
The Grove of Village Shrine in 松山市
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| 神 社 名 | 愛媛県護国神社(ehimeken_gokoku) | 所 在 地 | 松山市御幸町 | ||
| 主 祭 神 | 殉国神霊 | 配 神 | |||
| 本殿の様式 | 流造(銅板葺) | 社 格 | 旧県社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 明治32年に招魂社として市内持田に創建され、数度移遷の後、昭和14年に「愛媛県護国神社」と改称し現在地に社殿が建立された。昭和20年には戦災により焼失したが、昭和30年に現在の社殿が建てられた。 護国神社は明治戊辰の役以降、日清戦争、日露戦争を経て、支那事変、大東亜戦争(太平洋戦争)に至るまでの数度の戦役事変において、護国の重任にあたり尊き犠牲となって殉せられた方々や、社会公共のために尽くされ殉職せられた方々、警察消防自衛隊の公務殉職者などの御神霊約49,000柱を奉斎している。 |
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| 全 景 | 拝 殿 | 拝殿内部 | |||
| 神 社 名 | 湯神社(yu) | 所 在 地 | 松山市道後湯之町 | ||
| 主 祭 神 | 大己貴命 少彦名命 | 配 神 | 須佐之男命 稲田姫命 | ||
| 本殿の様式 | 流造(銅板葺) | 社 格 | 延喜式内社 旧県社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 延喜式神名帳によれば温泉郡四座に湯神社とある。往古は鷺谷に鎮座していたが、地震で温泉が埋没した際に、現在の冠山の出雲岡神社の境内に移され、いつしか合祀され「四社大明神」と呼ばれるようになったという。合祀された出雲岡神社も延喜式内社で、祭神は須佐之男命と稲田姫命である。 社伝によれば欽明天皇行幸の時に勅命により神殿を新築したという。その後、国司、領主の崇敬を受け、神田や幣帛の奉献があったと伝えられている。 |
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| 全 景 | 拝 殿 | 本 殿 | |||
| 神 社 名 | 阿沼美神社(anumi) | 所 在 地 | 松山市平田町 | ||
| 主 祭 神 | 大山祇命 | 配 神 | 月読命 高おかみ命 雷命 | ||
| 本殿の様式 | 流造(銅板葺) | 社 格 | 旧郷社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 社伝によると12代景行天皇の皇子武国凝別(御村別の祖)日本武尊の御子十城別王(別王の祖)の宮居された所であったという。別氏の末裔が阿沼美の神を奉斎したが、別氏没落後、河野氏が三島の神を合祀し、「阿沼美三島明神」と称した。 | |||||
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| 全 景 | 拝 殿 | 本 殿 | |||
| 神 社 名 | 厳島神社(itsukushima) | 所 在 地 | 松山市神田町 | ||
| 主 祭 神 | 市杵島姫命 湍津姫命 田心姫命 | 配 神 | 大国主命 事代主命 少名彦命 ほか | ||
| 本殿の様式 | 春日造(銅板葺) | 社 格 | 旧郷社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 崇竣天皇の御代(588〜592年)に筑紫より宗像神を勧請し、文武天皇の御代(697〜707年)に東山の地に社殿を建てたと云われている。また、元亀元年(1570年)に安芸宮島の厳島の神を勧請し、慶長7年(1602年)に現在地に遷座した。 |
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| 全 景 | 拝 殿 | 本 殿 | |||
| 神 社 名 | 大宮八幡神社(oomiya_hachiman) | 所 在 地 | 松山市上野町 | ||
| 主 祭 神 | 応神天皇 神功皇后 仲哀天皇ほか | 配 神 | 武内大臣 豊玉姫命 三女神 | ||
| 本殿の様式 | 大社造(亜鉛板葺) | 社 格 | 旧郷社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 往来は「神明宮」と称えたが、崇竣天皇の御代に小千益躬が現在地に奉遷した際に、筑紫から宗像神を勧請合祀し、「神野大宮」と称した。また、貞観9年(867年)には宇佐神宮より八幡大神を勧請合祀し「大宮八幡宮」と称した。 |
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| 神 門 | 拝 殿 | 本 殿 | |||
| 神 社 名 | 勝岡八幡神社(katsuoka-hachiman) | 所 在 地 | 松山市勝岡町 | ||
| 主 祭 神 | 小千御子 品陀和気命 息長帯日売命 帯中日子天皇 三女神 |
配 神 | |||
| 本殿の様式 | 流造(銅板葺) | 社 格 | 旧郷社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 饒速日命の孫と云われる小千御子が応神天皇の御代に小千国造に任じられ、白人の城を拠点に賊を抑えたので、この地を「勝岡」と名付けた。後に、御子を中野山に奉斎し、「白人宮」と称したのが創始と云われる。永享年間(1429〜1441年)に火災により社殿等を焼失した際に、宇佐より八幡神を勧請し、現在地に合祀して「勝岡八幡宮」と改称した。 |
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| 全 景 | 拝 殿 | 本 殿 | |||
| 神 社 名 | 朝日八幡神社(asahi-hachiman) | 所 在 地 | 松山市南江戸町 | ||
| 主 祭 神 | 品陀和気命 帯中津彦命 息長帯比賣命 |
配 神 | 市杵島比賣命 多紀理比賣命 多岐津比賣命 |
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| 本殿の様式 | 流造(銅板葺) | 社 格 | 旧郷社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 社伝によると持統天皇の御代(686〜697年)に仲哀天皇神功皇后駐蹕の行宮跡である沼台(ぬみたい)に、足煩地主神(あぬみちしゅのかみ)を祭り、「沼戸(ぬみと)明神」と称したという。 その後、山城国乙訓郡の山崎八幡宮を勧請して「山崎八幡宮」と改称した。河野家代々の崇敬を受け、延文6年(1361年)に沼台より現在地に移し社殿を新築した。加藤嘉明も慶長6年(1601年)に城を松前から勝山城に移してから深く崇敬したという。明治3年に現在の「朝日八幡神社」と改称した。 |
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| 全 景 | 拝 殿 | 本 殿 | |||
| 神 社 名 | 履脱天満神社(kutsunugi_tenman) | 所 在 地 | 松山市久保田町 | ||
| 主 祭 神 | 菅原道真公 | 配 神 | |||
| 本殿の様式 | 流造(鉄板葺) | 社 格 | 旧郷社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 菅原道真公が筑紫(太宰府)へ流される途中、台風のため越智郡桜井の海岸に上陸し陸路を西下して、この地において履を脱いで休まれた(暫く滞在の意か?)という。また、蔵人頭三位中将紀久朝が勅使として下向し、道真公に九州へ向かうようにと伝えたと云われている。長保元年(999年)に社殿が建立され、松山城主久松家の篤い崇敬を受け、藩の直願所とされたという。 | |||||
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| 全 景 | 拝 殿 | 本 殿 | |||
| 神 社 名 | 船越和気比売神社 (funakoshiwakehime) |
所 在 地 | 松山市泊町 | ||
| 主 祭 神 | 和気比売命 | 配 神 | 品陀和気命 息長帯姫命 玉依姫命 | ||
| 本殿の様式 | 流造(亜鉛板葺) | 社 格 | 旧郷社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 往古は「船越宮」と称えていたが、天喜2年(1054年)に「船越八幡宮」と、明治3年には「船越和気比売神社」と改称した。孝霊天皇の第三皇子(伊予皇子)の妻である和気比売を祀る。(伊予皇子と和気比売の末子が「小千御子」であり、越智氏(河野氏)の祖先と云われている。) また、和気比売を葬ったこの島を「母居島(ぼごしま)」と呼んでいたが、元禄時代頃から「興居島」と呼ばれるようになったと云われている。 |
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| 遠 景 | 拝 殿 | 本 殿 | |||
| 神 社 名 | 波賀部神社(hakabe) | 所 在 地 | 松山市高井町 | ||
| 主 祭 神 | 大山積命 雷神 高おかみ神 | 配 神 | 寛王命霊 | ||
| 本殿の様式 | 流造(亜鉛板葺) | 社 格 | 旧村社 | ||
| 由 来 沿 革 等 | |||||
| 神亀5年(728年)に越智玉純が大山祇神社から御分霊を勧請し、「石井郷一宮大明神」と称したのが創始である。祭神の寛王命は、嵯峨天皇の皇子で伊予国守として赴任されこの地で亡くなられたという。その寛王命の墓地が神社の近くにあったところから「墓辺神社」と呼ぶようになったが、墓の字を嫌って、今の「波賀部」に改めたと云われている。 |
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| 遠 景 | 全 景 | 社 殿 | |||