
「日本的経営」における労働者像と仕事の倫理 大野正和
はじめに−−「日本的経営」をみる視角
高い生産性を誇る日本の企業のつくり出した「豊かさ」と、それにともなうべき生活のゆとりと充実感のなさが指摘されはじめてから久しい。「過労死」を生み出すほどの長時間労働に対して、「なぜ日本人は死ぬほど働くのか」といった海外からの不思議な眼差しが寄せられている。一方で、欧米をしのぐほどの経済的な成長をもたらした日本の生産システムへの憧憬の念も存在する。本稿では、豊かな社会「日本」における「働きすぎ」の現象を、企業労働とさらには「働く」こと一般に注目しながら検討する。その際に、企業を中心とする日本の生産のあり方を、従来の「日本的経営」という概念でおさえておきたい。
「日本的経営論」にも様々な系譜があり、一口で説明できないが、ここでは簡単のために「文化論的アプローチ」と「制度論的アプローチ」に分けて概括しよう。
日本の経営のあり方を、その文化(意識)の特徴から説明しようとする方法は、古くからあり「日本文化論」とも関係しつつ論じられてきた(1)。それは主に、日本人の伝統的な資質として、「集団主義」「忠誠心」「勤勉さ」などを指摘する。その文化的な起源をいつの時代に求めるかには諸説があるが、少なくとも近世=江戸時代までにはそれらの基本的な姿が確立されたとみる。それが近代の資本主義の発達のなかで、企業経営において展開することによって、「日本的経営」が生成してくる。会社という「集団」に価値をおき、そこに「忠誠」を尽くすことによって「勤勉」に働く、これが伝統に裏付けられた日本の経営の強みである。
これにたいし、企業における制度のあり方から日本的経営を説明するアプローチがある。それを大きく分けると、@終身雇用や年功賃金などの雇用慣行(2)、A「ジャスト・イン・タイム方式」や「QCサークル」にみられる労働の組織的編成(3)、B「能力主義」的な人事管理(4)、をそれぞれ重視する見解がある。このうち、@の日本的雇用慣行は「文化論的アプローチ」ともつながって、それが日本の労働者の会社に対する忠誠心を強めるものだと説く。Aの労働編成については、労働者の能力を引き出す柔軟な生産システムを形づくるという積極面と、企業に労働者を従属させる手段であるという否定面の両方の指摘がある。そして、Bの能力主義管理は、労働者に「強制された自発性」という労働態度をとらせるシステムとして作用する。
これらの日本的経営論のうち、伝統的文化を重視する立場は、昨今の日本社会の変貌を反映してか、ややかげりがみられる。最近では、労働編成や人事管理を含めた生産システムの分析が盛んである。本稿では、鈴木良始の『日本的生産システムと企業社会』(5)の検討から出発するが、彼のいう「強制」と「自発」のメカニズムを追求していくと、労働者の勤労意欲をもう一度考えてみる必要に突き当たる。このことは、日本の「豊かさ」をつくり出した企業労働者と、広くは働く者全体の仕事に対する倫理といったものを問題にすることでもある。
伝統的な「忠誠心」や「集団主義」が薄れ、若い人々を中心に享楽主義的な文化が広がる中、「会社」への志向性には依然根強いものがある。とはいえ、そこに企業主義の強固さを見て取るだけでなく、「仕事」に(場合によっては「遊び」にすら)向けられるこだわりのような熱心さを問題にしたい。それはある意味で、日本人の「勤勉さ」という労働観を根底から考え直してみることかもしれない。そして、そのことを通じて、企業や会社という枠を超えた文化的意識をとらえ直す作業の手始めとしたい。
第一節 日本の労働者の働きぶり
「能力主義管理」と労働−−鈴木の分析(1)
鈴木良始の分析は、日本の企業労働者の「すさまじい働きぶり」に対する「なぜそこまで」の疑問に答えようとする。その勤労態度を、彼らの勤労意欲の高さ=「勤勉さ」から説明することは、過去の調査的資料からは実証されない。日本の労働者は、意外に低い仕事への満足度と勤労意志しか示していない。では、企業の管理的要請によって「働かされている」だけなのかというと、それでは彼らの示すある種のエネルギッシュな活力を説明できない。あまり高くない勤労意欲と苛酷な労働をこなす働きぶり、この矛盾する意識を事実として認めつつ分析する。
苛酷な労働を、企業の管理条件によって「仕方がない」と覚悟させられる「強制」の側面と、労働者自らの内面から受容する「自発」の面がある。その自発性のゆえに積極的なエネルギーも発揮される。この「強制」と「自発」の両側面の独特の絡み合いから「日本的経営」の特徴が説明される。そしてこの説明を、労働者の欲求と企業の論理の交錯線上に生まれてくる「能力主義管理」制度の分析から始める。
日本企業において、一九六〇年代後半から導入されてきた「能力主義管理」の性格として、「絶対考課」の処遇制度があげられる。それは、昇格・昇給などの人事考課を行う際に、労働者一人一人の職務遂行能力を客観基準に基づいて評価し、処遇するという制度である。これに対し「情意考課」とは、「規律性」「積極性」「協調性」「責任感」などの労働者の態度や意欲を評価しようとするものである。
さて、日本企業の労働者に対する要請水準は常識的な範囲を超えるものであり、矛盾やストレスを醸し出す要因を常にはらんでいる。仕事に追われ人生に余裕のもてない過労状態、家庭崩壊を招きかねないほど家族とのコミュニケーションのとれない長時間労働、など放置すれば労働意欲をくじきかねない。さらに高じれば企業論理そのものへの反抗が生じるかもしれない。この事態を封じ込め、高い水準の労働要請を維持するために「情意考課」が動員される。それはたとえば、企業論理に疑問を表明する者に対する、感情的なまでの職場八分となってあらわれる。
このような「情意考課」は、高い労働への要請水準に対する否定的意識を吹っ切って、「どうせやるなら積極的に」という前向きの態度を誘発する。「絶対考課」の明瞭な評価基準は、この挑戦的態度に肯定的に応える。やればやった甲斐があるというのである。
この明瞭さと曖昧さの結合した「能力主義管理」によって、高い労働水準が強制される。企業の突きつける絶対的な水準を受け入れるかどうか、労働者は企業価値の受容と格闘させられる。そして個人的事情がどうであれ、要請水準をクリアできない者は、遅かれ早かれ「能力」のない者として排除される。このことは普通の労働者にとっては、ほかに選択の余地のないほどの強制力である。
第二に競争的な強制である。生活費の負担が増加し始める中年期に、昇進・昇格の格差、場合によっては出向・配転・単身赴任という選別にさらされることになる。このような競争が身に迫るなかで、労働者は「ふるい落とされたくない」「同期の者に遅れをとりたくない」という防衛意識を示す。
このように「能力主義管理」は、「会社の要請に応えて働かなければ干されてしまう。手を抜けば将来の選別が待っている」と考えさせる。こうして強制される労働を「仕方のないこと」として消極的に受けとめていたのでは、その働き方は非常な精神的苦痛を伴うであろう。労働が仕方ないのであれば、むしろそれに意識を適合させて前向きに立ち向かおうとするのが自然であろう。この追いつめられた心理的な環境のもとでの意識の転換を促すのが、「能力主義管理」のもつ「自発」の側面である。「絶対考課」の示す明瞭な役割期待・評価水準に応えることによって、自分の存在意義を確認できる。やるべき要請の意義と内容が明らかであり、それに対して努力すれば評価がなされる。その要請にともなう矛盾や苦痛を振り払い、組織に前向きに貢献する「やり甲斐」に賭けようとするのは必然的ともいえる(6)。
「強制された自発性」?
このようにみてきた鈴木の論旨は、やはり「強制された自発性」論を展開したものといえようか。常識の範囲を超えた高い労働の水準が、企業によって否応なく要請される。それは苛酷で厳しい内容であるが、それをクリアすることが労働者の人生にとって、選別と競争をくぐり抜けるための必須条件である。いやそれ以前に、企業の突きつける高い要請水準そのものが、彼らにとっては逃げ場のない強制力なのである。「能力」を示さない者、示そうとしない者は否定され排除される。そうであるのなら、その労働の苛酷さ、厳しさの精神的苦痛を吹っ切って、前向きに仕事に取り組むことによって、「やり甲斐」に賭けようではないか。これが、鈴木の摘出して見せた日本の企業労働者の心理プロセスである。
私はこの分析を、それがすべての労働者の心理をいいあてたものだとは思わないが、従来の「生産システム」分析にとどまらず、より深く彼らの内面に立ち入ったものとして、共感をもって肯定する。と同時に、強制の心理的圧迫を振り払い、仕事のやり甲斐に挑戦的に自己投企してゆく労働者の「積極果敢さ」の心理を、さらに追跡する必要を強く感じる。それは、鈴木も指摘しているように、特に上昇志向の強いエリート社員に広くみられるところの、仕事そのものの達成感を求めて挑戦する自己実現意欲である。そのことは、確かに企業社会のすべてを語るものではない。しかし、エネルギッシュな活力とみえる企業のバイタリティを語るためには、避けては通れない課題であろう。
鈴木は、日本の労働者はそれほど高い勤労意欲を示していないと読みとる。「仕事以外に大切なことがある」のであったり、「できればほかの仕事をしたい」という要求にも注目する。このことは、私のみる限りでは、仕事に自己投企する以外でも何かエネルギーをそそぎ込む充実した対象を求めている心理のように思える。その対象が「運よく」現在の仕事であったならば、爆発的なエネルギーが発揮されるのではないか。それしか選択の余地がないという追いつめられた心理環境は、ある意味で最終的なスプリングボードではないのか。強制の彼方に見出した自発性が、自己目的として日々の生活態度を律する力をもちはじめても不思議ではない。
とはいえ、「強制」のもつ側面をもう少し分析しておこう。およそ働くということつまり仕事というものは、多かれ少なかれ「強制」の側面をもたざるをえない。一人で働いてものをつくるような場合でも、納入の期限があり他者との競争がある。企業社会における「強制」の主体は、いうまでもなく企業とその管理者であろう。しかしそれを「自発的」に受容するというときには、自らをして自らを強いるという「自己強制」ともいえる心理がはたらく。確かに大枠では強制なのであるが、そのもとで遂行する仕事そのものへの執着、「自分で納得できる仕事ぶり」を求めてもいよう。
仕事の達成感と使命感
鈴木は、要請労働水準の異常な高さを別とすれば、「絶対考課」形式のもつ仕事の到達度・達成度に対する正当な評価は、「文句なく労働者の論理である」と言い切る。そうだとすれば、仕事の達成感を求める心理は、ごく自然なものであろう。問題は、「労働水準」の非常識的な高度さであり、それを労働者に突きつけてくる企業のあり方だという。では、なにゆえに企業はその非常識な高水準を強制可能としうるのであろうか。それは、仕事の充実感・達成感を無限に追求しようとする労働者の勤労意識によって支えられているとみるのは、誤った見方だろうか。
確かに彼らは、「いまの働き方がベストだとは思っていない。できれば別の仕事の仕方をしたい」と感じてもいるのだろう。その否定意識を吹っ切って現在の労働に没入せざるをえぬよう強制するのが、日本の企業管理制度だ。だが、これだけではみえてこないものがある。制度的要因に還元しつくすことのできない、労働と仕事の倫理である。明白な管理制度による強制のないところでも、自らに鞭打って過密な労働をこなす人たちのいることを、われわれは知っている。社会の変革を願う知識人や戦闘的な労働組合活動家、自らの力と才覚で経営にかける起業家等々。彼らもまた、「別の働き方」を思い描くことがあるが、それでもいまここでやっておくべき仕事があるのだという強い勤労倫理をもっている。このことが、結果として彼らに企業労働者と同じライフスタイルや労働観を共有させている事実は、それほど驚くにあたらないだろう。
では、ここには企業社会とちがってなんらの「強制」もなく、「自発性」のみが労働の動機なのだろうか。そう捉えては事態を正しく把握できない。社会に貢献しようとする強い使命感からくる、周囲の役割期待への応答。フォーマル/インフォーマルな様々な人間関係のもたらす、断りきれない仕事の要請。総じて、周りの人間が彼に寄せる社会的な信頼と期待が、そしてそれに応えようとする彼自身の誠実さが、「強制力」としてはたらく。それは、企業における「情意考課」と同じく、基準が実に曖昧で、他者の期待に応えようとする自発的な圧力である。そして、それを十分に全うできないことは、社会的信用を失うという形で彼にはねかえってくる。
これはこれで、「自発化された強制」とでもいうべき状況であろう。社会的な見えざる強制が内面化されて、自己強制に転化している。それはまた、自分自身の仕事を納得のいく形で仕上げたいという誠実な勤労意識によっても裏打ちされている。周囲に期待もされる、自己の納得できる達成感もほしい、このときの意識は「強制」であろうか、「自発」であろうか。ともかくそこには、仕事への誠実さとしての勤労の倫理がある。この内面的倫理は、企業労働者の働きぶりを支える意識にも共通して存在するのではないか。確かに企業では「強制」の側面は比較にならぬほど強い。その強制を実効あるものにする管理制度も強固に存在する。しかしその中でも、仕事に挑戦し自己を賭けていくときの内面的な厳しさがあろう。
以上、内面から発する倫理的な意識についてみてきたが、次ぎに鈴木の書にしたがって管理者との関係について考えよう。
第二節 日本の職場と管理
職場の管理者−−鈴木の分析(2)
「能力主義管理」は、日常的には職場管理者の生身の姿を通じて執行される。それゆえ管理が、管理者の個人的人格による労働者に対する人間関係の色合いを帯びる。ここに日本独特の「人間」としての管理者像が形成されてくる。
「能力主義管理」の「強制」は、仕事配分や人事考課などに関して管理者のもつ幅広い裁量権から発する。しかしこの「強制」は、露骨な企業論理を強圧的・一方的に押しつけるものとは意識させない。高い管理的要請は、管理者自身が労働者の成長を心から「期待」していることの現れとして行われる。管理者は企業の要請を代行しているのではなく、まさに「彼のため」を思って温かく「期待」をかけている、という行動をとる。この管理者の「期待」は、ほかに選択肢のない強制を労働者が自ら選びとったのだと意識させるのにふさわしい様式である。際限のない労働の密度と量を受け入れ、それを否定する態度を放棄することを、労働者は温かく期待され強制される。このように「強制」は人間関係の色合いを帯びている。
また職場管理者がたんなる末端管理者ではなく、部下の個人的な生活にまで配慮するとき、彼は「人間味」を帯びた役回りを演ずる。そして彼が職場の利害と意向を代弁するかのような素振りとることによっても、管理の「強制」という側面が和らげられる。また、管理者の要請に対して労働者が自ら同一化していけば、管理者は面倒見のよい温情をも示す。管理者の「期待」に労働者が積極的に応えれば、その努力に対して温かい個人的評価が得られる。彼の「期待」に応えるすべての部下の努力を、しかるべく評価し処遇することによって初めて、労働者は管理者に納得して帰依するのである。
激しい働きぶりへの挑戦は、上司の「期待」に個人的に応え、彼のために働くというやり甲斐、力ある者としての上司に依存し、彼の個人的評価を受ける喜びといったものに支えられている。このような情緒的意識が生ずるのは、労働者の側であって、管理者もそれを共有すると考えるのは適切ではない。それは、日本人の人間性や依頼心によるものではなく、職場管理者の管理行動がつくりだすものである。幅広い裁量権を持つ管理者と日常的に接し、彼とうまくやっていくしかないとき、労働者は、絶対的権力者としての彼の「父性」に依存し、その価値観に自己を同一化させる精神の退行現象をすら示す。
このような心理的メカニズムを、鈴木は、取調官による被疑者の虚偽自白強制や、ナチス強制収容所の例を引いて確認しようとする。情緒的依存をつくり出す管理手法は普遍的であるが、それが企業社会に広く深く根を張っていることが日本的特質である(7)。
管理の「向こう側」
ここでの分析は、ほとんど何もつけ加えることがないほどリアリティを感じさせる。その叙述方法は、資料からえられる実証というよりも、著者の労働現場に対する深い洞察に裏付けられた心理過程の読み込みである。ただやはり、ここでも企業管理者の側の作為的な能動性が優位に展開されている。情緒的人間関係は管理「手法」であり、日本人の心性によるものではないといわれる。これでは、管理者の内面にある人間的な心理の考察が抜け落ちてしまう。制度に還元できない管理者自身の行動倫理を見つめる必要がある。とはいえ、その課題は私の手に余るものであり、逆に労働者が管理者の「父性」へと志向せざるをえない意識について考えてみよう。
その意識を根底において支えるのもまた、労働者の内面から発する仕事に自らを賭ける倫理であるように思える。つまり、上司たる管理者は彼にとっては仕事の上での先輩・先達者であり、見習い指導してもらうべき「規範」像である。管理的要請を受容するのも、上司の活力ある仕事ぶりと先進的な指導性を信頼するからこそである。管理者に対する絶対的帰依と見えるものも実は、個人的感情をともなう、仕事倫理の体現者たる指導的上司への憧憬と尊敬に満ちた信頼ではないか。まさにこの仕事の倫理的規範を「体現」しているがゆえに、彼は絶対者たりうるのである。
場合によっては、労働者は管理者の「向こう側」を見ているともいえる。仕事に挑戦する以上、管理者の発する要請をも乗り越えて、仕事の倫理の命ずる使命感に駆られて働くのである。これはこれで、管理者の温かい眼差しと好感的な評価を誘うのであるが。管理的要請の「彼岸」に存在する仕事の倫理的規範。これは、前述した自らに鞭打って労働する人々の心性にも相通づるものであろう。しかし、このような心理は、鈴木のいう、自白を強制する取調官や強制収容所の洗脳とはちがう面をもっている。「強制」の構造を抜きにしても、なおかつ仕事の規範へと志向する倫理性。これは、そこまで強制が内面化されたというよりも、内面的な倫理意識があって、「強制」はそれにいっそうの拍車をかけているのだといえよう。
以上はやはり、労働者−−しかもエリート志向の強い層に照準を合わせたと見られる−−の内面から発する意識を考察しようとしたものだった。次ぎに、職場集団についての分析をみよう。
職場集団と管理について−−鈴木の分析(3)
欧米の職場編成では、労働者の職務・権限が明確に区分され、管理者の責任において統括される。これに対して日本企業においては、作業者の職務範囲が柔軟で広く、それが各人の間で曖昧に重なり合っている。そして、作業者集団と管理者が一体となって課題遂行の責任を負うというシステムである。このような集団的職場編成(チーム制組織)に一定の条件が加わると、職場仲間への配慮というかたちをとった「強制」力が各人に作用する。「休暇をとったり欠勤すると仕事が遅れて仲間に迷惑をかける」「自分の持ち分を達成しなければ、今日の生産計画に追いつかず、みんなが残業しなくてはならない」等々と意識される社会的強制力である。
その条件とは、組織上各人の働きぶりが他の労働者に影響すること、一定の労使関係を背景とした管理的条件である。まず、互いに仕事を補い合うという作業組織のあり方によって、仲間集団の心理が巧みに利用される。しかし、より重要なことは、余裕のない労働負荷が与えられているという管理的条件である。一人の労働者の失敗や仕事の遅れ、欠勤・病欠などに対して、作業の調整をする人的・時間的な余裕のないきつさが、職場仲間への配慮という出勤強制となるのである。
集団的職場編成においては、余裕のない高密度労働の管理的要請が、タテの管理的圧力としてあらわれず、職場仲間に迷惑はかけられないというヨコの社会的強制として働く。ヨコの「強制」は、余裕のない労働条件を許し、それを規制できない一定の労使関係のもとで機能する。仮に、労働者の集団的な発言力によって、仕事量や人的配置を規制できるのであれば、この強制力は弱まるであろう。一方、集団的職場編成による働き方そのものが、労働者間のつながりを強め「自発」性を誘うことにもなる。強制されているという意識を吹っ切って、前向きに苛酷な労働過程のなかに飛び込めば、「みんなと一緒にがんばって、互いに仕事のうえで信頼しあう喜び、仕事を通じて認めあう喜び」という肯定感が意識される。職場の仕事上の人間関係が強いほど、きつい労働をともに耐え、一緒にがんばって仕事に励むことができる。
ここで鈴木が強調するのは、この「自発」の側面を、集団的な労働意欲を合理的に生み出す日本企業の肯定的特質、とみてはならないということである。集団的労働意欲の自発性は、労働者が過不足のない程度に仕事の量と速度を決め、仲間と協力して課業遂行に努めるという世界において真に発揮される。苛酷な労働条件を他律的に与えられる日本の労働者は、避けることのできない厳しい仕事のなかに見出す「自発」の契機を、精神的な浄化剤とするのである。多くの労働者は、「私は純粋に自発的に働いているのではない。もしも選べるなら、もっと別の働き方をしたい」と思っている。これが、日本の労働者意識のあり方である(3)。
以上が鈴木の分析であった。
「労働者意識」の分析について
いままで私自身の見解も交えながら、鈴木良始とともに日本の労働者の働きぶりをもたらす諸要因と意識のあり方を考察してきた。しかし、この「意識」というものの分析にとっての固有の難しさが存在するのは明らかであろう。労働者の意識は、彼らがそこで働く職場の制度や管理システムによって一義的に規定されてしまうわけではなく、各人の個性や性格、価値観といったものに大きく左右される。それでもなお、日本の労働者の「全体としてみた」激しい働きぶりに対する「なぜ」という疑問は禁じえない。そこに何らかの共通の労働意識を仮定してみたくなるのも自然であるが、それが何であるかという意識の内面を「客観的」に取り出してみせるのは至難の業である。
以下の節では、このことにも留意しつつ論を進めよう。
第三節 マルクスからみた「労働」
「自己の解釈学」
前節までみてきた日本人の勤労意識は、すべての労働者にあてはまるものとして描き出されたわけではない。それは、ある意味で上昇志向の強い「エリート」であったり、物事に誠実にとりくむ意識の強い「職人気質」の人であったりする。しかも、「会社人間」や「企業戦士」といわれるような、企業社会に自らを同質化し、そこに何らかの忠誠心を抱くというよりも、「仕事人間」「働き中毒」といった、仕事そのものに自分の人生を積極的にかけていく人々を念頭に置いている。それゆえ、企業=会社で働く労働者だけでなく、仕事に情熱を燃やす知識人や教育者、自由業、「起業家」といった層をも視野に入れている。彼らは等しく、外的な「強制」の枠によって否応なく働かされているというよりも、自らの内面的な労働意欲に強くつき動かされている。
そして「彼ら」と呼んだ人々の姿は、ここで率直に告白すると、私自身の意識のあり方を共感的に読み込んだものでもある。したがって、叙述の方法としては、「客観的」に労働者の意識を分析するというよりも、自己の「主観的」な労働意識のあり様を彼らの内面に投影するという作業でもあった。こうすることによって、自己意識の「告白」を越えた「自己の解釈学」として倫理を考察する糸口にしようとした。ここでは、方法論の展開を全面的に行う余裕はないが、私にとって学問とは「自己の解明」なのだとだけいっておこう。
資本と労働、「搾取」
さて、鈴木良始の著書を通じて、私なりに日本人の「労働規範」を抽出してきた。しかし、鈴木自身はマルクス主義の影響を強く受けていると思われるので、彼は「規範」といった見方を自覚的にとってはいない。そこで、マルクスの『資本論』を参照しながら、マルクス主義の「労働」についての考え方をみておこう。
マルクスによれば、資本主義とは何よりも資本(家)による労働(者)の搾取と支配の体系である。資本主義の原動力はあらゆるものの商品化であり、労働力の商品化によって決定的になる。労働者は、生活に必要なものを商品として、すなわち貨幣で購入するというかたちで入手せざるをえない。それは彼が、自給自足や自分の商売だけで生きてゆくことがほぼ不可能だからである。そして生活用品はほとんどすべて企業が生産し供給する。この企業の生産物を購入するための貨幣を、労働者はどうやって調達するのか。それには、自らの商品化された労働力を資本(家)に売ることによって、賃金というかたちで貨幣を手に入れるしかない。つまり雇われて働く以外に道はないのである。このことをマルクスは、労働者が生産手段から切り離されていると表現した。
雇用されて賃金をえるために働くというだけでは、資本による労働の搾取と支配といった構造はよく理解できないかもしれない。しかも、資本とか資本家とは具体的に誰のことをいうのかもよくわからないであろう。ここでは、資本家という言葉で、かなり上級の企業管理者(取締役会のレベル)と一応理解しておくが、諸説があり決して正確なものではない。現在ではむしろ誰が「資本家」かといったことよりも、その会社の経営責任を負う企業そのものあり方が問われている。その意味で、マルクス主義者といわれる人々の間でも、「資本」という語は企業社会の責任を担う構造の全体をさすようである。
では、資本(家)が労働者を搾取するとはどういうことであろうか。よく誤解されるように、劣悪な労働条件と低賃金で労働者をこき使い、資本家が必要以上にあくどくもうけるという意味では決してない。労働者のつくり出した生産物価値から、賃金と原材料や機械設備などの必要経費を差し引いた価値が「利潤」としてあらわれる。そして資本(家)の追求する目的は、この利潤を最大限にすることだ。利潤を大きくするためには、賃金コストを下げるか、生産性を上げてより短時間に多くの生産物をつくり出すかである。こうして、労働者の手元に入る賃金より以上に、必要経費を差し引いた剰余価値を追求することそのものを、マルクスは「搾取」と呼ぶ。だから「適正な利潤」が存在するときでも「搾取」はなくならないのである。
利潤の追求=搾取の方法は、技術革新によって生産コストを下げるのを別にすれば、労働者をより長時間・高密度に働かせて、同じ賃金量でより多くの生産物をつくり出すことである。そのためには、怠惰な労働態度や反抗的な姿勢を封じ込めて、厳しい規律のもとに労働者を働かせる必要がある。ここに、資本(家)の権威としての労働の指揮・監督つまり「管理」が登場する。この管理そのものは、強圧的で厳格な支配強制というよりも、人を動かし働かせる場合には必ず必要となるものである。その意味で、管理は作業手順・労働工程の「計画」であり、これを指導し指揮するのが「管理者」である。
しかし、資本主義の目的は利潤の追求なのであるから、ここでの管理者は資本(家)の意志を身にまとった搾取の執行者として現れる。労働者の労働の規範といったものは、ここではあくまで、管理者に要請され外的に強制される規律である。鈴木の念頭にもこういった構図があるように思われる。それゆえ、日本企業の労働(者)のあり方をみる場合にも、「自発」の側面だけを肯定的に取り出してはならないという。企業(管理者)は、「搾取」を実行しているのであり、決して労働者自身が積極的に働いているのではない、と捉える。また、過労死を生み出すような現代の日本の企業社会のあり方は、労働者集団による企業管理構造への規制力が弱いことに求められる。
「労働過程論」
このような搾取され強制的に働かされているあり方を、マルクス主義では「疎外された労働」と呼んでいる。これに対してマルクスは、労働そのものの肯定的側面を表す議論として、「労働過程論」を叙述している。そこでは、労働は、人間の社会を維持していくうえで必要不可欠な行為として捉えられ、「資本主義」という規定をはずして考察されている。労働とは、人間が自然に働きかけて、彼にとって有用なかたちで使用できるものをつくり出すことである。このとき人間は、ただやみくもに行動するのではなく、ある一定の目的と計画をもって合理的に生産する。あらかじめできあがってくる生産物のイメージ=青写真を頭のなかに描き、それを設計図として生産労働を行う。こうしてはじめに「目的」として観念されたものが、最終的に生産物のなかに実現される。
この生産労働において特徴的なことは、労働者は目的に向かって計画的に行動しなくてはならないことだ。労働そのものが彼にとって楽しみとして感じられなくても、意志を集中させて雑念を振り払い、自分自身をコントロールしなくてはならない。この自己制御は自分による自分の管理であり、労働とは本来的に管理の要素を含んでいるともいえる。つまり、自分の頭による意志を動員して、自分の体である手足を制御することが労働である。このとき頭脳は生産の目的を常に意識しながら、肉体の作業活動を計画的に監視する。これが一人の労働者の内に統一して行われるとき、労働は自己管理・自己規律としてあらわれる。
以上は、労働過程を、一人の労働者が自然に相対して合目的的に活動する行為として捉えたものであった。これが資本家と労働者というある一定の生産関係のもとにおかれるとどうなるか。目的と計画を司る頭脳の労働が資本家の側に、その指揮に従って作業を遂行する肉体の労働が労働者の側に、この両方に分離するというのがマルクスの基本的な考え方である。頭脳労働と肉体労働の分離、これは搾取の別の表現でもある。このことからも、鈴木のいうような企業管理者と労働者との対立的関係が読みとれるであろう。
自己目的としての労働
さて、このようなマルクスの考え方に対して、私自身の見解を述べておこう。マルクスの労働過程論は、簡単にいうと「目的」と「制御」の概念から成り立っている。しかじかの生産物をつくるという目的が与えられると、この目的達成のために合理的・法則的に労働が行われる。その際に、労働者は自らを目的と法則に従うように制御して活動する。その制御を司るのが、頭脳的な意志であり、制御されるのが作業行為そのものあるいは肉体的活動である。資本主義においては、制御者が資本(家)として、制御される者が労働者としてあらわれる。このとき、生産の目的を掌握しているのは資本であり、労働者はその意志の体現者である管理者に制御される。
ここでの問題点は、誰が(何が)その「目的」を与えるのか、また、はたして目的にしたがった活動はそんなにも合理的・合法則的に遂行されるのか、ということである。労働過程における目的である生産物そのものを決定する究極的な根拠は存在しない。目的そのものを選択する合理的な根拠はないのである。そしてまた、合目的的活動とみなされる労働も、常に、目的にとっての手段として、いわば法則の解としてあらわれるわけではない。労働とは、それが何のためになされるのかということについても、また、その遂行のプロセスにおいても、きわめて曖昧で、ある意味で非合理的な要素を含むものである。
先に、労働過程が一人の労働者にとって自己管理・自己規律となる論理をみた。この場合でも、労働は、目的にしたがって自己を律する行為というよりも、様々な方向へ展開していくダイナミズムをもっているといえる。労働とは、何よりも「流れ」なのである。さらに、資本とその管理者によって、外側から労働の目的が与えられ厳しい規律のもとにおかれる場合でも、決してすべての自由度が奪われるわけではない。現場の決定権と裁量の度合いが高まることに呼応して、労働のもつ「流れ」としての側面が強くなる。このことは、企業労働を「強制された自発性」としてのみ捉えてはならないことを意味する。何度もいうように、労働者の内面から発する勤労意欲の発現する余地がここに存在する。
資本主義において、労働が「疎外された労働」としてあらわれる最大の要因は、労働の遂行とその結果が他者によって管理され評価されることであろう。鈴木のいうように、作業の密度・量・速度といったものを労働者自らが決定できず、労働の結果も「人事考課」によって管理者に評価される世界である。これは、生産の目的が資本の掌中にあり、労働者がそこに介入できない企業における雇用労働では、絶対的な制限である。しかし、その制約条件のなかでも、労働における局所的な自由は確実に存在する。その局所領域を拠点にして、労働そのものに内在することによって、厳しい管理のあり方を突き抜けていく可能性がある。つまり、局所的自由のなかで自己を最大限発揮することによる、自己実現の要素である。
このことは、労働者が生産の目的を内面化し、自らを資本に一体化させることを意味するのだろうか。疎外された苛酷な労働を自発的に引き受けることによって、「吹っ切れた」意識で働くのか。個々の労働者においては、そのようにあらわれることもあろう。しかし、私が一貫して追及しようとしてきたのは、その資本と同一化したかのように見える、エネルギッシュな働きぶりを生み出す意欲である。管理され制御された労働であっても、その労働自体を至上なるものとみなし、自己目的化することは可能である。「何のために働くのか」と問うのではなく、働くことそのものを至高性として享受する。このとき、強制された労働の側面は背景に退き、自己の存在をかけた天職ともいえる意識が生じる。
このような意識のあり方を、前に、「管理(者)の向こう側をみている」と表現した。それは労働の使命感である。管理者は、その使命をもたらす伝達者にすぎない。この労働の使命感や内面的な勤労意欲は、どこから生じるのであろうか。もちろん、この感覚は、すべての労働者によって共有されているものではない。繰り返すように、これは自己の労働観の投影としての像であるが、私は、これがたんなる虚像であるとは思わない。
さて、最後に、内面的な労働意欲を解明する手がかりとして、ヴェーバーの考察に学びながら考えてみよう。
第四節 「プロテスタンティズムの倫理」と労働観
ヴェーバーの分析から
ここでは、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をとりあげて検討する。
禁欲的プロテスタンティズムの代表例として、十六・七世紀のカルヴィニズムをとりあげよう。「ピュウリタニズム」とよばれた禁欲的運動では、生活態度を律する禁欲的道徳は、来世の思想と密接に結びついていた。この来世観念は、当時のもっとも内面性豊かな人々を無条件にとらえており、それが生活上の道徳的革新を生み出した。その根源的な思想内容を知ることによって、個々人の生活態度を方向づける心理的起動力が明らかとなる。
カルヴィニズムのもっとも特徴的な教義は、恩恵による選びの教説(予定説)である。《人間は生まれながらに罪の状態に堕落し、自らの力で悔い改めることはできない。神はその栄光を顕現するために、自らの決断によってある人々を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定した。この選びの決断は、神の自由な恩恵と愛によるものである。神は、永遠の生命に予定された人々のみを、有効に召命する。》カルヴァンの思想においても、人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する。あらゆる出来事は、至高の神の自己栄化の手段として意味をもつにすぎない。神のみが自由で、どんな規範にも服さないのであり、救いの運命は神の絶対の決意による。神は永遠の昔から各人の運命を決定し、宇宙のすべての処理を終えた、人間の理解を絶する超越的存在である。
この悲愴な非人間性をおびた教説の結果は、何よりも、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。宗教改革時代の人々にとっての人生の決定的なことがらは、永遠の至福という問題だった。これについて人間は、永遠の昔から定められた運命に向かって、孤独の道を辿らなくてはならなくなった。牧師も聖礼典も教会も彼を助けることはできない。選ばれたものだけが、神の言葉を霊によって理解しうるのだから。この教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したことが、カトリシズムとの決定的な違いである。例えば、真のピュウリタンは、いっさいの宗教的儀式なしに近親者を葬った。これは、救いのためのあらゆる迷信を排斥した「呪術からの解放」であった。
このような教えに際して、信徒の心に生じてきた疑問は、私はいったい選ばれているのか、どうしたらこの選びの確信がえられるのか、ということだった。自分が救われているのかという問いに対しては、やがて、誰もが自分は選ばれているのだという主観的な確信をもてと勧められた。この自己確信を獲得するためのもっともすぐれた方法が、絶え間ない職業労働に厳しく打ち込むということであった。職業労働によってのみ、宗教上の疑惑が追放され、救いの確信が与えられるというのである。
日本人の労働観
プロテスタンティズムの倫理においては、超越的な絶対者としての神の存在が、決定的な重みをもつ。神はあまねく人々の心を照らし出す絶対的な規範である。人間は、この神の御心にかなうようにふるまい、そして神の栄光を増大させることを究極の目的とする。その人生における手段が、禁欲による道徳的な生活態度であり、合理的な秩序を求めて営まれる勤労である。そこには、神の規範に服する秩序だった合理性がみられる。職業労働そのものは、この神の規範にしたがい神の栄光に資するものであるかどうかが厳しく問われる。逸脱的な快楽行為や本能的な享楽は激しく排斥され、道徳的禁欲に律せられた生活態度が求められる。しかし、禁欲的な職業労働は、あくまで神の命ぜられる規範に沿うところの、「天職」であり「召命」である。
このプロテスタンティズムの職業倫理と日本の労働観の違いについて考えよう。プロテスタンティズムが超越的な絶対者としての神をもつのに対して、日本においてはそのような労働の究極的な根拠づけが存在しない。確かに、欧米へのキャッチアップを目標としていた高度成長期には、貧困からの脱却と豊かさの追求が「目的」としてわれわれの前にあった。しかし、その「豊かさ」が達成されると、労働そのものの究極的な目的が見失われてしまう。いやむしろ、絶対神なき日本社会においては、そもそも労働を意味づける普遍的な理念が存在しない。ここから、目的と終局(=エンド)を見失ったエンドレスな際限のない労働世界が繰り広げられることになる。それは、労働そのものが自己目的となった世界でもある(9)。
プロテスタンティズムの伝統をもつ社会が、絶対者との内面的な緊張関係の経験から、第三者としての規範的ルール=契約を見出したのに対し、神なき日本は、ルール性の欠如した無際限な労働を課すことになった。同じく「天職」倫理とみられるものが、一方では神の栄光への貢献であるのに比して、日本においては、企業への貢献をも越える「サラリーマン道」として、無限に歩みつづけるべき果てしなき道と化す。そこでは、仕事に無限に自己を投企することが求められ、過労死や家庭崩壊といった自己とその近しい世界の破壊に至るまで停止することがない。
プロテスタンティズムが、絶対神との対峙から生まれる孤独な内面的感情を、勤労的な生活態度の心理的起動力にするのに対し、日本においては、そのような超越者−自己関係によって形成される「内面」をもたない。宗教的意識があるとしても、彼岸での救済を求める来世観念よりも、現世利益への志向の強い呪術的要素を多分に含んでいる。超越的な絶対者の経験がなく、現世=此岸での幸福に価値をおく社会での内面形成とはどんなものであろうか。そこでは、現世の人間関係である「世間」そのものがある種の規範となり、常に周囲の視線の中で自我を形成してゆく。その不安定な内面的自我が、仕事への無際限な自己投企によって「道」を求めようとしているのか。このあたりが、今後の検討すべき課題でもある。
むすびにかえて
本稿では、日本の労働者の激しい働きぶりに注目し、その勤労態度をもたらす要因を探ろうとした。前半で紹介した鈴木良始の見解では、日本企業の「能力主義管理」制度と、そのもとで否定的意識を吹っ切って働く労働者の姿が浮き彫りにされた。これに対して筆者は、企業労働者だけにとどまらず仕事に自己を挑戦的に投企していく人々を念頭において、その勤労意欲を問題にした。その際、「日本の労働者」とひとくくりにするよりも、筆者自身の仕事に対する規範意識めいたものとだぶらせながら、彼らの仕事感覚に迫ろうとした。そこからでてきた考察は、「強制された自発性」ではなく、内面から発する労働意欲=自己目的化した労働という論点であった。
さて、「過労死」を生み出すような激しい企業社会を何とか変革していこうという願いをもつ研究者も数多くいる。その研究者自身が自らの仕事に献身的に没頭して「過労」状態に陥るという皮肉な事態すら生まれている。このことの教訓は、「企業」社会のあり方を批判して、その管理制度や「強搾取」の構造を明らかにするだけでは、無際限な仕事への没入という事態を打開できないであろうということである。したがって、労働時間の法的規制を含めた政策的なコントロールやそれを勝ち取る市民的な運動に期待をかけるのは、事柄の一面しか見ていないことになろう。
はっきり言うと、「会社人間」ではなくても「組合人間」であったり、要するに自分の生活の大部分を占める活動を、一つの方向性をもった「仕事」に投企していく勤労態度そのものが問題なのである。その意味では、「ライフスタイルを変えよ」という論者の意見を全く無視するわけにはいかない。しかし、仕事よりも遊びを、余暇時間をレジャーに、といったかけ声だけでは解決できない問題点もはらまれている。その「遊び」や「レジャー」そのものを、またしても無際限に追求する強迫的衝動を内面に宿す場合があるからである。
このように見てくると、「過労死社会」「働きバチ症候群」の日本から脱却する道は、かなり困難な様相を呈しているといえよう。たとえ「勤労意欲」そのものが衰退し、若い人々を中心に享楽主義文化が定着しても、そこにまた新たな「無際限な欲望」が生まれてくるであろう。これに対抗して、絶対的な規範や超越者の論理を導入することは、時代錯誤的な試みである。しかし、ひとりひとりが「多方向に炸裂する多様な欲望」を認めつつ、自らが「天」とあおぐ規範=道を独自に追求することによって、エンドレスで無際限な行動様式を自己の内面から克服することは可能ではないか。その道程がエンドレスなものでないことを願って結びとしたい。