
組織論的経営学の批判と「権威」の諸問題
── 部下の内面心理探究にむけて──
大野正和
1 はじめに
2 社会科学の方法への懐疑
2.1 組織論としての経営学
2.2
「自分」と向き合う「知」
2.3 自己理解と経営学
3 経営学における「権威」概念
3.1 権威(権限)の源泉について
3.2 バーナード=宮台の「権威受容説」
4 権威へのおそれ
4.1 下位者と権威
4.2 社会性以前の〈権威〉
5 おわりに
1 はじめに
本稿では、「権威」を問題として扱う。
権威は、それを西欧思想史上で見れば、神の絶対的権威や共同生活の指導的権威にまでさかのぼれるかもしれないが、近代以降、教会の権威や国家の権力とも関わりつつ様々に論じられてきた1)。しかし、「権威論」として体系化された学説はなく、日本においても概念としてはかなり不明確なまま、それぞれの学問において用いられているようである2)。したがって、小論においてあらゆる学説を吟味した上で何らかの概念規定を行うことは、到底不可能でありまたわたしの意図するところでもない。
ただ大まかな前提として、権威・権力・支配といった概念を社会学的に体系づけたヴェーバー3)と、資本家の労働指揮との関係で権威にふれたマルクス4)や、彼の盟友エンゲルスの権威論5)は、ある程度念頭にある。権威を権力との関係において論じるなかでの、その肯定的な理解が、一定見られるのであるが6)、わたし自身は権威というものを否定的に感じとり、そこからみずからの思想的歩みを開始したともいえる(大野〔17〕)。
本稿では、権威の主観的体験を学として扱うことの方法論的吟味を行った上で、何よりも、仕事をめぐる人間関係(経営内の協働)とくに上位者(上司)と下位者(部下)との関係における権威を主題とする。そのために、経営学における権威(authority)論を検討する。しかし、あらかじめいっておくと、組織論的または(社会)システム論へと向かう議論ではなく、上司−部下の二者関係に焦点を絞った上で、部下(下位者)の内面心理を探ることを課題としている7)。自己のなかでの権威理解がいかに展開していくかについての試論(私論)である。
2
社会科学の方法への懐疑
2.1
組織論としての経営学
経営学者である小林敏男は、みずから経営学を定義づけて、それは「協働および組織の問題を本質的に扱う学問である」としたうえで、「個人の理想に適った行為が永続可能になることを、すなわち自己実現が可能になることをめざす学問が、本来の経営学なのである」と主張する(〔23〕、Dページ)。そして、「協力関係をもとにした経営ならびに産業社会を実現」すれば、「そのとき個人には、社会性を身に付けられるだけでなく、みずからの長所を伸ばす自己実現の可能性が開けてくる」という(〔23〕、7ページ)。
その社会の実現には、資源の相互依存と稀少性から生じる問題を少数者排除の「権力」によって解決するのではなく、人々が、「他者への配慮」に基づいた協力関係を結び、そのもとでの徹底討議を通じて導かれる合意を基礎とした組織原理を確立することが必要であるという(〔23〕、7ページ)。また、「経営の本質は、経営者が利害対立を調停し、調停案を『正当化(justification)』していくこと」であり、「この問題を追求していくのが経営管理論の本筋である」という(〔23〕、5ページ)立場から、経営内における相互理解のための「正当性(justice)8)」を検討しようとするのである。
小林の脳裏には、「いまからでも遅くはない。このどうしようもない欲求不満状況にある現代を、われわれの手で改善していこうではないか(〔23〕、195ページ)」という強い危機意識に支えられた実践的情熱が焼き付いているのであるが、その現代的危機とは「正当性の危機状況」でありこれを解決しなければ、近代以降の社会の発展は望めないといいきる(〔23〕、11ページ)。正当性の危機状況とは、「個人の個別特殊性を相互にわかり合おうとする態度」や「他者の立場に立とうとする正当性の感覚」が生まれてこないことであり(〔23〕、11ページ)、その根底には、デカルト以来の近代(科学)を理論的に導いてきた「主観主義的認識論9)」が潜んでいると論じる。
小林の議論を簡単にまとめると、他者理解不可能な主観主義的認識論→機能主義・功利主義による社会統合→資源の稀少化による社会のアノミー化→正当性の危機状況となろう。さらに、対面状況において他者の主観性を明証的に把握することができるという認識論に基づいて、他者への平等な配慮をもって時間と労力をかけた徹底討議を行い、そこから得られる合意によって組織の正当性を確保していけば、自己実現と健全な社会性を身につけることが可能な社会が展望できるという。そして、その方策をロールズやドゥオーキンらの法哲学的な理論に求めつつ、公共的な合意の道を探ろうとするのである。
ここには、組織論者としての強い社会性への志向を感じとらざるをえないが、社会性が共同性と理解された場合の問題点10)についてはここでふれないとしても、徹底討議による合意形成という方法の実現可能性については、最後まで疑念を拭いきれない(例えば、討議の時間的制約条件は、小林が考えるほど緩やかではないであろう)。
また、社会性の根本として、対面状況において他者の主観性の明証的な把握が可能であることが強調されるが、この主観性ないし主観がいったいどういう内容をもつものなのかは、決して明証的ではないように思われる。他者の主観性よりも、自己の主観性ですらわたしには把握可能ではない。
実際小林自身、権力志向の組織社会が形成されてしまう危険性を十分に自覚し、それゆえ組織のリアリティに同一化するよりも、自分のリアリティを疑ってみるという自己懐疑の努力の必要性を説いている(〔23〕、145-159ページ)。そうであればこそ、他者を理解し他者から理解されるという相互の分かり合いや他者の立場に立つことではなく、自己の存立根拠を鋭く自問するそれこそ必死の自己懐疑という道もあるのではないか。小林の場合、この自己懐疑の努力を自分自身の内面へ向けるのではなく、社会性の実現といういわば外側への道を選んだように思われる。
とはいえ、わたしはここで、小林の主張の当否や実現可能性について本格的に論じようとは思わない。むしろ、組織論者の問題意識がどこにどのように向かおうとしているのかに、深い興味をもつ。例えば、彼が、体験的にみずからの「個別特殊性」が理解されなかったり、「他者の立場」に立とうとしなかった自分、あるいは逆に他者から疎外された経験といったものを、自己の胸の奥深くに蔵しているとしよう。彼が、自分自身の「危機状況」や「欲求不満」を理論に投影していくとしたら、他者を理解することや相互に分かり合おうとする以前に、自己を理解し問題意識のまなざしを内側に向け戻してみる作業もまた無意味ではないだろう。「健全な社会性」をしばらくおくとして、「みずからの長所を伸ばす自己実現」というとき、伸ばしうる長所や実現すべき自己がどのように内面的に自覚されるかを問い直す、また反対に、いかに自己が萎縮しているかを自分の中に問う、このようなことも自己理解である。
「他者への配慮」に基づく討議による合意形成を、社会性に志向した組織論として探っていくのではなく、「自己への配慮11)」によって問題を内面の側に深めることで、真に「個別特殊性」を救っていこうとするのがわたしのとる立場である。同じく実践的動機に発しながらも、社会性の側に目を開いて客観/主観を論じる12)のとは違って、自分=わたしの側に問題を引き受けて思索する。このことがいかに従来の社会科学的思考と異なるかは、本稿全体を通して語られるであろう。
2.2
「自分」と向き合う「知」
次に、わたしの方法論との強い親和性をもつ森岡正博の論にふれておこう。森岡は、オウム真理教事件の与えた強い衝撃をみずからに引き受ける形で、「自分を棚上げにする思想は終わった(〔41〕、1ページ)」と宣言することから論じはじめる。自分を棚上げにしない思索とは、対象となるべき「ものごと」と、それに立ち向かっている「自分自身」とのあいだを、絶えず行き来して輪を描くように思考を進めることである。対象と自分とをけっして切り離さず、ものごとを自分との関係において考えること、つまり「自分」というものを、みずからの思想のなかに巻き込む覚悟がなければならない(〔41〕、24-26ページ)。具体的にいうとどうなるのか、やや長くなるが森岡の言葉に耳を傾けよう。
たとえば、「差別」について考えるときに、私は、自分自身が過去に受けてきたであろう差別と、自分が他人にしてきたであろう差別のことを、自分の深い記憶のなかから探り出してきて、それに直面しなければならない。それと同時に、いま現在、私が受けているかもしれない差別、私が他人にしているかもしれない差別についても、はっきりと浮かび上がらせてこなくてはならない。そうしたうえで、この自分自身がいかなる差別の渦中にいたのか、そしていまいるのかを、明らかにする必要がある。
そこが明らかになれば、ではなぜ私がそのような差別の渦中にいた(いる)のかということに考えを進めることができる。あるいは、私が捉えられていた(いる)ところの、この差別の構造はどうなっているのかということに考えを進めることができる。あるいは、私がそもそも「差別」ということがらを探求のテーマに選んだのはなぜなのか、ということの深い意味が明らかになるかもしれない。このような道筋を通って差別について考えることで、私は、自分から切り離された「差別一般」について安全地帯から思索するのではなく、この私も実際に巻き込まれているところの「差別」というものについて、この自分自身込みで思索を進めることができるのだ。(〔41〕、27-28ページ)
ここで「差別」といわれている部分を、本稿で扱うであろう「支配」や「権威」という語に置き換えてみれば、わたしのいいたいこととほぼ合致する。ただ、支配や差別を身につまされて受けてきた(と感じる)側の視点に「わたし」が立ちきる場合と、「この私も差別に加担してきたのではないか(〔41〕、26ページ)」という立場からの考察とでは、ある種の微妙な差異が生じるように思う。
森岡の表現では、差別(支配)を誰にするかといえば明らかに「他人」といえるが、逆に、誰から何から差別(支配)を受けるのかという明確な規定はないのである。それゆえ「差別の構造」へと探求が進む可能性も示唆されるのであって、ここには、森岡自身が最も危惧するはずの「ものごと=対象」と「自分」の分離が、つまり、差別する者も差別される者をも共々巻き込んでいってしまう構造的要因への還元的思考13)の危険性が、全くないとはいえない。
研究者が探求しようとする「ものごと」を「対象」として「自分」の外側に設定しようとする限り、それは自然科学的思考にはなじんでも、自分自身の思想という課題の達成にはそれなりの困難が伴う。「権威によって支配された」と感じる自分というものを思索しようとすれば、そこには確かに権威的支配者という「他者」が存在し、また、その支配行為自体がある特定の人間関係において遂行されるには違いないが、それを自分の外側に対象として見据えるのではなく、むしろ服従し従う自分自身をこそ探求の対象とすべきなのではないか。このとき「対象」と「自分」は真に一致し、もはや自分から切り離された一般論を展開する余地すらないのである14)。
2.3
自己理解と経営学
方法論的な序説の最後に、このような自分自身を対象とする自己理解と、経営学との関係について簡単にふれておこう。
被支配体験の単なる表現であれば、それは、私が私を語るという「告白」の形式での体験叙述にすぎないのであって、何も学問的営為に訴える必要はなく、私小説家に任せておくべき事柄であろう15)。そうではなくて、体験的事実の内面的な整序づけのために、つまり、わたしがわたし自身の姿を浮き彫りにするために、社会科学ないし学問的理論の知見を動員し利用するのである16)。いわば、学問という「客観」の目を借りて、自分自身の内面性を見つめるのであって、その視線が多面的な方向性をもつほど、世界における自分の位置づけもより明確となる。しかし、世界を解明しようとするのではなく、あくまで、自己から発した自己に関する問題意識が、いったん外側へと広く展開した後に、再び自身の内側に戻ってきて己を明らかにしようとするのである。
わたしは、学問を含めた広い意味での仕事ないしは労働の場における、日常的な人間関係、特に上位者(上司)と下位者(部下)との二者的な関係に見られる、権威を問題にしようとする。しかも、わたし自身が下位者の立場にある(あった)という体験的事実から一歩も離れることなく、その下位者=わたしの位置づけがいかなるものであるのかを、理論の目を通して見つめたい。労働の場(協働)における上下の人間関係と権威を、自分の体験的事実を整序し説明するという視角から捉えるためにこそ、わたしは経営学を利用するのである。
そして、「権威とは何か」ではなく、自分にとっての権威の意味、いやむしろ、権威(体験)の考察を通して、自分自身は何であるのか、何であり得るのかを根源的に自問していこうと思う(わたしにとっては、わたし自身が、究明すべき最大の謎である17))。以下は、そのための試行錯誤に満ちた拙い準備作業である。
3
経営学における「権威」概念
この節では、経営学(全体ではないが)におけるauthority概念の扱いを瞥見し、それが、わたし自身が感じ取ってきた権威の説明にいかほど迫りうるかを検討してみたい。経営学におけるauthorityの訳語としては、一般的な「権威」とともに、より管理論的な「権限」という語が、論者によって、または文脈に応じてそれぞれに使い分けられている。
あらかじめ暫定的にいっておくと、わたしが主題とする権威は、制度やシステム(論)的な意味合いを強くもつ「権限」というよりも、「あの人は権威主義者だ」とか「権威的な態度」などの表現に見られる、個人の人格態度に深くかかわるような「権威」である。これはすでに、経営学が扱おうとするauthority概念を逸脱しているのかもしれないが、英語のauthorityと日本語の権威という語との間には微妙な差異が感じられる。日本語を日常言語として用いているわたしが、その固有の体験から権威論を展開するために、経営学を捉え直してみようとするのである18)。
そして重要なことだが、権威を上下の人間関係のなかで捉えようとする本稿の叙述においては、わたし自身が下位者(部下)の立場に立って考察を進めようとするのであり、時に一般的な表現に流れようとも、そこでいう「下位者」とは、自分という個別者に他ならないことに注意していただきたい。このことは、従来の社会科学においては、理論の客観的妥当性を損なうものとして、厳に戒められた方法であろうと思われるが19)、「部下一般」「権威一般」では見えてこない個別特殊性(しかも「自分」という)を描くために、そうするのである。
3.1
権威(権限)の源泉について
まず、経営学におけるauthority概念の捉え方を、(日本の)経営学者自身の言葉で整理しておこう。
三戸公によれば、「組織において、ある人が他人にたいして特定の行為をなし、あるいはまた特定の行為をしないように、意志決定し命令し服従させる力を権限authorityないし管理権限managerial
authorityという。(〔38〕、153ページ)」
そして、この権限についてより深く理解するためには、権限の源泉の問題をとりあげることが最もよいように思われるとして、次のように問いをたてる。「権限の源泉はいずこにありや。ある人が他の人に命令し服従させる力はどこより生まれてくるのか。意志決定し命令する人を上長とか上司あるいは上位者superiorといい、命令をうけ服従する人を部下あるいは下位者subordinateというが、なぜ部下は上司の命令に服従するのか。(〔38〕、153-154ページ)」この問いに答えるために、三戸は、権限の源泉についての諸説を高宮晋の分類にしたがって議論しているので、高宮自身の論を見てみよう。
高宮は、権限の源泉について、(1)法定説formal
theory(2)受容説acceptance theory(3)職能説functional
theoryという三つの異なった見解をあげる20)。
法定説は、クーンツ/オドンネル(Koontz,H./O'Donnell,C.)によって代表される考え方で、権限とは、他者に行為あるいは不行為を命令する法的な力であり、それは上から与えられた権力であって、究極の源泉を主として私有財産制という基本的な社会制度にもつものである。
受容説の代表者はいうまでもなくバーナード(Barnard,C.I.)であり、権限の真の源泉は、上司の命令を彼の部下が受け入れることにあり、上から与えられるものではなく、下の受容によって権限の範囲が定まる。
最後の職能説は、高宮が積極的に依拠する見解であり、フォレット(Follet,M.P.)の論にそれを求めている。企業における各人はそれぞれ分担された職能(仕事)を有しており、権限とは、この職能を社内において公に遂行しうる権利にもとづく力にほかならない、という考えである(〔28〕、110-114ページ)。
さて、「なぜ部下は上司の命令に服従するのか」という問いにたいして、外部の観察者の視点からいずれの説が「正しい」のかと考えてみても、その真理性は、観察者が観察しえた範囲内でしか妥当しない。命令の受容を説明する普遍的原理の究極的根拠は存在しないのである。まして、「理論」から権限(権威)の「本質」を説明しても、「なぜわたしは服従するのか」という疑問の心理的な面に答えたことにはならない。
わたしは服従(の当事)者である。権限の源泉は何か、つまり命令する力はどこから生まれてくるのか、という問いと、「なぜ部下(たるわたし)は服従するのか」と問うこととは、発問の主体と視角が全く異なる。権限の源泉を明らかにすることによっては、服従者たるわたしの内面を説明したことにはならない。受容しているという事実を、権限(権威)といいかえるの21)ではなく、受容しているこのわたしはなぜ服従するのかを、自己の内面心理から明らかにしてゆくことこそが、課題なのである。
3.2
バーナード=宮台の「権威受容説」
先を急ぐ前に、やはり「受容する」ということが問題になっている以上、受容説を、その主唱者であるとされるバーナードに即して、読解しておく必要はあろう。ここではそれを、宮台真司の権力論におけるバーナード理解22)をふまえて、論じることにしよう。
宮台によれば、バーナードの「権威受容説」の問題設定は、組織成員はなぜ命令に服従するのか、どんな命令に服従するのか、ということであり、その回答はおよそ三段構えのものである。
(1)命令が「無関心圏」に属する場合、上司の地位にあるものが命令したというだけで、それが自動的に従われる。これは、上司における「地位の権威」である。(2)命令が「無関心圏」をこえる場合には、上司のリーダーシップ(経験・知識・能力)にたいする信頼があればこそ、命令が従われる。これは、上司のもつ「機能の権威」である。(3)しかし、無関心圏をこえる命令が、リーダーシップによって対処できない場合、その命令への不服従にたいして、合法的な制裁権の行使によって、服従を強要することがある。これは、上司のもつ「権限」問題である(〔39〕、103-104ページ)。
さらに宮台は、この強要に基づく服従は、受容・承認の契機を含んでいないように見えるから、権威受容説の妥当範囲を破るのではないか、という疑問にたいして、上司が部下の不服従に制裁を加えることができるのは、この命令と制裁が、他の部下仲間から支持・承認されているからだ、とバーナードが論じていると読み解く。命令の服従可能性を最終的に担保する「権限」の概念は、宮台の用語系では「社会的権力」に相当する。部下が上司の命令に服従せざるをえないのは、不服従への制裁行使が、組織内の任意の第三者によって「期待」されていると、当該の部下によって「予期」されるからである。
つまり、支配者(の命令)に対抗しがたいのは、その権力が、任意の第三者たちの期待にたいする服従者の予期に支えられた、「社会的権力」として機能するからだ、というのである(〔39〕、104-105ページ)。
宮台のバーナード理解に従えば、高宮の分類における「受容説」的権威が上記の(1)に、「職能説」的権威が(2)に、そして「法定説」的権威が(3)に、それぞれ相当することにもなり、バーナードは、狭い意味での「受容説」ではなく、権威(権限)をかなり総合的に取り扱っていたのだと解釈できるかもしれない。わたしにとってバーナード解釈そのものが問題ではないことは、これまでの叙述によって、もはや明らかであろうが、制裁権の行使による服従23)の強要可能性については、やや立ち入って「解釈」しておこう。
『経営者の役割The
Functions of the Executives』第12章「権威の理論The Theory of
Authority」の叙述に限ってみれば、バーナードが「制裁」について言及したといえるのは、組織の利益を傷つけることは組織への敵対行為であるとした上で、「可能ならばその違反者を監禁するとか、処刑するとかの程度まで懲罰行為によって対処しなければならない(〔1〕、p.171)」と述べている部分であろう。
そして、組織の利益(good)が重要だという非人格的(impersonal)な見方を生み出す、つまり人格的な問題を非人格的に取り扱う(treat
a personal question impersonally)ことを可能にするのは、上位権限の仮構(the fiction of superior
authority)である。上位権限の仮構とは、共同体の共通感(common sense of the community)または共同意識(communal
sense)の実行の道具(practical
instrument)であり、この意識こそが、組織成員に、無関心圏近傍の権威を個人として問題にすることを、忌避させるのである。この仮構によって、上位者からの命令を受け入れやすくするような予想(presumption)が個人間に確立し、人格的な屈従感を招くことなく、また同僚との人格的・個人的立場を失うこともなく、当該命令が問題化するのを避けうるのである。(〔1〕、pp.169-171)
このようにバーナード理論の根底には、非人格的な「組織」が共同意識とともにしっかりと存立するためには、組織成員が上位者の命令の妥当性を問題化しない「無関心圏」が安定的に維持されることが必要であり、上位者から権威が発するという仮構(フィクション)はその手段なのだという、共同体への強い志向性があるように思える。その共同体の利益を損なう行為は厳しく禁じられ「制裁」の対象となるのである24)。
宮台はしかし、この上位者の権限はあくまでフィクションであることに着目し、「命令を受け入れやすくする予想」が部下の間に広まること、きわめて平たくいうと、「部下たる私が反抗すれば上位者が制裁を加えるべきであると、他のどの部下たちも思っているに違いないと、私が思いなしていること」によって、命令が受容されるのだと説く。
宮台の権力論は、組織やシステム(場合によっては国家)を論じようとした「社会」的権力論であり、authority概念も、わたしが主題化しようとする「権威」ではなく、あくまで「権限」として捉えられる。そこで抜け落ちるのは、権威を受容する下位者の内面心理についての考察である。いままで論じられることの少なかったこの事柄について、最後にわたしなりの見解を提示しておこう。
4 権威へのおそれ
4.1 下位者と権威
ここで論じたいのは、下位者の内面心理としての権威にたいする「おそれ」である25)。だが、その前に、そもそも下位者が下「位」者であるためには、そこに何らかの地位の体系が成立している必要がある。地位の体系は、普通ハイアラーキーとして捉えられ、組織の基本的な性質でもある。ここでは、その地位の体系が制度として確立していることを前提とし、下位者はその制度と組織に属するとしたうえで、下位者であるがゆえの心理を問題とする。
したがって、制度や組織に関する厳密な議論は抜きにして論じられるが、重要なことは、下位者自身が誰を上位者として感じ取っているのかである。例えば、一般に会社員についていえば、彼を雇用している企業が彼にとっての組織であり、上位者とは直属の上司を意味するであろう。しかし、企業社会に生きる彼にとっては、企業人として尊敬する先達者もまた、広い意味での上位者である。その人と何らかのかたちで対面することがあれば、下位者は尊敬とおそれの入り交じった心理を抱きつつ、助言を乞うであろう。
このように、制度上の組織内部のみを問題とするのではなく、下位者の携わる仕事の世界(これをややジャーナリスティックに「業界」と呼んでおく)での上下関係を念頭に置いている。これが、地位体系のなかでの「権限」ではなく、上下の二者的な人間関係26)における「権威」を扱う理由でもある。
では、経営学のauthority論でいわれる権威概念を参照しながら、下位者のおそれについて考えてみよう。
まず、権威を地位、能力、制裁に区分してみる(これは前述の分類である)。下位者は地位の権威をどう受け取るであろうか。バーナード=宮台流にいうと、上司の地位にある者の命令は、自動的に無関心に従われるのであるから、そこに何らかの感覚を考えてみること自体が、矛盾している。
だが、上位者がその地位についていることによる「何か」が、下位者の心理に大きく影響するとはいえないだろうか。部長が部長であるがゆえに、教師が教師であるがゆえに、否応なく感じ取られる感覚。彼の発する命令自体には無関心に従っても、その命令が他ならぬ上位者の立場から発せられたことが、下位者の何らかの心理に関わってくるのである。もちろん上位者が上位者でいられるのは、地位の体系が社会的に認められた制度として成立しているからであるが、先にいったように、それを前提にした上でなお説明しきれない地位にまつわる「何か」が問題なのである。
次に能力について考えてみよう。これは、知識や経験とともにリーダーシップという機能による権威の中核要素であろう。知識や経験も含めてその人のもつ仕事を遂行する能力は、業界で上位に立つためには不可欠である。バーナード=宮台は、上位者の能力にたいする下位者の信頼があればこそ、命令が受容されるのだという。上位者の能力は、仕事が「できる」ことを下位者に印象づけることによって、最もよく示される。しかもその仕事の成果にたいして、下位者が感嘆と尊敬の念を抱くことで、上位者の能力への信頼は一層強まる。
この能力に基づく権威の場合、上位者の発する命令は、仕事上の機械的な指示よりも、仕事の内容に関わる指導的要素を多く含むであろう。下位者が上位者の指導に服するのは、能力を認めたうえで、「あの人のいうことだから」という個人の人格に深く根ざした「何か」を信じるからである。
最後に制裁であるが、宮台理論では、「任意の第三者たちの(制裁)期待にたいする服従者の予期に支えられた社会的権力」という文脈で語られる。下位者は、業界からの追放を頂点とする種々の制裁を、まずもって「こわい」と感じるであろう。宮台ならばさしづめこのこわさを、上位者の権力としてではなく、予期を媒介とする権力の作動形式のなかで捉えようとするであろう。
しかし、わたしがここで問題にするのは、上位者との内面的な人格の絆において否定されるという制裁である。奪人称化された権力ではなく、具体的な顔をもった個人に関わる権威である。その権威者から制裁をうけることによる「何か」である。
4.2 社会性以前の〈権威〉
以上見てきた、地位・能力・制裁をめぐっての上位者自身の人格に関わる「何か」が、下位者に「おそれ」を引き起こす。この「おそれ」は、言語による論理的な説明がほとんど不可能であるような、それを体験した人のみに感じ取られる感覚である。それを体験しえない人にとっては理解しがたいであろうが、下位者は、発せられた命令や指示そのものではなく、「権威者」がそれを発したということをおそれるのである。
そもそも、バーナード理論におけるauthorityは、人格的な問題(personal
question)を避けるために、そして「共同体の共通感(common sense of the community)」「共同意識(communal
sense)」の実行のために導入されたものである。宮台もまた、人称を剥奪されたかたちでの社会的権力を説明するという問題構成から、論を展開したのであった。
これにたいしてわたしが主題化しようとした、非論理的な「何か」をめぐるおそれの感覚は、まさに権威者の人格によるもの、それも社会性の成立以前ともいうべき、非常に原初的な感情に関わるものかもしれない。そこには、権威者の顔つき、声の調子、身振りといったものから感じ取られる、彼自身のもつ冷たさ、落ち着き、きびしさ、やさしさなどが大きく影響している。
バーナードや宮台が論じた、組織や社会をめぐる権威は、非人格的・非人称的な意味での「共同体の権威」である。そこでは、権威をもつ上位者は共同体の利益を代表するが、人としては取り替え可能であって、つまり役割を遂行しさえすればよい存在である。これにたいして、わたしのいう「何か」とは、権威者の表情と声から察知されるところの、社会性以前的な、原初的な権威である。これを〈権威〉と書くことにしよう。
「共同体の権威」が、心理的な面にかかわりなく社会における媒体のように機能するのにたいして、〈権威〉は、社会性が脱落してしまったような二者的な人間関係において、最も露わとなる。それは、原初的な親子関係とくに母子関係に擬せられた、極めて情緒的で非論理的な、その意味で言語以前的かつ社会性以前的なものである。〈権威〉の引き起こすおそれは、マジカルで聖なる感覚を伴うことすらあり、忌避されるよりもむしろ懐かしい依存感情を想起させる。〈権威〉は、甘えることができたり頼ることのできる対象でもある。下位者は、ここにおいて承認されることを希求し、そこから疎外されることにたいして極度に怯える。
こうして下位者は、〈権威〉の引き起こすおそれと、おそれのなかでの依存と甘えによって、直接的には権威者の「よし」という承認の声を求めつつ、服従するのである。
5 おわりに
下位者としてのわたしの服従については、論じ尽くしたとは言い切れない。わたしは、服従することに満足していないからである。だが、業界における下位の地位から抜け出ない限り、下位者に服従はつきまとう。そのことが、下位者に様々なかたちでのルサンチマンや心理的葛藤状況を抱え込ませる。
「共同体の権威」を支える社会性が、大澤真幸のいう「第三者の審級」(大澤の〔15〕全体を参照せよ)の成立によって確保されるのであるとしたら、社会性においては、わたしの問題にした原初的な二者関係は既に克服されている。それが社会に生きる人間にとっての常態なのである。上位者との関係に社会性以前の〈権威〉を感じ取ることは、「病態」といわれるであろう。これが、下位者の病理の常識的理解を妨げている最大の原因である。常識の立場からは、権威とはいつでも共同体の権威であり、言語以前の〈権威〉は感覚的に理解されない。まして、下位者の〈権威〉にたいする病的な苦悩は、ほとんど伝達不可能である。
一方、原初的な二者関係を生きる下位者も、業界という社会性を求められる仕事の世界におかれているのである。仕事とは文字通り「事に仕える」ことである。仕事においては、上位者という「人」に仕えるのではなく、「事」に誠実に奉仕するのである。下位者のなかには、事そのものに誠実に打ち込むことに、大きな喜びを感じる者もいる。そこではもはや、上位者自身が消え去るであろう。おそれを引き起こす〈権威〉そのものが消滅する可能性が開けるように思われる。
だが恐ろしいことに、真の権威は、事そのものという超越的存在に関わるものなのである。二者的関係を克服したつもりでも、いや三者関係的な社会性の側にみずからを開けえないからこそ、「唯一者」と関係を結ぼうとする衝動が芽生えてくる。ここにおいて明らかに問題は次の局面を迎える。もはや稿を閉じるべき時であろう。
注
1)近代西欧の権威と権力の理論についての概観は、ルークス〔43〕がコンパクトにまとめている。
2)例えば政治学者の渡辺治は、「企業の権威的支配構造」を論じている(〔45〕、第2章)が、「権威」そのものの概念的検討を詳しく行っているわけではない。
3)ヴェーバーは、「支配」を「利害の布置状況による(とりわけ独占的地位による)支配」と「権威(命令権力と服従義務)による支配」の二つに分け、狭義の支配概念を後者の「権威をもった命令権力」だとする。そして「権威」とは、「一切の動機や利害関係を無視した絶対的な服従義務」を求める「事実上の被支配者に対する服従要求権」であるという(〔8〕、S.542)。
4)「労働にたいする資本の指揮」と「オーケストラの指揮者」との対比によってあまりにも有名なマルクスの議論(〔6〕、S.350-352)は、労働の二重性論とも関連しつつ様々にとりあげられてきた(例えば、稲村〔12〕が経営学の立場から詳論している)。
5)エンゲルスは政治的権威=国家の消滅という点では「反権威」なのであるが、「一方では、どのような仕方で授権されるにせよ一定の権威が、他方では、一定の従属が、どのような社会組織であるかにかかわりなく、われわれが生産物を生産し流通させる物質的諸条件にともなって、われわれに強要される(〔14〕、304ページ)」として、「組織」に「権威」は不可欠であるという認識を示している。
6)目についたままに挙げると、「正当な権力は権威である(ブラウ〔36〕、179ページ)」、「「権威」というものは、自分に対する権力の行使が正統性をもつものとして受容し、かくて(相手が)納得した場合の権力の行使形態なのである(渡瀬〔44〕、226ページ)」、「権力と区別された意味での権威は、決して他者にたいする無差別的な統制関係ではない(Dahrendorf〔3〕、p.167)」、「権威に基く支配関係(指導−悦服)と権力に基く支配関係(強制−屈服)との相異(池田〔10〕、75ページ)」、「権威に従属する者の多少とも自発的な信頼(ジンメル〔26〕、151-152ページ)」など。
7)従来の社会科学は、個人の主観的心理に立ち入ることを避けてきたように思えるが、その(学説的)根拠は何であるのか、是非問いたいところである。
8)この小林敏男の議論に積極的に依拠しつつ、ドイツにおける共同決定法の「正当性」の理論的根拠を論証しようとしたのが三上磨知〔37〕である。
9)「主観主義」については論ずべきことが膨大であり、しかも奥深い論争史をもつものでもあり、簡単に注釈を加えることはできないが、ここでは「人間関係」学的な心理学を提唱する早坂泰次郎の論を、引用しておこう。「客観主義的認識は、一見主観主義と正反対に見える。それは一切の主観を拒否し、認識の眼を外なる対象だけに向けようとする。しかしながら、そこにははじめから無理がある。認識であるかぎり、そこには本来なにがしかの独断的偏見的限界があることは何人も否定できないからである。・・・客観主義は一挙に感性を排除し、無視することで独断と偏見から自由になることをめざそうとする。・・・感性を排除し、無視できると信じてきた客観主義的諸科学は、生体としての人間のありようそのもの、生命のありようそのものを恣意的に限定しようとしてきた点では一種の主観主義に他ならないということもできる。(〔33〕、32ページ)」早坂はまた、「客体objectの主体への優位という、いわゆる近代合理主義の思想的系譜(〔33〕、85ページ)」という、小林とは反対の捉え方をも示している。
10)日本の社会学の伝統においても、共同性への肯定的理解は根強い。例えば、清水盛光は、「われわれは、我等意識を、無差別的・一体的統一にともなう主体的共同の体験と見るとともに、その統一の基礎にまず相互規定的同一視の作用をかんがえ、この同一視にもとづく人々の無差別化と一体化が前提となって、さらに汝や彼を我とみる同一視が行われるところに、我等意識が生まれると解する(〔25〕、156-157ページ)」と述べ、中久郎も「共同性の新たな実現に志向(〔30〕、451ページ)」しようとする。
これにたいし、わたしは、共同性のもつ問題を日本的経営とからめつつラフにスケッチしたことがある(大野〔18〕)。また、フランスのポスト・モダニストであるブランショは、ファシズムとスターリニズムの苦い体験から、「知ることのできないもの、すなわち、深淵であり恍惚でありながら、なお特異な関係として存在し続けるあの〈自己の外〉の体験を提起する(〔2〕、p.34)」という「否定的共同体」を構想する。このような主観的共同のもつ全体主義への危険性については、小林も十分自覚していることで、むしろそれを避けるためにこそ、社会性に志向した組織論を展開しているのだともいえる。
11)この言葉は、周知のようにフーコー晩年の書の表題でもあるが、そこでフーコーは「自己への回帰、ないしは、自己自身へ寄せるべき注意、という主題(〔35〕、117ページ)」に着目し、「他者を治めることの合理性は、自分自身を治めることの合理性と同一である(〔35〕、120ページ)」という「自分自身を道徳的主体として構成する(〔35〕、127ページ)」方向性を模索する。わたしはこの「自己自身」へのこだわりを、フーコーみずからが警戒したキリスト教的「告白」ではない形で、自分を問題にし自己を救済する新たな学問的営為の基礎づけとして受け止めたいのであるが、フーコーの読みとしてどこまで有効性をもちうるのかについては、専門家の意見を仰ぎたい。
12)「社会科学の客観性」を厳密に規定しようとしたあのヴェーバーにとっても、当時の「労働者問題」にかかわらざるをえなかった(〔13〕、38-41ページ)こと自体は否定できないであろう。ヴェーバーに強く影響された大塚久雄は、「社会科学における客観的認識(〔16〕、64ページ)」を手放そうとはしなかったのであるが、ヴェーバー自身の「内面」をも問題にしつつ新たな道を提示しようとするのが山之内靖〔42〕である。
13)構造主義と、それを乗り越えようとしたポスト・モダニズムに対する筆者の理解は、竹田青嗣(〔29〕、39-52ページ)と西研(〔32〕、7-12ページ)に負うところが大きいが、彼らの方法がどこまで「自分」を対象としえるかについては、かなり疑問である。
14)ルーマンは、「社会学者は、観察者の立場にいるのであり」「その観察対象となっている人びとの自己観察力をこえて、構造の潜在性にせまろうとしている」(〔5〕、S.457)といい、行為と観察の分化の上に立って、社会それ自体の自己観察、自己描写、自己解明を構想する(〔5〕、S.407-411,559-560)。
また、ハーバーマスは、「行為の共同性」によって行為者と解釈者(観察者=社会科学者)の双方に妥当する客観的世界を認めるのであるが(〔4〕、S.152)、社会科学者が行為者として振る舞う行為システムは「科学システム」の一部であり、彼は行為者としての特性を捨てて解釈過程に参加するのだという(〔4〕、S.167)。
このように社会学の主潮流は、明らかに、観察者と行為者の分離によって「社会」を考察しようとする立場であり、わたしのように自分自身の「自己」を考察の対象とする、つまり観察者が自分を観察するという営為の方法論的基礎をそこに求めることは、きわめて困難な状況にある。
15)フーコーによれば、「告白は、西洋世界においては、真理を産み出すための技術のうち、最も高く評価されるもの(〔34〕、76ページ)」であり、彼は、「真理が本来的に自由なのでも、誤謬が隷属状態であるのでもなく、真理の産出にはことごとく、権力の関係が貫いているということ(〔34〕、78ページ)」を、この(性的)告白を例にして解明しようとした。
また、フーコーをうけて柄谷行人もこういう。「なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもう一つの権力意志だからである。告白は決して悔悛ではない。告白は弱々しい構えのなかで、「主体」たること、つまり支配することを狙っている(〔21〕、112ページ)」。
わたしは、この「告白という制度」を、自己の内面、というよりも内面すら突き抜けたその奥底にある暗黒の無の世界に向けて解き放つ形で克服することを狙っている。
16)森岡正博もまた、「自分を鋳型に押し込むのではなく、自分の問題意識にあわせて専門的な知識を奪い取ってくること。主体はあくまで、ここにいる自分。ここにいる自分の身のまわりに、自分に必要なかぎりにおいて、専門的な知識を集めてくる。(〔41〕、49-50ページ)」と、その学問的な方法論を明快に述べている。
17)近年とくに哲学・倫理学の分野から、「自分」ないし「私」を学問的対象にする試みが、盛んとなってきている(例えば代表的なものとして、大庭〔19〕、永井〔31〕)。しかし、分析哲学的な方法論やかなり煩瑣な論証をともなったそれらの議論が、やや実存的な傾斜を示し、さらには精神分析的な意識論に向かいつつあるわたし自身の学と、どのように交錯してくるかは未だ謎である。
18)わたしが「権威」に込める意味合いには、ある人が、真理や正義という「正しさ」を普遍的なものとして認識し、みずからもその普遍性のもとにあると感じながらも、その人自身があたかも「正しさ」を担い代表しているかのように振る舞うとき、わたしが、その人(の態度)を「権威(者)」と感じ取ってきたという体験的事実が深く反映されている。本稿は、この事実の心理的側面を深めようとしたものである。
また、阿部謹也の、日本人の特徴として「自分以外の権威に依存して生きていること」を「権威主義的」というのであるとする指摘(〔9〕、24ページ)も、別の視点から考えてみなくてはならない。
19)組織論にも深く関わる社会学者である佐藤俊樹は、「個人の思想や動機に深く方向づけられ、そのことを鋭く自覚しながら、それをこえた社会の「真実」を追い求める試みが社会(科)学であり、それを否定するのであれば、まず社会(科)学の存在自体を否定すべきである(〔24〕、30ページ)」ときっぱり断言する。「社会の真実」がいかにして「個人の思想や動機」を「こえる」のかを問いたいが、佐藤のこの断言によって、またしても「社会科学の存在自体」がわたしにとっての「権威」として重くのしかかってくるおそれを内に宿すのであり、そうであれば、いっそうのこと「否定」してしまうだけの力が求められるのかもしれない。
20)奥田幸助は、この三つのほかに、「権限の源泉は、究極的には人間性の本質(nature of
human)にあるとする自然権限説(〔20〕、167ページ)」をつけくわえている。
21)このことをつきつめていくと、磯村和人のいうように、「強制するものがないにもかかわらず、命令が受容されるとき、権威は認められるのである。要するに、訳もわからずに命令に従ってしまうのが、権威なのである(〔11〕、100ページ)」ということに帰着するであろう。S.ジジェクに依拠するこの議論は、精神分析の方向からも検討する必要がある。
22)宮台は、社会学的伝統のなかで次第に忘れられつつあるバーナードを継承した数少ない組織理論家が、ブラウであるという。「権威の独自な特性は、服従者の集合体によって受容され強制されている社会規範が、個々の成員を拘束し優位者の指令に従わせているということである(ブラウ〔36〕、180ページ)」。
23)バーナードの議論をひきついだと目されるサイモンの「権威論」の中核的概念として「制裁sanction」を重要視するのが、先にもふれた三戸公である(〔38〕、第五章)。サイモン自身の権威の定義は、「二人の間に意見の不一致があり、この不一致が議論、説得、あるいはその他の確信させるための手段を用いても解決できない場合は、その二人のどちらかのオーソリティーによって決定されねばならない。管理組織のなかで、普通「オーソリティーのライン」と呼ばれていることの意味は、この「最後の言葉を発する権利」のことである。(〔7〕、p.129)」というものである。
24)共同性についての注10)でふれた清水も、「共同性を傷つけられることは、共同のものが共同のものでなくなることで、共同性を傷つける者を排除し否認することは、共同性そのものの本質に属する事柄」であるとして(〔25〕、333ページ)、デュルケムらを援用しつつ「規範」と「制裁」などについて論じている。
25)セネットは、その刺激的な好著のなかで、「下位者は、上位者がはっきり示す自立の態度に対して恐怖感を抱く、すなわち権威の最も本質的な成分であるあの恐怖と畏怖の混り合った感覚を抱くのである(〔27〕、134ページ)」と書いているが、わたしの論もこの著作から多くの刺激を受けている。
26)清水〔25〕、中〔30〕の「共同性論」に依拠しつつ、日本における共同体的編成原理によって構成される労働過程の特徴を史的・理論的に明らかにしようとした工藤剛治〔22〕は、「職場の人間関係」を掲げるが、ここでわたしが問題にしようとする論点とはつながってこない。いわゆる「人間関係論Human
Relations」の創始者であるメーヨーにしても、「協働」を「人間相互の関係およびその態度を規制する非論理的な社会規範」から論じようとする(〔40〕、128ページ)ものであり、内面性に踏み込んだ議論には適用しにくい。方法論的にはむしろ、和辻哲郎〔46〕に代表される日本的な「間柄」としての人間関係を論じる学説に興味を覚えるが、立ち入った考察は他日を期したい。ただ、ひとついえるのは、この三者はそれぞれ立場が全く異なるにも関わらず、人間関係を最終的に「社会性」の側に引きつけて捉えている点において共通していることで、それが、わたしの二者関係的な議論になじみにくいことには注意しておくべきである。
参考文献
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