イギリスでの妊娠・出産は安全か?

 どこかで見たウェブ・サイトに、イギリスの医療レベルは日本と同等かもしくはそれ以上であるのでまったく心配ないと記されていた。どういった根拠によるものかは知らない。

 手っ取り早く数値を用いて比較するのであれば、新生児死亡率という言葉がある。
 出生した全新生児のうち、生後4週未満に亡くなる者の割合を数値化したものだが、1998年の比較では日本が0.2%に対してイギリスは0.42%で、イギリスのほうが約2倍高い。日本の新生児死亡率は世界で最も低いので、この指標だけで判断するならば日本人女性が海外で出産する場合、それがどこの国であってもリスクは増加することになる。
 もちろん日本の0.2%もイギリスの0.42%も非常に低い数値である。妊婦が生まれて来る赤ちゃんを失う可能性が0.5%にも満たない低リスクであることに変わりはない。これなら事故に遭遇するかどうかを論じるくらいの確率である...そして、たとえ今日の発展途上国でも大半(と言っても7割くらい)の妊娠では健康な赤ちゃんが生まれて来るのであり、また近代文明の恩恵を受ける前から多くの女性たちは五体満足な赤ちゃんを産んできた...といった割り切った考え方もできるかもしれない。

 ただ、実際にイギリスで自分の妻の出産に立ち会った小児科医の経験からすると、もし私の妻がもう一度イギリスで子どもを産みたいと言い出したならば間違いなく止めるであろう。

 システムも手技も雑なのだ。
 妊娠中のことについて言えば、内診や超音波検査を行う回数が日本に比べてかなり少ない。NHSの問題点(4)でも述べたように1回の検査を受けて結果を聞くまでに大変な時間がかかる。
 日本人仲間からは、妊婦が胎動を感じなくなったとNHSに言っても取り合ってもらえず、日本から研究留学していた産婦人科医を頼ってなんとか超音波検査をしてもらったらすでに胎児は亡くなっていたことが分かった話とか、日本人の奥さんが前回出産の時にも子宮口が臨月よりも早く開いたので2回目の妊娠中に出血した際に急いでNHSに連絡したが内診もされずに帰され、これはおかしいと思って急いで日本に帰国してみたところ、すでに子宮口は開いていて安静のために緊急入院になった話などを聞かされた。

 では出産自体についてはどうか?
 NHSの問題点(4)で述べたようなTea Timeを理由に医療スタッフが職場放棄するようなことはそうそうないことだと思いたいが実際のところは分からない。
 立ち会いがmidwifeだけというのもやはり心配である。イギリス人は「問題のない出産の立ち会いは普通midwifeだけだ。自分は妻の出産に医師が立ち会うと聞いたら(それがハイ・リスクの妊娠を意味するから)むしろそのほうが心配だ」とジョーク交じりで言っていた。しかし、妊娠中は問題ないと思っていても、生まれてみたら仮死だったとか、感染を合併していたということは十分に起こり得ることである(日本でも妊娠中は特別なリスクがないと考えられていたにもかかわらず生まれてきたら仮死のあった新生児が、助産婦しかいない産院で出生したために蘇生が遅れて障害が残り、裁判になったケースがある)

 私自身、次女の出産の際にも疑問に感じた点がいくつかあった

(1)
妻に点滴をする時に皮膚消毒をしない。 (人間の皮膚にも常に細菌はついている。留置針で点滴するのであれば末梢血管であっても消毒すべき。)
(2)生まれてきた赤ちゃんの鼻や口の吸引をしない。 (midwifeに抗議すると「この子は呼吸に問題がないから」と答えたが、新生児は羊水を多少なりとも呑み込んでいるのが普通であり、出生後は早くそれを取り除かないと呼吸障害の原因になりやすい。)
(3)抗生物質の点眼を行わない。 (日本ならば出生後すぐルーチンで行われており、これで目やにがかなり予防されている。私の次女は出生時に予防投与が行われず、生後3日頃から目が開けられないほどの目やにが出てきたにもかかわらず、当初はただ拭き取るように指示された。症状が続くため生後5日を過ぎてから抗生物質の点眼薬が処方されたが、結局片方の目は1才まで目やにが出続け、日本の病院でワイヤを通して膿みを取り除いてやっと治った。ちなみに日本で生まれた赤ちゃんで1才まで目やにを出し続けている子は、生まれながらにのう胞があるのでもなければまず聞いたことがない。)
(4)後ろ向きに進む車椅子に出産後の女性を乗せる。 (出産後で脱力した妻に新生児を抱えさせて車椅子に乗せ、それをものすごい速さで背中のほうから引っ張っていく様子を想像してほしい。「次女を落とさないように気をつけて!」と叫んだ私の気持ちが理解してもらえるだろうか?)

 先にも述べたように、イギリスで出産したとしても、それがリスクのない妊娠であるならば大抵の場合は問題なく健康な赤ちゃんが生まれてくるはずである。 しかし、NHSの雑なサービスの中にはいろいろな問題が起きる可能性が至るところに潜んでおり、実際に妊娠・出産の過程で問題が起きた時にそれに対して適切な対処がしてもらえるのかどうかは大いに疑問がある。
 たとえば生まれてきた新生児に仮死や感染症などの問題があり、新生児病棟に入院することになったとしよう。呼吸障害のために体が酸性に傾いていないかとか、感染の徴候はないかといった評価をするために、日本では必要があれば1日に何回も繰り返し採血することもある。しかしNHSでは採血の結果が出るのは翌日なんてこともあるという(酸性に傾いているかどうかの検査はさすがにその日に結果が出るのだろうが)。
  これで果たして時事刻々と変わる新生児の病態に対応できるのだろうか?このシステムの違いこそが新生児死亡率の数値の違いにも反映されているのではないだろうか?

イギリスでの出産で何か問題が起き、しかもそれが好転せずに自分の子どもが命を落としたり、あるいは何らかの障害が残った時、私はNHSの病院と、そこでの出産を選択してしまった自分自身を責めずにはいられないであろう。それを考える時、私にとってイギリスでもう一度出産というのはありえない話になる。