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『ビッグバンド小論〜ジャズはカーネギーホールで死んだか』
今年はデューク=エリントン生誕100周年というわけで、これから1年中、いろいろなところでいろいろな人が彼の作品をとりあげたりするのだろうが、さしずめそのシリーズのこけらおとしとでも言うべきコンサートを見る機会があった。
1月21日、カーネギーホールでの、ジョン=ファディス指揮によるカーネギーホールジャズバンドのプログラムである。
私自身ジャズの入り口がビッグバンドであったし、ジャズのあらゆるエッセンスが詰め込まれている形態がビッグバンドであると考えているので、今回はビッグバンドについて少し考えてみた。
ビッグバンドの魅力のひとつが、その豪快なスイング感にあるのは言うまでもないことだが、さらに言うと演奏の途中に見られるピアニシモとフォルテシモの対比、又はクールな部分とホットな部分の対比がどれほど大きいか、つまりここでは両方を『ダイナミクスの幅(ダイナミック=レンジ)』という単語でくくってしまうが、これがビッグバンドの魅力を計るバロメーターであろうと私は考える。
もともとビッグバンドはダンスの伴奏音楽として成長したのであるから、いかに気持ちよく踊らせるかが目的だった時代には、極端に言ってしまえばフォックストロットとスローの2つのバリエーションでプログラムを構成すれば仕事としては過不足なく、各バンドのサウンド的な特色もさほどなく、バンドマスターの苦労は、いかにスタープレイヤー〜とんでもないハイノートヒッター(華やかなトランペットの超高音を専門に出す人)や、美人シンガー、派手なアクションのドラマーなど〜を雇うかということにあったのではないか。
そうした中でエリントンは、初めて(編曲も含めた)音づくりに芸術性を持ち込み成功した人物だと思うし、かたやベイシーはバンド全体から溢れ出るドライブ感を、ただ踊るためにではなく、聴いて楽しめるまでに昇華した。そしてクロード=ソーンヒルはギル=エヴァンスとともにクールという概念を生み出し、後の数多いミュージシャンに影響を与えている。(エリントンやベイシーの音楽がワンアンドオンリーであるのに対して、ソーンヒルのそれは、創生期の不完全さゆえにではあるが、現代ビッグバンドの源流であると私は思っている。)
最初に戻るが、こうして進化してきたビッグバンドに求められるのが『ダイナミクスの幅』なのである。誤解を恐れずに言うなら、エリントンの巧妙に制御されたアンサンブルと、ベイシーの理屈抜きに脊髄に迫ってくるドライブ感と、さらにソロプレイヤーの自由奔放な即興演奏とが一曲の中で現出するのが、ビッグバンドの最高の魅力ではないだろうか。
しかしながらコンボ(9人以下の小編成ジャズ形態)と違ってビッグバンドはあらかじめ編曲によって楽譜に定められている演奏部分が多く、同じバンドのその日の演奏の魅力を決定づける要素は、全体のドライブ感とソロプレイヤーの即興演奏の出来によるといっても過言ではない。いや、プロの世界では全体のドライブ感とて編曲により左右されるものがほとんどであるから、ビッグバンドのその日の演奏の良し悪しはひとえに即興演奏にある、と(論旨の都合上)断言してしまおう。
テーマに続いて現れる、或はアンサンブルの隙間を縫って演奏される即興演奏がホットでエモーショナルなものであるか、クールで抑制の効いたものなのか、はたまたリズムセクションとの間でのインタープレイはどうか等々、一期一会という要素にあふれる即興演奏部分はその日のライブ全体の印象を決定づけてしまいもする。
以上述べてきた観点から見るに、前述1月21日のカーネギーホールジャズバンドの演奏は、私にとって多少ものたりないものだった。
一緒に聴いていた我がバンドメンバーのHO氏に至っては途中で帰ってしまいかねない激高ぶりで、坊主憎けりゃ状態。コンサート後の批評会で私はバンド擁護派にまわったが、80%くらいは彼に同調してアラこきたおしたい気分であった。
もちろんその日の即興演奏がまずい出来だったというのではない。ジョン=ファディス、ランディ=ブレッカー、ルー=ソロフ、スライド=ハンプトン、フランク=ウェス、リニー=ロスネスと並んだメンツは、並んでいるだけでファンには価値あるものであり、少々期待が大きすぎたりもするのだが、各人各様、分をわきまえたソロが随所にあって、決して金返せレベルでなかったことは言っておきたい。しかしながら、この上なくブレンドされた極上ワインのようなアンサンブル部分に比べて、ソロ部分のインパクトが弱かったことも(私にとって)事実だった。
何故か?
クラシック、ジャズ、ポップス問わず過去にその舞台をふんだ巨人たちの霊が壁にしみこんでいるといわれるカーネギーホールという特殊な舞台装置が、現代の名匠たちのインスピレーションを萎縮させた、或は偉大な先達に対する必要以上の敬意があったとでもいうのか。もしくは私達の高い座席(値段が高いという意味ではありません)の位置での音響に問題があったのか。
原因のひとつは、リーダーのジョン=ファディスの姿勢である。これは後日NHK−FMに出演した彼自身の言葉と、彼がメジャーデビューした18才の時のチャールズ=ミンガスのバンドでの演奏を聴いて推測したことだが、思うに彼はあまり派手でエモーショナルに流された演奏を好まないのかもしれない。彼にとってビッグバンド形態というものが、彼の頭の中にある音楽を表現する手段であることはもちろんだが、他人のソロの部分にまで自分の理念をもちこみたい性格なのだと考える。別にこれがイヤな性格とは思わないが、例えば初期のサド=メルの行き方とは好対照であり、ソロイストに対する精神的な干渉という点で言えば、カーネギーホールジャズバンドはかなり窮屈な所帯なのではないだろうか。
とはいえ、一つのバンドとしてやっているからには、多かれ少なかれメンバー同士のコンセンサスは保たれているはずだし、それは私レベルのものではない高度なしかも強力なものであるはずなのだが、当日の演奏を聴いた限りでは、どうもソロの中に『ここで突き抜けてやるぞ!』という気概が感じられなかったのも正直なところだ。つまり予定調和の意識がステージに蔓延していて、勇気あるものの突飛な行動を許していなかったように思えたのである。リーダーであるジョン=ファディスの目だけではなく、お互いがお互いを牽制するような空気であるといったら言い過ぎか。
ビッグバンドでは、テーマが終わってアドリブに入った時に他のメンバーが見せるくつろいだ雰囲気や、いいアドリブフレーズに対しての他のメンバーからの掛け声を聴くのが私個人にとって至福の時間なのだが、当日はそれすらなかった。ただ一人、MC兼任でがんばっていたジョン=ファディスの演奏がどうしても浮いているようにさえ見えるほど、他のメンバーの醒めた空気が気になったのである。
ビッグバンドがこうあらなければならない、とは言わないし、さまざまなスタイルがあって然るべきだと思う。また過去のスタイルの再構成、再構築がジャズを含めた芸術を芸術たらしめている要素であることも否定しない。
だが、この20世紀の100年間に興り進化した芸術の最も偉大な成果であるジャズを、その歴史認識の中であらためて今、集大成して聴かせようという作業を試みているはずのジョン=ファディスとマルサルスにはあえて、ジャズがジャズたりえている要素、西洋音楽とは一線を画しているものをぜひともクローズアップしてほしいと願うのである。
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