歌 集   Ichiaku no Suna   Ishikawa Takuboku



一握の砂
 石川啄木
 
 
 
底本:金田一京助・土岐善麿・石川正雄・小田切秀雄・岩城之徳編
   『啄木全集』第一巻(筑摩書房)
参照:久保田正文編『石川啄木歌集』(旺文社文庫)
☆印:吉田注
( ):ルビ 底本に付いていたルビは適宜取捨した
無粋:歌の頭に通し番号を付した
 
 
 
■ 目 次
 
序文 藪野椋十(渋川玄耳)
 
献辞
巻頭辞
 
我を愛する歌
 
煙 一
  二
 
秋風のこころよさに
 
忘れがたき人人 一
        二
 
手套を脱ぐ時
 
 
 
■ 序 文
 
世の中には途方も無い仁(じん)もあるものぢや,歌集の序を書けとある,
人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無い,かう
でも無い,とひねつた末が此んなことに立至るのぢやらう。此の途方も無
い処が即ち新の新たる極意かも知れん。
定めしひねくれた歌を詠んであるぢやらうと思ひながら手当り次第に繰り
展げた処が,
 
  高きより飛び下りるごとき心もて
  この一生を
  終るすべなきか
 
此ア面白い,ふン此の刹那の心を常住に持することが出来たら,至極ぢや。
面白い処に気が着いたものぢや,面白く言いまはしたものぢや。
 
  非凡なる人のごとくにふるまへる
  後のさびしさは
  何にかたぐへむ
 
いや斯ういふ事は俺等の半生にしこたま有つた。此のさびしさを一生覚えず
に過す人が,所謂当節の成功家ぢや。
 
  何処やらに沢山の人が争ひて
  鬮(くじ)引くごとし
  われも引きたし
     ☆“争ひて”は本文中“あらそひて”⇒35
 
何にしろ大混雑のおしあひへしあひで,鬮引の場に入るだけでも一難儀ぢや
のに,やつとの思ひに引いたところで大概は空鬮(からくじ)ぢや。
 
  何がなしにさびしくなれば
  出てあるく男となりて
  三月(みつき)にもなれり
     ☆1行目の“さびしくなれば”は本文中2行目の頭に
 
  とある日に
  酒をのみたくてならぬごとく
  今日われ切に金を欲(ほ)りせり
 
  怒る時
  かならずひとつ鉢を割り
  九百九十九割りて死なまし
 
  腕拱(く)みて
  このごろ思ふ
  大いなる敵目の前に躍り出でよと
 
  目の前の菓子皿などを
  かりかりと噛みてみたくなりぬ
  もどかしきかな
 
  鏡とり
  能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
  泣き飽きし時
 
  こころよく
  我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて死なむと思ふ
 
  よごれたる足袋穿く時の
  気味わるき思ひに似たる
  思出もあり
 
さうぢや,そんなことがある,斯ういふ様な想ひは,俺にもある。二三十年
もかけはなれた此の著者と此の読者との間にすら共通の感ぢやから,定めし
総ての人にもあるのぢやらう。然る処俺等聞及んだ昔から今までの歌に,斯
んな事をすなほに,ずばりと,大胆に率直に詠んだ歌といふものは一向に之
れ無い。一寸開けて見てこれぢや,もつと面白い歌が此の集中に満ちて居る
に違ひない。そもそも,歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ
合点して居た拙者は,斯ういふ種も仕掛も無い誰にも承知の出来る歌も亦当
節新発明に為つて居たかと,くれぐれも感心仕る。新派といふものを途方も
ないものと感ちがひ致居りたる段,全く拙者のひねくれより起りたることと
懺悔に及び候也。
    犬の年の大水後
                         藪野椋十
 
 
 
■ 献 辞
 
    函館なる郁雨宮崎大四郎君
    同国の友文学士花明金田一京助君
 
  この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくした
  るものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多
  く知る人なるを信ずればなり。
  また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡した
  るは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而し
  てこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。
                            著 者
 
 
 
■ 巻頭辞
 
  明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に
  収む。集中五章,感興の来由するところ相邇(ちか)きをたづねて仮に
  わかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり。
 
 
 

 
    我を愛する歌
 
  1. 東海の小島の磯の白砂に
    われ泣きぬれて
    蟹とたはむる
     
  2. 頬(ほ)につたふ
    なみだのごはず
    一握の砂を示しし人を忘れず
     
  3. 大海(だいかい)にむかひて一人
    七八日(ななやうか)
    泣きなむとすと家を出(い)でにき
     
  4. いたく錆びしピストル出でぬ
    砂山の
    砂を指もて掘りてありしに
     
  5. ひと夜(よ)さに嵐来りて築きたる
    この砂山は
    何(なに)の墓ぞも
     
  6. 砂山の砂に腹這ひ
    初恋の
    いたみを遠くおもひ出づる日
     
  7. 砂山の裾によこたはる流木に
    あたり見まはし
    物言ひてみる
     
  8. いのちなき砂のかなしさよ
    さらさらと
    握れば指のあひだより落つ
     
  9. しつとりと
    なみだを吸へる砂の玉
    なみだは重きものにしあるかな
     
  10. 大といふ字を百あまり
    砂に書き
    死ぬことをやめて帰り来(きた)れり
     
  11. 目さまして猶起き出でぬ児の癖は
    かなしき癖ぞ
    母よ咎むな
     
  12. ひと塊(くれ)の土に涎し
    泣く母の肖顔(にがほ)つくりぬ
    かなしくもあるか
     
  13. 燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我あり
    父と母
    壁のなかより杖つきて出づ
     
  14. たはむれに母を背負ひて
    そのあまり軽(かろ)きに泣きて
    三歩あゆまず
     
  15. 飄然と家(いへ)を出でては
    飄然と帰りし癖よ
    友はわらへど
     
  16. ふるさとの父の咳する度に斯(か)く
    咳の出づるや
    病めばはかなし
     
  17. わが泣くを少女(をとめ)等きかば
    病犬(やまいぬ)の
    月に吠ゆるに似たりといふらむ
     
  18. 何処(いづく)やらむかすかに虫のなくごとき
    こころ細さを
    今日もおぼゆる
     
  19. いと暗き
    穴に心を吸はれゆくごとく思ひて
    つかれて眠る
     
  20. こころよく
    我にはたらく仕事あれ
    それを仕遂げて死なむと思ふ
     
  21. こみ合へる電車の隅に
    ちぢこまる
    ゆふべゆふべの我のいとしさ
     
  22. 浅草の夜のにぎはひに
    まぎれ入り
    まぎれ出で来しさびしき心
     
  23. 愛犬の耳斬りてみぬ
    あはれこれも
    物に倦みたる心にかあらむ
     
  24. 鏡とり
    能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
    泣き飽きし時
     
  25. なみだなみだ
    不思議なるかな
    それをもて洗へば心戯(おど)けたくなれり
     
  26. 呆れたる母の言葉に
    気がつけば
    茶碗を箸もて敲(たた)きてありき
     
  27. 草に臥(ね)て
    おもふことなし
    わが額(ぬか)に糞して鳥は空に遊べり
     
  28. わが髭の
    下向く癖がいきどほろし
    このごろ憎き男に似たれば
     
  29. 森の奥より銃声聞ゆ
    あはれあはれ
    自ら死ぬる音のよろしさ
     
  30. 大木の幹に耳あて
    小半日
    堅き皮をばむしりてありき
     
  31. 「さばかりの事に死ぬるや」
    「さばかりの事に生くるや」
    止せ止せ問答
     
  32. まれにある
    この平なる心には
    時計の鳴るもおもしろく聴く
     
  33. ふと深き怖れを覚え
    ぢつとして
    やがて静かに臍(ほそ)をまさぐる
     
  34. 高山(たかやま)のいただきに登り
    なにがなしに帽子をふりて
    下り来しかな
     
  35. 何処やらに沢山の人があらそひて
    鬮(くじ)引くごとし
    われも引きたし
     
  36. 怒(いか)る時
    かならずひとつ鉢を割り
    九百九十九(くひやくくじふく)割りて死なまし
     
  37. いつも逢ふ電車の中の小男の
    稜(かど)ある眼(まなこ)
    このごろ気になる
     
  38. 鏡屋の前に来て
    ふと驚きぬ
    見すぼらしげに歩むものかも
     
  39. 何となく汽車に乗りたく思ひしのみ
    汽車を下りしに
    ゆくところなし
     
  40. 空家に入(い)り
    煙草のみたることありき
    あはれただ一人居たきばかりに
     
  41. 何がなしに
    さびしくなれば出てあるく男となりて
    三月(みつき)にもなれり
     
  42. やはらかに積れる雪に
    熱(ほ)てる頬(ほ)を埋むるごとき
    恋してみたし
     
  43. かなしきは
    飽くなき利己の一念を
    持てあましたる男にありけり
     
  44. 手も足も
    室(へや)いつぱいに投げ出して
    やがて静かに起きかへるかな
     
  45. 百年(ももとせ)の長き眠りの覚めしごと
    アクビしてまし
    思ふことなしに
       ☆2行目“アクビ”,原文は口偏に去(PCにこの字なし)+呻。以下同じ。
     
  46. 腕拱(く)みて
    このごろ思ふ
    大いなる敵目の前に躍り出でよと
     
  47. 手が白く
    且つ大なりき
    非凡なる人といはるる男に会ひしに
     
  48. こころよく
    人を讃(ほ)めてみたくなりにけり
    利己の心に倦めるさびしさ
     
  49. 雨降れば
    わが家(いへ)の人誰(たれ)も誰も沈める顔す
    雨霽(は)れよかし
     
  50. 高きより飛びおりるごとき心もて
    この一生を
    終るすべなきか
     
  51. この日頃
    ひそかに胸にやどりたる悔あり
    われを笑はしめざり
     
  52. へつらひを聞けば
    腹立つわがこころ
    あまりに我を知るがかなしき
     
  53. 知らぬ家たたき起して
    遁(に)げ来るがおもしろかりし
    昔の恋しさ
     
  54. 非凡なる人のごとくにふるまへる
    後(のち)のさびしさは
    何にかたぐへむ
     
  55. 大いなる彼の身体(からだ)が
    憎かりき
    その前にゆきて物を言ふ時
     
  56. 実務には役に立たざるうた人と
    我を見る人に
    金借りにけり
     
  57. 遠くより笛の音(ね)きこゆ
    うなだれてある故やらむ
    なみだ流るる
     
  58. それもよしこれもよしとてある人の
    その気がるさを
    欲しくなりたり
     
  59. 死ぬことを
    持薬をのむがごとくにも我はおもへり
    心いためば
     
  60. 路傍(みちばた)に犬ながながとアクビしぬ
    われも真似しぬ
    うらやましさに
       ☆“アクビ”,原文は口偏に去+呻。
     
  61. 真剣になりて竹もて犬を撃つ
    小児の顔を
    よしと思へり
     
  62. ダイナモの
    重き唸りのここちよさよ
    あはれこのごとく物を言はまし
     
  63. 剽軽の性(さが)なりし友の死顔の
    青き疲れが
    いまも目にあり
     
  64. 気の変る人に仕へて
    つくづくと
    わが世がいやになりにけるかな
     
  65. 竜(りよう)のごとくむなしき空に躍り出でて
    消えゆく煙
    見れば飽かなく
     
  66. こころよき疲れなるかな
    息もつかず
    仕事をしたる後(のち)のこの疲れ
     
  67. 空寝入生アクビなど
    なぜするや
    思ふこと人にさとらせぬため
       ☆“アクビ”,原文は口偏に去+呻。
     
  68. 箸止めてふつと思ひぬ
    やうやくに
    世のならはしに慣れにけるかな
     
  69. 朝はやく
    婚期を過ぎし妹の
    恋文めける文を読めりけり
     
  70. しつとりと
    水を吸ひたる海綿の
    重さに似たる心地おぼゆる
     
  71. 死ね死ねと己を怒り
    もだしたる
    心の底の暗きむなしさ
     
  72. けものめく顔あり口をあけたてす
    とのみ見てゐぬ
    人の語るを
     
  73. 親と子と
    はなればなれの心もて静かに対(むか)ふ
    気まづきや何(な)ぞ
     
  74. かの船の
    かの航海の船客の一人にてありき
    死にかねたるは
     
  75. 目の前の菓子皿などを
    かりかりと噛みてみたくなりぬ
    もどかしきかな
     
  76. よく笑ふ若き男の
    死にたらば
    すこしはこの世のさびしくもなれ
     
  77. 何がなしに
    息きれるまで駆け出してみたくなりたり
    草原(くさはら)などを
     
  78. あたらしき背広など着て
    旅をせむ
    しかく今年も思ひ過ぎたる
     
  79. ことさらに燈火(ともしび)を消して
    まぢまぢと思ひてゐしは
    わけもなきこと
     
  80. 浅草の凌雲閣のいただきに
    腕組みし日の
    長き日記(にき)かな
     
  81. 尋常のおどけならむや
    ナイフ持ち死ぬまねをする
    その顔その顔
     
  82. こそこその話がやがて高くなり
    ピストル鳴りて
    人生終る
     
  83. 時ありて
    子供のやうにたはむれす
    恋ある人のなさぬ業(わざ)かな
       ☆2行目末尾,底本に“す”はないが,底本の誤植と思われる。
     
  84. とかくして家を出づれば
    日光のあたたかさあり
    息ふかく吸ふ
     
  85. つかれたる牛のよだれは
    たらたらと
    千万年も尽きざるごとし
     
  86. 路傍(みちばた)の切石の上に
    腕拱(く)みて
    空を見上ぐる男ありたり
     
  87. 何やらむ
    穏かならぬ目付して
    鶴嘴を打つ群を見てゐる
     
  88. 心より今日は逃げ去れり
    病ある獣のごとき
    不平逃げ去れり
     
  89. おほどかの心来(きた)れり
    あるくにも
    腹に力のたまるがごとし
     
  90. ただひとり泣かまほしさに
    来て寝たる
    宿屋の夜具のこころよさかな
     
  91. 友よさは
    乞食の卑しさ厭ふなかれ
    餓ゑたる時は我も爾(しか)りき
     
  92. 新しきインクのにほひ
    栓抜けば
    餓ゑたる腹に沁むがかなしも
     
  93. かなしきは
    喉のかわきをこらへつつ
    夜寒(よざむ)の夜具にちぢこまる時
     
  94. 一度でも我に頭を下げさせし
    人みな死ねと
    いのりてしこと
     
  95. 我に似し友の二人よ
    一人は死に
    一人は牢を出でて今病む
     
  96. あまりある才を抱きて
    妻のため
    おもひわづらふ友をかなしむ
     
  97. 打ち明けて語りて
    何か損をせしごとく思ひて
    友とわかれぬ
     
  98. どんよりと
    くもれる空を見てゐしに
    人を殺したくなりにけるかな
     
  99. 人並の才に過ぎざる
    わが友の
    深き不平もあはれなるかな
     
  100. 誰(たれ)が見てもとりどころなき男来て
    威張りて帰りぬ
    かなしくもあるか
     
  101. はたらけど
    はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
    ぢつと手を見る
     
  102. 何もかも行末(ゆくすゑ)の事みゆるごとき
    このかなしみは
    拭ひあへずも
     
  103. とある日に
    酒をのみたくてならぬごとく
    今日われ切(せち)に金を欲(ほ)りせり
     
  104. 水晶の玉をよろこびもてあそぶ
    わがこの心
    何の心ぞ
     
  105. 事もなく
    且つこころよく肥えてゆく
    わがこのごろの物足らぬかな
     
  106. 大いなる水晶の玉を
    ひとつ欲し
    それにむかひて物を思はむ
     
  107. うぬ惚るる友に
    合槌うちてゐぬ
    施与(ほどこし)をするごとき心に
     
  108. ある朝のかなしき夢のさめぎはに
    鼻に入り来(き)し
    味噌を煮る香よ
     
  109. こつこつと空地に石をきざむ音
    耳につき来ぬ
    家に入(い)るまで
     
  110. 何がなしに
    頭のなかに崖ありて
    日毎に土のくづるるごとし
     
  111. 遠方に電話の鈴(りん)の鳴るごとく
    今日も耳鳴る
    かなしき日かな
     
  112. 垢じみし袷(あはせ)の襟よ
    かなしくも
    ふるさとの胡桃焼くるにほひす
     
  113. 死にたくてならぬ時あり
    はばかりに人目を避けて
    怖き顔する
     
  114. 一隊の兵を見送りて
    かなしかり
    何ぞ彼等のうれひ無げなる
     
  115. 邦人(くにびと)の顔たへがたく卑しげに
    目にうつる日なり
    家にこもらむ
     
  116. この次の休日(やすみ)に一日寝てみむと
    思ひすごしぬ
    三年(みとせ)このかた
     
  117. 或る時のわれのこころを
    焼きたての
    麺麭(ぱん)に似たりと思ひけるかな
     
  118. たんたらたらたんたらたらと
    雨滴(あまだれ)が
    痛むあたまにひびくかなしさ
     
  119. ある日のこと
    室(へや)の障子をはりかへぬ
    その日はそれにて心なごみき
     
  120. かうしては居(を)られずと思ひ
    立ちにしが
    戸外(おもて)に馬の嘶(いなな)きしまで
     
  121. 気ぬけして廊下に立ちぬ
    あららかに扉(ドア)を推せしに
    すぐ開きしかば
     
  122. ぢつとして
    黒はた赤のインク吸ひ
    堅くかわける海綿を見る
     
  123. 誰(たれ)が見ても
    われをなつかしくなるごとき
    長き手紙を書きたき夕(ゆふべ)
     
  124. うすみどり
    飲めば身体が水のごと透きとほるてふ
    薬はなきか
     
  125. いつも睨むラムプに飽きて
    三日(みか)ばかり
    蝋燭の火にしたしめるかな
     
  126. 人間のつかはぬ言葉
    ひよつとして
    われのみ知れるごとく思ふ日
     
  127. あたらしき心もとめて
    名も知らぬ
    街など今日もさまよひて来(き)ぬ
     
  128. 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
    花を買ひ来て
    妻としたしむ
     
  129. 何すれば
    此処に我ありや
    時にかく打驚きて室(へや)を眺むる
     
  130. 人ありて電車のなかに唾を吐く
    それにも
    心いたまむとしき
     
  131. 夜明けまであそびてくらす場所が欲し
    家(いへ)をおもへば
    こころ冷たし
     
  132. 人みなが家(いへ)を持つてふかなしみよ
    墓に入(い)るごとく
    かへりて眠る
     
  133. 何かひとつ不思議を示し
    人みなのおどろくひまに
    消えむと思ふ
     
  134. 人といふ人のこころに
    一人づつ囚人がゐて
    うめくかなしさ
     
  135. 叱られて
    わつと泣き出す子供心
    その心にもなりてみたきかな
     
  136. 盗むてふことさへ悪(あ)しと思ひえぬ
    心はかなし
    かくれ家もなし
     
  137. 放たれし女のごときかなしみを
    よわき男の
    感ずる日なり
     
  138. 庭石に
    はたと時計をなげうてる
    昔のわれの怒りいとしも
     
  139. 顔あかめ怒りしことが
    あくる日は
    さほどにもなきをさびしがるかな
     
  140. いらだてる心よ汝(なれ)はかなしかり
    いざいざ
    すこしアクビなどせむ
       ☆“アクビ”,原文は口偏に去+呻。
     
  141. 女あり
    わがいひつけに背かじと心を砕く
    見ればかなしも
     
  142. ふがひなき
    わが日の本の女等を
    秋雨の夜(よ)にののしりしかな
     
  143. 男とうまれ男と交り
    負けてをり
    かるがゆゑにや秋が身に沁む
     
  144. わが抱く思想はすべて
    金なきに因するごとし
    秋の風吹く
     
  145. くだらない小説を書きてよろこべる
    男憐れなり
    初秋の風
     
  146. 秋の風
    今日よりは彼(か)のふやけたる男に
    口を利かじと思ふ
     
  147. はても見えぬ
    真直(ますぐ)の街をあゆむごとき
    こころを今日は持ちえたるかな
     
  148. 何事も思ふことなく
    いそがしく
    暮らせし一日(ひとひ)を忘れじと思ふ
     
  149. 何事も金金とわらひ
    すこし経て
    またも俄かに不平つのり来(く)
     
  150. 誰(た)そ我に
    ピストルにても撃てよかし
    伊藤のごとく死にて見せなむ
     
  151. やとばかり
    桂首相に手とられし夢みて覚めぬ
    秋の夜の二時
     
     
      煙
     
       一
     
  152. 病のごと
    思郷のこころ湧く日なり
    目にあをぞらの煙かなしも
     
  153. 己が名をほのかに呼びて
    涙せし
    十四の春にかへる術なし
     
  154. 青空に消えゆく煙
    さびしくも消えゆく煙
    われにし似るか
     
  155. かの旅の汽車の車掌が
    ゆくりなくも
    我が中学の友なりしかな
     
  156. ほとばしる喞筒(ポンプ)の水の
    心地よさよ
    しばしは若きこころもて見る
     
  157. 師も友も知らで責めにき
    謎に似る
    わが学業のおこたりの因(もと)
     
  158. 教室の窓より遁げて
    ただ一人
    かの城址に寝に行きしかな
     
  159. 不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
    空に吸はれし
    十五の心
     
  160. かなしみといはばいふべき
    物の味
    我の嘗めしはあまりに早かり
     
  161. 晴れし空仰げばいつも
    口笛を吹きたくなりて
    吹きてあそびき
     
  162. 夜寝ても口笛吹きぬ
    口笛は
    十五の我の歌にしありけり
     
  163. よく叱る師ありき
    髯の似たるより山羊と名づけて
    口真似もしき
     
  164. われと共に
    小鳥に石を投げて遊ぶ
    後備大尉の子もありしかな
     
  165. 城址の
    石に腰掛け
    禁制の木(こ)の実をひとり味ひしこと
     
  166. その後(のち)に我を捨てし友も
    あの頃はともに書(ふみ)読み
    ともに遊びき
     
  167. 学校の図書庫(としよぐら)の裏の秋の草
    黄なる花咲きし
    今も名知らず
     
  168. 花散れば
    先づ人さきに白の服着て家出づる
    我にてありしか
     
  169. 今は亡き姉の恋人のおとうとと
    なかよくせしを
    かなしと思ふ
     
  170. 夏休み果ててそのまま
    かへり来ぬ
    若き英語の教師もありき
     
  171. ストライキ思ひ出でても
    今は早や我が血躍らず
    ひそかに淋し
     
  172. 盛岡の中学校の
    露台(バルコン)の
    欄干(てすり)に最一度(もいちど)我を倚らしめ
     
  173. 神有りと言ひ張る友を
    説きふせし
    かの路傍(みちばた)の栗の樹の下(もと)
     
  174. 西風に
    内丸大路の桜の葉
    かさこそ散るを踏みてあそびき
     
  175. そのかみの愛読の書よ
    大方は
    今は流行らずなりにけるかな
     
  176. 石ひとつ
    坂をくだるがごとくにも
    我けふの日に到り着きたる
     
  177. 愁ひある少年の眼に羨みき
    小鳥の飛ぶを
    飛びてうたふを
     
  178. 解剖(ふわけ)せし
    蚯蚓(みみづ)のいのちもかなしかり
    かの校庭の木柵(もくさく)の下(もと)
     
  179. かぎりなき智識の欲に燃ゆる眼を
    姉は傷みき
    人恋ふるかと
     
  180. 蘇峯の書を我に薦めし友早く
    校を退きぬ
    まづしさのため
     
  181. おどけたる手つきをかしと
    我のみはいつも笑ひき
    博学の師を
     
  182. 自(し)が才に身をあやまちし人のこと
    かたりきかせし
    師もありしかな
     
  183. そのかみの学校一のなまけ者
    今は真面目に
    はたらきて居り
     
  184. 田舎めく旅の姿を
    三日(みか)ばかり都に曝し
    かへる友かな
     
  185. 茨島(ばらじま)の松の並木の街道を
    われと行きし少女(をとめ)
    才をたのみき
     
  186. 眼を病みて黒き眼鏡をかけし頃
    その頃よ
    一人泣くをおぼえし
     
  187. わがこころ
    けふもひそかに泣かむとす
    友みな己が道をあゆめり
     
  188. 先んじて恋のあまさと
    かなしさを知りし我なり
    先んじて老ゆ
     
  189. 興来(きた)れば
    友なみだ垂れ手を揮(ふ)りて
    酔漢(ゑひどれ)のごとくなりて語りき
     
  190. 人ごみの中をわけ来る
    わが友の
    むかしながらの太き杖かな
     
  191. 見よげなる年賀の文(ふみ)を書く人と
    おもひ過ぎにき
    三年(みとせ)ばかりは
     
  192. 夢さめてふつと悲しむ
    わが眠り
    昔のごとく安からぬかな
     
  193. そのむかし秀才の名の高かりし
    友牢にあり
    秋のかぜ吹く
     
  194. 近眼(ちかめ)にて
    おどけし歌をよみ出でし
    茂雄の恋もかなしかりしか
     
  195. わが妻のむかしの願ひ
    音楽のことにかかりき
    今はうたはず
     
  196. 友はみな或日四方に散り行きぬ
    その後(のち)八年(やとせ)
    名挙げしもなし
     
  197. わが恋を
    はじめて友にうち明けし夜のことなど
    思ひ出づる日
     
  198. 糸切れし紙鳶(たこ)のごとくに
    若き日の心かろくも
    とびさりしかな
     
       二
     
  199. ふるさとの訛なつかし
    停車場の人ごみの中に
    そを聴きにゆく
     
  200. やまひある獣のごとき
    わがこころ
    ふるさとのこと聞けばおとなし
     
  201. ふと思ふ
    ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを
    三年(みとせ)聴かざり
     
  202. 亡くなれる師がその昔
    たまひたる
    地理の本など取りいでて見る
     
  203. その昔
    小学校の柾屋根(まさやね)に我が投げし鞠
    いかにかなりけむ
     
  204. ふるさとの
    かの路傍(みちばた)のすて石よ
    今年も草に埋(うづ)もれしらむ
     
  205. わかれをれば妹(いもと)いとしも
    赤き緒の
    下駄など欲しとわめく子なりし
     
  206. 二日前に山の絵見しが
    今朝になりて
    にはかに恋しふるさとの山
     
  207. 飴売のチヤルメラ聴けば
    うしなひし
    をさなき心ひろへるごとし
     
  208. このごろは
    母も時時ふるさとのことを言ひ出づ
    秋に入(い)れるなり
     
  209. それとなく
    郷里(くに)のことなど語り出でて
    秋の夜に焼く餅のにほひかな
     
  210. かにかくに渋民村は恋しかり
    おもひでの山
    おもひでの川
     
  211. 田も畑(はた)も売りて酒のみ
    ほろびゆくふるさと人(びと)に
    心寄する日
     
  212. あはれかの我の教へし
    子等もまた
    やがてふるさとを棄てて出づるらむ
     
  213. ふるさとを出で来(き)し子等の
    相会ひて
    よろこぶにまさるかなしみはなし
     
  214. 石をもて追はるるごとく
    ふるさとを出でしかなしみ
    消ゆる時なし
     
  215. やはらかに柳あをめる
    北上の岸辺目に見ゆ
    泣けとごとくに
     
  216. ふるさとの
    村医の妻のつつましき櫛巻なども
    なつかしきかな
     
  217. かの村の登記所に来て
    肺病みて
    間もなく死にし男もありき
     
  218. 小学の首席を我と争ひし
    友のいとなむ
    木賃宿かな
     
  219. 千代冶等も長じて恋し
    子を挙げぬ
    わが旅にしてなせしごとくに
     
  220. ある年の盆の祭に
    衣(きぬ)貸さむ踊れと言ひし
    女を思ふ
     
  221. うすのろの兄と
    不具(かたわ)の父もてる三太はかなし
    夜も書(ふみ)読む
     
  222. 我と共に
    栗毛の仔馬走らせし
    母の無き子の盗癖(ぬすみぐせ)かな
     
  223. 大形の被布の模様の赤き花
    今も目に見ゆ
    六歳(むつ)の日の恋
     
  224. その名さへ忘られし頃
    飄然とふるさとに来て
    咳せし男
     
  225. 意地悪の大工の子などもかなしかり
    戦に出でしが
    生きてかへらず
     
  226. 肺を病む
    極道地主の総領の
    よめとりの日の春の雷(らい)かな
     
  227. 宗次郎(そうじろ)に
    おかねが泣きて口説き居り
    大根の花白きゆふぐれ
     
  228. 小心の役場の書記の
    気の狂(ふ)れし噂に立てる
    ふるさとの秋
     
  229. わが従兄
    野山の猟(かり)に飽きし後(のち)
    酒のみ家売り病みて死にしかな
     
  230. 我ゆきて手をとれば
    泣きてしづまりき
    酔ひて荒(あば)れしそのかみの友
     
  231. 酒のめば
    刀をぬきて妻を逐ふ教師もありき
    村を逐はれき
     
  232. 年ごとに肺病やみの殖えてゆく
    村に迎へし
    若き医者かな
     
  233. ほたる狩
    川にゆかむといふ我を
    山路にさそふ人にてありき
     
  234. 馬鈴薯のうす紫の花に降る
    雨を思へり
    都の雨に
     
  235. あはれ我がノスタルジヤは
    金(きん)のごと
    心に照れり清くしみらに
     
  236. 友として遊ぶものなき
    性悪の巡査の子等も
    あはれなりけり
     
  237. 閑古鳥
    鳴く日となれば起(おこ)るてふ
    友のやまひのいかになりけむ
     
  238. わが思ふこと
    おほかたは正しかり
    ふるさとのたより着ける朝(あした)は
     
  239. 今日聞けば
    かの幸うすきやもめ人
    きたなき恋に身を入るるてふ
     
  240. わがために
    なやめる魂(たま)をしづめよと
    讃美歌うたふ人ありしかな
     
  241. あはれかの男のごときたましひよ
    今は何処(いづこ)に
    何を思ふや
     
  242. わが庭の白き躑躅を
    薄月の夜に
    折りゆきしことな忘れそ
     
  243. わが村に
    初めてイエス・クリストの道を説きたる
    若き女かな
     
  244. 霧ふかき好摩(かうま)の原の
    停車場の
    朝の虫こそすずろなりけれ
     
  245. 汽車の窓
    はるかに北にふるさとの山見え来れば
    襟を正すも
     
  246. ふるさとの土をわが踏めば
    何がなしに足軽(かろ)くなり
    心重れり
     
  247. ふるさとに入りて先づ心傷むかな
    道広くなり
    橋もあたらし
     
  248. 見もしらぬ女教師が
    そのかみの
    わが学舎(まなびや)の窓に立てるかな
     
  249. かの家(いへ)のかの窓にこそ
    春の夜を
    秀子とともに蛙(かはづ)聴きけれ
     
  250. そのかみの神童の名の
    かなしさよ
    ふるさとに来て泣くはそのこと
     
  251. ふるさとの停車場路の
    川ばたの
    胡桃の下に小石拾へり
     
  252. ふるさとの山に向ひて
    言ふことなし
    ふるさとの山はありがたきかな
     
     
      秋風のこころよさに
     
  253. ふるさとの空遠みかも
    高き屋にひとりのぼりて
    愁ひて下(くだ)る
     
  254. 皎として玉をあざむく少人(せうじん)も
    秋来(く)といふに
    物を思へり
       ☆“少人”は,久保田参照本に“小人”とある。
     
  255. かなしきは
    秋風ぞかし
    稀にのみ湧きし涙の繁(しじ)に流るる
     
  256. 青に透く
    かなしみの玉に枕して
    松のひびきを夜もすがら聴く
     
  257. 神寂びし七山(ななやま)の杉
    火のごとく染めて日入りぬ
    静かなるかな
     
  258. そを読めば
    愁ひ知るといふ書(ふみ)焚ける
    いにしへ人の心よろしも
     
  259. ものなべてうらはかなげに
    暮れゆきぬ
    とりあつめたる悲しみの日は
     
  260. 水潦(みづたまり)
    暮れゆく空とくれなゐの紐を浮べぬ
    秋雨の後(のち)
     
  261. 秋立つは水にかも似る
    洗はれて
    思ひことごと新しくなる
     
  262. 愁ひ来て
    丘にのぼれば
    名も知らぬ鳥啄(ついば)めり赤き茨(ばら)の実
     
  263. 秋の辻
    四すぢの路の三すぢへと吹きゆく風の
    あと見えずかも
     
  264. 秋の声まづいち早く耳に入る
    かかる性(さが)持つ
    かなしむべかり
     
  265. 目になれし山にはあれど
    秋来れば
    神や住まむとかしこみて見る
     
  266. わが為さむこと世に尽きて
    長き日を
    かくしもあはれ物を思ふか
     
  267. さららさらと雨落ち来り
    庭の面(も)の濡れゆくを見て
    涙わすれぬ
     
  268. ふるさとの寺の御廊(みらう)に
    踏みにける
    小櫛の蝶を夢にみしかな
     
  269. こころみに
    いとけなき日の我となり
    物言ひてみむ人あれと思ふ
     
  270. はたはたと黍の葉鳴れる
    ふるさとの軒端なつかし
    秋風吹けば
     
  271. 摩(す)れあへる肩のひまより
    はつかにも見きといふさへ
    日記(にき)に残れり
     
  272. 風流男(みやびを)は今も昔も
    泡雪の
    玉手(たまで)さし捲く夜にし老ゆらし
     
  273. かりそめに忘れても見まし
    石だたみ
    春生ふる草に埋るるがごと
     
  274. その昔揺籃(ゆりかご)に寝て
    あまたたび夢にみし人か
    切(せち)になつかし
     
  275. 神無月(かみなづき)
    岩手の山の
    初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ
     
  276. ひでり雨さらさら落ちて
    前栽の
    萩のすこしく乱れたるかな
     
  277. 秋の空廓寥(くわくれう)として影もなし
    あまりにさびし
    烏など飛べ
     
  278. 雨後の月
    ほどよく濡れし屋根瓦の
    そのところどころ光るかなしさ
     
  279. われ饑ゑてある日に
    細き尾を掉(ふ)りて
    饑ゑて我を見る犬の面(つら)よし
     
  280. いつしかに
    泣くといふこと忘れたる
    我泣かしむる人のあらじか
     
  281. 汪然として
    ああ酒のかなしみぞ我に来(きた)れる
    立ちて舞ひなむ
     
  282. イトド鳴く
    そのかたはらの石に踞(きよ)し
    泣き笑ひしてひとり物言ふ
       ☆“イトド”は虫偏に車。
     
  283. 力なく病みし頃より
    口すこし開(あ)きて眠るが
    癖となりにき
     
  284. 人ひとり得(う)るに過ぎざる事をもて
    大願とせし
    若きあやまち
     
  285. 物怨(ゑ)ずる
    そのやはらかき上目をば
    愛づとことさらつれなくせむや
     
  286. かくばかり熱き涙は
    初恋の日にもありきと
    泣く日またなし
     
  287. 長く長く忘れし友に
    会ふごとき
    よろこびをもて水の音聴く
     
  288. 秋の夜の
    鋼鉄(はがね)の色の大空に
    火を噴(は)く山もあれなど思ふ
     
  289. 岩手山(いはてやま)
    秋はふもとの三方の
    野に満つる虫を何と聴くらむ
     
  290. 父のごと秋はいかめし
    母のごと秋はなつかし
    家持たぬ児に
     
  291. 秋来れば
    恋ふる心のいとまなさよ
    夜もい寝がてに雁(かり)多く聴く
     
  292. 長月も半ばになりぬ
    いつまでか
    かくも幼く打出でずあらむ
     
  293. 思ふてふこと言はぬ人の
    おくり来(き)し
    忘れな草もいちじろかりし
     
  294. 秋の雨に逆反(さかぞ)りやすき弓のごと
    このごろ
    君のしたしまぬかな
     
  295. 松の風夜(よ)昼ひびきぬ
    人訪(と)はぬ山の祠の
    石馬(いしうま)の耳に
     
  296. ほのかなる朽木の香り
    そがなかの蕈(たけ)の香りに
    秋やや深し
     
  297. 時雨降るごとき音して
    木(こ)伝ひぬ
    人によく似し森の猿ども
     
  298. 森の奥
    遠きひびきす
    木のうろに臼ひく侏儒の国にかも来(き)し
     
  299. 世のはじめ
    まづ森ありて
    半神の人そが中に火や守りけむ
     
  300. はてもなく砂うちつづく
    戈壁(ゴビ)の野に住みたまふ神は
    秋の神かも
     
  301. あめつちに
    わが悲しみと月光と
    あまねき秋の夜となれりけり
     
  302. うらがなしき
    夜の物の音(ね)洩れ来るを
    拾ふがごとくさまよひ行きぬ
     
  303. 旅の子の
    ふるさとに来て眠るがに
    げに静かにも冬の来(き)しかな
     
     
      忘れがたき人人
     
       一
     
  304. 潮かをる北の浜辺の
    砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ
    今年も咲けるや
     
  305. たのみつる年の若さを数へみて
    指を見つめて
    旅がいやになりき
     
  306. 三度(みたび)ほど
    汽車の窓よりながめたる町の名なども
    したしかりけり
     
  307. 函館の床屋の弟子を
    おもひ出でぬ
    耳剃らせるがこころよかりし
     
  308. わがあとを追ひ来て
    知れる人もなき
    辺土に住みし母と妻かな
     
  309. 船に酔ひてやさしくなれる
    いもうとの眼見ゆ
    津軽の海を思へば
     
  310. 目を閉ぢて
    傷心の句を誦(ず)してゐし
    友の手紙のおどけ悲しも
     
  311. をさなき時
    橋の欄干に糞塗りし
    話も友はかなしみてしき
     
  312. おそらくは生涯妻をむかへじと
    わらひし友よ
    今もめとらず
     
  313. あはれかの
    眼鏡の縁をさびしげに光らせてゐし
    女教師よ
     
  314. 友われに飯を与へき
    その友に背きし我の
    性(さが)のかなしさ
     
  315. 函館の青柳町こそかなしけれ
    友の恋歌
    矢ぐるまの花
     
  316. ふるさとの
    麦のかをりを懐かしむ
    女の眉にこころひかれき
     
  317. あたらしき洋書の紙の
    香をかぎて
    一途に金を欲しと思ひしが
     
  318. しらなみの寄せて騒げる
    函館の大森浜に
    思ひしことども
     
  319. 朝な朝な
    支那の俗歌をうたひ出づる
    まくら時計を愛でしかなしみ
     
  320. 漂泊の愁ひを叙して成らざりし
    草稿の字の
    読みがたさかな
     
  321. いくたびか死なむとしては
    死なざりし
    わが来(こ)しかたのをかしく悲し
     
  322. 函館の臥牛の山の半腹の
    碑の漢詩(からうた)も
    なかば忘れぬ
     
  323. むやむやと
    口の中(うち)にてたふとげの事を呟く
    乞食もありき
     
  324. とるに足らぬ男と思へと言ふごとく
    山に入りにき
    神のごとき友
     
  325. 巻煙草口にくはへて
    浪あらき
    磯の夜霧に立ちし女よ
     
  326. 演習のひまにわざわざ
    汽車に乗りて
    訪ひ来(き)し友とのめる酒かな
       ☆以下3首は宮崎郁雨を詠んでいる。

  327. 大川の水の面を見るごとに
    郁雨よ
    君のなやみを思ふ
     
  328. 智慧とその深き慈悲とを
    もちあぐみ
    為すこともなく友は遊べり
     
  329. こころざし得ぬ人人の
    あつまりて酒のむ場所が
    我が家なりしかな
     
  330. かなしめば高く笑ひき
    酒をもて
    悶(もん)を解(げ)すといふ年上の友
     
  331. 若くして
    数人(すにん)の父となりし友
    子なきがごとく酔へばうたひき
     
  332. さりげなき高き笑ひが
    酒とともに
    我が腸(はらわた)に沁みにけらしな
     
  333. アクビ噛み
    夜汽車の窓に別れたる
    別れが今は物足らぬかな
       ☆“アクビ”,原文は口偏に去+呻。
     
  334. 雨に濡れし夜汽車の窓に
    映りたる
    山間(やまあひ)の町のともしびの色
     
  335. 雨つよく降る夜の汽車の
    たえまなく雫流るる
    窓硝子かな
     
  336. 真夜中の
    倶知安(くちあん)駅に下りゆきし
    女の鬢(びん)の古き痍(きず)あと
     
  337. 札幌に
    かの秋われの持てゆきし
    しかして今も持てるかなしみ
     
  338. アカシヤの並木にポプラに
    秋の風
    吹くがかなしと日記(にき)に残れり
       ☆1行目の“並木”は街+木偏に越。
     
  339. しんとして幅広き街の
    秋の夜の
    玉蜀黍の焼くるにほひよ
     
  340. わが宿の姉と妹(いもと)のいさかひに
    初夜過ぎゆきし
    札幌の雨
     
  341. 石狩の美国(びくに)といへる停車場の
    柵に乾してありし
    赤き布片(きれ)かな
     
  342. かなしきは小樽の町よ
    歌ふことなき人人の
    声の荒さよ
     
  343. 泣くがごと首ふるはせて
    手の相を見せよといひし
    易者もありき
     
  344. いささかの銭借りてゆきし
    わが友の
    後姿の肩の雪かな
     
  345. 世わたりの拙きことを
    ひそかにも
    誇りとしたる我にやはあらぬ
     
  346. 汝(な)が痩せしからだはすべて
    謀叛気のかたまりなりと
    いはれてしこと
     
  347. かの年のかの新聞の
    初雪の記事を書きしは
    我なりしかな
     
  348. 椅子をもて我を撃たむと身構へし
    かの友の酔ひも
    今は醒めつらむ
     
  349. 負けたるも我にてありき
    あらそひの因(もと)も我なりしと
    今は思へり
     
  350. 殴らむといふに
    殴れとつめよせし
    昔の我のいとほしきかな
     
  351. 汝(なれ)三度(みたび)
    この咽喉に剣を擬したりと
    彼告別の辞に言へりけり
     
  352. あらそひて
    いたく憎みて別れたる
    友をなつかしく思ふ日も来(き)ぬ
     
  353. あはれかの眉の秀でし少年よ
    弟と呼べば
    はつかに笑みしが
     
  354. わが妻に着物縫はせし友ありし
    冬早く来る
    植民地かな
     
  355. 平手もて
    吹雪にぬれし顔を拭く
    友共産を主義とせりけり
     
  356. 酒のめば鬼のごとくに青かりし
    大いなる顔よ
    かなしき顔よ
     
  357. 樺太に入(い)りて
    新しき宗教を創(はじ)めむといふ
    友なりしかな
     
  358. 治まれる世の事無さに
    飽きたりといひし頃こそ
    かなしかりけれ
     
  359. 共同の薬屋開き
    儲けむといふ友なりき
    詐欺せしといふ
     
  360. あをじろき頬に涙を光らせて
    死をば語りき
    若き商人(あきびと)
     
  361. 子を負ひて
    雪の吹き入る停車場に
    われ見送りし妻の眉かな
     
  362. 敵として憎みし友と
    やや長く手をば握りき
    わかれといふに
     
  363. ゆるぎ出づる汽車の窓より
    人先に顔を引きしも
    負けざらむため
     
  364. みぞれ降る
    石狩の野の汽車に読みし
    ツルゲエネフの物語かな
     
  365. わが去れる後(のち)の噂を
    おもひやる旅出はかなし
    死ににゆくごと
     
  366. わかれ来てふと瞬けば
    ゆくりなく
    つめたきものの頬をつたへり
     
  367. 忘れ来(き)し煙草を思ふ
    ゆけどゆけど
    山なほ遠き雪の野の汽車
     
  368. うす紅く雪に流れて
    入日影
    曠野(あらの)の汽車の窓を照せり
     
  369. 腹すこし痛み出でしを
    しのびつつ
    長路の汽車にのむ煙草かな
     
  370. 乗合の砲兵士官の
    剣の鞘
    がちやりと鳴るに思ひやぶれき
     
  371. 名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の
    宿屋安けし
    我が家(いへ)のごと
     
  372. 伴(つれ)なりしかの代議士の
    口あける青き寐顔を
    かなしと思ひき
     
  373. 今夜こそ思ふ存分泣いてみむと
    泊りし宿屋の
    茶のぬるさかな
     
  374. 水蒸気
    列車の窓に花のごと凍てしを染むる
    あかつきの色
     
  375. ごおと鳴る凩のあと
    乾きたる雪舞ひ立ちて
    林を包めり
     
  376. 空知川雪に埋れて
    鳥も見えず
    岸辺の林に人ひとりゐき
     
  377. 寂莫を敵とし友とし
    雪のなかに
    長き一生を送る人もあり
     
  378. いたく汽車に疲れて猶も
    きれぎれに思ふは
    我のいとしさなりき
     
  379. うたふごと駅の名呼びし
    柔和なる
    若き駅夫の眼をも忘れず
     
  380. 雪のなか
    処処(しよしよ)に屋根見えて
    煙突の煙うすくも空にまよへり
     
  381. 遠くより
    笛ながながとひびかせて
    汽車今とある森林に入(い)る
     
  382. 何事も思ふことなく
    日一日
    汽車のひびきに心まかせぬ
     
  383. さいはての駅に下り立ち
    雪あかり
    さびしき町にあゆみ入りにき
     
  384. しらしらと氷かがやき
    千鳥なく
    釧路の海の冬の月かな
     
  385. こほりたるインクの罎を
    火に翳し
    涙ながれぬともしびの下(もと)
     
  386. 顔とこゑ
    それのみ昔に変らざる友にも会ひき
    国の果にて
     
  387. あはれかの国のはてにて
    酒のみき
    かなしみの滓を啜るごとくに
     
  388. 酒のめば悲しみ一時に湧き来るを
    寐て夢みぬを
    うれしとはせし
     
  389. 出しぬけの女の笑ひ
    身に沁みき
    厨(くりや)に酒の凍る真夜中
     
  390. わが酔ひに心いためて
    うたはざる女ありしが
    いかになれるや
     
  391. 小奴(こやつこ)といひし女の
    やはらかき
    耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
     
  392. よりそひて
    深夜の雪の中に立つ
    女の右手(めて)のあたたかさかな
     
  393. 死にたくはないかと言へば
    これ見よと
    咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女かな
     
  394. 芸事も顔も
    かれより優れたる
    女あしざまに我を言へりとか
     
  395. 舞へといへば立ちて舞ひにき
    おのづから
    悪酒の酔ひにたふるるまでも
     
  396. 死ぬばかり我が酔ふをまちて
    いろいろの
    かなしきことを囁きし人
     
  397. いかにせしと言へば
    あをじろき酔ひざめの
    面(おもて)に強ひて笑みをつくりき
     
  398. かなしきは
    かの白玉のごとくなる腕に残せし
    キスの痕かな
     
  399. 酔ひてわがうつむく時も
    水ほしと眼ひらく時も
    呼びし名なりけり
     
  400. 火をしたふ虫のごとくに
    ともしびの明るき家に
    かよひ慣れにき
     
  401. きしきしと寒さに踏めば板軋む
    かへりの廊下の
    不意のくちづけ
     
  402. その膝に枕しつつも
    我がこころ
    思ひしはみな我のことなり
     
  403. さらさらと氷の屑が
    波に鳴る
    磯の月夜のゆきかへりかな
     
  404. 死にしとかこのごろ聞きぬ
    恋がたき
    才あまりある男なりしが
     
  405. 十年(ととせ)まへに作りしといふ漢詩(からうた)を
    酔へば唱へき
    旅に老いし友
     
  406. 吸ふごとに
    鼻がぴたりと凍りつく
    寒き空気を吸ひたくなりぬ
     
  407. 波もなき二月の湾に
    白塗の
    外国船が低く浮かべり
     
  408. 三味線(さみせん)の絃(いと)のきれしを
    火事のごと騒ぐ子ありき
    大雪の夜(よ)に
     
  409. 神のごと
    遠く姿をあらはせる
    阿寒の山の雪のあけぼの
     
  410. 郷里(くに)にゐて
    身投げせしことありといふ
    女の三味(さみ)にうたへるゆふべ
     
  411. 葡萄色(えびいろ)の
    古き手帳にのこりたる
    かの会合(あひびき)の時と処かな
     
  412. よごれたる足袋穿く時の
    気味わるき思ひに似たる
    思出もあり
     
  413. わが室(へや)に女泣きしを
    小説のなかの事かと
    おもひ出づる日
     
  414. 浪淘沙(らうとうさ)
    ながくも声をふるはせて
    うたふがごとき旅なりしかな
     
       二
     
  415. いつなりけむ
    夢にふと聴きてうれしかりし
    その声もあはれ長く聴かざり
     
  416. 頬(ほ)の寒き
    流離の旅の人として
    路問ふほどのこと言ひしのみ
     
  417. さりげなく言ひし言葉は
    さりげなく君も聴きつらむ
    それだけのこと
     
  418. ひややかに清き大理石(なめいし)に
    春の日の静かに照るは
    かかる思ひならむ
     
  419. 世の中の明るさのみを吸ふごとき
    黒き瞳の
    今も目にあり
     
  420. かの時に言ひそびれたる
    大切の言葉は今も
    胸にのこれど
     
  421. 真白なるラムプの笠の
    瑕(きず)のごと
    流離の記憶消しがたきかな
     
  422. 函館のかの焼跡を去りし夜の
    こころ残りを
    今も残しつ
     
  423. 人がいふ
    鬢(びん)のほつれのめでたさを
    物書く時の君に見たりし
     
  424. 馬鈴薯の花咲く頃と
    なれりけり
    君もこの花を好きたまふらむ
     
  425. 山の子の
    山を思ふがごとくにも
    かなしき時は君を思へり
     
  426. 忘れをれば
    ひよつとした事が思ひ出の種にまたなる
    忘れかねつも
     
  427. 病むと聞き
    癒えしと聞きて
    四百里(しひやくり)のこなたに我はうつつなかりし
     
  428. 君に似し姿を街に見る時の
    こころ躍りを
    あはれと思へ
     
  429. かの声を最一度聴かば
    すつきりと
    胸や霽れむと今朝も思へる
     
  430. いそがしき生活(くらし)のなかの
    時折のこの物おもひ
    誰(たれ)のためぞも
     
  431. しみじみと
    物うち語る友もあれ
    君のことなど語り出でなむ
     
  432. 死ぬまでに一度会はむと
    言ひやらば
    君もかすかにうなづくらむか
     
  433. 時として
    君を思へば
    安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
     
  434. わかれ来て年を重ねて
    年ごとに恋しくなれる
    君にしあるかな
     
  435. 石狩の都の外の
    君が家
    林檎の花の散りてやあらむ
     
  436. 長き文(ふみ)
    三年(みとせ)のうちに三度(みたび)来(き)ぬ
    我の書きしは四度にかあらむ
     
     
      手套を脱ぐ時
     
  437. 手套 (てぶくろ)を脱ぐ手ふと 休(や)む
    何やらむ
    こころかすめし思ひ出のあり
     
  438. いつしかに
    情をいつはること知りぬ
    髭を立てしもその頃なりけむ
     
  439. 朝の湯の
    湯槽(ゆぶね)のふちにうなじ載せ
    ゆるく息する物思ひかな
     
  440. 夏来れば
    うがひ薬の
    病ある歯に沁む朝のうれしかりけり
     
  441. つくづくと手をながめつつ
    おもひ出でぬ
    キスが上手(じやうず)の女なりしが
     
  442. さびしきは
    色にしたしまぬ目のゆゑと
    赤き花など買はせけるかな
     
  443. 新しき本を買ひ来て読む夜半(よは)の
    そのたのしさも
    長くわすれぬ
     
  444. 旅七日
    かへり来ぬれば
    わが窓の赤きインクの染みもなつかし
     
  445. 古文書のなかに見いでし
    よごれたる
    吸取紙をなつかしむかな
     
  446. 手にためし雪の融くるが
    ここちよく
    わが寐飽きたる心には沁む
     
  447. 薄れゆく障子の日影
    そを見つつ
    こころいつしか暗くなりゆく
     
  448. ひやひやと
    夜は薬の香のにほふ
    医者が住みたるあとの家(いへ)かな
     
  449. 窓硝子
    塵と雨とに曇りたる窓硝子にも
    かなしみはあり
     
  450. 六年(むとせ)ほど日毎日毎にかぶりたる
    古き帽子も
    棄てられぬかな
     
  451. こころよく
    春のねむりをむさぼれる
    目にやはらかき庭の草かな
     
  452. 赤煉瓦遠くつづける高塀の
    むらさきに見えて
    春の日ながし
     
  453. 春の雪
    銀座の裏の三階の煉瓦造に
    やはらかに降る
     
  454. よごれたる煉瓦の壁に
    降りて融け降りては融くる
    春の雪かな
     
  455. 目を病める
    若き女の倚(よ)りかかる
    窓にしめやかに春の雨降る
     
  456. あたらしき木のかをりなど
    ただよへる
    新開町の春の静けさ
     
  457. 春の街
    見よげに書ける女名の
    門札(かどふだ)などを読みありくかな
     
  458. そことなく
    蜜柑の皮の焼くるごときにほひ残りて
    夕(ゆふべ)となりぬ
     
  459. にぎはしき若き女の集会(あつまり)の
    こゑ聴き倦みて
    さびしくなりたり
     
  460. 何処(どこ)やらに
    若き女の死ぬごとき悩ましさあり
    春の霙降る
     
  461. コニヤツクの酔ひのあとなる
    やはらかき
    このかなしみのすずろなるかな
     
  462. 白き皿
    拭きては棚に重ねゐる
    酒場の隅のかなしき女
     
  463. 乾きたる冬の大路の
    何処(いづく)やらむ
    石炭酸のにほひひそめり
     
  464. 赤赤と入日うつれる
    河ばたの酒場の窓の
    白き顔かな
     
  465. 新しきサラドの皿の
    酢のかをり
    こころに沁みてかなしき夕(ゆふべ)
     
  466. 空色の罎より
    山羊の乳をつぐ
    手のふるひなどいとしかりけり
     
  467. すがた見の
    息のくもりに消されたる
    酔ひのうるみの眸(まみ)のかなしさ
     
  468. ひとしきり静かになれる
    ゆふぐれの
    厨(くりや)にのこるハムのにほひかな
     
  469. ひややかに罎のならべる棚の前
    歯せせる女を
    かなしとも見き
     
  470. やや長きキスを交して別れ来(き)し
    深夜の街の
    遠き火事かな
     
  471. 病院の窓のゆふべの
    ほの白き顔にありたる
    淡き見覚え
     
  472. 何時(いつ)なりしか
    かの大川の遊船に
    舞ひし女をおもひ出にけり
     
  473. 用もなき文(ふみ)など長く書きさして
    ふと人こひし
    街に出てゆく
     
  474. しめらへる煙草を吸へば
    おほよその
    わが思ふことも軽(かろ)くしめれり
     
  475. するどくも
    夏の来(きた)るを感じつつ
    雨後の小庭の土の香を嗅ぐ
     
  476. すずしげに飾り立てたる
    硝子屋の前にながめし
    夏の夜の月
     
  477. 君来るといふに夙(と)く起き
    白シヤツの
    袖のよごれを気にする日かな
     
  478. おちつかぬ我が弟の
    このごろの
    眼のうるみなどかなしかりけり
     
  479. どこやらに杭打つ音し
    大桶をころがす音し
    雪ふりいでぬ
     
  480. 人気(ひとげ)なき夜(よ)の事務室に
    けたたましく
    電話の鈴(りん)の鳴りて止みたり
     
  481. 目さまして
    ややありて耳に入り来(きた)る
    真夜中すぎの話声かな
     
  482. 見てをれば時計とまれり
    吸はるるごと
    心はまたもさびしさに行く
     
  483. 朝朝の
    うがひの料(しろ)の水薬(すゐやく)の
    罎がつめたき秋となりにけり
     
  484. 夷(なだら)かに麦の青める
    丘の根の
    小径に赤き小櫛ひろへり
     
  485. 裏山の杉生(すぎふ)のなかに
    斑なる日影這ひ入る
    秋のひるすぎ
     
  486. 港町
    とろろと鳴きて輪を描く鳶(とび)を圧せる
    潮ぐもりかな
     
  487. 小春日の曇硝子にうつりたる
    鳥影(とりかげ)を見て
    すずろに思ふ
     
  488. ひとならび泳げるごとき
    家家の高低(たかひく)の軒に
    冬の日の舞ふ
     
  489. 京橋の滝山町の
    新聞社
    灯(ひ)ともる頃のいそがしさかな
     
  490. よく怒(いか)る人にてありしわが父の
    日ごろ怒らず
    怒れと思ふ
     
  491. あさ風が電車のなかに吹き入れし
    柳のひと葉
    手にとりて見る
     
  492. ゆゑもなく海が見たくて
    海に来ぬ
    こころ傷みてたへがたき日に
     
  493. たひらなる海につかれて
    そむけたる
    目をかきみだす赤き帯かな
     
  494. 今日逢ひし町の女の
    どれもどれも
    恋にやぶれて帰るごとき日
     
  495. 汽車の旅
    とある野中の停車場の
    夏草の香のなつかしかりき
     
  496. 朝まだき
    やつと間に合ひし初秋の旅出の汽車の
    堅き麺麭(ぱん)かな
     
  497. かの旅の夜汽車の窓に
    おもひたる
    我がゆくすゑのかなしかりしかな
     
  498. ふと見れば
    とある林の停車場の時計とまれリ
    雨の夜の汽車
     
  499. わかれ来て
    燈火(あかり)小暗き夜の汽車の窓に弄ぶ
    青き林檎よ
     
  500. いつも来る
    この酒肆(さかみせ)のかなしさよ
    ゆふ日赤赤と酒に射し入る
     
  501. 白き蓮沼に咲くごとく
    かなしみが
    酔ひのあひだにはつきりと浮く
     
  502. 壁ごしに
    若き女の泣くをきく
    旅の宿屋の秋の蚊帳かな
     
  503. 取りいでし去年(こぞ)の袷(あはせ)の
    なつかしきにほひ身に沁む
    初秋の朝
     
  504. 気にしたる左の膝の痛みなど
    いつか癒(なほ)りて
    秋の風吹く
     
  505. 売り売りて
    手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る
    夏の末かな
     
  506. ゆゑもなく憎みし友と
    いつしかに親しくなりて
    秋の暮れゆく
     
  507. 赤紙の表紙手擦れし
    国禁の
    書(ふみ)を行李の底にさがす日
     
  508. 売ることを差し止められし
    本の著者に
    路にて会へる秋の朝かな
     
  509. 今日よりは
    我も酒など呷らむと思へる日より
    秋の風吹く
     
  510. 大海(だいかい)の
    その片隅につらなれる島島の上に
    秋の風吹く
     
  511. うるみたる目と
    目の下の黒子(ほくろ)のみ
    いつも目につく友の妻かな
     
  512. いつ見ても
    毛糸の玉をころがして
    韈(くつした)を編む女なりしが
     
  513. 葡萄色(えびいろ)の
    長椅子の上に眠りたる猫ほの白き
    秋のゆふぐれ
     
  514. ほそぼそと
    其処ら此処らに虫の鳴く
    昼の野に来て読む手紙かな
     
  515. 夜おそく戸を繰りをれば
    白きもの庭を走れり
    犬にやあらむ
     
  516. 夜(よ)の二時の窓の硝子を
    うす紅く
    染めて音なき火事の色かな
     
  517. あはれなる恋かなと
    ひとり呟きて
    夜半(よは)の火桶に炭添へにけり
     
  518. 真白なるラムプの笠に
    手をあてて
    寒き夜にする物思ひかな
     
  519. 水のごと
    身体をひたすかなしみに
    葱の香などのまじれる夕(ゆふべ)
     
  520. 時ありて
    猫のまねなどして笑ふ
    三十路の友のひとり住みかな
     
  521. 気弱なる斥候のごとく
    おそれつつ
    深夜の街を一人散歩す
     
  522. 皮膚がみな耳にてありき
    しんとして眠れる街の
    重き靴音
     
  523. 夜おそく停車場に入(い)り
    立ち坐(すわ)り
    やがて出でゆきぬ帽なき男
     
  524. 気がつけば
    しつとりと夜霧下りて居り
    ながくも街をさまよへるかな
     
  525. 若しあらば煙草恵めと
    寄りて来る
    あとなし人(びと)と深夜に語る
     
  526. 曠野(あらの)より帰るごとくに
    帰り来(き)ぬ
    東京の夜(よ)をひとりあゆみて
     
  527. 銀行の窓の下なる
    舗石(しきいし)の霜にこぼれし
    青インクかな
     
  528. ちよんちよんと
    とある小藪に頬白の遊ぶを眺む
    雪の野(や)の路
     
  529. 十月の朝の空気に
    あたらしく
    息吸ひそめし赤坊(あかんぼ)のあり
     
  530. 十月の産病院の
    しめりたる
    長き廊下のゆきかへりかな
     
  531. むらさきの袖垂れて
    空を見上げゐる支那人ありき
    公園の午後
     
  532. 孩児(をさなご)の手ざはりのごとき
    思ひあり
    公園に来てひとり歩めば
     
  533. ひさしぶりに公園に来て
    友に会ひ
    堅く手握り口疾(くちど)に語る
     
  534. 公園の木(こ)の間に
    小鳥あそべるを
    ながめてしばし憩ひけるかな
     
  535. 晴れし日の公園に来て
    あゆみつつ
    わがこのごろの衰へを知る
     
  536. 思出のかのキスかとも
    おどろきぬ
    プラタスの葉の散りて触れしを
       ☆“プラタス”はプラタナスのこと。
        久保田正文は“原本のミス・プリントかと思われる”と書いている。
     
  537. 公園の隅のベンチに
    二度ばかり見かけし男
    このごろ見えず
     
  538. 公園のかなしみよ
    君の嫁ぎてより
    すでに七月(ななつき)来しこともなし
     
  539. 公園のとある木蔭の捨椅子に
    思ひあまりて
    身をば寄せたる
     
  540. 忘られぬ顔なりしかな
    今日街に
    捕吏にひかれて笑める男は
     
  541. マチ擦れば
    二尺ばかりの明るさの
    中をよぎれる白き蛾のあり
     
  542. 目をとぢて
    口笛かすかに吹きてみぬ
    寐られぬ夜の窓にもたれて
     
  543. わが友は
    今日も母なき子を負ひて
    かの城址(しろあと)にさまよへるかな
     
  544. 夜おそく
    つとめ先よりかへり来て
    今死にしてふ児を抱けるかな
     
  545. 二三(ふたみ)こゑ
    いまはのきはに微かにも泣きしといふに
    なみだ誘はる
     
  546. 真白なる大根の根の肥ゆる頃
    うまれて
    やがて死にし児のあり
     
  547. おそ秋の空気を
    三尺四方ばかり
    吸ひてわが児の死にゆきしかな
     
  548. 死にし児の
    胸に注射の針を刺す
    医者の手もとにあつまる心
     
  549. 底知れぬ謎に対(むか)ひてあるごとし
    死児(しじ)のひたひに
    またも手をやる
     
  550. かなしみの強くいたらぬ
    さびしさよ
    わが児のからだ冷えてゆけども
       ☆“強く”は,久保田参照本に“つよく”とある。
     
  551. かなしくも
    夜明くるまでは残りゐぬ
    息きれし児の肌のぬくもり
     
     
     
     
     

  石川啄木第1歌集『一握の砂』 発行日:1910年(明治43)12月1日
                 発行所:東雲堂書店
                 判 型:四六判
                 頁 数:290頁
                 定 価:60銭