熊本でハンセン病の救済に生涯を捧げた

ハンナ・リデルとエダ・ライト





今日皆様にお話するのは、明治・大正・昭和にかけて、私の故郷熊本でハンセン病の救済に生涯を捧げたハンナ・リデルとエダ・ライト、私の両親ともかかわりのあつたこのお2人のことについてお話してみたいと思います。

このお2人のことについては、元駐日英国大使夫人ジュリア・ボイドさんの書かれた本に詳しく載っていますので、お読みになったかたがたは既にご存知の事と思います。
「リデル先生」の事は勿論ですが今日は特にリデル先生の片腕としてその最大の協力者であった「エダ・ライト先生」の事も合わせてお話してみたいと思います。


ハンナ・リデルは、今から約150年ほど前、1855年のロンドン近郊のバーネットで生まれました。お父さんは英国陸軍の軍人でした。信仰心の厚い家庭に育った彼女は若い頃から福祉・慈善事業に関心をもち、英国聖公会の伝道団体であるCMSに所属し宣教師として活動をしていました。

明治24年、日本に派遣され宣教を兼ねて、熊本の第五高等学校の英語教師として赴任しました。(現在の熊本大学)
当時の第五高等学校には後年文豪として有名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、夏目漱石などの教師が居ました。ハンナもおそらくこの人たちとも何らかの接点があったかと思います。

彼女が第五高等学校の教師の時、たまたま他の日本人教師に連れられて本妙寺というお寺に花見に出かけました。そこで彼女が目にしたものは、美しい桜だけではなく参道両側にうずくまり物乞いをしている、おびただしいハンセン病患者でした。目を背けたくなるようなこの光景をまのあたりにした彼女は、マタイ福音書10章8節のイエスさまの御言葉が心に浮かびました。

イエスさまは12人の弟子達をイスラエルに派遣される時、この様に言われました。行って「天の国は近ずいた、と述べ伝えなさい。病人を癒し死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」重い皮膚病とはハンセン氏病の事です。ハンセン氏病の人たちを癒す事は弟子たちに与えられた大きな使命だったのです。

ハンナは、「私が此処に来たのは、神が私にハンセン氏病の人たちを救うようにとお命じになっているのだ」と感じました。彼女は行動的で実行力の強い人でした。直ぐに近くに臨時の救護所を設けました。これがハンナの仕事の第一歩でした。さらに彼女は本国イギリスの有力な知人や在日英国人司教など多く人たちの援助を受け、第五高等学校の近くの立田山の麓に4000坪の広大な土地を求め、本格的な40床の病院を開設、名前を回春病院(英語ではRESURECTION OF HOPE 「希望の復活」)と名ずけました。1895年明治29年のことです。

こうして発足した回春病院でしたが、この後の病院の経営は入院患者が増えるのに伴って楽なものではありませんでした。日露戦争の頃は、英本国からの資金の援助も途絶えがちで多額の借金を抱える状況でした。彼女は持ち前の行動力、説得力とその使命感で英国、アメリカはもとより日本国内でも資金集めに奔走しました。

当時外国の宣教師達は夏の2ヶ月の間は山や海の近くの保養地で休暇を取る慣わしでした。リデルも毎年夏は軽井沢で過ごしました。当時軽井沢は日本の政治家、著名な実業家などが夏にはこぞって保養に訪れ滞在していました。彼女はこれらの著名人たちと積極的に交際し、ハンセン氏病の救済に協力、支援を求めました。大隈重信、渋沢栄一といった大物政治家、当時日本最大の企業であった鐘紡の武藤社長をはじめ内外の有力者と広範囲に接触し支援を取り付けました。

その寄付名簿はまさに国際的な紳士録だったそうです。又ハンナは病院内にハンセン病の研究センターを設け、宮崎松記をはじめハンセン病の権威の先生を集め治療の研究をすすめました。

しかしこのような行動的な活動は時としては批判を招きました。特に彼女を日本の派遣した本国のCMSとはしばしば意見の対立があり、遂にはリデルはCNSを辞任その支援関係は打ち切られました。

回春病院の経営、日本でのハンセン氏病の救済事業は完全にリデル個人の肩にかかり、既に70歳を過ぎていたリデルはその献身的な活動の無理から遂に病を得、彼女の最大の協力者であり片腕であった後継者の姪のエダライトに後事を託し、1932年(昭和7年)2月3日午後1時10分、77歳で天に召されました。

ハンナの訃報を聞いた患者達は悲しみに打ちひしがれましたが、患者のリーダはヨハネ福音書14章18節の言葉を引いて「私はお前達を見捨てない。私はお前達のもとに現れる」と説いて皆を慰めました。

2日後ハンナリデルの遺体は新屋敷の住まいから回春病院に運ばれました。翌日午後3時病院内の降臨教会の鐘が打ち鳴らされ、九州教区アーサーリー主教の司式で葬儀が行われました。終わると棺は火葬場に運ばれました。 そして彼女の望みどうり遺骨は回春病院の納骨堂に彼女が愛してやまなかった患者たちの遺骨とともに納められました。

日本の土を踏んで43年目でした。彼女は日本にいる間日本の皇室に最大の尊敬を払い天皇陛下に差し上げた書簡には常に「陛下のもっとも微賎なる僕、ハンナ・リデル」と書かれていました。日本の皇室からも年々多くの援助を受け、天皇陛下の単独拝謁の光栄にも預かり、また生前外国人として始めての勲6等瑞宝章の叙勲を受けました。彼女の部屋には何時も英国王室の写真とともに天皇皇后両陛下の写真が飾られていました。


ハンナ・リデルの死後回春病院の経営はエダ・ライトの細い肩にかかってきました。
エダ・ライトは1870年(明治3年)ロンドンで生まれました。然しエダ・ライトが2歳の時に父親が亡くなり、祖母であったリデルの母親ハンナ・ライトに引き取られ育てられました。

ライトは若い頃から叔母であり既に英国聖公会の宣教師として働いていた15歳年上の叔母に強い敬慕の念をもっており、1890年叔母リデルが宣教師として日本に派遣された時自分も宣教師として日本に行き、「叔母リデルとともに働きたい!」と宣教師となる事を決意し、ロンドンにあった英国国教会の宣教師学校であったウイローズに入学しました。

4年間の勉強を終え海外派遣の宣教師を目指しますが、なかなかCMSは許可を与えません。その間叔母のリデルもライトの来日を熱望し本国のCMSに交渉を続けますが、やっとその許可が下りたのは叔母リデルが日本に入国した6年後の1896年(明治29年)の春でした。

エダ・ライトは、その年の秋念願かなってロンドンから長崎に向けて出発する事が出来ました。ライトは日本に来たものの日本語の能力が充分ではなく、日本語の勉強には随分苦労したようです。日本語が出来なければ本国に送還するとまでCMSから宣告されてしまいますが、それをクリアーしやっと日本での宣教師の活動が始まりました。

それでも直ぐに叔母リデルの許で仕事が出来たわけではありません。本国CMSの指令でアメリカ系の聖公会の宣教師団に所属させられ、主に関東地区での宣教に従事しました。やっとその仕事を辞任し、叔母リデルの許で回春病院の仕事を補佐すりことができるようになったのは、日本に来てから27年後の1923年(大正12年)でした。彼女は既に50歳を超えてて居ました。

彼女は大柄で華やかだった叔母のリデルと対照的で、英国人としては小柄で華奢な感じのする女性でした。私も幼い頃時どきお会いした事があるので、その面影を思い出しますが、とても上品な顔立ちで優しく美しい方でした。

エダ・ライトは、どちらかといえばワンマンであった叔母リデルに仕え、その仕事を補佐しながら身も心も捧げて患者達の世話しました。彼女はその優しさ故に、患者達から母親の様に慕われ、彼女自身も患者達を「私の子供」と言って愛しました。

リデル亡き後の病院の経営は楽なものではなく苦難の連続でした。それ迄リデルとともに暮らしていた新屋敷の大きな瀟洒な洋館造りの家での一人住まいは、孤独を募らせ又経済的な窮乏から其処を引き払い、回春病院の建物の中に自分の部屋を造り、移り住みました。


1930年代に入ると日本と西洋諸国との関係は次第に悪化し、外国からの資金援助は勿論、国内からの資金の援助もだんだん困難になり、病院の経営は一層深刻化しました。とてもライト一人の力では病院を支えて行く事は困難でしたが、彼女を支えたのは忠実な事務長や聖公会の司祭達でした。

彼らは外国人に協力的であったため、日本の警察当局からスパイの嫌疑を受けながらも献身的な働きでライトと病院の存続に力を尽くしました。ライト自身もスパイ容疑で何度も立ち入り捜査を受けました。しかし日本の政府の締め付けはいよいよ厳しく、事務長がスパイ嫌疑で投獄され、遂には病院の銀行預金も凍結され資金をひき出す事も出来なくなってしまいました。

遂に1941年(昭和16年)1月31日、病院の閉鎖が決定され、46年の回春病院の歴史が閉ざされる事になりました。、患者は「らい予防法」によって新たに出来た「国立療養所恵楓園(現在菊地黎明教会のある)」に強制収容される事になってしまいました。

1941年(昭和16年)2月3日ハンナリデルが残した回春病院の最後の日が来ました。それは奇しくもリデルの9回忌の日でした。ライトは患者とのお別れに、その当時手に入りにくかった饅頭を用意しました。然しそれを患者達に渡す暇もなく白衣を着た男達(おそらく国や県の役人達)が患者の荷物を運び出し、警官達の監視のもと、患者たちはトラックに載せられました。

トラックが病院を出ようとした時、ライトは最後尾のトラックにしがみつき、引きずられながら患者達に「ごめんなさい!ごめんなさい!」と泣き叫びました。トラックが門の所で止まったとき官憲たちはライトの手を振り解きました。彼女はその場に泣き伏しました。

期せずしてトラックの上の患者達から聖歌の合唱が沸き起こりました。それは聖歌386番(神はわが力)でした。ライトは地に伏したまま、彼らの遠ざかるのを見送る事しか出来ませんでした。


戦争に向かう日本と英米両国関係は悪化し、イギリス大使館は在日英国人に引き上げの命令を出し、ライトもそれに従わざるを得ませんでした。3月4日ライトは空家になった病院に別れを告げ「私は何処で死んでも私の遺骨は日本に送るから、叔母の遺骨や患者達の遺骨の眠る『回春病院の納骨堂』に収めてくれ。」と言い残し、4月2日神戸からオーストラリアに向かう「東京丸」に乗り込みました。

船では、彼ら英国人たちを捕虜同然に取り扱いました。ライトも他の英国人と同様不名誉な取り扱いを受けました。その時ライトは思いもかけず貞名皇大后からの1通の電報を受け取りました。それにはこう書かれていました「ご書面の趣、委細了承せり、今回多年ご経営の回春病院を解散せられ、本邦を去られる御衷情、真に御同情に耐えず、此処に本邦救ライ事業に対する多大のご尽力を深謝し、今後切にご自愛あらん事を祈る」とゆう皇太后じきじきの電文でした。

これを見た日本の役人、船員達は驚き、手の平を返すごとく丁重な扱いでライトをもてなしました。ライトは本当は英国に帰りたかったのでしょうが、ドイツ潜水艦の跳梁する海をわたることは不可能なので、諦めてオーストラリアに先に引き上げ、オーストラリヤのパースにいた英国の宣教師学校時代からの親友で日本に40年以上も滞在し、熊本で阿蘇を中心に布教活動を続けていた「女性宣教師メイ・フリース」を頼って、オーストラリヤに向かいました。

ライトは、日本との戦いが終わるまでメイフリースとともにパースに住んでいたメイの弟の家で7年間の時を過ごしました。その間親友メイは1947年パースで亡くなり、ライトはひとりぽっちになりました。

戦争が終わった時、ライトは既に78歳になっていました。ライトは日本に骨を埋めたい、一刻も早く日本に帰りたいと思い、オーストラリア政府に渡航の許可を求めましたが、老齢であり、しかも戦後まもなくで未だ敵意を持っているかもしれない日本に行く事を許可しませんでしたが、彼女の熱意にほだされて渡航の許可を与えました。

1948年初夏のある日、彼女は再び神戸の土を踏みました。彼女は日ならずして懐かしい熊本に帰り、研究所だけが残った回春病院のかつて患者達と涙の別れをした同じ場所に立つことが出来ました。万感の思いが彼女の胸を熱くしました。

そしてライトは、皇太后陛下に帰国のご挨拶と喜びに溢れたお手紙をお送りしました。彼女の体は日本に帰ってから安心したのか1950年になると衰えが目立ち殆ど寝たきりの事が多くなりました。死が近ずいたことを悟り全国のハンセン病患者に別れのメッセージを送ることを希望し、それを知ったNHKはラジオで彼女の別れの言葉を電波に載せました。

全国の療養所の皆さんお元気ですか。私は何時も皆さんの事を覚えて神様にお祈りしています。私は戦争中オーストラリアに居ましたが、心は何時も皆さんの事でいっぱいでした。私は皆さんに御目にかかりたいですけど、私の足は弱くなってしまいました。どうぞ皆様主の十字架と蘇りを信じてください。神様の良い子供となって下さい。私は天国で御目にかかることを楽しみにしています、皆さんさようなら、お大事になさいませ。」

この別れの言葉を残して、80歳の誕生日を迎えてまもなく、1950年(昭和24年)2月26日彼女は叔母リデルと愛した患者達の待つ天国に召されました。危篤になった時、皇大后陛下宛てに「ライト女史重態につきご報告申し上ぐ」の電報が、かつて回春病院の研究所でハンセン氏病の治療の研究の努力し、其の後新たに設立された国立療養所恵楓園長となったた宮崎松記氏から送られました。

彼女の絶筆になったメモには、こんな事が書き残されていました。「私は1870年2月13日に生まれました。私の一生はその全てを通じて神の恵み深い慈悲と見守りの中でしあわせでした。」又彼女はこまごまとした長い遺書を残しています。その中に自分の葬儀は出来るだけ簡素にしてもらいたい事、葬儀の際聖書は「ヨハネの手紙第一3章14−24、コロサイ人への手紙3章12−17」を読んでもらいたい事、又聖歌は403番「わが魂を愛するエスよ」及び188番「日暮れて四方は暗く」の2曲を歌ってもらいたい、と記されていました。

彼女の葬儀は菊地恵楓園の現在の黎明教会で彼女の望みどうりにおこなわれ、遺骨は叔母ハンナリデルと並べて、回春病院跡の降臨教会の納骨堂に患者達の遺骨とともに納められました。亡くなった同日、ライトに天皇陛下から勲4等瑞宝章が送られました。


今日機会が与えられ、神の愛を身をもって実践し、一生をハンセン氏病の患者の救済に捧げた2人の英国女性ハンナ・リデル、エダ・ライトの生涯をみなさんにお話できたことを心から感謝致します。

今日のお話はリデル、ライト両女史の資料から私自身の言葉で書いたもので、年代日時など間違った点があるかもしれませんがその点お許し下さいますようお願い致します。、

 *私とリデル、ライトとのかかわり、メイフリースの事、宮崎博士の事。



礼拝での教話

アンデレ・カツ

2004年 9月