熊本で「慈愛園」を開設した

ミス、モード・パウラス





昨年此処で、その生涯をハンセン氏病の人々の救済に捧げ、神の愛とともに歩いた2人の英国国教会の「婦人宣教師ハンナ・リデル、エダ・ライト女史」の事をお話し申し上げましたが、今日は同じ熊本で多くの親の無い子供達や身寄りの無い老人、貧困にあえぐ人たちの救済の為に、1920年(大正9年)から1960年(昭和35年)に至る40年もの長い間、その人生の大半を捧げ尽くした、独りのアメリカ人婦人宣教師の神の愛に満ちた生涯の事をお話したいと思います。 

その名前は「ミス、モード・パウラス」です。


モード・パウラスは、1889年(明治22年)北アメリカはノースカロライナ州バーバーで、パウラス家の1男8女の兄弟の5番目の女の子として生まれました。少しちじれた赤味がかった髪の毛をした可愛い赤ちゃんでした。パウラス一家は、かなりの広さの農場や山林を持ち、農業を営み作物や家畜を養って生活をしていました。その生活は決して裕福とはいえませんでしたが、平和で幸せな家庭でした。

両親は子供の教育に大変熱心で、又敬虔なルーテル教会の信徒でした。そんな家庭の子供としてモードは、生後2ヶ月も経たないある春の日に、カロライナ州サウスベリーのルーテルサレム教会で洗礼を受けました。

然しそんな幸せな家庭に、ある日突然不幸が訪れました。それは大黒柱だった父親の病死で、モードが10歳の時でした。母親のマーガレットは9人の子供を抱え未亡人になってしまいました。たちまち母親の肩には農場の経営と子供の教育という重荷がのしかかって来ました。

母のマーガレットは朝早くから夕方まで農場の仕事に励み、子供達の教育にも努力しました。子供達も母親を助けて家事の手伝いから農場のお仕事、家畜の世話まで、学校の傍ら一生懸命働いたのです。その頃長女のローザは18歳でしたが、大學を出ると家計を助ける為、近くの孤児院の保母さんとして働いていました。
このことがモードが後年日本に来て孤児たちを助けるため社会奉仕をする遠因のなったのです。


モードは学校でも勉強に励み、家でも母親を助け、農作業や家畜のお世話に精を出しました。彼女が11歳になったそんなある日、モードの生涯を決めた忘れられない出来事にめぐり合いました。

それは、彼女が日頃足を踏み入れたことの無い小屋の屋根裏に入って、あるものに出会ったことでした。それは亡くなった熱心なクリスチャンであつた父親が残した「ルーテル教団の古い伝道新聞の束」でした。その新聞には、教団の宣教師達の外国での活動の報告がたくさん書かれていました。

その記事をモードはむさぼるように読み始めました。特にその中で彼女の心を捉えたのは、日本の佐賀県で宣教に従事していたリッパ―ドと言う婦人宣教師の報告の記事で、母親の病の回復を毎日神棚に祈る太郎という少年のお話でした。

モードにとっては、心を持ってない木の偶像に祈ってるとしか思えませんでした。この記事を読んで可哀想な少年にモードは涙を流しました。そしてモードは「私も宣教師になって日本に行きイエス様を知らない日本の子供達に、子供を愛し死んで下さったイエス様の事を教えてあげよう」と思いました。

彼女にとってこの事は神様がモードに「キリストの使徒となって、日本に行くように。」と言われている様に感じられました。そして「私は日本に行き、自分の生涯を捧げて、子供達にイエス様の事を教えて上げなくてはいけない。」と決心したのでした。彼女はその場で長い時間、自分の望みが叶えられるように、と神様に祈りました。


モードは高校・大学生活のなかでも、常に「神様のお召しによって日本に行く」という思いに導かれ、勉強に励みました。大学を出ると教会学校の先生をしたり、高校の先生をしたりして、その時を待ちましたが一向に日本に行けるような機会は来ませんでした。

矢張りそのための勉強をしなくてはいけない、とニューヨークの神学校に入り更にはコールネル大學の伝道学校に学びました。
1918年大正7年、やっと念願かなって、サウスベリーの聖ヨハネ教会に於いて、伝導局の任命を受け日本に行く事が認められました。屋根裏部屋で新聞を読み、「宣教師になって日本に行く事」を決心してから18年もの歳月が流れていました。

その年の夏いよいよ日本に旅立つ日が訪れました。サンフランシスコから大きな船に乗り日本に向けて出発しました。生まれてはじめての長い長い船旅でした。途中で嵐にあったり船酔いに苦しんだりしましたが、9月1日、海の上から見た美しい富士山に感動しながら横浜の港に日本での第一歩を印しました。


日本語学校での1年間の日本語の勉強を終え、宣教師として佐賀県に派遣されました。丁度その頃、ルーテル教団では日本に社会事業施設を造る計画があり、その施設が熊本に作られることになり、モードにその仕事を創立委員長としてやるように、と要請されました。

宣教師としての勉強は充分にしたつもりでしたが、社会事業施設の設立や経営は初めてのことであり、モードはどうしてよいかわからず戸惑いましたが、日本で社会事業をしている宣教師や日本人の社会事業家などを訪ねて、その教えを受けるなどの努力を続けました。


その頃の日本は、経済の不況がはなはだしく生活に困る人々が多く、苦しい生活の故に自分の子供を捨てたり、お金のために娘を売ったりするような人身売買が当たり前の様に行われているよな時代でした。

モードは家を一軒借りたりして、身寄りの無い子供達やかわいそうな娘達を保護する仕事を始めました。此れがモードの日本における神の愛を身を持って実践する第1歩の仕事になりました。

モードのこの働きを聞き、助けを求めてモードのもとへ逃げてくる娘達も大勢いました。また熊本市の中心部を流れている白川の幾つもの橋の下には浮浪者が住み着いていて、筵で作った小屋の中で生活していましたが、モードはそれらの人々を毎日の様に訪ねては、衣類や食べ物を与えたり、病人には薬を飲ませてあげたり、そこに住んでいる子供達を引き取って宣教師館につれて帰ったりもしていました。そのため借りた家も宣教師館もたちまち一杯になってしまいました。


その頃、熊本に予定されていた社会施設も具体化し、アメリカのルーテル婦人団体などからの多額の寄付金を基にして、熊本の水前寺公園近くの健軍村(現在は市内健軍町)に6000坪の広い土地を購入し、老人ホーム、子供ホーム、婦人ホームなど建設すべく工事が進められていました。

1923年大正12年にはこれらの施設が完成し、開園式が行われる事になりました。開園式にはアメリカと日本のルーテル関係者をはじめ地元の熊本県の県知事、熊本市長など多くの人たちが参列しました。そして施設の名前が「慈愛園」と命名され、輝かしい第一歩を踏み出しました。モードが日本に第1歩を記してから5年目でした。

「慈愛園」には収容施設だけではなく広い農場もあり、ただ自給自足のみの目的ではなく、入居している人たちに働く事の楽しさ・大事さを教える事に心がけました。昭和の初めになると収容された人々も増え続け、子供も70人老人も30人を超えるようになりました。

然し「慈愛園」の経営も色々な問題にぶつかったことも多くありましたが、モードは「私は神様に命じられ神様に代わってこの仕事をしてるのだ」との強い信念で全ての事を力強く進めてゆきました。


昭和16年日本は戦争の不穏な空気が濃くなり、9月には在日アメリカ人がいっせいに本国に引き上げを開始し、モードも同時に後ろ髪を引かれる思いで、「戦争が終わったら必ず帰って来る。」と言い残し、アメリカに去りました、。アメリカに帰っても抑留されている日本人の為、力を尽くしました。彼女は本当に日本人を日本を愛していたのです。

戦争が終わった翌年の21年、まだ日本への渡航は制限されていたのですが、特別の許可を得てアメリカの軍用船に便乗して、5年ぶりに日本へ帰ってきたのです。その時彼女は既に57歳になっていました。

「慈愛園」に帰ったモードは休むまもなく、荒れていた施設の復旧や残っていた子供達や老人のため再び忙しく働き始めました。戦後モードは、熊本だけでなく荒尾市や別府などに幼児や老人達の為の施設を次々に設置して行きました。

昭和27年には「慈愛園」も社会福祉法人となり、モードは理事長に就任しました。その時の「慈愛園」は15の施設をもち1500人を収容し、モードの許で働く職員達も130名に達しました。昭和24年には天皇陛下が「慈愛園」へお越しになり、モードの働きに感謝の言葉を親しく述べられました。モードは陛下の優しさに涙を流しました。


モードが在職中養育したり世話をしたりした孤児、老人、婦人たちの数は実に6500人に及びました。モードは昭和34年ルーテル教団の規定に従って、宣教師の職を辞し社会事業の仕事からも退きました。永年のモードの功績に報いる為、政府は彼女に勲4等の瑞宝章をおくりました、。そして信仰と愛に満ちた人生の大半を日本で過ごし、老後をアメリカで送るため昭和34年5月14日、夕暮れの羽田空港からアメリカへと旅たちました

モードは其の後、「慈愛園」の創立60周年に熊本を訪れましたが、それが最後で翌年モードは91歳で天に召されました。モードか残した「慈愛園」は、其の後もモードとともに働いた日本人に受け継がれその事業を続けております。


最後にモードが全ての使命を終えてアメリカに帰るとき、日本の人たちに残した言葉をお伝えして私の話を終えたいと思います。


「何も判らなかった私を、熊本の方々が40年間も、親しく、優しくして下さいまして有難う御座います。本当に沢山の人々から助けて頂きました。

今日のような慈愛園の姿を見る事が出来るのも、神様と皆さんのお助けに依ります。これから先も慈愛園のことを覚えて下さい。
私は老人になって熊本にいると皆さんに迷惑をかけますから、アメリカに帰ります。

ノースカロライナの森の家でゆり椅子に腰掛けて、日本の皆様の一人一人の名をあげて神様に祈ります、日本よさようなら。私の仕事は終わりました。」



2005年 8月  礼拝教話のために作成す。 

アンデレ・カツ