だった富田小一郎の近況を聞いたりして夕方に道又家を辞し、近所のうどん屋に入った。
 この日の啄木日記が残っている。
 その全文が〈啄木寄港の地〉という石碑に刻まれ、宮古港を見下ろす光岸地の高台に建立された。
 宮古漁業協同組合ビルのまえで、1979年(昭和54)4月6日、啄木が宮古を訪れてから71年後のことだった。
 28年の生涯で啄木が宮古の地を踏んだのは、あとにもさきにもこの一度きりらしい。
 そして、生きてふたたび岩手の大地を踏みしめることはなかった。
 啄木にとって宮古は、岩手最後の地となった。
 
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■ 啄木の日記から

 
 “啄木寄港の地”碑に刻印された「明治四十一年日誌」4月6日の記事からは、当時の鍬ヶ崎の一面がかいまみられる。
 貴重な文章なので、その全文を、表記を変えて引用したい。
 ――起きて見れば、雨が波のしぶきとともに甲板を洗っている。
 灰色の濃霧が視界を閉ざして、海は灰色の波をあげている。
 船は灰色の波にもまれて、木の葉のごとく太平洋のなかに漂っている。
 10時ごろ、ガスが晴れた。
 午後2時10分、宮古港に入る。
 すぐ上陸して入浴。
 梅のつぼみを見て驚く。
 梅ばかりではない、四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。
 菊池武治君の手紙をさきに届けておいて、道又金吾氏(医師)を訪ねる。
 ご馳走になったり、富田小一郎先生の消息を聞いたりして夕刻に辞す。
 街は古風な、沈んだ、かびの生えたような空気に満ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べている。
 街上を行くものは、たいてい白粉を厚く塗った抜き衣紋の女である。
 鎮痛膏をこめかみに貼った女の家でウドンを食う。
 ただ二間だけの隣りの一間では、11歳ばかりの女の子が三味線を習っていた。
 「芸者にするか」
 と問えば、
 「何になりやんすだかす」
 夜9時抜錨。
 同室の鰊取りの親方の気焔を聞く。
 
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■ むかしの鍬ヶ崎

 
 宮古出身の盛合聰さんが書いた「啄木と小国露堂」という本がある。
 1990年(平成2)に熊谷印刷出版部から刊行された。
 小国露堂というのは宮古出身の新聞人だ。
 北海道に渡り、同じく北海道で新聞社を転々としていた啄木と交遊して思想的な影響を与えたといわれる。
 この本には、啄木の鍬ヶ崎来港にまつわって、おおむねこんな記述がある。
 ――鍬ヶ崎の海岸通りの石積み岸壁から沖に向かって、木杭に橋桁、それに橋板が敷かれた木製の桟橋がつきでていた。
 その桟橋には艀〔はしけ〕が着き、沖に停まっている船との連絡にあたった。
 夏には背中を焼いた少年がその桟橋から海に飛び込んで泳ぎ、泳ぎ疲れては桟橋に寝そべって甲羅を焼いていた。
 浜通りには飲食店・小料理屋・船具屋・旅館・油屋などが軒を並べていた。
 もう1本の本通りには遊女屋が、呉服屋・薬屋・飴屋などの堅い商売の店にまじっていた。
 その浜通りと本通りをつなぐ数本の横丁に小さな飲み屋があり、横丁をつきぬけて山の手に登ってゆくと、やや高級な料亭や医院・寺・神社などが急な石段の上にあった。
 道又医院は浜通りからつきぬけて山の手に登る道又沢にある。
 現在は改築して近代建築になったけれども、つい先年まで、むかしながらの木造の町医者の邸だった。
 遊女屋は姿を消し、いろいろな看板に変わったが、むかしながらの家並みは変わらない。
 啄木がうどん屋に立ち寄ったのは、道又医院から出て岸壁にいたるあいだのこと。
 現在の宮古信用金庫鍬ヶ崎支店の前あたりに、賛成屋・たまやという2軒の蕎麦屋が30メートルほど離れて当時も営業していたそうだから、そのいずれかだろう。
 
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■ 消えた砂浜

 
 閉伊川出口南岸の藤原から、宮古湾に面した海岸線――
 そこにはかつて延々とつづく砂浜があり、松原があり、かっこうの海水浴場になっていた。
 砂浜は須賀と呼ばれた。
 小学生のころ、夏休みに入るや真っ先に駆けつけた。
 宮古橋を渡り、浜街道(国道45号)が南に大きくカーブしてゆくあたりで藤原保育所わきの小道に入り、砂浜に抜けた。
 宮古橋から閉伊川の右岸沿いを河口の端、砂浜の端まで行くこともあった。
 湾に短い突堤がのびていた。
 いまはバラ線でさえぎられて行けないが、どうにか形だけはとどめている。
 保育所近くに設けられた監視塔に、泳げる日には白旗が、天候不順で海が荒れて泳げないときは赤旗が掲げられた。
 この旗は町なかの栄町にあった保健所のポールにも掲げられた。
 海にはダボが浮かんでいた。
 粗い網に包まれたガラスの浮き玉で、ロープで繋いであった。
 そのダボをめざして泳いだ。
 少しは泳げた。
 運動神経がよくないせいか、ほとんど上達しなかった。
 泳ぐ場所、荷物を置いて甲羅干しする場所を、藤原の河口寄りから、しだいに磯鶏の岩場のほうへ移していった。
 岩場には、一番岩という名前がついていた。
 一番岩を越えると小さな浜がいくつかあった。
 黄金浜(こがねはま)やトド浜という名前だった。
 1987年(昭和62)発行の宮古市の地図をみた。
 閉伊川の河口から神林にかけての海岸には、埠頭や木材港、なにに使っているかわからない広大な空白地がある。
 須賀、一番岩、黄金浜、トド浜などの面影はもちろん、名前の痕跡もない。
 せめて名前ぐらい残せなかったのだろうか。
 
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■ 磯鶏村小学校

 
 啄木の盛岡中学時代の同級生に、伊東圭一郎という人物がいた。
 1903年(明治36)3月に盛岡中学を卒業した伊東は、9月になって磯鶏村小学校の代用教員として赴任している。
 磯鶏小学校は、いま高台の上村〔わむら〕2丁目にある。
 かつては海に近い市民文化会館の場所にあった。
 1876年(明治9)12月に創立された古い学校だ。
 磯鶏村も、当時は下閉伊郡下の一漁村だった。
 財政は苦しかったらしい。
 伊東圭一郎は13円の月給を一度には貰えず、5円、3円と分割して支給されたという。
 残る5円はどうしたかというと、〈素封家の岩船栄次郎さん方に下宿していたので、その下宿料だった〉が、〈役場ではそれを、岩船家の税金と相殺するという有様だった〉。
 これは伊東の著書「人間啄木」に書いてある。
 初版が1959年(昭和34)5月、復刻版が1996年(平成8)7月に、岩手日報社から出ている。
 引用をつづけよう。
 〈校長は晴山芳太郎先生(宮古市教育長晴山機智雄さんの厳父)で、教員はたった4人だった。
 私の半ヵ年の磯鶏生活での思い出は、あの美しい浜辺を散歩したことと、啄木から長い手紙を貰ったことである。
 啄木は私の貧乏と病弱なのに同情して、月に2、3回長い長い手紙を呉れた。
 或る晩、啄木の手紙を広げているところへ岩船夫人が入ってきたので、手伝ってもらって計ってみたら5間半あった。〉
 伊東は磯鶏村小学校に半年ほどしかいなかった。
 離任した理由は書かれていないが、さしずめ給料の遅配に嫌気がさしたのかもしれない。
 盛岡へ戻り、その後、東京朝日新聞社などを経て岩手日報社の常勤顧問になっている。
 伊東の在任した磯鶏村小学校へは、のちに一人の若い女性教師が赴任してくる。
 名前を西塔幸子〔さいとう こうこ〕という。
 歌を詠み、のちに〈女啄木〉と呼ばれた。
 
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■ 女啄木−西塔幸子

 
 川井村に西塔幸子(さいとうこうこ)記念館がある。
 1991年(平成3)に開館した。
 かたわらに歌碑が建っている。
  灯を消せば山の匂のしるくして
       はろけくも吾は来つるものかな
 西塔幸子は“女啄木”とも呼ばれた歌人で、教師だった。
 宮古とも縁があり、1921年(大正10)に磯鶏の尋常高等小学校へ赴任している。
 夫もまた鍬ヶ崎の尋常高等小学校へ赴任し、翌1922年には藤原にあった住まいが類焼の難にあっている。
 幸子は1900年(明治33)11月17日に紫波郡の不動村、いまの矢巾町に生まれた。
 岩手師範学校女子部を卒業後、6人の子どもを生み育てながら県内各地、とくに山間僻地の小学校を歴任した。
 “はろけくも吾は来つるものかな”という感慨は深かっただろう。
 川井の江繋(えつなぎ)小学校に在任中に病を得て、1936年(昭和11)6月22日に死んだ。
 享年は数えで37歳、満で35歳だった。
 翌年、残された1000首ほどのなかから歌集「山峡(やまかい)」が遺族の手で編まれた。
 2首だけ紹介しよう。
  九十九折る山路を越えて乗る馬の
       ゆきなづみつつ日は暮れにけり
  憂きことも束の間忘れすなほなる
       心になりて山にものいふ
 宮古の愛宕にお住まいで元教員の佐々木京子さんという方が、「歌集『山峡』の道を辿りて」を1988年に、「山峡のみち」を2004年に自費出版しているという。
 ぜひ読んでみたいと思っているけれど、ツテでもなければ自費出版というのはなかなか手に入らない。
 
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チョウセンアカシジミ
   うらら * 投稿3
 
 シジミとつくので貝の名前と間違えてしまいそうですが、宮古に育った人なら誰でも子供の頃、閉伊川の川縁や野原で何度も出会ったことのある赤茶の縞々の蝶の名前です。
 この懐かしい蝶が、国内では初めて昭和28年(1953年)に三陸沿岸地域で発見されたこと、現在日本版レッドデータブックに希少種として記載されていて絶滅の危機にあること、そして宮古で昭和61年(1986年)に“チョウセンアカシジミの会”を発足させ保護活動を実践しているのが、宮高の同級生のOYさんだということを最近になって知りました。
 OYさんのことは“IPANGU”という小冊子に紹介されていたのですが、聞いたことある名前だな?と気になっていて、あとで宮高の卒業アルバムをめくってみると、彼はアルバムの中にいました。
 たぶん宮小、一中、宮高と一緒だったように思います。
 プロフィールを読んで知ったのですが、宮高時代にチョウセンアカシジミの研究で日本学生科学賞を受賞しています。
 生物部の写真にも写っていました。
 そして「宮古なんだりかんだり」に出ていた亀岳中学校のHPの「田代紹介」のところに、生徒と一緒に保護活動を行なっている姿がありました。
 チョウセンアカシジミの食樹であるトネリコが河川改修や伐採で激滅したことが、この蝶が消えつつあることの原因だそうです。
 OYさんは川岸や民家の周りに一本一本トネリコを植えて、すみかを甦らせる運動を広げています。
 「生息地を秘密にせず、みんなに知らせて守っていくことが今後の保護のポイント。
 昔からあったものがなくなるとはどういうことか考えてもらいたい」
 というのがOYさんからのメッセージです。
 
 *“IPANGU”は県の広報課が県外に岩手の情報を発信している季刊広報誌。http://www.pref.iwate.jp/ipangu/ を参照。
 チョウセンアカシジミの会の記事は同誌第27号に掲載。(j)
 
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■ 日出島

 
 浄土ヶ浜や蛸の浜の左手、北方に日出島が浮かんでいる。
 宮古でいちばん大きな島だ。
 ある資料によると、周囲1800メートル・標高50メートル・面積1万2396平方メートル。
 名前は、日の出る方向にある島という意味でつけられたらしい。
 古文書に秀島と書かれている例もあるという。
 軍艦島の異名ももっている。
 1869年(明治2)の宮古港海戦のさいには敵艦と見誤って発砲する軍艦があったといわれる。
 宮古観光協会が選定した新宮古八景のひとつに選ばれている。
 太平洋の荒海、ごつごつした岩肌の無人島、赤松の多い緑に覆われ、海鳥が舞う景色は、一幅の絵になっている。
 対岸の日出島海岸からは600メートルほど沖に位置する。
 この日出島海岸だったか、手前のローソク岩のあたりだったか、小学校のとき遠足に出かけた。
 常安寺の坂をのぼって佐原に抜け、そのあとがずいぶん長かった。
 繁った緑のなかの小道を通って海岸に出た。
 ぽっかり浮かんだ日出島は波打ち際が急峻で上陸できそうに見えなかったが、いつか行ってみたいと思った。
 上陸は禁止されていると、あとになって知った。
 1935年(昭和10)に、クロコシジロウミツバメの繁殖地として、国の天然記念物に指定されているからだ。
 その後は浄土ヶ浜から出ている遊覧船に乗って見ることが多い。
 最近、人の住まない島にも住居表示があることを知った。
 日出島は、宮古市崎鍬ヶ崎第18地割56番だそうだ。
 ついでに書いておくと、島は対岸の日出島集落の共同所有で、管理者は宮古市になっている。
 
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■ クロコシジロウミツバメ

 
 動植物の和名を片仮名で書かれると、もとの意味がわからなくて困ることがある。
 クロコシジロウミツバメもそうだ。
 クロコ・シジロ・ウミツバメなどと区切って読んでしまい、
 「クロコとかシジロとかいうのはなんだろう?」
 と首をかしげてしまう。
 調べてみると、黒腰白海燕と書くらしい。
 これも黒腰・白海燕と区切ってはいけない。
 意味が、まったく逆になってしまう。
 黒・腰白・海燕だ。
 つまり「全体は黒く、腰の部分が白い、海燕」という意味で、腰の白いのが特徴になっている。
 実物を見た記憶はない。
 というより、これがクロコシジロウミツバメだと意識して見たことはない。
 浄土ヶ浜や蛸の浜などで無意識のうちに目にしていることはあるのかもしれない。
 なにも知らない幻の鳥なので、調べたことを書きとめておく。
 鳴き声がグジグジとかグズグズと聞こえるらしく、俗称グズリ。
 全長19センチほど。
 魚や甲殻類が好き。
 歩くのは苦手。
 大洋に面した島に集団で棲息する。
 土に30センチから1メートルの穴を掘って巣をつくる。
 奥に枯れ葉を敷き、7月から8月に1個の卵を産む。
 オス・メス交代で卵を抱き、30日ほどで孵化する。
 親鳥は昼は洋上を飛びまわり、餌をとる。
 海面近くを真っすぐ飛んだかと思えば横に崩れるような、不安定な飛び方をする。
 陸地から数百キロ離れた外洋を飛翔したり、船のあとを追ったりもする。
 日が沈んでから巣に帰り、翌朝2時・3時にはふたたび外洋へ出てゆく。
 環境省の日本版レッド・リストに絶滅危惧種として登録されている。
 三陸は東半球唯一の繁殖地で、日出島のほかに釜石の三貫島が知られる。
 日出島では、1980年代の後半からオオミズナギドリが増え、ウミツバメの巣を襲って減少させているそうだ。
 
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■ 山田煎餅

 
 ぴっちりと密閉したビニール袋に入っている。
 袋から出す。
 中身はまるく、直径15センチほど。
 嵩はないのにズシリと重い。
 黒くて薄い物体が重なっている。
 表面はすべすべしたような、ざらついたような妙な感触。
 くっついているのを一枚ひっぺがす。
 ひらひら平べったい。
 光にかざすと黒い点々が無数に見える。
 胡麻の匂いが漂う。
 唾液が湧いてくる。
 噛む。
 弾力があって、くちゃくちゃ音がするようだ。
 舌にほのかな甘さが広がる。
 噛めば噛むほど味が出てくる――
 この不思議な食べ物が山田煎餅である。
 三陸名産。
 宮古の南どなり、山田町の伝統ある生菓子だ。
 もちろん宮古でも売っている。
 一袋10枚入りが500円ぐらい。
 硬くなったら焼いて食べる。
 最初から焼いたものを土産物屋で売っているが嵩ばって枚数が少ない。
 焼くのは自分で焼けるから必ず生を買う。
 平たくのばすまえの煎餅餅(せんべいもち)というのもある。
 黄な粉がまぶしてあって生煎餅ほど日持ちしない。
 維新後につくられはじめたという。
 ある言い伝えによると、幕末のことだともいう。
 ――山田の関口に住む老婆の枕もとに、ある夜、お不動さまが立った。
 お不動さまは、こう告げた。
 「米の粉・胡麻で餅をつくってケガヅに備えろ」
 ケガヅは飢渇で、飢饉のことだ。
 老婆はお告げに従って餅をつくり、のばして天日に干し、保存食にした。
 日持ちがして腹持ちもいい。
 そのうえ、胡麻を使った黒い色はお不動さまそっくりだと評判になり、山田の名物になった。
 
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■ いか煎餅

 
 宮古からのお土産に迷ったことはない。
 いか煎餅――これに決まっている。
 岩手に範囲を広げると岩谷堂羊羹と南部煎餅。
 受けとる人が喜んでくれる。
 いか煎餅は、すがた(菅田)という煎餅屋がつくっている。
 繁華街の末広通りの北に並行した、第二幹線という通りにあり、買うときはいつも菅田まで行く。
 看板には元祖とうたってある。
 商標登録をしなかったというから、いか煎餅は全国いろいろなところでつくっている。
 けれど、元祖などとうたわなくても、いか煎餅は菅田に決まっている。
 それほど定番なのだ。
 煎餅は烏賊の形をしている。
 するめ烏賊の出汁と粉末が練り込んである。
 ほんのり適度に烏賊の風味がただよう。
 噛むと、けっこう硬い。
 この硬さがいい。
 袋から出しっぱなしにしていると湿っける。
 湿っけてやわらかくなったいか煎餅も、独特の食感と味わいがあってうまい。
 1912年(明治45)から100年近くにわたって、いか煎餅ひとすじにつくりつづけてきたという。
 ほかの製品はつくっていない。
 菅田に買いに行くと、いつも何枚か白い紙袋に入れてサービスしてくれる。
 これを歩きながら食べる。
 2〜3枚胃に入れると腹持ちがする。
 山田煎餅もそうだが、煎餅というのは、菓子であるとともに保存食で携帯食だなと納得する。
 ぎゅっと実質がつまっている。
 
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■ ラサの煙突

 
 自分が生まれる前から、ラサの煙突はずっと建っている。
 宮古のランドマークだ。
 盛岡などから来る道みち、遠くからこの大煙突が見えはじめると、「宮古に入ったな」と感じる。
 市街の南、小山田の標高90メートルほどの小高い山上にそびえ、てっぺんの標高は250メートル。
 煙突そのものの高さは160メートルで、先端に純金の避雷針がついているという噂がある。
 実際の高さでいうと、日本一の大煙突は北海道の苫小牧にある王子製紙の煙突のようだ。
 高さ200メートル。
 ラサの煙突は第2位になるという。
 炭坑節に“あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ”と歌われた福岡県大牟田市旧三池炭鉱の煙突は、わずか31メートルだった。
 それでも大切に保存され、国の有形文化財に指定された。
 ラサの煙突も、いつの日か解体されてなくなるのだろう。
 いま小山田の山並みが緑に覆われているのを見てさえ妙な印象を受けるが、あの大煙突がなくなったら、宮古の町は間の抜けた感じになるかもしれない。
 かつては黄土色のハゲ山で、町なかには硫黄臭い空気が漂っていた。
 操業中はサイレンが毎日、町に鳴りわたっていた。
 “ポー”と呼ばれた。
 たしか午前7時45分・正午・午後4時に鳴った。
 ポーが聞こえなくなり、煙りやにおいも消え、いつのまにかハゲ山が緑になった。
 時の移り変わりを見下ろしながら、いまもラサの煙突はじっと建っている。
 
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■ 鍬ヶ崎の“遺跡”消滅

 
 光岸地(こうがんじ)の坂を下った鍬ヶ崎に大きな建造物の“遺跡”がある。
 あれはなんだったろうと思っていた。
 すっぽり落ちていた記憶が、ある新聞記事を見てよみがえった。
 田老鉱山の鉱石貯蔵施設だった。
 新聞記事というのは2004年6月29日付の毎日新聞に載った「宮古の産業史伝える鉱石貯蔵施設、解体工事始まる」という鬼山親芳記者の記事。
 ネット・サーフィンをしているとき偶然に見つけた。
 この件についての情報をほかに知らないので、心覚えのために要点を引用させていただく。
 ――旧ラサ工業・田老鉱業所の宮古出張所で、戦前からあった鉱石貯蔵施設の解体工事が始まった。
 宮古市臨港通の出崎埠頭に面した鉄筋コンクリート造2棟で5階・4階建のビルに相当。
 13.5キロ離れた田老鉱山から索道で運ばれた銅・鉛などを貯蔵し、3.5キロ西の製錬所に貨車やトラックで積み出していた。
 1936年(昭和11)に建造され、1971年(昭和46)田老鉱山が閉山すると閉鎖された。
 老朽化したものの、頑強な建造物は、日本で2番目に高いといわれた製錬所の煙突とともに当時の活況を伝えている。
 廃材は6000トンに及ぶ見込み。
 解体は9月末に終わる。
 以上が記事の概要。
 ラサ工業本社は“廃虚のようだといわれていたので景観にも配慮”して解体に踏み切ったという。
 長いあいだ放置されていたが、宮古の産業史に残る数少ない遺跡だったあの重厚な構造物を、なにかに再利用できなかったものだろうか。
 鍬ヶ崎上町の山際にある〈遺跡〉は残っている。
 付近の人から聞いた話では、山が崩れる恐れがあるから解体できないのだということらしい。
 
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■ 田老鉱山

 
 田老の西部、岩泉に近い山間地では、江戸期から笹平や猪子(ししこ)で鉄鉱が採取されていたという。
 どうやら豊富な地下資源が眠っているらしい。
 金鉱はないのだろうか。
 安政年間というから1854年から1860年ごろのこと、易断の高島嘉右衛門が田老村の資産家のもとに身を寄せていたとき鉱石に目をつけ、十数年のあいだ鉄鉱を採取したという話もある。
 近代に入って、ラサ島燐鉱株式会社、のちのラサ工業が田老の鉱山を買収し、操業を始めた。
 1919年(大正8)のことだ。
 1935年(昭和10)に大鉱床が発見され、翌年ラサ工業・田老鉱業所の本格操業が始まる。
 鍬ヶ崎に鉱石貯蔵施設が建造されたのは、このときだ。
 そして1939年(昭和14)になって宮古に製錬所が完成。
 大煙突もでき、銅鉱の製錬、硫酸の製造を始めた。
 1945年(昭和20)の敗戦や、1961年(昭和36)5月の三陸フェーン大火による被災で休山するなど、休山と再開を何度か繰り返し、銅市況の悪化には勝てずに1971年(昭和46)ついに閉山。
 従業員は全員が解雇された。
 これが急いで調べた田老鉱山のおおまかな歴史。
 鉱山跡地にはその後、明星大学が1979年(昭和54)田老キャンパスを、1984年(昭和59)に宇宙線観測所を開設したという。
 鉱山跡地に大学キャンパスというのも、なにか気になる話だ。
 ちょっと調べたかぎりでは、学生であふれているわけでも、いつも授業が行なわれているわけでもない。
 キャンパスといっても、セミナーハウスがあるくらいで、長期休暇中の合宿などに使われているようだ。
 廃墟マニアという人たちのあいだで、田老鉱山の廃墟は、日本で屈指のものとされているらしい。
 
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■ うみねこパン

 
 浄土ヶ浜から島めぐり遊覧船の陸中丸に乗ると、出航するときから桟橋に戻ってくるまで、うみねこが群がってついてくる。
 乗ったことはないけれど、田老行きのウミネコ航路でも同じだろう。
 船内では“うみねこパン”なるものを売っている。
 一袋100円。
 直截なネーミングに脱帽する。
 挽いた若布や昆布などの海藻が生地に練り込んである。
 人間が食べて食べられないことはない。
 試しに食べてみた。
 ぼそぼそして、ちょっと抵抗はある。
 遊覧船の船尾に行って、パンを千切って宙に放る。
 すると、うみねこがくちばしでじょうずにキャッチする。
 デッキから身を乗り出すようにしてパンを持った手を伸ばしていても手からとってゆく。
 なかなかよそではできない体験だから、はじめは1個しか買わなかった“うみねこパン”を何個も買っては、うみねこに与える。
 ガイド嬢の観光案内もうわのそら。
 それはともかく、肝心の景色を見るのさえ、つい忘れてしまう……
 うみねこの餌付け用パンを開発したのは日本初。
 餌付けに成功したのも、浄土ヶ浜が日本で最初だという。
 日本ばかりでなく、世界でも最初なのではないだろうか。
 うみねこの餌付けは観光資源のひとつとして定着している。
 水を差すつもりはまったくないけれど、餌付けという行為には生態系のバランスを崩しかねない一面がある。
 そのへんが、ちょっとだけ気がかりだ。
 
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■ 日立浜の青年漁師

 
 「平運丸〜青年漁師の店」という宮古発のウェッブ・サイトがおもしろいので、よく見にゆく。
 青年漁師は30歳前。
 日立浜に住んでいる。
 海が大荒れでなければ毎日おとうさんと二人、三陸沖に出て漁をする。
 漁だけで生計を立てる本物の漁師だ。
 こういう若い漁師は、ほかにいないらしい。
 平運丸は9.7トン。
 たくさんの漁の道具を積んで200海里まで行けるような、ちょっと大きな漁船だという。
 それに、“さっぱ”を持っている。
 磯漁で使う小さな舟だ。
 「青年漁師の店」では、自分がとってきた魚介類や海藻の通信販売をする。
 ビデオを撮影して配信する。
 ビートルズが好きで、ベースを弾き、バンドをやり、「Penny Lane」というサイトも運営する。
 「海日記」には漁師の生活が記録されている。
 漁船を操り、直射日光や風雨・雪のなか、時には波にさらわれそうになりながら魚や蛸や毛蟹やウニなどをとる漁師の生活は、想像してみるしかなかったが、「海日記」をはじめとしたサイトのコンテンツを見ると手にとるようにわかる。
 少なくとも、わかる気にさせてくれる。
 宮古に住んでいたとき、海はたまに泳ぎや釣りや散歩、つまり遊びに行くところだった。
 間近にありながら遠い存在、気になりながらよくわからない場所が海であり、港であり、漁師の生活だった。
 いま海から遠い内陸で暮らし、日立浜の青年漁師のサイトに接して、宮古にいたころより陸中の海を身近に感じとっている。
 
 *平運丸〜青年漁師の店 
  http://www.heiun.com/index.html

 
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■ 漁師ことば

 
 「平運丸〜青年漁師の店」に載っている「海日記」を読んでいると、しばしば「え!?」と驚く単語に出くわす。
 たとえば“日本大陸”。
 はじめは異様に感じた表現も、日記を読み進んで海の日常に同化してくると、波に揺れる不安定な船から陸地を遠く望んだ感覚が、ことばの上に生きていると思えてくる。
 “きよみず”なんていう見当のつかないことばもある。
 これは流氷の溶けた水が混ざった水塊。
 塩分濃度が極端に低く、海がどす黒くなる。
 北海道から南下し、年によって違うが、早ければ毛蟹の漁期の3月中旬に三陸沖に来る。
 その影響で毛蟹は海底の砂に潜り、あまり獲れなくなる。
 ピークの4月初旬から下旬には、まったく魚が獲れなくなる、という。
 “虚水”とでも漢字をあてそうだ。
 日記のなかで説明してくれていれば助かるけれど、説明なしに、ポンと投げ出されているようなことばもある。
 それはそれで、さまざま想像してみる楽しみがある。
 けっきょくわからなくて、降参するようにHPの掲示板に書き込んで問い合わせる。
 たとえば“スムス”。
 こういう返事をもらった。
 海老のような小さい虫で、肉を分解する。
 陸で死骸にたくさんウジが湧くように、海ではスムスがたかる。
 人間の遺体もいちころ……
 使っている本人も、意味は通じるが何語かさえわからずに喋っていることばもある。
 たとえば“ライシン”。
 船上で物を固定するロープのことらしい。
 年寄はライスン、レァスンと発音するという。
 
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■ スンナ、モウガナ

 
 漁師ことばを、もう少し続けたい。
 陸に住む人間にとっては、ことばを通して違う世界をかいまみる思いが強い。
 いま陸に住む人間と書いた。
 この陸はリクともオカとも読める。
 漁師は、陸地をさす以外に、陸地に近く、浅い海のことをオカと呼ぶこともあるらしい。
 日立浜の竜神崎からのびる防波堤に赤灯台がある。
 港の出入口にあたり、ここまでが宮古港内。
 その外が宮古湾内。
 港内から湾内に出るという微妙な表現がある。
 重茂〔おもえ〕半島北端の閉伊崎と崎山の姉ヶ崎を結んだ線までが湾内で、その東が外海。
 この外海はソトウミともトガイとも言う。
 トガイは実際に発音するとトゲエと訛る。
 いい漁場らしい。
 籠〔かご〕のなかに餌を仕掛けてロープでつなぎ、何個も海に沈めて魚や毛蟹・蛸などをとるのが籠漁。
 海面にはボンデンが浮いている。
 発泡スチロールの浮きに旗竿をつけたもので、籠の目印になる。
 漢字では梵天と書くらしい。
 ロープをラインホーラーで巻き上げて海底から籠を上げ、獲物を出して船の生簀に入れる。
 また籠に餌を入れて沈める。
 めずらしい魚や売りものにはならないけれどおいしい獲物がかかるとスンナにする。
 スンナとは、魚市場に水揚げせず、家に持ち帰って食べる自家消費用の魚の意味らしい。
 モウガナと遭遇して一部をスンナにすることもある。
 モウガナは鮫のことだという。
 スンナもモウガナも初耳だった。
 スンナは寸菜もしくは寸魚と書くのだろうか。
 モウガナではなくモウカザメなら以前に聞いたことがある。
 真鱶鮫のことだ。
 この伝でゆけばモウガナは真鱶魚だろう。
 魚はナとも読む。
 こういうことばを集めて単語集をつくったらおもしろい。
 「三陸宮古の漁師ことば集」だ。
 
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■ 角力浜の謎

 
 高校時代の夏に、自転車で浄土ヶ浜へよく行った。
 築地、光岸地から鍬ヶ崎を通り、海沿いにぐるっと右に回ってゆく。
 途中に日立浜がある。
 強い陽射しを受けた海には、さっぱが浮かんでいた。
 須賀(浜)にも小舟が陸揚げされ、網をつくろい、道具こっつぁぎ(漁の道具づくり)をしている漁師の姿があった。
 となりが角力浜(すもうはま)で、バス停があり、民宿や魚の加工場や小型船の造船所などが並んでいた。
 日立浜・角力浜を過ぎ、左にカーブして浄土ヶ浜のターミナルビルへ登ってゆく。
 この長い坂道を、自転車で登りきるのは大変だった。
 車が来なければ坂道をクネクネ蛇行して登れるが、夏は車が多い。
 大型バスも頻繁に通る。
 たいがい登りきれずに最後は押して歩いた。
 頂上のターミナルビルあたりまでが日立浜町だ。
 日立浜町という名は、二つ浜、あるいは浸る浜の転訛したものと角川日本地名大辞典に書いてある。
 背後が山で、大雨が降ると雨水が急斜面を流れくだる。
 高波・津波に襲われる。
 水に浸る浜という説はうなずける。
 二つ浜という説も捨てがたい。
 日立浜に角力浜が続いている――
 ところが、地名辞典には角力浜ではなく篠浜と書いてある。
 篠浜とは初耳だ。
 バス停の名は角力浜で、角力浜を土地の人はスモバマと呼ぶ。
 ひょっとして、このスモバマはシノハマが訛ったものだろうか。そして、あとから角力浜という漢字があてられたのだろうか、と首をひねっている。
 
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角力浜−父の夢の場所
   うらら * 投稿4
 
 角力浜には思い出があります。
 角力浜は、実現されなかった“父の夢の場所”でした。
 父は今から15年ぐらい前に所有していた角力浜で観光業を行おうとしていました。
 宮古に観光で来た人たちに、海の近くで美味しいものを食べてもらいたい、というのが希望でした。
 県南で他の事業を立ち上げていた父にとって、離れた宮古で新しいことを始めるのは無理があったと思います。
 角力浜に、事務所とモーターボートといけすを準備したところで、計画を中断してしまいました。
 新しい事業を続けていくには、多くの資金と時間とスタッフが必要ですが、それが不足していたのだと思います。
 上京して離れて暮らしていた私は、そのことを聞き、また父の新しいことやりたい病が始まったなぐらいにしか考えていませんでした。
 それまで何度か計画に協力したことがあったのですが、今度はちょっと無理だなと思っていました。
 いつ頃から構想を立てていたのかは知りませんでした。
 中断したあとに聞いてみると、角力浜をフィッシャーマンズワーフのようにしたかったとのことでした。
 私はまたもやこころの中で、やっぱり無理じゃないかなと思いました。
 いつも夢は誰よりも大きく、挫折してもめげない父でした。
 そんな父が病に倒れ、会社の負債の補填のために次々と家や土地を売却していったのですが、最後まで角力浜は手放しませんでした。
 亡くなったあと、どうしても相続を放棄しなければいけない状況になり、“父の夢の場所”は国有地になりました。
 
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■ 鍬ヶ崎

 
 高校時代、鍬ヶ崎に同級生がふたりいた。
 ひとりは飲み屋、ひとりは船具屋の息子だった。
 飲み屋のほうに一度だけ遊びに行ったことがある。
 鍬ヶ崎上町あたりだった。
 近くに醸造所があって醤油の強い匂いがただよっていた。
 いま醸造所はない。
 鍬ヶ崎が上・仲・下の3町に分かれていることも当時は知らなかった。
 漁港のあたり一帯をひっくるめて鍬ヶ崎と呼んでいた。
 港のある町が鍬ヶ崎だ。
 港も、宮古港・宮古漁港とは呼ばず、たんに鍬ヶ崎、あるいは鍬ヶ崎の港と呼んでいた。
 魚市場のあたりには古びた木造の建物が並び、構内は薄暗く、漁船団が入ると一気に活気づく。
 1万トン岸壁に大型船や自衛隊の艦艇が入港するより、それはずっと華やかだった。
 秋刀魚の水揚げはすごかった。
 毎年8月半ばに、本州ではいちばん初めに鍬ヶ崎に秋刀魚が水揚げされる。
 フライ旗をなびかせ勇んで入港する秋刀魚船を迎え、港は沸騰する。
 ゴムの黒い長靴ズボン、黒い手袋をしたおじさん・おばさんの作業員がたくさんいる。
 ねじり鉢巻で、緑の紙を敷いた木箱に秋刀魚を詰める。
 高いところにある製氷所から砕かれた氷が太い管を伝って降りてくる。
 それをザーッザーッと入れてゆく――
 そういう光景に見入っていた小学生のころの記憶がよみがえってくる。
 岸壁には秋刀魚が散らばっていた。
 ウミネコやカモメやカラスがとってゆくまえに、それを拾って帰りたいと思ったものだった。
 
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■ 干拓地没収事件

 
 「角力浜の謎」で触れた日立浜町の篠浜が埋め立てられたのは、1939年(昭和14)のことだという。
 それよりずっと昔の江戸時代、鍬ヶ崎では干拓地没収事件というのが起きている。
 手もとに「沢内風土記」という小冊子がある。
 沢内村郷土史研究会の発行で、和賀郡沢内村は県の南西部に位置する。
 著者は宮古代官所の下役で漢学者の高橋子績。
 解説を泉川正という黒沢尻北高校の先生が書き、なかに干拓地没収事件のあらましが載っている。
 高橋子績の父は名を治富(はるよし)といい、やはり宮古代官所の下役だった。
 下役とは藩から派遣された役人ではなく、現地採用された役人のこと。
 土地の有力者・豪族のなかから任命される。
 1728年(享保13)に治富は鍬ヶ崎の干潟52石分を拝領し、宅地を造成することになった。
 一家の資材を投げうって営々10年の辛苦の末やっと工事が完成した。
 ところが、終わったと思った途端、干拓地は盛岡藩に没収されてしまう。
 すでに完成していた民家27軒はすべて壊され、干拓のため海に立てた乱杭も抜き去られる。
 この処罰の理由は、埋め立てて田畑にするところを屋敷にし、海に乱杭を立てて石垣を張り出し、船の出入りを妨げたというもの。
 これはどうも、代官所に高橋治富を恨む者があって、落としいれようと虚偽の報告をした結果らしい、と解説には書かれている。
 鍬ヶ崎のどのへんで起きた事件かわからない。
 事情もよく飲みこめない点があるが、解説にあるとおりだとしたら、ひどい話だ。
 
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■「沢内風土記」の著者

 
 江戸時代に鍬ヶ崎でおきた干拓地没収事件の渦にまきこまれた高橋家の当主は治富(はるよし)といった。
 その子が子績で、干拓工事の実際の任にあたったのは子績だったらしい。
 高橋子績は1700年(元禄13)宮古に生まれた。
 1727年(享保12)船手役に任じられる。
 船手役は盛岡藩の外港である宮古港におかれた藩船の監督者のことだろう。
 1737年(元文2)宮古代官所の下役に就任。
 その間に干拓地没収事件がおきている。
 1757年(宝暦7)父の治富が引退し、家督を継ぐ。
 ときに58歳。
 干拓地没収事件を除けば、まずまず順調な半生だったといってもいい。
 ところが、63歳になった1762年(宝暦12)に突然、盛岡藩から沢内代官所への出向命令が出される。
 理由は示されなかった。
 干拓事件があとを引いていたのだろうか、海に面した宮古で船手役をつとめた者に、見も知らぬ内陸の遠い土地、半年は雪に埋もれる山奥の豪雪地へすぐ出向せよという。
 これは、左遷というより流罪に等しいものだったと、「沢内風土記」の解説には書かれている。
 「沢内風土記」は、その沢内村ですごした8年のあいだに出会った自然や風物・習慣・人情などの観察をつづったもの。
 代官所の役人をつとめるかたわら、漢学者だった高橋子績は、「沢内風土記」をはじめ「南部封域志」「宮古八景詩稿並小序」「横山八幡宮回縁記」「重修横山八幡宮記」「黒森山陵誌」などを漢文で著したという。
 1770年(明和7)に許されて宮古へ戻り、1781年(天明元)82歳で死去する。
 墓は常安寺にある。
 
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