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第三節 遣唐使の風貌

  唐の都長安は、五十あまりとも七十あまりともいわれる国々から、しきりに遣唐使を迎えていた。これらの遣唐使たちは、文物の輸入を目的とするとともに、各国の使節団と立ちならんで、国威宣揚の狙いもあったにちがいない。

 それは朝賀の儀に参列するときの「席次争い」の諸事件によってもっとも象徴されるが、使節の容貌や服装などによって自国の文明度をアピールすることにも反映される。

 森克己氏の指摘されたとおり、日本の遣唐使人も右のふたつの目的にあわせて、唐の先進文明を輸入するとともに、「唐朝に集まる各国使臣の中にあってわが国際的地位を高める」任務にふさわしい人物が選ばれるのであった(9)。

 つまり選考にあたって、学問的素養と優雅な容姿とが条件として問われるわけである。本節では主として後者、すなわち使節団に選抜された遣唐使人の身体的特徴および外交舞台での振る舞いなどに、スポットライトをあてて考察してみたい。 

1,美貌は選考の条件

 華やかな中華文明を学ぶため、拙い航海術と未熟な造船術とをたよりにして、多大な犠牲を覚悟のうえで海をわたった遣唐使人は、ほとんどが好学の士のみであった。森克己氏によれば、「ことに注目すべきは容貌・風采・動作・態度など選考の条件にしているらしく思われることである。」(10)

  このような厳しい条件を設けると、遣唐使わけても大使や副使などの引率者に適任する人物がなかなか見つかりにくいのも事実である。たとえば、天平十八年(七四六)の大使選任について、『懐風藻』は次のように伝えている。

 「天平年中に、詔して入唐使を簡ぶ。元来より、この挙はその人を得難い。ときに朝堂に選び、公の右に出るものはない。ついに大使に拝され、衆僉な悦服する。」

 「其の人を得難い」とは、おそらく事実だったのであろう。そして「衆僉な悦服」して選ばれた石上乙麻呂は「地望は清華にして、人才穎秀である。雍容閑雅にして、甚だ風儀を善くする」と記され、『懐風藻』の著者は学問よりも風貌のほうに注意を向けている印象をうける。

 乙麻呂の子息の宅嗣も親譲りの美貌の持ち主だったらしく、『続日本紀』は「性は朗悟にして姿儀がある」または「辞容は閑雅にして、時に名がある」と書きとめている。

 石上親子のほかにも、遣唐使に選ばれた人物の容貌について、日本の諸文献から賛美の言葉が多く拾われる。ここでいくつかの例をかかげよう。

 たとえば、藤原常嗣は「立性は明幹にして、威儀は称えるべし」(『続日本後紀』)、菅原善主は「聡恵にして容儀を美しくする」(『文徳実録』)、藤原松影は「人となりは厳正にして、鬚眉は画くが如し」(同上)、小野篁は「身長は六尺二寸あり」といった具合である。

 藤原常嗣は十九回目の遣唐大使として選ばれたが、そのとき小野篁は副使、菅原善主と藤原松影は判官をつとめた。母親の老衰を理由にして渡航を取りやめた藤原松影は「進止容儀は天骨を得た」といわれ、のちに式部官吏の手本とされたという。 

2,君子国のイメージ

 石上親子はその持ち前の知性と生まれつきの容姿とを買われ、それぞれ十一回目の遣唐大使と十四回目の遣唐副使に任命されながらも、さまざまな事情があって結局は唐へわたらなかった。

 ところで、海彼へわたった遣唐使人は、異国の人々にどんなイメージを植えつけたのか。つぎに唐人の目を借りて、遣唐使人らの容貌をクローズアップしてみよう。

 斉明天皇五年(六五九)、四回目の遣唐使にしたがって入唐した伊吉博徳が、渡航の様子を書きとめた記録は「伊吉博徳書」として『日本書紀』にひかれている。それによると、同年十一月一日に洛陽で行なわれた冬至の儀に参列した諸国の使節のなかで、日本の遣唐使は「最も勝れている」と評価されたという。

 中国では古くから東シナ海の彼方に神仙郷があると伝えられ、そこの島々には仙人と君子が住んでいると信じられてきた。したがって、大海をわたってきた遣唐使には、こうしたイメージを重ね合わせたことも否めないが、それよりも眼前に現われた遣唐使人の堂々たる容姿が、「君子国」のイメージをいっそう強めたにちがいない。

 たとえば、十二回目の遣唐使らが天平勝宝四年(七五二)四月ごろ出航して、明州(今の寧波)あたりに着岸してのち、大使藤原清河をはじめとする一行は長安へ向かい、玄宗皇帝にまみえた。その情景を、『延暦僧録』はつぎのように活写している。

 「使は長安に至り、塵を払わずして拝朝する。唐主開元天地大宝聖武応道皇帝は、『かの国に賢い主君がいる。その使臣を観れば、趨揖することは他国と異なる』と讃えて、すなわち日本に『有義礼儀君子国』という称号を授けた。」

 「趨揖することは他国と異なる」とは、唐側からみれば、日本の遣唐使は他の国の使節と異なって、君子らしく振る舞ったことであろう。それはまさしく『伊吉博徳書』に「諸蕃の中で、倭客は最も勝れている」とある記載とぴったり照応する。

 もう一例をあげる。『続日本紀』に「わが朝の学生にして、名を唐国に播げる者は、ただ大臣と朝衡の二人のみ」と激賞された朝衡こと阿倍仲麻呂は、唐の文人とひろく交遊し、それを示す漢詩がいくつか現存している。

 儲光羲の贈答詩は仲麻呂のことを「美無度」と称している。「美無度」とは「美度る無し」と訓むが、中国書家の模範とされる王献之について、宋の周密が「王郎風流を擅にし、筆墨の美度る無し」と賛美するように、美の極致を言いあわしている。これで、仲麻呂が美貌の持ち主だったことがわかる。

 こうしてみてくると、王維をして仲麻呂への送別詩に日本のことを「君子の風がある」と歌わせたには、友人の仲麻呂からうけた印象が大きく働いただろうと想像される。 

3,粟田真人の容姿

 遣唐使人のなかで、その容貌を中国の文献にもっとも多く記されたのは、第八次の遣唐執節使をつとめた粟田真人をおいて、ほかにいないであろう。

 一行が大宝二年(七〇二)六月に筑紫を発って、十月に楚州の塩城県に吹きつけられ、地元の唐人と問答を交わしたとき、唐人は日本使だと知り、使者らの「儀容」をみて、「さすが君子の国だ」と感嘆したというエピソードは、『続日本紀』に伝えられている。

 「聞くところによれば、海東に大倭国という国があり、これを君子国といい、人民は豊楽にして、礼義は敦く行われているという。今、使人を看ると、儀容はなはだ浄く、伝聞を信じないわけにいかない。」

 右文は遣唐使らの帰国報告に基づく記録ではあるが、いくらか粉飾があったとしても、おおむね事実であると受けとめてよかろう。というのは、それを裏づける記録は、中国側の文献にも見いだされるからである。

 まず『旧唐書』(日本伝)をひもとくと、「進徳冠を冠り、その頂に花を為り、分かれて四散する。身は紫袍を服し、帛をもって腰帯と為す」という細やかな装束描写につづき、その学問と容貌について「好んで経史を読み、文を属ることを解し、容止は温雅である」と書かれている。

 また表現上の小異はあるものの、『新唐書』(日本伝)は「真人は学を好み、文を属ることを能くし、進止に容がある」、『通典』は「容止は温雅にして、朝廷これを異にする」、『唐会要』は「容止は閑雅にして、人を可しとする」とそれぞれ評価している。

 「朝廷これを異にする」(原文は「朝廷異之」)の「異」は動詞として「あやしむ」「うやまう」「めずらしくす」などの意味合いがあり、真人の非凡な容姿が唐人を驚かせたことを物語る。また「人を可しとす」つまり原文の「可人」は『角川大字源』によれば、熟語として「よい人物」「とりえのある人」を表わす。

 とにかく、粟田真人はときの則天武后にもよい印象を与えたらしく、麟徳殿の盛宴に招かれたのみならず、司膳卿という名誉職まで授けられたのである。

 遣外使節の容貌がその国のイメージ作りにどれほどの意味を持つかは、粟田真人の一例によって推し量られるであろう。言いかえれば、遣唐使の人選に「容貌」を条件として設けることは、外交の現場において要求される常識であるといえるかもしれない。 

4,「長大少髪」の渾名

  阿倍仲麻呂は「美度る無し」、藤原清河は「趨揖することは他国と異なる」、粟田真人は「容止は温雅である」とか「進止に容がある」とか「儀容はなはだ浄く」などといわれても、個々人の持つ具体的なイメージを、脳裏に描きだすことはそう簡単ではない。

 空海の場合は唐人朱千乗の送別詩に「古貌は休公の宛く」「威儀は旧体を易え」ると歌われているから、もし休公こと南朝宋の名僧湯惠休の相貌を画像なんかで覚えているならば、渡唐前とは打って変わった空海の姿をいくらか想像できるかもしれないが、それも詩人の賛辞としてリアルに描いているという保証はない。

 ところが、遣唐使の身体的特徴をはっきり示す記録は、『遊仙窟』の著者として世に知られる唐の文人張?(字は文成)の著わした『朝野僉載』卷四にのこされている。

 兵部尚書の姚元崇をはじめ、要路の朝官十五名を揶揄したため、地方の県尉に左遷された左拾遺魏乗光の逸話だが、そのなかで「長大少髪」の舎人呂延嗣が「日本国使人」と渾名されている。この一節の訳文を次にかかげる。

 「唐の兵部尚書姚元崇は、長身にして歩き方がせっかちであった。魏乗光は、『蛇を追いかける鸛鵲』と呼んだ。黄門侍郎の盧懐慎は、よく地面を見つけるから、『ネズミを狙う猫』と称した。殿中監の姜皎は、肥って色が黒いから、『桑の実を飽食した牝豚』と名づけた。紫微舎人の倪若水は、色が黒くて鬚がないので、『酔部落精』といった。舎人の斉処冲は、目を眇めて見る癖があるから、『暗い蝋燭の下で虱をさがす老婆』とした。舎人の呂延嗣は、長身にして髪が薄いから、『日本国使人』と渾名をつけた。(後略)」

 この史料を日本で初めて紹介した加藤順一氏は、文中の「日本国使人」とは粟田真人とともに入唐し、十余年におよぶ在唐生活をおくった大使の坂合部大分がそのモデルだろうと考え、このようなイメージが成立したのは「開元初期(八世紀はじめ)」と推定している。(11)

 肝心の人物呂延嗣について、加藤氏はその伝記を不明としているが、その後、池田温氏は唐代の史料を丹念に調べられ、呂延嗣とは開元初年ごろ紫微舎人として活躍した呂延祚の誤写であると考証した。(12)

 『朝野僉載』の著者張文成は、『旧唐書』や『新唐書』の「張薦伝」によると、新羅や日本の遣唐使が長安に来るたびに、大金をなげうってその詩文を買い求めたとあり、文名を東アジアにひろげていたことがわかる。著者自身もおそらく日本使との交流があったと思われ、史料の信憑性が高いとみてよかろう。

 日本人は、平均的に身長が低かっただけに、堂々とした風采を要求される使者の選任にあたって、長身の大男が優先的に選ばれる節がある。したがって、大使の坂合部大分(あるいは執節使の粟田真人か)も、小野篁のような「六尺二寸」ほどの偉丈夫だったと想像される。

5,遣唐使人の肖像

 文字資料による遣唐使人の描写について、以上のように諸文献から実例をあげながら述べてきたが、もっと直感的に視覚に訴える画像資料は、かつてあったかどうか。もしあったとすれば、現存しているかどうか。

 中国では、古くから外国の使節を画像に描きとめて、天子の威徳が四夷におよぶことを讃える慣例があったようだ。残卷ながら現存する『職貢図』(南京博物院蔵)はその古い例で、「倭の五王」から派遣された使者がそのなかに描かれている。

 遣唐使時代になると、日本使人の肖像が何度か描かれていたことは、文献記載によって知られる。『延暦僧録』によれば、玄宗皇帝は藤原清河の礼儀正しい振る舞いに感激し、日本国に「有義礼儀君子国」の佳号をくわえたのみならず、有司に命じて藤原清河をはじめ副使の大伴古麻呂と吉備真備の肖像を描かせ、それを蕃蔵に納めたとある。

 また、唐人曇清の送別詩『奉送日本国使空海上人橘秀才朝献後却還』には「宮に到り方に奏対せんとし、図像すでに王の庭に到れり」と詠まれており、空海と橘逸勢の二人も画像に描かれる名誉を手にしたことがうかがわれる。

 これらの肖像画はどうやら二部ずつ作られ、一部が使者とともに本国へ送られたらしい。しかし残念なことに、右の五人の肖像画がいずれも散逸して現存せず、その華やかな模様は想像を逞しくするほか偲ばれない。

 ところが、これで諦めるには、まだ早い。一九七一年七月から、陜西省乾県にある唐の章懐太子墓の発掘が始められ、翌年七月にまとめた報告書によると、墓道の東壁には『礼賓図』(客使図とも呼ばれる)が描かれていたことがわかった。(13)

 壁画の南から北に向かって二人目(図3では左から三人目)の外国使節について、日本使か高句麗使かをめぐって議論が交わされた。一時は『旧唐書』に「進徳冠を冠り、その頂に花を為り、分かれて四散する。身は紫袍を服し、帛をもって腰帯と為す」と記された粟田真人ではないかという見方が有力だったが(14)、頭上に二本の鳥羽を挿していることから、今では朝鮮半島の使者に軍配をあげる方が多い。(15)

  遣唐使人を描いた絵画として、比較的に可能性の高いものは、台湾の故宮博物院に所蔵されている『明皇会棋図』だろうと思われる。『懐風藻』弁正伝に「大宝年中に、唐国に遣学する。ときに李隆基が龍潜の日に遇う。囲碁を善くするをもって、しばしば賞遇される」とある記述によって、中央の明皇(玄宗)に向かって左から三人目が弁正その人だろうと推定される。(16)

 もし右の推測がまだ証拠不足なら、古くから近江国蒲生郡中村の呉神社に伝来し、いくつかの模写品が現存している『吉士長丹像』は、われわれの悲願をかなえてくれる。東野治之氏によれば、この肖像は儒教の聖賢像とおぼしき風貌に描かれているという。(17)

 吉士長丹は第二次の遣唐大使をつとめ、帰国後に天皇より「呉」の姓を賜わった。その肖像画が呉神社に伝わったいきさつは不明だが、あるいは藤原清河や空海らと同じように、唐の宮廷画家によって描かれた肖像の一枚を持ち帰り、それがいつか縁りの神社に奉納されたのではないか。

 筆者はこのように想像を逞しくしながら、かつて唐人に強く印象づけた遣唐使人の容姿を、脳裏に深く刻み込ませたのである。 

【註釈】

(1)石原道博「中国における隣好的日本観の展開──唐・五代・宋時代の日本観──」(『茨城大学文理学部紀要(人文科学)』第二号、一九五二年)

(2)『善隣国宝記』巻上。

(3)慧思の倭国転生説について、詳しくは拙著『聖徳太子時空超越--歴史を動かした慧思後身説--』(大修館、一九九四年)を参照されたい。

(4)京戸慈光「聖徳太子の慧思禅師後身説について」(『天台学報』第三三号)。

(5)この話は宋・志磐の『仏祖統紀』(巻四十四)に見える。

(6)東大寺教学部編『シルクロード往来人物辞典』(同朋舎、一九八九年)第三部「インド・中国・朝鮮などより日本に渡来した者」の収録人物を集計してみると、日本へ渡った唐人は渤海使を除いても、百人台をうわまわっていることがわかる。唐人の渡日について、拙著『聖徳太子時空超越──歴史を動かした慧思後身説』(大修館、一九九四年)第二章「鑑真渡日の動機」をあわせて参照していただければ幸甚である。

(7)原文では「拝」は異体字となっているが、ここでは便宜上すべて「拝」に統一した。

(8)楊寒英「柏手の起源について」(『式内社のしおり』第五十一号、一九九三年三月)。

(9)森克己著『遣唐使』(日本歴史新書、至文堂、一九九〇年重版、九四頁)。

(10)森克己前掲書、九七頁。

(11)加藤順一「『朝野僉載』に見える「日本国使人」--遣唐使人の容姿をめぐって--」(『芸林』第三八巻第三号、一九八九年九月)。ちなみに加藤氏は「新たに一史料を得」たと述べているが、筆者の知るかぎり、加藤氏より八年前にこの史料を紹介した中国人学者がいた。詳しくは謝海平氏著『唐代詩人與在華外国人之文字交』(文史哲出版社、一九八一年)六三頁参照。

(12)池田温「日本国使人とあだ名された呂延祚」(『日本歴史』五一三号、一九九一年二月)。

(13)陜西省博物館乾県文教局唐墓発掘組「唐章懐太子墓発掘簡報」(『文物』一九七二年七月号)。

(14)王仁波「従考古発現看唐代中日文化交流」(『考古與文物』一九八四年三月号)。

(15)雲翔「唐章懐太子墓壁画客使図中『日本使節』質疑」(『考古』一九八四年一二月号)。

(16)この絵画の考証について、詳しくは拙著『唐から見た遣唐使』(講談社、一九九八年)九九~一〇四頁を参照されたい。

(17)東野治之「遣唐使研究と吉士長丹の肖像画」(『遣唐使が見た中国文化』、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館、一九九五年)。

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