
日本的経営と「共同性」
大野正和(大阪市大院・経営学)
1. 共同体と近代
マルクス主義およびその影響を強く受けた社会経済史学において、「共同体論」が、主にその歴史的形態を中心として、広く論じられた時期があった。この背景には、「近代化」を達成すべき日本社会のかかえる、前近代的な農村共同体の解体という歴史的課題意識があったと思われる。すなわち、近代(市民社会)に対して、その本質的達成のために否定すべき(前近代的)共同体を対置するという構図が示された。
この、近代−共同体という二項対立の図式は、半封建的な農村=村落の現実的存在という条件のもとでは、共同体にネガティヴな意義を付与せしめるものとして機能した。しかし、高度成長を経ることによって農村社会の実質的凋落が決定的となるにおよんで、一転して共同体は再生・創出すべきロマン主義的渇望の対象にすら変貌した。
このような共同体論の系譜は、近代を分水嶺としたうえで、否定されるべき共同体として過去へ、再生すべき共同体として未来へと、時間軸を二分する歴史意識のあり方を暗示している。このことは、ネガ・ポジ両面からの共同体把握によって、否応なく近代そのものの自己認識を促しているのだともいえる。
つまり、われわれは、共同体を論ずることによって近代の構成原理を了解しようとしたのであり、その意味で、近代こそが問われるべき最大の課題であったのである。だからこそ、「近代化論」であれ、「近代の超克」を唱えるものであれ、果ては「ポスト・モダン」を標榜するものであっても、この近代の呪縛と闘うことを運命づけられていた。
では、この共同体から近代を照射してみた場合、そこには常に「共同体なき近代」の姿が映し出されてきたように見えるのであるがどうであろうか。「共同体の解体」といい「共同体の残存」といい「共同体の再建」といい、その底流に一貫して流れるのは「近代とは共同体の欠如態なのだ」という認識ではないだろうか。
確かに共同体の人格依存的関係から自立した個人こそが近代の形成者であるといわれ、また、共同体的土地所有から自由になった無産者が、近代プロレタリアートの原型でもあろう。つまりそこで問題となった共同体とは、何よりも「農業的村落共同体」であり、それゆえ共同体的土地所有の解体過程が最も重要視されたのである。
ここで注意しなければならないことは、共同体としてわれわれが表象しえた歴史的形態は「農村共同体」に他ならないということである。それゆえ未来の共同体イメージにもこの農的世界が色濃く反映せざるを得なかった。また、マルクスが『経済学批判要綱』の中の「諸形態」論で描いてみせた本源的な土地所有のあり方も、確かに農業的共同体を前提するものであった。
しかし、マルクス自身の叙述に即してみても、彼の視角は土地そのものから分離した「自由な労働」の形成を論ずることにあり、決して共同体一般の否定ではなかったように思える。つまり、近代は農業的共同体の解体を必然化したが、共同体の存在そのものを否定したのではない。
いま敢えて共同体概念を「共同性を有した人々の結合体」と解釈すれば、近代における工業的プロレタリアートの共同体という表現もあながち不適切とはいえまい。
ところで、近代の特徴的諸要素として、産業面での工業化の達成、資本−賃労働関係の成立、封建的土地所有の解体、そして人格的な非依存・独立などをあげることが可能である。この最後の人格的独立をもって近代的個人の確立の指標とされ、逆に共同体の相互依存におおわれた人間的紐帯の切断が課題とされた。
ここでわれわれは、いわば未知の領域に踏み込んだことになる。というのは、人間が本来歴史貫通的に本質として共同存在であるのなら、前近代的な人格依存の共同性ならぬ近代の共同性を求めてさまようことになるからである。
近代の共同性というと、即座にそれは労働者階級の団結・連帯であるととられかねないが、ことはそう単純ではない。例えば、労働組合内部の前近代的な人間関係が批判的に指摘された時期もあったし、特にわが国では、日本型経営システムにおける労働者のあり方がきわめて重要な問題となる。
ここであらかじめ断っておくと、いままでの叙述ではとりたてて西欧型(の共同体)と日本のそれとの区別を明らかにしてこなかった。以下の分析では、(現代)日本の状況が念頭におかれるが、このことは、西欧的生活体験を持たないわたし自身の限界であるとともに、何よりも日本の社会科学を確立してゆきたいという願望の表れでもある。
さて、日本の近代を共同性の側面から考察するというわれわれの課題にとって、近代の中核的要素をどこに見いだすかは重要なポイントとなる。それは時代や問題設定のアスペクトによって、「国家」や「家」であったり「地域社会」「都市」などであったりもする。確かに時代によって、その社会の趨勢を本質的に規定する支配的な領域が、様々に異なってあらわれてくるのであり、一概に歴史をこえて規定的要素をひとつに確定することはできない。
とはいえある時代にとっては、ひとつの領域要素が、その社会の他の領域に影響を及ぼし体制的規範となる、そういう中核システムがある。それは、とりわけ現代日本社会においては、企業とその経営のあり方であると思われる。それゆえ、以下で日本的経営システムについての若干の考察を行っておこう。
2. 日本的経営
日本型経営に特徴的な労働者の存在様式は、やや古くはマイ・カンパニー主義と呼ばれたが、現在では「会社(本位)主義」として把握するのが適当であるように思われる。これは、単なる労資協調をこえて、労働者自身が積極的に企業支配に取り込まれている現状を、最もよくとらえている表現であると考えるからである。
そこでわれわれの立場からは、この会社主義といわれる企業内の経営と組織のあり方を、やや安易ではあるが「会社共同体」としてとらえて考えてみたい。ここで、会社共同体という表現を用いたのは、前に「近代における工業的プロレタリアートの共同体」と述べたことからも明らかなように、近代と共同体を対立的概念としてとらえるのではなく、近代そのものに内在する共同性に支えられた共同体の存在形態を解明するためでもある。
「会社共同体」および「会社主義」の特徴は、会社という存在に対する強い求心性をもつある種の忠誠心に基づく勤勉さ、場合によっては個人の私生活にまでおよぶ上司の部下に対する庇護的な指導と管理、会社内外でのインフォーマルなコミュニケーションによる職場の人間関係の円滑化、等々のいわゆる集団主義経営としてあらわれる。そして、会社そのものが、各構成員の生活と人生にとって決定的な重要性をもち、ときとして彼らにそれを「運命共同体」と観念させるほどの強大な威力としてたちあらわれる。
ここにわれわれは、現代日本社会にしたたかに息づいている強い共同体意識のあり方を見て取るのである。しかしさらには、このような意識を支える会社共同体における独特の「所有の論理」をみておく必要がある。
会社すなわち企業体は、資本主義社会の中核的組織として、資本家階級による生産手段の排他的私有に基づく、剰余価値の収取機構と考えられてきた。確かに、膨大な工場設備体系や洗練されたオフィスシステムなどは、会社資産として資本家的所有のもとにあるといえるであろうし、人事考課制度や戦略的な会計予算に関する重要な意思決定には、「資本の論理」を体現した取締役会の意向が強く反映するともいえよう。
しかし、その資本の論理が「利潤の追求」として企業の各構成員の行動基準と観念されるとしても、彼らの仕事の局所的領域においては、一定の自主的・自律的労働過程が存在するといえる。すなわち、労働現場における各人の自由度に対するある種の満足感と、その自由領域での主体性の発現が可能であることによって、「仕事が面白い」という充実感が確保される。一挙手一投足を管理されているわけではなく、ましてや自己の裁量領域の拡大と、それにともなう報酬の増大が見込める昇進システムのもとでは、企業への強い同調性が生じてもなんら不可思議ではない。
わたしは、このような企業=会社における自由裁量領域と責任を伴った権限の体系と、さらには職場やそこでの人間関係・雰囲気に対する愛着をも含めて、これを、現代の会社共同体における占有形態と称することができるように思う。そして、会社そのものが所有の主体であり、各人は占有者として現れるというのは、「共同体が所有主体であり、個人が共同体に対して自立していない」という「アジア的共同体」の論理と軌を一にする。
このことは、日本近代に持ち越された共同体的諸関係の残存とみなされるべきではなく、日本の歴史の基底を貫いてきた「アジア的共同性」とでもいうべきものの現代におけるあり方ではないだろうか。そして、昨今の日本的経営の動揺と会社主義への反省は、このアジア的共同性の変質または解体の端緒的表れともいえる。以下において、私は、アジア的ないし日本的共同性の解明の糸口となる考察を、試論的に展開しようと思う。
3. 日本的共同性の現象論
前節では、会社主義とよばれる日本的経営システムの事例を、日本的共同性の典型的な現象形態として考えた。ここでは、それをもう少し広げて、共同性の日本的なあり方を、より立ち入って検討してみよう。その際注意されるべきことは、われわれは、共同体と近代とを取り立てて断絶の関係として捉えるのではなく、歴史的な時間の中での共同性構造に着目するという点である。
したがって、従来はともすると前近代性ないしその残存物とみなされてきた事象をも、共同性の(日本的な)現れという観点から取り扱う。そのような意味において、われわれの念頭にまず思い浮かぶのは、戦前の日本社会における家族的構成とこれまで述べてきた会社主義との類似性であろう。確かに、日本的経営を「家」の制度・システムの文脈の中で論ずる傾向は、古くから見られたし、それなりに当を得たものでもあろう。
しかし、わたしがここで述べようとするのは、戦前の家的天皇制システムと現代の会社本位主義体制、およびそれに連なる諸種の日本的共同性の存在形態の現象論である。
まず簡単な共通点を指摘しよう。それは、「お国のため」「会社のため」という全体的な意識が、当の共同体(国家ないし企業)を支える中核的な共同性イデオロギーとなることである。つまり、「お国のために命を捧げる」とか「会社のために尽くす」といわれるような、共同体への自己犠牲的かつ献身的な奉仕意識である。あるいは、明確な奉仕意識であるというよりも、全体的・全一的な目的・目標達成のための行動に参画しているのだという、いわば勤労的な喜びといえるかもしれない。
そして、全一的な目標への参加意識は、直接的には仕事に対する誠実さとして感じとられる。しかし、共同体構造において特徴的なことは、この誠実さを内面から支え、共同性の名のもとに正しく導いてゆく指導者の存在である。彼は、多くの場合助言や忠告を与え、時には叱咤激励しつつ、目標へ向かう努力や情熱を積極的に引き出し組織する。
さらに重要なことは、この指導のあり方が、全体の目標を頂点とするタテ方向の体系をなすことである。その指導体系は、場合によっては、身分的序列を含む階層的な秩序を形成することがあり、指導者たちの権限や権威の分配・系列化に及ぶ。各階層に位置する個々人は、自らの任務・職務の忠実な遂行をこそ誠実さとして受けとり、その中で個人的な満足とともに全体の構成員としての自覚と誇りを感じとる。
そして、共同体の目的遂行のための指導体系の上層部内においては、この目的そのものの象徴的代表者とさえいえる人格が登場してくる可能性がある。共同体の各構成員の心理的傾向としては、自らの誠実な勤労意識から発して、それを指導する全体的象徴者への人格的帰依に発展することが多い。このような存在者のことを、神といったような神秘的な意味を含意させないとした上で、超越的他者あるいは単に超越者と呼んでおこう。
さらに、やや違った観点から考えてみよう。「お国」や「会社」に限らず、歴史的な意味での日本的集団を見た場合、そこには中世の武士団以来の御恩−奉公の主従関係の存在が指摘されよう。これが、わが国において、現代にまで及ぶ上下秩序の中軸をなしている。ここで、歴史学的ないし思想史的な分析を行う能力はないが、義理や忠誠といった日本人の心情的内面に深く関わった観念の検討も重要であろう。ただいえるのは、こういった心情が、きわめてナイーヴかつウェットな共同体的人間関係の基礎を形づくっているということである。
このことは、たとえば会社におけるインフォーマルなひとづきあいを助長させるような、何らかの心理的情緒につながっている。そして、これらが、御恩−奉公を現代風に世俗化した、お世話−感謝ともいえる人的結合の基盤をなしている。上司や先輩、つまりなにかの指導上の優勢者が、部下や後輩を「お世話」して、後者の「感謝」に基づく貢献を確保するという社会秩序である。
このようにみてきた日本的秩序は、濃密で微温的な人間関係を背景とした、ある意味で居心地のいい、またある意味で息苦しい共同性構造をなしている。果たしてこのことが日本人にとって、積極的な意義をもっているのか、それとも変化を余儀なくされているのか。最後に共同性の彼方を眺めやってみよう。
4. 共同性のゆくえ
もう一度別の面から、日本的な(と筆者には思える)共同性のあり方を論じておこう。自己を司るべき他者、ないしは、自己のあり方・存在位置を整序してくれる超越的他者を自己の外部に設定し、そこから見て自己を統御してゆく。自己−超越的他者間の不断の緊張・葛藤と、その他者への強い求心性を内包する、いわば権威主義的共同性である。
そしてその共同性でくくられた組織・集団の権威者(たち)は、目下のものに対する慈悲的でありまた強権的である、パターナルな支配者としてたち現れる。しかし、これはもはや支配とは呼べないかもしれない。「支配者」は自らの行為を善意と思いやりに満ちた「指導」であると感じているし、下のものは彼の庇護のもとでのみ成長し力を発揮できると思っている。
こうしたことは逆に、共同性というものにとっては権威と支配が不可分離なものではないかと考えさせる。そもそも共同性を有する組織・集団というものは、何らかの共同目標を持ち、その目標への構成員の同意に基づく行動参加が求められる。その際に構成員相互の間の意見調整を行い、ある場合には対立を回避していく努力をする指導者(層)の存在は不可欠であろう。そしてまた、進むべき方向性を自信を持って見いだすことのできない「大衆」に対して、積極的に針路を提示することこそ「リーダー」の役割である。
リーダーは、知識や経験に裏打ちされた権威をもって初めて、その地位にふさわしい任務が遂行できる。その任務とは何よりも「指導」であり、そのことを命令の伝達によって行うことが「支配」である。
この支配行為が暴力的強権をもってすら行われた時代には、「支配者」は打倒し排除すべき敵と感じられた。しかしいまや「支配」はシステム化し、強権的支配者よりも「世間」という名のきわめて日本的な超越者が跋扈している。それでも、いやそれだからこそ、日本的共同性は世間一般に、つまり国家・社会・民族の規模において貫徹し始めたのである。
このことは、若い世代を中心に広範な不自由感と閉塞感を鬱積させつつある。わたしは、共同性が人間存在の本質であると認めるがゆえに絶望感をもって次のようにいおう。
否定されるべきは「近代」でも「残存する共同体(関係)」でもない。それは、旧共同体から近代までをも貫通するところの、普遍的同一性原理としての「共同性」そのものに他ならない。旧ソ連・東欧の「革命」は、近代まで持ち越されてきた共同性原理のカリカチュアとしての「全体主義」の最後的(になるべき)克服・崩壊である。その後に来るべきものは、共同体の再生でもファシズムの再来でもない。まさに、個体性・自律性を基調とした差異と多様性に彩られた「無為の」「明かしえぬ」共同体としての自律分散社会システムである。
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